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残日録72 料理研究家という仕事/土井善晴

新潮社のPR誌「波」に土井善晴氏が連載している「おいしく、生きる」から。

「家庭料理は民藝だ」という河井寛次郎記念館での気づきは、今思えば、料理は「美」とつながるという発見でもありました。物が見える日を持ちたいという気持ち

は、いつの間にか、美しいものに対する意識を高めていたようです。しかし、北大路魯山人が「料理芝居」という随筆で、よき料理屋の料理とは芝居にかけた名優の演技であり、家庭料理は真心の料理だが、それでは客は呼べない、と記しました。いやはや、まったくその通り、家庭料理という無償の愛では、食べてはいけないのです。

 そもそも分業システムは良い仕事、より大きな仕事をするために専門家が協力しあうことでした。その昔は大工さんの棟梁が図面も引かず、木っ端に鉛筆で柱の一を示す線を引くだけで、職人と協力して家を建てました。今では建築家(構造)と施工は分業になりました。作曲家の楽譜をオーケストラが演奏する。小説を監督がシナリオ化して、俳優が演じて映画化する。ファッションデザイナーが、デザインして、職人がドレスを縫う。ところが、レストランや料理屋の世界だけはそうはなりません。今も昔も、修行を積んだ料理人が料理長になり、料理人自らの経験と見識で、献立を作って、食材を仕入れて、調理の采配を振って自ら料理して提供します。どうして、料理の世界だけは、他の業種のようにならないのでしょうか。
 それは、やっぱり、世間が料理をなめているからだと思います。料理はこれまで研究の対象ではなかったのです。今もそうでしょう。近年対象とされたのは、その結果の味覚の化学や新しい味の創作です。突然打生まれた未知の味に人間は感動できるでしょうか。感動するなら、その原因は味とは関係のない人間の努力に感動しているのです。それは文化人の料理の興味が、食べる味覚の喜びだけになってきたからです。料理は修業しなくても良いという議論が近年ありましたが、技術がなくても料理はできますが、正当でゆるぎない美学がなければ、料理屋はできないし、人間に信念がなければ長くは続きません。科学者や文化人がコンセプトを作り、それを理解できる技術者が腕を振るえば、さらなる料理の発展につながると考えています。そのためには、料理人が科学者の感性に近づくか、科学者が料理の技術を完璧に理解できなければなりません。
 確かに和食であれば、うまいものがどこにあるのか、うまいとはどういうことであるのか、うまいものはどう扱われるべきか、ということさえ、分かっていれば実現できます。そこに美意識は必ずともない、おいしさが結果としてついてくるからです。重ねて、うまいもんを食べたければ自分で作らないとだめだという謙虚さともとれる見識があれば、名料亭は実現できるでしょう。和久傳の大女将桑村綾さんは、丹後の峰山の老舗旅館に嫁いで、京都に打って出て、新しい和久傳の日本料理を作られました。ですからあ、美意識と見識をもってすれば、料理は実現できるのです。
 見識とは美意識です。日本の美意識は、自然と人、人と人、人と物、物ともの、といった複数のものごとの関係(間)に生まれるのです。物と物の関係性ということを、長く考えてきました。良いと悪いの間に「知恵」があり、強いと弱いの間に「やさしさ」がある。きれいときたないの間に「美しさ」がある。悲しみと喜びの間に「幸福」がある。苦労と楽の間に「喜び」がある。愛と憎しみの間に「恋愛」がある。戦争と平和の間に「敬意」がある。善と悪の間に「人間」があると思うのです。柳宗悦の民藝論と照らしあわせるように、家庭料理を考えることから、「美」の問題に行き当たったわけです。
                                   2019年9月号

2019年10月02日

残日録71 LRG(Library Resource Guide)第28号(2019年夏号)

 特集が「民間公共の系譜—―近代の人々はいかにして図書館を興してきたのか」ということで、私も「杉野文彌と『江北図書館』」を書いている。
 江北図書館以外では
 大日本報徳社と「淡山翁記念報徳図書館」(奥野寿夫)
 野本恭八郎と「大正記念長岡市立互尊文庫」(井口朝子)
 宇部共同義会と「宇部市立図書館」(藤永義昭)
 濱口家と「公正図書館」(湯澤規子)
 「興風会図書館」と「野田市立興風図書館」(川崎斉)
 森本家と「津山基督教図書館」(大河原信子)
 ヴォ―リズと「近江兄弟社図書館」(太田典子)
 岩瀬弥助と「岩瀬文庫」(林知左子)
 岡田健蔵と「市立函館図書館」(丹羽秀人)
 川田豊太郎と「川田文庫」「青山文庫」(藤田有紀)
が取り上げられている。
 対談「民間公共の系譜と現代」木下斉(まちづくり専門家)×岡本真(図書館プロデューサー・LRG)の対談、豊田恭子「もう一つの『ニューヨーク公共図書館~映画の背景にあるものを読み解く~』、連載|司書名鑑に、公財渋沢栄一記念財団 情報資源センター長の茂原暢、など特集と関連した編集になっている。

 興味深い内容で、対談から学ぶところが多かった。

 
 板倉聖宣の報徳研究「二宮尊徳と数学―数学というもの,グラフというものの役立ち方」が収録されている『数学的な見方考え方』(仮説社.2010)を、あることのお礼に報徳博物館に寄贈したことを思い出した。
 宇部は大好きな建築家の作品「渡辺翁記念会館」「宇部窒素工場(現 宇部興産ケミカル工場事務所)」「宇部市文化会館」など6建築があるので、一度は行ってみたいところだ。
 津山には11月に行く予定だから「津山基督教図書館」を見てこよう。

2019年09月29日

残日録70 蒐集癖

 大通寺参道にあった「あふみ舎」が旧浅井町の相撲庭町に移転して、「Gallery&design URUNO」と改名して9月から開店している。「あふみ舎」は民藝よりだったのだが、民藝という用の美から少し外れたオブジェも扱いたいとのこと。目利きの店主なので、たまに立ち寄って覗いて気に入ったものをいただく。若い店主に選ばれた作家も若い。ひと世代以上離れている私には新しい民藝を感じさせてくれる。「売るの」か、と思ったが、店主が宇留野さんだった。信楽焼の山田洋次さんの大皿を買った。
 物欲は衰えることがない。春には画家鈴木信太郎が1960年頃に蒐集した珍しいインドの布などを入手した。
 小谷真三さんのガラスにはじまった蒐集癖は、陶芸に広がり、石川雅一(はじめ)さんや石川さんの師の吉田嘉彦さん、近年では土屋典康さんの作品、と道楽は続いている。

2019年09月04日

残日録69 『ドキュメントしくじり世代—―団塊ジュニア・氷河期中年15人の失敗白書』

 日野百草(ひゃくそう)著,第三書館,2019.
帯の表に「みんな、ひとりぼっち。それでも、いっしょに、たそがれて、いくのだ。しくじり世代(71-81年生まれ)2000万人の等身大自画像集」とあり、裏に「就職氷河期、非正規、非婚、引きこもり、子供部屋おじさん 私達は、仲間は、どこで「しくじった」のだろうか。本書は15人の団塊ジュニアおよびポスト団塊ジュニア(氷河期世代)から聞き取り、そのしくじりを赤裸々に語ってもらったドキュメントである。」とある。
 しくじり世代だからといって多くの男性は正規職員や自営業だが、40代の男性の21.3%、女性の55.8%は、非正規や無職である。日野は長期失業者60万人のうち40代は15万人ぐらいとみている。みんながみんな「就職氷河期、非正規、非婚、引きこもり、子供部屋おじさん」でないのだが、この世代に特徴的な現象だという。
 虐待とかあおり運転の事件で、ネットのネガティヴな投稿でも活躍する世代のようである。15人がサンプルとなりうるのかは不明だが、競争社会のなかで育ち、とげとげしい感情を持つ人が多いように読み取れるドキュメントだ。
 鯨岡峻の「関係発達の概念図」から多くを学び、それをもとに「団塊世代の親世代―団塊世代―団塊ジュニア世代」という戦後日本の世代論を話のマクラにすることがある。団塊ジュニア世代についても「モンスターペアレント」世代として紹介してきたが、「しくじり世代」とはいいネーミングだ。
 保阪正康『戦争体験者 沈黙の記録』を読むと、「記憶を父として、記録を母として、教訓という子を産み、そして育てて時代に託していく」という保阪の立ち位置とはまったく縁のない戦後があったことを知ることになるが、団塊世代の親世代は、戦争体験を団塊世代に語ることなく、内発的でない「理屈」でもって子を育て、老後は戦争体験世代にふさわしい「ゲートボール」を生み出した。団塊の世代は激しい競争の中、「屁理屈」を振り回してバブルに突き進んだ。団塊ジュニア世代も激しい競争の中、「屁理屈」を振り回して「しくじり」続けている。

2019年09月01日

残日録68 「基礎・基本」について

基礎・基本を高める言語活動の展開―言語活動の三つの柱』これは「実践国語研究」別冊(2004年)。
 90年代の後半から00年代の初頭は「総合的な学習の時間」や学校図書館について原稿を書いていたこともあって、教育雑誌を読むことがよくあって、この別冊もそういうなかで購入した一冊である。当時の文科省初等中等教育局教科課程科教育調査官であり、後に京都女子大教授(2016年度まで)となった井上一郎の講演記録があったので購入したのだろう。
 当時の文科省教科調査官・国立教育政策研究所教育課程調査官であった西辻正副(まさすけ)は、

 「国語科の基礎・基本とは何でしょうということですね。一般的には基礎と基本というのを分けずに基礎・(ぽつ)基本というふうな言い方をしたりする形で一体のものと考えているわけです。それは「学習指導要領に示されている内容である」というふうに言われています。その基礎・基本を身に付けていくということですが,それを考えるときに,やはり「学力」という問題から離れることは出来ないのではないかと思います。(略)
そこ(「確かな学力」―明定)では、幅広く「学力」というものをとらえようということになります。その中核というか,基本になるのが,基礎・基本ということですね。

と書いている。

 井上はそうは言っていない。

 この基礎・基本の話について申し上げるときには、いつも二つの点を先生方にお話しするようにしています。一つはですね,今申し上げたように,基礎・基本という言葉を使うのであれば,その基礎・基本という言葉は何らかの全体に対しての基礎・基本であるわけですよね。何が全体になるかというと,文字通り,この新聞の記事のタイトルもそうです。学力を担うと書いてあります。あるいはこの冊子タイトルも確かな学力とある,これもそうです。確かな学力と豊かな心と,つまり,学力観そのものが全体にあるはずなんです。つまり,学力観そのものが全体にあるはずなんです。今先生が一番取り組むべきは、あるいは,残された問題は,学力観そのもの,具体的に見れば子ども観そのものを改革すること以外にはないと思います。学力観が変わる,その中の基礎・基本であるということをご理解願いたい。ややもすると学力観を新しいもののように議論しながら取り上げる基礎・基本が,従来の学力観で議論された方法や内容を不易という名の下に導入する人たちもいらっしゃる。これは困ります。学力観全体を変えていく中で、基礎・基本は構築されねばならない。
(略)
 もう一つ,基礎・基本という言葉をこれから今日,明日二日間にかけて議論なさるときにイメージをおもちいただきたいのは,基礎・基本を私たちが議論するということは学力観全体の中で決めるのであるとするならば,どのような学力観をもつのかということを真剣に考えなくてはいけないだろうと思います。しかも,何を子どもたちに時代や社会を反映して指導すべきかについて,先生方に簡単に分かりやすい言葉で言えば,預けられた状態にある,そういう方向に向かっていると思うんです。

 ずいぶん違っている。
 井上は当時の上からの「理想主義的」教育改革を担った一人だったのだろう。
 井上は「読む力の基礎・基本」について、「<比べて読むと,関わりのある資料を読む,優れた文章を読む>こういう活動こそ基本とならなければならない」と提案している。そうすると井上の「基礎」は「語彙」ということになるのだろう。そう思って井上著『読む力の基礎・基本―17の視点による授業づくり』(明治図書,2003)をみたが、「基礎・基本」そのものについての言及はない。
 文科省のHPでも「基礎・基本」は連発されているのだが、「基礎・基本」とは何か、何が「基礎」で何が「基本」なのかがよくわからない。論議がされないで、言葉だけが浮遊している状態ではないのだろうか。
 ネットで「基礎・基本」を検索すると、森竹高祐という人が基礎と基本の違いについて、

 基礎は知識、基本は認識。
 基礎は知識や技能、基本は認識や価値観。
 基礎は身につけさせるもの、基本は確かめ確認していくもの。
 基礎は習熟・鍛錬、基本は思考・合意。 
 基礎は理屈抜きで教え、基本は討論・検討がある。
 基礎は認識や価値観を培う土台、基本は基礎の上に立つ応用。
 獲得した基本は次の学習の基礎になる。
 例)基礎:4×5=20、基本:四角形の面積は縦×横だから4×5=20

と書いている。「基本は:四角形の面積は縦×横だから4m×5m=20㎡」の方が正確かな。

2019年08月27日

残日録67 「渡辺保の歌舞伎劇評」

 2019年8月の歌舞伎座の劇評で、

(略)
長谷川一夫の当たり芸であった三上於菟吉原作の「雪之丞変化」であるが、今度はその「新版」として日下部太郎脚色、玉三郎補綴演出によって、これまでの「雪之丞変化」とは一変。今までの歌舞伎座の、いや歌舞伎にもないような画期的な異色作になった。

(略)
雪之丞は自分の俳優としての仕事、女形そのものに疑問を投げ掛ける。なぜ私は今ここに居るのか。私はなぜこの仕事をしているのか。この仕事は敵討ちのような社会のためになっているのだろうか。この問いは自分の存在の否定につながる。敵討ちと違って女形には目に見える実効性も社会的な意義もない。いわばなんの役にも立たない。なんの役にも立たないことをやっている自分は無意味な存在だろう。存在する価値がないのではないか。

(略)

この問いに意味があるとすれば、この問いが雪之丞を演じている玉三郎自身の問いに見えるからである。玉三郎は今日歌舞伎の女形の第一人者である。しかもここは歌舞伎界第一の檜舞台歌舞伎座である。そこで玉三郎が自分の存在に疑問を投げ掛けとすれば、そこには大きな意味があるだろう。その意味はもう一度自分の人生を振り返ること。もう一度歌舞伎とはなにかを問うということの意味である。これは歌舞伎という演劇の再検討という意味を含んでいるから画期的であった。

(略)
この作品が画期的なのは、歌舞伎の、あるいは女形の方法論の再検討を意味しているからであり、そこに女形として生きて来た玉三郎の真摯な「人生とはなにか」という叫びがあるからである。私はそのことに深い感銘を受けた。

(以下、略)


とある。再演されたら観てみたいと思う。


 渡辺保『批評という鏡』(マガジンハウス,2005)の「あとがき」が印象に残っている。

 

 インターネットで劇評を書くようになって、私はそれまでとは違う自立の感覚を持った。そのいきさつ、以下の通り。
 朝日新聞、「ちくま」、「中央公論」およそ十余年、歌舞伎の劇評を毎月書きついで来た一九九九年、中央公論社が読売新聞社に吸収合併されるに及んで、私の劇評発表の場を失った。どこか探せばないこともなかったろうが、この際、私は新しい方法に挑戦したいと思った。
 私がそう思った理由は、それまで私自身が巨大なメディアの保護のもとで劇評を書いていたことを自覚したからである。私は自分の感じたことをできるだけ正確に書こうとしてきたから、当然私の意見に反対の人も出る。ことに批判された役者の反撥は大きかった。私の知っている限りでも、波状的に、執拗に、私の排斥をメディアに訴えつづけた人もいる。そういう時、当然のことながらメディア―――なかでも担当編集者は私を守ってくれる。おそらく私自身が知っている事実は、担当者の防いでくれた事実の何十分の一にすぎないだろう。そのことに甘えてきた。批評を書く人間には許されぬ甘えである。自分一人で全責任を負って、書き続けることは出来ないだろうか。
 そこでインターネットのホームページに書くことを思い立ったのである。さいわい大学の教え子の一人がホームページをつくってくれて、二〇〇〇年正月からインターネット上で劇お票を毎月書くことになった。
 私はいろいろな問題に直面することになった。まずここには新聞や雑誌と違って締め切りと枚数がない。いつでも好きなだけ書ける。新聞のように何百字という小さなスペースで昼夜十本近い演目を書く制約からは解放されたが、自由は同時に自分の内部に規律をもつことであった。

(以下、略)


 劇評は『渡辺保の歌舞伎劇評』(角川学芸出版,2009)に続くが、その後は『歌舞伎日録2009年~2013年』(2013年)『同2014年~2017年7月~2017年12月』(2018年)は個人出版(非売品)としてまとめられている。
 30歳代の7年弱の成田市立図書館勤務の時代は、歌舞伎をはじめとする演劇や映画をたくさん観たものだが、38歳からの湖北・高月町立図書館時代はそういう世界と縁遠くならざるを得ない日々だった。「渡辺保の歌舞伎劇評」はそんな私の心身の渇きをいやしてくださった。ネットでの毎月の愉しみのひとつである。

2019年08月19日

残日録66 井上靖研究会のことなど

 月の最後の土曜日に、金沢で井上靖研究会がありました。研究会は夏と冬に二回開かれます。「井上靖『敦煌』論」趙建萍氏(新彊大学講師・東京学芸大学客員研究員)、「物語の生まれる場所~『闘牛』をめぐって 重里徹也氏(聖徳大学教授)の二つの研究発表がありました。
 昨年の冬の研究会の発表者周霞氏が「井上靖『敦煌』とその関連文献との比較―「尉遅光」の描写をめぐって―」で、日米関係の構図が『敦煌』のなかに組み込まれている、と大胆な指摘をされました。それに刺激を受けた重里氏は、『闘牛』のなかに「敗戦から戦後へと続く虚無感と、その虚無感を覆っている閉塞感」を読み取り、井上文学の射程距離の長さに言及されました。また「閉塞感の外にあるもの」として、「京都と雪です。象徴的にいえば、歴史と自然ということになります」と指摘され、「井上がこの後、山岳や野鳥を描き、歴史へと筆を進めていくのを予感させられるといえば、いい過ぎでしょうか」と結ばれました。
 冬の研究会では、明定が『星と祭』復刊を中心に話すことになっています。
 7、8月は各2か所で復刊イベントがあり、8月末締め切りで、井上靖記念文化財団の「伝書鳩」向けに「井上靖先生と湖北」という題で3200字程度を書いています。
 復刊記念のイベントに県の補助金が付いたので、早々に内容を確定しなければなりません。装丁も決めなければなりません。あわただしい日程になってきました。
8月には市長とプロジェクトとの「ざぶとん会議」もあります。

2019年08月10日

残日録65 「現代の理論」1989年12月 休刊号

雑誌「現在の理論」は構造改革派の雑誌である。
Enpediaによると、第一次から第四次まで4種類あって、以下のとおり。
第一次は日本共産党内の構造改革派に属する井汲卓一、長洲一二、安東仁兵衛、佐藤昇、石堂清倫らによって、1959年5月に創刊された。大月書店から発行され、田口富久治や当時は構造改革路線をとっていた上田耕一郎、不破哲三なども参加した。共産党の指示により1959年8月の5号で終刊した。党の主流派が対米従属・二段階革命論であったのに対し、構造改革派は反帝国主義・反独占社会主義革命を主張した。
第二次は、1961年7月の日本共産党第8回大会を契機に共産党から離党、除名された構造改革派によって創刊される。統一社会主義同盟(統社同)の準機関紙。井汲卓一、長洲一二、安東仁兵衛、佐藤昇のほか、新たに中岡哲郎、森田桐郎、沖浦和光などが参加した。1964年1月に第二次「現代の理論」が創刊され、1989年12月に休刊した。
第三次は、沖浦和光の提案で復刊が協議され、2004年6月に創刊準備号、10月に創刊号が発行された。季刊で発行され、2012年4月のだい30号で終刊した。
第四次は2014春にデジタル版で創刊された。編集委員会の主体は第三次と同一である。

 第二次の休刊号(「特集=戦後史と現代の理論」)がダンボールから出てきたので、その特集の執筆者を紹介する。肩書等は当時の記載による。

井汲卓一(元東京経済大学学長)「ペレストロイカと新しい社会」
 新しい生産力は新しい社会の形成のなかからのみ形成されるのである。それは現存資本主義にたいする、またその系に他ならない社会主義社会にたいする原理的な批判を意味するさまざまな独自の思想的現実的運動が生み出され展開されている。それら諸運動の現実的な発展と相互作用のなかで新しい社会の諸要素を生み出し、形成しあいながら結晶してくるものであろう。そうした諸力の現実的な運動の形成なしに新たな原理が中空から湧き出たり啓示されてきたりするものではないことはあらためて言うまでもないことではある。

長洲一二(神奈川県知事)「ひそかな誇り」
 第一次『現代の理論』の創刊の辞のなかで、私は、次のように述べた。「こんにちまたマルクス主義は、自己完結的体系性の殻をうちやぶる広い討論と交流のなかでのみ、その生命力を燃焼させるであろう。この雑誌は、同じく進歩と平和を愛しながらマルクス主義とは異なる立場にたつ人々とのあいだに、真剣な批判と刺激をあたえあう場所でありたいと思う。」
 この一節が原因になったと聞いているが、第一次『現代の理論』五号ほどで廃刊になった。それから5寤年後の第二次『現代の理論』創刊にいたる間の経過や、私の思いにつては、一九七九年の十五周年記念の檻に書いたので、ここではくり返さない。

佐藤昇(岐阜経済大学教授)「『現代の理論』休刊に寄せて」
飛鳥井雅道(京都大学教授)「天皇制になぜこだわるのか」
池山重朗(評論家)「ペレストロイカと『現代の理論』」
石川真澄(朝日新聞編集委員)「仁兵衛さんへの手紙」
岩見隆夫(毎日新聞社編集委員)「現代の「理論」がほしい時なのに」
沖浦和光(桃山学院大学教授)「創刊のころの想い出」
小尾俊人(みすず書房取締役)「戦後世界と『現代の理論』」
海江田万里(評論家・編集委員)「『現代の理論』休刊について」
菅直人(衆議院議員)「政権協議と三カン構想」
貴島正道(現代総研事務局次長)「堂々たる休刊」
橘川俊忠(神奈川大学助教授)「送る言葉」
久保孝雄(神奈川県副知事)「ポトマックの河畔にて」
小寺山康雄(社会主義懇談会全国世話人)「再見(ツァイチェン)・『現代の理論』」
阪本和子(アムネスティ会員)「回想」
坂本義一(明治学院大学教授)「「社会・民主」」
篠原一(成蹊大学教授)「「社会」の「主義」」
柴田翔(小説家・東京ウ大学教授)「九十年代を前にして」
田中悦子(社会党代議士秘書・編集委員)「十二年前との対話」
筑紫哲也(ジャーナリスト)「「歴史」の終わりか?」
堤清二(西武セゾングループ代表)「より更なる展開を」
永井清彦(帝京大学教授)「栄華・繁忙の巷で」
中岡哲郎(大阪市立大学教授)「旅先より」
西田照見(立正大学教授)「『現代の理論』の休刊に際して」
日高六郎(評論家)「『現代の理論』処分問題」
広岡守穂(中央大学助教授)「『現代の理論』とわたしの市民主義」
舟橋成幸(社会党前中央執行委員)「おき火のごとく」
前田哲男(軍事評論家)「自衛隊門田愛合意への提言」
正村公宏(専修大学教授)「戦後史と『現代の理論』と私」
松下圭一(法政大学教授)「現代社会とマルクス主義」
丸山真男(政治学者)「週刊号に寄せて」
緑川享(岩波粗点社長)「休刊―哀惜の念深きものあり」
宮城健一(市民情報センター代表・編集委員)「私の一九八〇年代」
宮崎徹(国民経済研究所研究員・編集委員)「現実と理論」
武藤順子(元「現代の理論」編集員)「20年間の流れ」
山崎春成(札幌大学教授)「さよなら、『現代の理論』
横田克己(生活クラブ生協神奈川理事長)「社会党が変わるか」

 以上である。安東仁兵衛は編集長のためか書いてはいない。
この雑誌は、理論・評論には力が入っているが、「諸運動の現実的な発展と相互作用のなかで新しい社会の諸要素を生み出し、形成しあいながら結晶してくるもの」そのこと自体にはあまり関心を持たなかった、という印象を持っている。
 かろうじて「生活クラブ生協」が成功しているといえるのではないか。
 日本共産党から離党、除名された構革派の人たちは、それ以前から日本社会党の書記局の一部(反向坂派)に組織的影響を与えていた。離党、除名後は、日本社会党になし崩し的に江田派に受け入れられるが、「社会党内の江田ヴィジョンの敗北と江田・成田ラインの崩壊、構改派が主流派よりはずされ、江田派が「構改派」のメッキをはがし、「政策討論不在の派閥交差王に徹した」という二七大会の状況を前に、すべてのオプティズムは消え失せ、自己閉そく的セクトや、理論活動を主とする評論家、理論化集団と化してゆく。」(勝部元「現代革命論としての構造改良論(その3)季刊構造改良第5号、1971年10月5日)
 季刊構造改良を見ると、「構革派」と「構改派」と表記が二つある。後者は雑誌「構造改良」派が自称しているようである。季刊「構造改良」の執筆者には勝部元、真木中、高野秀夫、力石定一、水田洋、星野安三郎、銀林浩、山崎巧、白井春男、森田尚人など。

2019年07月21日

残日録64 西脇慧「<彼ら>の顔を知っているということ」から

 オウム真理教の元一般信者であった人が「飢餓陣営 №48 2019春号」に書いている論考から「いくつかの疑問/不都合な事実」の紹介。

 

 (二〇一八年)七月六日に執行された今回の死刑により、サリン・テロの当事者――事件解明のための一次情報源――を消したことにより、さらに不明になってしまったかに見える疑問を並べておきたい。(あるいはすでに明らかになっているのに、単に筆者がしらなかったことも含まれているかも知れない)

 

・国松長官狙撃事件の犯人は、平田信ではないとすると、いったい、誰の犯行なのか。

・九五年、琵琶湖付近で、オウムの車から光デスクが押収された。データの内容は統一教会の合同結婚式に参加したという統一教会・オウムの二重信者の二三名の名簿ともいわれる。これは何を意味するのか。・井上嘉浩より高い地位にいた、「法務官房」石川公一は、なぜその責任を問われなかったのか。父親が後藤田正晴の徳島の後援会長だったというが、法の下の平等をいうならば、これは奇妙である。

・事件の改名の証拠となるはずの富士の上九一色村の教団施設、通称「サティアン」は、なぜ早急に壊されていまったのか。異臭騒ぎから覚醒剤製造をおこなっていたとされ、暴力団との関係も指摘された。この覚醒剤作りの罪は問われないのか。覚醒剤とサリン製造という複数の異なる作業が同一施設内部で、可能なのか。工場内部の作業的内訳やゾーニング、作業工程の分類は、どのようになっていたのか。設計やプランを指導した専門家は、誰なのか。現場確認や安全チェックができない盲人教祖や、大学や大学院を出たてのシロウト同然の二十代の若者に、どうして、そんな危険な製造管理作業ができたのか。支持傾倒、プランニング、管理責任、その後の覚醒剤の流通経路はどのようなものであったのか。

・九十五年の三月二十日以前に、すでに藤野本部道場は包囲され、警察は幹部たちを尾行していたはずなのに、なぜ、実行犯たちは当日、サリン・テロを「実行」できたのか。あのテロはすでに包囲監視中に起こった事件ではないのか。

・教団の不動産建設部門「建設省大臣」早川紀代秀の数十回の北朝鮮行きや、ウクライナ行きの真意は、何だったのか。背景にどんな外国人脈があったのか。早川が社長であったフロント企業「世界統一通商産業」の実体とは何か。ロシアや北朝鮮から、覚醒剤原料たるアセトニトリルや、銃器類を輸入したこの企業と、元信者であった「世界基督教統一神霊協会」(統一教会)と早川とは、どのようにつながっていたのか。

・オウムのロシア関係を探っていた石井紘基、そして、教団の科学技術部門の責任者であった村井秀夫は、なぜ殺されたのか。(PP101~102)

 

 石井紘基については、ベンジャミン・フルフォードが「石井紘基刺殺事件と巨大な謀略の影」(「実録!平成日本タブー大全」宝島社,2005)で取り上げている。こちらは「住宅金融専門会社破綻処理問題」が絡んでいる、としている。

 

 オウム裁判への西脇の疑問になるほどと思う。公安がオウム事件にどう絡んでいたのだろう。まあ、闇は闇のまま、だろうけど。 

2019年07月14日

残日録63 公益財団江北図書館の館長退任

 一昨年より江北図書館の館長をしておりましたが、この6月をもって退任することとなりました。

 昨年は研修会の講師を多く引き受けたり、井上靖『星と祭』復刊プロジェクトの代表を引き受けたり、と忙しく、今年は秋までプロジェクトで忙しく、また、切り紙の先生になったりと、忙しい日々が続くので、退任させていただくことになりました。

 

 江北図書館の設立者の杉野文彌の文を以下に紹介します。

 

「読書之友」第四号一九一二(大正元)年
 読売新聞読書会発行 五―八頁 (現代表記化)

余が図書館設立の由来
江北図書館設立者 杉野文彌

 私は明治十七年滋賀県の師範学校を卒業してから、二十年まで大阪府下の小学校に教鞭を採っていた。しかし考えてみると、教師という職は自分にはどうも不向きと思ったからそこで東京へ参りまして、法律を研究しようとして法学院へ入学した、法学院というのは今の中央大学の前身である。ところが学費が無いから詮方なく再び神奈川県の多摩川の上流にある氷川という所で鞭採ることとした。そこで一年半ばかりやって居る中に七八十円の貯金ができたので、東京へ舞戻って再び法学院入ることができた。二十四年の夏になって同校の第一年を修業することとなった。その夏休みに、もと奉職していた氷川へ遊びに行った。そこへ丁度法学院の成績表を送って呉れたので早速開いてみると八科目の中で百点が六科目で九十九点が一科目に八十五点が一科目という好結果を得たのであった。しかし私も学費がなくて甚だ困っている矢先であるから同地の或る有力者に、「弁護士になるつもりであるから学費を少し貸して下さい」と成績表を見せて頼んだ処が快く三十円ばかり貸して呉れた。
 東京へ帰って其の金で悉く書籍を買ったが、またすぐ衣食の方に窮して売払ってしまった。さあ斯うなると約束してあるから弁護士の試験は受けねばならないし、また私もどうかして受けたいとは思ってももう学資が無い、どうしたら宜いかと非常に苦心した。
 或時、今川小路と通ると、日本教育会の図書館があったので入ってみると其の中に「バーソナー文庫」というものがあって法律書ならばどんなものでもある、原書もあれば訳書もある。そして朝の八時から晩方まで一日一銭五厘で好きな本が読まれる。ああ図書館というものは便利であり難いものであると非常に嬉しく思った。それから毎日々々通ったものである。之が抑々後日成功したならば是非図書館が建ててみたいという考えを持った動機である。
 そこで其の年二十四年十月に弁護士の試験を受けてみた。其の時私の考えではマダ二年を了えたばかりであるから落第は免れまいが、来年の此の模様では必ず受かるという深い自信を持ったのである。ところが一二月官報で発表したのを見ると立派に合格して居たので非常に得意であった。
 それから愈々(いよいよ)開業しようと思った所で得意があるでもなし、玄関構えるには金は無いし、随分苦心した。どうにかやれるようになったのは私の三十歳の時であった。その頃から飲食物車代など倹約し芝居を見るとか、どうするとかいう様な娯楽は一切しないで三冊五冊という風に漸次書籍を買集めに掛ったのである。三十五年に三千冊ばかりに及んだので、兼ての宿望の通り図書館を建てたいと思って、私の故郷の江州伊香郡余呉村へ帰った。そして村の人たちを集めて、「私は学費が無かったために書物を買う事が出来なくて非常に苦心して之れだけになりました。相当の地位を得るにはどうしても読書しなくてはなりません、そこで人々が勉強に都会へ出て来るのであります、而し中流以下の人には子弟を都会へ出して勉強させるということは出来ない。今一つは小学校を卒業して農商工に従事すると、もう学校で習った以上に学識は進まない、甚だしいのは皆忘れてしまう。そこから考えて私は此の村に書籍の一万円に建築費の五千円も投じて図書館を設け、青年少年の便益に供したい」ということを発表した。村の人々はまだ時期が早いであろうと言ったが、之が私の素志であるのと、例え二人か三人でも人を益すればいいという考えやら、杉野文庫というものを設立することにした。けれども管理は不行届である、勧誘も何もしないから読者も殆ど無いという有様であった。そこで、時の郡長林田民次郎氏は法学院時代の同窓でもあったからこれと図って一里ばかり離れた木本町へ移した、木之本は郡役所の所在地であるから郡会議事堂を閲覧室に充てることとしてくれた。然るに案外読者も多いし郡長も熱心に読書を奨励させられるから益々盛になるそこで杉野文庫というといかにも私が名誉を貪るためにやる様で悪いからというので江州の北部にあるから江北図書館という名称にして私からは寄附行為の証書を作って差出し財団法人組織にしまして図書費一万円維持費一万円ということで文部省の許可を得て登記を済ましてそのまま今日に及んで居る。
 盛であるとは言うもののまだまだ読者が少ないので時には巡回文庫の制を採った事もあり、個人貸附をしたこともある、種々の方法を講じて成績を上げ様と苦心して居る、私も毎年八月には必ず帰省して自分が各地へ出張して遊説を試みることに居る。そこで熟々考えるに、如何に立派な図書館があっても読書趣味が無くては何の役にも立たないと思う。元来日本人殊に地方の人は、書物は学者や学生や或は高尚な人たちの読むものであるかの様に思って居るらしい。であるから、不明事項の調査、受験準備、町村制の研究の外は此の図書館の門は潜らない、入る必要はないといったような考えで居るらしいが、普通図書館というものの主旨は農工商、すべての実務に従事する人が図書館によって智能を啓発し国家を益す様にしたいというにある。であるから図書館なるものを利用せしむるには愉快な書、滑稽な本、小説でも稗史でも何でもよいから最初は読まして置く、そして読書趣味を作って漸次実用的研究的の書籍を読ましめる様に導きたいものであると思う。
 現在日本の図書館を見るに、近来殖えた都会の図書館は図書に就いても完全であろうが地方の、殊に町村の図書館へ行くと、古書ばかり無暗に蒐めたり、或いは署名だけに惚れて新刊書を買込み、それで図書館の体をなして居ると考えて居るのも随分ある様である、又、管理者は読者に就いて一向注意を払わない書籍だけ置けばよいというので勧誘もしなければ只傍観して居るのもある様である。今、国中に図書館は三百有余もある様であるが実際の効果を収めつつあるものは実に寥々(りょうりょう)たるものであろうと思う。米国のように小学校のある所には必ず図書館を設けるということもよいが、相当経験のある人を置いて書籍購入や管理をウマクしなければ何の効力もないこととなると思う。それからまた読書趣味の皷(鼓)吸(こすい)という事をしなければ之もダメである。要するに図書館を利用せしむる最大要素は読書趣味の皷(鼓)吸である。そこで此の読書趣味を皷吸する目的を以て読売新聞から「読書の友」が出た、「読書の友」が多く読まれる様になれば、読書趣味が拡張させられた道理であって、やがて図書館を成立せしむる原素であると信ずる。読書会も現在は「読書の友」という雑誌を発行して居られるが将来は、講和、演説という様な方法に依って全般の人に読書趣味なるものを耳からも注入する様な設備が欲しい者であると思う。此の事業は実に国家的であるから国家が相当の補助を与えて然るべきであると思う。
 次に私は普通教育は学校と図書館とに依って目的を達するものであると思う、一方は言葉に依って教え、一方は不言の教育をするものである、よし学校に於いて普通教育を施したとしても、読書しなかったならば進まざるものは退くの原則に依って忘却してしまう、小学校は歩行を教える所で、それからは自分で歩行を継けなければ折角学んだ事も何の役にも立たないのである。
仏国の代議士が
 小学校を卒業して適齢まで少しも読書しなかったものは入隊の場合には学校で学んだことは全部忘却してしまっていて無知に等しい。かくては国家の由々しき一大事である。
といった事があるが、我が国に於いても同感ではないか。又、日露戦役の時某将軍が
 教育に支配されて居る人は絶命の時に及んで女々しい挙動がない、無教育の者程かかる場合に男らしくない挙動をする者が多い様である。
と言われた事があった様であるが、何れの点から考えても教育の普及を図からねばならない、教育を盛ならしむる一方法としては是非とも図書館の発達を図らねばならない、図書館を発達せしむるには最先に読書趣味を養うことが肝要である。

2019年07月10日

残日録62 読む力をどう育てるのか――「一人読み」への移行について

今年のはじめに守山であった児童図書館研究会全国学習集会で、幼年文学の分科会で話した。
 最近の幼年文学をめぐる動向として、宮川健郎「日本の児童文学—―「声」の時代、「声」のわかれ」(国立国会図書館国際子ども図書館編「平成28年度国際子ども図書館 児童文学連続講座講義録『子どもに本を手渡すために」)2019
を紹介した。

  ・私の中にはイメージがありまして、子どもたちの中には「聞くことのコップ」とでもいうべきなにかがあって、そのコップの中に読んであげる声をずーっと注ぎ込んであげると、それがある日いっぱいになってあふれ出す、声が「聴くことのコップ」からあふれ出す、その時に初めて、その子は一人読みをするような自立した読者になるんじゃないかと思っております。先ほどのような(なかなか一人読みに移行できない—―注;明定)身の上相談を受けた場合は、「まだ「聞くことのコップ」が十分に満たされてないんじゃないですか?まず、声を注ぎ込み続けてあげることが大事で、それを3年生くらいまで続けて楽しんでいかれたらどうですか?というようなことを申し上げることがよくあります。

   ・小波から日本の子どもの文学が始まって石井桃子にいたるまで、何らかの形で、読んであげるということと、声と結びついていたのが日本の子どもの文学だったと思います。/つまり声に時代をずーっと過ごしてきたのが日本の子どもの文学だったわけですけれども、先ほどの話にもどりますが、佐藤さとるなどによって、現代の児童文学が始まったときに、読んであげる声とわかれてしまったということがあったと思います。そして書きことばとして緻密なもので、黙読する子どもたちに届けて、かなりやっかいなことも書いていく世界が現代児童文学だと思います。現代児童文学が成立したときに、読んであげる声とわかれてしまった、そのことを私は「声」とのわかれと呼んでいます。「声」のわかれというのは、「声とわかれる」という意味なんですけれども、「声」の時代から「声」のわかれへ、これが日本の子どもの文学の大づかみな流れといえるのではないかというふうに思います。

 幼年文学は読んであげる文学であって、子どもたちの中には「聞くことのコップ」というようなものがあって、そのコップから、声が言葉があふれ出す、その時に初めて、その子は一人読みをするようになる。
 と宮川はいうのである。幼年文学の作家も編集者も、この宮川の仮説の影響を受けて、一人読みでない、読んでもらって心地いい作品を作ろうとしているようだ、と話した。

 いろいろ質問や感想があったなかに、どうした一人読みができる子になるのでしょう、という質問があった。
 幼年文学について話す前段で、『子どもの「10歳の壁」とは何か?』渡辺弥生著、(光文社新書、2011)を紹介して、感覚的な思考から、論理的な思考への移行が必要なことを話してはいたものの、そのことについて特別に何を言ってもいなかった。
突然の質問に「幼年文学より、絵本のほうが一人読みに近いように思います。」とだけしか言えなかった。

 私は「児童サービスのこれからを考える」(図書館評論.2018)で、乳幼児・児童サービスに「読み聞かせ」とともに「知育玩具の導入」「折り紙・切り紙遊び」「絵探し」「科学遊びと簡単な実験道具の提供」「アニマシオン」を導入することを提起している。ここでは「言葉遊び」を追加しておく。

 竹内研三『ことばをどう育て、国語をどう学ぶのか――発達脳科学からのコメント』(大学教育出版.2013)を引っ張りだしてきて、この提起と「一人読み」への移行とをつなげたい。
 帯に「ことばと国語の教育において、もっとも有用な時期である乳幼児と小・中学生が、ことばをどう聞き・話し、そして、どう読み・書き、さらに、伝える力をどう育てていくのか。/発達脳科学の立場か、図を交えながらやさしく解説する。」とある。
 少し抜き書きしておく。

 第4章から

 本章では、赤ちゃんがどのようにしてことばを感じとり、理解し、まねてことばを獲得していくのかを説明していきます。ことばを学ぶ脳のシステムはコンピュータのシステムに似ています。しかし、両者にはおおきな違いがあります。ひとは経験や学習で自分の脳を改良し、育てていくのですが、ロボットは自分で自分のコンピュータを改良することはできても育てることはできないのです。ひとは自分で自分の脳を育てているのです。
 乳幼児がことばを学ぶには環境の重要性があります。母親から、家族から、そして生活環境から話しかけられ、聞き、体験する環境です。子どもの立場から言えば、音声を中心にことばをまねて学ぶ環境です。
 学ぶことばには2つの種類があります。ことばが事物などと一致する具体的なことばと、自分のこころのなかで理解する非具象的なことばです。前者は、母親や子どもたちとの遊び、実際に見えて触れる事物からのことばで学んでいくことばです。りんごやかけっこです。複数の同時刺激から学ぶことばです。後者は親から読んでもらう絵本などによって学んでいくことばです。悲しい、恐ろしいといった非具象的、情緒的なことばです。(p45)

1. ロボットとの違い
(承前)
 赤ちゃんがことばを理解(受容)し、記憶し、反応(表出)する過程も基本はこのロボットのメカニズムと同じです。しかし、大きく異なっている点が3つあります。
 ひとつは、赤ちゃんは聲だけでなく周囲のいろいろな刺激を受けてことばを受容し、理解していることです。複数の刺激が同時に与えられているのです。それだけに需要面でのミスが少なくなります。同じことばでも知らない女性の顔と母親の顔では視線からの情報に差をつくります。知らない顔では反応に慎重になります。総合的に理解することでことばの裏面まで正しく受容することになるのです。やさしいお母さんの声と美味しい母乳の味、ころんだときに「あぶない!」と叫んだお父さんの声と膝の痛みなどは、声と同時にほかの感覚刺激が同時に入力されるのです。赤ちゃんはいろいろな刺激を同時に受け取ることでことばの意味を正しく理解し、それを記憶していくのです。複数の同時刺激で理解していくことばは理解の深さに差をつくります。音声に含まれる調子、相手の表情や服装、身体の特徴など色彩や動きから赤ちゃんは少しずつ異なる理解をしていくのです。あかちゃんにはことばとともに五感からの刺激が同時に入力されるため、同じことばでもテレビから聞こえてくることばとはこの点で刺激の内容が大きく異なります。テレビは光と音だけの刺激だからです。(p47~47)

4. 絵本によって育つことば
 1歳を過ぎた幼児は、絵本をお母さんのところにもってきます。お母さんは、うるさがらずにそのページに書かれている情景を情感たっぷりに読んであげてください。情感をこめることはことばの音韻を正しく理解させることになります。本のページは順序を追う必要はありません。「こわいワンワンがいるね」「みんな楽しく歌っているね」「おいしそうなりんごだね」「みんな何をしているのかな」「などその絵の状況をお母さんは瞬間的に受け止め、内容の核心になることを短く話してください。ワンワンも犬が吠えているように読み、歌を歌っている絵ではその歌にあった歌を歌い、鳥の絵では小鳥の声をまねてください。それらは多くが情緒的で、物とことばが一致しないことばです。楽しい、うれしい、おいしそう、こわいなどです。非具象的なことばです。これらのことばは絵本を読んでくれるお母さんから学んでいくことになります。正しい形容詞や副詞の理解です。最近のテレビでの会話を聞いているとこれらのことばに貧しさをしみじみと感じます。食べものはいつもジューシーやモチモチなのです。
こどもに絵本を読んであげようと思ってもすぐページをめくって聞いてくれないとうったえられるお母さんがいます。子どもの興味とおかあさんの意図がずれているのです。心配はいりません。子どもの興味に合わせてもらえばよいのです。こどもがページをどんどんめくっていくその瞬間、瞬間で目に映ったシーンの中心になることばを一言で話してあげるのです。「こわいね」「たのしいね」です。情動に結び付くことばです。当然、お母さんは前もって各ページにはどんな絵が書かれているか、何がポイントなのか見ておく必要があります。ページに書かれている文章は子どもが要求しないかぎり読む必要はありません。ポイントのひと言を聞くことで子どもは何となく本の内容へと興味が移っていくものです。
 また、絵本ははじめから多く与える必要はありません。動物やたべもの、乗り物やアンパンマンなど数冊もあれば十分です。年齢が幼いほど文字の少ない、絵が大きく書かれているものが良いと思います。ストーリーは身近で、動物たちも参加して、みんなで楽しく生活をしているような本が子どものこころを満たします。ストーリーの好きな年齢になると何度も同じ絵本をお母さんのところへもってきて、読んでもらいたがります。うるさがらずに何度も読んであげてください。最後にはお母さんのことばを暗記してしまい、お母さんが忙しい時にはお母さんの声をまねてしゃべっています。なお、お母さんが感情をこめてはなしをしてあげることは、子どもが気持ちをこめた話し方や聞き方を学んでいくことになります。
 絵本で最初に覚えることばはワンワンやりんごなど目に見えるものとことばの音韻が一致する具体的なことばです。これらのことばは、家族との遊びの中で復習することができます。話ことばで学ぶ語彙の増加です。しかし、遊びではなかなか学ぶチャンスのないことばもあります。それは悲しい、うれしい、さびしい、苦しい、痛い、などの物の名前ではない感情や感覚につながることばです。具体的でない非表徴的で、非具体的なことばです。これらのことばは絵本を読んであげることで理解していくことになります。現実の世界ではあまり経験しない情感のことばです。ことばのもつ色合いを理解することになります。同じ「痛い」でも顔をしかめている絵なのか、血を流しながらわーんと泣いている絵のなかで「痛い」にもいろいろな「痛み」のあることを理解します。「さびしい」にもお留守番をしている絵にみるような不安からの「さびしい」もあれば、かわいがっていた犬が死んだ絵でみる孤独の「さびしい」もあります。
 これが絵本のもつ重要な点です。ことばが物の名前のように1:1の関係ではなく、形容詞や副詞に含まれるいろいろな内容の理解です。お母さんは感情をこめて読んであげましょう。
(略)
絵本の読み聞かせは、親からの声による聴覚情報と絵本からの視覚情報が統合され、そこに共通することば、とくに形容詞や副詞、すなわち修飾語の概念を理解させ、正しいことばを増やしていくことにつながります。これは集団生活のコミュニケーションのとり方を学ぶだけでなく、文字を理解する前の重要なステップにもなるのです。修飾語の理解はことばのもつ深みや色合いを学ぶことにつながります。(pp57~59)

「どうしたら一人読みができるのか」という問いに簡単に答えが出るわけがない。そのためには「乳幼児がことばを学んでいく環境は、家族を中心とした豊かな会話と子どもたち同士での楽しい遊びがもっとも大切です」(p63)とあり、語彙数の問題も課題となる。
たどたどしく一文字一文字たどっていくと「た」「ぬ」「き」となる。それが、動物園で見た、絵本に出てきた、テレビでみた「たぬき」とつながらなければ、「たぬき」にならないだろう。形容詞や副詞、動詞などで形成される「一文」、それがつらなる文章からなにがしかの光景を浮上させる。そこに「一人読み」につながる回路がある。
幼年文学ではなく、絵本のほうが「一人読み」つながるといえる。一人で読みなさい、ではなく、読み聞かせの延長に「一人読み」がある。幼児がお話を暗記してしまい、母親の口調で話すのと近いように思われる。
 著者の竹下は「お絵かき、積み木遊び、ままごと、砂遊びなどに共通する重要な機能の成長があります。それは創る力の育ちです。想像力の成長です。創造力は成人になって前頭葉を中心にものごとを計画し、実行していく重要な機能のひとつです。」(p73)と、遊びの重要性も論じている。

2019年07月02日

残日録61 井上靖と民衆

 井上靖は軍医の息子である。妻の父は解剖学者の足立文太郎。親戚に医者がいたりする。

 浜松中学校(現;浜松北高等学校)に首席で入学⇒沼津中学校(現;沼津東高等学校)⇒第四高等学校(現;金沢大学)⇒九州帝国大学文学部英文科⇒京都帝国大学文学部哲学科⇒毎日新聞社大阪本社⇒同学芸部副部長⇒芥川賞作家⇒日本芸術院会員⇒文化勲章受章

 浜松中学を受験するも不合格ということぐらいが目に付くのだが、九州帝国大学文学部英文科⇒京都帝国大学文学部哲学科、というのも、井上靖にしてみれば煩悶の期間であったのかもしれない。
 『あすなろ物語』のように、明日は檜になろうと夢を見るが檜にはなれないが、何者かになろうとする人たちがいる。50歳代の井上靖はこの自伝的小説の中で「何者かになろう」とする姿を描いている。「何者かになろうとする」ことに肯定的である。

 私は父から「何様になるなどと考え違いも甚だしい。何様になろうというのは増上慢、思い上がり、うぬぼれも甚だしい」とよく言われた。何様になろうとは思わなかったが、父から見るとそう見えたのかもしれない。晩年になって、私がどこか手の届かないところに行ってしまうのではないか、と心配していた、と母に話していたらしい。恥ずかしい事や人に迷惑をかけることを心配していたのだろう。

 「何者かになろう」として「何者かになる」人生がある。「何者かになろう」として「何者にもなれない」人生がある。「何者かになろう」などと考えることのない人生がある。

 井上靖は「何者かになろう」として「何者かになる」人生である。
 「何者にもなれない」人生、「何者かになろう」などと考えることのない人生は民衆の側にある。
 (白樺派のように、「何者かになる」のはあたりまえの人生もある。)

 井上靖の現代を舞台にした小説には、地位もありお金に不自由しない登場人物が出てくる。「何者かになる」人生をかさねてきた人たちである。
 井上靖は「民衆」というひとの群れについての想像力が弱かったから、その影響が登場人物にでているのではないか、と思う。

 20数回湖北を訪れ、十一面観音に対座し、瞑想の時を過ごす。そして渡岸寺国宝維持保存奉賛会の人たちと言葉を交わし、酒宴を共にする。
 井上靖が「民衆」に触れる時間でもあったのではないか。
 「民衆」への豊かな想像力への入り口として湖北での時間があったように思う。晩年に親鸞を書こうとしたことにつながっているように思われる

 

 長浜市立高月図書館の庭に建つ文学碑「聖韻」は、詩人井上靖の作品としては異彩をはなってる。高月という町への「讃」となっている。

 

(承前)

世界的規模を持つ冥想の町、信仰の聖地、湖畔散策
の町としての、新しい時代の、新しい高月は、この
日、このようにして生れた。

2019年06月17日

残日録60 不登校児と図書館

 CiNiiで論文検索をすると、「内外教育」2019-04-02「不登校「なぜ続きているのか?」:国立教育政策研が指導主事向け資料作成」という論文がヒットした。2019年3月だけでもタイトル、サブタイトルに「不登校」が付く論文が17点あった。日常化していて話題にならないのかもしれない。
 高月町立図書館の館長を10数年していたが、初めの数年間、不登校児に関わったことがある。
 図書館が開館したのは4月の30日で、約一年が経った次の年の春、女子中学生が平日であろうが休日であろうが、開館日の午前中から来ることになった。一年近く図書館通いが続いた。母親が図書館に送って来て、仕事帰りに迎えに来るという日々だった。利用登録をしたので、一つの町を挟んだ町に住んでいることはすぐにわかった。別段、教育委員会や学校に知らせることはしなかったが、不登校の関係の教師間のネットワークでは、よく知られたことだったようだ。学期末になるとストレスがたまるのか、たくさんのリクエストをした。図書館によく来る青少年が家まで行って、その子の遅れた勉強を教えてあげるということもあって、不登校から脱することになった。
 母子家庭の小学生、高学年の男の子だった。学校長が「館長さん、お父さん代わりになってやってくれないか」と話を持ち込まれたこともあった。いろんなことをやったわけではない。ともかく、引きこもらせてはいけない。「たまごっち」を買って渡し、毎日その子に図書館まで来て報告をさせた。図書館に報告に来ない時は、電話で聞いた。「たまごっち」は突然、死んでしまう。リセットをして、また育てることになるのだが、ご当人はたとえオモチャの上のことではあるが、死んでしまった、と号泣であった。
学校に行くようになっても、勉強は遅れているので、行ったり行かなかったりした。授業が終わらないのに、途中で図書館に来てみたりもした。
 ある時、ボデイタッチをしてくすぐってやった。そうしたら、身体がグニャグニャになった。何度かやってみた。身体が育ちなおしをしていると思った。中学生になったら不登校は終わった。
 不登校に理解のある図書館というイメージが早々と定着したのか、図書館の一部屋に不登校児が登校するフリースクールを設けることとなった。滋賀県の湖北では一番早かったのではないだろうか。(これは長浜市との合併まで続き、合併後は別の場所を移動した。)
 ある年の4月のはじめに、これは間に二つの町を挟んだ少し距離のある町から、お祖父さんが孫をその教室に連れてきたことがあった。その町の教育委員会があずかり知らぬところであったので、新学期が始まって少し混乱したこともあった。不登校になると高月図書館のなかにある教室に行く、というのが伊香郡内の人にとって割と知られていたのだろう。
 月曜日に学校に行きたくないと言い出すと、とりあえず図書館に連れてくる、というのもよくあった。
教室の指導者(教員のOB)に恵まれて、発達障害の子どもの早期治療対応、という事例などもずいぶん早くからあった。
 図書館という場に「育ちにくさ」を抱えた子どもたちが日常的にいる、ということは、図書館職員にとっても利用者にとっても良い事だったと思う。いろんな子どもがいることを忘れがちな暮らしを、気づかせてくれる。

2019年06月04日

残日録59 『児童百科事典 第8巻』平凡社,1952――「好奇心」

コウキシン 好奇心

 次のページにある絵をみると,あなた方は,まず,‘おやなんだろう’とおもうだろう。これは,左のほうに目をつけるアヒルのようにみえ,右のほうに目をつけるとウサギのようにもみえるためだ。だが,これがわかると,あなたがたは,つぎに,‛じゃ′どうして,こういうことがおこるのだろう’といううたがいをおこすにちがいない。こういうのを好奇心という。
 なんだろうとおもって,知りたくなるきもち—―これが好奇心である。
 好奇心はどんなものにたいしてもおこるか?‛知る’というのは,わたしたちが心のなかにもっているいろいろなきそくにあてはめて,それをうまく‛かたづける’ということだ。それを心のなか,あたまのなかだけでやることもあるし,手や足,からだぜんたいをつかって,たしかめることもある。つまり,いま,目のまえにある人やものを‛うまく処理した’ことが,そのものを知った,ということなのだ。だから,好奇心は,こういうことのまだできていないものにたいしておこる。この点で,好奇心と興味とは,すこしくいちがっている。興味は,じぶんがくわしく知っているものにもおこる。しかし好奇心は,知っているものにおこるか。そうはいえない。
第1 まったく知らないものにたいしては,人はおそれ,また無関心をしめし,好奇心をおこさない。好奇心はそのうちの一部分を知っており,ほかの大部分を知らない,というようなとき,いちじるしくおこる。だから,知っているものと,知らないものとが,いりまじったばあいに,いちばん好奇心がおこる。
第2 いくら知らないものと,知ったものとがいりまじっていても,その知らないところをはっきりさせて,そのものを‛かたづけよう’という気がおこらなければ,好奇心はおこらない。こういうきもちは,ほんとうの意味では人間だけがもっている。動物,とくにサルには,こういうきもちのきざしはあるが,ほんとうの積極的な好奇心はない。好奇心というものは,ものをすすんで‘処理しよう’という能動的な心のうごきなのである。だからそれは‛発明心’にたいへんちかい。つまり,ものをつくりだそうするのとおなじたかいきもちが,ものを知ろうというきもちでもあるのだ。
 こういうふうにせつめいすれば,好奇心が、小学生から中学生ぐらいにならないと,ほんとうには,でてくるものでないことはわかるだろう。幼児のときにも,いくらか好奇心はあり,ある年齢になると,おもちゃののしかけがどんなになっているかをしらべたりするが,なにしろ幼児のときは‘知らない’ことがおおすぎる。だから,あたらしいことにぶつかると,こわがるか,‛そうか’とおもって,そのまま納得(なっとく)してしまう。これにくらべて,小学校へいくようになると‘知らないこと’と,‛知っていること’がいりまじっている。中学校へいけばますますそうなる。学者になって知っていることがふえてくると,それにつれて,好奇心がへったりふえたりする。じぶんの専門にしている学問のほかには,まったく,なんの好奇心もおこさないことさえある。また、学者は,好奇心だけでべんきょうをするものではない。じぶんの好奇心を満足させるためだけではなく,好奇心でみつけたものをひろくい知らせるために,学者の仕事の大部分はとられる。老人は,いったいに好奇心をもつことがすくない。これは、老人が安定した環境をのぞみ,しぶんの知っている世界にとじこもるくせがあるからだ。だから,わかい人でも,じぶんの環境にまんぞくしているひとを老人のようだというのである。好奇心は,人の心を,いつもわかわかしくたもつ力をもっているのだ。
 つぎに,好奇心はどういうふうにあらわれるだろうか?
A.質問 まず,質問である。わからないこと,知りたいことがあれば,知っていそうな人に質問をする。しかし,すべての質問が好奇心のあらわれであるというわけではない。小学校へはいってからの質問はたいてい好奇心だが,たとえば幼児(小学校よりまえのこども)のつぎのような質問は好奇心ではない。‘なぜ兄さんにはおだんごをたべさせて、ぼくにはくれないの?’これは,一種のとおまわしの反抗または抗議である。
B.探索(たんさく) このほうは,ほんとうははやくからはじまる。こどもは口で質問するまえに,手で質問する。これが探索である。いろいろ注意してしらべる。足で歩いて観察する。こういうことは,小学校の2年生くらいのときに,一番つよくなる。
C.手にとってみる これは,探索の1歩すすんだものである。あなたがたの弟が,あなたがたのものをこわしてしまうことがよくあるだろう。それは,いたずらだが,いたずらのうちにも,好奇心にかられてやったものがある。こういうのは,やたらしかったり,お母さんにいいつけたりしてはいけない。すこしぐらいのものはこわれても,弟がりこうになったほうがいいだろう。こわれることで,ものをおぼえるものだ。
 このようにしてみれば,好奇心は、芸術や科学や冒険などを,よりひろく,よりふかくおしすすめるもととなることがわかるだろう。むかしギリシア人は,なによりも‘知ること’を愛した。ことがらをどこまでもつきとめよう,という心をうしなわなかった。たじろがない目で,人間の住む世界にいどみかかる勇気をもっていた。しかし,彼らの好奇心は,人間にふさわしくないもの,つかみどころのないもののまえでは,ふみとどまるかしこさをもっていた。そこに,好奇心をもういちだんたかいところからあやつっていく,人間のちえがあるといえよう。

 

 瀬田貞二が編纂した子供向けの百科事典。好奇心の項目をとりだした。

 

 学問の正確さと,視野の広さとを保つこと,

 問題をいきいきと,まざまざと表すこと,

 しかも,中心を直接ついて簡明であること,

を,あくまでもめざした。全巻の特色は,まったくここにかかっている。(第一巻「まえがき」より)

 

 この巻ではないが、板倉聖宣も原稿を書いている。中山茂『一科学史家の自伝』に「周りでは、板倉聖宜などはもっと本気で取り組んでいた。」(p76)とある。板倉さんから、伝記の項目はよくできている、と聞いたことがある。「楽しい読み物」的要素を加えている。

 マルクスの項目は「マルクスはあるとき,彼のむすめたちのだしたいろいろな質問にたいしてつぎのように答えている。‛すきなモットーは?――すべてのものはうたがうことができる。’‛あなたのいちばんすきな性質は?――純真’‛あなたのもっともにくむ罪は?――卑屈’‛あなたの性質のおもな特長は?――熱中’この話はマルクスのなしとげた偉大な仕事をしるうえに,たいへん興味ぶかい。」からはじまる。

 大項目の編集方針だから、どうしても長くなるので、「好奇心」を紹介した。よくできている。

2019年05月29日

残日録58 『「大衆」と「市民」の戦後思想――藤田省三と松下圭一』(趙星銀著.岩波書店.2017)から

 「大衆」と「市民」
 藤田の最初の著述は『政治学事典』(平凡社、一九五四年)の「天皇制」項目である。その中で藤田は、大衆社会への迎合に成功した戦後の天皇制とその裏面に持続している戦前型の官僚制の温存に、戦後の支配構造の核心を見出している。一方、松下の論壇デビュー作は岩波書店の『思想』一九五六年一一月号の論文「大衆国家の成立とその問題性」である。松下はその中で、国家に〝対する〟革命ではなく、国家に〝よる〟福祉の拡充を求める労働者たちを「大衆」と名付け、彼らの出現が古典的な社会主義理論への転換を要求していると主張した。
 デビュー当初、二〇代後半の気鋭の新人であった二人は、こうして一九五〇年代半ばの日本社会における「大衆」の問題を指摘しながら登場した。
 (略)
 今日において、政治的語彙としての「市民」は、公共生活に自発的に参加する人間、民主主義の政治体制に相応しい人間を指す場合が多い。この語は著しい規範性を帯びているが、それは敗戦後、連合軍から与えられたものとして出発した「戦後民主主義」の特殊性と関連している。与えられた民主主義を真に我々のものに変えるために、主権を握る人々がそれに相応しい規範を身につけることが強く要求されたからである。そした問題意識の上で規範概念としての「市民」が構想され、語られてきた。
 そして「市民」という語がもっとも理想的な民主政治の姿を指すとすれは、「大衆」は、おそらくそのもっとも危険な担い手を指す言葉であろう。「大衆」をめぐる言説を支えるのは、民主主義そのものに対する根強い会議である。古代ギリシャにおける衆愚政治への危惧からトクヴィルの「多数の専制」への警戒まで、〝デモスの支配〟の否定面への憂慮は長い歴史を持っている。つまり、民主主義の歴史は民主主義に対する不信と警戒の歴史と表裏をなしているのである。現代語における「大衆」は、いわば民主主義の影のような存在であるといえるかもしれない。
 以上は、今日における「市民」と「大衆」のイメージを簡略にスケッチしたものである。ところがこれらの概念を近代以降の日本思想史の文脈の中で論じるためには、もう一つの決定的な思想潮流を考慮する必要がある。それは社会主義の言語としての「大衆」と「市民」の文脈である。そこにおいて、「大衆」はプロレタリアートと、「市民」はブルジョアジーと重なり合っており、またそれに「マス」や「群衆」、「小市民」や「中間層」などの語が混入しながら言語空間を作り上げたのである。
 こうした概念の混在の中で、「第一の戦後」と「第二の戦後」は、それぞれ「大衆」と「市民」が社会変革の主人公として語られ、その可能性と問題性に注目が集まった時代でもある。その境目にあった六〇年安保において、社会主義の説く「大衆」と大衆社会論の説く「大衆」の緊張関係を意識しながら、新しく「市民」が語られ始めた経緯については、後で検討する。
(同書、pⅹⅹ~ⅹⅹⅱ)

 「『市民の図書館』再読」(みんなの図書館、2000年12月号)で私は、「〈市民〉をあいまいに用いることは避けたいという立場です」と書き、

 「自由で民主的な社会は、国民の自由な思考と判断によって築かれる。国民の自由な思考と判断は、自由で公平で積極的な資料提供によって保障され、誰でもめいめいの判断資料を公共図書館によって得ることができる」(同書十一ページ)という理念と、現実の「市民」として暮らしている人との乖離は気になるところでした。

と書いている。『市民の図書館』は、理念と政策と技術が書かれているのですからそれはそれでよいとしても、その後の論議が「市民」と「大衆」の問題を無視し、「市民」という言葉をどこかに違和感を持つことなく使っていることが、気になっていた。

 この政策マニュアルは(貸出し、児童サービス、全域サービス―明定)教養主義からすると「パンドラの箱」を開けたのです。そこから出てきたのは「大衆」「群衆」であって〈市民〉ではなかったのです。

とも書いている。この論は「図書館界」の「貸出を考える」でも触れている。
 図書館情報学の研究者はこういうことに関心がないのかもしれない。
 上記の本が出たので、気になるところ「プロローグ「大衆民主主義」再考」、「第三章市民と政治」、「終章「国家に抗する社会」の夢」などを読んでみた。
 高度成長を続けた公共図書館は、バブル期以降の「私生活主義」に迎合するだけに終始してしまった、という私の考えは、田中義久の『私生活主義批判』(筑摩書房、1973)あたりの影響を受けている。本書で、これとは違う文脈で藤田の「私生活(第一)主義」があることを知った。
 また、この「第三章」を若い人が読むことで、『市民の図書館』刊行当時の「市民」という言葉の持つニュアンスを知ることができるだろう。
 「市民との協働」といった時に使う「市民=住民」が定着している現在に至るまでの「市民論」には、松下の「市民」が大きな影響を与えている。図書館界も間接的ながら影響を受けている。松下の「社会教育の終焉論」からも、と付け加えておきたい。

 松下は新憲法と高度成長によって涵養された権利意識と自発性のエネルギーを、自治体の政策決定過程における市民参加に転化する道を模索した。市民が参加することによって、その意思決定は公共性を主張する正当性を確保することができ、また参加者個々人は発言と聴取を通じて、実際の意思決定過程における様々な衝突を経験し、合意に到達するための技術を身につけるようになる。こうした政治教育が、政治への無関心の悪循環を断ち切る契機となり、政治観そのものの変革につながることを松下は期待した。
 しかし一九九〇年代以降、そうした市民参加の構想は新たな問題に直面する。一つは、「市民」の条件である時間的・経済的な「余裕」をめぐる問題である。経済規模が順調に成長し、またその持続が約束されていた時代においては大多数の人々が「中流」意識を持つことができた。彼ら「大衆」が「市民」として自発的に政治に参加する時、そこで構築される公共性の主張は正当性を持ち得た。
 しかしその後、経済成長は次第に鈍化し、続いて投機による資産価格の上昇と急落を中心にバブル経済の崩壊と呼ばれる事態が到来する。資産市場と雇用市場は安定性を失い、かつての厚い中間階層の分化が進む。日本経営の三種の神器と呼ばれた年功序列、終身雇用、企業内組合の基盤は次第に危うくなり、やがて新しい貧困の問題が浮上する。中間層の階層分化によって社会全体における格差が増大すると「大衆」と「市民」は再び分離する。
 もうひとつの問題は、「市民」の「自発性」を制度化して行く中で発生する逆説である。サイモン・アヴネルは二〇一〇年の著書Making Japanese Citizensの中で、六〇安保以降に展開された市民運動の性格を「べ平連」運動に代表される「良心的潮流」、反公害運動や反開発運動の「プラグマチィックな潮流」、そして松下や「都政調査会」のメンバーが主導した「市民参加運動」の三つに区分している。これらの運動はいずれも六〇年安保の成果と限界を意識した形で展開されたものであり、その中で進められた運動の持続化と専門家、実効化のための努力は、後の世代の市民運動に継承されることになる。
 しかし同時に、そのような遺産を吸収した次世代の市民運動の多くは、市民団体と政府との協調関係を前提とするものであった。その過程において、かつての市民運動の持っていた対抗的・対立的な方式は拒否された。根本的には資本主義を肯定し、官僚制との協業を前提にした形で運動が進められるようになったのである。こうした傾向は、特に一九九八年の「当区鄭非営利活動促進法(NPO法)」の制定以後、国家が「市民社会」の成長を奨励し、それを積極的に育成することになった後、より顕著になる。NPOを中心とする「市民社会」が、政府の補完機構、とりわけ新自由主義的な路線に立脚した小さい政府の補完機構として機能する側面が露呈したのである。
(同書、p328~329)

 「市民」が小さい政府の補完機構として機能するなかで、図書館という場においても同じことが進んでいる。「市民」を生み出そうとした図書館は、「市民」をそのシステムに組み込むことになったが、個人貸出を軸にしたサービスが生み出した「大衆」「群衆」について、図書館はどういう関係をもつことができるのか、が問われている。

 著者はこの本を次のように結んでいる。

 おそらく高度成長期以降の日本社会は、市民社会の側面と大衆社会の側面、松下的なものと藤田的なものを、ともに備えている。そして今日の社会も、そのような緊張関係から自由ではない。戦後の議論空間に立ち返り、可能性の源泉としての戦後思想を再検討する作業が必要な理由もそこにあるのではないか。(同書、333p)

 

 私は前出の「『市民の図書館』再読」で、

 

 『市民の図書館』の貸出しの機能の方を軸にサービス論を手rン介しているのは、伊藤昭治氏を中心にした日本図書館研究会の読書調査グループです。

 伊藤氏等の考えは「大衆から市民へ」という構図をその背景に持ちながらも、太守の求める価値を起点にした側からの自己形成による〈個の確立〉を求めています。それを妨げるのは、啓蒙する側として高みに立つ図書館員である、という考え方です。

 「貸出しを基本とする」サービスが各地で生まれ広がる中で、この考え方がどういう役割をはたしているのか、といったことも論議されるべきでしょう。

 その論議は、「絶対的価値基準」を否定した「相対主義」とその克服について、といった内容になるのだろうと思います。

 〈市民の図書館〉という理念を実現するには、どういう過程が必要なのか。実践や論争の展開が求められていると思います。

 

とも書いている。

 そのことが、藤田省三の「大衆」論、「私生活(第一)主義」や、松下圭一のやり残した課題とつながるのだろうか。直接的ではないものの、つながったところで考えていきたい。

 

2019年05月26日

残日録57 『〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち』

『〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち』イメルラ・日地谷・キルシュネライト編 岩波書店 2018.12

 編者が1982年に日本の女性の作家たちにインタビューした、そのインタビューが活字となって2018年に刊行された。
 当時の私は司書人生の駆け出しの頃であって、小説を読むことが少なくなっていた。児童文学を読まなければならなかったし、縁のなかったエンターテイメントの作品も読む必要に迫られていた。これらの作品は面白く興味深いものが多く、そういった読書に時間を割いていた。
 この本に登場する12人の作家については著名な人たちばかりで読む必要を感じなかった。
 佐多稲子については中野重治との関係からいくつか読んでいる。
 円地文子は教科書で随筆を読んだ程度。
 河野多惠子、石牟礼道子は読んでいない。
 田辺聖子、三枝和子、大庭みな子、戸川昌子、津島佑子、金井美恵子、中山千夏、瀬戸内寂聴は読んだ記憶がある。
 その程度である。
 ドイツ人の若き日本文学研究者が同じ質問を作家たちに投げかけている。
 「男性の評論家から公平に、客観的に扱われていると思うか」「(男性の)評論家が『女性作家の作品は、どうも私には完全に読んで理解することが不可能だが』と書いているのをどう思うか」「女性作家には、家庭の雑事があって時間を取られるだけでなく、出産というものもあるので、仕事に集中できない。これをどう考えるか」といった質問である。

佐多稲子
―― 女性は政治に関する関心や働きかけが弱いとよく言われますが、佐多さんは文学が政治的、社会的なテーマを書くべきだとお考えですか。
佐多 必ずしも直接に、政治的、社会的なテーマを書くべきだとは思っていません。プロレタリア運動から政治へ移った人もいましたけど、政治と文学の世界はまったく異なったものですからね、あまりそれに密着しすぎるのも問題だと思います。でも、政治的、社会的な視点などが作品に流れ込んだり、その土台となるようなことは、当然だとおもいますね。文学者だといっても、やはり民衆の一人なのですから。

石牟礼道子
 なんていいますか……日本の近代文学者っていうのは、封建的な田舎をみんな逃げ出したくてね。家というものが特殊で、それが日本の場合ありますでしょう。家の問題というのがちょっとヨーロッパとはやはり違う。男尊女卑ですからね(笑)。もう、この地方もそうですから。で、そういうのが息苦しくて、皆が東京へ逃げて行って、それで日本の近代文学というの成り立ったわけ、その体系が、だけど文学者たちが置き去りにした故郷の方は、水俣病のようなのを引き起こしているわけです。でも、それは文学者だけではありません。中央で名をあげ出世していったような人たちは、全員が東京へ出て行ったんですね。日本の近代文化を作ったあらゆる分野の人達は皆、故郷を捨てて出て行ったわけ(笑)。そこには必然性があるわけでしてね。もう、こういう後進的な田舎にはそういう煩雑さがあり、仕事だけでなく、精神的にも束縛が強くて、そういう束縛を断ち切ってみんな東京へ出て、文化を作ったわけ。ところがその間に故郷はどうなったかというと、水俣のような状況になって、あるいはあなたがおっしゃる東北のような(笑)。

 

 佐多稲子の「文学者だといっても、やはり民衆の一人なのですから」は読んでいるとなるほどと思うが、学習院出身の作家たちが中心の白樺派の面々に「やはり民衆の一人なのですから」は当てはまらないだろう。今、復刊に取り組んでいる『星と祭』を書いた井上靖だってそうだろう。「民衆の一人でない私」を自覚しているいないは別として。

 石牟礼道子の言葉は、故郷を捨てて東京ではないが、成田、長浜と一人で漂流している者にとっても耳の痛いところである。中央で名をあげ出世していったような人たち、ではないので、煩雑や束縛から逃れているだけのことで終わっている。あれこれのことに関わっているのは、時代というものにあらがっているのだろうが、いつまで続くことか。

 

金井美恵子

金井 ファシズムについて私は、政治の具体的な成り行きについてではなくて、むしろひとつの意見に向かって他の人の意見を排除していくという次元で考えています。そういうことは、我々の日常においてもひっきりなしに起こっているでしょう。私にとっては政治的レベルというよりも、これは日常的なレベルにある問題なんです。ありふれた形でのファシズムです。

―― 私は、そうしたことをも含めて「政治性」と考えているのですが。

金井 私がしょっちゅう見聞きするような日常的な問題のなかに、ファシズムが存在すると思うのです。いわゆる政治体制とは別の次元で。

―― でも、それは政治体制と直接繋がっているのではないでしょうか。個人のレベルでのファシズムが存在するからこそ、それを政治的に利用できるわけですから。

金井 それはそうですね。そういう繋がり方はあると思います。ただ政治体制のなかに現れる問題以前に出てくる日常的なこと、たとえば新聞や雑誌の一方的な論調のなかにあるファシズムに、特に危険なものを感じるのです。女性問題に関する議論にも、ファシズムを感じます。それはたしかに関心のあることなので日頃いろいろと考えていますが、ただそのことを直接的に文学作品の中に取り込むというのは、また別のことなんですね。ですから、いわゆる「政治的意見」を持つ作品を書いてみようと思ったことはありません。これからもないでしょう。そういう立場で書いている作家は世界にはたくさんいるのでしょうが、今の日本にはほとんどいないですね。

 

―― 日本の作家のなかでは誰がお好きですか。

金井 いま書いている人では島尾敏雄(1917-1986)とか深沢七郎(1914-1987)、あと大岡昇平(1909-1988)などですね。日本では小説家イコール知識人というのは少ないのですが、その少ない中のひとりが大岡昇平ではないでしょうか。

―― 大江健三郎なんかもそうですね。

金井 ああ、大江健三郎もそうです。あと安倍公房とか。案外少ないですね(笑)。

 

 小説をあまり読まないほうだが、安倍公房は読んでいる方の作家である。

 1982年のインタビューにプラスして、そのときかなわなかった瀬戸内寂聴へのインタビューが加えられている。

2019年05月14日

残日録56 司書のことばは利用者に届いているか

じめに
 「司書の言葉は利用者に届いているか」と問われたことがあるでしょうか。自発的にそういうことに疑問を持ったことがあるでしょうか。
 カウンターを挟んで利用者と司書とが話すとき、また、フロアーで話しかけられたり、話しかけたりするとき、「司書であるあなたの言葉は、利用者に伝わっているでしょうか」。
 伝わらないなんてことはありませんよ、と思っている人がいたとしても、同じ職場で働く司書や、他の図書館で働く司書を観察していたら、いろんな司書がいるのを発見できると思います。
 それぞれ個性的だなあと受け止める分には他愛のない話で終わってしまうのですが、「あれでは会話になっていないのではないの」という場合もあります。

 利用者「蜜柑についての本はどこにありますか」
 司書「蜜柑について何を調べたいのですか」
 利用者「蜜柑をたくさんいただいたもので、どんな食べ方があるのか、と思って……」
 司書「では,料理の棚ですね、こちらです」

といった、一見、どこにでもありそうな会話です。機能的なようにも見えます。

 司書「蜜柑について何を調べたいのですか」
 という言い方にひっかかりを覚えます。
 「蜜柑は果樹栽培と植物と料理のところにありますが」という言葉が先にあるのが自然な会話の流れではないでしょうか。
 司書はコミュニケーションする。そこにはファーストフード店のようなマニュアルはありません。短期、数年で館員が入れ替わる率が高い職場は、マニュアルを必要とします。そういうカウンターでは、利用者の方がマニュアル対応を求めたりします。クレームもそういうレベルのものが出ます。
 低次のマニュアルはあるともいえるが、複雑になると、館員各自のコミュニケーション力が問われます。こういう場で、重軽の程度の差はあれ、コミュニケーションの障害が発生しているのではないでしょうか。(特に、障碍者とのコミュニケーションの場合に顕在化します。)
 図書館にいろんな人が来るようになりました。
 「どこにありますか」と言ったら「何を調べたいのですか」と言葉が返ってくることに
戸惑いを覚えませんか。

1 司書とコミュニケーション(聞くこと)
 ことばが相手に届いているかを気にしないで、自分のリズムだけで話す司書がいます。通り一遍の台詞は相手に伝わりません。それではただのアリバイにすぎません。接遇は奥深い世界です。
先入観で相手の話を聞いてしまう司書がいます。相手の話を自分の頭の地図の中に落とし込むことで、早々と理解したつもりになっていることがあります。
 1から順に話してもらわないと理解できない司書がいたりもします。相手の話のどこがわからないのかが、わからない。自分の思考のパズルに相手の言葉を落とし込めない司書がいます。また、無理矢理に落とし込もうとする司書がいます。
 そこにクレームが発声生します。
 水島広子は『トラウマの現実に向き合う』(岩崎学術出版社 2010)のなかで、ジャッジメント(評価)を「ある人の主観に基づいて下される評価」とし、トラウマ体験者と治療者の関係における治療者側のジャッジメンントを手放すための有効な手法の一つとして、相手の現在に集中することを提起しています。
 司書は治療者ではないのだが、コミュニケーション術として参考になるので、紹介します。

 相手の現在の話だけを聞き、それ以外の思考を聴かないようにするのだ。人の話を聞いていると、頭の中にいろいろな思考が浮かんでくるものだが、それらをあえて脇に置いて話に集中し直す、ということを繰り返していく。思考を「消す」のではなく、「脇に置く」ことがポイントである。
  (中略)
 このことを習慣づけていくと、ジャッジメンントを手放すということが体感できるようになってくる。自分の思考(ジャッジメント)と共に聴く相手の話と、思考を「脇に置いて」聴く相手の話とは、明らかに性質が違うからである。
 まず、疲れ方が全く違う。ジャッジメントを下しながら相手の話を聴くと、とても疲れるものである。 それは当然のことで、いちいち「異物」につまずきながら、それを消化しながら進んでいくのはとても大変な作業だからだ。「人の話を聴くのは疲れる」と言う人は、ジャッジメントを下しながら聴いていると言って間違いないだろう。
 自分が疲れないためにも、傾聴する際にジャッジメントを手放しておくことは大変効果的だが、同時に、それは「ふり」ではない「無条件の受容」となるため、相手にとってもとても温かく深い体験になりうる。
(同書p142~144)

 図書館という職場は、どこか特殊な職場のような先入観が司書にありはしないでしょうか。
 特殊であるのは、どんな職業についても当てはまることで、その基底には、普遍的な人間関係の技法があります。利用者との良い関係をつくれる司書は、聴く能力を持っています。聴いた言葉を再構成できる能力を持っています。本来、そういう能力がないと図書館という場は成りたたないのです。
 そんなことあたりまえではないか、という司書がいるかもしれないが、それがそうでないからこそ、フロアーワークや読書相談が実りある成果を生まないのではありませんか。成果が生まれている図書館にはそれをあたりまえとしている司書がいるのです。
 たとえ迷路に入り込んだような言葉であっても、ジャッジメントをしない、というところから始めて、それを利用者の腑に落ちるところで再構成をしていき、共通の土俵をつくることが大切なのです。
 聴くことについては以上のようなことが言えると思います。

2 司書とコミュニケーション(声をだすこと・話すこと)
 「司書の言葉は利用者に届いているか」について、声をだすことの面から考えます。
 このことについては、竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』(思想の科学社 1975)を発売時に読んで、そこから大きな影響をうけています。
 当時は合唱団に入っていて、体から声をだすことに、関心がありました。その後、竹内のいくつかの本を読み、NHKでの竹内レッスンのドキュメントを見たりしていたが、出会う機会はありませんでした。
 20歳代の頃、精神的に悩んでいる知人がいたので竹内の本と竹内レッスンを紹介しました。その人は本を読みレッスンを受けました。後日、様子を尋ねたら、予想外の返事が返ってきました。「私の「からだ」は解放されたけれど、そこからどうしたらいいのかわからなくなってしまった」と言うのです。
 その人は新興宗教の信者の道を選んで、その後の人生を安定させているようです。他の友人でも、新興宗教に入れ込むのがいて、そういうことの「効用」もわかっていたから、それはそれでよかった、とおもいました。でも、気軽に紹介するものではない、とも思ったのでした。
 その後、40才歳代後半に竹内と実際に出合うことになりました。その経過は『環』(№43 藤原書店 2010)に書いています。
 「前川のような啓蒙的立場からの選書論を超えようとする試み」(根本彰)として身体感覚を重視しながら選書にあたることを論じた「選書をする図書館員としての私」(みんなの図書館 1990.12)では、選書を身体論的に書いています。竹内「からだ」論の影響の下に書いたものです。
 ここでは竹内「からだ」論を中心に紹介するとともに、「司書のからだのこわばり」を検討し、「司書の言葉は利用者に届いているか」という問いかけにつなげます。

3 竹内『ことばが劈かれるとき』(思想の科学社 1975)
 竹内は「普通私たちは日常生活を、間違いのない現実だと思っており、そこで生きている私たちのからだこそ正常に動いていると思っている。だがはたしてそうだろうか?」と問います。

 

 「日常生活はさまざまな約束事によって組み立てられている。」「日常生活の約束事としての言語の基本性格は便利さにあり、コミュニケーションは、その仮構された約束事の編目を反射的にゆききするにとどまる、人と人が全身的にふれているかどうかは、実は捨象されているのだ。」
 「舞台の世界がある。演劇は普通フィクションの世界、つくりものの世界と言われる。自由に約束事を創り出す。二時間が終われば消えてしまう約束事を。/だから、日常生活=現実に対して舞台の生活は嘘であり、幻であると言われるのだが、しかし、それが約束事の上に成りたっているという次元で言われるのなら、実は両者とも、同じく架空のいのち、仮の生にすぎない。演劇は、日常のルールにのっとった行動を、新しく組み立てた約束事によってぶちこわし、その裂けめからなまなましく奔騰してくるものを突きつける装置なのだ。そこに、演劇の世界こそ真実の生であり、現実こそがウソだという議論が成りたつことになる。
 からだがからだに、非日常の、目新しいふれ方をする。その情報が相手のからだに伝わり、すばやくはらだの中で選ばれ、増幅され、予測できないからだの変化を呼び覚まして、反応を返してゆく。
その目覚ましさが見る人の日常埋もれてるからだを目覚めさせるのだ。
 演劇とは、日常生活の約束事―科学的思惟や管理社会の常識―によって疎外されている、「生きられる世界」―根源的体験―をとりもどす試みである、と言えるだろう。別の言い方で言えば、からだを根源的にとり返す試みだ。わたしはそれを「からだを劈らく」と呼びたい。」同書p141-142

 「こわばり」(「正しさ」を求める外部の情報行動)が、ことばを通じなくさせているのではないでしょうか。司書は正確な情報を求められ、価値判断からニュートラルである。そのことが、からだを固くさせていないでしょうか。ニュートラルであって、かつ、しなやかな身体を司書に求めることは不可能なのでしょうか。
 司書の身体について論じたのにはじめて出会ったのは、岡村敬二「書誌的世界観をめぐって」(「季刊としょかん批評」臨時増刊5号 せきた書房 1984)でした。

……私にとっての幼児期の原風景といえば必ずといっていい白衣の医者と聴診器が関わっている。私の個体形成過程において、弱い〈体質〉をひきずっていきていくのを余儀なくされた。
 そして学校を出て図書館に職を得、ほこりにまみれた明治・大正期の本や古文書類を利用者に出納する担当になった折りに私の弱い〈体質〉は気管支炎として一気に噴出した。私の〈体質〉が、日々ほこりというきっかけを得て噴き出してきたというわけだ。

 そういう体質の岡村は橋本医師に診てもらうことにした。

 ……私は、自分の体質のことや、それ故の、幼児の頃からの医者がよい、お灸や大腿部の注射でつらい思いをしたこと、更に今勤めている図書館での書庫のほこりのことや高層団地の住まい、性格的にも活字から離れられない生活を送っていることなど、一通り話した。
 橋本師はそれに対して、直接の原因は図書館のほこりにあるのかもしれないが、いずれにせよ活字から離れられないなどと言っている今の生活を変えていかない限り駄目であろうと言い、彼自らの生活のスタイルを語ってくれた。……私はその時は、活字から離れた生活など恐ろしくて考えられないなと思ったわけだが、今になって考えてみれば、橋本師にとってはすべてお見通しであったのかも知れない。

 岡本は「狭いながらも庭のついた」家に転居し、畑で野菜を作ります。それがきっかけで、体質に変化がおきます。

 第一には、文献的で書誌的であった自分自身の、外面的な関わり方から、自身の〈からだ〉の中にまで入り得る切実さ、といったものを学ぶことができたということだ。書誌的ということと関連させて言えば、その外面性、外皮性の対極としての、内実の中へと〝脱出〟したということになろうか。畑の中へと本を持ちこむ習癖は今なお相変わらずではあるが、少なくとも私自身の文献的な部分をうちくずすだけのきざしを見出すことができたのではないかと思っている。(『表現としての図書館』青弓社 1986 p16-18)

 現実とじかに向かい合わない図書館員の書誌性がからだを歪めている、という提起でした。
 これを読んだ当時は、頭のいい人は悩むところが違うなあ、という印象を持つだけでした。それは、仮説実験授業や美術教育のキミコ方式の近くに立ち位置を確保できていた明定の側から見たからそう思ったのでした。中年になって周囲の司書を見ると、岡本のいうところの「書誌性がからだを歪めている」は、司書にとって一般的な傾向でもあるように思えてきました。

4 竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書 1990)
 「自分本来の声を取りもどし、ことばのもつ根源的な力を回復するための独自のプログラム」(p118-9)
 (1)ひと(他人)に触れきれない自分に気づく。
 (2)みずからのからだのこわばりに気づく(「身構え」に気づく)。
 (3)からだをときほぐす。
 (4)感じるままに動く。
 (5)ものに触れる。
 (6)ひとに触れる。
 (7)他者に働きかける。
 (8)ことばで働きかける。
 (9)からだで全体が深くいきいきと動く。
 (10)上演を試みる。
 竹内のレッスンは上記のようにすすめられます。
 竹内レッスンの受講者は、演劇のレッスンとして受講することもあるだろうが、コミュニケーションに障碍がある、と自覚していて、受講する人、教育の現場や吃音のサークルといった人たちが中心であったように受け止めています。
 竹内は、声楽の分野は、声の出ない人が淘汰されていく、といいます。しかし、声が出ても言葉が伝わらないという課題は残ると指摘しています。演劇の分野では、というと、表現したいのだが、声も出ないというところから始めなければいたしかたがないので、からだから声をだすレッスンを、竹内は工夫することになります。
 高月図書館で竹内レッスンを受けた読み聞かせボランティアは、声をだすことやコミュニケーションに悩んでいる側にいる人たちではありません。その人たちも竹内の指摘や問いを受けると、「どうにもならない自分のからだと声」とに向き合うところ、「せっぱ詰まった場所」に、引っ張り出されるのです。悩む側に引っ張り出される。声が出ていると思っていたが、「声が出ていない自分」と向き合うことになるのです。
 「昔々」と声にすると、「昔々ってどのくらい昔なの?」 竹内から問われる。何のイメージもなく、mukasi mukasiと声だけが出ている。他人が指摘されていることはよくわかるのだが、自分の番になると何ともいたしかたなく戸惑ってしまう。そんな場面の連続になります。
 明定は、竹内レッスンの導入部分をまねて、読み聞かせボランティアの養成をしてきました。
  
 はるがきた はるがきた
 どこにきた
 やまにきた
 さとにきた
 のにも きた  (高野辰之作詞)
 だれでも知っている、明治時代の小学校の唱歌だ。お、今日はなん人かのどが開いているぞ。しかし、いまひとつはずんでこないなあ。のっぺりとして、どこか沈んでいる、「ああ、そうですか、じゃあさよならってとこだなあ」と言ったら、みんな一瞬キョトンとして、それからわっと噴き出した。
 「歌ってみて、春がきたなって感じのした人は?」と問いかけてみると、みな困った顔をしてニヤニヤして、顔を見合わせているばかり。なんかからだがツメタイなあ。二人ずつで背中で出会ってみて。背中で話し合うみたいにふれあって。……さて、相手の背にのせてゆする。のった人、息を入れてー吐いて! ラララー。もう一ぺん。交代しよう。……さて、立って。もう一ぺん歌ってみるか。(竹内『日本語のレッスン』p122講談社現代新書 1998)

 といった「からだほぐし」をともなう竹内レッスンの「からだをほぐし」の部分は、読み聞かせのレッスンの時には時間が足りないのと、明定ができないので省くのだが、ことばのイメージを表現する方を明定は強調することにしています。(明定は、声楽の方から発声練習をしていたので、演劇的な訓練を受けていません。)

 ためしに、一人の女の人に歌詞を読み上げてもらうと、細い声だが子音をよく響かせた一音一音くっきりとした発声で、単調にキチンと読み上げる。「聞いて見てどんな感じがする?」とみなに尋ねてみると「とても上手に読んだと思います」と言う。「春がきたなあって感じがした?」と重ねて問うと、「春が来た……ってことはわかるけど……」と言いさして考え込む。実はわたしの耳にはなにを言っているのか、なにをこの人が言いたいのかまったく聞こえてこない。「なんだって?」とわたしは耳に手を当てる。「もういっぺん言ってみて」「わからないなあ。いったいなにを言いたいの?」「だから、春が来たことを……」「ハルってなに?」「え?」「ハルって名前のネコが来たの?」みなどっと笑う。……
 彼女の初めの読み上げ方は、単に文字を、印刷された活字の代わりに音声で提出したにすぎない。情報伝達型言語の代表例だ。しかも、だれに伝達しようとしているのか、その相手もいない。(前掲書 p124)

 司書や読み聞かせボランティアは、こういう体験をする機会がほとんどないでしょう。(もちろん天性の声と表現力を兼ね備えている人はいるだろうが、めったにお目にかかることはない。)図書館の世界では、読む側、指導する側が悩んでいないのです。竹内が求めている地点からすると、そこには無自覚がある、危険な落とし穴があるのです。
 詩や物語の読みでは、竹内の読みが、言語課程説(時枝誠記、三浦つとむ)と同じ構造をもつものであったことに気づきしました。(朗読コッミックの片山ユキヲ『花もて語れ』の朗読原案を提供した東百道の『朗読の理論』は三浦の言語過程説に基づいている。)
 竹内のレッスンで詩や物語を読むことから、ことばのもつ意味を深く捉えられるようになりました。私自身の読み聞かせ指導の場でも、ことばの意味を声に出す、表現する、を受講者に求めています。
 子どもたちに絵本を読む、朗読をする、ということが、図書館や図書館以外の場でおこなわれています。読み聞かせボランティアの養成講座で、司書が読み聞かせの指導をする、ということもあります。当然、そこでは声をだす、ということが課題になるだろうに、そういうことが話題や課題になることは皆無に近いのが現状です。(声が出ない人は、読み聞かせを苦手とするから、はじめから除外されているのかもしれない、とも言えるが。)
 自他共に声が出ていると思っていても、竹内の著作を読み、レッスンを受けると、やせた言葉で読んでいる人が多いことに気づくことでしょう。竹内が切り開いた「からだとことば」の世界は、近代に到達した私たち人間の「歪み」からの脱構築を求めているといえます。

 「わたしが聞きたいのは」とわたしは言った。「あなたという一人の女の人の声なのに、なんべんやり直してもわたしには」「かわいらしい女の子」の作り声しか聞こえてこない。あなたはいったいどこにいるんだろう。
 (中略)
 ああ、これが自分の声だ、と納得した時、自分が現れる。これが自分だ、と発見するということは、自分をそう見ている自分もそこにしかと立っているということで、ふだんの自分が仮構のものだった、固まった役割を演じていたのだと、霧がはれたように見える。世界が変わってしまう。目が開く。比喩ではない。実際に相手の顔が、周りの世界の隅々が、くっきりと、初めて見えて来るのだ。
 深ぶかと息をすると、自分の存在感が変わる。世界のまん中に自分が立っていると気づくといってもいいか。自分がこの世に落ち着くのだ。自分の声に出会うということは、自分が自分であることの原点である。(竹内『日本語のレッスン』p30-31)

 「かわいらしい女の子」というペルソナ(演技・仮面)からの声でなく、自分の声に出会い、自分の声で読む。児童サービスの場で、竹内のレッスンとつながる問題意識が生まれることを期待している。
では、話すことについてはどうだろうか。
 様々な利用者と関係を持つことを強いられる立場である。利用者や他人とのコミュニケーションの場で、司書のことばは届いているだろうか。

 「話し方」の訓練といわれることも、発表内容の明確さが専らで、ディベートなども説得のための技術として実習されているのであって、話すことばを、ほんとに相手のことばを聞き答えつつ新たな認識に至ろうとする「対話」を目指す人間的過程として考える視点はまだまだ少ないように見受ける。(竹内.同書p40)

 自動貸出機ではなくカウンターでの対話と言いはしてきたのだが、「相手のことばを聞き答えつつ新たな認識に至ろうとする「対話」」に向かうという問題がたてられたことはなかったように思います。
 
4 さいごに
 竹内の提起した問題を、司書の課題として受け止める「層」としての司書が生まれることを期待しています。
 明定はどうなのだ、と言われそうではあるが、現場から退場したので書けることだと思っています。私は竹内の患者ではありえたが、竹内のような治療者ではない。読み聞かせのレッスン時に、竹内から学んだことを明定流に使っているだけのことであります。
 また、竹内は自ら編み出したレッスンをメッソッドにはしませんでした。少しは自己流にまねることはできるのだろうが、竹内レッスンそのものを受け継ぐことは不可能です。
 こういうことを書き始めると切りがないと思っていたのだが、書き残しておくことで、記憶が記録になるのだから、これはこれでよいのだろうと思っている。
 オズボーン「雇用の未来」によると、「図書館員の補助員」は消える職業である。
 司書は?と考える。
 消えない職業としての図書館員(司書)の仕事は、「豊かな対話」ができることで成立すると予想している。
 ナイチンゲールは『看護覚え書き』(1860)のなかで
 
 (教育の仕事はおそらく例外であろうが、)この世の中に看護ほど無味乾燥どころかその正反対のもの、すなわち、自分自身は決して感じたことのない他人の感情のただ中へ自己を投入する能力を、これほど必要とする仕事は他には存在しないのである。

と書いています。
 「他人の感情のただ中にへ自己を投入する能力」は司書にとっても必要な能力で、そのためには、竹内や水島などの知見から学び、「豊かな対話」ができる司書がたくさん登場することを期待します。
司書が「声が出ていない自分」と向き合い、声を出せるように、「からだ」を劈くことが求められているのではないか、と考えています。司書のことばは利用者に届いているか、という問いは、「からだ」が劈かれているか、という問いなのです。
 利用者は、高次のコミュニケーションを要求しているのです。n(不定数)の利用者にはnの対応が求められます。人は裸ではない、「パンツをはいたサル」であると、栗本慎一郎は言います。いろんなパンツをはいた利用者に、どこまで合わせると一定の距離が保てて要求を的確に把握できるのか、そういうことにも司書は無自覚であるように思います。

2019年05月08日

残日録55 ヤングアダルトサービス覚書(改訂)

0 はじめに

 このところ取り組んでいた公共図書館の児童サービスについての概ねまとめることができたので、ヤングアダルト(以下、YA)サービスを次の課題とすることにした。
「現代児童文学」と呼ばれていたジャンルがなくなったこととの関係から、YAサービス資料論は再検討されることになる。
 また、世代としてのYA(まだ大人でもなく子どもでもない、12~3歳から18歳あたりの人々)というくくりと、「大人にならなくてもいい時代の成人」との関係も考えに入れなければならない。
YA世代に対応した「空間」、サードスペースも検討課題であろう。
 世代としてのYAとその世代が求める資料と空間、この3つの側面から考察し、YAに対応する司書についても触れたい。

1 世代としてのYA
 前述のような「世代としてのYA」という区切りはある。しかし、思春期というもの、反抗期というものが、成長の過程の中で、はっきりとしたカタチで現れるとは限らないのが今日の日本社会である。
思春期挫折症候群であったり、アダルトチルドレン(以下、AC)であったり、大人になりにくい時代である。ヒコ田中のいう「大人にならなくてもいい時代」である。
 「世代としてのYA」はあるが、「YAのこころ」のまま、20歳代を生きるということもある。精神的に大人になるということの規範が崩れているのである。とはいうものの、多くの人々は曲がりなりにも「大人」になっていく。「世代としてのYA」というくくりがその人たちを指していることは、間違いないところである。
 社会の転換期の親世代と子世代の葛藤、子世代の反抗という構図が、日本の高度成長期の社会にあり、その世代のイメ―ジでもってYAをイメージすることは簡単ではあるが、低成長の時代にあって、そういうものが希薄になっている今日のYA世代向けて、確固たる「YA世代」を前提にすることで、自己完結を図ろうとしたところに、YAサービスの狭隘性があったとみるべきだろう。

2 YA向けの資料―文学
Y A向けの資料としてイメージされたのは、当然のことながらこの世代を主人公にした物語がまずある。
それに加えて『かんこのミニミニ ヤング・アダルト入門 パート2』(ビブリオ出版 1998)では「傷つけられた子どもたちの物語」という章があるが、そういう子どもたちのために書かれた物語がある。
 ※性的虐待
 ※摂食障害
 ※肉体的虐待
 ※災害・核・殺人
 ※保護者のいない子どもたち
 ※離婚
 ※精神的虐待
 ※寂しい子どもたち
 ※アイデンティティ
 ※アダルト・チルドレンの物語
 ※共依存
 ※死
 ※偉大な癒しの物語
 ※元気に闘う子どもたち
というテーマのくくり方をしている。
 これらの「傷つけられた子どもたちの物語」はYAだけの読者に読まれる物語と限定できるわけではないが、YAを中心にした読者に出会って欲しい物語であることは間違いない。
 しかしながら、ACや共依存などは成人にも読まれる物語である。今後、村山由佳のような成人向けの著作が生まれるのではないだろうか。
 これらの物語に加えて、ライトノベルや「現代児童文学」が入ってくる。
 これらをYAコーナーに置くとなると、大きなコーナーが必要になる。小規模の図書館では無理があるのではないか、と考える。小規模の図書館では、フロア全体のYA化があればいいのだろう。

3 YA向け資料―文学以外
 文学以外については、絵本はYAでくくることができるが、児童書の絵本と一般書の絵本に分けるだけでもよい。
 NDC(日本十進分類法)の0総記から8言語まで、それに「9□8叢書.全集.選集」「9□3.6各言語の小説.物語「9□4.6各言語の評論.エッセイ.随筆」「9□5.6各言語の日記.書簡.紀行」以外の9文学は「混配」がよいので、YAコーナーに置く必要がない、と考えている。

4 YA対応の空間
 これがYAサービスの一番の課題である。
YAコーナーをつくることに終始していたわけではないが、YA世代に向けての発信力の足りないのが、空間である。
 ラーニング・コモンズは大学だけでなく、公共図書館においても幅広く受け入れられる可能性がある。
 ラーニング・コモンズは同志社大学のホームページによると、

ラーニング・コモンズとは、情報を知識に、知識を想像に変えていく空間です。さまざまなヒト・モノ・コト・情報と出会い、それらを仲間とともに議論し展開していくことで、新しい学びの可能性を生み出していきます。交流と相互啓発の場である「クリエイティブ・コモンズ」と、アカデミックスキルの育成の場である「リサーチ・コモンズ」のエリアからなり、そこから多様な学習が展開されることを期待しています。
 ラーニング・コモンズにはアカデミック・インストラクター他、専属のスタッフが常駐しています。学習について分からないことがあれば、遠慮なくご相談ください。

とある。
 かつて、学習室否定が言われたが、ラーニング・コモンズに着目すべきである。
 空き部屋を自由に使わせる学習塾があるが、塾に通えない貧困層にとって、図書館のラーニング・コモンズは有効な働きをするであろう。
 また、武蔵野プレイスの試みも参考に出来るだろう。

5 YAサービスの担当者
 YAサービスの担当者については、メンター(相談相手、助言者)としての役割が期待される。そのためには「からだが劈かれている」必要がある。
これについては図書館評論№58(2017)に「司書のことばは利用者に届いているか」を書いている。(残日録56に転載する)
ボランティアとして、学習支援者も必要である。

6 おわりに
YAコーナーについておおよそこのように考えている。少子化の流れは児童サービスやYAサービスを縮小することになるのか、それとも、新たな可能性を切り開くことになるのか。
図書館現場からの思考、仮説―実験が繰り返され、経験が共有されることを期待している。

2019月05月8日改訂

2019年05月07日

残日録54 蒲池正夫

 1907(明治40)年、熊本市生まれ。徳島県立、熊本県立図書館長を歴任。1975(昭和50)年、逝去。

 徳島県立の藤丸昭氏らの編集で『蒲池正夫選集/追想の蒲池正夫(別巻)』が出版されている。別巻に司馬遼太郎が追悼文を書いている。一部を紹介する。

 

 私は土佐人でイゴッソウを気取ったり、肥後人でモッコスを気取ったりする人が苦手だが、蒲池さんはそういうことからおよそ遠い人であった。

 —―蒲池さんのファンは、右にも左にも多い。

と熊本ではよく人から聞かされたが、このことも蒲池さんを理解するうえで大切ではないかと思われる。

 私は江戸初期から肥後を考えてみて、この土地ほど日本で思想的な風土はないと思ってきたし、いまも濃厚にそう思っている。

 しかし蒲池さんは私の前で一度も思想的な発言をされたことがなかった。思想というものが、のしかかって他人を律するものではなく、あくまでも自律のものであるということを蒲池さんほど血肉として知っておられた人も少ない。晩年、カミュにつよく傾斜されたことは蒲池さんを知るうえで重要だが、かといってカミュ以後は認めないという態度はとられなかった。

 私は家内と熊本で遊んだとき、つい蒲池さんをよび出してしまった。

 蒲池さんは、夫人と一緒に来られて、田原坂へ行ったり、熊本城にのぼったり、繁華街をぶらついたりするとりとめもない時間を一緒に持ってくださった。

 

 蒲池の「半端な人生行路」から抜粋。

 

 昭和十四年夏、私は呉市広町にある海軍の工作機械実験部に入った。これが私の本格的な職業の最初の経験である。そのまえ二年間広島工商の図書館に籍をおいたが、アフター・ケア(肋膜炎を患った病床生活8年の後—明定)のからだならしともいうべきもので、それがまた飛んだアフター・ケアで毎晩のように飲んで暁に帰った。自然、朝野出勤は直任官の好調より遅いというので「学校の重役」といわれた。ある日廊下で機械科長の田中重芳教授によびとめられすすめられたのが実験部入りで、ことわるつもりであった部長の並河恒雄氏の人間的魅力に引っかからねば軍人と役人の大きらいだった私が承諾することもなかったとおもう。並河さんは工作機械の技術者としても日本一流であったが、人間としても実に立派な人であった。私は四年にわたって部長から実に大切にされ可愛がられて、終生の大きな影響を受けた。

 実験部では一切の実験と生産を文献情報活動を基礎にして行うという方式がとられた。これは今日生産の現場で実施されているドキュメンテーションというべきもので、この一事をもっても、並河部長の達見は驚くべきものである。当時、帝国海軍には世界各国に海軍事務所と称する情報機関があって、各国の資料がそのルートで集められ、十八年連合軍の封鎖以降潜水艦でドイツの資料や機械が送られてきたこともあった。部内では部長の方針で工作機械の最高で広はんな知識のエンサイクロペディアともいうべきシュレジンガー教授の「工作機械」を私が翻訳するにつれて、これをテキストとして、若い技術士官グループで研究会をもった(その時の世話役の相棒が現在大隈鉄工所の社長の大隈孝一氏である)。この著書の邦訳は今日まで私のもの以外成功していない。また同じく部長のすすめで、私は工作機械の基礎理論たる切削工学の研究に従事した(数年前アメリカから帰った直後、恩師の田中教授のもとに防衛大学から新しく設ける切削工学の講座の担当教官として私を招きたいとの連絡があった)。油圧駆動方式の日本への導入も私たちの研究成果のひとつだったとおもう。

 十八年私は実験部を退いた。部長は涙を流して私をとめられたが、これ以上軍の内部の機構と敗戦をたどる社会の矛盾に耐えきれなかったのだった。しかし少将担当官の並河さんの苦悩はもっとちがって深刻だったろうと、いまはなき並河さんをしのんですまない気持ちがする。この年の暮れに私は結婚して広島に住み、翌年、私は妻の故郷の徳島に移った。田中先生はこんども東洋工業の村尾専務に私を紹介されて、入社の話をほとんど確定していられたのに、川南工業の疎開工場の建設に突然スカウトされて、私は広島を去った。そして一年後に戦災にあって九死に一生をえた。二十一年私は徳島新聞に入社した。これも私の知らぬ間に兄が友人の徳島新聞の前川専務にたのまれていたのである。入社直後、戦後のあの騒然たる食糧不安時代を政経部長として、戦災徳島の産業復興のため前川専務にはかって一策を講じた。各界のトップレベル四、五十名を招いて「徳島の産業復興をどうはかるか」というテーマで座談会をもって、その結論で大同団結の協力態勢をつくらせようという目論見である。当日、会場へK氏がやって来て、こんな技術や経済にふれる座談会を司会できるものが新聞社にいるのかと専務に聞いている。私がやりますよと声をかけたら。ナァーンダ、蒲池さん、新聞社に入ったのか、それなら大丈夫だというので大笑いになった。戦争中、市役所で工場代表を集めて毎月能率研究会をやっていたが、いつもその会で議論をやったのがK氏と私だったからである。この日の数時間におよぶ座談会はこちらのもくろみ通りに進行して、結論としてみんな協力して復興をはかるため会をつくろうということになった。こうしてできたのがナルト会で、一時百五十名にあまる社長クラスが集まって、毎月研究会をもった。会の世話人代表の原菊太郎氏が現在の徳島県知事で、世話人のひとりのK氏は現に県商工会会頭である。その次に私の仕事は戦争で破壊した各種の文化団体の再建であった。県が二十四年に総合文化センターとして県立図書館を再建しようとおもい立った時、私を引っ張りだそうとしたのも、こうした関係だったろう。この時も私も私の友人たちもあまりに事の意外に呆れるばかりで、はじめは本気にしなかったくらいで、しかもほんのしばらくの手伝いにとおもって出た仕事も、館の再度の焼失、そのまた再建と道草をくっているうち遂に新聞へのカムバックの機を失って、おもいも寄らぬ図書館屋になってしまった。

 医学志望を断念したとき哲学の研究をはじめたが、それも実験部入りで中絶。切削工学の研究には並河部長が非常に力を入れて下さったのも半端ものの私に学位でもとらせたらとの恩情からだったらしいが、これまた敗戦の夢となり、最後におちついた図書館ははじめから好きではなかったがいまは愛着がある。妙に創業の仕事ばかりしてきた私だが、考えようでは日本の図書館全体が創業期だから、私のようなものでも役に立つのだろうか。私をもう一度、産業界か新聞へかえそうという動きもあったらしが、それより先に熊本へ帰る話が実現した。恩師先輩知友に支えられて何とかたどった半生、ざっとこんな自画像になりました。

 

 戦時下のあらがいかたとして、知っておいていい。面と向かって抵抗することも選択肢としてはあるだろうが、そういう人は限られている。意に添わぬ時間の凌ぎ方として、市役所で工場代表を集めて毎月能率研究会をやっていた、なんてすごいと思う。こんな事例を集めた本はないのだろうか。もしかしたら、敗戦直後にはあったかもしれない。

2019年04月23日

残日録53 菅野青顔+追記

 敗戦以降の図書館人を振り返ると、伝説の時代があり、英雄の時代があり、群雄割拠の時代があった。今は茶坊主の時代だ。と研究集会で言ったら、少し受けた。

 その伝説の時代の図書館人の一人に、気仙沼の図書館長だった菅野青顔という人物がいる。

 この人は気仙沼の水産加工業を営む家の倅で、1903(明治36)年、気仙沼生まれ、小学校を終えると、気仙沼水産講習所(のちの気仙沼水産高校)にすすんだ。17歳の頃、突然「書物三昧」の生活に入り込み、仕事をしなくなる。結婚するのだが、やがて家業は倒産、家屋敷を手放すことになる。青顔は「書物三昧」の世界に入り、生計は青顔夫人やへ子が支えることになる。その後、大気新聞の記者を経て、1941(昭和16)年、気仙沼町立図書館の事務嘱託職員、1949(昭和24)年8代目の図書館長となる。1978(昭和53)年7月まで館長を続け、その後は読書三昧と三陸新報『萬有流転』の執筆生活に入る。1990(平成2)年、逝去。

 菅野青顔については青森の三上強二氏から聞くことはあったが、1970年代の図書館の潮流とは異質の人物であったので、後任の荒木英夫館長にもお聞きする機会を逸していた。

 菅野青顔追悼集『追悼・菅野青顔を語る』(1990)の中で、荒木氏は以下のように書かれている。(P352~354)

 

 青顔館長は図書館の蔵書は権威あるものでなければならないとの信念を持ち、図書館を利用すれば、中央の学者にも負けない研究が出来るような図書館を気仙沼につくることが念願であった。だから私らに良くいったものだ。「せっかく文献を集めたのだから、東大や外国の学者が頭下げて教えを乞うくらいの研究をしろや、それが図書館の権威を上げることだよ」と。

 青顔館長のもう一つ素晴らしいことは、図書館の仕事に誇りを持ったことであろう。とかく行政体の中で、図書館とは閑職と思われ、コンプレックスを持つ人も多いが、氏にはそれが塵ほども無かった。「人まねの出来る動物はいても、本を読む動物は人間だけだ。本も読まず、図書館に関心ない人間は、相手が誰であろうと俺には猿か熊くらいの価値しかない」と言い、また初代国立国会図書館長金森徳次郎氏が、「人生を顧みて、お前の生前やった良い事は何かと閻魔に尋ねられたら、恥入ることばかりだ」との意味の随筆を書いてあったのを評し、図書館の親分をやったくらい立派なことはない、それで文句を言う閻魔なら、頭を殴りつければ良い、と言ったものである。

 特に念願の新図書館を落成させ、昭和四十四年度の北日本図書館大会を開催した時は、閉会に当たり、「図書館職員は〝世界至高最大な仕事〟に誇りを持ち、推進したい」と挨拶し、参加者に感銘を与えたものであった。

 新館落成後は、実務は専ら職員にまかせ、その人間的魅力と政治力で作られた二十余りの寄贈文庫(市民有志から年間一定額の寄付申し出を受け、図書の選定は館長にまかせる)を基礎に基本蔵書の充実に力を注いだ。

 この頃から、戦前以来の教養主義中心の読書に対し、社会一般人に根を下ろした図書館活動が展開されてきたが、他方それに疑問を表明する渋谷国忠氏(前橋図書館長)を代表とする図書館人もあった。青顔館長も渋谷氏も大正期に青年時代を送った教養人、自由人であり、また辻潤の研究で萩原朔太郎の研究科であった渋谷氏とは親交があったためか考えに共通する所があった。「基本図書も大切ですが、市民の利用する小説や実用書も充実させては」と進言したが、「俺はクズ本は集めない」と主張は曲げなかった。教養人として徹し、哲学を持った館長だったといえよう。ただし館外奉仕の本の選定と。収書以外のことは職員を信用して自由にやらせてくれ、頼み甲斐のある上司であり、その自由な雰囲気の下で、日本の公立図書館としては大分変ったこと(公立図書館としては当然の活動と思っているが)もやった。

 例えば昭和四十七年に有吉佐和子の『恍惚の人』が話題となり、読書界で良く使われたが、同じベストセラーの『日本列島改造論』を題材にしないのはおかしいと、保守系と革新系の市会議員を講師に市民読書会を計画したら、総選挙にぶつかり、外部から見合わせるよう注意されたが、青顔館長は「やれてバ」と支持してくれて、実行、大勢の市民が参加し好評だった。

 また昭和五十二年に大型店が進出した際、大型店問題の資料を提供するのは公立図書館の市民に対する義務だと資料を集めたが、その提供に当たり行政と市民団体の間に立ち、いろいろ困難な問題に当面した。これを何とか乗り切れたのも青顔館長が理解してくれたからで、その活動経過は情報公開制度と今後の図書館活動の在り方として図書館界で注目をうけ、『法律時報』で取り上げられたりした。これが私を図書館の自由宣言に関係させることになってしまったのである。

 

 菅野青顔は、辻潤や武林無想庵と親交があった。大泉黒石、宮沢賢治、湯川秀樹らを早くから評価していたという。

 青顔というのは雅号で、「青顔さんは終始一貫、本名を用いず、雅号で押し通した。市役所など公文書は本名を記すので、『千助』という本名の表彰状や辞令をもらうと、青顔さんは憤懣やるかたない態度を示すのが常だった。青顔館長の反骨の姿勢がそこにみられるようであった。」(佐々木徳二)は贔屓の引き倒しだろうが、追悼文集は80人近くの人が文を寄せている。教養人、自由人であり魅力的な人物であることは間違いない。


追記

 民芸店の備後屋でギャラリー華を開いていた故俵有作さんが、気仙沼の図書館に博学の館長がいた、君もああいう図書館人になりなさい、と言われたことがあった。菅野青顔のことだな、と思ったが、そんなの到底無理ですよ、と言ったことを思い出した。青顔は生活のことなど関係なしの人生であって、家計は奥さんまかせのようだったらしい。追悼集にそのようなことが書かれている。

 私はそこまで徹底できない。というか、人としての大きさや魅力が欠ける私には、青顔を目標にすることなど、およびもつかない。石橋を叩いて渡らない父の背をみて育った者にとっては、青顔は無縁の人である。図書館についても「門前の小僧」でしかない私からすると、青顔や残日録54の蒲池正夫の闊達が羨ましくもある。

 

 

2019年04月13日

残日録52 「菊の花」

残日録51 に続き、今井尊次郎「菊の花」

 

   菊の花

 

 朝御飯のとき、お父さんが、

「あっ。」

と、口を開いて、顔をおしかめになりました。御飯の中に砂がまじっていたのです。

「ごめんなさい。……だいじょうぶでしたの。」

と、お母さんは、お父さんの顔を心配そうに見つめていらっしゃいました。和子さんも俊夫さんも、同じように見つめていました。

 気短かなお父さんは、大きな聲でお怒りになることがあるのです。しかし、お怒りになっても、すぐ又にこにこ笑って下さるので、うちではお父さんのことを「夕立さん」と言っています。ごきげんのよい時には、お父さんは自分から――おれの生まれたのは、七月二十八日の四時少し前で、夕立の真最中だったんだぞ、だから今でも、やかましいんだ――。などとおっしゃいます。又――おれの生まれた時には、外で雷様がごろごろ鳴っていたので、おへそを取りに来るのじゃないかと、うち中の者が、とても心配していたよ。でも、おれは一向平気だったよ――。などと和子さんや俊夫さんに、じょうだんをおっしゃいます。

 こんな気短かのお父さんも、今朝はどうしたことか、少しも怒らないで、突然大聲に、

「わはゝゝ。」

と、開いた口を手で、かくすようにして、お笑いになりました。

 お母さんも、和子さんも、俊夫君も、何だか変な気持ちでした。

 お父さんは、そんなことには気がつかないようすで、口を大きく開けて、奥歯のあたりに手を入れて、砂をつまんでお出しになって、

「こんな大きな仏印の石がはいっていたよ、もう少しで仏印を食べてしまうところだった。」

と、おもしろそうに、指先でいじりながら、お差出しになりました。見ると、御飯粒の半分ぐらいもある砂粒です。お父さんは、自分でふと、奇抜なことを考えついて、お笑いになったのだと分かりました。

「この砂、どんな色をしているかね。」

 お父さんは、何か考えるようすでおっしゃいました。お父さんは満州事変に出征して、眼を負傷されて、両眼とも見えないのです。

「少し桃色がかった白色です。」

と、和子さんが答えました。

「そうか、それは思ったより美しい色だな。」

と、お父さんはお喜びになって、俊夫さんに向かって、

「俊夫、お前、この石に、仏印のことを色々たずねてごらん。なんでも話してくれるよ。」

と、おっしゃいました。

「うそですよ、お父さん。」

と、言ったけれど、俊夫さんはおもしろそうに、お父さんからその石を受取って、食卓の上に置いてから、

「おい、こら、仏印の話をしてごらん。日本の兵隊さんを見たかい。」

と、いばって言いました。

それから、

「そうか。」

と、言って、耳をその石に近ずけるまねをして、ちょっと考えてから、

「お父さん、日本の兵隊さんが、戦車に乗って、日の丸の旗をたてて、砂煙をもうもうとたてて行ったの を見たそうですよ。」

と、まじめな顔をして言いました。

「眼が見えれば、もっと御国の為にはたらきたいのだがなあ、ざんねんだ。」

 お父さんは、思わず又いつもの言葉を口にお出しになりました。

「はゝゝゝゝ、又はじまった。」

 俊夫さんは、いつもお姉さんの言う言葉を覚えていて、お姉さんよりも先に言いました。和子さんは眼のことを残念がられるたびに、泣けてくるのですが、無理にこう言って笑ってあげるのでした。それを今朝は弟の俊夫が言ったのを聞くと、一そうお父さんが気の毒になって来て、

「俊夫ちゃん、何言うんです。そんなこと。」

と、言って、俊夫ちゃんをたしなめました。するとお父さんが、

「和子、お前だって、いつもそう言うじゃないか。」

と、おっしゃいました。

「やあい。お姉さん。やられた。」

 俊夫ちゃんは、とくいです。

「だって……。」

 和子さんは、何とか言いたいのだが、何と言ってよいかわかりません。すると、お父さんがおっしゃいました。

「和子。お前の言うのと、俊夫が言うのとでは、わけがちがうな。お父さんも分かっているよ。」

 和子さんは、はっとしました。心の中を見破られていると思うと、何だかすまないような気持になりました。

 この日は日曜日で、和子さんは、お母さんのお手伝いをしました。

 お庭のお掃除をする時、いつもお母さんがなさるように、いゝ菊の鉢をさがして、縁側へ持って来ました。

「お父さん、菊をもって来ましたよ。」

というと、おとうさんんは、煙草とすいがら入と座布団を持って、出ていらっしゃいました。

 縁側はよく日が当たって、暑いくらいです。お父さんは座布団の上に座って、煙草をすいながら、聞くのかおりをかいだり、手でなでたりしていらっしゃいます。

「お父さんの眼が見えればいゝのにねえ。」

と、和子さんは、思わず言ってしまいました。

「でも、見えない方が、菊の花はよけいに美しいかも知れないよ。美しいものを見たい見たいと思っているから、心の中にとても美しい花が浮かんで来るんだ。」

父さんは、静かになつかしむようにおっしゃいました。和子さんは、こんな美しい心を持っているお父さんのことを思うと、一そうお父さんの眼が見えればよいと思いましたが、もう黙っていました。

「この花は黄色だろう。黄金色にふっくらと咲いた厚物だな。」

 お父さんは、かおりによって大ていの色を、お見分けになります。中でも黄色な花は、どの色の花よりもかおりが高くて、よくわかるのです。

「お父さんは、どの花が一番お好きですか。」

「どの花も色々変わったところがあって好きだが、やはり黄色の花が一番好きだね。」

 お父さんは、にこにこしていらっしゃいます。

 和子さんは、お父さんのところをはなれて、又お掃除をはじめました。

 小さなお池の睡蓮の葉は枯れて、水底の株がみえています。夏になると白い睡蓮の花が咲きます。すると、蜜蜂がお父さんのように太った体で、羽音をたてて飛んできます。お父さんは、じっとその羽音を聞いていらっしゃいます。和子さんが、このことを思い出して、ふとお父さんの方を見ると、申し合わせたようにお父さんも、見えない眼を和子さんの方へ向けて、

「いゝ気持ちだなあ。」

と、おっしゃいました。

 お掃除がすむと、おかあさんのところへ、お洗濯のお手伝いに行きました。

 お母さんは井戸端で、白い割烹着を着て、たらいに水をくんでいらっしゃいました。

 そばへ行くと、

「和子は、そっちのたらいで、お母さんの洗ったものを、ゆすいでちょうだい。」

と、おっしゃいました。

 和子さんは、もう一つ大きい方のたらいに水をくんで、お母さんがしゃがんで、洗濯板の上で、ごりごり音を立てゝ、石鹸をつけて洗っていらっしゃるのを見ていました。

「お母さん。それ、お父さんの。」 

「そう、お父さんが、山へいらっしゃる頃、着ていらっしゃったのですよ。もういらないから、俊夫のお洋服に仕立て直してやろうと思っています。こんな丈夫なコール天の生地なんか、今時は、どこをさがしたってありませんよ。」

 御父さんは、出征なさる前は、林業研究所に勤めていらしゃって、コンコール天の服を着て、時々山へ出張なさったのでした。色はこげ茶で、畦織の縦のこまやかい棒縞が高くなっていて、ビロードみたいな感じです。

「すてきだわねえ。俊夫ちゃんによく似合うと思うわ。」

「何よりも第一、丈夫だからいゝですよ。これなら、少し位いたずらしたって、お尻の破れるようなこと

はありませんからね。」

 やがてお母さんは、それを洗い上げて、和子さんのたらいの中へ、じゃぶんとお投入れになりました。すうっと石鹸が水の上にうかびました。和子さんは、水の中へ手を入れましたが、思ったより温かいので、元気にじゃぶじゃぶとゆすぎはじめました。次から次へ、お母さんのなさった洗濯物を、夢中になってゆすぎました。ゆすぎ上げて、ぎゅっとしぼる時には、力が入ります。けれども、それが一番愉快です。

 和子さんが、お洗濯をすましてお部屋へはいって来た時、玄関の開く音がして、

「瀬谷さん、そっくたつ。」

と、郵便屋さんの聲がしました。

 和子さんは急いで出て行って、それを受取って来て、まだ縁側にいらっしゃるお父さんにお渡ししました。

 御父さんは、その葉書を受取ると、

「和子、どこから来たか読んでくれ。」

と、おっしゃって、又それをお渡しになりました。

 和子さんは、受け取って差出人を見ると、おとうさんの戦友の河村さんからです。河村さんは今軍曹で、ずっと前に出征なさったのですが、今度用事があってちょっと帰ったから、今晩和子さんの家へいらっしゃるというのです。

 それを聞いて、お父さんは、大そうお喜びになりました。

「河村のやつは、中支から南支へ行って、最近は仏印へいっていたが、よく帰って来たなあ。」

「お父さん。じゃあ、今朝、御飯の中にはいっていた石のこと、前ぶれだったわねえ。」

 和子さんも、うれしくてたまりません。

「あの石を、どうした。」 

 お父さんは、もう一度あの石にさわってみたいと思いました。

「俊夫ちゃんが、明日学校へ持って行って、みんなに見せるんだと言って、机の引出しにしまっています。」

「そうか、それならいゝよ。」

 お父さんは、おれしそうにお笑いになりました。

 晩の六時半ころ、

「おそいわね。いらっしゃらないのかしら。」

と、言ったとたん、お玄関の戸が、がらがらっと開いて、

「ごめん下さい。」

と、太い元気な聲がしました。

「いらっしゃった。」

と、和子さんも、俊夫さんも、お母さんも、一大事でもできたように、あわてて玄関へ出て行きました。お父さんも、じっとしていられなくて、その後から、どこかにぶつかるようにして、出ていらっしゃいました。

「やあ、今晩は、御邪魔します。」

と、河村さんは、兵隊さんらしく元気に挨拶をなさいました。

「まあ、お久しぶりでございます。」

 お父さんも、お母さんも、ほんとうに嬉しそうです。兵隊さんは、

「やあ、これは和子ちゃん。これは俊夫ちゃん、ずいぶん大きくなったね。俊夫ちゃんは、小父さんのこと覚えているかね。」

と、俊夫さんの顔をのぞきこむようにして、おっしゃいました。俊夫ちゃんは、

「はい、覚えています。」

と、答えました。お母さんは、

「お陰さまで、二人とも大きくなりました。もう和子が六年生で、俊夫が二年生でございます。」

と、おっしゃいました。

 早速夕御飯にしました。お母さんと和子さんが、大歓迎しようと、一生懸命でごちそうをこしらえていたのでした。」

 兵隊さんは、

「やあ、すばらしい御馳走だね。遠慮なしにいただきます。」

と、言って、にこにこなさいました。お酒を出しました。兵隊さんは、おいしそうに飲んでいらっしゃいます。お父さんも、久し振りで酒がおいしいと言って飲んで、すぐ顔を真赤にしていらっしゃいます。

 御飯になると、兵隊さんは、

「日本で食べる御飯はおいしいですね。何しろ四年ぶりですからね。」

と、おっしゃって、お代わりを何ばいもなさいました。お母さんは、

「どうぞ、いくらでもお上がり下さい。また何年ぶりかでないと、食べられないかも知れませんから。」

と、おっしゃいました。

「戦地では、御飯を食べる度に、いつでも、これでもう食いじまいになるのじゃないかと考えていますよ。はゝゝゝ。」

と、河村さんは、おもしろそうにお笑いになりました。河村さんは、出征兵を連れて、又戦地へお帰りになるのだそうです。

 食後に色々な話が出ました。中でも、一番強く和子さんの頭に残ったのは、戦地へのおみやげの話でした。戦友に、何かおみやげに持って帰ろうかと聞くと、小川の清い水を汲んで来てくれというのが、多くの人達の願いだったそうです。向こうの水は悪くて、むやみに飲めなくて、その水でたいた御飯は、黄色くなってしまうそうです。そうして、兵隊さんは、

「自分も内地へ帰ったら、水を出来るだけ飲もうと思っていたが、帰ってみるとそれ程でもいないね。」

と、おっしゃって、お笑いになりました。お父さんも、

「そうだ、まったくあちらの水はひどいからなあ。」

と、おっしゃいました。

 それから今度は、日本刀の話がはじまりました。河村さんは、日本刀をぬいて、見せて下さいました。

 きらりきらりと、ものすごく光ってる日本刀を見ると、和子さんは、たのもしいような又恐ろしいような気がしました。俊夫さんは、めずらしそうに見ています。

 お父さんが、

「それで、何人斬ったかね。」

と、おっしゃると、

「三十一人斬ったよ。」

と、おっしゃったので、

「ほう。」

と、皆びっくろしました。和子さんは、二、三十人斬ったなどというのは、めずらしいと思っていたので、人一倍びくりしました。

「一ふりで、首がころっと落ちるのです。」

と、笑いながらおっしゃったので、思わず、和子さんも、俊夫さんも、

「わあすごい。」

と、首をちじめて言いました。

 兵隊さんはふと立って、縁側へ出て行かれて、ガラス戸越しにうす暗いお庭をのぞいて、

「今年も立派な菊が出来ているね。奥さんは、相変わらず感心だな。」

と、ひとりごとのようにおっしゃいました。俊夫さんも立って行って、同じように外をのぞいています。

 それから、

「菊の花か……。菊の花については、楠木正成を思い出すね、正成は菊の花が好きだったそうだ。それで、後醍醐天皇からも、菊水の紋をいただいてるが、正成も戦争が忙しくて、あまり菊を作っている暇はなかっただろうなあ。」

と、おっしゃいました。すると、お父さんは、

「そうだろうなあ。そう思うと、目の見えない僕などが、菊の花を作らせているなんて、全くもったいないよ。」

と、おっしゃいました。

「いや、それはちがうぞ、君はもうお役目のすんだ人間だ。七度生まれ代わって朝敵を亡ぼすのだよ。おい、俊夫ちゃんは、お父さんの後をついで、しっかりやるんだぞ。」

 河村さんは、俊夫さんの肩に、力のこもった重い手をかけておっしゃいました。

「僕、少年航空兵になって、海の荒鷲に乗って行って、アメリカの軍艦に空中魚雷を落として沈めてしまうんだよ。」

「そうか。それはえらい。」

 河村さんは、大きな二つの手で俊夫さんの頬を、ぎゅっと両方からおさえてくださいました。あたゝかい手した。

 

 

 この童話は、1942(昭和17)年国民の戦勝気分が高揚しているなか、出版されている。どう読まれたのかはわからないが、こういう書き方もできるのだと思った。

 冒頭の「仏印」の砂が御飯に混じっていたことで、仏印米を食べていることがわかる。さりげなく、眼の見えない父親を登場させ、満州事変で失明をしたこと、お国の為に役立ちたい、が口癖だということが描かれる。

 長年、菊の栽培を楽しんでいる一家の日常ではあるが、失明した父親が無職らしいこと、「こんな丈夫なコール天の生地なんか、今時は、どこをさが したってありませんよ」と物資が不足していることなどがたんたんと書かれている。

 友人の兵隊が仏印から一時帰って来て、訪問客となる。「戦地では、御飯を食べる度に、いつでも、これでもう食いじまいになるのじゃないかと考えています」「向こうの水は悪くて、むやみに飲めなくて」「三十一人斬ったよ」などということが語られる。

 反戦童話ではなく(そんなのは発禁だろう)、日常を描いているだけなのだが、密度は高い。

  

 

 

 

2019年04月06日

残日録51 「オペントウサン」

   オペントウサン

 

 正月になって間もない朝のことでした。

 正夫君は、その日お掃除当番でした。いそいで学校へ行くと、バケツに水をくんできて、ざんぶりとぞうじんをひたし、固くしぼって、前から順番に皆の机を拭いていました。

 一番うしろの、右隅の机のふたを拭こうとして、ふと見ると、誰のいたずらか鉛筆で、

「オペントウサン」

と、書いてありました。

 それは、此の四月、正夫君たちの六年生のクラスに、朝鮮から入学してきた金君の席でした。オペントウサンというのは、金君のあだ名です。

 金君が、始めて此の学校へやって来た日のことでした。第四校時目の国史の時間がすむと、先生の前へ行って、

「先生、今日はこれてかえらしてくたさい。」

と、たのみました。

「用事でもあるの。」

「オペントウを忘れました。」

 それから、オペントウサンという名前がつけられたのです。

 金君は、「パピプペポ」の半濁音はいえても、「ガギグゲゴ」「ザジズゼゾ」「ダヂヅデド」「バビブベボ」などの濁音の発音がどうも上手に出来ません。

 その後も、気をつけて聞いていると、ツバメのことをツパメ、ビールビンのことをピールピン、サイダービンはサイターピンなどといいました。

 金君にかぎらず、朝鮮の人達は大体にそうなので、正夫君の家にやってくる朝鮮の屑屋さんも、ボロのことをポロといいます。そうして、こんな発音を聞くと、いかにも朝鮮の人らしい感じを受けました。それから、おかしくなってくるのをどうすることもできません。おかしくなるのは、正夫君ばかりではないとみえて「オペントウ」を聞いた時には、クラス全体が一度にドツに吹き出してしまいました。

 先生がむずかしい顔をされたので、皆は、やっと静まったのですが—―。

 それは、いうまでもなく、笑う方が悪いのです。朝鮮の人が、内地語の下手なのは、ああたりまえのことです。若し、私たちが、あちらへ行って、朝鮮語を使ったとしたら、同じようにトンチンカンな発音をするかも知れません。でも、それは仕方のないことなのです。その仕方のないことを大声で笑われたら、どんなにさびしい気持ちがするでしょう。発音が正しくないからといって笑うのは、思いやりの心のないしうちです。

 金君を「オペントウサン」のあだ名で呼ぶのは、何時までも金君の発音を笑っていると同じです。それで、正夫君は、此の間クラス常会があった時に、お互いのあだ名を止めることをはかったのでした。皆は、賛成してくれたのですが、その後で、もう、すぐにこんなことが書いてあるのです。

 正夫君は、何度も金君の机のふたをふいて「オペントウサン」を消しました。掘りこむように書いているので、なかなか骨が折れました。そこだけ、あまり念入りに拭いたので、禿げたように白いまだらができました。

 そこへ、金君がやってきました。禿げたふたをみると、いたずらをされたと思ったのでしょう。正夫君の顔をじっと見ると、クラスの朝の挨拶の「オハヨウ」もいわないで、鞄を机の中にしまうと、さっさと外へ出てしまいました。

 

 正夫君は、こまったことになったの思いました。どうしたら、自分のやったことが、金君にわかってもらえるかしらと思いました。落書きの話をしてしまえばわけないのですが「オペントウサン」と書いてあったとは、どうしてもいえないのです。

 その日、学校からかえってくると、正夫君は此のことをありのまゝ叔父さんにはなしてみました。叔父さんは、大学の二年生です。お母さんの弟ですから、わからないことや、こまったことの相談は、大抵もちかけるようにしているのです。

「そうだな。それは、正夫君も金君もどちらもよくない。」

 おじさんは、こんな判断をしました。

「なぜです。」

「金君も腹を立てる前に、そのわけを君に聞くべきだし、金君が誤解していると思えば、君もありのまゝに話せばよい。それができないというのは、どちらにも心に溶けないものがあるのだな。」

「でも僕、自分でやったことをあからさまにいうのは、吹聴するようでいやだ。」

「そこもあるな。まあ、でも、それほど心配することはないや。直に仲直りできるさ、同じ国の人間だものな。」

 叔父さんは、そういって事もなげに笑いました。

 正夫君の頭には、同じ国の人間という言葉が強くのこりました。そうだ、此の考をもって、これからは金君と仲良くして行こう、と思いました。

 しかし、翌日学校へ行った正夫君は、金君と自分たちとの様子のちがいというものが、いやにはっきりと眼につくのでした。

 発音もそうですが、顔だちもちがっています。横から眺めてみると、額の生え際が高く、それが下向きに行くに従って低くなり、瞼と額の高さというものに殆ど変化がありません。前にまわってみると、額の幅は割合に広いのに、顎の幅は目立ってせまく、丸味を失って尖ったようになっています。

 それから、体の形からいうと、脚の線が長くて、体格がばかにスッポリとしているのです。

 それらはどう見ても、朝鮮の人々の身体上の特徴なのです。こんな特徴を見ていると、同じ国の人間という言葉に、心からうなずけないものがありま、金君というものが、水の中に交わっている油の一滴ともいいたくなるのです。

 これではいけない。こんなせまい考は、捨ててしまわなければならぬ。正夫君はそう考えるのでしたが、これこそ心のカメラに焼きつけられているとでもいうのか、どうしても消すことができませんでした。

「君が、そんなによく金君の特徴を見ているというこたは、ほめて上げてもいゝな。しかし、特徴ばかり拾って、似通っている点、同じ点というものを見のがしているのじゃあないかな。僕にいわせると、金君と僕たちとでは、異なっている天よりも、似通っている点とか、同じ点とかいうものの方が、却って勝っているのじゃあないかと思うのだがな。例えば、君たちのクラスの中に、ヨーロッパ人を一人くわえたとしてみたらどうだろう。君は、文句なしに、金君と僕たちとは、とても血が近いんだ、いや、同じなんだということを発見するだろうよ。とに角、君は、これからは、今まで見のがしていた僕たちと同じ物を、金君の上にみとめるようにしていくことだな。」

 正夫君は、なるほど、と思いました。叔父さんの忠告は、たしかに正夫君の欠点をついていました。それで、それからは同じ物の発見につとめるように心がけることにしました。

 けれども、やっぱろ駄目でした。金君は、正夫君たちと同じ本を習い、同じお米のご飯をたべ、同じカーキ色の服を着、下手ながらも同じ日本語を話し、同じ文字を書いていますが、それらをいくら積みかさねても、あの唯一つの顔形の特徴を打消すことができないのです。どうしたら、此の特徴にまさる似通った点、或は同じ点というものを見出すことができるでしょう。

 

 ところが、それから一週間ばかりして、相撲の練習会が始まりました。近く、此の町の八幡様で奉納相撲の大会があり、そこれは、国民学校の子供も出ることになったのです。

 見上げると、目もそまりそうな青い空でした。若葉に包まれた校庭の桜は、明るい陽を浴びてキラキラ輝いています。そして、相撲場には、昨日、六年生の勤労奉仕で、川原から運ばれて来た新しい砂がひかれていました。

 第四校時の鐘が鳴りました。まわし一つになった六年生四十六人が、校舎から駈け出して、土俵の側に集まりました。陽に焼けて、ピチピチした体格ばかりです。

 金君は、どこにいるんだろう。相撲がとれるかしら――正夫君は、ふとそうおもって、あたりを見まわしました。すると、教室の中でならすぐに見つかる筈の金君の姿が見えません。

 先生がおいでになって、練習についての注意がありました。

 前列は東側に、後列は西側に、それぞれ土俵をかこんで坐りました。正夫君は、東でした。そこで、西側をずらりと見渡しますと、その真中どころに、金君が、やはりまわし一つで坐っているのに気がつきました。

 「あ、居る。」

 そう知った時に、不思議な気がしました。ふだんなら、どこからでもあれ程に目立つ金君が、どこにいるのかわかえあないくらいなのです。あの顔も、あの脚も、ここでは著しい特徴ともいえません。同じ皮膚の色をした、同じくらいな体格の子供たちの中に、同じように坐っているだけです。叔父さんのいった、異なった点よりも同じ点の方が勝っているという言葉の意味はこれなのだな。たしかに金君は、僕たちと、ちっともかわってなんかいなかったのだ。

 正夫君は、今こそはっきりと、そううなずくことができました。胸が晴々としてきました。これからは、心から打ちとけて友だちになることができるとも思いました

 やがて、相撲の練習が始まりました。何番かすんで正夫君の番となりました。相手は誰かと見ると、思いがけもなく金君でした。相撲なれない金君は、勿論正夫君の敵ではありませんでした。金君はころころと転んで、砂まみれになりました。

 正夫君は、その金君の手をとってひき起こしてやりました。金君はにっこりして、

「ありかとう」

と、いいましたが、その「か」という発音は、大分「が」にちかずいていました。

 

山下清三 作  

現代表記に改めた。

 

長谷 健(はせ・けん)・今井誉次郎(いまい・たかじろう)編『先生の童話 五・六年生』 四海書房 1942(昭和17)年発行 所収

山下清(やました・せいぞう)は当時、鳥取県東伯郡日下国民学校教員。1907(明治40)年~1991(平成3)年。対象・昭和期の児童文学作家、詩人。

  

 今井誉次郎は日本作文の会初代委員長。

 当時の子どもたちがこの童話をどう読んでいたのか、今となっては想像することは困難だと思う。

 五族協和や八紘一宇とつながらないところで、この物語は作られているのだろうが、つなげたい側もいるので、悩ましいところだ。つなげて考えたいのは、大多数の国民の側である。

 

2019年04月03日

残日録50 板倉聖宜『発想法カルタ』

 先日、科学読物研究会の総会が武蔵小杉であって、そのあと引き続き、昨年亡くなった板倉聖宜氏をめぐっての集いがあった。

 益子の陶芸家の石川雅一(はじめ)さんの個展が駒場で開かれていた。

 個展だけでも良かったのだが、この総会に出ることで、少しは後ろめたさが軽くなった。

 科学読物研究会の会員には、板倉聖宣氏のファンが多い。私の好きな板倉本を各自、紹介した。私は「ガリ本」が好きだ、といった。これは仮説実験授業の会員のなかだけと限定はしていないが、会員が作り、会員のなかで流通している手製の冊子である。「ガリ版本」が語源である。

 板倉聖宣氏や会員の講演記録や会員のいろんな文章が束ねられた一冊である。公表範囲が限定されているので、板倉氏の政治分析などもあって、興味深い本たちである。

 役に立った板倉本となると、『発想法かるた』となる。

 加古川市役所を敗北感を持たずに中途退職できたのは、この本に出てくる「どちらに転んでもシメタ」を知っていたからだと言える。

 

どちらに転んでもシメタ

   ●条件が変わると見えるものも変る●

 何か変わったことが起こると何時も「悪い方に転んだ」と思う悲観的な人がいます。剣道で立ち会っていて、相手が少し動いたらいつも「打ち込まれる」と思うようなら、その試合は負けに決まってます。相手が少しでも動いたら「しめた、すきができたぞ」と思えるようになったら、試合に勝てるようになるでしょう。

 何か変化したときは、負ける恐れもある代わりに、その変化をうまく利用して勝つチャンスでもあるのです。いつも悲観的に考えていると、そのチャンスを見過ごしてしまいます。どんな変化のときも、必ず自分に都合のいいチャンスになっていることを忘れないことです。

 

 これからも加古川市立図書館で働き続けるよりも、どっちに転んでも続けるよりもいいチャンスがある、と思えた。

 

理想をかかげて妥協する、も好きな言葉だ。

●理想と妥協の矛盾論●

 若い人たちは純真で、妥協を嫌います。「妥協は理想の放棄だ、俺は絶対妥協しないぞ」と誓う人も少なくありません。しかし、どんな理想にしても、理想というのはそんなに容易に実現できません。そう容易に実現できないからこそ、「理想」というのでしょう。

 理想がそう簡単に実現できないのは、相手がいるからです。相手にも相手のいい分があります。ですから、社会や人間を変えようと思ったら焦ってはいけないのです。無理をしてはいけないのです。しかし、長い間、理想を捨てずに頑張っていると、何時かはその理想を部分的にウも実現できるチャンスがやってくるものです。

 

 ではどう考えたらいいのか、この本にはいろんな思考法がかるたとなって提案されている。

 ではどうしたらいいのか、についても同様。好きな一つをあげる。

 

棚を吊ってボタモチを待つ

●棚ぼた式研究法●

 学校の勉強では「難しい問題を他人より早く解いたもの」が優等生になれます。しかし、科学研究では「みんなが解けない問題」ではなく、「自分でも解ける問題で、もっとも社会的に意味のある問題」を解決することが大切です。しかし、「どんな問題が解き易くてどんな問題が解くに値するのか」ということはそう簡単に見分けられません。そういうことは偶然が重なって見つかるのが普通なので、偶然ひっかっかるような網をたくさん貼っていって、待っていることが大切です。つまり「棚から偶然にボタ餅が落ちてくるのを待つにしても、棚を吊っておかなければならない」というわけです。

 

 研究法でもあるが、行動にもつながること。まかぬ種は生えぬ、は因果関係だが、相手があるとき因果関係で動くことは事前に解決が予想できることに限られる。因果関係以前の状態では、布石を打っておくことが必要になる。布石は予想である。布石以前にある時は、棚を吊る。あちこちに吊ってこそ、ボタ餅は落ちてくる。

 

 ガリ本の西川浩司氏の講演記録から

 

 いちいち反省していたらいけません! 上手くいかなかったなあ、という部分は記憶しておいて、問題意識をもって次にやる時に修正していくことは大事です。でも、反省はしないこと。反省していたらダメなんです。自分のプラスイメージを持つ。マイナスイメージを記憶させたらダメなんです。

 

2019年03月24日

残日録49 「鴻上尚史のほがらか人生相談」その②

 「女子高のクラスメイトに恋をしました」の相談です。

 

  僕はXジェンダーで(自分で勝手にそう思ってますが違うかもしれません)男ではあるけど女の外見 をしている自分が好きで、毎朝女装出来るのがとても嬉しいです。女としてかわいいと言われるのも好 きだし、女子高に通える男もここまで完璧に女装出来る男も世界中探しても自分しかいないのでは…… と誇りに思っています。でもかな子には男として、いや女としてでもいいからあわよくば自分のことを 見てほしい……と願っています。

 

 鴻上先生のお答えはいかが。

 「ももさん。告白しちゃいましょう。/いきましょう。ゴウゴウです。」

 

 誠実に自分の状態を語ることが、ももさんの恋愛が真剣で本気だということをかな子さんに伝えることですから。

 で、そこからどうなるかは、誰にも分かりません。「神のみぞ知る」という言葉がありますが、神様だってよ即位できないかもしれません。

 でも、大丈夫。どうなっても、人を好きになるということは素晴らしいことです。

 振られると、傷つくし、死にたくなるし、泣きたくなるし、人生が嫌になります。

 でも、だからと言って、恋する気持ちをなくしてしますと、人生の大切な部分を失ってしまうのです。

 うまくいってもいかなくても、他人を好きになることは素敵なことです。人を好きになると、それだけで毎日、生きていく気力がわきます。朝、起きることも平気になるし、食べ物もおいしくなるし、人生もがんばれるようになります。

 傷つくことをおそれて、恋心から逃げてしまうと、本当に人生は灰色になるのです。

 どうせうまくいくわけがない、どうせ愛されるはずがないと決めてしまって、恋愛から逃げてしまった人の人生は、本当につまらないと思います。じつにもったいない。

 

 私の苦手とする「恋愛」についての相談に、ちょっと真っ当すぎる回答かな、と思いました。

 

 ももこさん。

 どうか、どーんとあたってみて下さい。これからの人生、ももこさんは苦労するかもしれません。

 けれど、ももこさんがどんなに困難な恋愛にぶち当たっても、恋する気持ちにずっと正直で会って欲しいと思います。

 うまくいかなくても、人を好きになることは、素敵なことですから。

 

 まあ「恋」だからなあ、と思う。一方的であっていいのですね。こういう質問は、こういう私を認めてください系ですね。

 「恋心から逃げてしまうと、本当に人生は灰色」と言われると、とっくの昔に「恋心」を封印してしまった者としては、そうでもなかろうに、と思ってしまう。だがしかし、「恋心」よりも「愛欲」なんてことは、高校生には無縁だろうからこういう回答になるのだろう。

 

お次は「酒を飲むと妻が暴言をはきます」の番

 

 今年入籍をし、同居を開始しました。周囲から「新婚さん」とひやかされますが、早くもしんどさを感じています。理由は、酒に酔ったときの妻の苛烈な暴言にあります。

 日頃は笑いの絶えない良い夫婦だなと居心地の良さを感じていますが、酔った時に時折、彼女が突然怒りを爆発させ、どんな謝罪や弁解にも耳を貸さず、ただただ私をなじる時間が続くのがたまらなく苦痛です。

 

 というお悩み相談です。どう答えるのでしょう。

 

 お酒は人を変えるとも、お酒は、その人の本心をさらけ出すとも言いますね。僕は、お酒は人を変えるのではなく、その人がふだん押さえていることを解き放つと考えています。

 日常は、自制心とか理性とかの意思の力でコントロールしているのに、その抑制がお酒によって麻痺するということです。

 結果、「ああ、この人は、じつはこういうことを考えているのか」とか「こういうことをしたい人だったんだ」とわかるわけです。

 

 これも真っ当な回答です。

 奥さんのストレスは同居によって生じたものだろうと予想していましたが、そうとも言えない、と話は進みます。

 

 元々大の酒好きなのに禁酒を強いるのが申し訳ない気持ち」と書かれていますが、奥さんがお酒が好きなのは、ふだん、自分が言えない気持ちをお酒の力を借りて言えるから、という理由も大きいと思います。

 本人は暴言の詳細を半分以上忘れ『ちょっと言い過ぎた』くらいの認識で少し謝罪して仲直りできるもの」と思っているということは、今まで、そうやってストレスを発散し、生きてきたという可能性が高いと思います。

 奥さんは、そうやって、抑圧された人生を生き延びてきたのです。

 言わなければならない時に言わないで、後々、爆発して心の帳尻を合わせる方法です。面と向かって言いにくいことを言うのは激しいストレスです。そこをスル―して、関係のない夫で爆発するのは、一種の楽な生き方です。人間は楽な方h場を見つけると、それを繰り返してしまうのです。

 奥さんの爆発を録画して、見せたことはないですか?

 あなたはこんなことまで言っているのだと知らせることは、爆発の大きさを本人に知らせることになります。それは本人にとって、自分の抑圧を自覚する、とても有効な方法です。

 カッツェさんの対応は素晴らしいと思います。

 夫婦は、他人が一緒になるのです。

 予測のつかないことが起こるのは当たり前です。価値観が違うのも当たり前です。

 そういう時、やることは、話すことです。話すことしかないと言ってもいいです。

 

 そうだよなあ、と頷く私がいる。鴻上氏は「何かストレスがあるのか?」「どうしてそんなにたまっているの?」と聞くようにすすめる。

 

 そこで、奥さんが重い口を開いてくれれば、希望はあると思います。

 生き方が下手なのか、何か深い心の傷があるのか、今現在大変な難題を抱えているのか、カッツェさんに何か言いたいのか。

 もし、奥さんが「自分は何も我慢していないし、何も抑圧していない」と本気で言ったら、事態はとてもやっかいになります。

 または、もうそういう質問はしていて、「別にそんなことは何もない」と答えていた場合ですよ。

 一度や二度の質問の答えではないですよ。

 何度も何度も話し合って、それでも、「何もストレスはない」と奥さんが本気で答えた場合です。

 僕はそれでも、例えば、二人で心療内科などのカウンセリングを受けることをお勧めします。

 

 鴻上氏は劇団を運営していたので、いろんな若者との出会いがあったのだろうと思いました。劇作家でもあり演出家でもある氏は『発声と身体のレッスン』という本も書かれています。竹内敏晴の身体論を継ぐ本だといえます。

 鴻上氏がどんな経験をしたのかはわからないが、竹内敏晴の「からだとことばのレッスン」に集まる人々の中に、「生きにくさ」というものを抱えた人たちがいたことは確かです。心が抑圧されて、身体が硬い殻で包まれている状態の人がいます。その人の身体を少し「劈く(ひらく)」ことで、抑圧されていたヘドロのようなものが身体から噴き出します。それによって凝り固まった肉体は緩みはしめるのですが、体調や精神状態が揺さぶられ、不安定になります。30分のレッスンを3回やっただけで「鬱」が発症した例があります。

 いろんな経験が氏にもあるのだろうと思いました。

 「二人で心療内科などのカウンセリングを受ける」などというところにまで、この人生相談の回答は行ってしまうのです。すごい、と思いました。それは豊富な経験・体験に裏打ちされているものでしょう。

 「その①」だけにするつもりでしたが、リクエストがありましたので紹介しました。「酒を飲むと妻が…」は名南の第三法則です。反作用はあるのですが、作用のほうが分からないケースです。問いただして分かればいいが、わからない時は専門家に扉を開ける援助をしてもらうしかないのですね。

 「一冊の本」は年間購読料1000円です。PR誌はお勧めです。

2019年03月13日

残日録48 名南製作所の三つの法則

 愛知県大府市にある名南製作所のことが、鎌田勝『不思議な会社』(日本経営出版会.1975)として紹介されている。ニュートンの3つの法則を名南流に解説したものがある。(P76~79)

 

 力学は哲学である(名南の法則)

 

  第一法則(感性の法則)

 慣性とは、人間の保守性のことである。

 動いているものは、いつまでも動いていようとし、/止まっているものは、いつまでも止まっていようとする。

 習慣とか、常識とか、家庭に帰ってホッツとするとか、/新しい仕事に取り組みたくないとか、といった、/できることなら変わりたくない。ナマカワな安住の性格が、/人間生活の一面を大きく退嬰させるものである。

 高速道路の真中でエンコしたクルマのごとく、/他人の成長に大変な妨害になっていることが、/気が付きにくい性質。

 自分が後輩を大きくさまたげていたことに気づいた時、/すでに後輩たちは大分成長が遅れてしまっている。

 本人にわかりにくいので仏教でも特にこのことを/〝諸法無我〟といって強く教えている。

 

 第二法則(F=maの法則)

 努力すれば必ず成長する。

 力を加えれば、必ず加速度を生じ、スピードが上がっていく。

 努力し続けることが大切で、努力に時間をかけたものが、/その人の立派なエネルギーとなる。

 ドンドン、スピードガ上がるので、外から押したのでは/ついていけなくなる。そこでエンジンのごとく

/自分の内部から力を加え続けなければ、すぐにくたばる。

 他人の助けですなわち外から加速しても長続きはしない。

 よく注意して思うに、/生まれてこのかた、この長く力を押し続ける体験がほとんどないので、/我々はこの法則を認めることが容易ではないのである。

 手からはなれたボーリングの玉を、/走っていってうしろからおしてみるとよい。

 

 第三法則(作用反作用の法則)

 他人とは、反作用のことである。

 作用があれば、必ず反作用があり、/作用の大きさと、反作用の大きさは全く等しい。

 他人を真の不利に追いこむと、ちゃんとはね返ってくる。

 正しく援助をしても同じように正しく反応する。

 反作用は、直接、自分の五体には感じない不便な性質がある。

 感じないからないと思うのが普通でそう思うのが /大まちがいである

 このことを感違いしている人は、何事でも/いつもうまくいっていない。

 ただ力の場合は押すと、即時押し返ってくるが、/人間関係の場合は、時間がずれて押し返ってくるので、/なかなか認めにくい法則である。

 

 太字の部分は太字ではなく、強調の傍点がつけられている。

 

 ニュートンの3法則を人生論に読み替えている、ともとれるが、人間だって自然の一部、この法則に背いてはだめだと言っているのである。

 「F=ma」を社是とする名南製作所は各種合板製造合理化機械の製造・販売をしている会社。

 前回の「残日録47」の鴻上尚史氏は「自分の趣味や興味、関心事にエネルギーを注ぎ、その方面で自分を表現すること」は「地道な道ですが、歩き続ければ、素敵な風景が見えてくると思います。/たどり着く草原は、きっとじゅんさんからイライラを取り、気持ちいい風が身体を包んでくれると思います。/どうですか? 軽い気持ちで始めてみませんか? 歩き始める道は、本当にどんなことでもいいのです。」と結んでいる。

 小さな始まりが、続けることで加速度を増していく。他人から背中を押されていては、押してくれなくなったら止まってしまう。自分の内部から身の丈に合った、無理のない努力を重ねていく。時間の経過とともに、努力は加速度を増し、喜びを得ることができる。

 私は地域の進学校に入った。下から数えて数人の一人だった。入ってすぐに分かったことは、世の中に頭のいい奴がいるということだった。これはありがたかった。努力をしてどうなるというものではない、と思ったのだろう、3年間、底辺をウロウロして過ごした。無理な努力をした生徒の多くは、3年生になると息切れして成績が落ちて行った。無理な努力に耐えるだけの気力のある生徒もいたが、多くはない。そういう生徒の無理な努力が人生の終末まで続くことはない。

 とはいうものの目の前に受験が待ち受けている。高3の夏休みから受験勉強をした。教師の間で話のタネになっていただろうと思う。瞬発力を発揮して、関西大学社会学部に滑り込んだ。3年の後半は相対的に成績順位が上がり、中位あたりになった。息切れ組が落ちて行っただけであった。

 次年度の4月、3年生の父兄を前に、3年の夏休みから勉強を始めて関西大学に受かった生徒がいる、今からでも遅くない、と教師が話したという。近所の優秀な子を持つ母親がわが母に教えてくれたそうである。まるで、あんたのところの話でないの、言わんばかりであったかは不明ではあるが。

 教師は誤解していた。「F=ma」を知らなかった。そんなことを言ってみても、生徒の多くは無理な努力に疲れ切っていたのである。

 私は「F=ma」を知らなかったが、無理な努力はしなかった。無駄に終わった努力もなかったと思う。

 大学に入ってもマイペースであった。卒業式の代表として卒業証書授与されるのは誰だろう、と話しているのを聞いてはじめて、成績のいい卒業生が選ばれるのだと知ったのだった。大学院に進むのではないかと見られてもいたので、目立つ学生ではあっただろうが、苦手な科目は適当に付き合う程度だった。

 マイペースでも続いていれば加速度はついていく。あまりつきすぎると自分で自分を振り回すことになる。いくつかの道を開いていて、そんなときは違う道を進むことにする。趣味や興味、関心事は一つということではない。また、体調や気分に合わせてあれこれこなしていくということも、それぞれの「F=ma」を効果的に進めることにつながる。

 図書館という場では、選書、資料提供、児童サービス、学校図書館をテーマに持っていて、あっちをやっていたり、こっちをやってみたりする。YA(ヤングアダルト)サービスもテーマに加わりそうだ。

 第一法則や第三法則にもいづれ書くこともあるだろう。

2019年03月12日

残日録47 「鴻上尚史のほがらか人生相談」その①

 朝日新聞のPR誌「一雑の本」にこれが連載されている。3月号には「21 他人に迷惑をかけられることが無性に腹立たしい」「22 女子高のクラスメイトに恋をしました」「23 酒を飲むと妻が暴言をはきます」の3つのお悩み。

 「21」にはこう答えています。(P24~28)といっても全文ではなく簡略版で紹介します。前段で、インターネットやスマホが、自意識を増大させたことが、不寛容と関係しているとあり、中断で以下の展開をします。

 

 ……ネット時代になって、(注目される―明定)は大幅に下がりました。日本一周どころか身近な観光地を訪ねるだけで世間に向けて発表できるようになりました。

 そして、それに対して「いいね」や「閲覧歴」という数字がつくようになりました。

 私達は、つねに「自分がどう見られているか」「自分がどれぐらい評価されているか」という意識を突き付けられるようになったのです。

 ネットによって自意識がどんどん開発、増大されたのです。

 そして重要なことは、その評価に満足している人はいないということです。どんなに「いいね」をもらっても、何万ビューついても、上には上がいるからです。

 ちょっとネットを調べれば、自分が得意だと思っている分野でももっとすごい人間を見つけることができます。

 おおきくなっていく自意識は決して満足することはないのです。

 もちろん、そんな状態は嫌なので、みんな、自分を守るために、「私は本当はこんなレベルじゃない」と思うようになりました。

 私は本当はこんなレベルじゃない。本当はもっとすごいんだ。私は世間に対して、ちゃんとモノが言える人間なんだ。

 自分を引き上げるためには、そうおもって、みおんな発言します。ツイッターやフェイスブック、ブログで、いろいろと発信します。

 けれど、上には上がいるので、そういう発言は否定されます。

 映画を得意げに評価しても、音楽を通ぶって語っても、文学にウンチクを傾けても、上には上がいて、潰されます。

 でも、唯一、潰されない言葉があります。

 それは「正義の言葉」です。

 正義を語っている限り、突っ込まれる可能性はないのです。否定されるかもしれないとおびえる必要がないのです。

 

 こう来たか、とここで唸りました。

 

 「自分は何者かになりたい」という意識を強く持ち、けれど、自分が何者でもない現在、何か社会に対して主張したい、自分の存在を明確に打ち出したいと思った結果、「正義に反する人たち」に対する、誰からも否定されない怒りやイライラが増していく、ということです。

 

 相談者のイライラはそんなところから生まれているのだ、と言いたいのだが、正面からそうは言わない。では解消法はというと、「自分の趣味や興味、関心事に自分のエネルギーを注ぎ、その方面で自分を表現しようとすることです」とある。

 

 「他人に対する怒り」を自己表現の基本にするよりも、「好きである」ということをお自己表現の基本にすることは、精神衛生上も、そして人間としてもはるかに素敵なことです。

 

 解決策は平凡なように見えるが、それを選択することはなかなか難しい。

 私自身、図書館という世界にいて、表現を受け取る側から、表現を発信する側に立ち位置を変えるについて、挫折が合ったり、挑戦というほどではないが模索があった。鴻上尚史氏の言うように「最初は、自分が小さい存在に感じるかもしれません。」「地道な道ですが、歩き続ければ、素敵な風景が見えてくる」だろう。

 私の知人に、イライラしてストレスをため込んで疲れてしまう人がいます。イライラはエネルギーの無駄遣いだから、見ない、反応しない、聞き流して、時間を凌ぐように勧めている。なるほど「正義の立場に立ち、正義の言葉を生み出し、イライラしているのですね。近頃、少し凌ぎ方が上手くなったように思う。

 最初は自分が小さく感じるかもしれないが、地道に歩き続ける。

 このことを、大府にある名南製作所は「f=ma」という。ニュートンの第2法則である。

2019年03月11日

残日録46 科学読物を考える(改訂)

 0 はじめに
児童サービス資料論として、幼年文学までが領域であって、「現代児童文学」と呼ばれて来た資料はヤングアダルト以降を対象とした文学であることについて論じた。
 今回は科学読物について考察する。これによって児童サービスについて論じることが一区切りつくことになる。
 2019年3月に神戸で「公共図書館の児童サービスを考える 2019」が開催され、そこで「サバイバルシリーズから『ざんねんないきもの事典』まで」と題して話す機会を得た。
 なぜ、『ざんねんないきもの事典』が流行しているのか、がテーマではあったが、科学読物全般について論じるなかから考察した。
 文学以外の分野の児童資料には①博物・分類・科学、②実用書、③資料集・統計・図鑑・辞典・事典、④教科書・副読本・参考書、⑤知育玩具、⓺紙芝居、⑦AV資料、といったものがある。
 ここでは①の博物・分類・科学について、広義の科学読物として論じる。

1 博物の世界
「博物学の世界」は、日本大百科全書によると「広義には動物・植物・鉱物などの種類・性質・分布・生態などを研究する学問。狭義には動物学、植物学、鉱物学、地質学の総称。同義語に博物誌、自然史などがある」とある。「犬」「猫」「イネ」「○○石」といった物的世界=博物を対象としているのが博物学である。
「現代では自然物に関する各分野の科学が高度に分化、発展しているため、総称としての博物学という語が使われることはほとんどない」とあり、「博物の世界」と言えよう。
 「サクラ」をテーマにした写真絵本がある。これによって「サクラ」のことがわかる。「ウメ」についての写真絵本がある。これによって「ウメ」のことがわかる。
こういう本は、一つ一つのテーマについて幅広い情報を提供してくれる。
児童コーナーの自然科学の棚にはこの種の博物の本といってよい本が多く並んでいる広義の科学読物ではあるが、科学をもとにしてはいるが、狭義の科学読物とは異なる。

2 分類の世界
 科学の始まりは「分類」である。
 世界大百科事典によると「〈分類は文字どおり、対象を類に従って(似たものをまとめて)分けることであるが,〈類別〉とは違って,全体を共通性に従って大きく分け,分けたものをさらにまた共通性に従って細分し,これ以上分けることのできない個体の一つ手前(種という)まで順次分けていって段階づけ,体系化することをいう」とある。これが「科学の世界」につながっていく。
比較や集合も分類と近い関係にある。
 点数は少ないが児童書にも分類の本がある。この分野の出版が少ないことを図書館員としては注視する必要がある。
 なぜ少ないのか、が問われなくてはならない。

3 生態・生態学の世界
 「生態学の世界」は,ブリタニカ国際大百科事典によると「科学としての生態学が生物学の一部として認められるようになったのは1900年頃からで,最初は対象とする生物によって動物生態学と植物生態学に明確に分かれていた。生態学は学問ではなくそのための方法と考える者も少なくなかった」とあり、科学と認められる以前は、博物学(博物)の領域であった。
 それが「1916年にアメリカ合衆国のフレデリック・E.クレメンツが遷移理論を提唱,1927年にはビクター・E.シェルホードとともにバイオーム(生物群集あるいは生物群系)という概念を発表した。その後イギリスのチャールズ・エルトンによって生物群集である種が占めている場所を指す生態的地位という概念や,食物連鎖による個体数の調節が示された。1935年にはイギリスのアーサー・G.タンズリーが生態系の概念を提唱。この考えは一つの生態系内での各生物群集の機能テク側面に注目し,生物を生産者,消費者,分解者に分けてそれらの間で物質やエネルギーの流れを解析する方法に発展した」という過程で、生態学は「博物」から「科学」に移行することになる。

4 科学の世界
 「科学の世界」は百科事典マイペディアによると「現代では,科学を,自然についての,人間の経験に基づく客観的,合理的な知識体系であって,厳密な因果性の信頼の上に観察と実験を武器にした専門的,職業的な研究者によって推進されている,物理学,化学,生物学などを含む学問の総称,と定義することができる。社会科学は,自然科学をモデルとして成立した概念ということができ,対象は自然一般ではなく人間社会に限定され,内容はできる限り上記の科学(自然科学)の定義に近づくことが期待されるものの,対象の制約から観察や実験にはおのずから限界が生じるし,厳密な因果性も求められない」とある。
 「科学読物」と称ししている読み物は、「博物の世界」「分類の世界」「生態学の世界」「科学の世界」のどれかに該当する。
 20世紀には「自然と親しくなろう」といった類の科学読物があったり、「カエルもうれしそうです」といった擬人化した表現もあった。陥りやすい落とし穴である。SFや動物物語を科学読物とするのかは意見が分かれるところである。

5 科学読物と教育
 児童コーナーでも一般コーナーでも同様、自然科学の棚をみると、博物・生態・分類・生態学・科学が混在している。特に児童コーナーでは博物が幅を利かしていて、他の分野が多くない。
 どうして分類・生態学・科学の読物が少ないのか。
 それは科学教育と関係している。科学教育が知識を系統的に教えようとするばかりで、科学的な思考力を身に着けさせることとは縁がない。博物的な情報や知識を獲得するための教育になっている。『ざんねんないきもの事典』が大流行しているが、情報・知識を得ることに終始している。
 子どもたちは、サルについての知識を得る、サクラについての知識を得る、○○についての知識を得ることはあっても、なぜオセアニアに有袋類がいて、他にはいないのか、愛媛県でキウイフルーツの生産が多いのはなぜか、などを考えることはない。
 生活科や総合の授業で考える力を身に着けさせようとしたが、総合の授業時間が減少したりして、教育政策はギクシャクしている。
 2020年の教育改革がさらに前進をしようとしている。「何を学ぶか」だけではなく、「何ができるようになるのか」がポイントだそうである。「知識を活用する力」を教育しようとしている、とある。
 「主体的・対話的で深い学び」を取り入れた授業の中身は「発見学習」「問題解決学習」「体験学習」「調査学習」「グループワーク」「ディベート」「教室内でのグループディスカッション」である。
 そういう取り組みのなかから、もっと科学読物を読む子どもらが育つといいのではあるが、コラムニストの堀井憲一郎は「落ちこぼれる子が増えるだろう」と予想している。
 『関大初等部式思考力育成法』(関大初等部著 さくら社 2013)では、シンキングツールとして、「比較する」「分類する」「多面的に見る」「関連つける」「構造化する」「評価する」の6段階を身に着けさせようとしている。
 この6段階に対応した本が図書館の棚に並んでいるか、というと、そうではなく「博物」系の情報・知識の本が多くみられる。
 板倉聖宣は「『仮説をもとにして実験観察をつみあげ、法則理論の体系をつくりあげていくような学問』―それだけを『科学』と定義すべき」であるとし、科学読物の役割は「『その時代時代に正当とされていた自然についての知識を教えること』ではなく、『そういう常識・権威ものりこえて、仮説をたて実験をすすめようという生き方を育てあげようとするもの』でなければならない」としている。
 板倉聖宣的な観点の科学読物はなかなか読まれないし、書かれていない。そんな科学読物が読まれるためには、科学教育が変わらなければならないのである。

2019年05日03日改訂

2019年02月20日

残日録45 「ズレ」を広げてしまうコミュニケーション

 水島広子『対人関係療法でなおすうつ病』から

 

 自分が相手に何らかの役割を期待しているのと同じように、」相手も自分に何らかの役割を期待しているものです。相手が自分に何を期待しているかを本当に理解していることは案外少ないものです。同P92

 

 相手の期待を明らかにすることは最初のステップにすぎず、それに応じてどうするのかを決めるのはその次だということになります。ただ、絶対に言えることは、最初のステップがなければ、次もないということです。そういう意味では、相手が自分に何を期待しているのかは誤解がないように知っておく必要があります。

 

「ずれ」を広げてしまうコミュニケーション

 「役割期待のずれ」を埋めていく大きな手段がコミュニケーションです。どんな期待をしても、伝えなければ伝わりません。それぞれの期待を伝えるのもコミュニケーションです。し、その期待が相手にとってどれだけ妥当なものであるかを検証するのもコミュニケーションです。

 ところが、「役割をめぐる不一致」の状態にあるときは、むしろ「ずれ」を広げてえしまうコミュニケーションをしがちなのです。「ずれ」を広げるコミュニケーションを次に挙げてみます。

 

言葉を使わないコミュニケーション

 不満があるときに、自分の気持ちを言葉で伝えずに、ため息をついたりにらみつけたりする、というコミュニケーションをする人はすくなくありません。特にうつ病になると、相手に直接向き合うことを「申し訳ない」「怖い」「意味がない」などと感じるので、ますますその傾向は強まります。言葉を使わないコミュニケーションの問題は、メッセージが正確に伝わらないことです。ため息をつかれたりにらみつけられたりしても、相手は何が問題となっているのかすらわからないかもしれませんし、自分がどういう改善を求められているのかはまずわからないでしょう。それでは「ずれ」は埋まりません。言葉を使わないコミュニケーションに頼ってばかりでは、自分の意見が正確に伝わらず、誤解を招くこともありますし、こちらが言葉を使おうとしなければ「ずれ」に向き合って話し合うこともできません。なお、暴力や自傷行為も「言葉を使わないコミュニケーション」の一つです。

 

間接的なコミュニケーション

 言葉は使っていても、直接的な言い方をせずに、嫌味を言ったり、婉曲的な物言いをしたりしてしまうこともあります。言いにくいことを言う場合には、間接的な言い方をした方が「角がたたない」と感じる人はおおいものですし、うつ病になるとますますその傾向は強まります。でえも、言葉を使わないコミュニケーションと同じで、間接的な言い方では、誤解を招くこともありますし、「ずれ」にきちんと向き合うこともできません。直接的な言い方であっても相手を不愉快にっさせないコミュニケーションのしかたについては、106頁「けんかにならない話し方」で扱います。

 

自分の言いたいことはつたわっているという思い込み

 はっきりした言い方をしなくても、他人は自分の気持ちがわかっているはずだと思いこむパターンです。超能力者でもない限り、言わなければ伝わりません。このような考えでいると、「わかっているはずなのに、なんであんなことをするのだろう」などという不満がつのり、相手との「ずれ」は広がるばかりです。

 このパターンは、「言葉を言わないコミュニケーション」「間接的なコミュニケーション」とセットで問題になることが多いです。つまり曖昧なコミュニケーションしかしていないのに、相手はわかったはずだと思いこみ、改善されない相手の態度を見て絶望を深める、という具合です。

 

相手の言いたいことはわかっているという思い込み

 相手のメッセージが不明確なのに確認しない、というパターンです。相手に批判されたように感じたときに、それを確認しないで「私はあの人に嫌われている」と思いこんでいくようなケースです。相手はそんなつもりではなかったということもありますから、一方的な思い込みによって「ずれ」は広がっていきます。

 批判に聞こえる相手の言葉を確認してみることは、価値があります。実際に批判ではなかったということも多いですし、本当に批判だったとしても、曖昧な人格否定から、具体的な改善点へと焦点を絞っていくことができれば、、それだけで治療的です。

 

沈黙

 怒りや不快を表現せずに沈黙してしまうパターンです。相手に直接怒りをぶつけるよりも沈黙した方がまだましであると考えている人も多いと思いますが、沈黙というのはコミュニケーションの打ち切りであり、最も破壊的な対応であるともいえます。「沈黙は金なり」の精神を持つ日本では、特に要注意です。

同書P93~96

 

 うつ病でなくとも、日常的にありがちなコミュニケーションです。特にプライベートでの人間関係で発生します。職場の構成員の距離感が上手く取れなくて、または取らなくて、コミュニケーションがプライベート領域にまで入り込んでくると、感情的に追い詰められるということになります。そうならないために管理職は何をしなければならないのか、が問われることでしょう。

 

2019年02月10日

残日録44 『増補 学び舎 中学歴史教科書 ともに学ぶ人間の歴史』

 春に5回コースで「続日本歴史入門」を開講するので、士農工商を教科書ではどう書かれているのかを知るためにこの本を購入した。

 2016年4月現在、全国38校5300名の中学生の手に届けることができたそうだが、国立中学校や一流私立中で採択されているそうだ。

 「面白い教科書だと思うが、採択は容易ではない」というのが会社(他の教科書会社―明定)の見方だ。

とその理由を二つ挙げている、一つは営業の態勢。もう一つは「教員の教えやすさ」とある。ここが興味深い。

 

 他の多くいの教科書は子どもの絵を使った吹き出しで「考えてみよう」「話し合ってみよう」と授業の流れを書き込んでいる。本に沿って教えれば、授業は成立しやすい。

 しかし「学び舎」の本は、教員が自由に授業できるようにと考え、そのような書き込みはしていない。

 文部省の関係者によると、検定の審議会の場でも「学び舎」本について、「これまでの教科書に慣れた教員が教えられるか」と懸念する意見が出た。「国立大の付属校の研究授業のような内容だ」と評する声もあったという。教材研究に熱心な一部の教員が教えるための教科書ではないか、という見方だ。

同書付録 P20

 

とある。


採択した灘中学校の和田孫博校長は「謂れのない圧力の中で――ある教科書の選定について――」のなかで、

 

 担当教員たちの話では、この教科書を編集したのは現役の教員やOBで、既存の教科書が高校受験を意識して要約に走りすぎたり重要語句を強調して覚えやすくしたりしているのに対し、歴史の基本である読んで考えることに主眼を置いた教科書、写真や絵画や地図などを見ることで疑問や親しみが持てる教科書を作ろうと新規参入したとのことであった。これからの教育のキーワードともなっている「アクティブ・ラーニング」は、学習者が主体的に問題を発見し、思考し、他の学習者と協働してより深い学習に達することを目指すものであるが、そういう意味ではこの教科書はまさにアクティブ・ラーニングに向いていると言えよう。逆に高校入試に向けた受験勉強には向いていないので、採択校のほとんどが、私立や国立の中高一貫校や大学附属の中学校であった。

 

としている。

 

 「学び舎」の本は歴史の場面を重視し、シーンのオムニバス方式で、子ども自身が歴史の流れを考えることを目指した。それはよいことなのか。「歴史の流れを明示しない教科書はわかりにくい」「子ど もには無理だ。やはり筋道を教え、歴史をとらえるわくぐみを与えるべきではないか」。検定発表後の取材では、そう指摘する何人もの教員に会った。

 上記 P21

 

 「続日本歴史入門」では仮説実験授業の歴史関係の授業書を使うのだが、これは授業書という構成をたどっていけば成り立つ。「学び舎」版はアクティヴ・ラーニングという「空中戦」を教えられる側に求めるのだから、私立や国立の中高一貫校や大学附属の中学校の生徒たちがクリエーティヴになるのは良い事であるが、公立中には別の手だてを考えるのか、授業実践例がたくさん出ることによって、アクティヴ・ラーニングがこなれていくのか、さてどうだろう。

 他の教科書も影響を受けて変わっていくのだろうか。未来は知識の量で比べられるのではなく、見破る論理、伝える論理、身体的文化資本、それに発明(工夫)・発見(発想)力によって評価されるのだが。 

 

2019年02月04日

残日録43 水島広子『トラウマの現実に向き合う』

 水島広子『対人関係療法でなおす双極性障害』を読了。身近に双極性障害(躁うつ病)がいるわけではないので、知識として知っておく段階ではある。

 同じ著者の『トラウマの現実と向き合う—―ジャッジメントを手放すということ』は、トラウマ治療者の姿勢について書かれた本であるが、こちらは接客の姿勢として学ぶところが多い本だった。

 

 多くの臨床家がトラウマ患者を傷つけないようにと配慮しているが、実際のところそれが単なる「腫れ物扱い」になってしまっているケースも少なくない。つまり、どうすることが傷つけることなのかが明確になっていないため、全体的に当たり障りのない対応をしてしまっているのである。しかし、単に腫れ物扱いすることによって患者に信頼されることはできないし、それどころか、「腫れ物扱い」されて傷ついたという人を私はたくさん知っている。そもそも、誰も「腫れ物扱い」sなどされたくないだろう。自分が「要注意人物」というレッテルを貼られて距離を置かれるような疎外感を覚えるからだ。こうして見ると、「腫れ物扱い」には、他人を傷つける要素があることがわかる。

 もともとは相手を傷つけないようにという動機で行われる「腫れ物扱い」が、なぜ相手を傷つけてしまうのか。

 そのキーワードになるのが、「ジャッジメント(評価)」だと思う。人を「腫れ物扱い」するとき、そこには、「この人は要注意人物だ」というジャッジメントがある。そのようなジャッジメントを下した結果として、普段だったら何気なくできている人間的な交流ができなくなり、それがジャッジメントされる側の「距離を置かれるような疎外感」につながる。

 ジャッジメントの定義は状況によってさまざまだと思うが、本書では、「ある人の主観に基づいて下される評価」ということにしたい。「この人はよい人だ」「この人は親切な人だ」「この人は要注意人物だというのはいずれもジャッジメントだし、「この状況はすばらしい」「この体験は悲惨だ」というのもジャッジメントである。ジャッジメントは、評価を下す人の個人的なバックグラウンド(パーソナリティ、成育歴、能力、価値観、当日の気分)などを反映するものである。人によってジャッジメントは異なるだろうし、同一人物でも、人生のどの時点で下されたものかによって、ジャッジメントは異なりうるだろう。

 ジャッジメントにはいろいろな面での問題があるが、ここでは特にその「暴力性」に注目しておきたい。ジャッジメントは常に暴力性をはらんでいる。どういうことかと言うと、ジャッジメントは本来「ある人の主観的体験」に」すぎないものだが、実際にはあたかも客観的事実のように宣告され、押しつけられるからである。ジャッジメントを下している本人は、「それは自分の主観的体験に過ぎない」という自覚をしておらず、あたかも相手側の問題であるかのように錯覚しているものだ。「あなたはかわいそうな人だ」と言うとき、言っている本人は、本当に相手がかわいそうな人だと思っている。

 ところがそこで下されているジャッジメントは、実際にはある人の主観的体験に過ぎないものなので、ジャッジされる側が一方的に引き受けなければならないところが、ジャッジメントの持つ暴力性だと言える。言葉は悪いが、一種の「言いがかり」なのである。(P6~8)

 

 「言いがかり」「決めつけ」について納得のいくところだ。接客のとき、相手の文脈にそって聞く、聞くに徹すして、判断しながら聞くことをしない、につながる。

 

 「ゆるし」というのは、トラウマ体験という「異物」の本当の消化なのではないかと私は考えている。「異物」を消化するための最初の試みはジャッジメントである。トラウマ体験者は、あらゆる方向から、相手に、自分に、体験そのものに、ジャッジメントを下す。「トラウマ体験をした自分」ももちろん「異物」として、ジャッジメントの対象となる。対人トラウマの場合、自分自身へのジャッジメントが最もい本質的であることが多い。

 しかしジャッジメントでは常に消化不良の状態を起こし、それがさまざまな苦しみにつながる。本人は、さらなるジャッジメントによってそれを消化しようとするが、ジャッジメントという手段ではいつまでたっても消化不良のままだし、苦しみは続く。

 「ゆるせば楽になるのではないか」と思うのは、そんな頃である。今のやり方には限界があって、別の消化の仕方があるのではないかと思うようになるのだ。それはどういうものっかというと、「消化しようとして頑張らなくても、大丈夫なのではないか」といものの見方である。

 これはトラウマ体験の否認とは違う。145頁でも述べたが、トラウマを「傷」として見るのではなく、「役割の変化」として見る、というフォーミュレーションである。トラウマ体験は確かにあった。しかし、自分がそこで決定的に傷ついたわけではなく、ただ乗り越えるのが大変だった、という見方である。

 これが、トラウマからの回復の本質である、「自分をゆるす」ということなのだと思う。トラウマ体験者は、「ゆるせない」と思うとき、自分の傷を再びえぐっている。トラウマに関連したネガティヴな感情と共によみがえる。つまり、ゆるさないでいることは、自分を傷つけることを繰り返し、「被害者」という立場に自分を縛り続け、自由を奪い続けることである。そして、「自分をゆるす」ということは、自分を傷つけることをやめ、被害者役から自分を解放することなのだと思う。(P175~176)

 

 「自分をゆるす」ってなかなかできないことだけれど、そういう私を認めてあげる、不足しがちな自己肯定感を満たしたいものである。

 職場の人間関係でイライラしてしまう人がいる。イライラしてしまう自分にいらいらしてしまう、となると大変くたびれる。イライラしても解決しない。イライラの原因が解決に向かえないのであれば、水分補給をしたり深呼吸をしたり、散歩、トイレの個室で気を静めたりして、イライラのエネルギーを省エネしたいものである。イライラする「自分をゆるす」のは難しいことなのだろうか。

 この本の書評を中井久夫が書いている。一部紹介する。

 

 認知症、担癌患者、難病患者の治療において、それぞれどのような現実に直面して、なおこの原則(「 治療者は病気の専門家であって人間の専門家ではない」—明定)を守れるかを考えてみることは、これら の患者が置かれている現状を大きく改善するきっかけになる。しかし、それはマゼラン海峡を通過する 操船者のような細心の注意と反省力が必要となるだろう。人の優位に立って人を支配することが医療者 になる隠れた最大の動機だからである。それが治療者の最大の、燃えつきの原因になっている。(みすず 2011年1.2月号より) 

2019年01月26日

残日録42 「かくとだにえやはいぶきの」

 私が小学校4年生のとき、近所の母の実家に遊びに行ったら、祖母が富谷のおばさんと話していた。祖母はこちらを向いて「なあ義人、かくとだにえやはいぶきのさしも草、さしもせんのに子ができるとは、という言葉があるがな」と言った。何となくわかったような気がしたが、富谷のおばさんが「子どもにそんなこと言うて」と言うものだから、何だかわかったような顔をしてはならないのだと思った。祖母が「なあ義人、マリアさんでも射さんで子ができるわけがない、そう思わんか」と続ける。当時、30歳前後だった叔父さんが何を思ったのか教会に通い出したことを話していたのだった。

 こういうバレ句のような世界に初めて出合ったのだった。

 祖母は言葉の豊かな人で、子ども時代はいろんなことを話してくれた。3月になると「彼岸の雀落とし」とよく言ったものだ。3月上旬は少し暖かくなるが、お彼岸の頃になるとまた寒くなる。すると、雀が驚いて枝から落ちる。というのだった。

 昔の人の語彙は豊かだったのか、祖母が長けていたのかわからないが、しゃれ言葉もよく使っていた。「風呂屋の息子でユウばかり」とか「材木屋の娘でキが多い」といった類だ。「女の褌、くい込むばかり」「鉄鎚の川流れで、頭が上がらん」といったところか。「そうは桑名の焼き蛤」を思い出した。

 テレビの寄席番組でバレ句や言葉遊びを覚えた、という記憶がある。日常とつながるところに豊かな言葉の世界があった。

 ことわざ、これなども今の子どもたちにとって身近なのだろうか。

2019年01月20日

残日録41 「不活発な心の状態」

 加藤諦三が朝日新聞のPR誌「一冊の本」2019年1月号で「「心の葛藤」の3つの解決法」というエッセイで、カレン・ホルナイという精神医学者の説を紹介している。

 ①自己拡張解決型 ②自己消滅解決型 ③降りる、撤退する

の3つの解決方法があるという。加藤の言葉でいうと①が「認めてくれ」タイプ、②が「分かってくれ」タイプである。③は「人生の戦線からの撤退型」である。

 この③について書かれているのが興味深いので紹介する。

 

 さてカレン・ホルナイの分類の最後の「降りる」とは活発な精神的生活を諦めることである。カレン・ホルナイはActive psychic livingと書いている。つまり「降りる」は真のsolutionではない。

 数年前であるが、若者のことを「悟り世代」とメディアが言い出したことがある。

 しかしその「悟り」とは「降りる」ことであり、カレン・ホルナイの言う「不活発な心の状態」である。生きることを放棄した心理状態である。

 メディアが騒いだ「悟り」とは、本当の悟りとはおよそ関係ないどころか、正反対のことである。それは他者に対する積極的な感情の喪失でもある。オーストリアの精神科医ベラン・ウルフの言葉を借りれば、退却ノイローゼである。人生の戦場から撤退した若者たちである。

 ネットで言い出し主要メディアが報道し始めた「悟り世代」とは、勝ち組でも負け組でもなく、競争から降りた人々である。英語で言えばカレン・ホフナイの言うRecoiling from competitionである。社会的貢献や、競争からの撤退である。

「悟り世代」と言った人々は、人生の戦場から撤退した若者を、間違って解釈した。本当の「悟り」とは競争をして失敗しても受け入れるということである。勝ち負けを超越しているということである。

英語の論文では例えば「いつ人はより低いステータスを望むか?」というようなものである。

 人は一般的には高いステイタスを望む。しかし低いステイタスを望む人が現れている。

「悟り世代」ではなく、「撤退世代」というのが正確な言い方であろう。

 

 Active psychic living 積極的に超自然的(霊的)に暮らす の意味かな。幻想に逃げ込むといったところか。

 solution これは解決。

 Recoiling from competition 競争からの後退。

 加藤は「競争をして失敗しても」と競争を肯定しているが「負けても」とは書いていない。「負けた」だけではない、それを「どこを誤ったのか」というところまで考えを引きずっていき「失敗」の原因を探る。悟ってまた何かに挑戦するのだろう。「悟り」は「諦め」ではない。

「悟り世代」に言わせると、なぜ競争しなければならないの、「みんなちがって みんないい」ではいけないの、ということになるのかもしれない。「みんなちがって」というところが求められるのだろうが、どれほど「みんなちがって」いるのだろう。いつの時代でも「今の若者は」なのであるが、世代論として面白い。。

「つくし世代」という言い方もでているが、こちらの方は①自己拡張解決型かな。

 

 

2019年01月08日

残日録40 新年ご挨拶

頌春

歴史は繰り返す。一度目は悲劇として。 と、

ここで目が覚めた。二度目が笑劇なのか喜劇

なのか。黒犬に訊いたら「面白くない」と言

う。猪に訊いたら「私は喜劇を見たことがな

い」という。 「なぜ本当の喜劇が生まれてこ

ないのか。観客がお笑いや笑劇を好むために

喜劇的なものが生まれてこない」という言葉

を思い出した。笑とは緊張の緩和なのだが、

だらけ切った薄笑いや嘲笑のなかで奇声の緩

和が進んでいく。それを見据えるなかから、

喜劇は生まれる。

ネタ元;渋谷天外「私は喜劇を見たことがな

    い」

 

今年の賀状。

林達夫・久野収『思想のドラマツルギー』(平凡社 1974)の「八 平衡感覚としての「俗」のなかの「笑いのある芸術、その最初にして最後なる民話劇」のところに出てくる渋谷天外の論考をネタ元にした。岩波の『文学』で林が「笑い」の編集プランを担当した時の話。

 

林 そこで映画の岩崎昶、演劇の茨木憲に来て貰い、三人でプランを考えたんです。その五、六年前に、やはり『文学』で「笑い」という特集をやっていて、その巻頭を柳田(国男—明定)が書いているんです、「日本の笑い」という題で。僕たちの場合は、当然違うアプローチにならねばならぬ。何しろ「今日の笑い」というのが、この第二の特集号のタイトルですからね。それでまず笑いの芸術の今日的な実作者に書いてもらおうということになり、小説ではきだ・みのるを起用しました。

 ……

 それから、映画やテレビのドラマを書いている作者では、今の花登筐の先代みたいな長沖一を入れていますよ。飯沢匡、市川崑、これは衆目のみるところ問題なし。ところが、渋谷天外を入れようと僕が提案したら岩波の編集者たちはびっくりしちゃってね、内心。なかなか首を縦に振らない。〝これ以外にないじゃないか‘’と強引に押し切ってパスさせた。今はそうでもないでしょうが、当時の岩波の編集人にあった、アカデミックなものをよしとする古い体質が、この一事でよくわかりますね。

久野 渋谷天外は、上方にわかの伝統やもんね。

林 おそらく『文学』のごとき「高級雑誌」から、渋谷天外は原稿依頼を受けたことがなかっつたでしょうね。それでも原稿を書いて送ってきた。きてみると一番面白いのが渋谷天外の原稿です。図星でした。

  (同書 P240~241)

2019年01月05日

残日録39 「身体的文化資本」

 講談社PR誌「本」に平田オリザが「22世紀を見る君たちへ」という連載している。2019年1月号は「第7回「身体的文化資本」という問題」。

 ブルデューが提唱した「文化資本」という概念は、三つの形態に分けられる。

 

一.「客体化された形態の文化資本」(蔵書、絵画や骨董品のコレクションなどの客体化した形で存在する文 化的資産)

二.「制度化された形態の文化資本」(学歴、資格、免許等、制度が保証した形態の文化資本)

三.「身体化された形態の文化資本」(礼儀作法、慣習、言語遣い、センス、美的性向)

 

(平田)

 一は、お金で買うこともできる。もちろん何を買うかのセンスは問われるし、親から譲られるものが多く含まれれる点では、ここでも格差は歴然と存在するが、財力などによってのキャッチアップも可能である。

 二は、成人になってからでも、本人の努力によって獲得可能な部分が多い。この点も、そもそものスタートラインが違うという経済格差の問題はあるが、後述する身体的文化資本はに比べれば、まだ努力のしがいのある領域ということになっている。

 問題は三の身体的文化資本である。

 この身体的文化資本を「センス」といってしまうと身も蓋もないが、「様々な人々とうまくやっていく力」とでも言い換えれば、それが二〇二〇年度の大学入試改革以後に求められる能力に、イメージとして近づくだろうか。これまで述べてきた「主体性・多様性・協働性」はいずれも、この身体的文化資本に属する。これを、これまで使われてきた言葉で言うなら、広い意味での「教養=リベラルアーツ」と呼んでもいい。

 ブルデューが挙げたのは、美的感覚や感性を含むセンスやマナー、味覚あるいはコミュニケーション能力なのだが、私は最近、これに加えて、人種や民族、あるいはジェンダーや性的少数者に対しての偏見がないかどうかも含めて説明している。

 

 「身体的」文化資本は、できるだけ若いうちから、理屈ではなくセンスを身体に染み込むませていかなければならない。と平田は書いている。

 経済的に有利で、首都圏や京阪神に住んでいて、美術館や博物館にいったり、音楽や演劇を鑑賞させることができる環境で育てられた人たちが「身体的」文化資本を獲得することができる、とならば、「子どもたち一人一人の身体的文化資本が育つような教育政策に切り替えていくことだ。そのためには、地方自治体が教育政策と文化政策を一体化させ、特に貧困層に対して文化による社会包摂的な政策を充実する必要がある」という。

 

 そんな政策を待つことができない地方の中・高校生がとりうる選択として、首都圏や京阪神の大学や専門学校に進学または就職することぐらいしか思いつかない。中卒で都会に出る方が良い場合だってあるだろう。

 2人に1人が大学に行く時代が続いている。行かない方がいい場合だってあるだろう。大卒の採用はしない、という中小企業を知っている。高卒で経済的なゆとりを獲得し、ライブに出かけたり、たまに高級なレストランに行ったり、お稽古事をしたりする時間を持ちうる。その体験が「身体的」社会資本を獲得することにつながるいのではないだろうか。

 日本が多様性を確保できる社会となり、創造性によって国際競争力を強めることができるためには、教育は変わらざるを得ないのだろう。変わるべくして変わるのではあるだろうが。

  

2018年12月25日

残日録38 『評伝 小室直樹』読了

 『評伝 小室直樹』村上篤直 ミネルヴァ書房 2018 を断続的に読んでいたが、ようやく読み終わった。

 私は若くして、自分とはかけ離れた頭のいい人がいることを知ったので、無理して頑張ることはしてこなかった。凡人は天才になることはないのだが、努力して秀才になることもない。超秀才の一人に小室直樹がいる。丸山真男・京極純一・川島武宣・大塚久雄・中根千枝・富永健一らに学びつつ研究、執筆した在野の研究者である。弟子として、橋爪大三郎・宮台真司・副島隆彦・大澤正幸らがいる。

 小室の冷静な「理論と分析と解説」からは大いに学ぶことができたが、過剰な「エートス」は遠ざけるところだった。中期までの著作はよく読んだが、途中下車しているうちに逝去されてしまい、読まない本が後期の著作になってしまった。

 評伝は小室の「過剰」につきあった人々の物語でもあった。

 過剰な破滅型の人生であったが、当人はそういうことには無自覚だったようだ。

 この本に、小室の理解者として社会学者の吉田民人が少し出てくる。社会学を学んでいたころ、吉田民人の「資源-情報パラダイム」論を熱心に読んでいたことを思い出した。(吉田夫人とは、子どもの読書について雑誌で対談したことがある。)その延長で、飯尾要の著作もよく読んだ。若いころはよく読めたのだった。いな、読めた気になっていたのだった。

 

 

2018年12月18日

残日録37 チャペックの言葉

 われわれ園芸家は未来に生きているのだ。バラが咲くと、来年はもっときれいに咲くだろうと考える。一〇年たったら、この小さな唐檜が一本の木になるだろう、と。早くこの一〇年がたってくれたら! 五〇年後にはこの白樺がどんな気になるいか、見たい。本物、いちばん肝心のものは、私たちの未来にある。新しい年を迎えるごとに高さとうつくしさがましていく。ありがたいことに、わたしたちはまた一年歳をとる。

チャペック『園芸家12カ月』より。   

2018年11月27日

残日録36 『星と祭』+追記

『星と祭』

 

井上靖の小説『星と祭』は1971年5月11日から翌72年4月10日まで朝日新聞に連載された。これによって、渡岸寺の十一面観音をはじめとする湖北の観音像は全国的に注目されることとなる。井上はこの小説の執筆以降、数年にわたり近しい人々に、観光大使のごとく振る舞い、この地の観音信仰を紹介した。
少女みはるは終戦後の混乱期に分かれた先妻との間にできた子である。離婚して母の下で育てられた高校生のみはるが、大学生の青年と琵琶湖でボート転覆という思いがけない事件で短い一生を終える。主人公は少女の父の架山である。架山には青年の父親の大三浦は愚鈍に見える。こんな人物の息子と一緒に死んだと思うと救われない気持ちになる。青年の友人から聞くかぎり、義理でも優秀な大学生とは思えない。二人の遺体が水没したままあがらない。死亡ではなく行方不明の状態が続くことになる。
葬儀もできない、戸籍からも抜けないその後の七年間、架山は湖という場所をことごとく避ける日々をすごす。とともに、亡き娘と対話する時間が生まれる。もちろん内語ではあるのだが、仕事上のことでも対話によって決断するまでになる。架山は、生と死の間にある殯(もがり)の時期にあるみはるへの挽歌として会話をしていた。
七年後、架山は琵琶湖を訪ねることにした。そこで、大三浦と再会する。大三浦は琵琶湖畔の秘仏である十一面観音を拝むことで息子の死を受け止めようとしている。信仰ではなく、湖中に眠っている二人を守ってくれている十一面観音に礼を言っているという大三浦に、架山は同調しない。二人を一緒に考えたくないのだった。その気持ちが、大三浦に誘われて十一面観音巡りを始めるなかで静められていく。
エベレストへの観月旅行に行った架山は、そこで「永劫」という思いを抱く。「みはると青年の死の真相が何であるか知るべくもないが、永劫の時間の中に置いてみると、そうしたことは意味を失い、そこにはただ若い男女の悲しい死があるだけであった」という境地に行きつくことになる。
大三浦とともに春の満月の下、琵琶湖に船を浮かべて二人の供養をする架山は、長かった殯の期間を終わらせることになる。「燦として列星の如し。――そんな言葉を今になって架山は思い出していた。つらなる星のように、十一面観音は湖を取り巻いて置かれ、一人の若者と一人の少女の霊は祀られたのである。」
水死ではあるものの遺体が見つからない、七年たったから死亡届を出す。という法的な処置があっても、人の気持ちが片づくわけではない。主人公架山と青年の父大三浦の七年間は全く違った時間ではあったが、十一面観音を巡るなか人々の信仰の在り様に出合い、架山は愚鈍に見えた大三浦と連なる無名の人々の営みのなかに、素朴や謙譲を見いだした。
『過ぎ去りし日々』には、「最愛の子供を亡くした親たちの、その悲しみへの対い方は、私には二つあるように見えた。一つは、運命だという考え方で自分を納得させることであり、もう一つは諦め切れないで、いつまでも悲しみの中に自分を置き、すべてを歳月に任せるという身の処し方である。」運命だと感じることによって自分を納得する諦めの道をとろうとする架山と、ひたすら仏にすがり、死者の霊を祀ることで、魂を鎮めようとする大三浦。「二人を、その大きい悲しみから少しでも立ちなおさせるには、これしかないと考えたのである。」とある。
この小説は、予期せぬ子の死を弔うまでの物語であり、信仰の在り様を問うものでもある。
井上靖は湖北の人々に、観音様は修業の身なのだから、秘仏にしないで衆生の悩みを聞いていただくようにしたらいい、とよく話していたという。

 

 大三浦を軽蔑していた主人公の架山が、最後には大三浦に連なる衆生の一人となることで、殯を終えることができた。

 

 追記;井上靖研究会で、佐藤健一氏から、井上靖の文学の基軸は「詩」であり、そこから小説や随筆、脚本が生まれるのではないか、という仮説をうかがった。井上の詩には民衆を題材にしたものがある。それらが『星と祭』として小説となったのかもしれない。

 井上靖は軍医の子として生まれ、親戚にも医者がいたりする。中学、高校、大学と進学するのは、家庭的に恵まれ、かつ秀才であったろう。そんななかで成長し、新聞記者となった井上にとって、民衆は遠い存在であったことと思われる。

 京大の吉田山の近くのうどん屋のおやじのような一刻者が数少ない親しい民衆であった。詩にしてはみたが、井上にとって民衆は「謎」ではなかったか。井上文学の主人公は、架山のような貿易会社の社長であったりするのだが、民衆のさまざまな類型の中から人を登場させることは少ないように思われる。大三浦という人物を描くことで民衆に接近しようとしたのではないだろうか。

 『美しきものとの出会い』の取材で渡岸寺を訪れ、観音堂を守る人々と出会うことで、井上はうどん屋とは違った民衆と出会うことになる。その中心にいた山岡外次郎も一刻者として井上の周囲では受け止められている。渡岸寺の国宝維持保存奉賛会の人たちとの時間は、十一面観音と対座する時間とともに、井上に取って大切な時間であったことと思われる。

 『星と祭』に十一面観音が祀られているお堂に入ると、床がコンクリートで固めらているという箇所がある。聞いてみると、床下から竹が生えてくるので、それをふさぐためだという。インテリ達が怪訝に思ったり、愚行と受け止めたりするところではあるが、井上は生活者の論理としてさらりと書いている。架山が大三浦の側に近づいていく伏線となっている。

 看取られるはずの者が、看取るはずの者を失う。その悲しみを描くことになったのは、ある新聞記者が、原爆で看取る方も看取られる方もなくなった、その魂はどうしたら弔われるのでしょうか、と井上に問うたことがあったからだ、とご子息の井上修一氏が話されたことがあった。原爆ではないが、災害による多数の死の中に、こうした死がどこにでもある、という時代にあって、『星と祭』は読み直されていい小説であるに違いない。

 信仰の在り様を問う小説でもある。寺によって信仰が支えられているわけではなく、民衆の生活のなかに組み込まれた習俗が信仰を支えていることを伝えてくれる小説でもある。

2018年11月18日

残日録35 年賀状

 来年の年賀状の印刷を注文する時期がやってきた。この年賀状は私だけでなく弟も友人も使うので、近況報告ということにはならない。

 一昨年、中野重治の詩「歌」と「雨の降る品川駅」をネタにしてつくった。「雨の降る品川駅」では正月らしくないので「品川駅の常盤軒」として「出会いと別れのその時」とつないだら、真面目な先輩からハガキが来て「常盤軒」はあの駅そば店ですか、とあった。昨年から元ネタを書き添えている。

 出来不出来はあるが、年に一度の創作。楽しみにしてくださっている方もいる。たまに、これは上出来という年もあって、そんな賀状はまた使いたくなるが、そうもいかない。小津安二郎の映画のパロディーは絶賛だったが、二番煎じはいただけない。

 来年は猪年。今年よりいい年になるように、と思うが、これといって明るいネタが浮かばない。来週中に印刷屋にまわさねばならない。さてどうしたものか。

 

追伸;今年のネタ元は、渋谷天外の「私は喜劇を見たことがない」とした。

 

2018年11月03日

残日録34 公立図書館の団体貸出

 公立図書館の団体貸出について、YAHOO知恵袋でのベストアンサーは

「団体貸出は、子ども会や地域クラブなどに、多数の本を一括して管理を委託し、その団体の中で貸出をしてもらうものです。貸出期間は、3ヶ月から半年程度が多いでしょうか。団体貸出の図書には、その旨の印がついています。なお、図書館の蔵書検索では、団体貸出の図書はヒットしない図書館がほとんどです。」

とある。

 いくつかの図書館の団体貸出の案内を検索してみると、いろんな団体貸出が行われていることがわかる。期間は1カ月もあれば3カ月もある。団体貸出用図書に限るところもあれば、そうでないところもある。

 1965年あたりから、それまで行われていた「団体貸出」(図書館側が数十冊をセットに組み、団体に本を提供していた)ではなく、「個人貸出」を中心に館運営をするようになって、団体貸出は否定的に扱われるようになる。その後、地域文庫などから団体貸出を求められて、その対応として団体貸出用図書というものが生まれることになったりする。

 そんななか、このベストアンサーとは違って、個人と同様に図書館の本が利用できる団体貸出が行われるようになってきている。学校支援の団体貸出では、いろんな本が求められるようになった。

 団体貸出は「市内に所在する、家庭・地域文庫、おはなしボランティアグループ、会社、学校、施設、PTAなどを対象に」(豊中市)しているし、団体、役所の各課も対象になる。

 団体貸出はあまり論じられることがない。その貸出数も図書館評価の対象になるのだから、もっと論じられていい。その昔の「団体貸出」とは違っている。団体貸出といっても「巡回学級文庫」は昔の復活版のようでもある。統計としては区分する必要がある。

2018年10月30日

残日録33 寛容

 牧衷は「寛容思想の成立と発展」(上田仮説出版)で「ルールとしての寛容」を論じている。精神論や道徳的な寛容ではなく、政治的な寛容。

 

 俗にくだけますと、テーブルマナーになるんです。「食事の席では宗教と政治の話をしない。」ということになるんです。政治と宗教の話になると血を見ることになる。だからお互いに譲れないことはフタをすることにしたんです。お茶買いに譲れないことを認め合って、楽しく食事をするという大目的のためにそこはフタをしちゃおうということが、テーブルマナーです。

 ロックの『寛容論』にテーブルマナーが書かれているわけじゃない。そこからの知恵なんです。そこから発展して導かれたテーブルマナーが社会的文化基盤を作るんです。

 そうすると外交のほうでもそういうことが起こります。外交上の概念にAgree to Disagreeというへんてこりんな概念があるんです。Agreeは同意する。Disagreeは同意しない。不同意の同意、なんだこれは。 

 これが両方が引くに引けない主張をやってしまう。そうしたときに、この問題はお互いに引くに引けないんだ。テーブルマナーと同じ。だったら、それにフタをしてお互いに共通にもっと利益になることをやろうじゃないかという外交政策上の知恵です。

 

 小泉総裁以前の自民党は寛容度が高かった。総務会が機能していたのである。

 ウィキペディアによると「自由民主党総務会は、自由民主党において党大会・両院議員総会に次ぐ党の意思決定機関であり、常設機関としては最高意思決定機関である。定員は25名議長は総務会長が務める。」「総務会で可決された法案には「党議拘束がかからない」とする旨の文言がある場合を除いて、党議拘束がかかる慣例になっている。また、党則では総務会が多数決が明示されているものの、党内に亀裂を残さないために事前にオブザーバーにあたる総裁や幹事長など党幹部の同意を得て全会一致を原則とすることが慣例化されている。小泉純一郎が総裁に就任してからは、総務会による事前審査なしでの政府案提出や多数決による採決が行われることもないわけではない。」

 では、議題に反対する総務がいる場合にはどうするのか。

 ここで、日本的な知恵の見せどころである。

 この「場合は反対意見を述べた上で退席し形式的に全会一致としていることである。これにより次の効果がある。まず、総務を通じて党内各グループの了承を得なければ、予算案や包餡を提出できない点がある。次に総務を通じて各グループが反対意見を表明できることから、グループ間の決定的な亀裂を防ぐ効果がある。また総裁が党内の信任を失った場合、総務会を通じて党議拘束等で影響力を行使できなくなるため、両院議員総会によらず早期の退陣を促す効果がある。」

 西川伸一「自民党総務会とはなにか」(フラタニティ№2 2016.5)では


  堀内光雄元総務会長によれば、「総務会は自民党議員ならば誰でも室内に入って会議を傍聴できるし 、誰もが番外発言と称する意見を述べることができる」。とはいえ、傍聴を希望する議員はあらかじめ 総務会長にその胸を申し出るのが慣例になっている。また「番外発言」をする場合も、総務会長に事前 通告しておくことが一般的である。それがなければ、総務会長は「番外発言」を無視する。

  堀内は全会一致の慣例について、「自民党総務会は、多様な意見を持つ議員の意見を集約する場であ り、政権を支える与党の最高意思決定機関であるから、異論が続出しても最後には全会一致の原則を守 ってきた。これは、国民政党としての自民党が約四十ねんにわたって維持してきた良識であり、議員内 閣制のわが国の政治が安定していた基盤である。」としている。

 

 日本的な組織としての寛容と言えるのかもしれない。もちろん、これはムラ内の意思決定であって、決定的な対立関係の歴史から生まれた<寛容>ではないのだが。

 

2018年10月24日

残日録32 井上靖『星と祭』復刊プロジェクト

 井上靖の『星と祭』が角川文庫で長らく品切れになっている。湖国の、特に湖北の観音様がたくさん出ている小説である。渡岸寺の十一面観音像を世に知らしめた小説でもある。

 この小説を復刊しようということになって、井上家や角川書店とのやりとりをしていたが、ようやくゴーということになった。実行委員会に渡岸寺の国宝維持協賛会の会長にも加わっていただくことになった。以前は観光バスで参拝客が多く訪れてもいたが、最近はそうでもないようだった。

 旅行社とタイアップして湖北の観音巡りツアーなども、復刊プロジェクトと同時進行で進められたら、という意見も出ている。

 湖北の観音像の展覧会が数年前に東京で開かれたときには、たくさんの人が観ておられた。その後、上野に「BIWAKO NAGAHAMA 観音ハウス」ができた。この2~3年、東京に行く機会が少なくなって、まだ行けていない。 

 

2018年10月21日

残日録31 幼年文学

 このところ、幼年文学を読んでいる。

 「10歳の峠」感覚的な思考から抽象的・論理的な思考へと転回していく時間の児童文学。

 

 宮川健郎は「日本児童文学 1013.3-4 特集子どもが読むはじめての文学」で、音読する「声」をとりもどさなければならないのではないか。と書いている。

 

 読者層の中心を幼年から十代の子どもへと引きあげ、読んであげる「声」とわかれて書きことばとし て緻密化していく、そして、「文学」と主題を共有する。—―こうした現代児童文学のあり方そのもの が、幼年文学の危機をまねいた。幼年に向けて書かれた読み物も、それなりの数が出つづけているけれ ど、すでに評価の安定したものが、くりかえし読まれている。……もう行くところまで行ってしまった 現代児童文学は、音読する「声」をとりもどさなければならないのではないか。/それなら、いま、「 子どもたちの「聞くことのコップ」を満たす物語はあるだろうか。


 宮川の紹介している、石井睦美『すみれちゃん』、市川宣子『きのうの夜、おとうさんがおそく帰ったそのわけは……』、岡田淳『願いのかなうまがり角』などを読んだ。確かに「ト書き」といった説明文や、散文による情景描写がないもので、すみれちゃんの独り言だったり、おとうさんの語りであったりして、黙読していても、声が聞こえてくるような文体になっている。「聞くことのコップ」を満たそうとしてくれている。

 石井直人の「おそらく読書に2種類あって、読んだことを他人と共有する読書と、私だけが私有する読書がある。幼年文学は、「母と子の20分読書運動」のように、前者に属する。そして、後者こそが私を自立させるのだ。あるいは、私を孤独にするといってもよい。児童文学論は、従来、この2種類をあまり区別しないで読書一般を奨励すべきものとみなしてきたのではなかったか」という論を引いて、宮川は、「聞くことのコップ」を満たす読書と、「孤独」=「自立」につながる読書があることを指摘している。

 そういう視点で幼年文学をみると、どちらもが不足しているといってよいだろう。

 「10才の峠」には内語の発達がかかわっているのだろうと思うが、このあたりはどうつながっているのだろう。

 

 

 

2018年10月17日

残日録30 永井龍男『秋 その他』

 1970年代の短編集。あとがきに「もともと視野の広い男ではないが、年を重ねるにしたがって、身辺の瑣事を材料にしたものが多く、さればと申して私小説としても中途半端だ」と永井自身がかいているが、随筆集ではないところがおもしろい。随筆にしてしまえばいいものをと思うかもしれないが、そういうわけではない。表題になっている「秋」は、「月見座頭」という狂言を観たことと、娘の嫁ぎ先の義母の死と、瑞泉寺で月を肴に酒を呑むという3つの話が、絡みそうで絡まないのだが、虚実を混ぜて「秋」の気配を感じさせる一遍となっている。

 

 日曜日には、ほとんど来訪客はない。

 ベルが鳴るので玄関へでると、若い女性が口語訳の新しい聖書を備えぬかということだった。われわ れ年配のものには、昔ながらのものがよいと云って断る。玄関うちの竹叢から、今年竹がが高々と天を 突いている。今年はその数が多く、それぞれが細かい葉を解いてゆれるのは清々しい眺めだが、いずれ 古い竹を間引き、今年竹の丈も詰めなければならない。梅雨の重みで、すでにこちらへ弓なりにしなっ てきているのも数本ある。

 玄関から客を送り出した後、すぐ鍵をかけるのをいつも私はためらう。その音がすぐ客の耳にはいる のはなんとなく申し訳ない気がして、門を出るまで待つ習慣がついた。玄関のすぐ脇に、昨日から山梔 子が一花二花咲き出し、反対側を見上げれば、ざくろの紅い花も数えられる。私は戸口まで出て、外の 空気に触れた。         
「昨日今日」より

 

 読ませるなあ。

  

 

 

2018年10月14日

残日録29 「岩波新書創刊80年」

 「図書」の臨時増刊号「はじめての新書」がとどいた。岩波新書は日本で生まれた「はじめての新書」。これが創刊80年を迎えた。それを記念して、新書についてのエッセイや読書案内の特集が組まれたのだった。「はじめての岩波新書」という50点の書店フェアも展開されている。50点のうち、読んだ記憶があるのが24点だった。最近のものは、買ったが読んでいないものもある。

 新書を読み始めたのは高校2年生の頃で、最初は梅棹忠夫『知的生産の技術』あたりのようである。高3の3学期に丸善に行き、京大型カードを購入し、大学でノートがわりに使っていた。

 20~30歳代は、新書をたくさん読んだ。久野・鶴見『現代日本の思想』の影響で、「思想の科学」系の読み手となり、『思想の科学 別冊6 教育の解放』1972年4月号の、稲葉誠也「図書館を拠点とした文化活動—―中井正一の場合」と出会い、司書を目指すことになる。

 内田義彦『社会認識の歩み』も繰り返し読んだ1冊。自分の言葉を獲得するまでの、よき導き手であった。どこの業界でもありがちなことだろうが、自分の言葉で表現する、表現できる図書館員が少ない。私が書いた『〈本の世界〉の見せ方』は「独特の表現」と評されてもいるが、独特でない表現、というものは客観的な叙述であって、また別の世界である。

 出口治明氏がとりあげている、市井三郎『歴史の進歩とはなにか』からも多くを学んだ。

 

 どのような人種・民族・階層の一員として生まれるかは、各人の責任を問われる必要のない事柄である。また幼少時に、どのような文化パターンの鋳型にはめこめられるか――特定の言語で思考し、特定の社会感情を身に着け、多くの場合、特定の宗教に結びつくようにさえさせられること――は、これまた各人の責任を問う必要のない事柄なのだ。

 その種の事柄から人間がこうむる苦痛は、」これまでなんと巨大なものであったことか。そしてまもなく説明するように、今なお巨大なものでありつづけている。この事実そのものは、経験的認識の領域に属する。だからさっきのべた経験的(探求の)合理性を、完全に発揮しうる知的領域である。したがってわたしの提起したい価値理念のうち、いわば純粋に倫理的な部分は、その種の苦痛を減少させようという提案、それを減少させるためには、みずから苦痛を負う覚悟の人間が出現せねばならないという自覚をうながす部分(略)なのである。P142~3

 

 ただ単に苦痛一般をなくしようという理念は、みずからを実現するために必要な創造的苦闘をも(理論的に)否定することとなり、論理的自家撞着におちいってしまう。不条理な苦痛を軽減するためには、みずから創造的な苦痛をえらびとり、その苦痛をわが身にひき受ける人間の存在が不可欠なのである。P148 「一般」「不条理な」に強調の「ヽ」あり

 

 最近は書店で新刊の新書の目次を見ることはあっても、購入することはめったにない。図書館で借りればいいので、後回しになる。目を通しておきたいものが山積している。なのに図書館から南陀楼綾繁『蒐める人』を借りてきた。永井龍男『秋 その他』は期限が来たので再貸出しを願うことにする。

 

2018年10月01日

残日録28 『近江商人の哲学』

 山本昌人『近江商人の哲学――「たねや」に学ぶ商いの基本』(講談社現代新書 2018)は、たねやの社長の書いた本。

 

 世の中には「手作り信仰」というか、手作業のほうがおいしいという思い込みがある気がします。とんでもない。実は、和菓子は人間の手間が加われば加わるほどダメになっていきます。

 饅頭を作るとき、あんこを生地で包む作業を「包餡」といいます。テレビでよく目にするのは、職人が包餡したあと、手のひらの上で少しずつ回転させながら形を整えていく姿ですが、あれでは確実においしくなくなります。

 私は「現代の名工」をもらった菓子職人のもとで修業しましたが、このクラスになると、もう包餡した瞬間には完成している。ポンポンポンポンと、すごいスピードで、手にふれている時間がほとんどない。

 うちで出している「末広饅頭」は、黒糖を使った小さな饅頭です。法案から蒸して包装するところまでベルトコンベアで完全に自動化していますが、生地は流れるような液体なので、人間の手で包餡することは不可能です。

 もし手作業でやるとなったら、どうするか? まずは生地をもっと硬くする必要があります。さらに、生地がひっつかないよう作業台に粉を振り、手にも粉をまぶす。粉を加えることで、生地はさらに硬くなっていくわけです。末広饅頭の柔らかな触感は、絶対に機械でないtとできません。

 包餡後、生地がだれてこないうちに大急ぎで蒸して、熱いうちに包装する。こうすることで菌の繁殖を防ぐことができます。人間の手には、どんなに消毒しても菌がいます。だから、お菓子によって手作業だと二~三日しか日保ちしないものが、機械でつくると二週間もつようになる。その違いは、出荷時点の菌数によるのです。

 ……

 もちろん、手作業でないと無理なこともあります。それを機械化しようとするのは、間違っている。

 例えば薯蕷饅頭の法案は、いまだに一個一個、手作業でやっています。触った感触で蒸し時間を決める必要があるからです。固定された配合がなく、そのときどきで水や砂糖や芋の量を決める、非常に繊細な作業で、機械化には向きません。

 ……

 要は、手作業ですべき部分と、機械に任せたほうがいい部分を見極めるということ。うちでは、どちらで作るのがおいしいかを必ず比較検討してから、機械を導入するべきか判断しています。

 業界でも早くから機械化に取り組んでいるせいで、うちには一号機が多い。バームクーヘンを焼く機械もそうですし、ふくみ天平を作る機会もそう。「五六あわせ」という、ところてんのように押し出すプラスチック容器にゼリーを詰めた商品があるのですが、これを作る機械も一号機です。

 一号機を作るにはお金がいります。でも、機械メーカーとしては、うちがヒット商品を出せば、その機械が同業他社に売れるので、非常に協力的です。私たちもいろんなことが試せる。「機械で作るほうが本当においしくなるのか」という実験にも協力いただいています。

 (P50~54)

 

 読むとあたりまえのことのように思うが、たしかに「手作り信仰」に陥りがちなところがあって、「手打ち」蕎麦や饂飩に引き付けられて、不ぞろいの蕎麦をありがたがる、といった光景に出合うこともある。「仮説―実験」の論理が随所にある一冊だった。

 「ラ コリーナ近江八幡」について何も知らなかった。平日でも人でいっぱいなので敬遠していたのだが、甘いもの好きとは違った視点で再訪したくなった。

 

 

2018年09月23日

残日録27 『こないだ』

 昨日、梅田で7月の研究会の全国大会の実行委員会のメンバーで打ち上げをした。その行き返りの車中で、山田稔『こないだ』(編集工房ノア.2018)を読んだ。このところ、幼年文学を店で続けて読んでいるのだが、気分転換したくなったのだ。「書く習慣」が印象に残った。「VIKING」の編集人だった黒田徹が「いい作品の条件」としてつぎの四つ挙げたことがある。とあった。

 

 一、作者が「書きたい」と思って書いたもの。

 二、いやしさを感じさせないもの。

 三、自分の言葉で書いたもの。

 四、作者の精神が隠れていないもの。

 これは富士(正晴―明定)流を受け継いでいるとかんがえてよいだろう。

 二の「いやらしさ」には時流への迎合、読者へのおもねりのほかに露な自己顕示も含まれるだろう。

 さらにもう一つ、「視点の低さ」ということがある。

 正義や権威、あるいは教養・学識の高みから他を見下ろし、裁き、啓蒙しようとする、これは三に」ひっかかるのか。

 思想や理念から見捨てられ、地べたに転がる日常生活の断片、「くだらないもの」こそが散文芸術の貴重な糧となる。

 文章は公的なものと私的なもののせめぎ合いのなかで書かれる。文章を書くもっとも深い動機である詩的なもの(右に挙げた条件の一に当たる)、「おそらく人の注意を惹こうとして赤ん坊が泣くのと同じ本能」(オーウェル)に誓いこの私的な動機を、文章表現のなかで殺さずにいかに保ちつづけるか、これがもっとも大切なことかもしれない。(p137-8)

 

 この次に電車にのるときは、どんな本に出合えるのか。読んでおきたい本がまだまだある。女性が書いた官能小説と百合小説について意見を求められたが、返事ができていない。これは機会をつくって集中的に読破するしかない。

 昨日の会ではBLの木原音瀬(このはらなりせ)の話が出たので、鳩村衣杏の職域ものを、女性の社会進出という切り口で紹介した。

2018年09月16日

残日録26 日本歴史入門講座+追記

 9月13日から毎木曜日午前に「日本歴史入門」を6回講座として開催し、講師をつとめる。会場は長浜市立木之本まちづくりセンターで、江北図書館と木之本まちづくりセンターの共催によるもの。二十数人の受講申し込みがあった。まずは出足好調。

 「日本歴史入門」は板倉聖宣さんが作成した仮説実験授業の社会科の授業書。6回で終わらなければ、来春に続きを開講する予定。終わったら、他の授業書に映ることにしている。「日本の戦争の歴史」「靖国神社」「差別と迷信」など。「続」「続々」「また」「またまた」と「パイプのけむり」のように続くと嬉しいのですが。

 来週から大学の後期が始まり、金曜日は非常勤講師の日となる。科目は「児童サービス論A・B」(2単位)と「図書館情報資源特論」(1単位)。

 月1回、長浜西中学校の土曜学習会のスタッフ。月二回の土曜日の陶芸教室もあり、土曜日も充実。

 

追伸

 9月13日から10月18日までの毎木曜日に木之本まちづくりセンターでまちづくりセンターと共催で「講座日本歴史入門」を6回講座として開催しました。(講師;明定)
 奈良時代の人口はどれくらいあったと予想しますか。「ア 6000万人」「イ 600万人」「ウ 60万人」「エ 6万人」の選択肢のなかから選びます。正解は、研究者の研究結果や統計でしめされます。

 1721年の日本の人口は、という問題が続きます。歴史人口学的な視点で歴史をみていこうというのです。江戸時代から平成までの人口はどう変化したのか、を学びました。江戸時代のイメージが新しくなります。「お金の歴史」、これは古銭の値段を見ながら、「日本の戦争の歴史」については戦死者の数で学びました。受講者27人、延べ人数118人でした。
 予想が当たったのが2人だけ、といった問題もあり、多くの参加者が何となく思っていた歴史のイメージが、客観的な統計や数字で間違っていたことを体験していただきました。
 来年4月中旬より5回講座で「続日本歴史入門講座」を予定しています。

 

追記;長浜市高月まちづくりセンターで活動している高月史談会から「日本歴史入門」講座の依頼があり、2019年2月~3月に開催することになりました。

 

2018年09月12日

残日録25 「ボーと生きてんじゃねえよ!!」

 「チコちゃんに叱られる!」チコちゃんの質問に答えられないと「ボーと生きてんじゃねえよ!」と叱られる。正解した場合、一人の時は「つまんねー奴だなぁ」複数いると「つまんねーんだよ お前らは!!」そして正解に近い場合は「やりにくいなー」

 「ボーと生きてんじゃねえよ!」これを図書館業界人に向けて言いたい気分になることがある。だがしかし、そう言いたくなる状況になることに、お前は加担していたではないか、と言われれば、反論する余地はない。という前振りをしておいて、話を進めることにする。

 私宛の先輩からのハガキがでてきた。1991年1月より私が準備室長としてかかわった高月町立図書館は1993年4月に開館した。その後、20年間、館長として勤めることになった。そこを定年退職して、大学教員になった春に届いたハガキである。

 

 4月から環境が変わり、精神的には誰にも拘束されず、気分転換ができたのではないかと思います。君 が「みんなの図書館」で『市民の図書館』を批判したことにより、図書館人として、いろんな人達にマイナスイメージを持たれているのをご存知ですか。老婆心ながら大学教授として、余り過激な発言は控えて、学生達のことを中心に考え、彼らのためにご尽力ください。

 全く余計なことかもしれませんが、君に誰も面と向かって、私のように言わないでしょうから・・・・・・。

 失礼しました。お元気でご活躍ください。

 

とあった。こういうことを言っていただけるのは、有難いことである。ただ、返事は書かなかった。

 「批判したことにより」という部分に引っかかるところがあって、そのことについて私信で書く必要はないと思った。「『市民の図書館』再読」という拙稿は、歴史的に位置付けた内容であって、批判しているのではない。「み」2018年6月号に書いた「図問研の大会基調報告案にみる資料提供:資料提供について考えた(その4)」へと継続する問題意識のもとの発端のような位置にある。

 「図書館人として、いろんな人達にマイナスイメージを持たれているのをご存知ですか」については、何となく感じていることではあった。

 現役の時に、日本図書館協会の常務理事としてNHKからの取材に応じたことがあった。クローズアップ現代が「無料貸本屋論争―複本問題」のテーマの時である。2時間ほどインタビューされた。カメラマンがディレクターに、右から写すのか、左から写すのかを聞いた。左からと指示をだした。画面の左側に中央に向けて顏が映ることになるので、これは悪役だと受け取った。それからは、勝手に都合よくカットされないように、だらだらと続くようにしゃべった。ベテランのカメラマンは見抜いていたが、若いディレクターは気付かなかったか、気づいていたが経験不足で、うまく取材できなかったのだろう。12過ぎにタイムオーバーであった。

 幸いなことに、クローズアップ現代では取り上げられなかった。ほっとしていたが、後日、Iさんから「明定は取材を受けたのに使われなかった、と小馬鹿にしている奴が関西にいる。使われないのも、使わせないのもわかっていないのがいるぞ」と教えられた。そんなことを吹聴している業界人がいることを知った。

 私のことを嘲弄することで、前川ムラの住民として「ボーと生きてんじゃねえよ!」、と当時なら言ってみたい気がする。

 前出のハガキにもどると、「大学教授として、学生達のことを中心に考え、彼らのために」尽力する,

しようとしたが、「余り過激な発言は控えて」いたかどうかは、評価が分かれるところだろう。すこぶる平常心からの発信であったように思ってはいるのだが。

2018年09月08日

残日録24 月刊誌「噂」の井上靖 

 梶山季之が責任編集した月刊誌「噂」1973年10月号の表紙の特集名は「〝文壇大御所”の内幕」。そこに井上靖も登場する。他には、佐藤晴夫、川端康成、丹羽文雄、舟橋聖一。目次の特集名は「文壇大御所になるための条件」

 

井上靖  マスコミから財界までを手中にして

 文壇人としての井上靖の歩みを、点で結ぶと次のようになる。

① 文壇へのデビュー作「猟銃」を、尊敬する佐藤晴夫氏宅にとどける。佐藤春夫に認められ、多少の回り道があったが『文学界』二十四年十月号に掲載。十二月号の、「闘牛」で芥川賞受賞。

② 舟橋聖一氏主宰の「キアラの会」(前出)同人になる。

③ 〝丹羽ゴルフ学校〟入学。(これまでも丹羽氏のことは編集者と話すときも「丹羽先生」と呼んでいた〉

④ 日本ペンクラブの理事になる。高見順氏が病気がちなので、その代役として、伊藤整氏とともに川端康成会長を助ける。

 

 ある文壇誌の編集者に言わせると、

「ほんとうに、うまい具合になっていると思うな。歩き方にムダがひとつもないんだ。しかも、作家としてはもちろん、人物としてもひとかどのものがある。どこへ行っても点数が高いんだ。点数が上がったからといってけっして出しゃばらない。」

 〈略〉

 井上氏の影響力が、財界首脳にまで及んでいることも見逃せない。川端氏亡きあと、財界から金をかき集められるのは、文壇ではこの人以外にいない。ただし、いかにも文壇人らしく、そんな能力があることは、素振りにも見せない。

 芥川賞受賞が二十四年、芸術院入りが三十九年、「先生」と呼んだ丹羽文雄氏より一年早い。いまや、文壇の〝新大御所〟として、何ものにも動じるふうがない。この秘密はどこから来るのか。

 ある編集者は、次のように解説する。

「新聞記者をやっていたから、文壇とかジャーナリズムの機能をよく呑み込んでいたんですね。作品の発表の仕方を見ても、それがわかる。文芸評論家ふうな〝孤独な男のなになに〟だどという言い方を抜きにすれば、こういうことです。まず「黒い蝶」「射程」「氷壁」などの通俗小説と「戦国無頼」「風林火山」などの大衆小説で、時間をかせぎ、大衆的人気をあおった。そこで余裕ができるとこんどは「敦煌」「楼蘭」で、芸術化への小手調べをする。その手応えがあったので、あとは、つとめて通俗性を避けて、芸術性を強調した。その芸術性については、問題があるはずなのですが、いまは、論議するには、遠くへ行きすぎています。おそらくこれから、まだまだ、変わると思いますよ。」

 

 そう、まだまだ変わっていきますよね。

 原爆や空襲で、弔われるべき人も弔うべき人も亡くなった時、その死は「殯」の時間すら与えられない。そのことを、琵琶湖で水死した遺体が見つからない時間をどう殯していくのか、という物語に転化させて経糸とし、民衆の信仰の在り様を横糸にした物語が『星と祭』だろうと読んだ。

 

2018年08月27日

残日録23 如是閑「パラドックス」から

 長谷川如是閑等の創刊による「大正から昭和初期の高級評論雑誌」(世界大百科事典第2版)の「我等」の大正13年12月号を物置から発掘。

 如是閑「パラドックス」から

「徳行」は屁と同じだ、大抵は高い音を立てゝそれをする。したものだけが馬鹿にいゝ気持ちで、他はたゞ「臭い」と感ずるだけのことが多い。

「孝行」は百日咳のたぐひだ。それをしている子供を見ると、堪らなく可哀相になる。自分の子が百日咳をせくのを喜ぶ親でなければ、つゞけざまに孝行する子供を嬉しがれまい。

「勇気」は糞尿だ。或る場合には同うして出さぬ譯には行かぬものだが、飛汁を浴びせられたものは災難だ。

「果断」とは外科医の勇気のことだ。一刀両断! 但し痛い思ひをするのは他人だ。

「信仰」とは「間抜け」の一種だ。だまされたことを憤るのが間抜けで、だまされたことを感謝するのが信仰だ。

「慈善」はカビの一種だ。それは食卓の余り物に咲く花だ。

2018年08月26日

残日録22 健一居士

 「ビックリハウス」という面白雑誌があった(1975~1985)。鬱気味で気分がすぐれないので、2度、投稿した。「エンピツ賞」は4作ほどまとめて送ったが、どれも予選敗退。いいところまでいったものは、たぶん「エピクロスの空隙」などという難解な言葉のせいで入選落ち。

 「3ワーズ・コント」のほうは最優秀賞、優秀賞の次、準優秀賞。「きんとん・ごまめ・たずくり」を」入れ込んでコントをつくる。

 

本当のような話

        健一居士

 国境の長いトンネルを通らなければ話がはじま

らないわけではなく、トンネルを出たとしてもそ

こが雪国であるとはかぎらない。

 そういうことはどこからはじめてもよいこと

で、金東号に乗って8時間たつというのにまだ沼

津あたりというのも、東京が江戸と呼ばれていた

頃の面影を残している明治のおわりの話だからと

いうことになる。

 窓のそとは曇天で富士も見えず、どこにでもあ

るという風景である。それを飽かずに眺めている

男が丹羽という名前で、越後、豆崎に産というこ

とにする。

 となりに女がすわっている。とりたてて名前を

つけるほどの役割を演ずるわけではない。女が腹

痛をおこした時、丹羽が持っていたヅクリンをの

ませただけのことである。ヅクリンは当世流行の

和漢薬で丹羽はこれを打って生計をたてていた。

 何の表向きの根拠もなしに頭に浮んだのが事の

発端といえなくもない。――

兵庫県加古川市西神吉町岸438明定義人(24歳)

 

と掲載されている。

 

選評ノート●多彩な表現形式が現われて、なんと

もその頂点をみきわめることは大難業だ。一体何が

良いのかどうか、もうさっぱりわからないのれあ

った。ドドメーン! というとこで、芥川賞を

選ぶのもたいでしょうねってのもわかるのだ。

……健一居士君のはパロディックで良かった。

ところで1ト月にすうひゃくの同じテーマを見て

いると、よっぽど斬新じゃあないと気にとまらな

い。かといって斬新さだけでもペケになるのだ。

 

当時は個人情報について無意識だった。

 

2018年08月21日

残日録21 友人近況

 8月14日に、大学で同期の友人が訪ねてきた。今日、メールの返礼がとどいた。

 彼は3年生から教職課程をとる動機を(明定は)与えておいて、さっさと自分は図書館業界にいってしまった。というのだが、私は図書館志望だったので、そもそも教員になるつもりはなかったのだ。ただ、教育には関心があり、「作文と教育」を購読したり、仮説実験授業の研究会に参加したりはしていた。それは、認識論につながることであり、大衆としての知の形成、といったあたりのことだった。

 彼は再任用5年間を終えて、4月から無職年金生活者だったが、最近、マンションの管理人になったそうだ。これまで、気ままな仕事をしてきたが、気ままでない時間を送ってきた人の仕事と気持ちを体験したいのだそうだ。

 それも人としていい選択だと思う。

 退職後であれ、現役世代であれ、BI(ベーシックインカム)導入後であれ、これからは多様な選択肢が生まれ、求められ、また、強いられることになるのだろう、と予想している。いままでも、だったかも知れない。

 「ぼーっと生きてんじゃないよ!」などとお上から言われたくない。

 

2018年08月20日

残日録20 手土産

 図書館界の大先輩である元八日市市立図書館長の西田博志さん宅に、米原の北新豆腐店の豆腐を持って行った。去年の秋は、MIHOミュージアムの豆腐だったが、このところ忙しくてそうはいかない。思い出したように1~2年に一度「豆腐」なのだ。お留守のこともあって、そういう時はどこかに嫁に出す。

 北新豆腐店は公式サイトで通販もしているくらい評判店だ。

 MIHOミュージアムのほうも有名で、姫路ナンバーの車に6丁運び込まれたときは驚いた。名古屋にあった西洋骨董を扱う西山画廊の西山さんから教えられた。ミュージアムの展示品に圧倒されてふらふらになったけれど、豆腐でほっと一息つけた、とのことだった。

 西田宅には豆腐だが、あちこち出かけるときの名刺代わりの手土産は、長浜市西浅井町大浦のピーナツ煎餅「丸小船」と決めている。出版社や事務所をのぞく場合、大した用もないのに大げさにアポをとることもあるまい、と思う。社長が留守でも、訪ねたことがわかればいいのだから、「丸子船」で用が足りる。古書店を始めたのでなかなか来れないだろうけど、ピーナツ煎餅は来たがっているよ、というお声もいただいている。

 実家に帰るときは、「丸子船」+つるやのラスク+元祖堅ボーロ本舗のボーロ最中「宝の露」というラインナップ。

2018年08月18日

残日録19 読み聞かせ講座

 今日から金曜日の午後の3日間、読み聞かせの講座を木之本の江北図書館で行います。第1回は発声練習と絵本の読み方、あと2回が実際に絵本を読んでの講習です。

 読み聞かせの講座は、あちこちでやってきました。

 聞かされる側の子どもが犠牲にならないように、と注意を喚起します。朝から「暗い本」を読んではいけない、ということも大切なことです。

 また読む本も「一つの花」「すみれ島」「かわいそうなぞう」といった寓話は、8月だからということで読みたい人がいるかもしれないが、お勧めしないことをさりげなく伝えます。

 ずいぶん前のことですが、滋賀県教育委員会の教師のための読み聞かせ講座の立ち上げにかかわったことがあります。その時の担当者の子どもが俳優の林遣都さんと同じ学校の同級生で、林さんの卒業式での答辞が素晴らしく、滂沱したことを熱意をもって語ってくれたことが記憶に残っています。

2018年08月17日

残日録18 ミサイル防衛

 雑誌「k-peace 8月号」が届いた。「婦人新報」の改名した雑誌。編集兼発行人は「公財 日本キリスト教婦人矯風会」で1886年設立という歴史ある団体。今月号は「〝安全保障のジレンマ”を越えて」。孫崎享(ウケル)氏の講演会の要旨が掲載されている。「平和を希求する方々の弱点は軍事の勉強をしていないことです。ゆえに「日本でも軍隊で防衛をすべき、そのために改憲をすべき」という声に有効な反論ができない」とある。前田哲男のほかに思いうかばない。孫崎氏は、元外務省国際情報局長、元防衛大学校教授、東アジア共同体研究所所長。

 ミサイル防衛ができない理由として、次の4点を挙げている。

◆弾道ミサイルは、大気圏外で秒速2000mから3000m、日本への落下時もほぼそれくらいと推定されている超高速。他方これを遊撃するPAC3の速度はマッハ5、秒速1800mで、迎撃するほうが遅い

◆北朝鮮は日本へ攻撃できるノドンを200から300実戦配備していると言われる。中国は、日本を狙える短距離弾道ミサイル・中距離弾道ミサイルを1200以上配備していると言われる。これらの配備場所を日本政府は把握できていない。かつ、北朝鮮・中国が日本の政治・経済・社会の中心地を狙うとして、その着弾地を1m以内の精度で把握できなければ遊撃するための軌道計算ができないが、そんなことは不可能である。

 それでも「ミサイル防衛成功」の報道があるではないか、と思われますか? 成功するのは、軍事基地の核弾頭へのピンポイント攻撃に対する防衛だけ。広範囲におよぶ我々の生活圏を守れはしません。

◆300㎞以上の上空を飛ぶ弾道ミサイルを撃墜するのは不可能

◆時々、敵が攻撃する以前に相手国ミサイルを破壊してしまえという敵基地攻撃論が述べられるが、北朝鮮の、日本を攻撃できるノドン200から300発の配備場所をも把握していないでどう攻撃できるのか。数発破壊できても残りで報復攻撃される

 

 こういうことをマスコミは取りあげないなあ。

 ではどうしたらよいのか。

 「この(欧州)の例にならい、東アジアでも「東アジア共同体」を模索し、「憎しみ合い」から「協力の果実を認識し合う」体制をとる時です。「協力することによって武力紛争を回避しよう」という観念は、異なる政治体制間でも十分に成立するのですから。」

 

2018年08月12日

残日録17 季刊フラタニティ 届く

 村岡到氏が政治グループ稲妻(1980~1996年)を主宰していた初期のころに、機関誌「稲妻」と出会い、購読者となった。その後も「カオスとロゴス」「もうひとつの世界へ」「プランB」「フラタニティ」と氏の関わる雑誌の購読を続けている。「季刊フラタニティ №11 2018.8」が届いた。

 私は政治と直接かかわることをしない。村岡氏の政治姿勢に賛同することはないが、氏の考えの来し方と現在の状況への発言に学ぶところがあるので、読み続けている。

 また寄せられた論考からも、怠惰な私は多くのことを学んでいる。雑誌「選択」の国際問題の記事が優れていること、「内閣法制局」に注目すること、などなど。

 10数年前だが、京都に来られて「ベーシックインカム」について話されたことがあり、その時、1度、お会いした。

 最新号の特集は「創価学会と公明党はどうなっているか」です。10号「マルクス生誕200年」9号「労働組合の現状と課題」8号「宗教をどのように理解するか」といった特集が並んでいる。次号は「環境問題と地球の危機」だそうです。

 編集後記に「七月二日、「笑点」で良く知られていた桂歌丸さんが亡くなった。私も「笑点」ファンだ。横浜の遊郭で育った歌丸さんは、戦争体験をベースに落語一筋の人生を全うして、地元の街の人たちに慕われていた。円楽さんは、「反権力であることを貫け」と教えられたという。翌日、5000人が追悼に訪れた。」とあり。

 遊郭というと、山口瞳さんの「血族」も思い出した。「戦後」が生き永らえたことと、「戦後」が継承されるのか、ということ、そんなことが気になる。

 今日は児童図書館研究会の関係者が来店。赤ワインで歓迎。

2018年08月06日

残日録16 業界人のお葬式と私

 図書館業界の中堅の人がご来店、久しぶりに雑談。私は業界の人との個人的なお付き合いはあまりないのだが、個人的なところでの交流を活発にしているとの印象を与えている。そのことは重重承知している。そのことが誤解をまねくことにもなる。

 随分前のことになるが、著名な研究者のお葬式に出席しなかったことを咎められたことがあった。個人的なお付き合いはなかったにせよ、業界の端っこにいる者として当然のことと受け止められていた。だがしかし、である。ご逝去されたことを知らなかったのである。どなたからも知らせていただけなかったのは、不徳のいたすところであるのかも知れないが、連絡のあった人は、私が知っていて当然と受け止めていたのだろう。咎めてくださった方は納得してくださったが、30歳代前半に病死されたAさんの時も来ていなかったじゃあないか、と言われた。私はAさんと研究会で数回、話したことはあったが、親しいというほどのことはなかったので、その時も、後で知ったわけだった。知らせていただいていても、出席しなかったと思う。これは、知らなかったので、と答えた。そう親しくはなかった、とは言わなかった。

 冠婚葬祭というのはやっかいなものである。

 近年といってももう10年近く前になるが、Bさんが突然死をしたとき、数少ない親しくしていた業界人からBさんの死を滋賀県内の誰にお知らせしたらいいだろう、という電話があった。先ずは私だろうと言ったら、どうして知らないの、という言葉が返ってきた。

 そんなことを話題にもした。

 あの人とは親しいのか、などと話を広げてくださった。業界人のなかには、私とさも親し気な雰囲気をまき散らす御仁もいて、戸惑うこともある。

 

2018年08月04日

残日録15 井上靖研究会

 昨日7/28は金沢で井上靖研究会があったので出席した。何志勇(大連外国語大学副教授)「『天平の甍』の誤訳と誤読―楼適夷訳を例に」と小田島本有(釧路鉱業高等専門学校教授)「「あすなろう」「三ノ宮炎上」から『あすなろ物語』へ」の日本の発表があった。

 井上靖の散文詩について小説との関係を論じたものはあるが、詩そのものについての論考は多くない。「句読点」に着目して、詩の「入子型」構造について論じることができないか、と思っていて、詩をデータベース化している。文字化けを修正したので、データを井上靖のご長男の修一氏に送付することにした。

 修一氏のつれあい様に久しぶりにお会いできた。まだ、高月図書館に在籍しているものと思っていたとのことで、驚かれておられた。

 井上靖記念文化財団発行の「伝書鳩」の来年号にエッセイを書くことになった。小説『星と祭』について、「殯(もがり)」と「弔い」、そして民衆の信仰といったあたりのことになるだろう。初期の号に何度か書かせていただいていたことを思い出した。

2018年07月29日

残日録14 現代児童文学と児童サービス

「現代児童文学と児童サービス」と題して児図研の会報に投降したのが2026年。以下のとおり。 

0 はじめに
 私は「図書館評論 №57(2016)」で「子どもへのサービスのコレクション形成の課題」を発表している。副題に「児童文学論・児童サービスにおける「作家論」の消失という地点から」をつけ、児童文学について論じながら、現場からも「現代児童文学研究」の知見からも「子ども観」「発達観」を、学ぶことなく、児童サービスが漫然と行われていると指摘している。
 ここでは、児童サービスが対象にしてきた現代児童文学について考察する。

一 1980年代に児童文学は「崩壊」または「越境」した
 野上曉は『越境する児童文学』(2009 長崎出版)のなかで「崩壊する児童文学概念」について、森絵都『カラフル』(1998)を紹介して、次のように結論づけている。

  この作品を最初に読んだとき、マンガと張り合って進化を遂げたジュ ニア小説の持つエンターテイメント性と、児童文学を母体にして自在に 変容してきた思春期文学の豊かな可能性をシンボリックに物語っている ように思えた。事実この作品は、その後に文庫化されて、子どもたちば かりでなく成人読者にもよく読まれている。つまり、既存の児童文学概 念を拡張しながら、八〇年代後半から九〇年代後半までのほぼ一〇年の あいだに、子どもの文学は変容を重ね、児童文学という衣装(カテゴリ ー)に変わる新たな装いを必要とし始めたのだろう。そこにYAという 市場的なコードネームが被ってきた。(同書p107)

 前掲論文で宮川健郎『現代児童文学の語るもの』(NHK出版 1996)の「1959年にはじまった、子どもの文学のひとつの時代がおわろうとしているのかもしれない」を引用したのだが、それをもう少し先にすすめた論と言える。
 「日本児童文学」2016年11・12月号でも「現代児童文学の終焉とその未来」が取り上げられている。座談会で佐藤宗子は、児童文学の側にあって、成長物語ではなくなった児童文学について、

  まず幼年向けは別枠として残るだろう。それより上の読者層、すなわ ち小学校高学年以上向け、あるいはヤングアダルトといったあたりを、 「一般文学」と分けて考えようとすることに、そもそもどういう意味、 価値があるかということ自体を、もう一度きちんと考えることが、必要 なのではないでしょうか。

と発言している。

金井美恵子は「ものがたりなんかいくらでも本の中にあった」(文藝 1996 春号)で
  児童文学のつまらなさというのは、読者を子どもに限定しちゃって  いるからでしょう。子どもに理解出来ないことが書いてあってもいいん ですよ。後で読み返せばいいんだから。読者を子どもに限定していない んだなということが大人になってわかったものが、読み返してみておも しろかったということなんじゃないのかな。ハックルベリーなんて、少 年小説とは言えないし、そもそも、ハックが「子ども」的じゃないです ものね。

  子どもに何がいちばんないかというと、過去ですよ。過去というもの が子どもはないでしょう。過去の時間というのが。だから、子ども時代 を回顧するという姿勢の中に子どもが出てくると、時間のずれをどう処 理するかという問題が解決されていないものが多いわけ。要するに子ど もというのは、過去の時間をもっていなくて、現在の中で生きていて、 現在の時間も過去というものも全部未来に投影されているものですよね 。わずかにある過去というのが、現在という未来というか、全部向こう 側に預けられちゃっている時間の中で生きている存在でしょう。『ノン ちゃん雲にのる』は子どもが「時間」というものを初めて意識する瞬間 が出て来るでしょう。あそこがなまなましいんですね。

と、児童文学の成立それ自体に疑問を投げかけている。
 境界がなくなった、または曖昧になった児童文学を、児童サービスはどうとりあつかうのか、が問われるところである。

二 「大人へと成長しなければならないわけでもない」時代
 ひこ・田中は『ふしぎなふしぎな子どもの物語―なぜ成長を描かなくなったのか?』(光文社新書 2011)で、

  成熟した大人、成熟しない大人、大人にならないままの大人、大人を 放棄した人。そうした様々な道筋が、子どもが育とうとする先に見える 社会こそ、本当の近代社会だと考えていいのではないか?

  子どもの物語の変化は、近代が元々目指している社会と、これまで正 しいと信じられてきた社会との間に生じてきたズレそのものに忠実に寄 り添っています。
 こう言い換えてもいいでしょう。大人社会の要請と子ども自身の欲望と の間でバランスをとりながら描かれてきた子どもの物語は、相変わらず 大人としてだけ振る舞っている大人社会から見れば奇妙でも、子どもの 側から見ればこうしか見えない、こう考えるしかない大人と子どもの差 異が減少した世界を正直に描いているのです。

と現代児童文学が直面している状況の背景を評している。
 漫然と所与のものとして受け取ってきた現代児童文学の内部において、その存在自体が問われてきているのである。
 現代児童文学の終焉について、児童サービスの場でも論じられることが求められている。そのことに児図研は敏感であってほしい。

三 おわりに
 児童サービスが対象にするフィクションは、(佐藤と通じるところであるが)「乳幼児・児童向け絵本」と「幼年文学」、「1980年代あたりまでの児童文学(理論社の大長編シリーズや福音館の「日曜文庫」などは除く)」ではないか。80年代以降の児童文学については、YAで括るか一般書扱いにするのがよいのではないか、と私は考えている。
 ノンフィクションについては、主題のある絵本も含めての「混配」が妥当だという立ち位置にある。

児童図書館研究会会報 2016・6月号

 金井美恵子の「過去という時間」が子どもにはない、という指摘を読んだときに、そんなものかな、という印象であったが、幼年文学を考えるとき、大きなヒントとなった。森山京『きいろいばけつ』の主人公のキツネは「一週間」という過去を獲得する物語であった。

2018年07月25日

残日録13 児童図書館研究会全国学習会打ち合わせ

 来年、1月27~28日の児童図書館研究会全国学習会の分科会で、子どもたちの今と幼年文学」というテーマで話すことになっている。今春、神戸で話した「10歳の峠を乗り越える読書」を軸にして、幼年文学を論じることにする予定。今日はその打ち合わせでした。この学習会は、滋賀支部が立案している。「乳幼児サービス」「絵本から幼年文学へ」「公共図書館と学校図書館の連携」「YAサービス」「科学の本と科学遊び」という5つの分科会と小澤俊夫氏の基調講演『昔話が発するメッセージ』。

 

2018年07月24日

残日録12 「民主主義を歪めるもの」

 60年安保の時、当時の全学連主流派幹部と右翼田中清玄との結びつきがありその後そのことが暴露された。「田中清玄他、二、三の大口と、全学連に同情的な学者、評論家、芸能人等からの〝金”(東京)で一千万円程を集め、こうして集まった金を学生の動員費用の他、主流派幹部の生活費、遊興費にあてたそうである。」ぐらいのことを知識として知っている人はどれくらいいるのだろうか。

 これについて何かを書こうというのではない。(吉本隆明がこれについて発言している。『唐牛健太郎追想集』所収)

 こういう事態にあって、江沢洋が「民主主義を歪めるもの」を書いている。(「構造改革16」統一社会主義同盟 1963.5)そこから一部を引いておきたい。

 「私はむろん、旧共産主義者同盟(ブント)に結集していた人々が、皆このような腐敗分子だったとは思わないし、またブントによって指導された全学連主流派の闘争の積極的な側面が、これによって捨象されてはならないと考える。思想的には我々と根本的に異質な点を有しながらも、彼らなりに真剣に大衆運動に挺身してきた誠実なブント系の活動家も、私は多く識っている。しかし共産主義者同盟という一つの組織内であのような事態が発生し、放置されていた背景には、たんに直接関与していた幹部の品性として片づけられる以上のものが存在していた事は、当然であろう。私は彼らの組織にあってこのような腐敗を醸成した主要な思想的基盤として、民主主義に対する極めて一面的な把握とそこから生ずる民主主義の軽視或いはヴィジョンの貧困があったと考える。ブルジョア民主主義―→ブルジョア階級支配の道具、プロレタリア民主主義―→プロレタリア階級支配の道具とするに止まる図式的理解の不毛性と、両者の間の明確な断絶が彼らには濃厚に存在していた。そこからは、憲法に保障された民主主義も基本的には、独占側の侵害に対する抵抗闘争を通じてのプチブル急進主義に傾斜した階級闘争を発現させるためのものとしてしか評価されず、ましてや、大衆の中にみなぎっている一般民主主義の要求をくみとって、民主主義の新しいヴィジョンとその定着を、大衆闘争の中で獲得していく契機は捨象されてしまうのである。道具、形式としてしか評価され得ぬ民主主義の理解は自己の政策、論理を大衆運動において貫徹しようとする時、もしそれが邪魔ならば、臆面もなく民主主義を破棄してはばからぬ態度と結びつく。三十五年三月の全学連目黒大会等において、田中清玄の公言する如く、反主流派排除のため、田中配下の右翼の暴力を借りて恥じなかった事などその一端である。旧共産主義者同盟の衣鉢をつぐ社学同の諸君が、昨年十二月、東大駒場自治会の選挙で票のすりかえを行ったため、その後駒場では〝執行部不在”という驚くべき自治会民主主義の形骸化を来している状況は、まさに彼らが、このような意味でブントの思想的な負の遺産を清算していないことを示しているものであろう。社学同の諸君の真摯な自己批判を願うものである。」(p56-57)

 「構造改革 16」は1980年代に古書店でたまたま入手したものである。江沢洋の「民主主義の新しいヴィジョンとその定着」がどのあたりにあるのかは不明だが、残日録11の渡辺の(三権分立は)「単に国家や政府だけではなくて、より小さな組織でも一般的に言えることである」につながっている、と読める。

 

2018年07月21日

残日録11 三権分立論

 「たのしい授業」7月号に「民主主義」についての記事があった。雑誌の性格から、滝村隆一の民主主義論が紹介されていないのはいたしかたがないことではある。ここで少し紹介する。

 雑誌「道」1981-6が「滝村国家論の展開」を特集していて、渡辺一衛「滝村国家論の展開―三権分立論を中心に―」が掲載されている。後の2003年に、滝村隆一の大著『国家論大綱 第一巻』のなかで展開される「三権分立論」の解説として読むことができる。

 「彼(滝村)の議論によると近代ブルジョア政治学の内部においても、三権分立論に対していろいろな異論や解釈の違いがあるようである。彼はこの〈三権分立〉の意味を実体的な区別、あるいは機能的な区別ではなくて、理念的な区別であるととらえている。そしてこの〈司法〉〈執行〉〈立法〉という三権の区別の中で、〈司法権〉にたいして特別な優位性を与えるという点に、彼の国家論の現在の独自な展開があると見ることができるだろう。(p13下)」

とある。渡辺自身の滝村三権分立論の解釈から、以下のことを導きもしている。

 「立法府は国民の可能なかぎり民主的な選挙によって選出された代表からなるが、そこではある程度息の長い、法律を中心とする原則的な事項しか決定できない。(ともかく国民の意思が直接表現されるのは立法府である)。それに対して執行府は、ある程度の専門的能力を必要とし、アメリカ大統領や日本の都道府県知事のように選挙で選ばれる場合もあるが、一般には専門職で、その時々の特殊で個別的な事項に対処する。〈執行〉権力は選挙であらばれた人々の集団では必ずしも適当でない。これが〈立法府〉と〈執行府〉の役割の違いをつくり出すのだと思われる。/このことは単に国家や政府だけではなくて、より小さな組織でも一般的に言えることである。(p14上)」

 最後のところは、「民主主義」や「民主的」ということばは、国家であれ団体であれ組織の内部には「三権分立」があるということを意味している。三権分立という地点から、現実の組織を見る、ということも大切だと考えている。

2018年07月20日

残日録10 新居信正

 新居信正『また女の先生か』(1976 昌平社出版)が今頃になって女性蔑視の言説として受け止められているらしい。新居さんはどこかで「オレは男子教師になんか期待しとらん」と、当時、発言していた記憶がある。講演記録のどこかに出ていた。探してみよう。

 あの本のどこかでそのことにもふれておけばよかっただろうに。

 新居さんはいろんなことにいら立つのだった。「研究授業の時、教室のカーテンは前で束ねますか、後ろでしょうか」教師が管理職にと聞く。「教育は中立だから、真ん中で束ねてください」などと返事をする。そんなしょうもないことにも腹を立てる。そんな人だった。

 

 追伸 新居さんの住んでいた徳島市立図書館で検索したら新居さんの著書は『小学校の現場から』1件のみの所蔵。県立のほうは「正常化通信」も含めて29件だった。手元に「数学教室」1978年2月号がある。古書市場で高額だったと記憶しているが、2018/10/01に調べたら落札されていた。『つるかめ』はアマゾンで最低価格7000円。

2018年07月11日

残日録9 「近江教育」

 原稿「日本語のレッスン」に少し手を入れて、滋賀県教育会事務局に送付。「近江教育」№681号10月1日発行 に掲載予定。戦前の教育に大きな影響を与えた組織だが、戦後も続いている。「近江教育」を見ると、教育関係者のOBの懇親会的な組織のようだ。

 CiNiiで探すと、田中哲「満蒙開拓少年義勇軍の送り出しと教育的背景:戦前期の『近江教育』誌から見る」がある。(佛教大学大学院紀要.文学研究科篇2016)研究対象としてまだ未開拓な領域のようだ。昭和前期に発行されたものを1冊持っているが、たしか、警察に捕まっていた会員が出所したので、これからもがんばるぞ、といったないようだった、と記憶している。

 

2018年07月07日

残日録8 図問研研究集会終了

7/1~2開催の図問研全国大会、何とか終了。望外の好評だった。2日目午後の学校図書館をテーマにした「大会記念講座」も濃密な内容のものとなった。 実行委員会のメンバーに感謝。ありがとう。

気分一新、依頼されている原稿400字*6.5枚に集中する午後。

2018年07月03日

残日録7 朗読会

6/19 昼に高月図書館で、夜に店で、朗読会を開催しました。昼はお話ボランティアや朗読を勉強している人。夜は、朗読家の栗山かおりさん。楽しい時間を過ごしました。ばたばたして、写真を撮るのをわすれていました。次回は9/18です。「長月の午後」朗読者募集中。

2018年06月22日

残日録6 図問研全国大会

6/30~7/2があ臨時休業になります。図書館問題研究会全国大会(7/1・2)が大津であり、それの世話係の一人として参加します。子どもへのサービスの分科会で、児童文学について話します。「現代日本児童文学」と呼ばれていたものが、1980年代に終焉をむかえていることに鈍感な児童サービス関係者が多いことを指摘してきたのですが、あまり共感が得られていないのか、ほとんど反響がありません。

まあ、いつものことではありますが。

図書館問題研究会は、私にとって問題提起ができる大切な場です。このところ、機関誌「みんなの図書館」によく書かせていただいているし、研究集会の発表をまとめた「図書館評論」にも書いています。7月に発行される「59号」では「児童サービスのこれからを考える」と題して「格差が拡大する社会にあって、図書館の児童サービスが担わなければならないこと、担わざるを得ないこと、それは何なのか」ということを書きました。

「みんなの図書館」は若いころに一時期、編集にかかわっていたことがあります。「本の雑誌」が初期の頃に、私たちが特集を組んだ「貸出の中の「返却」の問題」の号を取りあげてくださった記憶があります。編集諸氏は、きっと驚かれたのでしょう。

まだ、貸出(資料提供)が素朴に語られていた時代でした。

 

2018年06月17日

残日録5 服装のこと

昨日は途中で店番を代わってもらって、図書館問題研究会の全国大会準備委員会に出席。電車の中でうとうと。地下鉄の乗り換え駅で、同じ大学の非常勤講師に見つけられ、お元気ですか、と声をかけられた。出講の曜日が違うので、久しぶりだ。赤のTシャツに緑のタイ製のズボン、ラフな格好に驚いておられた。いろんな服を着て出講するけれど、さすがに、ラフ はない。

昨年までは常勤だったので、服装にこったりもした。けっこう目立っていたのだ。

どこで探してきたのですか、とクリーニング店の店員さんに言われるほど、民族衣装の類を着る。アフリカの木綿の貫頭衣のようなのに、ビーズがいっぱいついている服を衝動買いしたのだが、重たくて着れない。店に飾ってみようと思っているが、忙しさに…?…まだ実現できていない。

服も披露しないのか、との声もあり。

2018年06月12日

残日録4 ご挨拶

謹啓 麦秋の候、益々ご清祥のこととお慶び
申し上げます。       さて、私こと 
この度、京都橘大学文学部を退職いたしました。
顧みますと1975年から37年間、図書館現場に
あり、その後5年間の大学教員を勤めました。
在職中は何かとご厚誼ご指導を賜り、心よりお
礼申し上げます。
 退職を節目に、思いを新たにして、所蔵する書
籍や雑器などを少しずつ手放す終活に思い至り、
この春より、長浜八幡宮参道で古書店「六夢堂(りくむどう)」
を開きました。
 略儀でございますが、書中をもってご挨拶申し
上げます。
 末筆ながら、皆様のご健勝とご多幸をお祈りいた
します。
謹 白

と、挨拶状を年賀状交換している方々にお送りしたら、何十年もお会いしていない方々からもメールがあり、懐かしい気持ちに浸った。

 「人生の親戚」が、多くはないが少なくもない、負担にならない程度にいて、年末年始を楽しませてくださる。ありがたい。気持ちが豊かになる。

 

2018年06月09日

残日録3 公益法人江北図書館定期評議委員会

 昨晩は、公益法人江北図書館の定期評議委員会があり、新しく理事が承認されたり、評議員の定数が改正されたりした。財政難に苦悩する状態が続いている。

 午前中は、全集ものの書庫入れと、開架に並んでいた、坪内逍遥訳のシェークスピア全集を、入り口のショウケースに並べた。明治35年開館の杉野文庫に始まるこの図書館によく似合う。

 郡役所時代の史資料などは、滋賀大の経済学部に保管していただいている。郡制度の形成期の資料もあり、明治初期の研究者には宝のやまだろう。

2018年06月06日

残日録 猿投窯(さなげよう)

先日、猿投窯(さなげよう)をいただきました。名古屋市東部から豊田市西部、瀬戸市南部委から大府市および刈谷市北部の、約20㎞四方に集中する1000基を超す古窯跡の総称。日本三大古窯の一つ。
古墳時代から鎌倉時代初期まで、700年余の長きにわたり焼き物の生産を続けた。とウキペディアにあり。
いただいた器は、重ねて焼かれていたらしく、一部、上にあった陶器がくっついています。そこを外そうとした痕があります。
持ってきてくださったかたは、かさぶたのようなもので、はがしたくなるのよ、と言ってられました。

 

2018年06月05日

残日録2 ようやく検索ができました。

今日、ようやく検索できるようになりました。
ほっとしました。でも余計なものが出ていて、まあグーグルにひっかけてもらうのに、いたしかないが、修正のしかたが分かりません

2018年06月03日