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「大阪心療内科放火事件に思う」野田正彰(「紙の爆弾」2022.8)残日録220801

巻頭に「『心療内科』が抱える闇」とあり、

 昨年十二月十七日、大阪キタの繁華街・北新地の雑居ビルに入居する「働く人の西梅田こころととからだのクリニック」で二十六にんもの人が亡くなった放火事件。「拡大自殺」とされる、放火を実行した男性患者の動機に注目が集まったものの、事件の背景が明かされたとは言いがたい。常軌を逸した人間が起こした惨事というだけでいいのか。彼は現場となった「心療内科」クリニックで治療を受けていたはずだ。また、メディアの報道は亡くなった院長の親身な診療ぶりを伝えるが、クリニックには六〇〇人とも八〇〇人ともいわれる患者が通っていたと言う。
 クリニックでどのような医療が行われていたかに専門的な知見から迫ったのが、精神科医で作家の野田正彰氏だ。野田氏は朝日新聞の有料サイト「論座」の担当者に依頼されて二回分の論考を執筆したが、ページレイアウトもほぼ終えた公開直前に、編集長から「公開見送り」が通告された。朝日新聞はなぜその判断を下したのか。編集長から野田氏に伝えられた説明は、首をひねらざるをえないものだった。なお、事件にからみ、「全裸監督」として知られる村西とおる氏はブログで、心療内科を受診したことをきっかけに「ジャンキー(薬物中毒)」となった体験を明かし、野田氏はそれを引用していたが、「論座」はその内容も掲載拒否の理由のひとつに挙げている。
 今月号では、」「論座」がボツとした論考を掲載するとともに、「論座」不掲載事件の不可解な経緯を検証した。そこから見えてきたのは、二〇〇〇年ごろから現在も日本に急増する「心療内科」の闇とマスコミタブーだった。

と記されている。
 野田氏は「新聞報道があえて逃げた二つの問題」として「通院患者の数」と「リワーク(職場復帰支援プログラム)」を取り上げている。

「通院患者の数」
 約六〇〇にんから八〇〇人の患者を診ていた、と各紙に報道されている。精神科の診療は通常週一回、二十~三十分ほどの精神療法を行うことになっている。だが、現実では月二回が多い。それを週五日(月二十日)、午前も午後も休まず診療していたとして、600人✕2回/20日=60、一日六十人の診療を行わなければならない。初診の患者には最短三十分~一時間かかる。たとえ一人一回十五分かけるとしても、60人✕15分=900分(15時間)。どんなに考えても、精神医学的診療を一瞬の休みもなく十五時間/日、続けることは不可能である。
 (略)
 診療室の扉を開け、椅子に座り、医師と挨拶するまでに約一分はかかる。医師は前回の診断記録を頭に入れ、新しい話を聴き、助言し、薬を処方するのに残り四分。多くの日本の精神科外来の現状では、「どうですか」「別に変わりありません」「そうですか」程度で終わっている。だが、これでも、再診料に加え精神科療法料三三〇〇円が取られている。患者は三割または一割(老人)の負担、担当医師に精神障害者の届けを書いてもらっていれば、さらに様々な負担軽減が付け加わる。
 これが精神科医療の実態なので、大阪の当該クリニックが六百人の患者を診ていたとしても、日本の常だ。異常ではないが、不思議である。ほかにも、異常ではないが不思議なことが精神科医療には常である。
 たとえば心療内科という診療科目は、精神科で受診するほどでない軽い心の悩みを診療する所と、日本では誤用されている。マスコミもその誤用を常識に定着させて来た。実は、心療内科とは、精神的ストレッサーによって起こる身体臓器の病気(たとえば胃潰瘍や心筋梗塞など)を治療する内科領域の専門科名である。医学部では心療内科の教室を持っている所はそれほど多くない。にもかかわらず、どこから心療内科の専門医が湧き出てきたのだろうか。しかも、心療内科領域の病気ではなく、うつ病などの精神疾患を治療していることになっている。
「西梅田こころとからだのクリニック」の院長は、医大卒業後、内科医として働いていたが、六年前に精神科医となったと報道されている。精神科医になるには通常、四~六年の臨床経験を必要とする。内科医が中年になってから精神科医に転科したのなら、よほどの研鑽を積まれたのであろう。 六百人もの患者を診療する心療内科、私には不思議に思えることばかりだが、日本社会では異常(常でない)ではない。精神科・心療内科にかかわる医師・看護師・臨床心理士・ソーシャルワーカー・薬剤師・保健所職員・厚生労働省・製薬企業。皆が、患者のために良いことをしていると信じているようだ。さらに、大新聞、NHK、医療出版社が上記の現実を肯定し、推奨して来た。ただ、病める人びとだけが振り回され、多くの人が投与された向精神薬の副作用に苦しんできた。医療の対象となる人びとの意見は聞かれず、患者を取り巻く職業人の善意のみが評価され続けている。(p38~39)

「リワーク(職場復帰支援プログラム)」
当該クリニックに通っていた患者の多くは「発達障害」と報道されている。このあいまいな伝聞に立って、「クリニックがなくなり、薬が入手できなくなると、発達障害の人はうつ病になる」といった精神科医のコメントが新聞に載っている。他方、本屋に行くと「発達障害」「大人の発達障害」関連の本が本棚を埋めている。「一五〇万部出版」「大人の発達障害は二人に一人」と宣伝する本まである。それならば精神科医の二人に一人も発達障害かもしれない。発達障害の医者が発達障害を診断しているわけか、と妙に納得したくなる。
だが、発達障害は脳の病理が発見された疾病ではなく、近年に単に概念として提出されただけのものだ。すべての医学的根拠がなく、泡のように饒舌で飾られているに過ぎない。幻の病気ゆえに、薬によって治るものではない。
このような曖昧な論説の上に、当該クリニックでは多くの患者がリワーク(rework
=やり直す)なるものを受けていたと報道されている。ところが、リワークとは何かを調べた解説はない。かつて、職場復帰支援プログラムとして提起されたものが、片仮名に替えて精神医学的商品化されたのである。
職場環境などのため出勤が辛くなり、精神科クリニックを受診。抗うつ剤や精神安定剤、入眠剤を飲まされ、長期間休職をする。(薬の副作用が酷くなければ)長く休み職場の負荷から離れたため落ち着いてくる。だが、そのまま元の職場へ戻ると、再び不安・不眠・抑うつ・食不振などの症状が出て通勤できなくなる人もいる。そこで、精神科的リハビリテーションとしてのりワークを勧められることになる。
日本の精神科で行われているリワークなるものは、個々の患者への行動療法のひとつである本来の認知行動療法とはまったく違う、自分の性格特性、完全癖や几帳面さなどを皆の前で話し合う「集団認知行動療法」なるものに偽装されている。ほかに自分の性格についてレポートを書かせたり、ロール・プレイをさせたり、Social Skill Renovationと称する空気を読み周囲に合わせる訓練を受ける。これらは、臨床心理学の様々な技法のごた混ぜであり、「自分探し」集約させて行く。
(略―二つの事例が紹介されている)
精神医学とは、個人の心理的問題と社会状況との関係を分析し、患者と共に、少しでも幸せに生きていく道を見つけいく学門である。そのためにも、現状の社会がどう変わっているのか、各職業、企業経営の変化、その中で働く人びとの精神状態について、十分な知識を持たねばならない。診療所で心理的ゲームを綺麗にデザインすることではない。
うつ病の五分間診療、多剤漫然投薬、発達障害の過剰診断、支援学級の急増などによって、それにもかかわらず、立ち直っていく人もいるだろう。だが、精神医学の治療法の歴史は魔術的思考の歴史であり、どれだけ多くの患者が苦しめられてきたか、今も苦しんでいるか、決して忘れてはいけない。
呪文でも、聖なる水の処方でも、良くなる人はいる。良くなった人の強調よりも、その医療の啓蒙宣伝によって苦しんでいる人がなんと多くいるか、出かけていって調べ、知らなければならない。
情報社会の精神科医は、患者が生活している、診察室の外の世界がどれだけ変化しているか、同僚精神科医たちとの利益のあげ方への関心以上に、学ばねばならない。(p41~42)

 この論考のあとに、浅野健一「野田正彰論考を朝日新聞「掲載見送り」の裏側 「心療内科」はマスコミタブー」が掲載されている。




2022年08月01日

「石川雅一氏の浅鉢」(尾久彰三(しんぞう)『民芸とMingei』晶文社。2014)残日録220719

著者は日本民藝館の元主任学芸員。私が追っかけをしている石川雅一(はじめ)さんの作品について書いている。(P138~141)

毎週のごとく、長浜と加古川を往復したせいもあって、夏バテなので、書き写すだけで、ブログ更新とする。今年度をもって、図書館の世界から退出をし、門前の小僧だった民芸の世界に入門をすることにした。兵庫民芸協会の会員となり、長らく購読を止めていた「民藝」も購読することにした。

「石川雅一氏の浅鉢――平茶碗としても使える、おおらかなしろのバリエーション」
 石川雅一氏から個展の案内が来た。彼とは三十数年来の交際で、気心もしれているので、遠方でない限り、出来るだけ見に行くことにしている。しかし、正直なところ、石川氏は馬力があるせいか、他の作家に較べると、その回数が多いように思う。だからというわけでは無いが、何故かタイミングが合わなくて、私はこのところご無沙汰していた。
 会期二日目の秋分の日、私は日本橋高島屋の芹沢銈介展の取材を兼ねて、編集氏とカメラマン三人で、石川氏の個展会場の、ギャラリー江(こう)へ行った。石川氏の個展と、そんな取材の日が重なったのは、二人にとってラッキーだった。というのは、私はここで、彼の作品と大塚茂夫氏の「白い家」を、同じ益子つながりと、付き合いの古さから、是非紹介しようと思って、両者に参考になる陶歴を記した書類を送るよう、頼んでいたのである。ところが大塚氏からはすぐ来たのに、石川氏はなしの礫だった。私は諦めることにした。そんなことから、会場に居た石川氏を見るなり、私はそのことを詰った。するとFAXで流したとのことだ。うちにFAXはないのである。完全な行き違いである。結局編集氏が、まだ間に合うというので、私は幸いギャラリーが持っていた、石川氏の陶歴書をもらって、彼の作品も何とかここに、紹介できるようになった。

 さて、いただいた石川雅一氏の陶歴を、乱暴な書き方で恐縮だが、そのまま記す。
 昭和三十二年 宇都宮に生まれる。
 昭和五十一年 栃木県立宇都宮高等学校卒業。
 同年 栃木県窯業指導所入所、伝習生となる。
 昭和五十二年 同所研究生となる、かたわら村田浩氏の仕事を手伝う。
 昭和五十四年 岐阜県久々利大萱の吉田善彦氏に師事。
 昭和五十八年 合田陶器研究所で仕事をする。
 昭和六十年 現在地に仕事場、登り窯を築き独立。
 国展・日本民藝館展に連続入選/日本民藝館展奨励賞受賞/栃木県立「先年の扉」に出品
 /益子焼選品会・優秀賞/益子町商工会賞受賞。
 である。
 石川氏は読んでわかるように、若い時から志した陶芸の勘所を、岐阜県大萱の荒川豊蔵の優秀な弟子だった、吉田善彦氏から学んだ後、故郷栃木の一大窯業地である益子に行き、そこで浜田庄司や島岡達三に畏敬されていた合田好道氏から、民芸を根幹にすえた美の神髄を教わり、二十八歳で益子町大沢字四本松の現在地に、仕事場と登り窯と住まいを築き、今日に至っている。
 私は昭和六十年に窯を築く折、石川氏が登り窯にするか、伝記や油やガスにするか迷っていた時、若いのだから中途半端な考えを持つな。登り窯で焼物の美の王道を歩め。と発破をかけたりしたのを思い出すが、今から思うと冷や汗ものの無責任な意見で、その後の石川氏の努力に、かえって私が救われたことを、ただただ感謝しているのである。
 石川氏は幸い父上の援助もあって、それから三十年間、エネルギッシュに制作に励んできた。古染めの麦藁茶筒碗に見る様な、線を引いた湯呑等から始まった作品造りも、すぐにラフワークとなる粉引の手法の皿や碗が中心になり、最近は今度の展覧会場で見た辰砂(しんしゃ)や鉄釉の仕事も加わる様になって、作品に奥行きと幅ができている。
 私は石川氏の無地刷毛の浅鉢の仕事が好きで、家庭料理に使った後、甘い物が欲しくなると、使い終わったそれを洗って、劈じゃ碗に見立てて菓子とともに抹茶を飲む。そして、繁々と眺め、真実の貧の茶に叶う、見事な咲きよ‼と感心しているのである。
 写真は今度の個展で、そんな私の話を聞いた編集氏とカメラマンが、同様の使い方をしたいと、買い求めた浅鉢二点と、石川氏が近頃目標にしている白は、「中国宋代の白磁に見られる白で……、例えばこれですね」と指差した小ぶりの浅鉢で、なるほどと思って私が求めたものである。
 帰りがけに感想をと、彼が言うので、「しばらく見ない間に、太ったのは驚いたけど、作品も皆、ゆったりと大きく立派になったのに感心したよ。まるで今を時めく、相撲の逸ノ城みたいだね。嬉しいす‼」と言って個展会場を後にした。

2022年07月18日

関曠野(せき・ひろの)ブログ「本に溺れたい」「ジャック・ボーによる、ウクライナ危機の深淵」より 残日録220704

ウクライナ東部についてのボー氏の見解を、関曠野氏が紹介している。今回のロシアの侵攻が始まった頃に、どこで知った情報なのか、ドンバス地方で選挙をしたら親欧米派が勝ったという情報があった、と記憶しているのだが、ゼレンスキーが指名したとのことで、誤報だったようだ。但し、ロシアの侵攻前は、東部地方ではロシアに帰属は少数派であるようだ。

この対立の根源を探ってみよう。それは8年間、ドンバスの「分離主義者」や「独立主義者」について語り続けてきた人たちから始まる。これは事実ではない。2014年5月にドネツクとルガンスクの二つの自称共和国が行った住民投票は、一部の不謹慎なジャーナリストが主張したような「独立」の住民投票ではなく、「自決」の住民投票だったのである。「親ロシア」という修飾語は、ロシアが紛争の当事者であることを示唆しているが、実際はそうではなく、「ロシア語話者」とした方がより誠実であっただろう。しかも、これらの国民投票は、プーチンの助言に反して行われたものである。

実際、これらの共和国はウクライナからの分離独立ではなく、ロシア語を公用語として使用することを保障する自治権の地位を求めていたのである。ヤヌコピッチ大統領打倒による新政府最初の立法行為は、ロシア語を公用語とする2012年のキバロス・コレスニチェンコ法の廃止(2014年2月23日)であったからだ。スイスでフランス語とイタリア語が公用語でなくなることをプーチニストが決定したのと同じようなものである。

この決定は、ロシア語圏の人々の間に嵐を巻き起こした。その結果、2014年2月から行われたロシア語圏(オデッサ、ドニエプロペトロフスク、ハリフ、ルカンスク、ドネツク)に対する激しい弾圧が行われ、事態は軍事化し、いくつかの虐殺(最も顕著だったのはオデッサマウリポリ)にもつながった。2014年夏の終わりには、ドネツクとルガンスクの自称共和国だけが残りました。

この段階で、ウクライナの参謀本部はあまりにも硬直的で、作戦術の教条主義的なアプローチに没頭し、勝利することなく敵を制圧してしまったのである。2014年から2016年にかけてのドンバスでの戦闘の経過を調べると、ウクライナ軍の参謀本部が同じ作戦方式を体系的かつ機械的に適応していることがわかる。しかし、自治政府の戦争は、サルヘ地域で観察されたものと非常によく似ていた。つまり、軽い手段で行われる高度な機動作戦であった。より柔軟で教条的でないアプローチで、反政府勢力はウクライナ軍の惰性を利用し、繰り返し「罠」にかけることができたのです。

2014年、私はNATOにいたとき、小型武器の拡散に対する戦いを担当しており、モスクワが関与しているかどうか、反政府軍勢力へのロシアの武器搬入を探知しようとしていた。当時、私たちが得た情報はほぼポーランドの情報機関から得たもので、OSCEから得た情報とは「一致」しなかった。かなり粗雑な主張ではあったが、ロシアから武器や軍事機器がとどけられたことはなかった。

ロシア語を話すウクライナ人部隊が反乱軍側に亡命したおかげで、反乱軍は武装することが出来た。ウクライナの失敗が続くと、戦車、大砲、対空砲の大隊が自治政府の戦列を膨らませた。これが、ウクライナ側をミンスク合意にコミットするように仕向けたのである。

しかし、ミンスク1協定に署名した直後、ウクライナのペトロ・ボロシェンコ大統領はドンバスに対して大規模な反テロ作戦(ATO)を開始しました。Bis repetita placent:NATOの将校の助言が不十分で、ウクライナ人はデバルツェボで大敗し、ミンスク2協定に従わざるを得なくなった。

ここで思い出していただきたいのは、ミンスク1(2014年9月)とミンスク2(2015年2月)合意は、共和国の分離・独立を定めたものではなく、ウクライナの枠組みの中での自治を定めたものであるということです。合意書を読んだことのある人(実際に読んだ人はごくごく少数ですが)なら、共和国の地位はウクライナの内部解決のために、キエフと共和国の代表との間で交渉することになっていることがすべての文字に書かれていることに気づくでしょう。

以下は「本に溺れたい」を御覧ください。
6月は、田舎の書庫代わりの物置の整理で、疲労困憊、それと北山修の自伝や対談集を読むのがやっとの月でした。
秋までは整理と読書の日々が続きます

2022年07月04日

『灯し続けることば』大村はま(小学館.2004)残日録220530

1906(明治39)年―2005(平成17)年。国語教師、国語教育研究家。


「カンカンで、誰の手が止まりましたか」

 私が尊敬する芦田恵之助先生が小学校の訓導をなさっていた頃ですから、だいぶ昔のお話です。
 参観者のいる授業で、子どもに作文を書かせていたそうです。そのころ、鉛筆削りというのはありませんでしたから、教室の一角に鉛筆を削る箱があり、ナイフが備えてありました。作文を書いている子どもたちが、一人二人と鉛筆を削りに立ってきます。静かに立って鉛筆を削ります。ところがその箱の横に花瓶があったので、子どもは削り終わると、その花瓶をはじいていくのだそうです。カンカンと。どの子もどの子も。
 授業が終わると、参観者が先生のところへさっと寄ってきて、「先生、どの子もみんなカンカンといたずらをしていきましたのに、どうしてひとこともご注意なさらなかったのですか」と尋ねました。
 芦田先生は、「あのカンカンで、誰かの書いている手が止まりましたか」と静かに答えられたそうです。
「いいえ」と参観者が言うと、「それでいいではありませんか。私が注意でもしたら、みんなの手が止まってしまいます」。
 常識的で一般的な正しさ、こういうときはこうするのだという固定した見方にとらわれないようにしなければならない。本当に注意する必要のあるときは案外少ないものだ……。

 私は教師として、日々このお話を思い出していました。(P16~18)


教師の世界だけで通用する
言い訳があるようです

いい社会人の大人が、「一生懸命やったんですが、できませんでした(売れませんでした)」なんて行ったとして、それがなにかの言い訳になるでしょうか。「ばかなことを言うな」と叱られるだけではないでしょうか。どんなに一生懸命やろうと、結果が悪い責任はその人個人が引き受けなくてはいけないのですから。
 しかし、教師の世界だけで通用する言い訳があるようです。保護者を呼んで、「一生懸命指導しているんですが、お宅のお子さんはどうも成績が上がりませんね。もう少しおうちで勉強させてください」と行ったりしても平気なようです。保護者のほうも大変恐縮して、家に帰って子どもをしかったり、塾にいかせたりするでしょう。子ども自身も、「自分の勉強が足りないのだ」と思うようになっています。
一般社会と違って、相手を責めても向こうは怒らないという習慣になっているのです。教師というのは、そういう意味で、とてもこわい仕事です。勉強のことは、どこまでも自分の責任と思って指導を工夫するのが、専門職としての教師ではないでしょうか。
放課後、教室の窓が開けっ放しだったようなとき、警備員さんから「先生のクラスの窓が開けっぱなしでしたよ」と注意されて、「占めるように注意しているんですけれど」などと言うのも恥ずかしいことです。
開いていたという責任は逃れられません。注意したけれど、それが実行されなかったということは、自分の言い方が悪かったか、徹底していなかったからだと反省すべきことです。(P36~38)


しかられ上手であることが必要です

 勉強の途上にある子どもたちは、それに研修を続けていくべき教師たちは、「しかられ上手」であることが、必要なようです。悪い点、至らない点を、目上の方や指導者からズバズバ言っていただきやすい人であるというのは、成長発展のためにとても大切なことだと思うからです。
 人は誰でも他の人から悪く思われたくありません。「どうぞご批評を」と言われても、批評する側も、思い切り話せる相手と遠慮してしまう相手があるものです。ですから、お教えをいただく場合、厳しいおことば、本当のおことばがいただけるようなそういう人になっていなくてはならないと思うのです。そのことばを栄養として、自分を育てていかなければならないからです。
 なにかの作品を見ていただいて批評していただくようなとき、次のようなことを口にすると、本当のおことばがいただきにくくなります。
「わたしは一生懸命やりましたので」
 そう言わなくても、一生懸命やったことは作品を見ればわかります。なのに、発表者がまずそう言ってしまうと、悪いところが言いにくくなるものです。
 それから、「私なりに工夫して」という言い方もあります。そうですか、あなたなりにやったら、なにも批評する余地はありませんね、という気持ちになります。他の立場から見てどうかをうかがいたいのだから「私なりに」を言ってしまってはおしまいです。
「時間がなかったから、こうなんで」と、作品をかばうこともおかしいです。時間があれば、もっとよくできたというのでしょうか。時間があってもなくても関係ないのです。今個々にある作品について、批評をいただかなくてはならないのです。作品のつたなさを外側の事情によるものだと弁解されては、じゃ時間があったらすべてできつ方なんだな、批評しなくてもいいなという気持ちにならないでしょうか。
 このように自分で自分をかばうようなことばが過ぎると、批評のことばを封じてしまいます。自分を育てることばをいただけないようになります。
 それは、ことば」遣い、言い方の問題だけではないと思います。その根本となるのは謙虚な心、自分に対して厳しい心です。それが「しかられ上手」に繋がります。(P128~131)



2022年05月30日

大友柳太朗の自死(『大友柳太朗快伝』大友柳太朗の会編著.ワイズ出版.1998)残日録220522

長谷川安彦(監督)
 僕残念なのは何であの人が自殺したか。とっても神経質だった。何かにつけてアレコレと神経遣う人だった。剣会の連中は夜、大映通りの飲み屋で「あの人にシバかれた。シバかれた」ってサカナにしてるけど、大友さんを憎んでいる人はいなかった。京都は東京より古いかもしれないけれど、情があるんですよ。僕らは経歴を尊敬しますよ。市川百々之助さんなんかも、僕は助監督で、冗談で「市川さんあかんあかん。右も左もわからんようになったのかな」なんて言うけど。僕等冗談言いながらも、一定の距離をおいて、尊敬っていうよりも尊重してました。だれかが言ってたけど、活動屋の精神ていうのはフランス行ってもハリウッド行っても全部通じると、通じるものを持ってると。映画を愛するという意味においてそれに長年携わてってきた人たちというものを一応尊重する。大友さんが東京に行ったとき若いスタッフが仕出し扱いをしたっていう話聞いたんですよ。僕は文句言ったことがある。何ていうことをすんのやと。大友さんがNG五回出しても六回出しても、「そら始まった。Zまで行くか」とか賭けしたりしてね。「どこで止まるか」とか。昔エンタツさんがZまで出したことがあったんです。そんな話が若い連中でも京都では伝わってんのね、それもギャグとして。そう言いながら雰囲気悪くないんですとね。照明決まったら動かさないでしょ。だから冗談半分に「腹へったから今の間にメシ食いに行っていいよ」とかね。認めているわけじゃないけど、聞いたらますます役者がアガってしまうことってあるでしょ。そういうものは言わないわけよね。聞いたら東京ではそういう伝統みたいなの全然知らないでね、大友さんがどれ程の人か全然知らないでね。
(略)
 そういう中で僕はそれは、古い形とはいいながら大事にする必要があると思ってただけに、大友さんが東京で、若い裏方が、「じゃまや、おっさん何してるのや」とか「フィルム代でおっさんのギャラのうなるで」とかね。関西弁で言えばそれに近い話を投げかけていたとか。何ちゅうこと言うのやと僕は体が熱くなるほど怒ったことがあった。大友さんは利口な人だから、自分をいじめる状態に持っていくしね。「北の国から」の大友さん見たら、それを痛切に感じましたね。役柄は典型的に時代からズレた爺さんですよね。それを自分にかせをかけていくみたいに、仕事の条件の中に自分を追い込んでいってる感じしてね。傷ましかったけどね。よっぽど深く理解してる人じゃないと大友さんが自殺したのがわからないでしょう。一般に個々は弱いくせに、他人事となると「何も死なんでもいいじゃないか」と。マスコミなんてちょっと弱い奴と思ったらカサにかかっていく。「死ぬ気だったら何でも出来るだろう」と。そんな風な概念でしか他人のことは言わないんですよね。なおさら真相はわからん。俗の中でも更に俗っぽいところのある映画界でしょ。そういう連中から見たら、うかがい知ることの出来ない人間性があの人の中にあるような気がするんだ。だから最後までなじめずにいた部分があると思う。合わない部分を無理矢理合わす幇間じゃないけれど、醜くなる。そこまでは大友さんはようしないんだ。(P180~184)

藤原勝(元付人)
―――大友さんがああいう亡くなり方してどのように思われましたか。
 神経質やからね。そういうとこはありました。もっとおおらかにいきゃいいんですけどね。もう台本読んでも何してもものすごい神経質にやるから。自分で全部しょいこまなくていいのにね。仕事におわれたでしょ、趣味ってないから。もっとおおらかに考えたらいいのに、そういう性格じゃなかったです。夜帰ってから台本の裏にメモするんです。セット入っている間に出ていくんですよ、企画部へ。帰って来ないんです。小便でも行ったかなって、おかしいなって思っていると、「おーい、出やで」って言われるんです。捜してもいいへんのです。企画部で話してる。メモが気になるんですよ、話をせんと。それがすまんと仕事が出来へん。そういうオヤジでしたが、僕から見たら雲の上の人で今でも尊敬しています(P214~215)

松島トモ子(俳優)
 お亡くなりになる何日か前に、大友さんが歩いているのをお見かけしたんですよ。映画館のところに私がいて、その前の通りを通られたのかな。ビルの廊下を大友さんがお歩きになっていて、普段だったらお声を掛けるんですけど、その時はとてもお声を掛けられない雰囲気なんです。悄然としえちられて、興は声を掛けちゃいけないんだって感じで。いろいろセリフ覚えるのが辛くなっていると、そういう話はもれ聞いていました。前から台詞覚えは速いほうじゃなかったですけど。映画の時代だったら大スターさんならスタンバイができるまでみんな待ちますよね。でも、だんだん世の中が礼儀正しくなくなっているから、待つということをなかなかしなくなっているから、難しいのかなって思っていました。

―――若いタレントさんが大友さんの台詞覚えのよくないのを名脇だと言ったのを聞いてしまったという話も伝わっています。

 昔は人が温かだったけど、こういう方っていうのは行きにくい世の中になったんでしょうか。嵐寛寿郎さんのように自分が老いたことを笑っちゃえる人なら……あの方、自分のこと笑っていました。面白がっちゃうっていうか、でも大友さんは面白がれなかったんじゃないかな。あんなに真面目な方ですから。私生活を存じあげないけれど、昔、映画の中で大スターであった人が現代に生きていくというのは、相当強くならないと生きていかれないというか、どっかで自分を笑っちゃわないと、引きつっちゃうんですよ。ほんとに映画が好きな方で大友さんを大好きだっていう人はたくさんいらしたと思うんですけど、そうじゃない非情な人っていうのがきっと周りにはいるわけですね。

―――今作っている人たちがかつて作られたものを観ていないんです。見ていれば、最低限敬意を払う。

そういうのはどうでもいいんじゃないかと私は思うんです。やっぱり今の新しいことの方が面白いから。いくら過去がすごくったって現在しかないのが芸能界で、昔スターだからって敬意払ってもらうことはない。自分がそこでどう生きるかってことしかないんじゃないですか。いつその人がスターでなくなったかわかるのは周りの方がはやくて、自分が一番分かるのが遅いんです。だから自分ではやいこと笑っちゃわないと芸能界では生きていけない。(P219~221)

若松節朗(監督)
 当時は「笑っていいとも」に出始めた頃で、青山とか原宿で、女子高校生が大友先生見ると、「あっ、柳ちゃんだ、柳ちゃんだ」って言うんですよ。そうすると大友先生は「どうもありがとう」って言ってましたよ。そのときの大友柳太朗さんはタモリにギャグで使われた。大友さんの答えがトンチンカンで、そのギャップの面白さだった。マジメが面白いってことでそのハズレ方が最高だったですね。大友さんは頭のいい人ですから、あえてそれわかってやるんですね。そのころの大友さんはそんなに働いていいのってぐらい忙しかったですよ。それが死に直結することになってくるんでしょう。忙しすぎて、自分の肉体とやる気との歯車が狂い始めたことが精神的にまいっていったんでしょうね。まじめな人だし、プライド高い人だから。来たいにこたえたい。仕事は楽しい。お金も入ってくる。往年のスターの復活みたいな。でも70歳すぎた肉体には非情にそれはきついことだったんでしょう。(P232)

黒井和男(監督)
 オレはいろんな役者といろんな付合いやってる。役者ってマジメもいいけどもっといい加減ですよ。だってウソツキな仕事なんだから。他人を演じるなんてこんなバカなことをそんなくそマジメに考えたって出来るわけがない。現実にどうやって近づけようとする情況で、虚実被膜の間で行ったり来たりする仕事になるわけですよ。そんなものマトモに考えてマトモな人がやる仕事じゃない。あの人マトモだもの。

―――本ら、他人を演じるなんて出来ないはずなのに。

 そんなのマジメに考えたら出来るわけがない。今一流のやつはみんないい加減ですよ。いい加減だから一流なのよ。あれマトモにやってたらみんなノイローゼになっちゃいます。大友柳太朗ってエピソードないんだよ。酒飲んでひっくり返ってどっか行っちゃったとかさ。女みんないてこましたとか、そういうエプソードなんにもない。マジメだから。

―――逆にそういうところが面白いんですけど。

 ズレてるから。世の中にズレてる。こんなの普通じゃ考えられないマジメさでしょ。セリフなんてそんなに覚えなくったっていいのに。いちいちオレにセリフ覚えさせるなって言った奴だっているんだから。(P286~287)

 大友柳太朗(1912~1985)享年73歳
 
藤田道郎(プロヂューサー)の談話が面白い。

昭和54年の「親切」って懸賞ドラマで老人問題扱ってるんです。ディレクターの山内暁さんが、おじいちゃん役に大友柳太朗さん使ってくれって来たんです。「大友柳太朗さんって、あの大友柳太朗さん?」みたいなことがあって、ぼくの第一印象は怖い、大丈夫かなっていうのがあったんですが、山内さんはご縁があって、その前に高橋英樹の「鞍馬天狗」で四番目ぐらいの演出家が山内さんで、大友さんは鞍馬天狗に切られる悪役です。だけどよくその説明がしてなかったらしい。スタジオ収録の日になった。大友さんは真面目な方で個室でじーっと「悪役で切られて死ぬ。東映で『怪傑黒頭巾』『丹下左膳』ずーっとやってまいりましたが、悪役で切られて死ぬというのは今までにない。いかにもこれは不名誉である。私の中で許せないものがある。ふんぎりがつかん」と。それで山内さん件名に説明するけど、だめなんです。やっぱり鞍馬天狗に斬られて虚空をつかんで死ぬというのは納得いかんと。ああでもないこうでもない。スタジオの収録みんな待ってるんです。すっと待って待って、結論としてどうなったかというと、結局、切腹をするという形になった。すごい役二なっちゃった。プロヂューサーの舘野さんが、その日はいなくて翌日に原作者の大佛次郎さんに何て説明したらいいんだって、あわててとんでった。どうしたんだか知りませんけど、とにかく作っちゃった。ところが大モメにモメたときの山内さんの対応がいかにも誠実だと。大友さんそういう所ある。感動しちゃってね。それから山内さん山内さんて、何かっていうと電話かけてくる。どっかロケに行っちゃ、海苔の佃煮とか、こまめに送ってくる。山内さんとしても大友柳太朗で頭いっぱいになって。とうじは、懸賞ドラマの演出は比較的ヒマなディレクターにまわってくる。久し振りに仕事がまわってきて、義理も重なって大友さん以外にないっていう、そっから入った。どうもイメージから入っていない。動機は不順なんですよ。ところがドラマは一種の快作ですよ。大友さんが、まるで「らくだ」(落語の噺のタイトル。視認をかついで踊らせる話)のオヤジみたいに風呂の中でひきつって、幽霊のかっこうして、風呂から出てきちゃったりとか、奇妙キテレツな人物になってるんです。

―――おもしろそうですね、ビデオ残ってないんですか。

NHKとしてもあわてて消したというか、いやあるはずですよ。御覧になったら面白いと思います。無学なマネージャーが来て、来週試写「親切」って書いてあるのを見て、「迫力あるなあNHKは。オヤギリ(親切)か」って。小林猛ってチーフ・プロヂューサーが「なる程、そういう読み方もあるのか」。変なやつばかりの班だった。大友さんが急に風呂から上がってタッタッタと、そんなことホントは書いていない。なんか山内って変な演出なの、マンガ的な。しかし「親切」は名作です。何しろ芸術祭賞を受賞したのですから。

―――大友さんの役は痴呆老人ですか。

冨川元文さんのホン(脚本)を読んだ感じでは、素朴な老人問題なんです。痴呆まで行ってない。それに行く手前なんだな、ちょっと。

―――大友さんが演技を勉強するために、痴呆老人の振りをして街をフラついたのはその時の話ですね。

なんかちょっとそれに近かったですね。奇妙なドラマって感じしました。そういうふうにのめり込むタイプの人なんだよ、大友さんて。大友さんに対しては、怪演と言われていた。(P237~239)


 遺作は伊丹十三の映画「たんぽぽ」で、ラーメンの先生として登場する。伊丹はドキュメンタリー映画『伊丹十三のタンポポ撮影日記』(1985年)の中で、「大友さんは台詞を忘れるのではないかトチるのではないかという不安が非常に強い俳優だったのではないかと思う」というナレーションとともに、大友が撮影を待つ間もたえず何度も台詞を繰り返している場面を映し、「まるで彼の心の中に叱る人が住み続けていて、常に彼を脅迫し続けているかの如くだった」と述べている。とウィキペにあり。

2022年05月22日

『演劇太平記』全6巻.北条秀司(毎日新聞社.1985~1991)残日録220514

 全6巻読了。第3巻に「その一二七 世にも不思議な喜劇団」として松竹新喜劇体験が披露されている。

 昭和三十四年十一月、大阪道頓堀中座における劇団新喜劇の公演である。その楽屋風景見学記を、後世のため書きとめて置こう。
 喜劇界の風雲児渋谷天外はなやかなりし頃、わたしははじめてその一座に脚本を描き下ろした。天外さんとの良縁(?)は別に書くことにして、その作品「手術」はわたしが曽って命がけで体験した盲腸炎手術(その35参照)を扱ったものだッタ。天外の老院長に藤山寛美の若院長で、演出は、松竹の奥役から
「マジメに取り組んだら、血圧が上がりますよってに」と止められて、劇作家館直志こと天外座長に一任した。
 でも、折角招かれたのだから、初日の前の日の舞台稽古から立ち会ってやろうと、儀礼とは知らず、出かけて行った。長い時間ホテルで待たされて、やっと迎えが来たのが夜の九時過ぎだ。わたしの芝居らしき舞台装置が骨格だけ出来ていて、その前に登場人物が集まっている。脚本は早く渡してあったから、皆プリント台本は手にしているが、誰も衣装はつけていない。楽屋衣のままだ。
 天外座長が出て来て、立ったままの読み合わせが始まったが、なんとそれが第一回の稽古だと聞いてビックリした。天外だけが舞台の椅子に座り、一場一場人物の出入りを決めてゆく。それがいうところの舞台稽古なのだ。あまりの蕪雑さにグッと来たが、奥役の言葉を思い返してグッとこらえた。
 夜中過ぎに「舞台稽古」が終わった。
「まあ、こんなt古伝な。明日の本番でシッカリ固めます。さあ、前祝いにいっぱいやりに行きまひょ」
「だって、まだこれからセリフ覚えを……」
「大丈夫出す。セリフ覚えどころか、もう一本の新作をこれから書きますのや。まあ一つ、疲れを休めた上で……」
 度肝を抜かれたわたしを引っぱって、有無を言わさず、法善寺横町の夜明かし料亭へ拉致した。
 (略)
 東が白みかかった頃、やっと散会ということになった。
「ああ、これから帰って劇作業や。ほなら、おやすみやす」と。館先生は足元もシッカラと人力車に乗った。
「あと六時間したら、ゼニ取ってお客に見せるんや。ヌスットみたいな商売やな。はは」と、五郎八ッあんも自動車のりばに向った。
 来た以上は完全見学をしてやろうと、翌る朝、開演前に中座へ行くと、もう座長の部屋で稽古が始まっていた。この風景がなかなかおもしろい。御大が鏡台の前にデーンと趺座をかき、両脇に明蝶、五郎八、石河薫、酒井光子らの大幹部が座り、あとは土間に跼んでいる。一番前に寛美が上がり框に手をかけ、石浜、千葉らの中堅がおなじポーズで詰めている。だからあとの連中は突っ立ったまま暖簾の外の廊下にハミ出して、耳を澄ましている。
 原稿はまだ未完成らしい。あれからじゃ出来上がるわけもないだろう。天外は眼をつぶって、頭の中のセリフを口にしているが、持ち前の聞き取りにくい早口だから、小机を前にした黒川君も写し取れない表情だ。でも役者達は手慣れた顔で、頭の中へメモしている。
 廊下で星君が叫んでいる。
「部隊ができたさかい、セリフを貰ろた人は動きだけ決めに来てください」
 口立てが終わったので、皆ゾロゾロと舞台の袖から場面を見に出てゆく。それで稽古終了だ。各自部屋に引き取り、指定された扮装を大急ぎでつけていると、む二挺ベルが鳴りはじめた。でも、べつに周章狼狽のさまも見られない。
 世にも不思議な芝居作りに呆れ果てて客席に廻ると、善男善女の観客がギッシリと充満し、まもなく幕が開いた。
 さぞかしガタガタの芝居を見せるだろうと思っていると、あんがい筋がわかってお客はよろこんでいる。役者達は口立てでもらったセリフを、自分で粉飾してお客をわらわせている。とくに若い寛美が一ト言一ト言お客を爆笑させるのを、松竹会社の連中がアハハハとたのしんでいる。あとで聞いたが、このアドリブの巧拙によって、役者の給金が上がってゆくのだそうである。思いがけない見学だった。
 結局わたしの「手術」がいちばんお客に受けなかった。作者が来ていることを意識して、高度な演技を見せようとしたのが原因らしい。それにしてもひどかった。わたしの憤懣を盗み視た天外が「すンまへん。来年の正月には、南座でシッカリやり直しまっさかい。今回は大目に見とくなはれ」と、先に大小を投げ出した。この口約束が禍になった話は、次の章で書く。(P170~174)

 松竹新喜劇は寛美の死後、低空飛行を続けることになる。
 寛美の「お客様お好みリクエスト」は「お客が選んだ昼の部、夜の部、各三本の演目のうち、最後の一本以外は当たり前だが演目は決まっている。最後の演目は、その日の観客のリクエストで決定される。松竹新喜劇が得意とする演目を20本書いたパネルが舞台の上から降りて来て、観客に、「今日はどの芝居が観たいか」を聞き、拍手の大きさで決めるのだ。
そこで演目が決まると、大道具を組み立てるところから始まり、そのままリクエストされた演目が始まる。いくら手慣れた演目でも、決定後打ち合わせや稽古もなく、わずかな幕間を取るだけでその間に衣装や鬘を変え、舞台を始めるというのは、他にお目にかかったことはない。これは、藤山寛美一人だけでのことではなく、劇団員全員が非常な緊張を強いられるものであると同時に、よほどの結束力がなければできないことだっただろう。観客席の片隅でこの公演を観ていたが、あまりの段取りの良さにただただ驚いていた記憶がある。演劇史的には、関西の「にわか」と呼ばれる即興劇の流れを汲むものだが、アドリブではなく台本が用意されている芝居だ。それを、大劇場の二か月に及ぶ公演で行う、というのは他に例を知らない。」中村義裕氏のHP「演劇批評」のコラムに紹介されている。ここでは20本の演目となっているが、30本の時もあった。

 朝ドラ「おちょやん」は浪花千栄子がモデルだが、新喜劇の酒井光子が浪花が亡くなった時の談話で、「あの人は何も残さんとみんな向こうにもって行きはった」という意味の言葉を残している。

2022年05月14日

「南方古俗と西郷の乱」司馬遼太郎.(『古往今来』中央公論社.1979) 残日録220505

「夜這い」について触れている。

 若衆組に入ると、家で夕食を食ったあとは、一定の若衆組へゆく、そこで談論したり、肝だめしをしたり、漁村なら海難救助の方法をおそわったり、山村なら山火事の消し方を習ったり、ときには夜這いの方法をならったり、あるいは連れて行ってもらったりする。
「娘をもっている親で、若衆が夜這いに来ないようなことなら、親のほうがそのことを苦にした」ということを高知の西の端の中村で、土地の教育関係の人からきいた。熊野の山村で、「複数の若者が行っていて、もし娘さんが妊娠したりするとどうなるのですか」と聞いてみたことがある。古老がおだやかな表情で、「そういうときは娘に指名権があるのです」といった。古老によれば、たれのたねであるかは問題ない、たれもが村の若衆である、たねがたれのものであっても似たようなものだ、という思想が基底にある。娘は、自分の好きな感じの、あるいは将来を安定させてくれそうな若者を、恣意に指名すればよい。(P82)

 赤松啓介の本に「夜這い」が出てくるのを思い出した。西播磨出身の柳田國男「常民」に反発し、「非常民」の民俗学を打ち立てた東播磨出身の民俗学者である。

『夜這いの民俗学』赤松啓介(明石書店.1994)
 夜這いにもいろいろの方法や型があり、ムラ、ムラで違う。田舎では自分のムラのことしか知らず、他のムラでも、自分のムラと同じことをやっていると思っているものが多い。しかし隣のムラでは、もう違うことが多い。それはムラの戸数、人口、男女の人口さでも違う。男女の差も現在人口と出稼ぎその他の不在人口の差で違う。
 大きく分類すると、ムラの女なら、みんな夜這いしてよいのと、夜這いするのは未婚の女に限るところがある。つまり娘はもとより、嫁、嬶、婆さんまで、夜這いできるのと、独身の娘、後家、女中、子守でないと、できないムラとがある。また自分のムラの男だけでなく、他の村の男でも自由に夜這いにきてよいムラと、自分のムラの男に限り、他村の男は拒否したムラとがある。他に盆とか、祭の日だけ他のムラの男にも解放するムラもあり、だいたいこの三つの型がある。
 若衆仲間と娘仲間との相談で、一年間をクジその他で組合せるムラがあり、また盆、祭りなどに組合せるムラもある。こうしたムラではクジで決めると絶対に変更しないムラと、一か月とか、三か月すんで変えられるムラもある。そのときに酒一升とか、二升つけるムラもある。また若衆と娘が相談して順廻りするムラもある。これであると娘に通う男は一夜、一夜で変わるわけだ。病気や他出で行けないと、次の男が行き、行けるようになれば、次の番から入る。ムラの女なら娘はもとより婆、嬶、嫁でも夜這いしてよいというムラでは、嫁、嬶など旦那のある者は、旦那の留守に限るというムラが多く、その日の夜から夜這いに行ってよいムラ、三日留守、5日留守したら行ってよいムラトがある。(P92~93)

 結婚と夜這いは別のもので、僕は結婚は労働力の問題と関わり、夜這いは、宗教や信仰に頼りながら苛酷な農作業を続けねばならないムラの構造的機能、そういうものがなければ共同体としてのムラが存立していけなくなるような機能だと、一応考えるが、当時、いまのような避妊具があったわけでなく、自然と子供が生まれることになる。子供ができたとしても、だれのタネのものかわからず、結婚していても同棲の男との間に出来たものかどうか怪しかったが、生まれてきた子どもはいつの間にかムラのどこかで、生んだ娘の家やタネ主がどうかわからぬ男のところで、育てられていた。大正初には、東播磨あたりのムラでも、ヒザに子どもを乗せたオヤジが、この子の顔、俺にチットモ似とらんだろうと笑わせるものもいた。夜這いが自由なムラでは当たり前のことで、だからといって深刻に考えたりするバカはいない。(P32)

 私が子供の頃、1960年代前半には、まだ夜這いは残っていたように記憶している。その当時の秋祭りで天狗の仮面を被って神輿とともに練り歩くのだが、日が暮れるとその天狗が娘を襲うことが毎年あって、誰だかわからないので天狗の衣装に背番号をつけることになった。襲うことが非難された印象はなかったので、慣習であったのだろう。赤松啓介の指摘しているように、近代化によってムラが解体され、修身や純血の教育やキリスト教の影響があって、消えていったのだろう。

2022年05月05日

「助六曲輪初花桜」(特選DVDコレクション.松竹) 残日録220501

1998(平成10)年2月、15代片岡仁左衛門の歌舞伎座での襲名披露公演で収録されたもの。

仁左衛門はこの年の1・2月を歌舞伎座で、
1月昼 菅原伝授手習鑑・寺子屋の松王丸 源蔵=吉右衛門・千代=芝翫(7代目)・戸浪=菊五郎
1月夜 廓文章・吉田屋の伊左衛門 夕霧=雀右衛門(4代目)
2月昼 一谷嫩(ふたば)軍記・熊谷陣屋の直実 相模=雀右衛門(4代目)・弥陀六=羽左衛門・義経=團十郎・藤の方=玉三郎
2月夜 助六曲輪初花櫻・三浦屋格子先 後述

4月松竹座
4月昼 菅原伝授手習鑑・寺子屋の松王丸 源蔵=團十郎・千代=雀右衛門(4代目) ・戸浪=菊五郎
4月夜 恋飛脚大和往来・封印切の忠兵衛 梅川=秀太郎・八右衛門=我當・治右衛門=富十郎・おえん=鴈治郎(3代目)

5月昼 伊勢音頭恋寝(こいのねばた)の貢 喜助=富十郎・万野=芝翫・お紺=鴈治郎・お鹿=勘九郎(5代目)・万次郎=梅玉・お岸=秀太郎
5月夜 助六曲輪初花櫻・三浦屋格子先の助六 揚巻=玉三郎・意休=我當

10月御園座 
10月昼 廓文章・吉田屋の伊左衛門 夕霧=玉三郎
10月夜 助六曲輪初花櫻・三浦屋格子先の助六 揚巻=玉三郎・意休=左團次

12月南座
12月昼 廓文章・吉田屋の伊左衛門 夕霧=鴈治郎(3代目)
12月夜 一谷嫩(ふたば)軍記・熊谷陣屋の直実 相模=雀右衛門(4代目)・弥陀六=富十郎・義経=團十郎・藤の方=秀太郎
1999(平成11)年 公文協巡業東西コース
7・9月昼 廓文章・吉田屋の伊左衛門 夕霧=時蔵
7・9月夜 双蝶々曲輪日記の与兵衛 長五郎=左團次

2000(平成12年)2月博多座
2月昼 菅原伝授手習鑑・寺子屋の松王丸 源蔵=富十郎・千代=芝翫(7代目) ・戸浪=秀太郎
2月夜 恋飛脚大和往来・封印切の忠兵衛 梅川=秀太郎・八右衛門=我當・治右衛門=富十郎・おえん=宗十郎

というところで、今回観たDVDの「助六」の配役が懐かしい。
花川戸助六 片桐仁左衛門
三浦家揚巻 坂東玉三郎
三浦家白玉 中村時蔵
通人 里暁 澤村藤十郎
福山かつぎ 坂東八十助
三浦家 傾城 中村翫雀・中村信二郎・片岡孝太郎・片岡愛之助・中村扇雀
くわんぺら門兵衛 片岡我當
白酒売新兵衛 尾上菊五郎
髭の意休 中村富十郎
母 満江 中村鴈治郎(3代目)

八十助、富十郎、鴈治郎=藤十郎が物故者に、我當と澤村藤十郎が病気休演。

澤村藤十郎の通人、これは役者が工夫して笑いを取る役どころ、品が良くて出過ぎないでなかなかいい。藤十郎の舞台を見ていないことを思い出した。めっきり演劇から縁遠くなっている。
このところ、松竹は「孝玉コンビ」再来のごとく、仁左衛門と玉三郎の共演を連発しているが、「助六」はもう出ないだろうと思うと、このDVDは貴重だ。
歌右衛門は昭和60(1985)年12月の南座での団十郎襲名披露の揚巻が最後のようだ。68歳の時。玉三郎72歳
渡辺保氏のブログに、昨年十一月の歌舞伎座での仁左衛門の「連獅子」評で「後半元気に毛を振り続けるのはいいが、体を大事にして欲しい。今や歌舞伎界になくてはならぬ大看板だからである」とあったが、仁左衛門はこの3月に「体調不調」で数日休演した。仁左衛門77歳。

2022年05月02日

ブログ「江草乗の言いたい放題」から「維新」の件 残日録220426

南河内の罵倒王、江草乗です。暴言コラム書いています。投資家です。スポーツカーが好きです。きれいな女性も好きです。コラム「江草乗の言いたい放題」は2003年から書き続けています。クルマであちこち出かけることと、京都の和菓子が好きです。映画もよく見に行きます。

と自己紹介されている。維新批判の多い人だ。私も同類なので、政治嫌いの同居人から呆れられている。
2022年04月13日の江草ブログ「維新利権は不動産利権である」の大阪公立大学や市立高校の府への無償譲渡などは、私もそう思っていた。

 昔の政治家の錬金術と言えば土地ころがしが主流だった。開発予定地を先行取得しておいて、公共事業用地として値上がりしたら売り飛ばすということである。購入資金は公金が使われるわけで、言ってみれば政治家による税金のピンはねである。滋賀県の国松知事が嘉田由紀子に敗れたのは、新幹線の栗東駅を作らせて周辺の開発に関わる土地ころがしで一儲けしようとたくらんだのが県民に却下されたからである。
 大阪もそうした利権の巣窟である。市大府大の大学統合は、当初は「市と府の二重行政解消」という名目だったが、入学式で松井一郎は「少子化による生徒減対策」と語り、二重行政(もともとそんなものは存在しないのだが)の話は一言もなかった。しかし、生徒減対策というのも真っ赤なウソで、一番の目的は不動産利権である。
 大阪公立大の新校舎建設費は1000億円と言われる。その中のどれだけが維新政治家の取り分なんだろうか。たぶん1割の100億円くらいは抜かれるのだろう。維新利権の中核部分がこの「不動産利権」である。大阪市営地下鉄を民営化したとき、さりげなく事業内容にそれまでは存在しなかった不動産開発が付け加えられた。すでに大阪メトロは民泊用に購入したホテルを安値で売却することで大きな損失を出してるが、その損失は実は誰かの利益になってるのである。大阪メトロにその物件を高値で売りつけたのはいったい誰なのか。
 大阪市立の高校22校がすべて大阪府に無償譲渡されたが、その後これらの高校は大阪府独自の3年ルールの適用を受ける。つまり、3年連続で定員割れを起こせば整理統合の対象となるというルールである。その結果として、大阪市内の一等地にたくさんのタワマン用地が発生する。府立高校はほとんど郊外の二束三文の土地だったが、市立高校は交通至便な都心部にある。いったいこの土地を利用してどれだけ怪しいゼニが動くのだろうか。

とある。まっとうなご意見だ。
コロナ禍でも吉村知事は「やっています感」を振りまくだけで、死亡率の高さをマスメディアが指摘しない(マスコミ対策も露わである)ので、追求を免れている。尼崎駅周辺の飲み屋で、大阪のおっさんが「なんで大坂の死亡者が多いんやろ」と喋っていた。のんびりしたものや。半グレのイケイケに同調して一票入れとんのと違うか、と思った。

岸政彦(社会学)が維新支持派を取り上げていた。閉塞感があるのやろなあ、一発逆転をねろてるみたいや。宝くじならまだしも……。

山下肇『京の夢大阪の夢』(編集工房ノア.1989)の初めの方に東大退官後に関西大学に赴任して、千里に引っ越してきたところ、大阪の電車内の「交通道徳」の悪さに驚いたことが書かれている。1982年当時のことである。

大坂の人たちはみな、予想以上・東京以上によろしい服装でゆったりと腰をおろしており、東京なら必ず五人掛けしているところを四人しか掛けず、荷物を横において平気な人もザラにいる。といってそれをだれもとがめようとせず、強いて五人目に掛けようとする人もいない。
そもそも東京風のこせついた意識のあり方さえ存在しないかのようだ。それでいて、駅のホームのマイクは「お年寄りや体の不自由な方に席を譲りましょう」と呼びかけているが、それに応える気配はさらさら見えない。スピーカーの空々しさがだんだん胸につかえてきて、それだけ大阪の方が〝ゆとり〟というか、のんびりしているのでしょうかね」と聞いてみると、「いや、それは大阪人特有の、目先だけの専有欲、エゴイズムですよ」と答えてくれた人もいる。

そんなに酷くはなかったと記憶しているが、もっぱら当時の国鉄に乗っていたからかもしれない。維新が大阪だけの現象にとどまってほしいが、兵庫県知事がそうであったことを思い出した。

2022年04月26日

『遅れ時計の詩人』(2017)『やちまたの人』(2018)涸沢純平(編集工房ノア刊)残日録220426

ともに「編集工房ノア著者追悼記」とある。追悼記だからもう死んでしまった著者と出版社の話である。
「編集工房ノア」については、三月書房のブログによく出てきていたので、気になる出版社ではあったけれど、文芸書を読む習慣がとっくになくなっていたので、読むことはなかった。
店主の宍戸さんからPR誌「海鳴り」をいただいたこともあった。
この出版社から出ている山田稔さんの本を図書館から借りて数冊続けて読んで、この出版社のことを知りたくなり、読むことにした。図書館には未所蔵だったので、アマゾンで古書を取り寄せた。贈呈された本で、「贈呈」の紙が挟んであった。新聞社等に送られた本だろうと思う。

題名の「遅れ時計の詩人」は清水正一という蒲鉾屋を営む詩人の話。
「私は、詩人清水さんには申し訳ないけれど、清水さんを詩人というより、父のように思っていた。清水さんもそのように接してくれるので、そのように思っていた」と書く。その分、少しだけ余分に手触りを感じさせる文になっている。
カバーに清水の手書きの詩「雪」の部分がデザインされている。縦書きだが横書きで書き写す。

雪ガフッテイル






ソンナオトシテ降ッテイル

「私の父は漁師であったが、町に出ると父の魚くさいのが嫌だった。清水さんと喫茶店に入る時、出版記念会に店からかけつけた時など、清水さんの身体から強い油の臭いがして、嫌だと思うことがあった。それは他人に閉口するというより、肉親が他人に対して恥ずかしいという嫌さであった」という表現が効いている。
清水正一の墓は、播州の土山駅の近くにある。長男の勇氏が播磨耐火煉瓦に就職した関係で、長男の家が近くにあるからだそうだ。播磨耐火煉瓦の工場が生まれた村にあったことを思い出した。ググってみたら黒崎窯業と合併して黒崎播磨となっている。

帯は、地方小出版流通センター代表川上賢一による。

全国の地方出版社の中でも少ない、
関西で唯一の文芸出版社主・涸沢純平が綴る、
表現者たちとの熱い交わり模様、亡き文人たちを
語る惜別のことば。奥さんと二人の出版物語。

「やちまたの人」という題は足立巻一の『人の世やちまた』からとっている。カバーは足立の直筆が使われている。

こちらの帯は山田稔。

著者の涸沢純平によれば、出版とは本をこしらえて売るだけでなく、著
作を敬愛し著者を家族と思うことである。その著者たちとの、人生の「やち
また」でめぐり会いから永の別れまでをつぶさに描いた本書は、前著
『遅れ時計の詩人』同様、いわば「ノア」一族の家族アルバムであると同
時に、関西の文学界にとって貴重な人間記録となっている。

とある。
こちらの本では、三輪正道が気になったので、読んでみたいと思った。長浜市立図書館は未所蔵だったので、県内図書館の横断検索をした。数館で所蔵があった。彦根が5冊所蔵していた。彦根は三輪が就職して最初の任地である。

「就職して三年目にして、精神の破滅(急性分裂病のような神経衰弱)を経験し、一昨年の呉から一カ月は憂鬱状態につき自宅療養、今も抑鬱剤のお世話になってどうにか会社に通っている」

そこから、あちこちに転勤するのだが、彦根時代の同僚か知人のリクエストによる所蔵かも知れない。たぶん、そんなところだろう、と思った。
読んでみたいが、今はそのゆとりがない。後日、ということになる。

この2冊のなかに、20才代の頃、詩人の大西隆志さんから聞いた人の名前が出てきたりして、懐かしい気分になった。

このところ、母の入院で実家が空き家になってしまうので、家に風を入れてやらねばならないのと、本をおいている物置を壊して車庫スペースをつくるために、本の移動をしなければならないので、週に一泊二日、帰郷している。
本を箱詰めしていたら、大学時代のノートが出てきて、そこに小説らしきものを書いている。そういう時間が蒙昧な自分にもあったことを、すっかり忘れていた。

2022年04月23日

「日本が生き延びるための条件」内田樹(「一冊の本」2022.4)残日録220405

内田は10年前から毎年韓国に公演旅行に行く。コロナのせいで、この2年間はオンラインでの講演になった。今年のテーマは「地方消滅危機時代の人文知の役割」。そのことに触れたエッセイ。
そこから紹介する。(P4~5)

日本は「地方消滅危機」においては韓国に一歩先んじている。おそらくはその「経験知」を語って欲しいというところだったのだと思う。期待に添えず申し訳ないが、私は韓国の方に「成功事例」を語って差し上げることができなかった。日本政府には「人口減対策」と呼べるようなものはないからである。
人口減対策としては大きく二つのシナリオしかない。都市部への一極集中か地方への資源の分配か、いずれかである。人口減と高齢化という否定的条件の下でなお経済成長を続け、資本主義の繁栄を求めようという無理筋を通すつもりなら、都市への一極集中と地方の消滅という未来しかない。国土のほとんどを無住地にしても都市に人口を集めれば、そこだけは人口が密集し、活発な生産と消費が行なわれる。「シンガポール化」である。
日本の政官財界はすでにこのシナリオを選んでいると私は思う。本来なら、国の将来のかたちを決める重大な事案なのであるから、ひろく衆知を集めて国民的な議論をして合意形成を図るべきことなのだが、そのような議論はこれまでまったくなされていないし、そもそも国民的な合意形成が必要だという合意さえない。「ある限りの資源を都市に集め、地方は捨てる」ということは既決事項なのである。それ以外に資本主義が延命できる道がないのである。
そのことを政治家が語らず、メディアも話題にしないのは、そのシナリオを今の時点で公開してしまうと、自民党が地方の議席のほとんどを失って、政権の座から転落することがわかり切っているからである。

人口減への対策として、移民の受け入れという選択肢がある。それについてはどうなのか。

つまり、韓国は北朝鮮を、台湾は香港を、中国はアフリカをそれぞれ人口減対策のために「当てにしている」。翻ってわがくにはどうなのだろう。日本はベトナム、インドネシア、フィリピン、マレーシアなどの、人口が多く、年齢が若い国からの移民労働者を当てにしている。だが、賃金水準ではいずれ中国に抜かれる。日本が彼らに提供できるとしたら「政治的自由」と「異邦人に対する寛容と歓待」くらいしかない。しかし、今の日本の政官財の指導者たちを見ていると、その二つが日本が生き延びるための必須の条件だということに気づいている人はほとんどいない。

賃金が上がらない、については諸説ある。それに比例して物価が安い。ユニクロ、百均、牛丼屋など低価格で質の高い商品がある。原材料が上がるので、価格は上昇するだろうけれど、影響はそう大きくはないだろう。なにせ、賃金が上がらないのだから、高騰には限りがある。
移民にとっても生活はし易いだろうから、「政治的自由」と「異邦人に対する寛容と歓待」に「安全」と「暮らしやすさ」でもって売っていくしかないのだろう。
石油は高騰するに違いないので、物流の費用も高騰する。そうなれば、地球全体としても地域ごとに「縮小社会化」が進むことになる。食料自給率を上げる必要が出てくる。地方を放棄するという選択が可能なのか。製造業の生産性の低さをどれほど克服できるのか。日本の資本主義は、賃金同様、相対的に低落していくのだろうか。

2022年04月05日

雑録 母の近況など② 残日録220330

先日、27日(日)の深夜、従兄妹から電話で、母が緊急入院したとの連絡が入った。
翌日、行ってみると、肋骨の骨折のせいで、肺に水が溜まっている、とのことであった。ご近所のご意見もあり、退院後は施設に入ってもらうことに、弟と相談して決めた。本人の意向でもある。
入院のことや施設への入所については、弟にお任せということにした。こういう実務的なことは私より得意である。なにせ、従業員150余人の会社の役職付き総務課長だから、父の葬儀のときも任せた。相続も仕切ってもらった。印鑑証明を○枚、用意して、と言われただけだった。
こうなると、実家の世話は私の担当となる。加古川と長浜を行き来して、加古川の実家にある不用品を捨てることから始めなくてはならない。まずは紙袋だろうか。大きなゴミ袋でも収まりきれない量がある。次は使わない食器類だろう。その次は父の衣服だろうか。
ゆくゆくは、書庫にしていた物置を壊して、車庫スペースをつくることになる。書庫の整理もすすめなくてはならない。本の多くは長浜に運んだが、耽美雑誌「ジュネ」の初期のものや、鶴屋八幡の「あまカラ」数十冊(古書店で1冊800円)などもまだ発掘できていない。
慌ただしい日々が続くことになるのだろう。
コロナ禍の前は井上靖『星と祭』の復刊に取り組んだ。その次は「エコノミックガーデニング」(地域経済賑耕)に関わろうかと考えていたが、その余裕はないようだ。今年で70歳を迎えるのだから、残日の録は私的な細々としたことになっていくのだろう。
このところ、山田稔の本を読んでいるのだが、いい文章だ。品格が文章となって現れるので、、読んでいて気持ちがいい。
「やさしい声」(山田稔『生命の酒樽』所収)に、谷原幸子「つりがねにんじん」が出てくる。

「島秋人が死んで、もう七年余りの年月が過ぎてしまった。私は、その死を昭和四十二年二十六日の毎日新聞歌壇の窪田章一郎氏の『歌人・島秋人』という文章で知った。三十三歳の刑死である。」
「つりがねめいじん」はこのような文章で始まっている。(P144)

歌集『遺愛集』などは、長浜市立図書館も所蔵している。

ひと日着て残る体温いとしみつ 青さ薄れし囚衣たたみぬ
握手さえはばむ金網(あみ)目に師が妻の 手のひら添へばわれも押し添う
土ちかき部屋に移され処刑待つ ひととき温きいのち愛しむ(処刑直前の辞世の歌)

作者の谷原は、死刑囚歌人のまわりにいた何人もの人の中から、彼と文通し、花を持ってしばしば面会に行っていた若い女性、前坂和子に関心を持つ。
「つりがねにんじん」は前坂を巡っての小説である。

処刑の前夜、つりがねにんじんと桔梗の花束をもって面会に訪れたか前坂和子は、島秋人とはじめて金網を除いた対面をしたのだった。
差し入れのつりがねにんじん雨の日に 濡れ来て終日(ひとひ)よく匂ひたり
十一月二十六日の「毎日歌壇」にのった最後の特選歌を、島秋人はわが目で読むことはなかった。
「私は、『遺愛集』の紹介記事に前坂さんが当時勤務していた高校の名があったのを思い出し、そこへ彼女の現住所を問い合わせようと考えた。私の中の前坂さんは、今どの辺りを歩いているのか。私は、掌の上の精霊をふっと吹いた。(土ちかき所へ帰れ)気がつくと、床の上に、いくつも、はかない透きとおった精霊が落ちていた。テーブルの上にも、ソファの上にも落ちていた。」
小説『つりがねにんじん』はこのように終わっている。(P150)

島秋人は記憶にないが、朝日歌壇に投稿したアメリカ在住の死刑囚、郷隼人や浅間山荘事件の坂口弘の歌集も図書館に所蔵されている。郷隼人の歌はその掲載を楽しみにしていた記憶がある。

2022年03月30日

雑録―母の近況など 残日録220326

父が亡くなって10年経つ。享年89歳。母の一人暮らし歴10年である。弟は連休になるとマメに帰っている。長男の私は、盆と正月に帰るほかは、めったに帰ることはない。長浜と加古川では新快速で2時間半ほど時間がかかる。電話をすることも、年に数回だ。
母は昭和2年生まれで、この2月に95歳になった。ゴミ出しや畑仕事など、ご近所さんのお世話になっている。週に3回、介護に来てくれる。買い物と病院通いは従兄妹がやってくれている。
その従兄妹に不満があるので、その不満を電話でも対面でも聞くことになる。帰郷したときは、その不満を筆頭にして、他人様に言えない恨み辛みを3時間ほど聞くこともある。この正月は4時間を記録した。弟は私が長浜に帰ると、そのあと母の体調がくずれる、という。あれだけしゃべり続けると草臥れもするだろうし、体調も悪くするだろう。
何せご近所の洗濯物の干し方が気に入らない、といったことが、いろいろある。だれそれにこう言われた、ああ言われた、とずいぶん昔のことでも「腹ふくるるわざなり」が多い人である。年月によって忘れるわけでない。今年は私の高校進学についての話が加わった。何とか進学校に滑り込んだ私について、同級生のQ君の母親が、うちの子が行けないのにあんたの子が入れるわけがない、何か手をまわしたのでは、と問いただした。という新ネタが加わった。手をまわしたことはないが、勉強ができない中学生と思われていたのだろう。
久しぶりに加古川の母に電話をした。台所と居間の間のガラス障子に身体をぶつけてしまい、ろっ骨を折ったという。折った右側の腕が伸び切らないので、起き上がることが一仕事なのだという。施設に入ろうかと思うが、周囲の人から、そんなところに入るとボケるからやめた方がいい、といわれているそうである。今のところ、痴呆はない。興奮すると人の名前を間違える程度。ボケもあるだろうけれど、施設の職員への不満をいっぱい心にためてしまうだろう、と思う。先年、亡くなった大伯母は施設で100歳から5年間暮らしていたが、しだいに痴呆が進んでいった。施設の内情はよく知っている。
もう少しの間は、這ってでも家のお守りをしていただかねばならない。母が施設に入ることになると、毎週、長浜と加古川の往復生活になる。これは覚悟のことではあるけれど、なるだけ先に延ばしたい、というのが本音。
夫婦とも小津安二郎の映画が好きだった。若い頃はよく覚えているなあと思っていたが、一本の映画を何回か繰り返し観ていたらしい。夫婦そろって「佇まい」を気にする人たちだと言える。

2022年03月26日

『世界史の分岐点』橋爪大三郎・佐藤優.SB新書.2022 残日録220321

丸亀製麺に行くと、思うことがある。丸亀製麺の製造工程は機械化・マニュアル化できている部分はあるが、それはまだまだ「技能」の段階から少し進歩したというあたりでしかない。
「手づくり」が評価されて、「機械化」が否定されることがあるけれど、それはまだ「機械化」が「手作り」に敵わない段階であるということであって、機械化を否定することにはならない。「機械化」することで、その製造過程で人の苦痛が低減されるほうがいいに決まっている。進歩しなければいけない課題の「発見」とそれを克服する「発明」が丸亀製麺にも期待されるのだ。
ことは一企業の課題ではないだろう。キンレイの冷凍うどんの課題とも通じることだ。
名人や熟練工の手練手管の経験を技術化する、というとこから応用科学が生まれる。標準化、というのは労働過程の質の向上につながるのが本来の姿だろう。
「原子力発電」という技術も、限りある化石燃料の枯渇と地球温暖化を抑える技術としては悪くないのだが、現実の社会にその技術を適用しようとすると、安全性や社会的費用の面や廃棄物で課題が山積している。それらの課題を克服する科学技術の進展に期待するしかないのだろう。一足飛びに反原発、ということにはならないのだ。
橋爪と佐藤のこの本では「核融合発電こそ未来である」という立場である。(P92~)

橋爪 核融合発電は、簡単に言えば、原子核のエネルギー(核力)を、原子核を融合させて、取り出して、発電することです。
 分子量の大きな原子は、分裂すると核力を放出します。人間に有害な、放射性物質も生まれます。これに対して、分子量の小さな原子は、融合すると核力を放出します。放射性物質は出ません。太陽は、水素がヘリウムに核融合して、燃えています。
 核融合発電の場合は、重水素をヘリウムに融合させます。重水素は、原子核と陽子と中性子。原子核が陽子2個と中性子の三重水素(トリウム)も用います。これが融合してヘリウムになると、高エネルギーの中性子が出てくる。その中性子をキャッチして、熱に変換します。で、発電ができる。ヘリウムは無害です。中性子は、キャッチすれば無害です。熱になるほかに、三重水素も生産されるので、発電しながら核融合の原料がつくれます。
 さて、核融合炉はいつ実用化するのか。原理がわかっているだけで、いまは炉の基本設計ができかけた段階です。重水素や三重水素を加速して、高エネルギー状態(1億度)のプラズマにします。このプラズマを閉じ込めると、核融合反応が安定的に起こると予想されます。その装置は、トカマク型といって、電磁石のドーナツみたいです。
佐藤 これは昔、ソ連でやっていたものと似ています。
橋爪 あれを改良したものです。
 トカマク型は、直径が数十メートルで、超電導磁石を極低温に冷やして、強い磁場をかける。この中のプラズマを安定的にぐるぐる回らせるのがむずかしいのです。
 核融合反応が起きると、中性子が飛び出します。その中性子を、ドーナツを腹巻むたいにプランケットというもので覆っておいて、キャッチするんですね。熱が出て、ヘリウムと三重水素が生成される。
 さて、あと何年でこの技術が実用化するのか。諸説あります。数十年、遅くても今世紀中でしょう。
 核融合炉とは、簡単に言うと、「エネルギーが装置で生産できる」ということです。ふつうエネルギーは生産できないので、エネルギー資源を燃やしていたりしていたのが、装置産業になる。産業全体、経済全体が、エネルギーの成約から事由になるのです。しかも、炭酸ガスが出ない。環境への負荷もほとんどない。これがどんなに画期的な意味をもつか、わかりますね。他のエネルギー技術とは話が違うのです。
 核融合にも、少しの材料は必要です。三重水素は核融合炉の副産物として出てくるから問題ない。重水素は海水中にあって、ほぼ無尽蔵です。ということで、石炭や石油のようねエネルギー資源に依存する時代は終わるのです。
 電力価格ほどのレベルに落ち着くか。石炭石油や、再生可能エネルギーによる電力よりも、安くなる可能性が高い。人類はやがて、この核融合発電による電力を使う社会に移行していく、と私は思います。これが二一世紀後半に起こる。世界史の分岐点ですね。
佐藤 私もまったく同じ認識です。ただ問題は、やはり先ほども言った政治コストなんですよ。
 この対談に先駆けて私も核融合について少し勉強し、いろいろな人に話題を振ってみました。
 電力会社の人などに聞いても、核融合技術の実用性はもちろん認めているのだけれど、政治コストが壁だといいますね。核に対する形而上学的な抵抗感。こえあは、理屈を分かっているほうからすると迷信に過ぎませんが、迷信で合うがゆえに根強いんです。これを迷信以上の建設的な議論にもっていくには、ある意味、力業で押し切っていくしかないと想いまます。要は政治家が思考停止をせずに政治をする。つまり政治的に立ち回って実現させていく気があるのかという問題です。

 このあとも続くのだが、佐藤は、

一九世紀のロマン主義でもなく、二十世紀ポストモダン以降の価値相対主義でもなく、一八世紀の啓蒙的理性の力をクッ検させ、信頼していこう」

と述べている。
 この本は「経済」『科学』『技術』『軍事』『文明』をテーマに語り合っている。

2022年03月21日

『わかりやすい民藝』高木崇雄(d BOOKS.2020)残日録220308

著者は民芸店「工藝風向」店主。1974年生まれ。いい考察をしている。こういう本にもっと早く会いたかった。
一時期、日本民藝協会の雑誌『民藝』を購読していたことがあった。その当時は、柳宗悦はこう書いている、といった懐古趣味的な雑誌のように読めたので、購読は止めてしまった。備後屋の前店主から「民藝夏期学校」に行かれましたか、とたずねられて返事に窮したり、ギャラリー華の俵有作さんに「何かまとまったことができませんか」と問われたりしたこともあったのだが、仕事が忙しかった時期でもあったので、民藝好きにとどまり、もっぱら門前の小僧として今日に至っている。
良い本に出会えてよかった。

さて、今現在、「みんげい」という言葉が意味する対象は大きく三つ、それにオマケを一つ加えて四種類あるんじゃないかと僕は考えています。それは次の通りです。四つ目の「いかみん」は僕の造語なので、あとで説明しますね。

1 見出す民藝(選択・スタイルとしての民藝)
2 保存する、作り出す民藝(運動としての民藝)
3 「ものさし」としての民藝(暮らしの指針、可能性としての民藝)
4 その他(郷土品・お土産的な、〝いかみん〟としての「みんげい」)

まず一つ目は「見出す民藝」。
 柳宗悦とその仲間たちが選び、集めたものです。「李朝」と呼ばれる朝鮮王朝時代の陶磁器や、丹波(兵庫県)や、武雄(佐賀県)、沖縄やアイヌの人々が作り出したものなど、日本民藝館におさめられている、柳たちの目によって選ばれた品々です。いわば、「目で作られた民藝」ですね。この基準を守る役を、日本民藝館が果たしてきました。

 二つ目は、「保存する、作り出す民藝」。
 柳たちが先の品々を発見した当時、1920年ですら、社会は近代化が進み、すでに失われつつある仕事やものはたくさん存在しました。そんな価値ある仕事を今に伝えるため、柳たちが始めたムーブメント、つまり民藝運動に関わった人々は協力を惜しまなかった。また、その中には、かつての優れたものを参考に、新たなものを作り出そうとした人々もいました。
 たとえば、沖縄の染め物・紅型に刺激を受け、型染めの仕事を行った芹沢銈介や、イランの絨毯などを参考に、倉敷で「ノッティング織椅子敷」を生み出した外村吉之介、松本で家具作りの仕事を立ち上げた池田三四郎、河井寛次郎との出会いをきっかけに民藝運動に参加した若者たちの窯・出西窯などをあげても良いでしょう。
 つまり二つ目は、このような、民芸運動に関わった人々の仕事に対する呼び名としての「運動としての民藝」です。この役割を主に担ってきたのが日本民藝協会だったと言ってもいいんじゃないでしょうか。

 そして三つ目の、「ものさしとしての民藝」。
 先にあげた二つの〈民藝〉の立場から選ばれ、生み出されてきた品々や、民芸運動を主導した人々の言葉をベースとして、あらためて〈民藝〉を読み直し、今の社会や個人の生活、暮らし、自分たちが行っていることの指針として定義し直す試みとしての〈民藝〉です。「民芸の可能性」はどこまで広がるのか、を考える試みといってもいいでしょう。
 たとえば、今回のトークイベントもまた、D&DEPARTMENT PROJECTの活動を、21世紀における民藝運動の新たな形として考えなおす機会でもあるはずですよね。そういったことです。だからこそ、「ものさしとしての民藝」を考えるためには、一つのモノだけじゃなく、建築空間や風土に関する考察も必要ですし、歴史や言葉、思想なども重要になってきます。

 そんな「可能性としての民藝」を語るための基礎となるキーワードは、きっと次のようなものが挙げられると思います。
 「無名」「用の美(?)」、あえて「?」をつけて書きましたが、その理由はのちほど。「不二」「手仕事」「暮らしが仕事、仕事が暮らし」、これは河井寛次郎の言葉ですね。「無事の美」「貧の美」「平の美」なども〈民藝〉を語るときよく出てきます。「直観」もよく言われますね。「直下に観よ」、ですとかね。「今見ヨ イツ見ルモ」「見テ知リテ ナ 見ソ」といった柳の短い詩(心偈こころうたと呼ばれます)もよく使われますね。

 で、こういった言葉をテコにして、たとえば無印良品の品や、柳宗理のデザインしたヤカンであったり、日本民藝館の館長となった深澤直人さんの仕事、「小道具坂田」の坂田和實さんの選ぶ古いものや、「生活工芸」と呼ばれるムーブメント、もちろんD&DEPARTMENT PROJECT、あと花森安治が始めた『暮らしの手帖』なども、「民藝的」かどうかを考えられる時代となっています。
 「ふつう」「シンプル」「無名性」「飾らない」「素朴」「数もの(生産量の多いもの)」「ローカル」「暮らし」「手しごと」である、といった要素が含まれていると、〈民藝〉と比較されやすいですね。
 あと、ちょっと過去のデザインでいうと、ブラウンの電卓やアアルトの家具、チャールズ・イームズの仕事も民藝に近いんじゃないの、という人もいますし、安い値段で大量に普通の物を作っていれば〈民藝〉だったら、ユニクロの服も〈民藝〉では、という人もいます。個別の話については、2章で深めますので、お待ちくださいね。

いずれにせよ、暮らしのあり方からデザインや哲学といった領域に至るまで、広く語られるようになった〈民藝〉ですが、その用いられ方はさまざまです。とはいえ今回、どの〈民藝〉が正しいか、間違っているのかという話しをするつもりはありません。むしろ、これら「ものさしとしての民藝」の根っこがどこにあるのかについて検討することの方がよほど需要かなあ、と僕は思っています。

 さて、四つ目の「いかみん」(笑)。
 「見いだす民藝」「保存する、作り出す民藝」「『ものさし』としての民藝」の三つが柳たちが考え、実践してきた意味での「民藝」と、その発展形です。ただ、実は、それ以外にも「みんげい」が存在します。
 存在します、というか、大多数の人にとっては、こっちの意味の方が強いんじゃないでしょうか。雪も降らない地域なのに、必然性もなく傾斜の急な屋根をもつ合掌造りになっていて、白い漆喰の壁で梁が太くて黒光りしている、みたいな飲食店の建物なんかが国道沿いに時々ありますよね。
 ああいう建物を「民芸建築」と呼んだりします。困ったことに、ものであれ空間であれ、和風で素朴な感じがすると、「民芸調」と呼ばれてしまうんですよ。……
 (略)
 ということで、これは最初に説明した、三つの〈民藝〉とは関係を持たない「みんげい」ですので、僕は「〝いかにも〟民藝みたいなモノ」を略して「いかみん」と呼んでいます。
(P18~27)

 柳宗悦において、

・『白樺派』を通じて得た「友情」に基づく、フラットに成立する人間観。
・「民」という希望を持っていた時代。
・「○○にもかかわらず」という思考の枠組み。
・朝鮮で浅川兄弟とともに出会った、これまでの常識と異なる
 矛盾とも思えるような環境から生まれる美と「友人」「民族」。
・世界を均一化する「帝国的美術」へ抗う「友人」との連帯としての「工藝」
・生活のリズムが表出され、長い時間が濃縮された結果生じる
 「工藝的なるもの」。

これらがすべて一体となって、「民藝的工藝」としての〈民藝〉は、成立しているのです。ですから、「民衆的」とは単に「地方」や「田舎」、まして下層階級の仁といった意図を含んだ「庶民・大衆」を指す言葉ではありません。むしろ、風土に従い合理的に仕事をする人々であり、また、観念的でない、土着のモダニズムとも呼びうるひとつの合理性をもった仕事を生きる人々に対して、「民衆的」という言葉を託した、ということです。

さらにまとめると、柳が「民衆的工藝」としての〈民藝〉に見出したものは四つあります。

1 頭の中で作り上げられた観念的な美ではない、ということ。
2 土地に暮らす人が風土の中で、必然的に生み出す品。
3 長い期間使われてく中で、土地固有の模様、
リズムを持つようになった品。
4 忘れてはならないのは、権威やブランドといった記号に関係なく、
もの自体に存在する「美」

 さて、ここで「合理性」「モダニズム」、という言葉を使ったことには理由があります。往々にして民藝は古いものを守ることを中心とする、反近代的な運動、かんがえ方であるかのように思われることが多いのですが、必ずしもそうとは言えないからです。むしろ、当時、彼らほど近代主義の先を走っていた芸術運動はなかったのではないかと僕は思っています。
(P115~117)

1 〈民藝〉は保守的な運動ではない。
2 むしろ近代主義者とも呼びうる人たちが主導した。
3 当時の他の芸術運動と同じく、
  カウンターカルチャーとしてうまれた。
4 制度に抵抗する「友人」から「民族」、
して「民衆」を結びつける思想だった。
5 〈民藝〉が生まれる背景には、
  「それぞれの土地に暮らす人」が育てる「工藝的な時間」がある。
5 柳宗悦は〈民藝〉に湛えられた「美」に、
「近代」という枠組みを超えるものの具体性を見出した。
7 「○○だから民藝」と言えるものはなに一つない。

 この一番最後が大切です。これによって、〈民藝〉は自分自身を自由な存在とすることができる、はず、だった。歯切れが悪いですね(笑)。なぜ歯切れが悪いかといえば、当然疑問がわいてくるからです。
 〈民藝〉が「美術」→「工藝美術」→「工藝」というヒエラルキーを無効なものとする試みであったにも関わらず、なぜ現在もなお〈民藝〉は「工芸」の一分野でありつづけ、〈民藝〉は「手仕事」や「無名の職人」にこだわりつづける、いささか偏屈なジャンルだと見なされるようになってしまったのでしょうか。
(P126~127)

 著者は「○○だから民藝」という誤解の具体例として、日本民藝協会のウェブサイトを引き合いに出します。

1 実用性。鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたものである。
2 無銘性。特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたものである。
3 複数性。民衆の要求に応えるために、数多くつくられたものである。
4 廉価性。誰もが買い求められる程に値段が安いものである。
5 労働性。くり返しの激しい労働によって得られる熟練した技術をともなうものである。
6 地方性。それぞれの地域の暮らしに根ざした独自の色や形など、地方色が豊かである。
7 分業性。数を多くつくるため、複数の人間による共同作業が必要である。
8 伝統性。伝統という先人たちの技や知識の積み重ねによって守られている。
9 他力性。個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、眼に見えない大きな力によって支えられているものである。

これらを満たさなければ民藝品ではなく、ゆえに濱田庄司や河井寛次郎などが作り出すものは大量でもない「作家もの」だから、民藝品ではないはずだ、などと言われてしまう。また、日本民藝館におさめられている柳の蒐集品には、朝鮮王朝時代の支配階級「両班」が使っていた道具や絵画などもありますが、これらに対して、支配階級のものだから「民衆的」とは言えないではないか、といった批判もよくある話です。ほか、よくある誤解としては、「手仕事だから民藝」「民藝と言っているのに、値段が高い」「柳宗理デザインの製品は工業製品だから、民藝ではない」などがあげられるでしょう。
なるほど、〈民藝〉が、「○○だから民藝」という条件によって成立するものならば、どれも確かに正しいでしょうし、柳が書いた文章を言葉通りに読んでいく限りには、条件としか思えない箇所も存在します。ただ、これまで述べてきたように、柳が当時なぜこれらの言葉を用いなければならなかったかを考え、調べることによって、そのなぞは容易に解けていきます。
柳が当時の、帝国化にともない一元化する社会や、「帝国工藝部」「工藝美術家」といった「制度化された美」に抗うための批評として文章を書いていたのだと考えると、また、真実や美が順接ではなく逆説によってこそ示される、と考えた柳の枠組みからするならば、これらは条件ではなく、むしろ「○○にもかかわらず」、「○○ではなく」という、否定を通して語っている、と受け止めなおされるべきなのです。
ですから、前掲の条件をあえて否定によって記しなおすならば、次のようなものとなるでしょう。

1 非鑑賞性。鑑賞を目的として作られたものではない。
2 非有銘性。自らの名をあげるために作られたのではない。
3 非単数性。希少価値を求めてつくられたものではない。
4 非高価性。高価であること自体を求めてつくられたものではない。
5 非趣味性。美的趣味の表現のために特化された技法を用いていない。
6 反グローバル性。どこにでもある形を志向しない。
7 反孤立性。自分一人で作品を作り上げているなどと思い込まない。
8 反新奇性。思いつきで作る形や色、模様などではない。
9 非自力性。個人の力、個人の生という、限られた力や時間だけに頼らない。

そして無論、仮に今提示したこれらの条件もまた、固定化されてはならないのです。つまり、1から9までのすべての条件を兼ね備えているの「だから」民藝品、とはならない。柳が次のように書いている通りです。文中の「こと」とは条件、〝だから〟〝それで〟などの順接を意味します。

ものの美しさを見ます時、「こと」を通さずに「もの」を見て参りましたので、個人とか、工人とか有名とか無名とかの区別なく、ただ率直に見て参りました。
(P134~138)

 長い引用になってしまったが、なるほどと納得できるし、いろんなモヤモヤしたところが少し分かりだした気がする。
「数もの」でも気に入った品は欲しくなる。
 「作家もの」は、今のところ下田の土屋典康さんと益子の石川雅一(はじめ)さんの作品が中心で、こんなに集めてどうするの、という収納に限りあり、の状態だ。
ヤフオクを覗くと、何ともいやはや、終活の安売り・投げ売り、という有り様。日本経済の低迷を反映している。コロナ禍で中国からの需要も少ないのだろう。
そういえば、青森のMさんが亡くなってずいぶん経つ。たくさんのコレクションはどうなっているのだろう。他人が心配することではないが、一月にも某氏のコレクションの行き場がなくて、という話を聞いたことを思いだした。

2022年03月08日

「ベーシックインカム それは可能だ。しかし可能こそがその限界だ」大澤真幸.(「一冊の本」.朝日新聞.2022.02号.P22~31)残日録220228

「一冊の本」の大澤の連載「この世界の問い方」のこの号のテーマはベーシックインカムである。

「日本社会ではベーシックインカムを必要とするか」についての大澤の結論は「こうした現状を考えると、BIは、日本社会には必要だし、また効果的であると予想できる」である。こうした現状とは、橘木俊詔の2006年の著書から、生活保護水準以下の所得で暮らしている人は、13%であるが、実際に生活保護を受けている人は、同年で、人口の1.2%にしかならなくて、生活保護を本来必要としている人の10%くらいしか受け取っていないので、効果的な貧困対策にはなっていないことを指す。また、ジニ係数でみると日本の値はかなり悪いこと、日本の生活保護の給付額は低くはないことにもふれている。

「BIは財政的に可能である」根拠として、原田泰の2015年の著書から、原田の「20歳以上に月額7万円、20歳未満に月額3万円」の案について、現状の生活保護では、単身者の場合、概ね12万円ほどなので、家賃のことを考えると「1人暮らしの7万円は厳しいが、たとえば夫婦で子供二人の家族ならば、原田の構想では20万円が支給されるので、東京で暮らせないこともないとして、「日本の生活保護の捕捉率は著しく低い。このことを考えると、BIの支給額で揉めている場合ではない。多少、金額が低くても、BIを導入した方が、しないよりはずっとよい、ということになるだろう。/結論的に言えば、日本でBIを導入するとして、財源は少なくとも理論上は確保できる、ということになる」という論である。
 単身東京で月額7万円で暮らすのは厳しいだろうが、シェアハウスするということや、家賃の低い地方への転居も考えられよう。
 生活保護だと、働いた収入分だけ減額されるが、田舎暮らしをして耕作放棄地を再生する老後生活も可能だろうし、珍しい野菜を「道の駅」で販売することも考えられる。

「利己的にして贖罪的な消費の先に……」では、1968年以降の資本主義ははっきりと変質したとし、「利己的な消費と利他的な(慈善的な)動機とが、セットになり始めたのだ。BIは、」その延長線上に登場するはずだ、と予想することができるのだ」と論を進めていく。
 「消費者は、慈善的な理由、利他的な理由、あるいは自然環境に関連する理由によって、商品の価格が高くなることを、積極的に受け入れるようになっている。」/「慈善や環境が理由になって少しだけ高価になっている商品を、人は喜んで買う。どうしてか。その高い価格によって、消費者は、消費の利己主義が作り出す「罪」を贖っているのだ。要するに、「贖罪」自体が、今や消費されているのである。古典的な資本主義とは異なり、20世紀末以降の文化資本主義の中では、消費は、背反する二つの効用を同時に満たしていることになる。一方で、利己的な消費は、何らかの罪を作っている。貧しい人を搾取したり、地球を汚したり、と。人はそのことにすこし疚しさを感じている。しかし、だいじょうぶだ。他方で、人は、消費を通じて、その罪を贖うことができるからだ。罪を作りながら、それを贖うこと、これが現在の消費である。」/「こうした態度、こうした傾向を強化し、延長させていけばどうなるのか。そうすれば、やがて、そこから、BIも現れるだろう。利他的に、あるいは事前的に振る舞うことは、今日の資本主義と矛盾してはいない。むしろ、資本主義的にそれは促進されている。その利他性の部分を拡大していくと、やがて人々は、BIのための出費をも受け入れることになるだろう。豊かな先進国で、BIが民主的に支持される日も湊東区はない、と推察するのは、BIへと結実しうる今述べたような傾向が、世界的には、主流になりつつあるからだ」
と展開していく。

「まさにそれゆえにBIには限界がある」と大澤は論をすすめる。
 「社会システムが資本主義であるということは、――マルクス経済学の用語で言えば――剰余価値が発生するようになっているということだ。「利潤」と言ってもよい。剰余価値(利潤)が発生している以上は、システムのどこかで、労働の搾取がなされていることになる。これはマルクスが述べていたことだが、日本の偉大な二人のマルクス経済学者が、この命題の厳密な証明にかかわっている。まず、森嶋通夫が、このマルクスの主張を「マルクスの基本定理」と名付け定式化した。これを受けて、置塩信雄が、定理を厳密に数学的に証明した。要するに、プラスの利潤が発生するための必要かつ十分な条件が、労働者の状夜道の搾取である。//「BIは、格差や貧困の問題への対応策だ。しかし、格差・貧困の究極の原因が、資本主義的な生産関係の中での労働の搾取にあるとしたらどうか。BIは、真の病因は取り除かない対処療法だということになるのではあるまいか」
と、BIの資本主義的生産関係内での限界を指摘している。
 森島や置塩は、労働の搾取を証明しているが、それをどうこうするという論を展開しているのではない、と記憶しているが、ずいぶん昔の勉強での事ゆえ、きわめて曖昧である。

「親切な奴隷主のように」ではこれまでの論をまとめて、
 「BIは確かに実現可能である。しかし、それが実現可能なのは、資本主義の枠内に止まるからだ。そうだとすると、BIは、結局、それがまさに解決しようとしている問題の真の原因を除去しない限りでのみ機能する政策だということになるだろう」としている。
 つまり「BIは、親切な奴隷主のようなものである。親切な奴隷主は、奴隷の窮状に深く同情する立派な人物である。が、いくら奴隷たちに親切に接したとしても、問題はけっして解決しない。それどころか、奴隷主として親切であるならば、問題は永続することだろう。なぜなら、問題の根元は、奴隷制度そのものにあるからだ。/同じことはBIにも言える。奴隷制度の中での親切な主人が問題を解決できないように、資本主義の中でのBIは、問題を真に解決しない」ということになる。

 大澤は、はじめの「日本社会ではベーシックインカムを必要とするか」のところで「BIは、究極の貧困対策である」と規定しているが、BI論者には新自由主義の立場からの論者もいるので、そうとばかりは言えないだろう、と思う。
 大澤は「レントとしてのBI」で

 「GAFAM(ガファム;Google、Amazon、Facebook、Apple、Microsoftの頭文字を取った呼び名―明定)があれほど儲かるのはどうしてなのか。それは、本来は誰のものでもない「一般的知性」(マルクス)が私的に所有され、そのことを根拠にしたレント(使用料)を彼らに支払われているからである。この場合、一般的知性とは、インターネットやICT技術(情報通信技術―明定)に関連した知識のことである。/マルクスは、知識というものは、そもそも私的に所有することができないので、利潤を得るための主要な手段が知識になったときには、資本主義そのものが終焉を迎えることになるだろう、と予測していた。しかし、このマルクスの予想はまったく外れた。知識に私的所有権を設定し、そこからレントを得ることで、資本主義的な搾取はますます成功するのだ。/ここで述べておきたいことは、次のことである。BIは、格差への対処策だが、そこで用いられている方法――つまりレント――は、まさに今日の格差をもたらしたメカニズムと基本的に同じものである」

と、搾取された利潤=レントの再配分としてBIを捉え、「コモンズへ」と問題提起をする。

 「富は基本的には――誰のものとも限定できない――普遍的なコモンズであるというアイディアから自然的に引き出されるのは、コミュニズムである。コミュニズムとは、誰もが能力に応じて貢献し、必要に応じて取ることができる、ということだ。BIが、市民権に帰属するレントとして設定されている限り、それは、コミュニズムとは別物である。しかし、BIには正義があるという直観の根拠に依拠するならば、われわれは、コミュニズムを支持しなくてはならない。そうだとすれば、BIはゴールではなく、コミュニズムへの長い道のりの通過点である。/親切な奴隷主であることに満足してはならない。奴隷制度そのものを克服するところまでいかなくては……」

 ???
 「コミュニズムが自然に引き出される?」 「消費者は、慈善的な理由、利他的な理由、あるいは自然環境に関連する理由によって、商品の価格が高くなることを、積極的に受け入れるようになっている」傾向があるというが、そこからコミュニズムへは「自然につながる」のだろうか。
「親切な奴隷主であることに満足してはならない」? 私は奴隷ではないのか、奴隷主ではない、ことは確かだ。奴隷=貧困層ということではないだろう。なんだか、上から目線である。
 「BIはゴールではなく、コミュニズムへの長い道のりの通過点である」というのは簡単だが、「長い道のり」の一言で済ませられるわけにはいかないだろう。
 BIが資本主義社会の到達点であるならば、そのBI社会(消費者市民社会)の中から、次のメタモルフォーゼの種やステージが内発的かつ必然的に生まれるのだろう。それは単なる「通過点」ということにはならないし、政治的な土壌から生まれるとは限らない。むしろ、非政治的なるもののなかから生起するのではないだろうか。現在のわれわれには予測不可能なものであるだろう。

2022年02月28日

「探求(未知の世界)への誘い」岩瀬直樹(図書館雑誌2021.12)残日録220213

「学校全体が大きなライブラリー――軽井沢風越学園の子ども主体の探求を形にした学校建築」からの一部引用(P756)

 風越のライブラリーの特徴の一つは2階へ続くスロープの「探求エリア」だ。問いが生まれると一人であるいはスタッフと一緒にここへ向かう。『もしも原子が見えたなら』の読み聞かせから原子・分子に興味を持った4,5年生6人は,「原子・分子プロジェクト」というマイクロプロジェクト(個人探求)を)始めた。「原子って何種類あるんだろう?」「世の中,全部原子でできているっていうけど,鉄とかも?」読み聞かせを景気に問いが次々に生まれていく。「俺,どこに原子の本あるか知ってるよ」という科学好きの5年生に連れられて「探求エリア」の書架に向かうと『世界で一番美しい元素図鑑』に出会い,みんなでのぞき込む。「これめっちゃきれい!」1冊の本をあれこれ指差しながら自然と対話が生まれていく。「写真みたいながあるけど,どうすれば目で見えるんだろう?顕微鏡?新たな問が生まれ再び書架へ。」探求が駆動したときにすぐに手を伸ばせる環境なのだ。
 風越のカリキュラムの軸は「テーマプロジェクト」と呼ばれる教科融合の探求である。その特徴は,以下の六つである。1)年齢の近いグループでスタッフ発信のテーマに取り組む,2)理科・社会を中心に多様な教科・領域を横断しながら深める, 3)自分なりの問いを立て,自分なりの答えを求めて探求する, 4)多様な探求方法や発信の方法を考える, 5)共同して取り組む, 6)学校外のリソース(人的・物的共に)活用する。子ども一人ひとりの「~したい」を大切にしながら,学ぶプロセスで本物の人に出会ったり,実社会につなげていくことを目指し,そこで得られた学びを他者と共有して深めていく。週6時間設定されているテーマプロジェクト。前述のマイクロプロジェクト合わせると,週時数の半分近くが探求である。探求を支える空間の中に常に見を置き続けられるのが風越ライブラリーだ。環境が探求を常に応援し続けている。学校図書館を「目的を持ってわざわざ行くところ」から,「日常を過ごすところ」への転機なのだ。時には,偶然にある本に」出会うことも起きるだろう。そのためには選書が重要である。子どもたちに出会って欲しいと願いが込められた本,子どもたちの知的欲求にこたえる本が並べられているか。司書教諭を中心に3万冊を超えようとする幅広い蔵書を丁寧に整えていくことが,その偶然の質を高める。スタッフにとってはライブラリーはプロジュクとのアイディアに出会ったり,設計・実践するための豊かな資料に出会う場所でもある。大人の学びも支えているのだ。(以下略)

軽井沢風越学園は2019年10月31日設立。岩瀬直樹氏は学園の校長であり同幼稚園の園長である。埼玉県の公立小学校勤務後、東京学芸大大学院准教授。著作多し。
理事長は楽天の前身であるエム・ディー・エム起業に携わり取締役として楽天市場をつくりあげ、1999年取締役副社長になった仁。2005年に退社、同年4勝ちから横浜市立中学校の校長になる、とういう経歴を持つ。

私立の一貫校はこういう新しい取り組みができるところが良いとこだ。しかし、授業料が払えるか払えないか、で生徒が均一化するので、生徒に多様性がない。
世間に出たとき、戸惑うかもしれない。上級国民は一般人との出会いは少なくなっていくのかもしれないけれど。
募集人員を見てみると、
・幼稚園:男女計24名
・小学1年生:男女計35名(2~6年は若干名)
・中学1年生:男女計15名
である。
教育環境の格差によって、社会が階層化するのだろうか。

岩瀬はブログで仮説実験授業のことにふれている。

初任からの5年間の、どっぷり仮説実験授業を学び実践した。今思い返すと、初任からの5年間は、豊かなコンテンツの土壌の上でファシリテータートレーニングをしていた毎日だったのだと思う。
ではなぜ離れたか?それは後にファシリテーションを軸としていく自分の変化にも繋がっている。そういえば同僚の渡辺貴裕さんに、
「もし仮説実験授業に出会っていなかったら、今の岩瀬さんはありませんか?」
と聞かれたことがある。
どうだろう。けっこう本質的な問いでまだ答えられずにいる。おそらく今のぼくはないんだと思う。
それにしても子どもたちの討論から仮説が立ちあがっていくやりとりには聞き惚れたなあ。ここに来て社会構成主義を勉強しているんだけれど、実はあのときの聞き惚れた討論に原点があったりする。
ではなぜ仮説実験授業から離れていったのか?
端的に言えば以下。
①仮説絶対主義的な側面がある。他教科への安易な展開や、仮説さえやっていればいいというような言説。つまりは方法の絶対化。
②教師と子どもの授業書への過度な依存。授業書の質が高いだけに、授業書そのものへの疑いを持たない。このような姿勢は、巧妙な「授業書もどき」を作れば思考や価値観を操作できる危険性をはらんでいる。これは仮説に留まらない大きなリテラシーの問題。
③問いはいつも「降ってくる」ことへの違和。カリキュラム上の自由度の低さ。
とはいえ、今なお仮説実験授業の価値は高いと考えている。
仮説実験授業の豊かな蓄積をぼくたちはどのように継承していけばよいのか。
仮説における「楽しさ」の価値とは?
改めて検討したい。なんせ5年間、脇目もふらずに学び尽くしたことが大きかった。
5年やり続けると強みになる。

仮説実験研究会の会員でもある私も、「仮説さえやっていればいいというような言説」には抵抗感があった。そう言いながら、教師としてのいくらかの配慮はしているのだろうが。「巧妙な「授業書もどき」を作れば思考や価値観を操作できる危険性をはらんでいる」については、板倉氏亡き後でも授業書の改訂が重ねられているので、あまり気にならないことではある。ただ、「授業書もどき」が生まれなかったわけでもなかったと思う。それは露骨に批判されることはなかったが、時間を経るうちに自然淘汰されるのだ、という経験知もあってのことだ。

2022年02月13日

『子どもが壊れる家』草薙厚子(文藝春秋社.2005) 残日録220207

非行少年とは、①犯罪少年、②触法少年及び③虞犯少年をいう、とある。学生の頃、社会病理学で習ったことを思い出した。
少年非行の動向(令和3年犯罪白書)によると、

「少年による刑法犯,危険運転致死傷及び過失運転致死傷等の検挙人員の推移には 昭和期において,26年の16万6,433人をピークとする第一の波,39年の23万8,830人をピークとする第二の波,58年の31万7,438をピークとする第三の波,という三つの大きな波が見られる。平成期においては,平成8年から10年及び13年から15年にそれぞれ一時的な増加があったものの,全体としては減少傾向にあり,24年以降戦後最少を記録し続け,令和2年は戦後最少を更新する3万2,063人(前年度比13.8%減)であった。」

とある。

草薙の本書は2005(平成17)年に書かれていて、

1983(昭和58)年―中学生らにより、横浜浮浪者を殺害
1988(昭和63)年―名古屋市緑区大高緑地公園での、少年(19歳2人、17歳、20歳)、少女(17歳、18歳)によるアベック殺害事件
1988(昭和63)年―足立区綾瀬での、少年ら(18歳、17歳15-16歳、16-17歳)による、女子高校生コンクリート詰め殺人
1997(平成9)年―神戸須磨区での少年A(14歳)
1998(平成10)年―栃木剣黒磯市黒磯北中学校内、男子中学1年生(13歳)が女性教諭を殺害
1999(平成11)年―山口県光市で少年(18歳)が主婦と長女を殺害
1999(平成11)年―愛知県西尾市で男子県立高校生(17歳)が女子同級生を殺害
2000(平成12)年―愛知県豊川市で少年(17歳)が主婦を殺害
2000(平成12)年―佐賀県の少年(17歳)がバスジャックをし、乗客を死傷
2000(平成12)年―大分県野津町(現臼杵市)で、高校男子(15歳)による一家六人殺傷。
2001(平成13)年―少年2人(18歳)が東京の地下鉄ホーム内で銀行員を暴行殺害
2002(平成14)年―岩手県前沢町で、少年2人(15歳、16歳)による老夫婦殺人未遂。
2003(平成15)年―沖縄県北谷(ちゃたん)町で、高1男子(16歳)、中3男子(14歳)、中3女子(14歳)、中2男子(13歳)が、中学生を殺害
2003(平成15)年―長崎市で中1男子(12歳)が4歳の幼児を殺害
2003(平成15)年―東京都稲城市立小学校の女子児童4人が、アルバイト目的で接触した容疑者(29歳)に4日間監禁され、保護された。容疑者は自殺
2003(平成15)年―千葉県警は、窃盗容疑で、少年少女を含む11人を逮捕
2004(平成16)年―石川県金沢市で、少年(17歳)が窃盗目的で民家に侵入し、夫婦を殺害
2004(平成16)年―長崎県佐世保市の小学校内で、小学6年女子(11歳)が同級生を殺害
2004(平成16)年―新宿区の団地で、中学2年女子が、5歳の男の子を4階と5階の間の外階段から突き落とし、軽症
2005(平成17)年―板橋区で、社員寮の管理人夫妻を長男(15歳)が殺害


が挙げられている。
 著者は「新しい非行の誕生」として「モダン型の非行」と位置づけている。

 この新しい非行の萌芽は」、昭和五十六(一九八三)年前後に現れ始めました。その大きな特徴は、中学生を中心とする年少少年が非行の中心となり始めたことです。そして、非行少年のうち、両親の揃っている家庭が約八割、中流家庭の非行少年が八割以上を占め、決してどの家庭も安心していられない事実を鋭く突きつけたのです。
 高度成長期を経て、物が溢れている豊かな時代に幼少年期を過ごした少年らにとって、「生活のため」に非行に走る必要はほとんどありません。金品ではなく、「面白さ」や「スリル」、「成功体験」を求め、あるいは集団で犯行を行うことによって、交友関係を維持しようとしたのです。こうして貧しきゆえに起こすクラシック型の非行から、モダン型の非行へと完全な脱皮が行なわれました。
 このモダン型の非行は、問題が見えにくいままに(少なくとも非行歴が公式に記録されないままに)、日常生活の一部、あるいは遊びの一種として浸透していきました。そして、その非行がたわいもなく、動機も単純であるために、後々の重大事件との関わりが予測できず、司法や行政機関からも、学校・家庭からも深刻に受け止められずに見過ごされました。(P39)

としている。

ここには挙がっていないが、1993(平成5)年、山形県新庄市立の男子中学生が、同校生7人(14歳3人、13歳4人)により、窒息死させられた「山形マット死事件」というのがある。これは、事情聴取で犯行を認めていた生徒たちが、公判で「自白は強制されたもの」と被告側が自供を撤回したことで、大きな話題になった。被告側が冤罪を主張する日本国民救援会山形県本部や国民救援会中央本部の支援を得ることで、判決が有罪と無罪の間を揺れ動くこととなった事件である。
これはいじめとの関連で捉えるので挙がっていないのかもしれないが、いじめが遊びの一種の延長である例でもあるだろう。

少年犯罪は他にもありここに挙がっていない事件、著者の執筆後の事件もある。

1988(昭和63)年―堺市通り魔事件
1992(平成4)年―市川一家4人殺人事件
1994(平成6)年―大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件
2000(平成12)年―岡山金属バット母親殺害事件
2003(平成13)年―千葉少女墓石撲殺事件
2010(平成22)年―石巻3人殺傷事件
2011(平成23)年―大津市中2いじめ自殺事件
2013(平成25)年―東京都吉祥寺路上女性強殺事件
2013(平成25)年―広島少女集団暴行事件
2014(平成26)年―佐世保女子高生殺害事件
2015(平成27)年―船橋18歳少女殺害事件
2015(平成27)年―川崎市中1男子生徒殺害事件

 2021(令和3)年11月にも愛知県弥富市の市立中学校で、3年の男子生徒(14)が3年の別の男子生徒(14)に包丁で腹部を刺され死亡。という事件があり、2016(平成28)年以降にも多々あるだろう。

 著者は「少年犯罪を生む過程の共通項」として、

○家庭内で、おもに母親による過干渉と、父親の存在感の無さが共通して見られる(逆の場合もある)。 
○過干渉によって子どもの中には「もう一人の自分」が芽生え、次第に攻撃性を強めていく。
○家庭や学校に居場所をなくした子どもは、ゲームやインターネット、ホラービデオなどの「幻想の世界」にのめり込む用になる。
○残虐な映像が頭の中を支配するようになり、現実と空想の境界線が曖昧になって行く。
○ゲームやインターネット、ホラービデオにンめり込む子どもたちを、親が黙認するうちに歯止めが効かなくなる。

 結局、私たちが少年犯罪から得るべき教訓は、
・過干渉しない=子どもを自分の理想に嵌め込もうとしない。
・放任しない=ゲームやインターネットとの関わりを放置しない。
 の二点と言えるでしょう。(p158~9)

を上げている。

 親はなくとも子は育つ、子どもは放っておいても大きくなるものさ、というおおらかな諺は、もう通用しなくなりました。放っておかれた子どもを構うたくさんの親類や近所の人たち、外で一緒に遊ぶ友達、一人で遊んでも新しい発見がある原っぱなどは、ほとんど姿を消しました。彼らは部屋で一人、パソコンやゲームに向かうのです。そんな子どもたちに言われるままにゲームやビデオのソフトを与え、目の前でおとなしくしているからと安心してしまう怠惰が、「子どもを飼う」親を、そして深刻な少年非行を増やすのです。(P161~2)

 私は子育ての経験はないし、身近な親戚にも非行にはしる従兄弟の子どももいない。だからイマイチ、リアル感がない。でも、図書館という現場にいた頃は、子どもの生き難さや生き辛さを感じたものだった。カウンターの向こうとこっちで、何ができるということはないのだが、いや、また、何かをしてあげたほうがいいとは思うのだが、突っ立っている自分を思い出す。
 図書館があってよかった、と思い返す当時子どもだった若い親たちが少しはいるだろうか。少しはいる、と思う。その人たちには、原っぱのような役割をしていたのだろう。
 図書館があってよかった、と当時、思っていてくれた親はいるだろうか。これは期待できない。礼を言われたこともあったが、多くの親はそれどころではなかっただろう。
 「図書館という居場所」という雑文を書いたことがある。

 図書館という居場所

 高月町の図書館には、いろんな子どもがやってくる。図書館に用がない子、本に関心がない子、不登校の子、心が壊れそうな子、落ち着きのない子もやってくる。居場所を求めてやってくる。
 歓迎するほどの心のゆとりが職員の側にあるわけではない。ただ、なるだけ拒否しないでいたい、と思っている。
 素行に問題のある子どもたちもやってくる。家にも教室にもそして部活にも居場所のない子達がやってくる。その子がいるだけで衝かれる、ということも往々にしてある。腹をたてることもある。
 そんな子どもたちと日々つきあわざるをえない教師はたいへんだろうともう。
 子どものうしろにはその子を育てた家庭がある。教師はそれとも付き合わなければならない。めんどうなことだろうになあ。
 生きにくい子どものそばにあって、教師はどんな悲しみを抱いているのだろうか、そんな感傷にひたる余裕はないのだろうか。
 図書館という場に、本好きの子だけでなくいろんな子どもが来てくれるので、忘れがちな悲しみがわたしのこころにも生まれる。
 居場所を求めてやってくる子への戸惑いや、ささくれだったこころの棘をあらわにした子たちへのいらだちを、わたしの「悲しみ」へとつなぐ。これはたいへんしんどいことだが、それがないと子どもたちの居場所にはならない。
 図書館を居場所としている子どもたちのおかげで、いくつものことを学ばせていただけることのありがたさを大切にしたい。
「みーな びわ湖から」No.68 2001

 統計的には少年非行は減少傾向である。しかしながら、「モダン型」の非行の件数は少なくとも、非行に至らないまでも境界の事例や現象は裾野を広げていくだろう。
 一方において『ケーキを切れない非行少年たち』(境界知能)の存在もあり、コミュニケーション障害もある。虐待の連鎖もある。
 少年非行について、現在の私にできることなど無いに等しい。私の生活が、暮らしのかたちが、こういう子どもたちとどこかで繋がっていると思っている。

2022年02月07日

『ひそませること/あばきたてること――絵本編集の現場から』澤田精一.現代企画室.2014 残日録220130

 『ごろごろにゃーん』長新太.福音館書店.1984、この絵本を初めて読み聞かせに使ったとき、子どもたちから大いにウケた。ページをめくるたびに笑いが起きる。そんな体験を1970年代にした。20才代だった。それ以降、何回か読み聞かせに取り上げたが、あの時ほどの笑いはない。読む側の成功体験が邪魔をしているのかもしれない。子どもが笑いから遠ざけられているのかもしれない。などと思った。

 福音館のサイトでは、

くじらのような、イルカのような翁飛行機が海に浮かんでいます。大勢の猫たちがそれに乗り込み、「ごろごろにゃーん」と出発です。「ごろごろにゃーん」と飛行機は飛んでいきます。魚を釣りながら「ごろごろにゃーん」。くじらにあっても「ごろごろにゃーん」。山を超え、街をながめ、飛行機はにぎやかに「ごろごろにゃーん」と猫たちをのせて飛んでいきます。長新太の真骨頂!斬新で愉快な絵本です。

とある。ほとんどの見開きページが「ごろごろにゃーんとひこうきはとんでいきます」という文で、絵を見せていく絵本になっている。

 澤田のこの本に『ごろごろにゃーん』が出てくる。

 今までの「こどものとも」の歴史の中で、ときどき異色の絵本がでることがある。入社したときには、佐々木マキさんの『やっぱりおおかみ』出版された直後で、編集部でかなり激しい議論をしていたのを覚えている。長新太さんの『ごろごろにゃーん』、片山健さんの『おなかのすくさんぽ』、タイガー立石さんの『とらのゆめ』、いずれも話題を呼んだ絵本だったけれども、問題はそういう絵本が編集されながらあとにつなげる手立てがなく、そのときだけの冒険に終わってしまうのが常だった。やるからには、意識的でなければ意味がないだろうし、その作品の成し遂げた内容を魏の時代へ引き継ぐことができなければ歴史も生まれようがない。では、どうしたら、それが可能になるのだろうか。
 それは絵本の編集を始めて、いつも頭を離れない問題だった。編集をしていて出せるといえば出せるけれど、それでいいのか。それがよくないのであれば、どうするのか。なんでもではなくて、これを出したいということには、私の価値観が前提としてある。その価値観を目の前に出せないとよろしくないのではないか。絵本の編集という実践もだいじだけれども、それを支える理論も必要だと思った。ところが九十年初頭には、まだまだ今のような絵本についての文献が少なかったし、欧米の影響が強い理論書は、日本の作家に作品をお願いする私の仕事では、なかなかうまく活用できなかった。(P16~17)

そういえばそうだな。月刊で絵本を定期的に出版していくという期限付きのルーティーンからくるマンネリと無難な内容とともに、絵本作りの現場が袋小路に陥っているように、当時、司書として感じていた。
90年代の荒井良二などの登場によって、絵本は変化を始める。
そうしたなかで、『こどもの館』から月刊絵本の編集担当に異動した澤田は、そういう流れを作った編集者のひとりである。大竹伸朗『ジャリおじさん』や伊藤比呂美『あーあった』といった、当時ではよくわからないと受け止められていた絵本を作っていく。
『ジャリおじさん』について、

……刊行後、この絵本はわからないというクレームがかなり来た。それに答えるのも編集者の仕事なのだが、なかでもある幼稚園の園長から絵本のなかにカラオケをしている図(P11)があり、これは子どもに与えるのにふさわしくない絵本で返品したいという旨の電話が入って、三十分ほど話し合ったことがある。一九九三年の時点で現代美術作家・大竹伸朗について社内で知っている人はいなかった。無論、原画を「こどものとも」編集部で見せたとき、みんな黙り込んでいた。私はその沈黙は了解の意味にとったのだが、のちにあんな保守的な「こどものとも」でどうして大竹さんの絵本がでたのかと、聞かれたこともあった。
 否定的な反応はあらかじめ予想できたので、資料を揃えて説明を試みた。「こどものとも」の折り込でも、何人かの人に『ジャリおじさん』について書いてもらった。ところが翌年の一九九四年に小学館絵画賞受賞。九五年にBIB(Biennial of Illustration Bratislava)金牌を受賞するにおよんで、やや社内でも認知されたかなと思う。(P40~41)

と書いている。
 誰かの絵本に「カラオケ」でなく「ラブホテル」が背景に小さく描かれていることに抗議した司書がいたことをおもいだした。

 澤田の関わった絵本に、『ごろごろにゃーん』とよく似たスタイルの絵本がある。
 スズキコージ『きゅうりさん あぶないよ』(年少版・こどものとも 1996年9月1日)がある。この絵本の成立についてふれている。

 『ジャリおじさん』をだし、翌年『ぼくはへいたろう』(他にも何冊も担当しているがその年の代表作ということで)をだして、九五年に「こどものとも」第二編集部へ異動となった。そして九六年に『きゅうりさん あぶないよ』を担当した。これにはいろいろな経緯がある。まず「年少版」の「こどものとも」にスズキコージという作家を登場させたかった。それまでの「年少版」というのは、二~四歳児を対象とするなかで、簡単な文章、簡略されて描かれた絵で構成される場合が多かった。しかし、「年少版」は読み聞かせをして絵本を読んでいくケースが圧倒的である。耳からの文章の言葉を聞き、自分の目で絵本の絵を追っていくのである。そうならば、もっと絵の情報を多くしてもいいのではないかと思った。年長の子どもに比べて年少の子どもは語彙が豊富でないといっても、絵ならばなんでも見られるし、そこに数年の差はないはずである。

 福音館のサイトで『きゅうりさん あぶないよ』は、

きゅうりさんの変化する姿が楽しい1冊
 きゅうりさんが歩いています。動物たちが、「きゅうりさん そっちにいったら あぶないよ」といって、いろいろな物をくれます。帽子、グローブ、ベルト、バックパック、ほうき……。みんなもらったものすべてを身につけると、姿がすっかり変わってしまったきゅうりさん。街に辿り着いたきゅうりさんが最後に遭遇したものは……。色彩豊かな色使いが想像力を掻き立てます。

と、紹介されている。
 絵からの情報を読み取る能力を幼児期から身につけていくことによって、絵本を楽しめる能力が育つ。『バムケロ』シリーズを楽しんだ記憶のある学生は、絵を読むことができているのだ。
 第二章「絵本をめぐる対話」は、5つの対話と著者へのインタビューで構成されている。
 小野明の「別冊太陽」『一〇〇冊の絵本』の編集に触れての発言を引いておく。

小野 ……日本の絵本のイメージで、名作とかロングセラーとかいうのは、だいたい五十年代の終わりから七十年代の終わりまでの二十年間ですよね。その二十年間にでたのが、『ぐりとぐら』(中川李枝子 文、山脇百合子 絵、福音館書店)とか『わたしのワンピース』(西巻茅子 作、こぐま社)とか、もう永遠といわれるロングセラーはだいたいこの時期にでていて、七十八年以降はあんまりでていない。それは絵本の衰弱なのか、それとも名作やロングセラー中心のいい絵本とか、ブックリストに引っ張られて見えていないのか。それを確かめたかったんですね。(P119)

ということで、小野は1978年以降の、画家が文章も書いている絵本から、日本と外国の各50冊を選んだ。

小野 ……子供のためにというのをいろいろな形でとらえたときに、子どものためになにかをつくっていくという意識のほうが強いんじゃないか。そうすると、そのための方法論というのは、七八年以前に、日本で名作といわれている絵本で、ほとんど出尽くしている感があるんです。方法論は揃っているんじゃないか、と。で、しかもその当時は作家にも編集者にも活気があったんでしょう。熱い、強い絵本がいっぱいでてるし、それが支持されているのは分かります。
七八年以降、絵本の質は落ちているとは絶対思わないんですが、ただその売れ方を見ていると、ロングセラーとか形に残っているものが少ない。結局、絵本というのは作家が新しいものを表現するというよりは、求められているものを世にだしていくという作業が基本じゃないかと、ちょっと思っちゃうくらい、この七八年から二十年間というのは、支持されていないですよ。
土井、澤田 うん。(P121~122)

 そう言われれば、納得せざるを得ない。学生たちに「記憶に残る絵本」をグループで話し合ってもらい、そこで出た絵本をリストにしても、古典・ロングセラーが多い。

 澤田精一のことは『光吉夏弥 戦後絵本の源流』(岩波書店.2021)の著者としてはじめて知った。こちらの本は、抑制された評伝であった。「季刊ぱろる」で出会っていたのかもしれなかったが、記憶にない。(この雑誌が出版された1990年代中頃は高月町立図書館(現;長浜市立高月図書館)の開館直後で、多忙を極めていた。)
 講演もされているので、機会があれば聴きたい。

2022年01月30日

『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』松岡宗嗣.柏書房.2021 残日録220125

 塚森裕太がログアウトしたら』の第2章で「アウティング」という言葉がでてくる。この章で教師の小山田は娘がレズではないかと疑い、同僚の梅澤との話の中でそのことを伝える。梅澤からその行為はやってはいけない「アウティング」だと指摘される。小山田は研修で学んでいるはずだったが知らなかった。妻にも指摘される。
読んでいる私もその言葉は記憶になかった。してはいけないことだと分かっているが、そういう言葉があることを忘れていた。
松岡の本のジャケットでは「アウティング」は「本人の性のあり方を同意なく第三者に暴露すること」とあった。
「はじめに」のところで、

二〇一六年、アウティングによって一人のゲイの大学生が転落死した。「一橋大学アウティング事件裁判」が報道されて以降、性的マイノリティの当事者が、なくなった大学院生に自分自身を重ねる少なくない語りを見かけた。なぜ「もしかしたらあのときの私も」と記憶を重ねるのか? それは、アウティング被害がそれだけ当事者にとって身近な事象であり、かつ、生と死が交差する紙一重な瞬間であること、そして、たまたまその「分岐点」を乗り越え、これまで生き残れたにすぎないという想いを表しているのではないか。」(P5)

と書かれている。この事件をきっかけにしてこの本は生まれたと言える。事件の経緯と判決にページが割かれている。アウティングした当事者とは和解が成立したが、大学側の責任は問われることはなかった。
本書にはいろんな事例が出てくる。
「出生時は『男性』と割り当てられたが、二〇代で性別適応手術を受け、二〇〇四年に法律上の性別も『女性』に変更し、名前も変更した」当事者が、2013年に看護助手として働き始めた病院の上司から「男性だったこと」を職場で要求され、それを拒んだが、十数人の同僚の前で勝手に暴露――アウティングされた事例。
同性と付き合っていた地方の女子高生は友人がそのことを教員に暴露してしまい、そのご、教員から「同性愛が他の生徒にうつる」などと言われ、クラスの授業を受けることが出来なくなった上に、住んでいた親戚の家にまでアウティングしたという事例。などなど。
また、自治体に「アウティングの禁止」やカミングアウトの強制やカミングアウトをさせないようにすることの禁止」を明記した条例が広がり始めたこともこの本で知った。国レベルでは2019年5月に「改正労働施策総合推進法(いわゆるパワハラ防止法)」が成立したが、参議院での可決の際に、附帯決議として、以下のことが記された。

職場におけるあらゆる差別をなくすため、性的指向・性自認に関わるハラスメント及び性的指向・性自認の望まぬ暴露であるいわゆるアウティングも雇用管理上の措置の対象になり得ること、そのためアウティングを念頭に置いたプライバシー保護を講ずること。
(P108)

著者の松岡は「おわりに」の中で、

本書を書くにあたって、やはりブレたくなかったのは、アウティングが「命」の問題だと言うことです。アウティングされても何も問題が起きず、むしろアウティングされて結果的に「よかった」という場合さえあります。しかし、その一方では、命が脅かされる事態にまで発展することもある。ここには明らかに「分岐点』があります。私はその分かれ道をたまたま生き延びたと思っていますが、その「たまたま」にも、実は構造的な問題がひそんでいることは忘れてはいけないと思います。
性的マイノリティを取り巻く法制度、家族・友人・地域のコミュニティ、収入や教育環境など、政治的・文化的・経済的な要因が、その「たまたま」を左右すると言えるでしょう。こうした点についてはあまり触れることができませんでした。
シスジェンダー(性自認と身体的性が一致している人―明定義人)の男性でゲイであるという立場上の「発言」のしやすさもあります。アウティングの問題を論じる上でも、自身の立場に近い視点が中心になり、例えばレズビアンやトランスジェンダーなど、他のさまざまなジェンダーやセクシュアリティの人々の経験や視点を本書で十分に掘り下げられたとは言えません。(P228~9)

と書いている。
それぞれの立場からの発言が足りないのだろう。

『はじめて学ぶLGBT 基礎からトレンドまで』石田仁.ナツメ社.2019 でも「一橋大学アウティング事件裁判」が「当事者を追い込むアウティング」として取り上げられています。「アウティング事件は単なる失恋だったのか?」という問いを立てて、

友人が言った言葉を手がかりに考えてみましょう。
「おれはもうおまえがゲイであることを隠しておくのはムリだ。」
 まず、仮にこの文を「おまえが異性愛者であることを隠しておくのはムリだ」にしたらどうでしょうか。文は有意味でなくなります。よってこの言動はセクシャリティのアウティングです。では次に、仮に告白した側がじょせいだったとして、「おまえが俺を好きであることを隠しておくのはムリだ」にしたらどうでしょうか。今度は、異性間であったとしても、当人の好意を第三者に暴露したことに変わりありません。
 よって友人が行なったのは、セクシャリティと好意のアウティングです。失恋や同性愛を苦にした事件に矮小化されるべきではありません。(P40)

としています。

2022年01月25日

「義憤について、肯定について」村瀬学.『飢餓陣営』No.54 残日録220119

村瀬学が斎藤幸平『人新世の「資本論」』について論じている。

 以上のような斎藤幸平『人新世の「資本論」』が、今、多くの若者に読まれているのは、「資本論」を数式じみたものとともに紹介するようなことを一切しないで、半分学問風、半分ジャーナリズム風に書いていて読みやすくされていたという事がまずあったと思います。
 しかしそれ以上に、顕著なのは、この本の構成がとても明快にできているところに、若い読者が魅せられたのではないかと想います。「明快に」というのは、この本には「悪者」がつねにしっかりと見つめられていて、読者が忘れそうになると、それを思い出させるかのように一定のリズムで、この「悪者」が喚起させられるように仕組まれていたところです。
 その「悪者」は、二者あって、一つは「資本主義」で、一つは「成長神話」、ということになっています。なので、著者が取り上げる多くの先行研究者の理論も、その説明に読者が退屈を覚えだす頃を見計らって、この2つの尺度がつきつけられて、「そうは言うものの、この研究者は結局は資本主義を認めており、その結果〈脱成長〉に向かうことができず、根本問題である〈地球温暖化〉をとめることができない理論になっている」と糾弾されることになり、読者は、そうそうそこなんだ! と認識を新たにするという読書体験を続けることになります。
 ある意味ではドラマ『水戸黄門』のように、話の終盤になると、やおら「印籠」が持ち出され「この紋所が目に入らぬか」と読者につきつけるような構成です。その「印籠」には、「資本主義」と「成長神話」の紋所が入っていて、それをみたら、ひれ伏すしかないような絶対的な正義を喚起させる役割を果すことになっています。私の好きな『座頭市』もそうでした。「市」の居合切りの前では、どんな巨悪党でも、一刀両断されずにはすまされませんでしたから。
 わたしは斎藤幸平『人新世の「資本論」』を、ドラマ『水戸黄門』『座頭市』などと比べて、なにか不当な評価をしようとしているわけではありません。私などは特に『座頭市』が好きなものですから、そういう意図は全くありません。ではなぜ、そのような比較をするのかと言いますと、『人新世の「資本論」』を私は「アカデミックな演芸」のように読み終えていたからですし、そういう風に読むことが、この本の正しい読み方ではないかと思ってきたからです。「アカデミックな演芸」といっても悪い意味では無く、ヴォルテール風に言えば「哲学コント(演芸)」のようなものとして受けとめるのがいいと思って来ました。
 というのも、こういう「演芸」には「現実」とは別に、「義憤」をかき立てるような意図が至る所に込められていて、私は若い頃に、こういう「演芸」に触れておくことは大事だと思ってきました。わたし自身の学生時代を思い出すと、はっきりとそのことはわかります。私自身の体験は、「全共闘」や「大学紛争」、「反帝反スタ(反帝国主義反スターリン主義)」の体験であったりしたもので、総体としていえば「左翼体験」と言ってもいいと想いますが、それは「若気の至り」ではなく、若いときに感じる世の中の矛盾のようなものに対する「義憤の体験」としてあるものだったからです。
 私が斎藤幸平『人新世の「資本論」』をあえて「演芸」と呼び「義憤の書」としてよむのがいいと言うのかというと、「現実」はまた別のところにあると強く感じる所があったからです。(p173~4)

 村瀬は、斎藤の本で、格別に妙に気になっているところがある、として「それは「資本主義」の弊害を述べる中で、「人間らしい仕事」が出来なくなっていることへの批判をさまざまな例を上げて述べているところ」を指摘している。
「世界は『資本主義』のもとに動いているから、すべての人は『奴隷』のように働いていることになります。そうすると、こういう生活のどこかにしろ『肯定』するということは、『奴隷制』を肯定することになってゆきます。」として、論を進めます。

 社会に「義憤」を感じる次元と、「生きていること」を「肯定」する次元は、どこか深く異なっているのではないかということなんですね。それだから、子供の誕生日に勝ってきたケーキを前にして、このケーキの上に乗っている「おめでとう」の書かれたチョコレート板を指差して、これはアフリカの児童労働の盛んなココナツ農園で採られてものから作られているので、うれしそうに食べるべきではない、などと親は言ってはいけないということなんですね。誕生日を「肯定」すべき日に、そんな「否定」的なことを言って、大事な存在感をぶち壊すわすことがあって良いものかと私なら思うからです。(p181)

 そして、吉本隆明を引用している。

 第三世界の飢えにたいして責任があるのは第一に第三世界の国家権力であり、つぎに責任があるのは日本資本主義国家の国家権力であり、そのつぎに責任があるのはたぶん日本の大衆や知識人で」あるので、日本の知識人の責任までもってくるためには少なくともいくつかの壁をとおってかんがえなきゃいけないというのがぼくのかんがえ方で、それは何ら倫理の問題ではないんじゃないでしょうか、倫理が介入する余地は本当はないんですよ。個々の知識人がいかに苦慮するべきかという問題としては提起されない。(p182)

30数年前のこと。新宿の茶店でメニューに知らないドリンクがあったのでなんだろうと思って注文したところ、一緒に座っていた知人が、そんなの注文するのはおかしい、という。なんで? と聞くと、あれは南アフリカの児童労働によってつくられたものだから、それを注文するのはおかしい、という。知らないものだからどんなもんだろうと思って注文してみた、と言ったが、今度は、知らないのがおかしい、ときた。
あれは「義憤」だったのだろう、と思い出した。
 もちろん「知識人」に対してもそうだけれど、「知識人」ではない私に、「義憤」をぶつけても、何が生まれるわけでもない。

 私はこの本を読む多くの若い人が、グローバル化する資本主義が、地球の資源の破壊や気候変動をもたらし、多くの人々の生活を貧困に陥れていることの指摘をしていることに、共感し、そういう世界になってきいていることに大きな「義憤」を感じることは良いことだと思っています。
 でも何かしらこの本に奇妙な違和感を感じるのかと言いますと、著者がこの本を「演芸商品」でhなく、何かしら「思想書」のようなものとして提出している感じがするところなんです。その「奇妙な感じ」が現れているのが、六ヶ月で三〇〇〇万円の収入を得てしまうことの「システム」についてです。著者にたずねても、誰にたずねても、それは「違法」ではなく「合法的」なものと認めるものでしたが、実はこの理屈は、コカコーラやWindowsのようなパソコンを売って巨万の利益を得る資本家の言い分と少しも変わらないということなんですね。彼らも少しも「違法」なことをしているわけではなく、まったく「合法的」にそういうことをしているだけの(こと)ですから。そしてそれが「資本主義」のシステムの受け入れから生じている「富」にすぎないということなのです。
 ところが斎藤幸平の本は、この「資本主義」を根本点に否定売ることで売り出しているのに、ほんの出版が大手の出版社の大資本のシステムを受容するところで出版、販売されているものですから、「売れる商品」の性格を持てば、それは巨万の富を得るところに自動的に向かってしまいます。そうして「売れるシステム」そのものを否定しているのですから、誰が見ても不思議にうつるのではないでしょうか。
 多くの現実的で良心的な知識人は、この「資本主義」という化け物の「合法性」までは否定できないでいるなかで、突然に「資本主義」そのものを全面否定する「理論」で登場してきて、そしてちゃっかりと巨万の富を得るということになっていれば、それはいくらなんでも、おかしいのではという疑問符がつくことになると思います。でも私は、それを「理論」書と考えないで「演芸」と考えれば、この本が根本に抱える矛盾に「怒り」をもつよりか、こういう「売り方」もありなのだと認められるように感じてきました。
 そういうふうにこの本を読まないと、ここに書かれている極論やアカデミズムの言葉として操作される用語軍(資本主義、脱成長、コミュニズム、気候正義など)が、著者が繰り返し否定しているかつての古い左翼が使っていた扇動用語に似たような性質をおびているところがとても気になってしまうからです。そもそも、「資本主義」が、従来の国家の枠を越えてグローバル化してゆく道筋には、見返りとしての国家の利益、後進国の国家の利益、政治的権力者の利益、資本家へ税金優遇策、富裕層からの賄賂(政治献金)、巧妙な税金逃れ、などなどの「異様な欺瞞」が働いていて、それが「資本主義」と手を組んで実現してきた環境破壊や民衆の貧困があって、その「非」nすべてが「資本主義」という一言でくくられるものではない事は、私たちが戦後の左翼運動とその批判を通して学び得て来たことでした。(p185~6)

 この論考は、この雑誌を編集・発行している佐藤幹夫の問に答えるという構成になっており、同誌に往復メールとして佐藤の返信メール「『新たな時代のマルクス』をめぐって――賢治と吉本隆明と斎藤幸平」が続いている。

2022年01月19日

『塚森裕太がログアウトしたら』浅原ナオト(幻冬舎.2020)残日録220112

著者の『御徒町カグヤナイツ』ではこんな中学生はいないだろう、と灰谷健次郎『太陽の子』以来、数十年たって久々に思ったが、『塚原裕太…』のほうは高校生の話で、まあこっちは成り立っているなあ、と思った。でも内省として描かれる自己分析が出来すぎというところはある。
塚原裕太という主人公は「顔が良くて、勉強ができて、スポーツができて、性格が良い」その彼がインスタでゲイであることをカミングアウトする。そのことは、多くの人に肯定的に受け止められる。
塚森を含む5人の一週間の話。

第1章.清水瑛斗は塚森と同じ学校の生徒で隠れゲイ。2000円で団地の4回でタバコ臭い男とセックスをしている。塚森のカミングアウトに匿名で「こいつと同じ高校のゲイだけどこういう自分に酔ったカミングアウト本当に迷惑。人生充実しているキラキラマンには話題にされたくないって感覚がわからないのかな。みんなお前みたいに強いわけじゃないんだけど」と悪態をつく。
塚森はそれに反応して、高校の昼休みの全校放送で、隠れゲイがこの学校にもいることを伝え、当事者を傷つけてしまうようなことはしてほしくない、と伝える。この発言は拍手を持って向かい入れられる。
バスケットボール部のエースの塚森が週末の試合で精彩を欠く。清水は僕のせいじゃない。と思う。どうして精細がないのかは、謎として最終章まで持ち越される。
終わりの頃に、第3章の内藤まゆが登場する。「塚森先輩が何を考えているのか、知りたいんだ。なんでカミングアウトをしたのか。なんで全校放送を流したのか。カミングアウトも全校放送も大成功なのに、なんで今日はあんなに調子が悪いのか。そういうの、ちゃんと理解したい。それがすごく、自分にとって大事なことな気がするんだ」と清水が内藤に訊ねる。「好きな人のこと、分からないから分かりたいと思うし、分かろうとするんでしょ」と内藤は答える。
清水は「僕は自分を認められないから、自分のことが嫌いだった訳ではない。/自分のことが好きだから。/自分はもっとやれると信じているから。/だから、何もできない自分を認められなかったのだ。」というところに行き着く。これはネガとポジとして終章にまで届いている。いい伏線になっている。

第2章.小山田貴文は娘がレズビアンかもしれないと疑う藤森の通う高校の教員である。親しいバスケの顧問教員梅澤を介して、藤森に接近する。梅澤は塚森のしようとしている全校放送について「立派すぎるんだよ」と言う。小山田はスピーチを聞いて「内容も話し方も高校生とは思えない素晴らしいスピーチだと感じた」。「あいつはどういう顔でスピーチを聞いていたのだろう。食堂に入るはずの梅澤を思い出しながら、弁当のプチトマトを頬張る」。
「同性愛の知り合いとの接し方に困っている」という小山田の相談に塚森は「機械みたいな出来すぎな」返答を返す。「ああいう風に世界を俯瞰できる子」という小山田の言葉に、梅澤は「決定的に意見を違えている」。その梅澤に小山田は「お前は目の前の塚森くんを、ありのままに認めてやればいいんだ」と言う。
試合の前日に「塚森くん、と揉めた」武井進が登場する。揉めた内容は第4章になるまでわからない。小山田は「何もしなかったから、なるようになった。それだけなんだよ。人と人は放っておいたら離れるものなんだ。だから繋がりたい人とは、必死になって繋がらなくちゃならない。僕はそれに気づいていなかった」と、家族であるから繋がっていると思っていた己を顧みつつ、「もし君が、まだ塚森くんと繋がりたいと思っているなら、必死にならなきゃいけないよ」といい、武井と自分に、まだ「間に合うよ」と言う。
塚森の物語に巻き込まれた梅澤は「俺も色々、分かったことがある。分からないことも」と小山田に試合が終わったら話す、という。「負けちまえばいいんだ」と呟く。

第3章.内藤まゆは妻森ファンの女子高生。塚森がゲイでも応援し続ける。インスタでのゲイとカミングアウトした塚森に「感動しました! 塚森先輩がどんな人でも、私は塚森先輩を支え続けます」と即刻コメントを打つ。塚森の追っかけとして分かる範囲の試合は観戦する。それを最優先している。内藤はファンと自称している。バスケのマネージャーの佐伯先輩が塚森のことを好きだと分かっている。
「私たちきっと、裕太のことを何も見ていなかったんだよ。自分勝手に見ているつもりになって、自惚れていただけ。これからどうなるにしても、どうするにしても、まずそれを認めないといけない」という佐伯に、「わたしは違う。わたしは塚森先輩のことちゃんと見てきた。ゲイであることに気づかなかったのは、単に気にしていなかったからだ。わたしは塚森先輩と付き合いたいわけではないから、塚森先輩が誰のことを好きでも良かった。自分を好きになってほしかった佐伯先輩とはそもそもポジションが違う」と言い聞かせる。
けなげだ。
全校放送のあった日のバスケの練習は大量のギャラリーで溢れている。「語るカリスマと大衆という関係が、塚森先輩の存在力によって作り上げられた」と内藤は思う。塚森が練習の妨げになるので、とギャラリーの退場を促す。
試合当日、練習の見学者を追い返したことを、塚森から「内藤さんにはどういう風に見えてたかなと思って」と聞かれる。「素敵だ」「いつも通り立派で、カッコよかったです」と答えると、「ほんの一瞬。/パラパラ漫画に一枚おかしな絵が混ざったみたいに、塚森先輩の表情がほんの一瞬だけ歪んだ」。内藤は気になった。
精細のないプレイをする塚森に、去年のインハイの準決勝を思い出し、「あの時は塚森先輩が手を振ってくれた。今度はわたしだ。そういう想いで笑みを浮かべ、ひらひらと手を振る。/塚森先輩が、ぷいと頭を下げた。」
内藤は、「どうしたって好きになれない相手に好意を向けられて、差し入れなんか送られて、さぞ鬱陶しかっただろう」と気づく。
「好きじゃん。/わたし、塚森先輩のこと、めちゃくちゃ好きじゃん」と気づく。
その後、清水に会い、武井とすれ違い、小山田と会う。

第4章.武井進はバスケ部の一年生。塚森のカミングアウトをどうしても受け入れられない。
阿部先輩と塚森先輩がストレッチをしている。「余計な情報が入っているせいで特殊な意味を帯びて見える。阿部先輩は今、どういう気持で塚森先輩とのストレッチをしているのだろう。塚森先輩は今まで、どういう気持で阿部先輩にストレッチの相手をさせていたのだろう。考えなくてもいいのに、考えないほうがいいのに、つい考えてしまう」武井だった。
阿部先輩が「俺が言いたいのは、お前らにはあいつの味方をやって欲しいことだ。誰かにあいつのことを聞かれたら褒めてほしい。バカにするやつがいたら止めて欲しい。あいつがすごいプレーヤーで、すごいいいやつなんだって、そう伝えて欲しいんだ。俺はあいつがそう言われるだけのことをやってきたと思っている。お前達だってそうだろ。あいつのこと、すくなくとも嫌いでないだろ」と言う。同意しない武井がいる。

武井が塚森にひどいことを言った。
小山田先生は「間に合うよ」「きっと、間に合う」と言う。

「おれは許されない事をした。本当ならこのまま部活を辞めて、責任をとらなくちゃならない。だけど辞めない。しがみつく」/流れに任せてはいけない。なるようになってはいけない。何も選ばなければ離れて行ってしまう人と、これからもきちんと繋がり続けるために。/「そのためには、無理をしないわけにはいかないだろう」と言い切る武井だった。
塚森を「バスケの神様」だと思っていた武井は、「貴方はやっぱり、神さまではない。/人間だ。おれと何も変わらない、ティーンエイジャーの少年。それに気づかなかったおれに、気づかずめちゃくちゃにしてしまったおれに、謝るチャンスを与えて欲しい。もう手遅れかもしれない。間に合わないかもしれない。だけど試すことすらできないのはイヤだ。だから、この試合は――/――勝ってください。」

ここまで仕込みに仕込んだ。伏線もそろっている。

第5章.当事者、塚森裕太。バスケ部エースで人気者。カミングアウトもあたたかく受け入れられ、完璧な「塚森裕太」であり続けようとするが……。

あまり小説は読まない。こういうの、山田詠美『学問』以来かな。セックスから学ぶところはないけれど。
もう少し書き込むと、苦しさが勝ってしまう。いいところでまとまりをつけているなあと思った。
梅澤先生の章はさすがにあるわけがないだろう。スピンオフならありか。

2022年01月12日

頌春 2022 残日録220101

頌春
植物が冬眠するのだということ、鍬で耕され、肥料をもらい、移植され、挿し木に使われ、剪定され、支柱にくくられ、種が熟さないように咲いた花を切られ、枯れた葉を取ってもらい、病気から保護されているものだということを、正確に知っているものはいない。
素人園芸家になるには、ある程度、人間が熟していなければならない。
おまけに、自分の庭を持つことが必要だ。
年配になるとどこかに庭らしきものを持ち、そこに何かを植える。その何かは、新しい年を迎えるごとに高さと美しさが増していく。ありがたいことに、私たちはまた一年齢をとる。
                      種本:チャペック『園芸家12カ月』

2022年01月04日

2021年・年の暮れ 残日録2101226

昨年から、逆流性食道炎や肺血栓、それに加えて貧血症を併発していたのだが、ようやく回復ということになった。体調も少しずつ良くなっている。
年をまたいて、2月の研究集会での発表と4月末までの原稿化に取り組んだ「児童サービスにおける『子ども観』」が、この12月に「図書館評論No.62」に収録された。
3月に加古川市立図書館での「江戸時代を楽しむ」という講演をした。これは、コロナ禍以前に木之本まちづくりセンターでやった日本歴史入門講座①~④の続編で、内容を90分に濃縮したもの。受講生に小学校の同級生が来ていて、同窓会での軽薄な印象との違いに驚かれたそうだ。まあ、ちょっと値の張るスーツ姿だから驚いたことだろう。
5月以降は読書に明け暮れていた日々だった。読了するつもりだったブルデュー『ディスタシオン』は夏頃に手放してしまい、しばらく読む気になるのを待つことにした。
宮崎県立図書館からの県内の図書館員への研修依頼があり、秋ごろから12月の遠隔の講演に向けてパワーポイント作成。テーマは選書だった。宮崎県立看護大学の初代学長の薄井坦子の本が宮崎市立に2冊蔵書としてあるけれど(他の図書館にも1冊所蔵)、県立図書館に未所蔵なのには驚いた。感想は好評だったが、どれだけ実践につなげていただけるか、だろう。コロナ禍以前に高知県で選書のワークショップもしていたが、現場を離れて10年近くになる。代わりの人材が出てくればいいのだが、と思う。
年賀状を投函し終え、ようやくのんびりした気分になっている。
大学の非常勤講師はあと一年。2023年3月末をもって図書館関連の団体から少しずつ脱会しようと思っている。残るのは仮説実験授業研究会と縮小社会研究会あたりだろう。
図書館関連で残しているのは「ヤングアダルト・サービス」についての論考で、来年の課題となるだろう。本来は来年の研究集会で発表し、来年内に論文化するのがベストだが、青少年に対する昨今の研究を追えていないので一年延ばすこととした。
アベノミクスの成長戦略については、以前「「成長戦略」と徳川吉宗「新規御法度」」としてブログに書いたが、TV番組の「博士ちゃん」を見ているとこれからの日本にも期待が持てる気がしている。いまのところ既存の知識を独自に集積している段階だが、成長するにつれて発明・発見につながるだろう。好奇心が基礎学力を自ら鍛えているところがいい。
電気工事士第一種(小5で)・第二種(小3で)を取得した「博士ちゃん」は父から「幼稚園児に電気設備の専門書を見せてもわからないので、『読み聞かせ』をしてもらっていたという。小学校に上がる頃には、「自分で読めるようになりたい」と、専門書の難しい漢字を書き取り、意味を調べるようになったという。
この番組で、同じようなことに関心を持つ子どもたちのネットワークが生まれたりしている。それもいいなあと思う。

2021年12月26日

『小説岸信介常在戦場』池田太郎(社会評論社.2014)残日録211225

占領下のGHQでの話。
「……次の点でも我々(=ウイロビー+ジョージ+サカナリ+河辺虎四郎+有末精三+服部卓四郎←明定)の意見は完全一致した。現在GHQ民政局を中心にして行われている日本の過度の民主化政策は間違っている。極東軍事法廷が日本の旧体制を一掃した場合、日本の復興は完全に十年遅れる。そうなれば、いまソヴィエトの援助を受けて中国大陸で大攻勢に出ている中国共産党の影響を日本はモロに受ける。米映画日本の占領を解いたトタン、日本は共産化されるだろう。戦争犯罪を観念的に規定し優秀な人材を根こそぎ起訴するならば、日本は弱体化し、二度と立ち上がれなくなる」(P135~6)

起訴から外す候補に「岸信介」が入った。

岸への訪問を縫うように、ウイロビーの移行を受けた河辺虎四郎がジョージたちのセクションに一つの提案を持ち込んできた。
石原、登場、岸、鮎川以前から満州入りしていて、満州の石原・岸・鮎川を知る人物はGHQ第一生命ビルと目と鼻の先、日比谷公園内に焼け残った日比谷図書館に努めていた。彼にあって話を聴こう、というのだ。

ジョージとサカナリは河辺の案内で、図書館三階の日本図書館協会理事長室に、旧満州鉄道奉天図書館長を務めた衛藤利夫(六三)歳を訪ねた。
 河辺によれば、絵等は二十年間満州で満鉄図書館のライブラリーマンとして過ごし、満蒙に関する書籍の一大収集家として知られていた。スコットランドから満蒙に入った伝道師ヂュガルド・クリスティの著作「奉天生活三十年」を、生きた日本語に翻訳した人でもあり、まさに満州の字引的存在だという。
 河辺は、ジョージとサカナリがGHQの情報部員であることも、隠さず衛藤に紹介した。
(略)
「天皇を筆頭に、東条さんや岸さん、私も含めて日本人全体がこの戦争に責任があるのだと思っています。」
 ジョージは驚いた。こうハッキリといった日本人には初めてあったような気がする。サカナリも頷いていた。                         (P155~157)

 衛藤は政治と距離を持つ図書館人ではなかった。杉原千畝とも関わりを持ち、政財界との交流も深い。戦前の岸との接点を引用しておく。

開戦から2年を経た支那戦線は、表向きは日本の連勝だが、お口お口へと誘い込まれ、戦線が異常に長く伸びるだけで完全に行き詰まっていた。
その状況を見て、1939年(昭和14年)8月末、鮎川(義介;内地で評判の大衆投資会社・日産総裁←明定)は満州重工業新京ビルの奥まった一室で「ユダヤ問題研究会」を開いた。岸信介、安田大佐、片倉衷少佐、衛藤利夫館長、ユダヤ人協会のヤボ、鮎川の秘書美保勘太郎が参加した。
(略)
 「関東軍と国務院は満州で強力な統制経済を推進すると言ったが、期待した内地からの資本の投下は行われなかった。そこでわし(鮎川←明定)が満州へ来た。一方、アメリカでは日本軍の支那侵攻に避難の声が高まっておる。アメリカも支那を市場として考えておるからだ。したがってこの状況を一撃に打開する国際的で合法的な一手こそ、米軍のユダヤ資本の満州への投下である! アメリカ人もそう考えておるのだ」
 この時、それまで下を向いていた衛藤が顔を上げた。
 「総裁。一つ尋ねしたいことがあります」
 「衛藤館長。何なりどうぞ」
 鮎川が手を差し伸べた。
 「その資本投下への担保は何でしょう」
 「担保? そりゃあ衛藤さん…」
 鮎川が不意を衝かれて言いよどんだ。
 「米国のユダヤ資本投下に対する担保です」
 「何を言う!」
 安田大佐が思わずステッキを握った。
 「そりゃあ何ですな。担保はこの満州だ。それ以外にありません」
 岸がサラリと言ってのけた。
 斎藤は岸に向き直った。
 「岸さん。その満州は誰のものです? 少なくとも日本のモノじゃぁない。石原中佐たちが一夜にして銃弾の力で奪ったモノじゃないですか! わたしの三男が最後まで身から離さなかった聖書の、栞の挟まれたページに書かれておりました。『剣を取るものはみな、県によって滅ぶ』。剣で奪い、それを担保にし金を借りれば、わたしたち日本人は火点け強盗、人殺しの類になる」
 ハラハラしてヤポが叫んだ。
 「衛藤さんの息子さんは先週、病院で亡くなられたんです!」
 「息子さんが?」
 鮎川も驚く。
 「わたしと一緒にユダヤ教会に通い、ユダヤ人大会を応援してくださった方でした!」
 片倉がニヤリとした。
 「関東軍は満州を支那から切り離し。傀儡政権を作った。つまり満州は我が領土じゃないですか! これは領土を担保とする正々堂々の商取引ですよ」
 しかしえとうは引き下がらなかった。
 「満州は、満蒙の人の土地、財産、権益、資源です。世界中が知っている! だから、ユダヤ資本の導入も、日米による詐欺、掠奪、強盗の類ですよ!」
 安だが唸った。
 「詐欺、掠奪、強盗だとぉ?」
 鮎川が手を上げて安江を制した。
 「衛藤館長。仰る事はわかる。われwレは当然満人からするとモラルを問われる。それには答えなければならない」
 「ならばお聞きします。鮎川さんの目的は何ですか? 五族協和、王道楽土は嘘っぱちだった。それに代わる目的は何ですか」
 その時、それまで黙っていた岸が割って入った。
 「衛藤さん、あなたの目的は何です?」
 衛藤が岸に向き直る。
 「逆にお聴きします! 岸さん、あなたは満州町の総務副長官だ。あなたは満州の人々に何をするためにここへきたのか? 何をしているのか? あなたは満人のために何をしたいと考えるのか? 満人のクーリーのために何をするのか?」
 「私は満人のためでではない、日本人のために満州に来たんですよ」
 「日本人のため?」
 「そうです。だから満州へ来た」
 「日本人のためなら、日本にもクーリーはいる。その人たちのためなら、満人のクーリーのためもあるんじゃないですか?」
 岸が腹を抱えて笑った。
 「では聞く。衛藤くん、君の目的は何だ。満州をどうすればいい?」
 「満州自由経済圏。十年後までに満州に産業を整備し、関東軍は引き揚げる。永世中立国満州国を世界に宣言する! クリスティの理想には遠く及ばない。でも、その第一歩がユダヤ資本の導入ならば私は賛成です!」
 やすえが愛用のステッキを握りしめた。 
 「ええい。四の五の言いやがる! てめえはヤソと一緒か! 外へ出ろ、根性を叩きなおしてやるッ」
 ヤポが安江のステッキに縋った。片倉も安柄と衛藤の間に割って入った。衛藤はやめなかった。
 「鮎川さん、わたしが貴方についてきたのは、マネーでサーベル組を黙らせると仰ったからです。ところが満州重工業は今やサーベルに使われている。これではわたしはついていけない」 
 岸は何も言わず微笑していた。
 鮎川が厳しい顔で乗り出した。

「わたしには議論をする時間はない。なすべきはユダヤ資本の一日も早い満州への導入、日米戦争の回避だ」
 岸が続く。
 「ユダヤ資本の投下、アメリカによる中国戦線の仲裁、ですな」
 鮎川が大きく肯いた。
 「こうなったらわしが動く。本年中にヨーロッパへ旅立つ。機を見てアメリカへ渡り、ローズベルトに会う」
 「ローズベルト!」
 全員に衝撃が走った。
 「ローズベルトに直接、資本投下とシナの和平工作を頼む。衛藤くん、どうだろう?」
 衛藤は無言だった。
(P207~214)

 長い引用だが、中国における衛藤については前々から少し関心を持っていた。内山完造
の本のなかに魯迅などとの対談に出ていることを20歳代前半に知っていたから、ただの
満鉄奉天図書館長というわけでもないなあ、とその立ち位置に興味があった。
この小説に登場する衛藤に出会えて、岸のような国家社会主義的な統制経済を唱える「
革新官僚」や満鉄調査部などへの関心が少し蘇った。


2021年12月25日

『昭和演劇大全集』渡辺保・高泉淳子(平凡社.2012)残日録211221

この本のなかに松竹新喜劇の『船場の子守歌』が出てくる。

船場の薬問屋祝い天心堂は、岩井長平が本家からの暖簾わけで一代で築いた店である。長男の平太郎に店をゆずり、長平が二年ほど四国で暮らしていた間に事件が起きていた。腕利きの社員吉田を、本家と類似した薬を販売した廉で店をクビにしたのだが、吉田は長平の孫娘・清子の恋人で二人は出奔してしまった。吉田は通販の仕事、清子は手内職で貸間暮らししながら、もう赤ちゃんも生まれていると聞かされるが平太郎は許そうとしない。そこへ長平が何も知らずに船場に帰ってくる。不始末を隠そうと七転八倒する平太郎一家。何かあると察した長平が、二人のつつましい貸間に一人で尋ねてくる。強情を張るばかりが生き方でないと清子を諭しているところへ、平太郎がやってくる。あわてて曾孫を抱いて物干し台に隠れる長平の障子超しに、平太郎は初孫に会いたいという。曾孫が泣き出し長平が先回りしていたこともわかり、一家はすべてを許しあい元の鞘におさまることになる。(P296)

こういう話です。

渡辺 僕は松竹新喜劇ならではの特色が二つあると思うんですよ。一つは、東京の人間にはそこがちょっと距離感があるとこなんだけど、教訓なんです。あの名作「桂春団治」(昭和二十七年)でも、牡蠣船のところ(後編二幕二場)で、女と金で窮地に立った春団治が、人に笑ってもらう芸だけでええ、と人生訓をいうわけだよね。新喜劇のレパートリーにはどの作品にもああいう人生の教訓があると思う。「船場の子守歌」でも、おじいちゃんが、親と子の絆を説き、可愛い孫への愛情を語って、孫娘を説得するところに人生訓がありますよね。それは偉い先生の人生哲学じゃなくて、町場で生きている普通の市民の人生訓なんです。それがすんなり観客の耳に入って、涙と笑いとに結びついてくるんです。もともと、江戸時代から大坂には富永仲基とか、石田梅岩みたいな町の学者が大勢いたし、懐徳堂みたいな学校もあったわけです。普通のお店の人たちが、そういう学校や、町の儒者のもとに通うのは、町民が商業都市の中で商業道徳上どう生きたらいいかと常に考えていたからだと思うのね。「船場の子守歌」でも、儲けりゃいいってもんじゃないと言っているでしょ。それは現代にも当てはまるじゃないですか。昭和の終わりまで新喜劇が言い残ってきたのは、大阪という町の歴史的背景と同時に、お客と同じ目線で生きてきた市井の人生訓があったからですよ。私はそれが松竹新喜劇の強みであり特色だと思います。(P298)

なるほど、と納得した。人生訓のところで、「そうや、そうや」と観客が拍手するのやった。

渡辺 喜劇はいろいろとあって、ギャグで作る喜劇とか、スラップスティックっていう無意味な喜劇とかいろいろありますよね。その中で関西の喜劇は口立てで面白くしていくシチュエーション喜劇だと思うのね。東京の喜劇は、アドリブではなくて、まず台本ありきなんだから、現場主義と台本主義の違いが、東京と関西の大きな違いだと思いますね。どっちも喜劇としては大事なんです。(P301)

朝ドラ「おちょやん」のモデルだった元新喜劇の役者の浪花千栄子もアドリブの美味い役者だった。芦屋小雁が「浪花千栄子とは舞台でもよくご一緒しました。勝手に演ってしまわはる人やから、有名な監督の映画に出たら大変やと思うわ。小津安二郎の『彼岸花』‘58でも、小津監督がとめてとめて、やっとここまで、という感じと違う?」(『シネマで夢を見てたいねん』P184)と書いている。

この本には、僕が追っかけをしていた太田省吾の劇も取り上げられている。取り上げられた「小町風伝」が初めての太田劇との出会いだった。

襤褸の十二単衣に身をつつんだ老婆が、ゆるい風に身を任せるように、橋掛かりをゆっくり登場する。独り住まいのアパートの一室で、老婆は若い頃の軍人との短い夫婦生活を回想する。朝のラジオ体操が聞こえる中で、大谷が十八年間に三言しかはなしたことのない老婆のしもの世話をしにやってくる。隣の家では父と娘、息子がいつものような朝の食卓を囲み、出勤する風景がくりひろげられる。老婆は再び回想のなかに入っていく。医者がやってきて老婆を診察するが、その不思議な生命力は解明できない。フォークダンスの音楽が流れ、町内は運動会が開かれているようだ。人々が去っていくと老婆が一人舞台に残され、風のありかをたずねるようにひとり去っていく。(P378)

高泉 わたしは先輩から、すごい舞台だから覚悟して、見に行ってご覧いわれて行ったんです(笑い)。最初の出にもうびっくりして、観客がいったいどうなっているのかしらと思った頃にようやく、これは老婆の夢の世界だということがわかってくる。舞台に登場人物が、戸とかいろんな道具を持って登場してくるでしょ。あそこがいいんですね。
渡辺 刺激的でしたよね。
高泉 そして、やっと現実のせりふになる。あれだけ長く音のない時間を過ごした後、声を聞くとほんとにホッとするんですね、劇場で言葉を聞くのは当たり前なんだけど、そのせりふは日常の会話なんですね。がらりと変わるあの手法がすごく印象に残っていますね。
渡辺 この芝居は、幻想の部分と現実の部分、沈黙のところと饒舌なところがうまく重なってよくできているんですね。老婆の幻想t現実の場面、アパートの隣の世界で起きる現実と、老婆の幻想だけで成立してる部分が一つの舞台の中でうまくつながっていきのは太田さんの功績ですね。(P382~383)
高泉 太田さんのほうは、一種のスローモーションですね。
渡辺 スローモーションでやってみると人生の現実、あるいは幻想の持っている虚偽性とか真実が明らかになる。現実を顕微鏡にかけて拡大して細かく見るというのが太田さんの演出なんですね。脳はゆっくりしているように見えるけど、実は、速いところは結構速い。俳優の身体としていえば、能役者は舞台の上で緊張してるから、長い時間は持たないんです。
高泉 あぁ、そうなんですか。太田さんの舞台では、時間のずれとか、その虚構感のズレとかがスローモーションで演じる役者の体で表現されていますね。
渡辺 「小町風伝」の冒頭は、なんで長いんだろうと、それは高泉さんだけじゃなく、観客はみな、私だって思いましたよ。だけどその時間をゆっくりと見ることで、観客は、太田省吾にその世界の一部を開かされたわけだよね。だから、脳と転形劇場はゆっくりしているようだけど、「小町風伝」で佐藤さんが演じている老婆と、能役者の演じる、たとえば、「関町小町」なり「卒塔婆小町」の小野とは、対照的に違うんですよね。(P381~382)

記憶では「地の駅」だったと思うが、大谷石地下採掘場跡で初演した時、セリフのない沈黙劇の緊張に耐えられなくなった観客が、煎餅を音を立てて食べ出したことがあって、近くの人が「静かにしなさい」か「静かにさせなさい」とか言ってざわついたことがあった。その後「クックック」と引いた笑い声がした。こんな不便なところに誘った連中も連中だなあと思った。

2021年12月21日

『真夜中の図書館/図書館を作る』辻桂子 郁朋社.2006 残日録211130

「マ・ヨ・ト」の司書さんはいつも人を見ている。きっとニコニコしたポーカーフェイスで〈僕はあなたの借りる本なんかに、関心はありませんね〉というようにお天気の話なんかしながら本を並べたりしているに違いない。それでいながら、あの人はこの前もあの本棚の前で長い時間立ち止まっていたな、なんてことを頭の隅に書き残しているに違いない。そして、彼女にきっと必要とされるだろうという本を注文し、本棚に並べる。それからあの大きな目をくりっと回して「きっと来る」とまじないをかける。毎日、毎日、図書館の中でこんな素敵な罠をいっぱい仕掛けて「今日は誰が来るかな」とわくわくして待っている。すると、大体1ヶ月、いや3ヶ月もかかるかな、彼女は罠にかかって本を手にする。それが自分のために並べられた本だとは露知らず「この本が読みたかったのよ」とか何とか言いながらカウンターに向かう。それを見た「マ・ヨ・ト」の司書さんは、やれやれと一仕事終えた満足感に浸りながら本棚へ向かい「次はこれとこれ」と本の背表紙を少しだけ前に引き出す。彼女が次にこの本を読んでくれるように……。
 そんな「マ・ヨ・ト」の司書さんの正体はきっと「いそぎんちゃく」に違いない。図書館の本の海に住んでいて、体中から何千本の透明な触手をまちの隅々まで伸ばし「みんなの暮らし」や「まちの悩み」や「子どもの涙」なんかをそっとなでている。夜になると、ビールなんか飲みながら、ふぅーと、ため息をついて、今度買う本のことを考えている。海の広さはちょうどこのコミュニティぐらいあって、浅瀬にも岩場にもいろんな人が住んでいる。月の夜に生まれたばかりの赤ちゃんもいるし、一体いくつになったのか誰も知らない大亀もいる。「マ・ヨ・ト」の司書さんは物珍しそうに、波間を漂いながらいろんな人と友達になる。
図書館の海は、その深いところにコミュニティの遠い昔を抱えている。「マ・ヨ・ト」の司書さんはときには歴史に埋もれて、じっと過去を見ている。かと思えば、嵐の海で危険を冒しながら波を飛び出し、真っ暗な海で灯台の明かりを探す。未来がどっちの方向なのかをどうしても知らなければならないからだ。
辻桂子『真夜中の図書館/図書館を作る』郁朋社.2006年 (p79~80)

辻桂子さんは、出版された時点では、西日本新聞地域情報誌『エルル』記者。司書・生涯学習インストラクター。前原氏の図書館作りを応援する会、「ぶっくくらぶ」代表。「図書館発見塾」代表。などとある。現在も地域づくりアドバイザーとして「ワークショップ型計画づくり」「ワークショップ型研修会」などの「まちづくり」に関わっておられるようだ。(ネット上の同姓同名の情報だから確実なものではないが、福岡県内の「辻桂子」ではあるのだ。)
 図書館員が本を選ぶ、その行為への期待が書かれているといってよいだろう。「未来がどっちの方向なのかを知らなければならない」のだが、そのためには、「予想」を立て「実験」結果(社会の進み方)から学び、社会認識を深めていくしかないのだろう。
 来月は宮崎の図書館員に向けて「選書」の話を遠隔でする。はじめのところで、辻さんのこの部分を紹介することにしている。

2021年11月30日

『迷走する民主主義』森政稔.2016.3 残日録211102 

著者の森は1959年生まれ。私より7才年下。団塊の世代に近い私と違って、全共闘世代と距離をもっての思考の所為を感じる一冊です。

 じつをいうと、本書はもともとずっと以前の政権交代時、民主党新政権が圧倒的な支持を得ていたときに、これではまずいのではないかと言おうとして構想しはじめ、その後、政治の変化に応じて何度も書き直してできたものである。私の政治についても見通しなど、これまで当たったことはないが、今回は例外だった。
 小泉政権以来、新自由主義にシフトした自民党政治に対する批判者として、私は民主党の存在に意義があると考えてはきたが、二〇〇九年の政権交代時の民主党のマニュフェストの内容および政治権力についての考え方に接して、それらには大いに問題があるように思われた。それにもかかわらず、メディアや世論がお祭り騒ぎに浸っているのは、かえって将来的には大きな反動をもたらす恐れがあり、民主主義思想からする問題点を書きとめておこうとしたのが、本書の出発点だった。その結果は予想以上の速さでの民主党政権の失墜であり、そのために本書のもともとの案(本書第Ⅱ部を中心とするもの)は、批判の対象と発表の機会を失ってしまった。
 しかいいろいろと迷ったあと、民主党政権の問題点を検討したもとの部分に、その後書き加えた部分、すなわち、現代社会の変動のなかで民主主義が直面している困難についての考察(第Ⅰ部)、そして金融恐慌や大震災というカタストロフを経て民主主義思想が何かを考えるべきか検討した部分(第Ⅲ部)を合わせて、あらためて世に問うことにした。(p12-13


とあります。
「第6章 民主党政権の失敗——その政治思想的検討」の部分だけでも、民主党関係者にどれほどの影響を与えたのだろうか、と思う。政治家や支援者は本を読む時間がないのかもしれない。また、話題にすることがないのかもしれない。そう思うと寂しい気がします。少しは影響があったのだろうか。そう思うと寂しさが増します。
大平正芳や前尾繫三郎といった政治家であり読書家が語り継がれているのだが、今日では誰なのだろう。村上誠一郎あたりかな。

2021年11月02日

『一度きりの大泉の話』萩尾望都.河出書房新社.2021 残日録211012

 「大泉に住んでいた時代のことはほとんど誰にもお話しせず、忘れてというか、封印していました。/しかし今回は、その当時の大泉のことを初めてお話ししようと思います。この執筆が終わりましたら、もう一度この記憶は永久凍土に封じ込めるつもりです。埋めた過去を掘り起こすことが、もう、ありませんように。」と帯にあります。
竹宮惠子が『少年の名はジルベール』小学館.2016 という『風と木の歌』の連載を始めるまで(1976~)の自伝本を出版し、その中に萩尾望都と共同生活をしていた1970から1972年までの大泉での2年間が書かれており、そのせいで対談やドラマ化の話がもちこまれたりして、周りが騒がしくなります。
当時の大泉(竹宮と萩尾、そしてのちに竹宮のブレインとなる浪人生の増山法恵の3人を中心にしたサロン)のこと、ずっと沈黙していた理由や、お別れした経緯など、封印していた記憶を一度は書くしかない、と思うようになりこの一冊が生まれることになります。
竹宮は『少年の名はジルベール』のなかで、

萩尾さんに関していえば、はたから見ても絵を描くのに迷いというものがないように思えたし、それくらい素直に描いている様子だった。
「あえて言えば……」と、萩尾さんが続けた。
「私、人物を横から見たときの肩の感じがうまく描けないんだよ」
 肩? 横から見た時の肩? 私そんなこと考えたこともないと思った。
「あなたは上手に描けていると思うの。私のは遠近感がなくて」
「え、そう? 描けてないかな?」と言いながら、あらためて彼女の絵をのぞき込んだりしたが、その時はよくわからなかった。
(略)
でもそれは彼女が「あえて言えば」気になっている部分にすぎない。それを補って余りあるものが彼女にはすでに備わっていたからだ。萩尾さんの漫画をえがく技術には、私だけでなく、大泉を訪れる多くの人々が並々ならぬ関心を持っていた。
話の作り方、演出方法にしても、私自身はすごくオーソドックスなタイプだと思うのだが、彼女の場合は、意外なところから切り込んでいた。その切り込み方自体に興味があった。彼女の作品には先が読める展開が少ない。いきなり何かの事件の最中を見せてしまうという、作家として非常に勇気が必要なことを形にしてしまう。(p132-3)

萩尾の『ポーの一族』シリーズの成功に、竹宮は「大きな才能に置いていかれそうな不安を、これ以上感じていたくなかった。」(p167)「わずか2年なのに、大泉での日々は、5年にも6年にも感じられた。/萩尾さんには、彼女に対するジェラシーと憧れがないまぜになった気持ちを正確に伝えることは、とてもできなかった。それが若さだと今は思うしかない。」(p168)

ということで、アパートの契約更新期をもって「大森サロン」を解散することとなった。大森から数駅離れた広いマンションに引っ越した竹宮であったが、「萩尾さんもここから歩いて5分くらいの場所によい部屋を見つけることができたらしく、これでまた行き来できると安心していた。それを聞いて私の心にはうっすらと影が広がっていったが、その闇を見ないように努めていた。」(p169)
マンションで増山と共同生活をする竹宮のところに萩尾や他のマンガ家が訪ねたりする、半径1キロの円内がサロン化したような状態となった。

そのころ、萩尾さんの名を耳にするたびに、耳そのものがギュっとつかまれるような感覚があった。紙面でそれを目にするたびに、何度もその名が心のなかを行き過ぎるのを止められなくて苦しかった。その日一日中、繰り返し、そのことを思い出してしまう。自分でコントロールできない状態に陥っているという自覚はあるのだが、打ち消すことが難しかった。どうすれば解放されるのか。せめて離れたかった。異なる空間のなかにいれば、少しは救われるかもしれないと思い始めるのに時間はかからなかったと思う。

それから……。どうしようもなくなった私は萩尾さんに、「距離を置きたい」という主旨のことを告げた。それは「大泉サロン」の本当に終わりになることを意味していた。(p178)

萩尾は大泉での共同生活解散後、下井草に半年ほど住んだ後で、埼玉の緑深い田舎に引っ越します。

引っ越し後は竹宮惠子先生と増山法恵さんとは交流を断ってしまいました。その後はほとんどお二人にはお会いしていません。また、竹宮先生の作品も読んでおりません。/私は一切を忘れて考えないようにしてきました。考えると苦しいし、眠れず食べられず目が見えず、体調不調になるからです。忘れていれば呼吸ができました。体を動かし、仕事もできました。前に進めました。(以下引用竹宮本p3)

「これは私の出会った方との交友が失われた、人間関係失敗談です。」(p5)と書かれていますが、そう一言ではまとめきれない内容の一冊となっています。

「竹宮先生と増山さんは「少女漫画革命」を目指していました。」(p268)萩尾と竹宮に出会った増山は、二人の才能をもってすれば当時評価の低かった少女漫画のレベルを上げる少女漫画革命が起こせると思っていたのです。

 たぶん、1971年の終わりぐらいから。二人(竹宮と増山—明定)が将来の「少女漫画革命」を掲げてお披露目するのは、竹宮先生でなくてはならない。そういう考えが生まれ、その計画を立てたのではないでしょうか。それは計画を立てるというほど厳密なものではなく、水が流れに沿うように自然に生まれていったのではないかと思います。二人のエネルギーが自然にそういう方向に流れていった。
 画期的な「少年愛新作」つまり『風と木の歌』ですが、これをたけみやせんせいが世に出したら、どんなに世間が騒ぐことでしょう。そのことは二人の気持ちを一つにしたことでしょう。竹宮先生は増山さんの作品への希望(こうでなきゃだめ、あそこのシーンはこうして)を聞いて、さらに自分のセンスと力で作品世界を大きく構築していったのではないかと思います。
 お互いに作品のパートナーとして、なくてはならない存在になっていったのだと思います。増山さんだけでは漫画が描けないので、竹宮先生が必要でしょうし、竹宮先生は博識な増山さんの指導やアイディアが必要だった。二人で画期的な「少年愛新作」を描いて「少女漫画革命」を達成するのだ。そんな風に思ってらしたのではないだろうか、と思います。

 そうなると、うっかりこの世界に引き込んだ私という存在は、気がつくと、邪魔な存在になっていたのではないでしょうか。だって、私にでも誰であっても、先に描かれては困るでしょう。そう気が付いた時、二人は「しまった」と思ったかもしれません。「教えなきゃ良かった」と思ったかもしれません。まさかまさか、『11月のギムナジウム』を描き、『小鳥の巣』を描き、少年愛はわからないと言いつつ、『トーマの心臓』を発表するとは。これは、ふたりにとっては酷いことです。(p268-9)

 末尾に萩尾のマネージャーの城章子「萩尾望都が萩尾望都であるために」があり、そのなかで、

「竹宮先生が萩尾遠征に嫉妬して大泉が解散した」ということを最初に言ったのは私ではなく、佐藤史生さんなんです。史生さんと一緒にアシスタントしていた頃、下井草や岸さんちを行き来していた時だったかな? 「ケーコタンがモーサマに嫉妬して大泉を解散させたんだ、ケーコタンに同調してモーサマを苦しめるんじゃない」との注意でした。(p344)

とあります。
 竹宮本では「嫉妬」のことを記憶の一つとして吐露しているように読める。それに対して萩尾本は、「封印」してきただけに、覚悟を感じさせる読み物となっています。

2021年10月13日

近況雑記 残日録211004

月下旬から9月にかけて、週一の非常勤講師の仕事の準備やら雑事やらで、よくなりかけていた体調を少し崩してしまいました。
授業が「対面」で実施することになっていたのですが、「遠隔」という可能性も出てきたので、せっせと資料作りに取り組んだのでした。  「図書館資源情報特論」100分×7回、のほうは昨年末のPCのデータ消滅からは逃れたのですが、「児童サービス論A・B」100分×14回のデータはうっかりミスで消えてしまっていて、再入力をしなければならないことになったのでした。「遠隔」を想定して昨年より多くの資料を加えたのでした。データだと読む方は大変ですが、当方は貼り付けておけばいいので、データづくりに時間をとりました。ところが「対面」になり、後期のはじめの7回は、1時間目と4・5時間目の授業で、100分×3講義が続くことになります。体力的に厳しい授業で、この膨らんだ資料をどこまで活用するのか、目下、思案中です。
 読書はモリスに関わって『ウイリアム・モリスの遺したもの』(川端康雄.岩波書店.2016)を読み、研究論文を取り寄せたところでとどまっています。
 「飢餓陣営」の最新号で、『例外社会』(笠井潔.朝日新聞出版.2009)『自己決定権という罠』(小松美彦.現代書館.2020)を知り読了。この2冊、日ごろなんとなく思っていることを、少し明瞭にしてくれました。
「演劇界」10月号は「特集 読書の秋 芸談を読もう」でした。なかなか読ませる内容で、もちろん「芸談」そのものではないのですが、評論家たちの力作ぞろいでした。
店の棚に『秀十郎夜話——初代吉右衛門の黒子』(冨山房百科文庫.1994)があるが、これは買っただけのようです。『鴈治郎芸談』(水落潔.向陽書房.2000)これは先年亡くなった藤十郎の襲名記念と帯にあります。今年、亡くなった秀太郎の『上方のをんな』(アールズ出版.2011)、『芸十夜』(復刻版.八代目坂東三津五郎・武智鉄二.雄山閣.2010)この3冊は読了。13世の仁左衛門の芸談も記憶にあるが、まだマンションか田舎の書庫に埋もれているようです。『今尾哲也先生と読む『芸十夜』(田口章子編.雄山閣.2010)はまだ読めていません。
渡辺保氏の劇評を楽しみにしています。手元に『観劇ノート集成 第(1~4)』があります。いつになったら読めることか、と思います。未読の本ばかりが増えております。

2021年10月04日

『「日本型格差社会」からの脱却』岩田規久男.光文社新書.2021 残日録210818

リフレ派の岩田氏の新書が出た。アベノミックス「量的・質的金融緩和」がどう評価されているのか、岩田氏の提案する「政策パッケージ」を読みたい、と思った。

アベノミックスについては、

「安部首相の辞任で、アベノミクスが解決しようとした問題のかなりの部分が解決されることなく残ってしまった。」(p60)「安部前首相は、首相就任当時は「経済成長なくして財政再建なし」と述べて、アベノミックスを始めた。しかし、抵抗勢力が強く、途中から「成長と財政再建は両立する」と言わざるを得なくなり、2014年度に消費税を実施し、2%の物価安定化に失敗した。」(P97)「アベノミックスがデフレから完全脱却に失敗したのは、この2回の消費税増税と「基礎的財政収支の黒字化」を達成する日にちを、そのときの経済状態にかかわらず、前もって決めて実行する(日付ベースまたはカレンダーベースの政策)という、財政緊縮政策をとったことにある。」(p100)とある。

とある。金融(日銀)と財政(政府)の両輪が違う方向を向いていては、デフレからの脱却は難しいのだ。

「政策パッケージ」は「はじめに」で要約して提示されている。
① 格差の縮小は高所得者・高資産家から低所得者・低資産家への分配を伴うが、それだけでは将来の医療や年金制度などを「国民が安心できる」水準に維持することはできない。この水準を維持するためには、1人当たりの生産性、つまりは1人当たりGDPを引き上げる政策が必要である。その政策は公正な競争政策を導入し、女性の労働参加率を引き上げ、さらに次の②から⑧を実施することである。
② 日本の所得再配分政策は社会保障による高齢者への再配分に偏っており、税による所得再配分が弱い。これを正すために資本所得課税に累進性を導入する。
③ 雇用契約の自由化により、正規社員と非正規社員の区別をなくし、労働市場の流動化を進める。
④ 失業や転職などが不利にならないように、職業訓練制度や就業支援制度を取り入れた積極的労働市場政策に転換する。日本でも、2014年頃から積極的朗度市場への転換が始まった。今後はこの政策を進化させることが必要である。
⑤ 所得再配分政策を集団的所得再配分政策(中小企業や農業などの特定の集団を保護することによって所得を再配分すること)から個人単位の所得再配分へ転換する。
⑥ ⑤から派生する問題であるが、公的補助は供給者ではなく、消費者を対象にすべきである。教育や保育などの分野での利用券(バウチャー)制度の導入がその例である。
⑦ 切れ目のないセーフティネットを整備するために、④の積極的労働市場政策を推進するとともに、負の所得課税方式の給付付き累進課税制度を導入する。切れ目のないセーフティネットが整備されれば、生活保護の対象者は不稼働者(健康上の理由等により働く能力を欠く人)だけになる。
⑧ 年金純債務(すでに年金保険料を支払った年金支給開始以降の加入者の存命中に、政府が支給しなければいけない年金額から年金積立金を差し引いた政府の純債務)を、新たに創設する「年金清算事業団」に移し、時限的に新型相続税を設けて、それを財源に長期に渡って返済する。今後、年金を受給する世代の年金制度は「修正賦課方式」から「積立方式」に転換する。
(pp,13-14)
前日銀副総裁の「処方箋」は明確である。
長期デフレが「格差と貧困」をもたらしていることがよくわかる内容であった。

主婦優遇税制を止めること一つをとってみても、なかなか困難なのだろうと思っているので、この「処方箋」が受け入れられるのは困難かもしれないが、④⑤などいくつかについては可能なのかもしれない。

「日本における解決を迫られている問題」が「あとがき」で触れられている。
一つは

日本ではデフレ脱却を専門に考えるべきマクロ経済研究者の多数派が、日本銀行がデフレ脱却のために実施している「量的・質的緩和」に反対している状況である。このようなマクロ経済研究者の無理解が、デフレから脱却しようとしている矢先の2014年に消費税増税の実施を許してしまい、デフレからの完全脱却が未だにできずにいる主たる原因である。

もう一つは

「自称リベラル派」が格差や貧困(相対的貧困)といった「デフレの悪」を理解しないまま、むしろ「失業を増やし、格差を拡大する」ような政策批判を繰り返していることである。そもそも、デフレ下の「消費増税」を「財政と社会保障の再建を可能にする」として主張したのは、選挙で揚げた「マニュフェスト」を、解散選挙で民意を問うこともなく平気で破った「旧民主党」である。それにもかかわらず、「立憲」を掲げていることは不思議な現象である。
自称リベラル派が「経済無知」であるため(立憲民主党にも旧民主党にも経済に精通している人はごく少数ながら存在するが、執行部になれないことが最大の問題である)、アベノミックスの真に足りない点を修正できずに、もっぱら政権のスキャンダル追及に時間を費やしている政治状況は、日本にとって不幸なことである。
(pp,356-357)

「もう一つ」の方は、見苦しいことこの上ない。
昔日、構造改良論があったが、政治の世界では未熟なまま消滅した。政府の政策に対抗すべき「政策提案」が求められることもあったが、55年体制のなかでは改良主義的な取り組みとの評価もあり、あまり広がらなかった。
「政策科学」としての「処方箋」は、井出英策『日本財政 転換の指針』(岩波新書,2013)などもあって、巷間での論議が求められている。井出氏は自称リベラルに近い存在であろうが、「経済無知」の衆はほとんど関心がないのではないか。
左派にとって「マルクス—エンゲルス―レーニン」という国家社会主義の影響が大きかった。国家というステージで対抗することに無理がるのだろう。協同組合主義というステージや、地方自治、国家を超えての連帯の輪といったところから再構築しなければならないのだろう。

2021年08月18日

『ウイリアム・モリスのマルクス主義』大内秀明.平凡社.2012 残日録210810

モリスというと民芸に影響を与えた社会主義者という印象があり、『ユートピアだより』という書名からして、空想的社会主義者という先入観を持っていた。
科学的マルクス主義は「マルクス→エンゲルス→レーニン」の国家社会主義的な流れとは別に「後期マルクス→モリス」という共同体社会主義的な流れがある、ということをこの本で知った。
モリスはフランス語版の『資本論』(マルクスが書いた第一巻のこと)を熟読して、科学的社会主義の理論を学んだ。初期マルクス・エンゲルスの唯物史観は作業仮設であって、後期マルクスの『資本論』においては事実上放棄されていた、と大内氏は指摘している。宇野(弘蔵)派の大内氏は「科学としての経済学にこそ『資本論』の偉大さがある」として、革命のアジテーションとしての史的唯物論を避ける立場である。
モリス+バックス『社会主義——その成長および成果』から、モリスの社会主義を紹介している。

八時間労働制にせよ、最低賃金制にせよ、改良主義の闘争には限界がある。と言って「当然のことながら我々は、土曜の夜には資本家的だったものが、月曜の朝には共産制国家の太陽が昇るような存在になる」という、そんな一挙崩壊型の権力奪取の革命主義はとらない。従って、移行過程が重要になるわけです。「様々な計画が提示されている。これらは経験によってテストされることになるが」、たとえば文献や自治の強化、「現政府による軍や教会区の形成を準備する法案は、まだ力が小さいけれども、重要なステップになる。民主的な機関の提供が、社会主義の目的に将来利用できる」。つまり、革命は段階的に進むし、人類の理想に向けて、永続的な変革になります。
ただ、近代の官僚国家については、社会主義者の間に見解が分かれている。両者の見解は「究極的対立ではないが」、一方は、移行期間、若干の政治組織を維持する見解であり、「新しい社会も、古い官僚国家の政治傘下でそれ自身発展する」と見ている。他方は、「国家体制を、より基本的な要素として成功的に扱うことはできない」と見る、モリスたちの見解です。近代国家の官僚制は、国際的には連邦制により、それを死滅させるべきだし、また、地方的には、分権自治の強化で、政治的国家の外堀を埋めるべきだ」、」とモリスは主張します。明らかに、マルクスの「国家の死滅」のための移行期の理解です。国家権力への参加や介入、利用のための移行期ではない。国家の死滅のための移行期が位置づけられています。
さらに中央国家には、「現在機能している第三の役割、国際問題の規制が残されている。そして近代では、戦争と平和の問題が、資本主義的危機の問題とともに論議されるが、この役割も含めて資本主義の没落とともに政治的国家は破綻するだろう。そのために残されるものは何もなく、死に逝くのみだろう」。ただ、現実的な提案もしています。「戦争を回避する目的で、調停のための国際委員会をつくる提案がある。これは容易に国際的な「政府」に発展するかもしれない。戦争のための調停の代替機関は、それ自身が社会主義をもたらすものでないが、しかし明らかに回避することで、……社会主義を前進させるだろう」と。
モリスは最後に、いわゆる革命の方式について述べます。「我々の心はただ一つ、社会主義体制の開始に進むために、大衆の意見や意欲の漸進的な動きに合わせることである。武装闘争、もしくは市民戦争には、争いは起こりがちかも知れないし、他の局面、また革命の最終局面でもそうだろう。しかし、どんな場合でも、人びとの感情の変革に代わり得ないし、それに先行するより、それについて行くに違いない」。もりすは、武装闘争や権力的な上からの革命を強く否定します。逆に、下からの大衆の永続的な意識変革に期待します。従って、「一日で完全な共産主義の体制は樹立しないし、それは滑稽なことだろう」として、「我々の目前の闘争は、生産手段の共有であり、近代の資本主義と比べて、相対的な平等が達成されるような社会の実現だろうし、それ以外にはないが、それは言葉の本当の意味での社会主義の始まりだ。しかし、そこに止まることはできない」。社会主義の将来社会を、二〇世紀どころか二一世紀、さらに二二世紀への長期展望としたモリスらしい提起でしょう。(pp169~172)

そしてまた、宮沢賢治と社会主義運動との関係も知った。
川端康雄『ウィリアム・モリスの残したもの』によると、賢治の羅須地人協会の活動は、「恩田が示唆するように、ラスキンが「関与」した「労働者学校」、すなわちキリスト教社会主義者F・D・モリスが1854年にロンドンに設立した「ワーキング・メンズ・コレッジ」にヒントを得た可能性は十分あるし、また賢治の理想主義的な計画は、渡辺俊雄が指摘するように、「特にその教育的かつ農業的見地においてラスキンのセント・ジョージ・ギルドに非常に近かった」といえる。この説に一定の信憑性があるのは、羅須地人協会の理念と実践に、ラスキンとウィリアム・モリスの影響が強く認められるからである」(p206)。また、賢治の「農民芸術概論綱要」にも影響が認められる、とある。
大内氏の言う「土着社会主義」は戦後の日本社会党の党内派閥の抗争のなかで行方知れずになったかのようだが、モリスの共同体社会主義の文脈から見てみると、モリスの直接の影響はないのだろうが、いくつかの組織の底流に「土着社会主義」が探れるように思っている。

2021年08月10日

「労農派」の流れ 残日録210426

『ニッポニカ』の「講座派・労農派」の解説によれば、
第二次世界大戦前に、日本資本主義の特質をめぐって行われたマルクス主義者間の論争、すなわち日本資本主義論争において対立した二つの思想的理論的集団。
 講座派とは、野呂(のろ)栄太郎を中心に編集され1932年(昭和7)から1933年にかけて岩波書店から刊行された『日本資本主義発達史講座』、とくに同講座所収の論文をまとめた山田盛太郎(もりたろう)『日本資本主義分析』(1934)と平野義太郎(よしたろう)『日本資本主義社会の機構』(1934)の説を信奉する理論家集団をいう。日本資本主義の構造的特質をその軍事的半封建的特殊性に求め、とくに絶対主義的天皇制(検閲の制約のため明示的には語られていないが)と半封建的土地所有制の役割を強調するのが講座派理論の特徴である。そのような日本資本主義論は『講座』刊行前から、野呂栄太郎などの日本共産党系の理論家によって主張されていたが、『講座』とくに山田、平野の論稿は、それを全面的に展開・深化させたものであって、日本の社会科学全体に強い影響を与えた。なお『講座』刊行の直前に発表されたコミンテルンの日本問題についてのテーゼ(三二年テーゼ)の日本認識と、『講座』の基調とはほぼ一致していた。
 労農派は、日本共産党およびその上部組織コミンテルンの現状分析や政治路線を批判し続けた社会主義者のグループであり、その名称は、山川均(ひとし)、猪俣津南雄(いのまたつなお)、荒畑寒村(あらはたかんそん)などが中心となって1927年(昭和2)12月に創刊した雑誌『労農』に由来する。共産党と直接間接に結び付いていた講座派と違って、労農派は特定の政治組織との結び付きをもたないルーズなグループであり、その結束は固いものではなかったが、山川、荒畑のような古い社会主義者を中心とする広い人脈をもっていた。共産党の政治路線や現状分析に対する労農派的立場からの批判は、山川の共同戦線党理論や猪俣の日本政治・経済論として1920年代末から展開されていたが、『講座』の刊行は、それに対する労農派人脈に属する学者からの批判をも活発にし、山田、平野の日本資本主義論に対しては向坂逸郎(さきさかいつろう)、高橋正雄、岡田宗司(そうじ)などが、羽仁(はに)五郎や服部之総(はっとりしそう)の明治維新論やマニュファクチュア論に対しては土屋喬雄(たかお)などが、さらに農業問題に関しては櫛田民蔵(くしだたみぞう)、小野道雄などが批判の論陣を張った。
 1930年代前半の論壇をにぎわせた両派の華々しい論争は、それぞれの主要メンバーが、講座派は1936年に「コム・アカデミー事件」で、労農派は1937年および1938年に「人民戦線事件」で検挙されたため、論壇からは消えていったが、日本のマルクス主義者を二分した講座派・労農派の二つの流れとその対立とは、第二次世界大戦後にも引き継がれていった。
[山崎春成]

とある。
石河(いしこ)康国『労農派マルクス主義——理論・ひと・歴史 上・下巻』は向坂逸郎の流れにある社会主義協会(向坂派)からの著作である。図書館で借りて読んでみたが、我田引水の印象が強い。それに、マルクス・レーニン主義の立場にあるから、労農派から逸脱しているとみることもできる。大内秀明・平山昇『土着社会主義の水脈——労農派と宇野弘蔵』の方が労農派を知るうえで適書と言える。

非転向を貫いた労農派の矜持 『真説 日本左翼史』池上彰・佐藤優.講談社現代新書.2021
池上 そのように、ソ連型の一党独裁型の社会主義とは異なる社会主義の可能性が東欧諸国を中心に世界的に模索されていた時期に、日本でも山川均や向坂逸郎など、戦中は息を潜めていた、非共産主義系のマルクス主義者たちが再び活動の場を得るようになりました。
佐藤 そうです。先ほど少し話に出ましたが、その多くが雑誌『労農』の同人であったことから「労農派」と呼ばれているグループですね。彼ら労農派のマルクス主義者には学者が多く参加していたこともあって、彼らが組み上げた革命理論は日本独自の事情や国際状況までしっかり考慮されているという点で共産党よりも精密なものでした。
 徳田球一や野坂参三がアメリカ軍は解放軍であり、彼らと手を携えることで平和革命ができると無邪気にも思い込んでいる時期に、労農派のマルクス主義者たちは、米軍占領下での平和革命など不可能であることを早々に見抜いていました。
 しかも労農派時は、共産党と違って戦時中に転向していないという特徴があります。
 彼らが転向せずに済んだのは、弾圧下にあっても自分たちの力で食いつないでゆく術を苦労しながらも見つけることができたからです。向坂逸郎は第一次人民戦線事件(一九三七)によって九州帝大の教授を辞任させられた後は改造社の『マルクス=エンゲルス全集』の編纂・翻訳に取り組みましたし、投獄・保釈を経て言語活動を禁じられてからも、小さな畑を耕して自給自足生活のかたわら匿名でドイツ語の書籍を翻訳していました。
 彼が戦時中に匿名で訳した『独逸文化史』(G・フライターク)は全四巻のうち一巻が一九四三(昭和一八)年に中央公論社から出ています。
 向坂自身が後年に書いた手記によれば、実は二巻目の翻訳も終えていて、ゲラの構成もすべて終わっていたのに発刊直前で出せなくなったそうです。出せなくなった理由について、中央公論の編集者は何度尋ねても絶対に答えなかったそうですけどね。
池上 略
佐藤 向坂のような社会主義者に仕事を発注することでサポートしていたからこそ中央公論社は横浜事件でやられてしまったのだ、という雰囲気は伝わってきますよね。
 ただ『独逸文化史』の邦訳が出せないとなると原稿料が貰えないので向坂としては困るわけです。大いに困るのですが、向坂が凄いのはここでまた腹をくくるのです。「もうこの国では翻訳では食っていけないのは分かった。だったら新しい研究をして学びなおしだ」と決心した。そして農業書を取り寄せてジャガイモの作り方を学んだのです。
 いい芋をたくさん収穫するには穴をどれくらい掘ればいいのか、堆肥をどうやって作ればいいのか、すべてをイチから学んで、奥さんと馬糞を拾いに行った話なども後年書いています。
 あるいは空襲があると、空襲で焼けた家までリュックサックを担いで行って、その中にいっぱい灰を詰めてきて、その灰を肥料にしてイモを作ったこともあったそうなのですが、近所の農民たちは向坂のそのイモ作り見ながら笑ったそうです。「そんな深く掘って大丈夫か?」とか「葉っぱの芽が出過ぎるからろくなイモができないぞ」などとバカにされたと言うのですね。
 でも収穫の時期になってみると、向坂のイモ畑は普通の畑の倍もイモの収穫できたので、「日本の農業問題は、非科学的なことだ」なんて憤慨している。そのくらいイモ作りに熱中してやっていたのですよ。
 (略)
 山川均も妻の山川菊栄と藤沢市でウズラの飼育場を営みながら言論活動を続けていました。このように労農派は、どんな体制にあっても生き延びる道はあるはずだと信じて、生活の糧を自力で確保することによって転向を免れたひとたちなんですね。(P73~75)
 といった姿勢で戦中を乗り越える。

 戦後、講座派は日本共産党、労農派は戦後結成される日本社会党の理論的支柱になる。
ウィキによると、日本社会党は1945年、第二次世界大戦前の非共産党系の合法社会主義勢力が大同団結する形で結成された。右派の社会民衆党(社民)系、中間派の日本労農党(日労)系、左派の日本無産党(日無)系などが合同したもので、右派、中間派は民主社会主義的な社会主義観を、左派は労農派マルクス主義的な社会主義観をもち、後に分裂して民主社会党(後の民社党)を結成していく右派は反共主義でもあった。日労系の中心的メンバーは、戦前、社会主義運動の行き詰まりを打開するために、天皇を中心とした社会主義の実現を求めて軍部に積極的に協力し、護国同志会出身者を中心に、大政翼賛会への合流を推進した議員が多かった。一方、左派は天皇制打倒を目指そうとした者が多かった。なお最初の結党の動きは、終戦の翌日に西尾末広(後の民社党初代委員長)と水谷長三郎が上京に向けて動き出すところから始まり、旧社会民衆党の議員が中心となって動き出した。
(という雑居ビル状態にあった。—明定)
1951年(昭和26年)には山川均・大内兵衛・向坂逸郎など戦前の労農派マルクス主義の活動家が中心となって社会主義協会が結成されるなど、その後社会党を支える組織的、理論的背景がこの頃に形成されていった。この西欧社会民主主義と異なる日本社会党の性格を、日本型社会民主主義と呼ぶ見解もある。
三池争議を指導した社会主義協会の向坂逸郎の影響が大きく、労農派のなかでも社会主義協会、向坂逸郎の発言力が増す。
1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「日本における社会主義への道」(通称「道」)が決定され、事実上の綱領となった。「道」は1966年の補訂で、事実上プロレタリア独裁を肯定する表現が盛り込まれた。
この「道」によって改良主義的性格は退けられ、階級政党としての側面が強く出される。
1985年、社会主義協会の指導者であった向坂逸郎が死去し、その前後から社会主義協会内も現実路線と原則路線との対立が始まった。1986年、激しい論争を経て、石橋政嗣委員長のもと、「道」は「歴史的文書」として棚上げされ、新しい綱領的文書である「日本社会党の新宣言」が決定された。これは従来の、平和革命による社会主義建設を否定し、自由主義経済を認め、党の性格も「階級的大衆政党」から「国民の党」に変更するなど、西欧社会民主主義政党の立場を確立したものである。ただし採決による決着を回避し社会主義協会派代議員を含めた全会一致の採択を実現するための妥協策として、旧路線を継承するとも取れる付帯決議を付加したため、路線転換は明確とはならなかった。
とある。その後、社会党は1996年に社民党に改称するが、党勢は衰退していく。

 労農派の大内秀明は『土着社会主義の源流を求めて』大内・平山昇.社会評論社.2014で、社会党の左右両派の対立について、ともに戦前の労農派の流れをくむ論客である、右派の森戸辰男、左派の稲村順三の論争(一九四九年)が、以降の論争の原型となった、と言われています。対立の論点を整理して、戦前の労農派との関連を確認しておきたいと思います。(p372~375)として、
3.森戸・稲村論争とその対立点
 森戸・稲村論争については、両者それぞれ関連した論考もありますが、論点が具体的に提起され、第四回の党大会の運動方針を巡っての論争の性格上、勝間田清一の司会で行われた対談を取り上げましょう。戦前、ともに労農派の論客だった点でも、両氏の対談は興味深いといえます。対談は、一九四九年五月二四日に当事者の総括のために行われた座談会です。(初出は『社会思潮』1949.7) 司会の勝間田による問題提起は、まず敗戦と占領下の混乱の中で、共産党を除く戦前の諸潮流の大同団結が優先、党の目標、性格や路線については、十分な論議のないままの出発だった。民主主義の憲法、社会主義的な政策、それに国際的な平和主義、この三点だけの大まかな合意だった。しかも、短期間で片山内閣による政権党になったが、連立政権の足並みの乱れなども加わり、改めて党の性格や路線を深めなくてはならない。また、目指す社会主義への移行についても、当初は一時的に実現の幻想が一部に生じただけで、占領下で共産党との関係からも、移行の条件は見当たらない点も強調されました。
 両者の見解は、連立政権に対する評価と反省で別れました。稲村は、連立に批判的で反対、論拠は(1)ブルジョワ社会での階級闘争から、ブルジョワ政党との連立はあり得ない。(2)同時に共産党に対する批判も不十分であり、(3)まず革命方式を中心に党の主体性を強化する。こうした提起に対し、森戸は連立政権の閣僚だったこともあり、功罪両面を指摘する。その上で、(1)単なる反対党でイデオロギーを主張するだけでなく、政策を具体的に提起しなければならない。(2)マルキシズムとの」関係では、階級闘争や階級国家論について、現実的に考え直す必要があり、(3)関連して革命方式ついても、平和革命を理論的に深化させる必要がある。さらに(4)むしろ日常的な運動や大衆闘争を重視しなければならない。
 稲村は、社会主義の目標として、「社会民主主義」についても、マルクスのゴーター綱領批判を参考にして、社会主義を民主主義に解消してはならず、「この際我々は、社旗主義の政党であるということを何よりも明確にして、いわゆる社会主義プラス民主主義の政党、社会主義者プラス民主主義者の共同政党だというな、こういう意味は持たせない方がいよい」と主張する。それに対し森戸は、ドイツを中心に社会改良主義、社会民主主義、社会主義の思想史的変遷を説明した上で、社会改良主義に対立して「実はマルキシズムの党派が社会民主主義とずっと言ってきたので、ロシアのボルシェヴィキがわじゃれて社会民主主義の多数党となるまでは、大体マルキシズムの政党が社会民主主義の政党と言われておったわけです」。森戸は、ここで社会民主主義をボルシェヴィズム=マルクス・レーニン主義に対抗するものとして位置づけ、堺・山川の正統的マルキシズムである労農派の立場を説明しています。こうした森戸の説明については、勝間田も「社会民主主義政党としての社会党の革命プログラムを作っていくということは、当然といわねばならぬことになりましょうね」と両人に同意を求めています。
 そこで革命の内容、方式を巡っての議論に進みますが、森戸は「社会主義の中心点は経済組織の変革、資本主義的な経済組織が社会主義的な経済組織に変わることであって」、その上で「政治的な面から言っても、政治の一つの場面に、権力の獲得というか、それが集中されないで、中央の政治もあり、地方の政治もあり、また政治の面と並んで経済の面、文化の面等の新しく社会主義を作ろうという力が浸透して行く。」「民主的な変革というものが一時的なものではなく、ある程度漸進的であり、段階的であり、したがってまたそれは建設的、平和的なものであるということになるのではないか、と僕は思っておるのです」として、稲村に同意を求めています。ここでの森戸の主張もまた、明らかにマルクス——モリス、そして堺・山川の労農派社会主義の立場から、ロシア革命を教条化したボルシェヴィズム=マルクス・レーニン主義を批判し、プロレタリア独裁、集権的な政治革命方式と対立する社会変革の内容、その方式を提起していることが解ります。
 こうした森戸の提起に対し、稲村も正面から対立することは避けつつ、「ぼくはもう少し違うのですが、民主主義とゆうものと、平和とか暴力とかいうものに関する考え、ことに平和とか民主主義とかいう考え方については、もっとも広くぼくは解釈したい」と述べ、階級対立の面で支配階級が、「必然の形で社会主義へ向かって資本主義の基礎が動いていくのを、これをどうしても食いとめよう、チェックしようとするために集中的政治権力を常に用いておる。したがって、いかに経済的に最高に発達しても、これをチェックしている政治力というものを除去しない限り、日本は結局において大きな矛盾を蔵しつつも資本主義の段階を出ることはできない。ぼくはそう考える。それで質的転換をするためには、チェックするものを取除いて、そうしてそれを推進する新しい政治権力というものが生まれなければならない。——革命という以上は一つの質的返還を表徴するものでなければならぬ」。
 この稲村の主張は、マルクス・エンゲルスのイデオロギー的仮説に過ぎなかった唯物史観、つまり単純な階級闘争史観が前提され、資本主義はブルジョアジーとプロレタリア=との非和解的な階級対立が不可避である。ブルジョアジーは階級支配のために国家権力を利用し、近代ブルジョア国家は階級支配の道具として、ブルジョア独裁の権力支配を進めている。したがって、体制変革にはプロレタリアによるブルジョアからの権力奪取が必要であり、ロシア革命方式のプロレタリア独裁が不可避だった。その点で、左社綱領、そして右社綱領ボルシュヴィキの暴力革命論が前提されざるを得なくなるが、稲村氏も一方で議会主義や平和主義を前提する以上、次のように弁明せざるを得なくなる。「これは暴ボルシェヴィキ和といっても、実を言うと、いかに平和的にやったとしても、やはりある程度の行使とうもんはやむを得ぬ場合もあり得るんだね。なぜかというと、こっちが行使しないでも、敵が行使する場合がある」、いわゆる「敵の出方論」ですが、「ただ力は議会を通じて合法的にやるのだ。これが僕は、やはり我々の言う民主主義的、平和的という解釈になると思う。そういうふうな建前から、僕らはうかと言うと、一応やはり政治権力は確保するというある時期なり、段階がある」。稲村のここでの主張は、かなり譲歩した表現ながら、ブルジョア独裁に代わるプロレタリア独裁、権力奪取による革命、中央集権的な体制、そして上からの体制変革としての革命、こんな図式が透視されてきます。

 大内は「戦後の日本社会党の左右の対立について、一般的に左派の立場が「労農派マルクス主義」と系統づけられているのは必ずしも正確ではないのではないか? むしろ、右派を代表する森戸の立場の方が、堺・山川に代表された労農派社会主義の継承とみるべきでしょう。左派は、基本的にボルシェヴィズムの教条に近い立場にシフトし逆転してしまい、それだけに議会主義による平和革命論との間の矛盾に苦悩をつづけることとなったと思います。」と評価している。(p377)
 「第二次大戦後の冷戦構造は、すでにみたとおり日本では、1951年のサンフランシスコ講和・日米安保条約により定着します。そして、それへの対応を巡り、左右社会党への分裂につながりました。左右両派は、それぞれ左社綱領、そして右社綱領を策定して対立しました。すでに紹介した森戸・稲村論争による左右の対立を受け継ぎ、左社綱領は稲村が戦前の学者グループの一人だった向坂逸郎(九大教授)らと協議して原案策定、右社綱領は森戸案を受けて、河上民雄などが草案を策定したといわれています。この左、右の社会党の綱領は、森戸・稲村論争と比較しますと、一方の左社綱領はマルクス・レーニン主義の教条的理論と議会主義の平和革命論、他方の右社綱領は、マルクス主義の批判に向かい、西欧社会民主主義から改良主義の傾向が強まりました。この時点で、戦前からの堺利彦・山川均のマルクスーモリスの「正統派マルクス主義」の系譜が消滅した感が強まりました。むしろ左右社会党の対立は、米ソ二つの世界の対立という冷戦構造を、日本的な特殊性を反映した形での対立だったとみるべきでしょう。」、「このように戦前の労農派社会主義の伝統が、戦後この時点で消滅したと判断するについては、いろいろな事情が考えられます。」(p388~387)としている。

 労農派の流れは今どこに残っているのか、どう広げていくのか、について考察したい。

2021年07月26日

マリッジ・イクオリティ(同性結婚の許可も含め、結婚が誰にも開かれた人権だとする考え方)残日録210714

『ゲイカルチャーの未来へ』田亀源五郎.Pヴァイン.2017 より。
編集者から問いが投げかけられる。

『弟の夫』ではあくまで涼二とマイクの一対一のパートナーシップに焦点が当てられている。そうしたモノガミー(一対一の性愛関係)に対するポリアモリー(三人以上の複数人による合意の上の性愛関係)、あるいはオープン・リレーションシップ(パートナー関係において、お互いの合意の上で他の人物との性愛関係を許容している状態)の是非は、ゲイ当事者間でマリッジ・イクオリティを考える上でしばしば議論に挙がるトピックだ。

これに対して田亀は、

ポリアモリーの話は意識的に省いています。そこまでみんな、ついてこられない。芸能人や政治家が不倫しただけで、これだけ球団される世界では無理ですね。それひとつで新しく別の話を描くのならともかく。ポリアモリー自体、この間はじめてコロンビアで制度として認可されましたけど、男三人夫夫というのは私の身近でもいたし、私自身がそれに近い状況だったこともあったのでけっして珍しくはないです。ただ、それを今の社会制度と適合させるのはすごく難しいだろうな、とは思います。パートナーシップが男女であるか男男であるか女女であるかという話と、一対一の契約なのか三の契約も含まれるのかという話は、ベクトルも違えばフェイズも違う気がするんですね。制度の中の組み合わせを変える話と、制度自体を変える話ということですから。そこまではちょっと作品のなかでは負いきれない。たしかに三人で暮らしていれば、家族になれる制度があったほうがいいだろうなとは思いますけどね。
 オープン・リレーションについても、正直私はどのくらい機能しているか疑問です。そのルールに人間の心がどれだけ順応できているのかということを考えると、どうなんだろうと。というのも、実際トラブっている例をけっこう見ていますから。まあでもこういうことは、当事者がどう考えるかというのが一番重要なことで、第三者があれこれ言うようなことでもないと思います。それでも制度的なことも絡めた視点から言うと、婚外セックスの問題については、私は男女のほうで話を進めていてほしいんですよ。結婚生活をキープするために互いに外で自由にセックスをするというのは、すでに結婚している状態のパートナーと関係を維持していくための方法論ですよね。ゲイはそれ以前ですから。同性婚ができるようになったら、それを維持するために婚外セックスの話をするのもいいんだけど、同性カップルに関してはそれ以前の段階なのだから、だったらまずこちらはパートナーシップを維持するためのものではなく、パートナーシップを保証してくれる制度をつくりましょうよ、ということです。

とこたえている。(p44~46)
少子化について、出生率の低下について、子どもを産みやすく育てやすくしましょう。という掛け声はあっても、フランスのように事実婚が制度的に認められてはいないし、生まれる子どもの半数が婚外子という状況も生まれていない。
(孫引きだが、OECDの提言(2005)によると「育児費用のため税金の控除や児童手当の増額を行うこと」「正式な保育施設を整備強化すること」がポイントのようだ。)
 マリッジ・イクオリティはLGBTに限られているわけではなく、まずは男女の課題であって、結婚生活と性愛の多様性については、男女間においてもクローゼットである。明治以来の一夫一妻制が極めて禁欲的であるのはキリスト教の影響なのか。
マリッジ・イクオリティという言葉はこの本で初めて出会った。夫婦別姓あたりでうろうろしている現状からはまだまだ遠い。

2021年07月14日

『リニア中央新幹線をめぐって――原発事故とコロナ・パンデミックスから見直す』山本義隆.みすず書房 残日録210705

「リニア中央新幹線計画に対する批判は、福島の原発事故とコロナのパンデミックスを経験した私たちが現在の日本社会の基本的なありように対してしなければならない総点検の一環なのです」(p11)とある。
リニアについては、非現実的な工事計画のことを知っている。トンネルを掘ったあとに出る残土の行き場所や輸送の問題や、大井川の水への影響などがよく知られていることである。先般、静岡県知事選があり、リニアに同意していない現職が勝った。ほっとしていたところ、先日来の熱海の土石流である。これで残土の行き場所は、盆地をダムにするがごとく、残土大地を作るくらいしか手はあるまい。それにしても下流に住む人への危険度はダムごときではあるまい。
大深度地下のトンネルについては東京外郭環状道路が先行していて、地盤沈下や地下空洞が発生している。
この本では、リニアに大量の電気が必要なこと、そのためには原発を再稼働または新設する必要があること、電磁波の影響、といった科学の領域の話だけでなく、東京一極集中(名古屋・大阪の東京圏への時込み)のパンデミックスの危険性、JR東海の採算性、といったあたりにまでふれられている。
JR東日本の元会長・松田昌士の談話が紹介されている。

高価なヘリュウムを使い、大量の電力を消費する。トンネルを時速500㎞で飛ばすと、ボルト一つ外れても大惨事になる。
「俺はリニアには乗らない。だって、治下の深いところだから、死骸もでてこねえわな」

どうも事故は想定外のようである。この本からの孫引きになるが、紹介しておきたい。
ではなぜリニアなのか。池内了によると、

科学者は世界初の原爆作りに熱中してしまい、それがどのような厄災をもたらすかについては(少なくとも完成まで)考えも及ばなかったのだ。科学者は「世界初」という美名と潤沢な研究資金が提供されれば、結果がどうなろうと突き進んでしまう存在なのである。……世界一となることが目的であり、科学者もそれに積極的に参加していったのだ。(科学者は「世界一」という言葉に滅法弱い)。

橋山禮次郎によると、

この計画を考え出したJR東海の目的、経営戦略上の狙いはどこにあるのだろうか。……計画概要から読み取れる狙いは、「世界一速い鉄道を実現し、世界の鉄道界をリードしたい」、「これまでの鉄道にイノベーション(革新)を起こす」、「そのため、これまで開発してきた未踏の新技術である超電導磁気浮上方式のリニアを中央新幹線で実用化する」ということにあるように思われる。

JR東海自身が中央新幹線の運行方式について「在来型新幹線と同じでは能がない」と公言してきた背後には、もうひとつのバイパス新幹線をつくることではなく、「リニアを実現すること」という真の狙いがある。

高速化をどう実現するか。JR東海の考えは、これまた明快である。在来新幹線方式ではスピードアップに限界がある。世界の鉄道革新の先頭に立つには、これまで巨額の開発費をつぎ込んできた超電導磁気浮上リニアの実現しかない。

としてナショナルな要素が指摘されている。

著者は「脱成長」に方向をきる選択を提起している。
広井良典『定常型社会』『ポスト資本主義』や飯田哲也・金子勝『メガ・リスク時代の「日本再生」戦略』、セルヴィーニュ・スティーヴンス『崩壊学』、斎藤幸平『人新生の「資本論」』などが紹介されている。

2021年07月05日

故松本亮三井上靖文学館館長への追悼文集『始まりは出会いにほかならない』(2016)への文 残日録210623

PCのドキュメントにこれがあったので記録として残しておきたい。松本氏を検索すると、もっと情報が出てくると思っていたが、そうでもなかったのが意外だった。私と同じように、語り継ぐ余裕がない、そんな時間が流れているのだろう。



不思議な魅力

                  明定義人(元滋賀県高月町立図書館長)

 井上靖記念文化財団の井上靖賞授賞式の式場での松本さんのお姿が印象に残っている。そういう世界に関わりを持たなかった経歴の方だったが、ご自身ができることを自然な振る舞いでなさっていた。難しいポストだろうになるほどの人事だと思った記憶がある。
現職のころはなかなか伺うことができず、お会いするのは滋賀に来られた時が多かった。年末に伊豆の方々と一緒に来られたこともあった。まちづくりに関わっておられる活動の一端を知ることができた。
 退職後、昨年、やっと時間が取れて、文学館でお世話になったお礼を申し上げた。いろんな方々のご指導、ご支援をいただいてきた。氏もそのお一人である。
 不思議な魅力をもった方だった。ご一緒すると、世知辛いや所在のないところから、遥か遠くにいる気持ちになったことを思い出す。
 もっともっと取り組みたいことが沸き出てくる時間や、ひととのつながりのなかから生まれる一座建立の場が、氏の前途にあった。清清とした老いと向かい合うことなく急逝された。クレマチスの丘に白い空隙が生まれた。残された者はそれを閉じていかねばならないのだ、と遠く湖北にあって思う。


「松本館長を偲ぶ会」の趣意書  松本館長を偲ぶ会 発起人一同

 昨年9月29日、井上靖文学館館長の松本亮三氏が急逝されました。

 松本館長は、井上文学が広く世代を超えて読み継がれることに大きな情熱を注ぎ、日本全国各地の井上文学を愛し、井上先生を慕う方々とのネットワークを築いてこられました。その功績が井上文学愛好家の間で高く評価されているのは周知の通りです。

 昨秋の突然の別れに際し、これまで親交のあった多くの方々より改めて松本館長のその功績を讃え、お人柄を偲びたいという声が非常に多く寄せられております。

 つきましては、是非松本館長と親交のありました皆様のご参加を賜りたくお願い申し上げます。

 尚、詳細につきましては皆様と今後詰めてまいりたいと存じますが、現段階では本年5月末、三島プラザホテルでの開催を予定しております。また、同時に追悼文集「はじまりは出会いに他ならない」を作成し、当日配布する予定でおります。

2021年06月23日

『人新世』の「資本論」』斎藤幸平著.集英社新書.2020 残日録210621

「人新世」Wikiによると、じんしんせい、とも、ひとしんせい、とも読む。斎藤は「ひとしんせい」とルビをふっている。この本がよく売れているらしいので、こちらの方が通用することになるのだろうか。新人世しんじんせい、とも訳されているそうだ。Anthropoceneの訳で、読みは「アントロポセン」。
 「地球の大気に関して直近数世紀の人類行動の影響が新たな地質時代を構成するほど重要であると考えた待機化学者パウル・クルッツェンによって2000年にこの用語が広く普及した」とある。
 本のカバーに、
  人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するためには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。/いや、危機の解決策はある。ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす。
とある。
 著者は、1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。2018年邦訳『大洪水の前に』によって、権威ある「ドイッチャー記念賞」を歴代最年少で受賞。
 この人のおかげで、1952年生まれの小生はまた過去の人の道を数歩前進することになった。加齢とはそういうことでもあるのだ。
 資本制経済が「コモン(共有財)」や「アソシエーション(共同)」を解体していき、中間共同体が弱化して個々人の生がバラバラになる状況についての分析はなるほどと読んだが、その解決策については、あまり材料を持っていないように思った。
世界のグローバル化がより進行するという説もあるが、化石燃料の枯渇というより、高騰化や非効率化によってブロック経済化するという説もある。そうなると、遠方との物流を維持できるのは、付加価値の高い嵩の高くないものではないか。3Dプリンターが解決してくれることやAIによる労働環境の変化など、「人新世」=環境危機の時代に論じることは多岐にわたるだろう。
解決策はプラグマティックに見いだすしかない時代である。
土曜日のTV番組の「博士ちゃん」に登場する青少年は、未来について語らないけれど、そのうち未来について語る博士ちゃんが登場することだろうと期待している。

2021年06月21日

『国体論——菊と星条旗』白井聡 残日録210613

2018年に集英社新書として刊行された。明治維新前後から敗戦までを
① 「天皇の国民」=国民国家の建設期——「坂の上の雲」
② 「天皇なき国民」期=大正デモクラシー
③ 「国民の天皇」期=昭和維新運動⇒ファシズム
と分け、敗戦から現在までを、
① 「アメリカの日本」期=占領改革⇒高度成長
② 「アメリカなき日本」期=「ジャパン・アズ・ナンバーワン」⇒低成長と冷戦終結
③ 「日本のアメリカ」期=ポスト冷戦⇒失われた20~30(?)年
として、それぞれの時期の国体の性格を分析している。
 敗戦後の占領政策によって、天皇を象徴とする国体が憲法として提示される。日本の中にいれば日本国憲法があり、天皇条項があり、憲法第9条があるのだが、サンフランシスコ講和条約とともに締結された日米安保条約によって、軍事的にアメリカの属国化する。その程度のことは当たり前のことである。著者は、天皇と憲法の上に、アメリカという存在を位置づける。この構図は見事だ。
 現役の政治家のなかに、リアルにそのことを受け止めている人がどれだけいるのだろうか。アメリカの日本への注文をYES,YES,YESと受け止めているとしか思えない対米従属なのだ。1989年に始まった日米構造協議⇒日米包括経済会議⇒年次改革要望書⇒日米経済調和対話枠組みによるアメリカの要求に諾諾と従っていることに、内心、反発している政治家がどれだけいるのだろうか。
 「TPO交渉の過程で明らかになったように、日米構造協議において発明された「非関税障壁」の概念は肥大化し、「グローバル企業が拡大展開する際に障害になりうるすべての事象」を意味するようになってきている。つまり、国民生活の安定や安全に寄与するための規制や制度すべてが、論理上、この「障壁」にカテゴライズされうるのである。この延長線上で懸念されているのは、たとえば、日本の国民皆保険制度に対する攻撃である。ウォールストリートの金融資本から見れば、普遍的な公的健康保険の存在は「参入障壁」であり、取り除かれるべきである、ということになる。」(P290)
「日本の場合、際立っているのは、こうした動向に対する批判の声があまりにも小さいことである。たとえば、大手新聞メディアにしても、TPPをアメリカあるいはグローバル企業による新たな収奪攻勢としてとらえるという論調は、ほとんど見られなかった。むしろ、アメリカ発の「非関税障壁への批判」を「日本社会の閉鎖性」といった曖昧な概念によって擁護する論調が九〇年代以降、急速に力を伸ばした。」(P290~291)
これを著者は「異様なる隷属」としている。
著者は「戦後日本の対米従属の問題は、天皇制の問題として、≪国体≫の概念を用いて分析しなければ解けない」と考えてきた。
二〇一六年八月八日の前の天皇(現上皇)のテレビを通して発せられた、強い「言葉の力」に衝撃を受けた。「ついにここまで踏み込まざるを得なかったか」という感慨と、この本はつながっている。
 「敗戦国で「権威ある傀儡」の地位にとどまらざるを得なかった父(昭和天皇)の第二始まった象徴天皇制を、烈しいいのりによって再賦活した根性天皇は、時勢に適合しなくなったその根本構造を乗り越えるために何が必要なのかを国民に考えるよう呼び掛けた。」(P39)
 「お言葉」にどう応えるのか、が問われている。それは象徴天皇制をどうこうするということではない。

 


2021年06月13日

『フライデー・ブラック』ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー著 読了 残日録210609

この本の帯にプレイディみかこが「シャープでダークでユーモラス。唸るほどポリティカル。/恐れ知らずのアナーキーな展開に笑いながらゾッとした」とあったので、この言葉に惹かれて読んだ。プレイディみかこはイギリスの多民族かつ底辺社会に暮らしていて、そこからいくつものエッセイ、ルポルタージュを書いている。小難しい本を読む合間の気分転換と思い手に取ったが、「シャープでダーク」「ゾッとした」は同感ではあるが、「ユーモラス。唸るほどポリティカル。/恐れ知らずのアナーキーな展開に笑いながら」には程遠い読後感であった。アメリカ社会の「アフリカ系アメリカ人」への暴力とそれへの抗議はTVで知ってはいるが、最初の「フィンケツスティーンS」は、黒人の少年少女五人の頭部をチェインソーで切断した白人に対して、白人が大半を占めた陪審員団は無罪判決を下した。その判決の理不尽さへの怒り、黒人は盗むと決めつけているかのような警備員の態度には耐えられるが、白人へのリンチに加担してしまう主人公は、警官に頭部を撃たれて死ぬ。こんな話からはじまる。
TVで見ればアメリカの警官は生死にかかわらない足などを撃ち逮捕するのではなく、すぐに射殺する。日本では許されないだろうと前々から気になっていた。これも差別と関係あるのだろうか。退役軍人の就職先なのだろうか。
アメリカ人が日本を安全な国という。そのなかでも平穏な田舎の小都市に住んでいると、リアルな皮膚感覚でこういった物語を受けとめられない。私の想像力が届かない、そんな感じがした。
表題作「フライデー・ブラック」は、アメリカ合衆国において、毎年11月の第4木曜日に行われる感謝祭の翌日を「ブラック・フライデー」とび、その日からクリスマスセールが開始されるそうだが、そのセールの混乱をブラックユーモアでえがいている。バーゲンセールの混乱で死体が山積みになるのだが、筒井康隆風だなあ、と思った。「アイスキングが伝授する「ジャケットの売り方」」「小売業界で生きる秘訣」とともに、皮肉がきいていて楽しめた。

2021年06月09日

安岡真『三島事件 その心的基層』(石風社.2020) 残日録210526

作家三島由紀夫が盾の会の会員4名とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で起こした事件。三島は森田必勝とともに割腹自殺をする。
当時、高等学校3年生だった私は、その後の国語の授業中に教師から、どう思ったかという問いかけに対して、「あんな右翼はさっさと死ねばいい」という風なことを言った。親しいYが、切腹したときに痛みを感じたのだろうか、と言うもんだから、そんなの痛いに決まってるやろ、と反論した。そんな記憶がある。
『仮面の告白』や『鏡子の家』『金閣寺』は読んだが、『豊饒の海』四部作は読んでいない。祖父の平岡定太郎の本籍が、私が生まれ育った村とそう離れていない、印南郡志方村(加古川市志方町)上冨木だったこと。ずいぶん前のことだが、猪瀬直樹が三島についてテレビで取材したことがあって、その番組に、母の知人の船江のおじさんが農民作家として登場し、徴兵検査のときの三島についてはなしたのにびっくりした。その徴兵検査の場所が加古川市の公会堂であって、後に市立図書館となり、8年間、図書館員として働いたことがある。
三島由紀夫についてその程度の関心しかなくて、三島についての本も読んでこなかった。
どこかにこの本のことが紹介してあって、私より4年年下の著者がどう書いているのかと気になり、読んでみた。帯に
「徴兵監査第二乙種合格/二十歳の平岡公威=三島は、/兵庫で入隊検査を受ける。/風邪気味だった三島を/若き軍医は肺湿潤と誤診。/三島が入隊すべき聯隊は、/その後フィリピンで/多くの死者を出した/」と、三島は終生思い込んだ。」
とある。乙種には第一と第二があり、第一は「乙種であっても現役を志願する者」「抽選で当たった者」第二は「抽選で外れたもの」、一応は「現役に適する」から召集令状が来たので入隊検査となったのである。徴兵逃れではないが「田舎の隊で検査を受けた方がひ弱さが目立って採られないですむかもしれない」という父の入れ知恵により本籍地の加古川で徴兵検査を受けたが合格した。とウィキにある。
著者によると、その後フィリピンで多くの死者を出した、のではなくて、聯隊は小田原に配置され全員生還していたのである。そのことを三島は知らないまま戦後を生き、そして自死した。という説である。すごい三島論が出た。
だからといって、『豊饒の海』四部作を読もうという気にはならないのは、このところ読んでおきたい本が山積みになっているからだ。3月の「江戸を楽しむ」という講演と4月末の「児童サービスにおける「子ども観」」という作文にエネルギーを使った後、斎藤幸平『大洪水の前に』に手こずり、という5月だった。

2021年05月26日

山口果林『安部公房とわたし』 残日録210519

2013年に出版された本。山口果林が妻子ある安部公房と親密な間柄だったことは、安部が生前だった頃のテレビを通しても感じられることだった。この本には出てこないが、安部の死後、しばらくたってのことだったが、山口果林が『徹子の部屋』に出て、安部について語ることがあった。


徹子さんは、尊敬する安部が死を迎えた時「あなたはその時、どこにいらっしたの」と聞いた。山口は「自宅のマンションにいました」と答えた。「そう、それで安部先生のご自宅にうかがったのね」と徹子さんと言ったと記憶している。


私は意地悪な質問だと思った。安部は山口に看取られたのに違いないと思っていたからだ。

この本で事の顛末を読み、そうではなく、二人の間に幸福な時間の末に残酷な時間が訪れたことを知った。山口はこの本を書くことで、安部との時間から解き放されたのだろう。


夫人の安部真知の死について深く触れていないところが、次の宿題になっているのではないだろうか。

2021年05月21日

図書館長1%論 残日録 210515 

ある図書館長の談話が新聞に載ったのです。自分が図書館長としてできることは、図書館の仕事の中で1パーセントにすぎません。後の99パーセントは、市民の皆さんがやって下さるのです。私はそれに従うだけです」こういう館長は一体、責任をどう思っているのでしょうか。いかにもきれいでしょ。市民の皆さんが見ると、あっ素敵な館長だなと思うかもしれないけれど、これは全然素敵じゃないですよ。専門家だ専門家だと言いながら、その専門家とは、一体何なんですか。市民と役所とか市民と図書館の関係というのは、やはり一種の緊張関係にあるのですね。「市民の皆さんの言うことを私はやるだけです」なんて本当にやれると思いますか?第一、市民の皆さんが言うことといったって、何万人居る人の」いうことをみな聞いているわけではないし、聞くとしたって、せいぜい数人ですよ。一見もっともらしいきれいごとをいう。市民をべたべたべたべた持ち上げる。「みなさんのおかげです」というようなことをやたらいう。私は、本当にあれはいやですね。」
『前川恒雄著作集』第2巻.出版ニュース社.1999.p173~174

とある。「ある図書館長」とその「談話」は明定義人自身のことではあるが、それ以外は、そこから引き出した前川氏の意見というものだろう。ひとくくりにして、人物評として受け止められると、困るところがある。わたしは市民をべたべた持ち上げたつもりはない。専門家だ専門家だと言っている図書館員もいるのかもしれないが、わたしはそういう言葉を使うことはない。専門家なのか、そうでないのか、は99%の側の評価にある。
1%というのは建築家村野藤吾の『99%を聞き、1%を(村野に)託す』という言葉から学んだ姿勢である。建築の世界では有名な言葉である。長谷川堯との対談集『建築をつくる者の心』(「なにわ塾」新書.大阪府.1981)がわかりやすい。
明定の『本の世界の見せ方』(日本図書館協会.2017)でもふれている。

2021年05月15日

映画「ゴジラ」——演劇評論家 上村以和於公式サイト 随談第640回から 残日録 210425 

上村氏は1940年生まれの山村女子短期大学教授で歌舞伎評論家。劇評は日経新聞に書かれている。ブログでは随談だから歌舞伎以外のことも書かれていて、私が楽しみにしているブログの一つ。毎月の渡辺保氏の劇評もまだかまだかと首を長くして待っているのだが、上村氏の方はご多忙のようで、このところ毎月とはいかないこともある。(両氏が3月の仁左衛門の『熊谷陣屋』をほめているので、贔屓としては楽しい。)
もっとも、歌舞伎を観る機会はめったになく、小生も忙しいことこの上ないのだが、これも加齢のせいですることが遅くなっているからだろう。3月下旬からの400字×60枚の原稿が漸くまとまりがついた。内容はもちろんあるのだが、そのための引用が多くて、量だけが目立つ。脇道にそれたが、「ゴジラ」のところを紹介する

先日、日本映画チャンネルで久しぶりに『ゴジラ』を見た。もちろん、1954年制作の元祖ゴジラである。いま改めて見ると、随分真面目に作った作であったことが今更のように思われる。言い尽くされていることながら、この年の春にあったビキニ環礁の水爆実験と第五福竜丸の事件が、仮に際物として作るにせよ、生半可なことでお茶を濁しリアリティをもって見せられなければ、際物としても支持を得られなかったであろう。ゴジラが遂に東京湾から上陸してきて、元の日劇や何かがぺしゃんこにされてしまい、実況中継のアナウンサーの身にも危険が迫り、「皆さん、さようなら」と悲壮な声で叫ぶ中、逃げ道を失って子供を二人抱えた中年の母親が「お父さまのところへ行きましょうね」と言い聞かせているのは、戦地で亡くなり天国にいる夫のことであろう。いま見ると驚くべきリアリティをもって刺さってくる。

とある。小生もTVで見たような記憶があるが、驚くべきリアリティ、に共感する。ウルトラQや初期のウルトラマンにも戦後が色濃くあった。
 上村氏の「随想」風に話を飛ばすと、『キューポラのある町』も戦後をえがいている。最後の方に北朝鮮への「帰還事業」で北朝鮮に帰る朝鮮人一家が出てくる。私の生まれ育った部落(どこの村のことも当時は部落と呼んでいた)にも、朝鮮の人たちがいた。その人たちは帰国をした。後年、一人だけ残っていた人がいて、その人は広島で被爆していて、被爆手帳を持っているので残ったと言っていた。帰ってしばらくは「消しゴムを送ってくれ」などと手紙が来たが、数年後には音沙汰なしになった、と話していた。

2021年04月25日

前川恒雄『未来の図書館のために』(夏葉社.2020.12) 残日録 210405 

一昨日、12時ごろに六夢堂に入ったら、着信履歴があったので、折り返し電話をかけた。前川さんの『未来の図書館のために』が出たことを知っているか、と聞かれた。私(O氏)と明定さんが出てくる、事実誤認のところがあるので、「みんなの図書館」に反論を書いているところだという。
 早速、図書館に予約を入れて、探してみた。93ページに出てくる。

 一九八七年、図書館問題研究会の機関紙「みんなの図書館」が『市民の図書館』批判特集号を組んだ。多摩市立図書館の伊藤峻は、前川がイギリスで間違った勉強をしたから、市民からも行政からも見放された、と書いた。滋賀県高月町図書館長で日本図書館協会の常務理事であったMは、何をいっているのか分からないことを書き、編集担当で日野市立図書館の職員だったOも何がなんだか分からないことを書いた。こんな人たちが私を批判する文章を書いた特集号だった。ある国会図書館の幹部職員が、前川さんは反論を書くでしょうと言ったので、あんな連中と同列になりたくないから書きませんと答えた。
 図書館問題研究会はある時期から私に対する反感を示すようになっていた。私が日野市立図書館長であった頃、小柳屯(たむろ―明定)の業績をとりあげ、歴史のある図書館を改革するのは困難だが、何もないところからの図書館づくりは簡単だと、明らかな私への当てこすりを書いた。数年後の滋賀県立図書館での私をどう評価するべきかとの答えが、あの「みんなの図書館」の特集号であろう。今でも図書館問題研究会は口舌の徒の集まりだと思っている。……

 O氏は他のページにも指定管理のところで出てくる。指定管理のところの訂正を求めるのだろう。引用した部分については2000年12月号の間違い程度の訂正ですむことだろうと思う。
 引用した部分については、読んでみて「わかる人」もあれば「わからない人」もあるわけで、「わからなければならない」というわけでもないだろう。どこかで波風が立つということでもないだろうに、と思う。

2021年04月05日

講演の付録で言えなかった与太話 残日録 210403

国際収支 2018末:341.4 2019末:364.5 (単位;兆円) 日本銀行国際局

   貿易・サービス収支 貿易収支は、モノの輸出入の差、サービス収支は、輸   送費、通信費、金融、保険、旅行など、形のない取引の収支
   2018:0.1 2019:0.5
   第一次所得収支 対外資産からの投資収益。具体的には、配当、利子、工場    から上がる収益など
   2018:21.3 2019:21.0
   第二次所得収支 国際機関への拠出、食料や医薬品などの無償援助、海外で   働く人々の本国への送金(野球やサッカー選手を含む)
   2018:△2.0 2019:△1.4
   資本移転等収支 政府が外国に行う資本形成の援助(道路や港など)
   2018: △0.2 20198:△0.4
   金融収支    海外に工場を建てるなどの直接投資、外国の株式や債券を   購入する証券資、外貨準備など
   2018:20.0 2019:24.3
   誤差脱漏    2018:0.8 2019:4.6


3月21日に加古川で「江戸時代を楽しむ」という講演をした。間に10分の休憩をはさんで90分間、話した。予定より10分伸びてしまったのだが、質問が出なかった時のために、江戸の中・後期と現在とを比較する話題を用意しておいた。質問は出なかったのだが、熱心に聴講されていて、お疲れの様子だったので、司会者はこちらに「何か、追加することはありませんか」と振ることなく閉められた。
そのときに準備していたのは、日本が「貿易立国」ではなく「内需」によって成り立っているという話で、国内需要が低いために、企業の利益は海外投資に流れていき、第一次所得収支が大幅な黒字になっていること、そしてその黒字がまた海外投資として回っていき、国内で「円」として流通しないこと、などなど、であった。
そして、内需が伸びないのは何故か、という話になり、江戸時代には「御新規御法度」新しいものを開発してはならない、と幕府がブレーキをかけるが、現在の日本ではどうでしょうね、と問いかけて終わることにしていたのだった。
現在の内需を拡大させることについては、いろんなことが考えられると思う。内需が大きくならない原因についてもいろんなことが言えるだろう。
コロナ禍のパンデミックのなかで、いまどの国も他国との人と人交流を縮小させている。当分はインバウンド需要は見込めない。
高齢者の外出を制限し、軽症で収まる若者にまで、飲食店利用の規制を求めなくともよいではないか。もちろん、一人一人の席の間にアクリルパネル立はてた方がいいし、それは行政の仕事だろう。長野県では食堂、レストラン、ラーメン店、バー、ナイトクラブ、喫茶店など、申請すれば無償配布している。
「三蜜」、マスク、手洗いは、自己防衛の範囲であって、そこに行政が力点を置くのは自己努力を求める「新自由主義」の発想だろう。やつらの「自助」というのは、「財力がある」「コネがある」「忖度される立場にある」あたりであって、コロナに罹るのも「自助」力が低いからであって、罹るやつらは、「三蜜」の居酒屋あたりで、大声を張り上げている「敗者」の群れにしか見えない。厚労省の役人は「自助」族なもので、コロナに罹るとはつゆほども思っていない。
だがしかし、その敗者の群れが内需を拡大させるのであって、「自助」族は「株価」を「バブル化」するしか能はない。

2021年04月03日

2021の賀状

頌春 

年明け早々、幾度見直しても影の薄れた自分の顔が、こいつが宿命的にあんまりいい出来でないことをまた見定めた。御蔭でいわゆる余計者の言葉を確実に所有した。余計者もこの世に断じて生きねばならぬ。過去というものと虚栄というものと、この二つの後始末さえもできないまま、月並みな老いの嘆きのただ中にある。

余計者にも語りたい一つの事と聞いて欲しい一人の友は入用なのだ。

 

元ネタ;小林秀雄「Xへの手紙」

2021年03月08日

斎藤環+與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮社.2020)

「表裏」に、



「友達」はいないといけないのか。「家族」はそんなに大事なのか。「お金」で買えないものはあるのか。「夢」をあきらめたら負け組なのか。「話し上手」でないとダメなのか。「仕事」を辞めたら人生終わりなのか。「ひきこもり」を専門とする精神科医と、重度の「うつ」をくぐり抜けた歴史学者が、心が楽になる人間関係とコミュニケーションのあり方を考える。



とある。



與那覇 実はデイケアでSST(社会技能訓練)をやっていたときに、忘れられないエピソードがあるんです。患者さんが「働いているときに苦しかった状況」をロールプレーイングで再現するのですが、どう考えても「病気」なのは患者を追いつめた人の方でしょ、という話がいっぱい出てくる。パワハラ上司とか、モンスタークレーマーとかですね。彼らに攻撃されてうつになるのは「普通の人」であって、ほんとうに治療が必要なのは相手の側なわけです(苦笑)。

 これって変じゃないですかと尋ねたところ、臨床心理士の答えが振るっていて、「たしかに上司やクレーマーがクリニックに来たら、病気と診断される可能性が高い。ただ彼らはたまたま、いまのところ地位や立場が守られていて<本人が困難を感じていない>から、来院せず、病気だと言われていないだけですよ」と。つまり誰が心の病気と呼ばれるのかは、しばしば当人の気質や症状以上に、社会に置かれている環境で決まるわけですね。



斎藤 医療関係者が「事例性の問題」と呼ぶものですね。典型は発達障害で、少し子どものふるまいが周囲と違っても、親が「この子の個性だから」と受け入れて何もしなければ事例化しません。しかし親御さんが過敏だったり、「発達障害バブル」的な言説に煽られたりして「うちの子は絶対おかしいから診てほしい!」と病院に連れてくると、「障害」として事例化することもあるわけです。

 心の病気は①本人が苦しさを感じるか、②周囲が問題視しているか、という二重の基準によって、病気として発現するかどうかが決まる。その意味では「相対的なもの」ですが、だからといって苦しさの度合いが低いわけではなく、レントゲン等で「客観的」に観察できる病気よりも、社会的な病であるからこその、深刻な苦痛や葛藤を引き起こすことがあります。



與那覇 ある社会では「きみはおかしい。病院に一度行くべきだ」と言われることが、他の社会では「こんなの常識。そっちが合わせろ」となっていることもありえると、



斎藤 その通りです。わかりやすいのは青少年のいじめで、アメリカなら加害者がパーソナリティ障害などを疑われていて病院に連れていかれるケースでも、日本は逆に被害者だけが通院して「適応障害」などの診断を受けて終わりにされることが多い。つまり、いじめる側の「やんちゃ」は一過性のもので、大人になれば落ち着くだろう。だから病気とまで言うほどのことはないと、そう扱われがちな風土があるんですね。



與那覇 なにが病気と見なされるかは、裏返すと「なにが〈普通〉と見なされているるか」とイコールですから、心の病を切り口とすることで、社会や文化の問題が見えてくる。気になるのは、本書のこうした認識が、どこまで治療者の側にフィードバックしているかなのですが……。



斎藤 これが大問題で、遺憾ながら精神科医の九割以上は、あくまで疾患を「脳の問題」としてのみ捉えて、薬物治療主義に閉じこもっている状況なんです。うつ病でも統合失調症でも、「この検査データがこうなっていたら確実にその病気」といったバイオマーカーは発見されていないのですが、頑なに病因を脳に還元して、社会とのつながりを軽視する人が多い。学校や職場の人間関係にちょっと介入するだけで解決できる問題もずいぶんあるのですが、そうしたケースワークが不得手な意思があまりにも多い。

(P240-243)



 これは「保険適用にするには「病気」にしないといけない、そのためには生物学的な病因がなくては……といった思考に行きがち」だからだと斎藤は言っている。薬物治療主義は「診察時間の短縮」ともつながっているのかもしれない、と思うが、想像の域を出るわけではない。斎藤によると「最近は、ひきこもりの当事者たちがこうした傾向に反発しはじめている」という。「当事者研究」という分野から様々な声があがることだろうと思う。

20201011

2021年01月09日

「成長戦略」と徳川吉宗「新規御法度」



リフレ派の上念司の『経済で読み解く明治維新――江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟で解明する』では江戸時代の中期以降、人口が3000万人と停滞していることについて、幕府内の権力闘争によって老中の構成が変わることで、「リフレから緊縮へ」「緊縮からリフレ」へというかたちで何度も経済政策が転換され、「根拠なき緊縮政策」が新井白石や松平定信によって推進されたことによりデフレーションが発生した、としている。

 リフレ派だから量的金融緩和(アベノミクス第一の矢)は当然だが、「金融緩和によってお金を増やせば、必ず物価が上がり、名目GDPも増加する」(原田泰)ということにはなっていない。

 第二の矢の「財政・税制」では、公共投資の効果については論議の分かれるところだが、少なくとも五輪需要が無くなって以降の建設セクターでの下支えにはなっている。消費税増税はリフレ派からするとブレーキでしかないのではないか。

 さて、第三の矢の成長戦略と言うと未透視は暗い。

 あほ内閣からすか内閣に変わって、竹中平蔵がより一層前面に出てくることで、新自由主義(ネオリベラリズム)政策が進められると、小泉政権時代のホームレス続出が再来するのではないか、という危惧も思い浮かぶ。

そうならないことを願うが、今日の成長戦略の空振りについて考えたい。

江戸時代中期からの人口の停滞は、経済政策の混乱もあったが、8代将軍の徳川吉宗が出した「新規御法度の御触書」が発明・技術の改良を阻んだ面も大きいと思う。

藤原裕文「新規御法度制度から特許制度まで」によると、



江戸時代には新規のものを工夫・発明することを禁止した時期があった。享保の改革を行い、徳川家中興の主といわれる8代将軍・徳川吉宗は、

「一、呉服物、諸道具、書物はいうに及ばず、諸商売物、菓子類も新規に巧出することを、今後堅く禁ずる。もしやむを得ない仔細のある者は役所へ訴え出て、許しを受け巧出すること」「一、諸商物のうち、古来通りですむ物を、近年色を変えたり、数奇に作り出す類の物は、おって吟味し禁止を命ずるので心得おくこと」という新規御法度の御触れ書きを1721年に発し、その後も同様の主旨の法度をたびたび発しているのである。本来は農民に自給自足を強要して米経済を維持するために贅沢を禁止する法令であったが、改善や新規発明に関するお触れ書きにそれ程の規制力はなかったとする見方もあるが、明治時代に制定された特許制度のように積極的に新規の発明を保護・奨励しようとするものではなかった。

 特許制度が存在しない江戸時代において、一子相伝により、技術を伝え、独占し、利益を確保するのは、やむを得ない事であった。



 小林聡「江戸時代における発明・創作と権利保護」では、



 新規法度は、質素倹約・奢侈禁止という武家の風潮に基づく禁令であったとするのは説明として十分でない。これらの触は物価抑制のために出された触である。江戸時代は、近現代とは異なり、清算の主力は機械ではなく職人であって、職人が生産技術を習得するには年単位での歳月を必要とした時代であり、労働力の流動性や柔軟性に乏しかった時代である。江戸時代中期の日本の人口は2500万人前後で、年鑑増減数は多いときで20万人弱であったとされ、災害直後を除き需要が大きく変動することは少なかった。一方、職人が発明・創作に労力を費やせば自ずと有来物の生産性が低下し、供給量が減少するから有来物の価格上昇につながることとなる。また、当時の物価は他の品目の価格上昇に敏感に反応したこともあって、幕府は江戸時代を通じて諸物価の上昇に神経をとがらせていた。江戸時代中期にあたる享保年間、幕府は物価抑制策として、新規法度を出すとともに、業者間の組合を結成させ、組合による価格の監視と価格の維持・抑制を行わせることとした。



とある。

 新規御法度は発明・改良を阻んだ。そして物価安定のために組合をつくることで、新たな参入を阻む結果となった。

 江戸時代の新規御法度や経済政策から、今日の成長戦略の不在を考えると、原因は違っているが、発明・改良の機運の停滞、物価抑制策をとっていないにもかかわらずインフレ基調にならない、という現象は同じだといえる。

 発明・改良の改良の方は日本人のお得意とするところである。発明はどうかというとあまり得意とは言えない。クリエーティブであること、失敗を恐れないこと、については苦手とするところである。

 江戸中期には、幕府が新御法度をだして規制をしたのだが、明治以降令和に至るまで、教育の国家統制によって、多彩な人材は生まれにくく、発明・改良は阻まれている。

 黄野いづみによると「東大脳」とは「自分で目標設定し自分で努力する、自立した脳」のことだそうである。「東大脳」を持った東大生がどれくらいいるのか、クイズに強い「東大王」はTVで観たことがあるが。「東大脳」とは変なネーミングであるが、「自分で目標設定し自分で努力する、自立した脳」を獲得する人たちが増えると、発明・改良の波は高くなることは間違いない。

 私はリフレ派支持であるが、「金融緩和によってお金を増やせば、必ず物価が上がり、名目GDPも増加する」(原田泰)とはなっていないのは、増やしたお金が株価を押し上げるだけになっているからである。麻生副総理の「老後2000万円」発言で、高齢者の消費は縮小し、2%の消費増税でも買え控えがあり、その上今次のコロナ禍である。先行きの不安を払拭してくれる政策は期待できないから、消費は伸びない。

 そしてもう一つ消費が伸びない要因に、購入慾を刺激する商品が開発されていないことが挙げられる。人々は安くてそれなりに良いものを消費する。

20201220

2021年01月09日

與那覇潤「赤い新自由主義」論

與那覇の『知性は死なない―平成の鬱をこえて』文藝春秋,2018 から



 昭和60年安保を念頭に「集団的自衛権に反対して政権をとめる、たおす」と息まいた人々は、知識人もふくめて完敗しました。必要性を説く相手にたいして、国民多数の支持をえられなかったからです。

 同一労働同一賃金では、論争の構図が反転します。政権側がその必要性を打ちあげても、安倍首相に代表される保守主義を基盤とするかぎり、それは「実現できない」のです。

 あの時やるといったのに、できていないではないか。それはあなたがたの思想に、根本的な岩塊があるからではないか。「なんでも反対」ではなく、「実現するための交代」をもとめていく力が、いま野党には必要とされていると思います。

——―そう、まさに平成の最初にも、そのように説かれていたように。

 そのためには「生き方は個人の自由であるべきだ」という価値観を、国民の共通認識にすることから、はじめなくてはいけません。保守主義が標榜する特定の家族観やライフコースには、しばられない社会像を提示して、はじめてリベラルの意義が生まれます。

「正社員である」「入籍している」「子どもがいる」。それぞれにすばらしいことです。

 しかしそれは、ほかの生き方を否定する利湯にはならないし、だからそういう特定の人生設計だけを、国家や資本が支援するような諸制度は、改正が必要だ。

 同一賃金同一労働とは、「こっちにも金よこせ」という分配の問題である前に、自由な生きかたの問題なのだ。そういう認識に立てるかが、多数派形成の鍵になるのではないでしょうか。

 すでにのべたとおり、そうした発想は、終身雇用・年功賃金といった「日本型雇用慣行」を解体させてゆくので、平成に展開した以上の「新自由主義」になります。しかし、伝統的な家族像に依拠する生きかたの強要をも、拒否する点で、レーガン=サッチャー氏j\期の英米のそれとも異なります。

 だれもが自由に生きかたを選べる社会を、目指すうえで提携すべきは、弱肉強食をといてきたこれまでの新自由主義ではないのです。「能力があるなら」自由になれると主張して、ごく一部の「有能な個人」をシンボルに立てて多数派をうしなった、平成の書物群がとった戦略の失敗をくりかえしてはいけません。

 むしろこれから必要なのは、日本では同一企業の内側のみにとどめられてきたコミュニズム(共存主義)の原理を、その外にひろがる社会へと、時はなっていくことです。

 そのために必要とされるのが、たとえばアフォーダンス的な方向での、能力観の刷新であり、社会的に能力を「共有」しつつも、自由や競争をそこなわない制度の検討です。心理学から経済学まで、さまざまな学問の知見がもとめられます。

 冷戦下では両極端にあるとされてきた、コミュニズムとネオリベラリズムの統一戦線———いわば「赤い新自由主義」(red neo-liberalism)だけが、清に冷戦がおわったあと、きたるべき時代における保守政治への対抗軸たりうると、私は信じています。(p274~6) 太字は、元は強調の「ヽ」



アフォーダンスについて、日本大百科全書の中島秀之の解説(2019.7.19)では・



知覚研究で知られるアメリカのギブソンJames Jerome Gibson(1904―1979)によって提唱された概念。環境がそこに生活する動物に対してアフォード(提供)する「価値」や「意味」のこと。歴史的にみると、ギブソン以前の考え方は、環境からの刺激を生体がその内部に取り込んでからさまざまな処理をして、意味や価値をみいだすというものであった。たとえば当時の視覚研究においては、網膜は外界の情報を写したものであり、認知システムは網膜情報のみを用いて知覚を行っているという考え方が主流であった。ギブソンの貢献は、そうした考え方からの脱却にある。ギブソンは、アフォーダンスは環境の側にあり、認知主体はそれを探すだけだというのである。たとえば、地面の傾斜の情報はそもそも地面の側にあり、主体が視覚情報から計算するのではないということだ。これと同様の考え方は「環世界」や「オートポイエーシス」にみられる。

 ただ、ギブソンの考え方は情報源を環境の側に限定している点が、少し行き過ぎと思われる。実際には「価値」や「意味」は、主体と環境との相互作用によって明らかになると考えるのが正しい。たとえば、森を歩いているときに、木の切り株をみつけたとする。ギブソンに従えば、木の切り株は「座る」という行為を人間にアフォードしていることになるが、実際に「座る」かどうかは、座る側の人間の身長や体重に依存するであろう。

 なお、アメリカの認知科学者ノーマンDonald A. Norman(1935― )はデザインの分野で同じ用語を使い始めた。よいデザインとはその使い方をアフォードするものでなければならないという。たとえば、ドアについた縦の取っ手は引くことを、横の取っ手は押すことをアフォードしているという。



 とある。

 「主体と環境との相互作用」によって生まれる「価値」や「意味」は、過去の経験によって先入観などの固定概念として個々人が獲得するものであって、そこには差異がある。與那覇は「人間は、言語によって組みたてられる論理だけで、うごいているのではありません」とし、言語帝国主義(文明・進歩・科学・平等・自由……といった抽象的な言語によって語られる理念の世界)への身体の反発(反知性主義≒反正統主義)を肯定する立場でなく、アフォーダンスを引き合いに出し、能力観の刷新を求めているのです。「広義の反知性主義のほうが「多くの人間にとってはふつうのありかた」なのだと、発想を変えなくてはいけないと思っています。/ほんらい、主義(-ism)とよばれるべきなのは、「大学、ないしそれに準ずる正統的なサークルに属し、言語によってものを考え・分析し・表現している人々だけが、知性のにない手である」とする価値観、いわば「知性主義」のほうではないかと思います。/そうすることではじめて、世界的なアンチ・インテレクチャリズムの奔流にどうむきあうか、そのために大学にはなにが必要なのかが、みえてくるのだと思っています。(P147~148)



 鬱状態から回復する中で書かれた一冊である。身体論が身近にあった私の人生からは遠く離れたところにあるが、與那覇の「言語化」のエネルギーから刺激を受けるところが多い。

20201107

2021年01月09日

菊田一夫の「戦意高揚劇」と戦後

小幡欣治『評伝菊田一夫』岩波書店.2008から



 (昭和十八年の「情報局国民演劇選奨要綱」について)

 要約すると、「聖戦完遂に対する国家総力結集の原動力たり得べき国民演劇の樹立を促進するは、決戦化日本演劇に課せられたる重大使命である」の趣旨のもとに、参加した作品は厳重に審査し、承認された演目が上演される場合には「情報局国民演劇参加作品」と明記するように命じられている。優良な物には情報局賞(千円)、とくに優良な物には総裁賞として参千円が贈与されると決められていた。(『演劇年鑑』昭和十八年版)

 該当作品は必ずしも戦場や兵隊の出てくる「戦争劇」とは限らないが、「高揚劇」であることに変わりはなかった。

 菊田一夫を例にとると、同局の参加作品は昭和十八年『交換船』(情報局賞受賞)の一本だけだが、ロッパ主演の「高揚劇」は十本以上にのぼっている。劇場はすべて有楽座であったことを考えると「戦意高揚劇」の時代だった、と言ってよいだろう。

(略)

べつに菊田一人だけが書いていた訳ではない。同時代の商業劇作家、たとえば川口松太郎も中野實も書いているし、北条秀司や阿木翁助も書いた。だが、戦時中の「高揚劇」ということになると、なにはさておいても菊田一夫の名前が真っ先に挙げられた。他の作家たちに比して数が多かったということもあったろう。しかしそれにもまして菊田一夫の名前に「高揚劇作家」の刻印が打たれたのは、滅私奉公を主軸とした巧みな菊田ドラマに、戦時下の観客が感銘したからである。すべてとは言わないまでも、その中のいくつかは、説得力もあり人物の造形も確かな力作と呼べる作品だった。しかもこの時期『道修町』を書き、代表作の『花咲く港』を発表して得意の絶頂にあった。いい替えれば、菊田一夫のこれまでの作家人生の中で最も脂が乗りきっていたのが、皮肉なことに戦時中のこの時期だった。皮肉というのは、もしこの時期、筆力が衰えていたら、あんなにたくさんの「高揚劇」は書かなかったろうし、また書かせて貰えなかったろう。『髭のある天使』や『交換船』といった異色の「高揚劇」だって生まれなかった。そうであれば、戦後になって菊田一夫が戦犯作家と呼ばれ、占領軍の影に怯えながら日々を過ごすこともなたった、という意味で、ピーにであったことは皮肉だった。

(略)

戦後六十年が経ち、今のこの時点で菊田たちを批判するのは簡単だ。しかし、多少なりとも時代を共に生きた私には、菊田一夫やほかの作家たちの仕事を断罪する気にはなれない。問題があるとすれば、戦後になって彼らがどういう生き方をしたか、ということだと思っている。そのことについては後章に触れる。(p109~112)



とある。戦後、昭和二十三年十一月十三日、東京裁判で東条英機ら七名に絞首刑の判決が下った翌日未明に書かれた私信では、



戦争裁判が遂に終わり、判決が下されました。過ぎた日のあの戦争を、判決をうける人自衛であったと言いはり、判決はそうではない侵略であったと宣言されました。

その国にはその国々の体質があり性格がありますから、判決をうける人々もきっと嘘を言っているのではなく、心から自衛だと思っているのだと考えます。

あの人たちのこしらえた政策により、私たちがそう思わされたにもせよ、あの当時は、私たちも、あの人たちを立派だと思ったり尊敬したりはしなかったにもせよ、少なくとも、私たちの代表だと思っていたことにはまちがいがありません。……と思って、あの当時、心から、戦争が勝てばいいと思っていたのは、私のような学問のない、物書きだけかもわかりませんけど、いま判決をきいて、ほんとに心から、あの人々を気の毒だと思い、たくさんお戦死者のことを考えると、やっぱり、死んでいただかなくてはと考えます。あの人たちがわるかったのではなく、あの人たちのやった政策が、死に値するほど、いけないものだったという意味でです。



戦争はほんとうにいけないことでした。

わたしにわかることは、唯、それだけです。

ほかの難しいことは判りません。



 (略)



私などは、所詮、芸術などというものは書けないのですから、せめて、今後は、戦争のない世の中になるようにと念願したものだけを、書きつけていきたいと思っています。(p150~153)





 昭和二十二年に二本の舞台劇『東京哀詩』『堕胎医』を発表している。



 前者は、戦後まもないガード下が舞台で、戦災孤児、夜の女、やくざ者、など、底辺に生きる人間たちの姿が生々しく描かれている。戦後風景の一齣を切り取ったドラマとして菊田は覚めた目で書いている。わずかに最後の景で、浮浪児たちが夢の中で死んだ父母に出会ったり、楽しい食事をしたりする場面に、菊田一夫のリリシズムが胸を熱くさせる。

 (略)

 後者は……戦地から帰って来た若い医師が、夫から性病を移された妊婦に診察を頼まれる。彼は極力、人口流産をすすめて、それを実行する。因果な病毒の子は、ひとまず出生をまぬがれたが、やがて手術に当たった医師は、堕胎医の嫌疑で警察の取り調べをうける。

 菊田一夫のヒューマニズムが暗い芝居を支えているが、描かれるのは、国内におけるもう一つの戦争の惨禍である。(p160)



 菊田一夫の戦後の大ヒットはラジオドラマ『鐘の鳴る丘』『君の名は』から始まる。



 戦争中に、国策協力という至上命令で多くの「高揚劇」を書かされた、否、使命感に燃えて書いたが、その付けは、戦犯文士という思いもよらぬ代償として帰ってきた。政治や社会運動にはおよそ無縁だった菊田一夫にすれば、なにがなんだか判らぬうちに足元を掬われて転倒した。一介の芝居書きが、それもアチャラカ出身の作家が、政治的な報復を受けるなどとは夢にも思わなかっただけに、彼は政治というものの恐ろしさにふるえ上がった。

 『鐘の鳴る丘』は、汚名をすすぐ、というよりは戦時中の贖罪の意味を込めて必死に書いた。幸い好評だった。しかし『鐘の鳴る丘』と『君の名は』の間には五年の歳月があった。五年を長いとみるか短いとみるかは別にして、戦後の傷跡に触れることに多くの日本人の心が微妙に変化しているのを、菊田は投書の数々で知った。「わずか五年間に、なぜ変わってしまったのか」、うつろい易い「大衆」の心理といってしまえばそれまでだが―—社会の矛盾なんかどうでもよい、そんなことより、春樹と真知子の恋はどうなるのだ―—という聴取者の声を菊田は憮然たる思いで聞いた。

 『君の名は』冒頭の「忘却とは忘れ去るものなり」の序詞が、「大衆」を指したものであったという皮肉に菊田一夫が気がついたかどうか、今となっては判らない。

 この時の教訓は、その後の菊田作品から政治的な問題はむろんのこと、時事的な話題ですら意識的に避けるという芝居づくりになって現れた。(p177~178)



 蛇足ではないけれど。



 「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」の前半だけだと「大衆」を指しているが、「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」もそうだろうけど、少し深い。



 忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ-。テレビが普及する前の1950年代初め、毎回こんなナレーションで始まるラジオドラマが大ヒットした

▼菊田一夫原作「君の名は」。戦火の中で巡り合った男女が愛し合いながら擦れ違いの運命に翻弄(ほんろう)される。それでも互いに相手のことがあきらめ切れない…。後年、映画やテレビドラマにもなった

▼忘れることができるなら、それこそどんなに楽なことか。悲恋に限らず、人はさまざまな苦難に直面する。とりわけ災害や犯罪で理不尽にも尊い肉親らを失った人々の境遇は過酷だ

▼忘れることは癒やしにつながる。時の流れがそれを後押しする。けれども社会全体としてみれば、惨事の記憶こそ忘却のかなたに追いやってはならない。そんなジレンマもある

▼地震への備え、虐待の防止、通学路の安全…。教訓が叫ばれながら私たちは人ごとのように聞き流していたのか。今年も幼い女児らが相次いで命を落とすなど悲劇が繰り返されている

▼テレビに加えインターネットが普及した情報社会にあって、人の記憶力や想像力はむしろ退化していないか。1年の後半が始まるきょう7月1日は「国民安全の日」-。生活のあらゆる面で国民一人一人が安全に留意し、災害の防止を図る日とされている。政府がこの日を制定したのは1960年。先のドラマと同じく半世紀以上前のことである。

=2018/07/01付 西日本新聞朝刊=

20200914

2021年01月09日

小宮山量平「『敗戦』三十年を考える」から

 先見の明を誇る思いはないのです。むしろ哀しい予感というべきでしょうか。八・一五から一年たち、二年たつのにつれて、深い哀しさが私をとらえるようになりました。

 ――私たちの心は一九四五年8月5日において敗れてはおらず、おそらくは更に二、三十年後に真の敗戦を実感するのであろう。

 当然、こういう意味の文章を、何度も記しております。季刊『理論』は、こんな思いを刻むための雑誌であったとも言えましょう。公式主義を踏まえて頑なに対立しあうような風潮を克服するための「共通地盤」を考える特集を、毎号つづけていたものです。

 それらの特集から、『近代理論経済学とマルクス主義経済学』とか、『社会科学と自然科学の現代的交流』など、私の初期単行本の出版も発足したのでした。今にして、学際的交流などが高唱されはじめている潮流を眼のあたりにしますと、悲しい微笑が生じます。

 また、啓蒙主義的な理論や思想の受け売りめいた客観主義に逆らって、『主体的唯物論への途』だの『戦後精神の探求』なdの諸著が示すような主体性への呼びかけも熾烈な社風でありました。この時期の単行本が二十年後の六十年代に、学生の基本文献であるかの如く復活しはじめたころ、私は、あだ花をみつめる思いで、自分では増刷も新版も試みませんでした。

 ――虚しく時は過ぎた!

 そう思うのです。気づくべきときに気づくのと、後になって気づくのとでは、埋めつくせない溝があるものです。後悔は先に立たず腹水は本にかえらない道理です。もともと、「敗戦」と言えば、どんな革命や改革よりも、ダイナミックな変革の道すじを示す大転機だったはずです。(以下略)

(初出「文化通信」1975.3.10 『出版の正像を求めて』日本エディタースクール出版部,1985 所収)



 理論社というと『兎の眼』や「ぼくは王さまシリーズ」の児童書の出版社という印象が強いが、創業者の小宮山は当初、経済・歴史・社会科学の出版社として理論社を発足させている。

20200901

2021年01月09日

菅野青顔 再び



以前、青顔について書いたことがあった。後日、ブログを読まれた市立気仙沼図書館の元館長の荒木英夫氏から、自ら書かれた「菅野青顔」の論稿の複写をいただいた。お手紙では、昭和4年(1929)の気仙沼大火に罹災した経験から、海岸線近くの市中でなく、青顔の強い意志で、住民にとって不便な高台に図書館を立てている。このことが気仙沼図書館の蔵書を津波からまもることとなった。荒木氏は青顔の先見の明に脱帽しておられる。

 青顔の活躍については「気仙沼市の図書館100年のあゆみ」がPCでその概略を知ることができる。



 この程度のことなら「「菅野青顔 +追記+また」として書き足しておくこともできたのだが、安藤鶴夫『新版百花園にて』(三月書房.1999)に菅野青顔らしき人物を発見したので、「再び」として載せることにした。



みちのく本〈巷談本牧亭〉(P190~195)

 読売新聞で、日曜だけ休載というへんてこな連載をはじめた。ということは、正直いって、週にいちど休みになるということは、たいへん、書きにくかったということである。

 だから、去年の一月四日の夕刊からはじまって、六月二八日の夕刊で、ぴたり一五〇回を終わって、それから、たしか、二週間も経たない七月の話である。

 宮城県気仙沼市笹ヶ陣というだけでも、わたしはびっくりしたのだが、その市立図書館とあって、その図書館の館長さんなのか、司書さんなのか、そのへんはまるっきりわからないのだけれど、S・Sという方から新聞が届いた。

 なんだろうと思って、さっそく、帯封を切って、その地方新聞をあけてみて、びっくりした。

 文化面、あるいは文芸面とおぼしきページの、トップに、五段抜きの写真で〝巷談本牧亭〟の本が出ている。

〝巷談本牧亭〟とあって〝安藤鶴夫著〟という、たいへん、立派な本である。

 ぎょっ、という感じと、えっ?まじりあったショックである。

なぜかというと、わたしはまだ、〝巷談本牧亭〟を本にした覚えがないからである。(略)

なにがなんだかわからず、S・S氏の文章を読んだ。

それによると、はじめ、なにげなく〝巷談本牧亭〟を読んでいると、いつもの園芸読みものなんだなと、バカにして掛かっていたら、そのうちになんだか巣k地違ってきて、とうとう、読者になって、こんどは、毎日、新聞のくるのを待つようになり、終わって見事な製本をして、それを撮影して、そして書評を書いたというのである。

(略)

私は、著者の私が知らない間に、この世の中にちゃんと〝巷談本牧亭〟が本になっていることを知って、感動し、涙をこぼした。

しかも、それが宮城県気仙沼というところである。

(略)

そんな遠いところで、みも知らぬひとが、わたしの本をつくって、机の上にのせて下さるということは、なんとも、ありがたいことである。

(以下、略)

20200831

2021年01月09日

気仙沼の図書館長だった菅野青顔

敗戦以降の図書館人を振り返ると、伝説の時代があり、英雄の時代があり、群雄割拠の時代があった。今は茶坊主の時代だ。と研究集会で言ったら、少し受けた。

その伝説の時代の図書館人の一人に、気仙沼の図書館長だった菅野青顔という人物がいる。

この人は気仙沼の水産加工業を営む家の倅で、1903(明治36)年、気仙沼生まれ、小学校を終えると、気仙沼水産講習所(のちの気仙沼水産高校)にすすんだ。17歳の頃、突然「書物三昧」の生活に入り込み、仕事をしなくなる。結婚するのだが、やがて家業は倒産、家屋敷を手放すことになる。青顔は「書物三昧」の世界に入り、生計は青顔夫人やへ子が支えることになる。その後、大気新聞の記者を経て、1941(昭和16)年、気仙沼町立図書館の事務嘱託職員、1949(昭和24)年8代目の図書館長となる。1978(昭和53)年7月まで館長を続け、その後は読書三昧と三陸新報『萬有流転』の執筆生活に入る。1990(平成2)年、逝去。

菅野青顔については青森の三上強二氏から聞くことはあったが、1970年代の図書館の潮流とは異質の人物であったので、後任の荒木英夫館長にもお聞きする機会を逸していた。

菅野青顔追悼集『追悼・菅野青顔を語る』(1990)の中で、荒木氏は以下のように書かれている。(P352~354)

青顔館長は図書館の蔵書は権威あるものでなければならないとの信念を持ち、図書館を利用すれば、中央の学者にも負けない研究が出来るような図書館を気仙沼につくることが念願であった。だから私らに良くいったものだ。「せっかく文献を集めたのだから、東大や外国の学者が頭下げて教えを乞うくらいの研究をしろや、それが図書館の権威を上げることだよ」と。

青顔館長のもう一つ素晴らしいことは、図書館の仕事に誇りを持ったことであろう。とかく行政体の中で、図書館とは閑職と思われ、コンプレックスを持つ人も多いが、氏にはそれが塵ほども無かった。「人まねの出来る動物はいても、本を読む動物は人間だけだ。本も読まず、図書館に関心ない人間は、相手が誰であろうと俺には猿か熊くらいの価値しかない」と言い、また初代国立国会図書館長金森徳次郎氏が、「人生を顧みて、お前の生前やった良い事は何かと閻魔に尋ねられたら、恥入ることばかりだ」との意味の随筆を書いてあったのを評し、図書館の親分をやったくらい立派なことはない、それで文句を言う閻魔なら、頭を殴りつければ良い、と言ったものである。

特に念願の新図書館を落成させ、昭和四十四年度の北日本図書館大会を開催した時は、閉会に当たり、「図書館職員は〝世界至高最大な仕事〟に誇りを持ち、推進したい」と挨拶し、参加者に感銘を与えたものであった。

新館落成後は、実務は専ら職員にまかせ、その人間的魅力と政治力で作られた二十余りの寄贈文庫(市民有志から年間一定額の寄付申し出を受け、図書の選定は館長にまかせる)を基礎に基本蔵書の充実に力を注いだ。

この頃から、戦前以来の教養主義中心の読書に対し、社会一般人に根を下ろした図書館活動が展開されてきたが、他方それに疑問を表明する渋谷国忠氏(前橋図書館長)を代表とする図書館人もあった。青顔館長も渋谷氏も大正期に青年時代を送った教養人、自由人であり、また辻潤の研究家で萩原朔太郎の研究家であった渋谷氏とは親交があったためか考えに共通する所があった。「基本図書も大切ですが、市民の利用する小説や実用書も充実させては」と進言したが、「俺はクズ本は集めない」と主張は曲げなかった。教養人として徹し、哲学を持った館長だったといえよう。ただし館外奉仕の本の選定と。収書以外のことは職員を信用して自由にやらせてくれ、頼み甲斐のある上司であり、その自由な雰囲気の下で、日本の公立図書館としては大分変ったこと(公立図書館としては当然の活動と思っているが)もやった。

例えば昭和四十七年に有吉佐和子の『恍惚の人』が話題となり、読書界で良く使われたが、同じベストセラーの『日本列島改造論』を題材にしないのはおかしいと、保守系と革新系の市会議員を講師に市民読書会を計画したら、総選挙にぶつかり、外部から見合わせるよう注意されたが、青顔館長は「やれてバ」と支持してくれて、実行、大勢の市民が参加し好評だった。

また昭和五十二年に大型店が進出した際、大型店問題の資料を提供するのは公立図書館の市民に対する義務だと資料を集めたが、その提供に当たり行政と市民団体の間に立ち、いろいろ困難な問題に当面した。これを何とか乗り切れたのも青顔館長が理解してくれたからで、その活動経過は情報公開制度と今後の図書館活動の在り方として図書館界で注目をうけ、『法律時報』で取り上げられたりした。これが私を図書館の自由宣言に関係させることになってしまったのである。

菅野青顔は、辻潤や武林無想庵と親交があった。大泉黒石、宮沢賢治、湯川秀樹らを早くから評価していたという。

青顔というのは雅号で、「青顔さんは終始一貫、本名を用いず、雅号で押し通した。市役所など公文書は本名を記すので、『千助』という本名の表彰状や辞令をもらうと、青顔さんは憤懣やるかたない態度を示すのが常だった。青顔館長の反骨の姿勢がそこにみられるようであった。」(佐々木徳二)は贔屓の引き倒しだろうが、追悼文集は80人近くの人が文を寄せている。教養人、自由人であり魅力的な人物であることは間違いない。

追記

民芸店の備後屋でギャラリー華を開いていた故俵有作さんが、気仙沼の図書館に博学の館長がいた、君もああいう図書館人になりなさい、と言われたことがあった。菅野青顔のことだな、と思ったが、そんなの到底無理ですよ、と言ったことを思い出した。青顔は生活のことなど関係なしの人生であって、家計は奥さんまかせのようだったらしい。追悼集にそのようなことが書かれている。

私はそこまで徹底できない。というか、人としての大きさや魅力が欠ける私には、青顔を目標にすることなど、およびもつかない。石橋を叩いて渡らない父の背をみて育った者にとっては、青顔は無縁の人である。図書館についても「門前の小僧」でしかない私からすると、青顔や残日録54の蒲池正夫の闊達が羨ましくもある。

2019

2021年01月09日

宮脇淳子の中国論ほか

藤原書店のPR誌「機」に宮脇氏の連載「歴史から中国を観る」がある。2020.08号はその3回目「一国二制度」から一部を紹介する。



 しかし、歴史上、中国が約束を守ったことがあっただろうか。

一九一一年十月、清の南部で辛亥革命が起きたよく一二年二月、生涯皇帝の称号を有して紫禁城で暮らしてもよい、という優待条件を袁世凱が示したので、清朝は中華民国に禅譲した。しかし、一九二四年最後の皇帝溥儀は、軍閥の一人馮玉祥のよって紫禁城から追い出される。

一九一五年、日本は南満州鉄道と関東州の租借期限の九九年延長を、袁世凱に認めさせた。ところが張学良は、袁世凱が結んだ「二十一カ条要求」は無効であるとして、国権回復運動を起こす。これが満州事変の原因となった。

これらは、他人の結んだ約束など、私には関係がない、という表明である。

鄧小平の「韜光養晦」(とうこうようかい;才覚を覆い隠して、時期を待つ)戦術は、中国が力をつけるまでの時間稼ぎにすぎなかった。力がついたいま、何をしようと勝手だ、というのが中国人のふつうの考えなのである。



1984年に中国とイギリスが調印した「50年間は一国二制度」が、香港返還23年目にして「香港国家安全維持法」施行された。今回の習近平の措置は約束違反であると西側世界は抗議している。このことについて書かれたものである。

宮脇氏には『かわいそうな歴史の国の中国人』『悲しい歴史の国の韓国人』『満州国から見た近現代史の真実』といった著作がある。

『かわいそうな歴史の国の中国人』は「歴史的にみれば中国という国すらない」「「中国」と「中国人」は20世紀に誕生した言葉」から始まり、「沈む船から一番先に逃げ出すのが中国人」までコラム風の歯切れのよい文章が並ぶ。

 2年ほど前、まちづくりセンターで「日本歴史入門講座」を数回開いた。関連で、ミニ授業書「焼肉と唐辛子」を取り上げ、朝鮮―韓国の歴史を学習したが、その時までに『悲しい歴史の国の韓国人』を読んでいたら、もっと話題を豊富に出来たことだろう。

『満州国から見た近現代史の真実』はいかに自身の滿洲像が浅薄なものであったかを思い知らされた

20200830

2021年01月09日

與那覇潤『歴史がおわるまえに』亜紀書房,2019

「率直にいって私たちの社会――日本に限らず世界の全域でいま、人びとが過去の歩みに学ばなくなり、歴史の存在感が薄らいでいることは事実だ。そうした事態を食い止めようとする学者時代のわたしの活動は、端的にいって徒労だったと思う」(P340)。

 こう書く與那覇の学者時代の活動は単著『中国化する日本』『日本人はなぜ存在するか』や東島誠との共著『日本の起源』でその啓蒙的な絵解きを読むことができる。

 本書の第一部「日本史を語りなおす」第三章「現代の原点をさがして」の対談はそうした「徒労」時代の最後の産物であったのだろう。前記の三著書よりもいっそう深い内容になっている。その分、啓蒙度は低くなる。

 その間に挟まれた第二章「眼前の潮流を読む 時評」は、もう少し「林達夫」風に仕上げればよかったものを、と思わせる。背景に少し「徒労」を感じさせるとすれば、與那覇と林の生きる時代の違いや「大衆」観の違いであるだろう。

 これらの時間のあと、與那覇は双極性障害Ⅱ型(うつ病)をきっかけとして学者時代を終える(退職)こととなる(2017)。

 「むしろこれからは(依存の意味での)歴史が壊死していくことを前提として、それでもなお維持できる共存のあり方を考えねばならないのだろう。まだ答えは出せていないが、そのヒントを模索する病後の作品を集めた(P340)」のが、第四章「歴史がおわったあとに―—現在」である。

「それでもなお維持できる共存のあり方を考えねばならない」と書いてしまうところが、「徒労」の深さと相まっている。

「かつて社会主義体制の崩壊を「歴史の終わり」と呼ぶ人がいました。しかしそうした見方じたいが、必然として語られた歴史そのものだった。むしろ多くの歴史の語りとともにあった、必然という発想そのものを終えた後にはじめて、私たちはほんとうに問うべきことを考えられるのだと思います」(P12)とはいうものの、「ねばならない」から遠く離れたところに立脚点を置くことは難しい。その困難に向かう與那覇をこれからも追っていきたい。

20200822

2021年01月09日

飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』(筑摩選書)

快挙といってよい本が出版された。本が売れないと言っているのに、子どもの本だけは活況を呈している。

著者は三つの謎を「はじめに」で提示する。



謎①子ども向けの「本」市場だけが復活し、「雑誌」はボロボロ

謎②ヒット作の背景がわからない

謎③なぜか通史を書いた本がない



本書は第一章で「なぜ子どもの本の市場は今のような姿になったのか?」というマクロ的な環境要因を追い、第二章以降では「なぜ今の子どもの本市場の中で、このタイトルが売れているのか?」というミクロ的な個別事例を掘り下げていく。(p21)



謎①について、

『出版指標年報2018年版』は

教育熱心な親や祖父母が積極的に児童書を購入

大人の読者にも人気を呼ぶ児童書(特に絵本)が増

新進絵本作家の活躍、新規参入者の主に翻訳書によるユニークな企画が市場を活性化

幼児期の読み聞かせや小中学校の「朝の読書」の広がりが下支え

と指摘し、書店でも読み聞かせスペースなどを設け、規模を拡大する店舗が増えつつある、とまとめている。

との見解を紹介している。(p10)『年報』の指摘は妥当なところだろう。



謎②については「幼児~小学生編」として、「おしりたんてい」「ヨシタケシンスケ」「ルルとララ」「ほねほねザウルス」「かいけつゾロリ」などの紹介分析をしている。

なかでは「飛翔する児童文庫―—講談社青い鳥文庫と角川つばさ文庫」の項が読みごたえがあった。宗田理の「ぼくら」シリーズの著者による表現の「改稿」「加筆・修正」というブラッシュアップを支持する立場から、児童文庫の可能性を見出している。女の子に支持されてきた児童文庫が、男の子に読まれるラインナップを切り開いたのは編集者や著者の力によるものに違いない。



謎③については本書第一章でとりあげられている。バランスの取れたものになっていると思う。渦中の端にいるものとして、もっとざっくりとした「略史」を話すことはあるが、私の任にないことがらであるから書くことはないとおもうので、ぜひ、お読みいただけたらと思う。

20200815

2021年01月09日

正岡容の岡鬼太郎「らくだ」評

正岡容『寄席囃子』から、



 岡鬼太郎氏が吉右衛門一座に与えた「らくだ」の劇化「眠駱駝(ねむるがらくだ)物語」は、おしまいに近所で殺人のあるのが薬が強すぎて後味が悪い。岡さんのいやな辛辣な一面が、不用意に表れているように思われる。陰惨な情景は、あくまでむらく(むらくに「ヽ」)のそれのごとく、終始、らくだの兄弟分と屑屋の言動との滑稽の中で発展さすべきである。それでなくても思えば「子猿七之助」以上に陰惨どん底のこの噺の世界は、わずかに彼ら二人の酔態に伴う位置の転倒という滑稽においてのみ尊く救われているのであるから。ということはしっくりそのままお生にこの噺を頂戴して、不熟な左傾思想をでッち込み、その頃、雑誌『解放』へ何とかいう戯曲に仕立て上げた島田清次郎あることによっても立証できるだろうと思う。



 「むらく」は「群雲」だろう。2017年12月の歌舞伎座、中車と愛之助の「らくだ」について、渡辺保氏の劇評に、



 私はこれまで岡鬼太郎作の「らくだ」しか知らなかった。今度ははじめて大阪版(略)なるものを見て大いに笑った。もともと「らくだ」は大坂落語だから本家本元というべきか。東京版とは感覚がまるで違う。岡鬼太郎が人間の死の尊厳にふれているのに対して、大坂版は一切理屈抜きで、野放図に笑いに徹しているところが面白い。



とある。前年の正月の松竹座での二人の「らくだ」には好評のブログがあるが、こちらの方は「キレが悪い」との声もあり、東西の観客の違いにとまどったのだろうか。

 一時期(3~40歳代)、歌舞伎を見ていたことがあったが、そういう時間が持てないでいる。このままだと、落語の「らくだ」も歌舞伎の「らくだ」も縁なくして終わりそうだ。そういう面への慾がなくなったともいえる。



 Zoomでふたコマ講義をすることになり、慌てた2週間だ。準備の方が少し落ち着いたので、気分転換に「正岡容」を読んだ。

20200722

2021年01月09日

久米明『ぼくの戦後舞台・テレビ・映画史70年』(河出書房新社.2018)

コロナ騒ぎが始まった2月ごろから昨年の「みすず 1・2月 アンケート特集号」から気になった本をぽつぽつ読んでいる。これもその一冊。先日、一晩で読了した。面白かった。

 10代から演劇や映画に関心はあったが、何せ加古川の田舎育ちだから、実際に芝居を観るということはほとんどなかった。実際に見始めたのは30歳代になる少し前、芦屋で観た転形劇場の「小町風伝」からだった。1980年代からだから、小演劇の流れは既に始まっていて、久米明のような「新劇」の芝居を観ないところからの観劇体験だった。

 久米明は「俳優座」「民藝」「文学座」といった主流の劇団ではなく、木下順二、山本安英、岡倉士朗らと1947年に「ぶどうの会」を結成し、俳優としての道を歩み始める。1964年の同会解散後は1966年「劇団欅」に入団、1976年「劇団昴」の結成に参加(~2007)するなど、舞台俳優として、またテレビ俳優として活躍をした人である。

 また2019年3月まで現役として「鶴瓶の家族に乾杯」のナレーターをしていた。

 この春、96歳で逝去。

 前半は岡倉士朗、後半は福田恒存、という二人の演出家との関係を軸として、ご自身の俳優としての人生を回顧するという構成になっている。新劇としては傍流ではあるが、劇団内のもめごとなども書かれていて、私にとっては興味深い内容だった。

 「ぶどうの会」の解散について、



……秋の公演、秋元松代作「マニラ瑞穂記」は、山本・久米出演辞退のあと、稽古が続けられていたが、異変が起きた。演出の竹内が、秋の第二弾、宮本研作「ザ・パイロット」準備のため、勝手に途中降板、放り出して稽古場に出てこないという。見かねた秋元氏みずから稽古に当たり、初日の幕を開けたものの、劇団統制は地に落ちた。

 この事態収拾のため久米は復帰、幹事会に臨んだ。思い決したことがあった。今いろんな矛盾が噴き出した。この際みんな頭を休めて出直したらどうだろう。入院以後、様々な想いを集約して、結論づけた解散論を披露した。おふたり(山本安英と木下順二―明定)はそうしようと納得された。直ちに全員を集め、総会を開いた。

 竹内の責任を問うた上で、混迷の元を断ち切る想いをこめて久米は言った。

 ぶどうの会は師弟関係から出発、リアリズム演技を木下作品によって研磨し、舞台の上に実現すべく、理想に燃えて歩みつづけてきた。山本、木下、岡倉の相互信頼の上に築かれた創造集団だ(岡倉は1959年に死去―明定)。この本質を歪めたら存在意義は失われる。竹内の内外に喧伝する木下批判はみずからの首を絞める行為だ。今や劇団内の統制は崩れ、その亀裂は日々を追って深まるばかり、集団の活力は失せた。目先をごまかして維持するよりも、ひと思いに解散し、清算して、それぞれが望む道に進むべきだ。

 徹夜の総会討議の結果、解散を決議した。存続の意見は一ツも出なかった。



 ここに出てくる「竹内」は竹内敏晴のことで、90歳を過ぎても久米明は怒りを抑えきれない、と読める。

 この解散の記述の少し前、木下順二作「沖縄」の竹内演出(1963)について「演出の竹内は拡張のある言葉の上ッ面を撫でるだけだった。生きた人間のぶつかり合うエネルギーは舞台から溢れ出なかった。力演する山本さんに久米も桑山も対峙できずに終わってしまった。岡倉先生だったらば……歯軋りしたところで敗者の繰り言だ」とある。

 竹内はもう一か所に登場するが、そこでは評価されている。当時ともに40歳を前にした年齢、久米明が1歳年上である。

 全体として抑制された回顧談だが、「ぶどうの会」の木下順二と竹内には厳しいところがある。

 後半の福田恒存との交流は、評論家としての福田を少し読むだけだった私にとって、演出家福田を知るいい機会となった。こういう読者は多いと思う。「劇団雲」の福田派と芥川派の対立など、なるほどと読んだ。

20200713

2021年01月09日

出口汪(ひろし)の国語教育

「出口汪の日本語論理トレーニング」シリーズ(小学一~六年,基礎編,応用編,計12冊)を購入した。習熟編6冊は考え中。

出口汪が気になったのは10数年前に働いていた図書館のカウンターでの親同士の会話からだった。片方の母親が以前から出口の「読解・作文トレーニング」シリーズを子どものために借りていたのは知っていた。小学4~6」のシリーズで、中学に入るその母親の子は、このシリーズで国語力がついたので、あんたとこもやるといい、とすすめていたのだ。問題を読ませて、答えさせたり、べつの紙にでも書かせればいい、とのことだった。

この「論理トレーニング」の解答は短い。小学五年基礎編から問題を紹介する。



文を組み合わせる

日本の都道府県について調べています。Aの文がBの文の————線部につながるようにして、一文にまとめましょう。

山形県

A 山形県はくだもののさいばいがさかんである。

B 山形県はさくらんぼの生産量が日本一である。



解答 くだもののさいばいがさかんな山形県は、さくらんぼの生産量が日本一である。

  くわしい考え方

Bの「山形県は」、は主語です。そこで、Aの文を主語を説明する語句に変形します。「くだもののさいばいがさかんである」→「山形県は」としても間違いではありませんが、文末も「である」となるので、「くだもののさいばいがさかんな山形県は」としましょう。



と、丁寧な説明です。



愛知県

A 愛知県の県ちょう所在地(しょざいち)は名古屋市である。

B 名古屋市は中京工業地帯の中心で、製造業(せいぞうぎょう)がさかんだ。



解答 愛知県の県ちょう所在地である名古屋市は、中京工業地帯の中心で、製造業がさかんだ。

くわしい考え方

 Aの文を「名古屋市」を説明する語句に変形します。「言葉のつながり」を意識すると、「愛知県の県ちょう所在地である」となります。



このシリーズの表紙には「論理エンジンJr.とは…過程で無理なく考える力と読解力を身につけられる“論理エンジン”の小学生版です!」とあります。他にも、中学・高校生、受験生、社会人向けにもいろんな本を出されています。

数年前、神戸でセミナーがあったので出かけてきました。若い熱意のある先生たちが参加されていました。そこで使われていた教材は図書館には販売しなません、と販売代行社の方がおっしゃっていました。

出口汪オフィシャルウェブサイトによると「大本」教祖・出口王仁三郎が曾祖父だそうです。

東進ハイスクールなどの予備校(2019年まで客員講師)の「現代文のカリスマ」と評されていました。2000年、教材開発・出版を目的とした水王社を設立しています。教育評論家でもあり、教育研究者でもあります。

20200629

2021年01月09日

人生の親戚

 ひとの「死」というのはどこにでもあって、平凡な「死」もあれば劇場型の「死」もあるだろう。平凡な人生であったが、強烈な悲しみを抱え続けて生涯を閉じた身近な友人がいる。大江健三郎は、この悲しみを小説で「人生の親戚」と呼んでいる。その悲しみを通底するもの同士の間柄であった友人が「死」をむかえた。親友という言葉は使いたくない。悲しみを共有する者として「人生の親戚」だと思ってきた。

一年前、末期がんだった小山が「言っておきたいことがある」と言った。何だったのか、言わないで逝去していった。言わずもがな、のことであったのか、言ってもどうしようもないことであったのか、「まあいいか」ということにおさまったのだろうか。数少ない大切な「親戚」が一人消えた。

 私は、人とあまり親しく付き合わない。図書館業界でも師弟関係はないし、グループを作ったり、グループに入ったりはしない。もちろん業界の団体の会員であるし、そこで役員になったり、発表もすることはある。ただそれは付き合いの延長で、個人的な感情を伴うものではない。誰かから、どこの会にもいるけれど、どこの会の人でもないね、と言われたことがあったが、長年の付き合いの人の観察力は正しい。いろんな場にも「人生の親戚」はいる。

 昨夜、遠方から「今は大丈夫かも知れないけれど、飲みすぎは、脳にダメージを与えるから減らしてください。おやすみ」とメールがとどいていた。朝、読んだ。

年をとるにつれて、年下の「人生の親戚」ができる。同業者ではないが、「強烈な悲しみ」というと大げさに思うかも知れないが、一人ひとりにとっての「生きにくさ」の「根」は深い。数少ないけれどそういう「親戚」がいる。

20200615

2021年01月09日

坪内祐三追悼特集

「本の雑誌」2020年4月号と「ユリイカ」2020年5月臨時増刊号が坪内祐三の追悼号になっている。「本の雑誌」では四方田犬彦の短文がいい。



 (前略)坪内祐三が急逝いたと知らされ、わたしは残念に思った。緑雨は自分の肉を斬らせて相手の骨を斬るといった、真剣白刃取りの批評家として生涯を終えのたが、坪内は結局、彼のようにはならなかったからである。きっと緑雨よりも心優しかったのだろう。心優しかったから、女子の零落を見届けるなどという残酷なことができなかった。わたしは彼が同業者を何人か集めて、タクシー会社の宣伝のような雑誌を拵えたとき、これはダメだと思った。群れなどしていては、いい批評など書けるわけがないからだ。ちょっと可哀そうなことを書くようだが、新宿の狭い「文壇」とやらに入り浸って、英語の本を読む習慣を忘れてしまったのは、彼の凋落の始まりだったような気がしている。



 「タクシー会社の宣伝のような雑誌」とは「en-taxi」という坪内の他に柳美里、福田和也、リリー・フランキーが「責任編集」となっていた雑誌。



 「ユリイカ」のほうは、浅羽通明「SF嫌いの矜持と寂寥 坪内祐三の思想について」がいい。「シブい歴史――ディテールの坪内VSセンスオブワンダーの小熊」という章では、小熊英二と比較して論じている。



 (小熊への)坪内の嫌悪と危惧は、その翌年に書かれた「(一九六〇年代に関する若い政治学者や社会学者のあまりにもデタラメというか歴史的感受性を欠いた記述が目に付くだけに)」、彼が歴史的摘転換点だったと考える一九七二年が、半世紀後、どう歴史化されるのか、「それを考えると私は恐ろしい」という『人声天語2』収録の「尖閣諸島問題も一九七二年に始まる」の一節でも繰り返される。/逆に六年ほど遡れば、「記録と記憶と準記憶 歴史を知る」(『人声天語』)にこんな一文がみつかる。/生き残った当事者の記憶と記録、それらに触れてイメージを再構成する努力をした続く世代の準記憶。そうやって継がれてゆくはずの歴史から切断されたところで、「歴史」を語り、「さらに言えば自分たちの不満のハケ口をある「歴史」に根拠づけようとする、そういう若者の恐ろしさ」を坪内はそこで警告していた。/かれらはおうおうにして「ネオ・ナショ」に走りがちだからと。「ネオ・ナショ」すなわち現在の「ネトウヨ」である。/この「時代のディテール」というのは、都築道夫が書いて遺した中野の消えゆく二軒長屋とか、広瀬正が交渉を徹底した銀座の店並びとかでもあり、川本三郎が映画と共に忘れず触れるパンフレットや映画館でもあるだろう。/「歴史的感受性」というのは、坪内が丸山真男にはあるとした「ゴシップ的感受性」、すなわち「他者への関心の強さ」と重なる。この他者は、必ずしも人物とは限らない。建築や店や町の一角だってちょっと我を押さえて謙虚に街を歩けば、きっと語りかけてくる知らない加古という他者からの目くばせだ。(中略)こうしたディテールを漂わせる空気、匂いといったものをすべて捨象し、大事件や言説だけをつぎはぎして歴史を記述したと考える者たちを、坪内は許せなかったのだ。

20200509

2021年01月09日

宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮社,2019)の紹介記事「週刊文春2019月9月5日号」より

丸い円が描かれた紙があり、「ここに丸いケーキがあります。3人で食べるとしたらどうやって切りますか? 皆が平等になるように切ってください」と出題されたら、多くの人がメルセデス・ベンツのロゴマークのように線を引き、3等分するだろう。しかし、凶悪犯罪に手を染めた非行少年たちの中には、認知力の弱さから、このようにケーキを切れない者が少なくないそうだ。

『ケーキの切れない非行少年たち』の著者・宮口幸治さんは、公立精神科病院に児童精神科医として勤務した後、2009年から発達障害・知的障害を持つ非行少年が収容される医療少年院に6年間、女子少年院に1年間勤務していた。

「最初は衝撃でした。医療少年院で、ある少年の面接をした際、ケーキを3等分する問題を出してみました。すると、まず円の中に縦線を1本引いて2等分し、『う~ん』と悩みこんでしまったのです。その後、何度ケーキを切らせても同じことを繰り返して悩んでしまう。そんな少年に非行の反省や被害者の気持ちを考える従来の矯正教育を行って、どんなに教え諭しても、右の耳から左の耳へと抜けていくでしょう。

 医療少年院に収容された非行少年たちの成育歴を調べてみると、小学2年生くらいから勉強についていけなくなり、学校では『厄介な子』として扱われ、友人にいじめられたり、家庭で虐待を受けたりするなどネガティブな環境に置かれています。軽度知的障害や境界知能があったとしても、その障害に気づかれることはほとんどありません。次第に学校へ行かなくなり、暴力や万引きなどの問題行動を起こし、犯罪によって被害者を作り、逮捕され、少年院に入ることになる。そんな状況になって初めて障害があると気づかれる子どもたちが大勢いることに危機感を抱きました」

「境界知能」はIQ70~84を指し、人口の十数パーセントいるとされる。明らかな知的障害ではないが、状況によっては支援が必要だ。境界知能の人々は健常者と見分けがつきにくく、特別な支援が必要でありながら見過ごされがちだという。



宮口幸治さん

「非行少年の特徴として、『見る』『聞く』『想像する』などの認知機能の弱さがあります。少年たちが更生するには、自分がやった非行としっかり向き合い、被害者の立場から考えることが必要ですが、そもそもその力がない“反省以前”の状態の少年がとても多い。ところが、彼らに『もし大切な家族や最愛の恋人が犯罪被害者になったらどう思うか?』と問うと、絶対に許せないと真剣に答えます。他者の視点に立つところまで誰かが手伝ってあげれば、そこで取返しのつかないことをしてしまったと気づける。逆にいえば、そこまで言わなければ、気づかないのです」

 では、どうしたら少年の非行を抑止できるのか。本書では、認知機能の向上への支援として有効なトレーニング「コグトレ」が紹介されている。

「たとえば、ある図形を正面から見た場合と右側、反対側、左側からの見え方を想像する『心で回転』という課題は、相手の立場に立つ練習であり、相手の気持ちを考える力に繋がる可能性があります。そして、知的なハンディキャップを持って困っている子どもを早期に発見し、効率よく支援する場として、子どもたちが毎日通う学校は最適です。こうしたトレーニングを小学校の朝の会や帰りの会で毎日5分でもいいから続けていくと、認知機能をずいぶんと底上げできると思うのです」

みやぐちこうじ/立命館大学産業社会学部教授。児童精神科医として精神科病院や医療少年院に勤務、2016年より現職。困っている子どもたちの支援を行う「コグトレ研究会」を主宰。医学博士、臨床心理士。著書に『1日5分! 教室で使える漢字コグトレ』などがある。

DAIAMOND onllne 2019.12.30

児童精神科医の著者は、医療少年院と呼ばれる矯正施設に勤務していた。その頃、非行少年たちの中に「反省以前の子ども」がかなりいることに気づいた。凶悪犯罪を起こした自分と向き合い、被害者のことを考えて内省しようにも、その力がないのだ。学力はもちろん認知力も弱く、「ケーキを等分に切る」ことすらできない非行少年が少なくないという。

 そうした子どもたちは知的なハンディを抱えていることが多く、本来は支援の手が差し伸べられるべき存在だ。だが、障害の程度が「軽度」であるため、家族や教員など、周囲の大人に気づかれることがない。勉強についていけず、人間関係もうまく築けずに非行に走ってしまう。必要な支援にアクセスできないまま、最終的に少年院に行き着くことも多い。彼らは何も特別な存在ではない。著者の算定によれば、支援を必要としている子どもの割合は約14%。つまり学校の1クラスが35名だとすれば、5人程度は何かしらの知的な障害を抱えている可能性がある。

 近年、ADHD(注意欠陥多動症)など発達障害に関する認知はだいぶ広まってきた。一方で知的障害に関しては、学校教育現場でも関心が注がれておらず、その詳しい定義すら知らない教員も多いのが現状だ。そこで、著者は自ら5年の歳月をかけて、支援の届きにくい子どもに向けたトレーニングを開発した。すでに一定の効果が得られているという。決して楽観できない現状をレポートした本書 『ケーキの切れない非行少年たち』だが、解決に向けた実践的なメソッドが示されている点に大きな希望が感じられる。すべての大人に知っていただきたい真実が詰まった一冊だ。(小島和子)



本書の要点

(1)非行少年は知的なハンディを抱えていることも多く、その場合は「反省」する力さえない。その背景のひとつには、IQによる知的障害の定義が変わり、必要な支援を受けられない現状がある。
(2)彼らは障害が軽度であれば日頃は普通に過ごせるため、大人になってからも支援の機会を逸し、さまざまな困難に直面しがちだ。
(3)受刑者が一人生まれると年間400万円の社会コストがかかる。国力を上げるためにも、「困っている子ども」の早期発見と支援が欠かせない。学校教育においても、全ての学習の基礎となる認知機能面のトレーニングが必要だ。

要約本文

◆反省以前の子どもたち
◇「厄介な子」が行き着く先は少年院

 著者はこれまで多くの非行少年たちと面接してきた。そこで気づいたのは、凶悪犯罪を行った少年にその理由を尋ねても、難しすぎて彼らには答えられないことが多いということだ。更生のためには自分の行いと向き合い、被害者のことを考えて内省し、自己を洞察することが必要となる。ところが、そもそもその力がない。つまり「反省以前の問題」を抱えた子どもが大勢いるのだ。

 彼らは簡単な足し算や引き算ができず、漢字も読めないだけでなく、見る力や聞く力、そして見えないものを想像する力がとても弱い。そのため話を聞き間違えたり、周りの状況が読めなくて人間関係で失敗したり、イジメに遭ったりしやすい。それが非行の原因になっているのだ。

 こうした子どもは、小学校2年生くらいから勉強についていけなくなる。やがて学校に行かなくなり、暴力や万引きなど問題行動を起こすようになる。軽度知的障害や「境界知能(明らかな知的障害ではないが状況によっては支援が必要)」があったとしても、気づかれることはほとんどない。学校では「厄介な子」として扱われるだけだ。

 非行は突然降ってくるわけではない。必要な支援がうまく届かず、手に負えなくなった子どもたちが、最終的に行き着くところが少年院なのだ。



◇ケーキを切れない非行少年たち

 児童精神科医として公立精神科病院に勤務した後、著者は、医療少年院に赴任した。そこで驚いたことがいくつもある。その一つが、凶悪犯罪に手を染めていた非行少年たちが「ケーキを切れない」ことだった。著者は、紙に描いた丸い円をケーキに見立て、「3人で食べるために平等に切ってください」と促した。すると、ある粗暴な言動が目立つ少年は、悩んで固まってしまった。少年といっても中高生だ。その年頃で「ケーキを切れない」ようでは、非行の反省や被害者の気持ちを考えさせる従来の矯正教育を行っても、効果は見込めない。こうした少年たちは非常に生きにくいはずだ。だが、学校がそこに気づくことはなく、非行化して少年院に来ても理解されず、ひたすら反省を強いられてきた。これこそが問題なのだ。

 著者が幼稚園や小中学校で学校コンサルテーションや教育・発達相談を行う中で、よく挙がってくる問題がある。例えば、感情コントロールが苦手ですぐにカッとなる子ども。嘘をつく子ども。そして、じっと座っていられない子どもの存在だ。彼らの特徴は、実は少年院にいる非行少年の小学校時代のそれとほぼ同じである。

 幼女への強制猥褻罪で逮捕された16歳の少年は、次のように語った。「勉強についていけずにイライラして悪いことをした。特別な支援を受けられていたら、ストレスが溜まらなかったと思う」。もし小学校で特別支援教育につながっていたら、彼が少年院に来ることもなく、被害者を生まずに済んだかもしれない。

◇クラスの下から5人には支援が必要

 一般的に、IQが70未満で、社会的にも障害があれば知的障害と診断される。この基準は1970年代以降のものだ。1950年代の一時期は、IQ85未満が知的障害とされていたことがある。だが、この定義では全体の約16%の人が知的障害となり、あまりに人数が多過ぎる。支援現場の実態にそぐわないなどという理由で、基準がIQ70未満に下げられた経緯がある。

 時代によって知的障害の定義が変わっても、事実が変わるわけではない。現在、IQ70~84は「境界知能」にあたるが、ここに相当する子どもたちは、知的障害者と同じしんどさを感じており、支援を必要としているかもしれない。こうした子どもたちの割合は約14%と算定される。つまり、標準的な1クラス35名のうち、下から数えて5人程度は、かつての定義であれば知的障害に相当していた可能性が

◇4次障害

 障害を持った非行少年たちは、少年院を出た後は社会で真面目に働きたいと思っている。だが、その多くは、理解のある会社で職を得ても、長くて3カ月くらいで辞めてしまう。認知機能の弱さ、対人スキルの乏しさ、身体的不器用さ。これらが原因となり、非行に理解はあっても発達障害や知的障害の知識が不十分な雇用主から叱責され、やる気があっても続けられないのだ。

 職がなければお金もない。そこで安易に窃盗などに手を染めることになる。著者はこれを「4次障害」だと考える。1次障害は障害自体によるもの。2次障害は周囲から障害を理解されず、学校などで適切な支援を受けられなかったことによるものだ。3次障害は非行化して矯正施設に入っても理解されず、厳しい指導を受け、ますます悪化することだ。そして4次障害として、社会に出てからも理解されず、偏見もあり、仕事が続かず再非行につながってしまう。

◆忘れられた人々
◇理解できない凶悪犯罪の背景

「なぜこんな犯罪を?」と首を傾げたくなる事件をよく耳にする。著者の印象に強く残っているのは、2014年に起きた神戸市長田区小1女児殺害事件だ。ビニール袋に入れられた遺体が雑木林で見つかったのだが、そのビニール袋には、たばこの吸い殻と犯人の名前の書かれた診察券が入っていた。どうして犯人は、すぐに身元が割れるようなことをしたのか。

 後になって容疑者が療育手帳(軽度知的障害の範囲)を所持していたことがわかり、その奇異な行動の意味が理解できた。知的障害のある人は、後先を考えて行動するのが苦手だ。そのため、診察券から素性がバレると想像できなかったのだろう。

「軽度」という言葉から誤解を招きがちだが、軽度知的障害や境界知能を持っている人たちは、実は多くの支援を必要としている。ふだん生活している限りでは、ほとんど健常の人たちと見分けがつかず、通常の会話も普通にできる。そのため、障害があるとは思われない。先の容疑者も、陸上自衛隊に勤務し、大型一種免許や特殊車両免許を持っており、それなりに能力があったのは確かだ。

◇受刑者の半数は知的なハンディを抱える

 彼らはいつもと違ったことや初めての場面に遭遇すると、どう対応していいかわからず思考が固まってしまうことがある。例えば、いつも乗っている電車が人身事故で止まってしまった場合、柔軟に違うルートを探すといったことは困難だ。

◇4次障害

 障害を持った非行少年たちは、少年院を出た後は社会で真面目に働きたいと思っている。だが、その多くは、理解のある会社で職を得ても、長くて3カ月くらいで辞めてしまう。認知機能の弱さ、対人スキルの乏しさ、身体的不器用さ。これらが原因となり、非行に理解はあっても発達障害や知的障害の知識が不十分な雇用主から叱責され、やる気があっても続けられないのだ。

 職がなければお金もない。そこで安易に窃盗などに手を染めることになる。著者はこれを「4次障害」だと考える。1次障害は障害自体によるもの。2次障害は周囲から障害を理解されず、学校などで適切な支援を受けられなかったことによるものだ。3次障害は非行化して矯正施設に入っても理解されず、厳しい指導を受け、ますます悪化することだ。そして4次障害として、社会に出てからも理解されず、偏見もあり、仕事が続かず再非行につながってしまう。

 彼らは社会的には普通の人と区別がつかない。そのため、要求度の高い仕事を与えられて、失敗すると非難されたり、自分のせいだと思ってしまったりする。本人も普通を装い、支援を拒否するケースもあり、支援を受ける機会を逃してしまう。結果的に、社会から「厄介な人たち」と攻撃や搾取の対象にされてしまいがちだ。そのため、場合によっては、意図せずとも反社会的な行動に巻き込まれる可能性もある。

 おそらく刑務所にいる受刑者のうち、かなりの割合を軽度知的障害や境界知能を持った人が占めていると思われる。法務省の統計データから類推すると、2017年の新受刑者のうち、半数近くがそうした人たちだ。一般に、軽度知的障害や境界知能の割合は15~16%程度であることを考えると、かなり高い割合だといっていい。

【必読ポイント!】
◆1日5分で日本を変える
◇ソーシャルスキルが身につかない訳

 知的なハンディが原因で罪を犯すことがないよう、学校では子どもたちにどのような支援をすればいいのか。子どもへの支援を大別すると、学習面、身体面(運動面)、社会面の3つとなる。このうち、対人スキルや感情コントロール、問題解決力といった社会面については、系統だった支援が全くないのが現状だ。

 集団生活を通して自然に身につけられる子どもも多いが、発達障害や知的障害のある子どもには難しい。学校で系統的に学ぶしかない。その機会がないと、多くの問題行動につながりやすく、非行化するリスクが高まる。

 支援対象となる子どもについて、心理士などの専門家は、「対人関係に課題があるため、ソーシャルスキルを身につける必要あり」とみなすことが多い。そのためによく用いられるのが、認知行動療法に基づいたトレーニングだ。認知行動療法とは、考え方を変えることによって、不適切な行動を適切な行動に変えていく方法である。心理療法の分野で効果が認められている。

 だが、問題は、このトレーニングが「認知機能に大きな問題がない」ことを前提としていることだ。「考え方」を変える以上、本人にある程度の「考える力」が求められる。対象者の認知機能に何かしらの問題があれば、効果は期待できない。にもかかわらず、矯正教育や学校教育の現場では、対象者の能力を考慮せず、「とにかくソーシャルスキルトレーニングを」と、形式的な対応がなされることがしばしばだ。

認知機能に着目した新しい治療教育

 近頃、認知機能面への介入の必要性が、学校教育でも認識されるようになってきた。認知機能向上への支援として有効なトレーニングに、「コグトレ」と呼ばれるものがある。認知機能を構成する5つの要素(記憶、言語理解、注意、知覚、推論・判断)に対応した認知機能強化トレーニングだ。著者が医療少年院で約5年の歳月をかけて開発したもので、すでに一定の効果が得られている。

 コグトレは、パズルやゲームのような形式であるため、直接的には学習という印象を与えない。漢字や計算ドリルができないと、子どもは「学習そのものができない」と思って傷ついてしまう。しかしコグトレならば、楽しみながらゲーム感覚で取り組めるうえに、できなかったからといって傷つくこともない。

 学校のカリキュラムは、学習指導要領に沿って厳格に管理されている。独自にまとまった時間を取って、系統立ったトレーニングをすることは難しい。だが、このコグトレなら、朝の会や帰りの会の5分を使って行うだけでも効果がある。

 コグトレのような認知機能トレーニングは、犯罪を減らすことにもつながる。凶悪犯罪の中には、生活歴や性格の問題以外にも、脳機能障害の問題を避けて通れない事件もあるためだ。

◇犯罪者を納税者に

 刑務所にいる受刑者を一人養うのに、年間約300万円かかるという試算がある。一方で、平均的な勤労者は、消費税なども考慮すると、一人あたり年間100万円程度は何らかの税金を納めている。もし、受刑者を一人でも健全な納税者に変えられたなら、約400万円の経済効果になるわけだ。

 逆にいえば、受刑者一人につき400万円の損失が生じているともいえる。刑事施設の収容人数が約5万6000人(平成29年度末)であることを考えると、単純計算でも年間2240億円の損失だ。被害者の損失額も加味すれば、年間の損害額は5000億円を下らないはずだ。こうした点で見ると、犯罪者を減らすことが日本の国力を上げるうえでも重要だといえる。

 そのためにできることは、「困っている子ども」の早期発見と支援だ。それを最も効果的に行えるのは、子どもたちが毎日通う学校以外にあり得ない。今後、新たな視点をもった学校教育が充実することを願ってやまない。

一読のすすめ

 著者は、医療少年院に送られた非行少年や大人の受刑者など、犯罪に手を染めてしまった人々と、その背景にある知的なハンディの関係について述べている。認知機能に「軽度」の障害を抱えたまま社会に出て、「普通に」暮らしている人は、思いのほか大勢いるのだろう。周囲にも一人や二人、思い浮かぶのではないだろうか。「あの人、空気読めなくて困るよね」、「もっと臨機応変に対応してくれないかな」といった人が。そうした人々のうち何割かは、本書で述べられているような課題を抱えているのかもしれない。

 教育関係者でもない立場で、知人や同僚、隣人として何ができるのかまで、本書がつまびらかに示しているわけではない。だが、一見「厄介な人」にも、何かしら事情があるのではないか。せめてそう思いを馳せられる人が増えれば、彼らの生きづらさが多少は和らぐのかもしれない。そんな大事なことに気づかせてくれる貴重な一冊だ。多くの方に手に取ってお読みいただきたい。
20200414

2021年01月09日

『二十歳のころ』の加藤尚武と廣松渉

当時、高田馬場にあった板倉(聖宜―明定)研究室の下の階にあった仮説会館に立ち寄ったら、板倉先生がおられて、少し雑談をした。帰ろうとしたら、もうすぐ立花ゼミ生がインタビューに来るとおっしゃる。いてもよかったのだろうが、用もあるので退出した。後日、立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ『二十歳のころ』(1998,新潮社)としてまとめられている。

 板倉さんのところは読んだものの、そのままになっていた。

 この度、拾い読みをした。

 「加藤尚武にきく」のところに、



――で、奥様は……。

 私の妻は廣松渉夫人の妹です。私の結婚は彼の政治工作の成功した唯一のもので、彼はいろんな政治工作をしたけれど、自分の女房にしようと思っていた女性の妹を加藤尚武と結婚させようってこと以外は、しっぱいしたんじゃないですか。うす暗がりの中の陰謀が好きな男で、四人で学習塾をやるという条件を作って、いろいろそういうお膳立てをして、結局彼の思惑どおり私は彼女と結婚してしまったわけです。結婚式をしたのが確か一九六五年の十月、院生時代です。



 とあった。これは知らないことだった。

加藤氏は、板倉さんたちがつくった東大自然弁証法研究会の会員だった。廣松は二度、その会に顔を出していたと板倉さんから聞いている。廣松の伝記では黒田寛一の自然弁証法研究会にいっていることになっていた。これは誤りではないかと思う。

また廣松の『科学の危機と認識論』に背後に板倉科学論を、私は読み取るのだが、どうだろうか。

20200412

2021年01月09日

磯崎純一『龍彦親王航海記 澁澤龍彦伝』読了

小室直樹、鶴見俊輔、宇沢弘文と伝記を読んできたが、この度、澁澤龍彦の伝記を読み終えた。

同級生のYと親しかった頃だから高校生時代だと記憶しているのだが、三宮の書店コーベブックスに稀覯本を並べたコーナーがあり、不思議なとしか高校生には言いようのない女性が店員としていた。その女性が、高橋たか子が澁澤龍彦とできてね、奥さんとごたごたしているらしいの、という話を聞いたことがあり、その奥さんが矢川澄子だと知り、矢川澄子は谷川雁と関係を持ったことを後日に読んだりしたので、そんなごたごたに魅かれて読んでみようと思ったのだった。澁澤とその周辺の人々について、若い頃は関心を持ち、読んだりしていた。加古川の田舎者には東京の空気は全くわからないのだが、澁澤の文体や金子国義や四谷シモンの作品を楽しむ時間があった。高橋睦郎という詩人は、詩では食えないから貧しい生活をしているのだろうと思っていたりする田舎者であった。広西元信という人物がこの伝記に一度だけ登場するが、「そのころ(1948年—明定)電通ビルの前に「ねすぱ」という喫茶店があり、ジャーナリストの溜まり場となっていたが、私はここで、当時「世界文化」を抱いていた気鋭のジャーナリスト水島治男や広西元信に会っている」という澁澤の戦前戦後、わたしの銀座」からの引用に登場する。磯崎は広西が『資本論の誤訳』の著者であることにはふれていない。まあこの伝記には関係のないところではあるが、「なにしろ若かったので、談論風発する多士済々のなかに混じって、私は学生服をきて、ただ黙々と酒を呑んでいるほかなかった」の「談論風発」のイメージが弱いことは確かである。

20200406

2021年01月09日

主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニングの視点からの授業改善)

教育心理学の三宅なほみ氏が癌により逝去された(1946年―2015年)のは残念であった。死の翌年に『協調学習とは 対話を通して理解を深めるアクティブラーニング型授業』(三宅なほみ・東京大学CoREF・河合塾編著,北大路書房,2016)が出版された。そこでは「知識構成型ジグソー法」の取り組みが提案されている。生きておられたら、主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニングの視点からの授業改善)に大きな役割を果たされたと思う。

「ジグソー法」はアメリカのアロンソンによって編み出された「共同学習を促すための学習方法である。東京大学CoREFのHPによると、「知識構成型ジグソー法」はアロンソンの「ジグソー法」とは異なる狙いや手法を持つ、CoREF(大学発教育支援コンソーシアム機構)が独自に開発した学習法である。HPを見ると、大学の授業でも使えそうな定番教材がある。

この機構の副機構長として、三宅氏はこの取り組みをリードした。前職の中京大学での「単純ジグソー」の取り組み(1991~2007)からはじまり、多様な学習法を組み合わせながら学びをデザインした。東京大学に移籍(2008)後、学習科学の理論に基づく対話型授業「知識構成型ジグソー法」という授業法と、評価の手法としての「授業前後理解比較法」と「多面的対話分析法」という評価手法の研究をした。

三宅氏のご講演を仮説実験授業研究会の会で聴く機会があった。その時のお話は興味深いものであった。

日本でアクティブ・ラーニングというと、仮説実験授業が取り上げられたりする。

仮説実験授業は心理学者の波多野誼余夫がアメリカで紹介している。同じような教授法が1980年代以降英米でもあるようだが、波多野の影響がどれほどのものなのかはわからない。ただ、認知心理学・教育心理学の研究者にはよく知られていたと思われる。三宅氏のお話では、波多野誼余夫は自分が日本語で書いたものは「論文」に数えないそうであった。ウィキによると、欧米7つの学会誌の編集委員を務めた、とある。

2019年に板倉の原著論文といくつかの授業書の英訳本が出版された。これの反響も知りたいところである。

2020年から全面実施される「主体的・対話的で深い学び」はどうなるのだろう。

20200311

2021年01月09日

春の雪誰かに電話したくなり/八十八

 新潮社の「波」の連載に「掌のうた」があり、歌人の三枝昂之が短歌を一首、俳人の小澤實が俳句を一句、紹介している。

 2020年3月号で小澤の選んだ句が「春の雪誰かに電話したくなり」である。八十八は桂米朝の俳号。師の正岡容(いるる)の共に弟子筋である小沢昭一、大西信之、永井啓夫(ひろお)、加藤武らとともに「東京ヤナギ句会」を結成。句会の宗匠は入船亭扇橋。ほかに永六輔、柳家小三治がいる。句会編「楽し句も、苦し句もあり、五・七・五」(岩波書店,2011)の「自薦 折々の句 三十」には採られていないが、エッセイで登場する。「たとえ苦し紛れに作った句でも、天に採ってもらうと、急に「ええ句かもしれん」と思えてくる」とある。

 近所の親子丼の「鳥喜多」の壁にこの句の色紙が飾られているので、活字になるまえから知っていた。米朝一門が堪能する「鳥新」の亭主から紹介されたという店。小沢昭一もよく足をはこんでいた。

 (正岡容が桂米朝を褒めるので、小沢と加藤がちょっと妬いた、とどこかで読んだことがあるのを思い出した。)

 小澤實;「うちの子でない子がいてる昼寝覚め」。ナツ、昼寝から覚めてみると、知らない子も眠っていた。まさに開けっ放しの長屋暮らしである。「うちの子でない子」に神秘的なにおいもある。大阪ことばが生きている。日常をよく観察して落語に生かしたという目も感じられる」

20200303

2021年01月09日

三浦つとむの「漱石論」から

吉本隆明「三浦つとむ他」(『追悼私記』所収)



 このなかで吉本は、

おれはこの人の漱石を論じた文章がいちばん好きだったなあ。漱石は文学とは何かを科学的につきとめていって、じぶんのつきつめた(あるいはつきつめきれなかった)文学の理論をじっさいに作品で試みるために小説をかきはじめたという見解を、漱石の文学の動機にあげたのは、おれの知っているかぎりみうらつとむだけだよ。おれはおもわずハッとしたね。これはものすごい卓見で、ほんとうにそうだったかもしれない面を、漱石の文学はもっている。漱石の作品はどこかしらに<問題>小説(プロブレマテック・ノベル)の面があって、それが講談調になってみたり、推理小説風になってみたり、観念の長口舌を登場人物がやってみせたりというところに、あられている。意識的か無意識的かは別として、部bb学理念があって捜索はそれをためしてみるための手段だという面があったからだといえなくない。三浦つとむのこの漱石観には、謎解きの論理に熱中したところから、しだいに哲学に踏み込んだじぶんの体験と、芸術理論家としての知見とがとてもよく発揮されていた。三浦つとむの文章の中でいちばん文学的な文章だったとおもうな。(P96-97)



とある。



三浦つとむ「漱石のイギリス留学をめぐって」から

  私は漱石の経歴に関心がなかったから、『文学論』の著作があるとは知っていたが、小説家が文学論をやったものだと思って目を通そうとはしなかった。小泉の文章で、自分がまったく誤解していたこと、文学理論家が小説を書くようになってのだと知って、はじめて『文学論』を読み、またそれまで注意を払わなかった漱石の後期の小説を読みなおしてみた。われわれは、彼が英文学科に入ったという経歴だけを見て、小林秀雄が仏文科に入ったのと同視してはならないのである。私は科学者の一人として云っておきたいのだが、科学の方法論に関心を持つのは科学者の中でも人まねの科学者ではなく創造的な学者の態度なのである。これは出世主義や優等生根性とは異質なばかりでなく、若い時にこのような傾向を持った人間は一生それを持ち続けるものである。こういう詩誌の人間が、英文科へ入って、彼の語っているような英文学の講義に満足できたとしたら、それこそおかしな話である。彼は英文学を専攻する人間として、「英文学はしばらく措いて」「文学とは何いうものか」を理解することを欲した。これは試験にいい点をとりたいからではない。英文学を理論的に把握するためには、文学の本質論がなければならなぬというのが漱石の方法論的発想だったのであり、このように本質論から出発して理論を体系的に組み上げていこうというのが、創造的な科学者のとらねばならなぬ道なのである。

(略)

……漱石のやりたかった事業にくらべれば、発表した諸作品は「下らない創作」でしかなかった。高浜虚子あての手紙に、「とにかくやめたきは教師、やりたきは創作。創作さえできればそれだけで天に対しても人に対しても義理は立つと在候。」と書いたくらい、教師をいやがっていながらも、自分の創作に対してはきびしい評価を加えていたわけである。……その事業は挫折したけれども、誠実で勇気のある科学者としての漱石の態度は、「下らない創作」にもつらぬかれることになった。「何か書かないと生きてゐる気がしない」人間の、これまでの文学とはどういうものなのかの本質的な探究が、







三浦つとむ「夏目漱石における『アイヴァンホー』の分析」から

……漱石の東大での文学論の講義は明治三六年九月~三八年六月であるから、「間隔論」はおそらく三八年春ころの講義であろうが、この部分は講述を不満として新しく書き直したものであるから、『アイヴァンホー』の分析が三八年の講義でどのように語られたか、三九年の新稿でどのように改められたか知るよしもない。ただ私がこの分析を読んだとき想い浮べたのは、三九年四月に公けにされた『坊つちやん』の一場面であった。終り近く、山嵐と坊っちゃんが宿屋の二階に陣取って、角屋の入口を見おろし、赤シャツが泊りにやってくるのを「一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らして」その穴からのぞいて待っている部分である。赤シャツは来るかも知れないし、来ないかも知れない。私たち読者にとって未知数であるばかりか、二人にとってもまた未知数である。「もし赤シャツが此処へ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加へる事は出来ないのである」! だがついに来た。赤シャツが野だいこといっしょに、二人の悪口をいいながら角屋に入っていく。二人は「おい」「おい」「来たぜ」「とうとう来た」と声をかけ合う。この〈表現主体〉を読者は〈追体験〉して、ついに天誅を加える機会が来たことを知った二人といっしょに、読者もまた興奮するのである。Rebecca は戦いを見おろしたが、山嵐と坊っちゃんは敵が来たのを見おろしてから戦いをはじめようというわけである。

三浦『現実・弁証法・言語』(P297-298)



 これについて吉本は講演のなかでもふれていて、その記録が「ほぼ日刊イトイ新聞」の「不安な漱石「不安な漱石――『門』『彼岸過迄』『行人』」である。三浦の説をつかって「漱石の作品の『推理小説性』」を論じている。



ぼくの知っている人で、漱石の小説というのは、普通の作家が書く小説と違って、初めに文学についての理論を、文学論ですけど、文学についての漱石流の理論があって、その理論を確かめたいので、確かめるために作品を書いたというふうに言える面があるんだということを、ぼくが知っている限りでは三浦つとむっていう、亡くなりました哲学者がいるんですけど、三浦つとむだけがそういうことを言っていると思います。

20200215

2021年01月09日

『「大衆」と「市民」の戦後思想—―藤田省三と松下圭一』(趙星銀著.岩波書店.2017)の「プロローグ「大衆民主主義」再考」から

 「大衆」と「市民」

 藤田の最初の著述は『政治学事典』(平凡社、一九五四年)の「天皇制」項目である。その中で藤田は、大衆社会への迎合に成功した戦後の天皇制とその裏面に持続している戦前型の官僚制の温存に、戦後の支配構造の核心を見出している。一方、松下の論壇デビュー作は岩波書店の『思想』一九五六年一一月号の論文「大衆国家の成立とその問題性」である。松下はその中で、国家に〝対する〟革命ではなく、国家に〝よる〟福祉の拡充を求める労働者たちを「大衆」と名付け、彼らの出現が古典的な社会主義理論への転換を要求していると主張した。

 デビュー当初、二〇代後半の気鋭の新人であった二人は、こうして一九五〇年代半ばの日本社会における「大衆」の問題を指摘しながら登場した。

 (略)

 今日において、政治的語彙としての「市民」は、公共生活に自発的に参加する人間、民主主義の政治体制に相応しい人間を指す場合が多い。この語は著しい規範性を帯びているが、それは敗戦後、連合軍から与えられたものとして出発した「戦後民主主義」の特殊性と関連している。与えられた民主主義を真に我々のものに変えるために、主権を握る人々がそれに相応しい規範を身につけることが強く要求されたからである。そした問題意識の上で規範概念としての「市民」が構想され、語られてきた。

 そして「市民」という語がもっとも理想的な民主政治の姿を指すとすれは、「大衆」は、おそらくそのもっとも危険な担い手を指す言葉であろう。「大衆」をめぐる言説を支えるのは、民主主義そのものに対する根強い会議である。古代ギリシャにおける衆愚政治への危惧からトクヴィルの「多数の専制」への警戒まで、〝デモスの支配〟の否定面への憂慮は長い歴史を持っている。つまり、民主主義の歴史は民主主義に対する不信と警戒の歴史と表裏をなしているのである。現代語における「大衆」は、いわば民主主義の影のような存在であるといえるかもしれない。

 以上は、今日における「市民」と「大衆」のイメージを簡略にスケッチしたものである。ところがこれらの概念を近代以降の日本思想史の文脈の中で論じるためには、もう一つの決定的な思想潮流を考慮する必要がある。それは社会主義の言語としての「大衆」と「市民」の文脈である。そこにおいて、「大衆」はプロレタリアートと、「市民」はブルジョアジーと重なり合っており、またそれに「マス」や「群衆」、「小市民」や「中間層」などの語が混入しながら言語空間を作り上げたのである。

 こうした経年の混在の中で、「第一の戦後」と「第二の戦後」は、それぞれ「大衆」と「市民」が社会変革の主人公として語られ、その可能性と問題性に注目が集まった時代でもある。その境目にあった六〇年安保において、社会主義の説く「大衆」と大衆社会論の説く「大衆」の緊張関係を意識しながら、新しく「市民」が語られ始めた経緯については、後で検討する。(同書P ~ )

「『市民の図書館』再読」(みんなの図書館、2000年12月号)で私は、「〈市民〉をあいまいに用いることは避けたいという立場です」と書きました。

 「自由で民主的な社会は、国民の自由な思考と判断によって築かれる。国民の自由な思考と判断は、自由で公平で積極的な資料提供によって保障され、誰でもめいめいの判断資料を公共図書館によって得ることができる」(『市民の図書館』十一ページ)という理念と、現実の「市民」として暮らしている人との乖離は気になるところでした。

と書いている。『市民の図書館』は、理念と政策と技術が書かれているのですからそれはそれでよいとしても、その後の論議が「市民」と「大衆」の問題を無視し、「市民」という言葉をどこかに違和感を持つことなく使っていることが、気になっていた。

 この政策マニュアル(貸出し、児童サービス、全域サービス―明定)教養主義からすると「パンドラの箱」を開けたのです。そこから出てきたのは「大衆」「群衆」であって〈市民〉ではなかったのです。

とも書いている。この論は「図書館界」の「貸出を考える」でも触れている。

 図書館情報学の研究者はこういうことに関心がないのかもしれない。

 上記の本が出たので、気になるところ「第三章市民と政治」「終章「国家に抗する社会」の夢」などを読んでみた。

 高度成長を続けた公共図書館は、バブル期以降の「私生活主義」に迎合するだけに終始してしまった、という私の考えは、田中義久の『私生活主義批判』(筑摩書房、1973)あたりの影響を受けている。藤田の「私生活(第一)主義」とは違う文脈であることを知った。

 また、この「第三章」を若い人たちが読むことで、『市民の図書館』刊行当時の「市民」ということばの持つニュアンスを知ることができるだろう。

 「市民との協働」といった時に使う「市民=住民」が定着している現在に至るまでの「市民論」には、松下の「しみん」が大きな影響を与えている。図書館界も間接的ながら影響を受けている。松下の「社会教育の終焉論」からも、とつけ加えておきたい。


 松下は新憲法と高度成長によって涵養された権利意識と自発性のエネルギーを、自治体の政策決定過程における市民参加に転化する道を模索した。市民が参加することによって、その意思決定は公共性を主張する正統性を確保することができ、また参加者個々人は発言と聴取を通じて、実際の意思決定過程における様々な衝突を経験し、合意に到達するための技術を身に着けるようになる。こうした政治教育が、政治への無関心の悪環境を断ち切る契機となり、政治観そのものの変革につながることを松下は期待した。

 しかし一九九〇年以降、そうした市民参加の構想は新たな問題に直面する。一つは、「市民」の条件である時間的・経済的な「余裕」をめぐる問題である。経済規模が順調に成長し、またその持続が約束されていた時代においては大多数の人々が「中流」意識を持つことができた。彼ら「大衆」が「市民」として自発的に政治に参加する時、そこで構築される公共性の主張は正統性を持ちえた。

 しかしその後、経済成長は次第に鈍化し、続いて投機による資産価格の上昇と遊楽を中心にバブル経済の崩壊と呼ばれる事態が到来する。資産市場と雇用市場は安定性を失い、かつての暑い中間階層の分化が進む。日本経営の三種の神器とよばれた年功序列、終身雇用、企業内組合の基盤は次第に危うくなり、やがて新しい貧困の問題が浮上する。中間層の階層分化によって社会全体における格差の増大すると「太守」と「市民」は再び分離する。

 もう一つの問題は、「市民」の自発性を制度化していく中で発生する逆説である。サイモン・アヴネルは二〇一〇年の著書Making Japanese Citizenの中で、六〇年安保以降に展開された市民運動の性格を「べ平連」運動に代表される「良心的潮流」、反公害運動や反開発運動の「プラグマチックな潮流」、そして松下や「都政調査会」のメンバーが主導した「市民参加運動」の三つに区分している。これらの運動はいずれも六〇年安保の成果と限界を意識した形で展開されたものであり、その中で進められた運動の持続化と専門化、実行化のための努力は、後の世代の市民運動に継承されることになる。

 しかし同時に、そのような遺産を吸収した次世代の市民運動の多くは、市民団体と政府との協調関係を前提にするものであった。その過程において、かつての市民運動の持っていた対抗的・対立的な方式は拒否された。根本的には資本主義を肯定し、官僚制との協業を前提にした形で運動が進められるようになったのである。こうした傾向は、特に一九九八年の「特定非営利活動促進法(NPO法)」の制定以後、国家が「市民社会」の成長を奨励し、それを積極的に育成することになった後、より顕著になる。NPOを中心とする「市民社会」が、政府の補完機構、とりわけ新自由主義的な路線に李っきゃ開く下小さい政府の補完機構として機能する側面が露呈したのである。(同書P328~9)

 

 「市民」が小さい政府の補完機構として機能するなかで、図書館という場においても同じことが進んでいる。「市民」を生み出そうとした図書館は、「しみん」をそのシステムに組み込むことになったが、個人貸出を軸にしたサービスが生み出した「大衆」「群衆」について、図書館はどういう関係を持つことができるのか、が問われている。

 

 著者はこの本を次のように結んでいる。

 

 おそらく高度成長以降の日本社会は、市民社会の側面と大衆社会の側面、松下的なものと藤田的なものを、ともに備えている。そして今日の社会も、、そのような緊張関係から自由ではない。戦後の議論空間に立ち返り、可能性の源泉としての戦後思想を再検討する作業が必要な理由もそこにあるのではないか。(同書P333)

 

 私は前出の「『市民の図書館』再読」で、

 

 『市民の図書館』の貸出の方を軸に展開しているのは、伊藤昭治氏を中心にした日本図書館研究会の読書調査グループです。

 伊藤氏等の考えは「大衆から市民へ」という構図をその背景に持ちながらも、大衆の求める価値を起点とした側からの自己形成による〈個の確立〉を求めています。それを妨げるのは、啓蒙する側として高みに立つ図書館員である、という考え方です。

 「個人貸出を基本」とするサービスが各地で生まれ広がる中で、この考え方がどういう役割を果たしているのか、といったことも論議されるべきでしょう。

 その論議は、「絶対的価値基準」を否定した「相対主義」とその幸福について、といった内容になるだろうと思います。

 〈市民の図書館〉という理念を実現するには、どういう過程が必要なのか。実践や論争の展開が求められていると思います。

 

とも書いている。

 そのことが、藤田省三の「大衆」論、「私生活(第一)主義」や、松下圭一のやり残した課題とつながるのだろうか。直接的ではないものの、つながったところで考えていきたい。

20190525

2021年01月09日

『〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち』イメルラ・日地谷・キルシュネライト編 岩波書店 2018.12



 編者が1982年に日本の女性の作家たちにインタビューした、そのインタビューが活字となって2018年に刊行された。

 当時の私は司書人生の駆け出しの頃であって、小説を読むことが少なくなっていた。児童文学を読まなければならなかったし、縁のなかったエンターテイメントの作品も読む必要に迫られていた。これらの作品は面白く興味深いものが多く、そういった読書に時間を割いていた。

 この本に登場する12人の作家については著名な人たちばかりで読む必要を感じなかった。

 佐多稲子については中野重治との関係からいくつか読んでいる。

 円地文子は教科書で随筆を読んだ程度。

 河野多惠子、石牟礼道子は読んでいない。

 田辺聖子、三枝和子、大庭みな子、戸川昌子、津島佑子、金井美恵子、中山千夏、瀬戸内寂聴は読んだ記憶がある。

 その程度である。

 ドイツ人の若き日本文学研究者が同じ質問を作家たちに投げかけている。

 「男性の評論家から公平に、客観的に扱われていると思うか」「(男性の)評論家が『女性作家の作品は、どうも私には完全に読んで理解することが不可能だが』と書いているのをどう思うか」「女性作家には、家庭の雑事があって時間を取られるだけでなく、出産というものもあるので、仕事に集中できない。これをどう考えるか」といった質問である。



 佐多稲子への質問のなかから

――女性は政治に関する関心や働きかけが弱いとよく言われますが、佐多さんは文学が政治的、社会的なテーマを書くべきだとお考えですか。

佐多 必ずしも直接に、政治的、社会的なテーマを書くべきだとは思っていません。プロレタリア運動から政治へ移った人もいましたけど、政治と文学の世界はまったく異なったものですからね、あまりそれに密着しすぎるのも問題だと思います。でも、政治的、社会的な視点などが作品に流れ込んだり、その土台となるようなことは、当然だとおもいますね。文学者だといっても、やはり民衆の一人なのですから。

20190421

2021年01月09日