ブログ一覧

長月雑記2 図書館の「課題解決支援サービス」など  残日録240926

図書館界で「課題解決支援サービス」というのが流行った時期があった。「資料提供(貸出)」をしているだけではだめだ、という風潮と相まって、鬨(とき)の声を上げていた。
当図書館では「課題解決サービス」をしております、という観光地の図書館があった。蔵書検索をしてみたら、当時の高月町立図書館より関係書が少なかった。HPに「課題解決」向けの検索があったように記憶している。なにかにそのことを館名を伏せて書いた。しばらくしたら、書いたせいでもないのだろうが、「課題解決」の看板は消えていた。
ビジネス支援、をはじめいくつかの課題解決のモデルがあったと記憶している。
そういう看板を掲げなくとも、高月町立図書館は「学校・学校図書館支援」に取り組んでいた。それが「地域課題」であると考えていたからのことで、それは特別な課題ということではなく、図書館があれば、どこでも課題となることであった。
看板だけの課題解決について書くことはない。

「課題解決支援サービス」のなかでの「ビジネス支援」は、さも「起業コンサルタント」ができるような気分で書かれたのもあったと記憶している。
おいおい、と思った。「本」になったものなど、たかが知れているのだ。専門の研究書やレポートの鬱蒼とした藪の中を道案内できる技量がある司書がそんじょそこらにいるわけがない。おればコンサルになっている。

何かを検索していて、「月刊 ほんコラム」を見つけた。「IRI(Intellectual Resource Initiative)」=「知的資源イニシアティブ」が出している。
そこに山重壮一氏が「課題解決支援サービスの課題」と題して書いている。誰の向かって書いているのか、よくわからない文ではあるが、よく書かけている。(山重氏は図書館に向けて書くのは苦手のようだ)
 「図書館の課題解決支援サービスは、できることから始めるしかないとは言っても、余興でやるようなものではないので、イベント開催に終始している現状から一歩進んで、図書館と図書館情報システムの核となるサービス(貸出しやレファレンスによる資料・情報提供)の本質的変革につながっていくことが重要だ。」とまとめている。
課題も解決策も読ませる。関係者には一読を薦めたい。

私は東條由紀彦(1953~)という研究者を稲葉振一郎『市民社会論の再生』でたぶん初めて知った。活字を見たことはあったかもしれないが記憶にはない。研究者で知る機会があるのは啓蒙的な雑誌や新書・叢書などに書く人たちで、東條を知らなかったのは致し方がない。
研究者が論文以外のところに書くのは、学会的に評価されないこともあるだろう。それでも、研究者にいろんなメディアで出会うことがある。研究論文ではない一般人が少し背伸びすれば読めるような本を書ける人というのも限られているだろう。いろんな分野の研究・研究者を知ることは、意識的に取り組まないと難しい。

長らく図書館業界にあっても、中小規模の市町村立図書館の職員だと、諸分野の研究論文にまで目配りすることは殆ど無いと思う。個人的に関心のある分野だとか、その土地の特徴やその館の特別なコレクションに関係しているとか、という理由で特定の分野の領域の論文に目配りをしている図書館員はいるだろうが、私はそういう立場でもない。ごく普通の図書館員として、一般書や教養書といった言葉でイメージできる程度の範囲の紙媒体の資料を対象に「資料を知る」ようにしてきた。

好み、があり、散漫な性格があり、ひとり酒に時間をとられる、ので自慢できる程ではない。老いた今となっては、「あれこれ」に関心を持ち、読書に時間を割かなかった若い頃の「あれこれ」を良かったと思いたいが、それでももう少し本に時間を注いでおけばよかっただろうに、と思う。
一般書・教養書に目配りをするだけでも精一杯だった、とはいえない、「あれこれ」に気をとられ日々も懐かしくもある。

「あれこれ」の雑念は老いたとは言え、今もあって、面白いのを見つけた。


〇〇さんが(彼の部下)
〇〇さんの(彼の補佐役職)威圧的な言動に怒っていて
労基に行くゆうてはりますわ

(後日)

労基へ従業員が通報
 労基から会社代表電話に連絡があり 担当支店の責任者として 対応に当たる

その件を本人には 軽く伝えてから 変化や様子を見たくて 一日中張り込みました。
 疲れます。

 そして伝えてから 6時間が過ぎて
 『年内で退職します』
 と本人から辞表提出
 思い当たることあるかーい

 いつぞやの新人研修で 経験談を話す機会があり 彼も受講者として参加していたので
 彼に向かって 『僕が貴方の支店に行く時に何に 1番神経を使い果たしている? 何か気付くこと ありますか?』と問うた

 『良い従業員を効率よく働かせているか? ですか?』と答えた
 
そんなもん どうでも良い 良い従業員、て何? 
人を効率的に働かす? なんじゃそりゃ

 そんな発想微塵もないわ‼︎
 それぞれの得意が伸びたら良いんよ

 『あなたの支店は従業員が多いので 従業員を笑かすことに物凄く神経を 使い果たしています』と答えた

 その彼も
 他の参加者も
 ポカーンとしていた

 だって笑うてことは その瞬間は 楽しいてことやん
 だから笑かすことに 全神経を注いでいる


こういう生活綴方を「よもやまばなし」として集めると、「抵抗者文芸」のようなものになるように思う。置かれた境涯を悲嘆することからではない「生き延びるためのことば」集、だな

2024年09月26日

長月雑記 残日録240912

まだまだ暑い日が続くという。地球温暖化ということであれば来年もそう変わらないのだろう。地震後の能登の復旧は過疎地域の暮らしの困難さを物語っている。
施術後の退院から始まった2024年前半は、2月に母の三回忌、4月から加古川の男声合唱団に入会、7月に久しぶりに図問研の全国大会(日立)に参加ぐらいで、あとはぐだぐだした日々ながら、少しずつ体力が回復してきたというところだ。長く歩くのは足腰が痛くなってかなわないのだが。

9/8は梅田で「朝日のような夕日をつれて」を観劇。弟が買っていたチケットが、仕事の都合で行けなくなり、お盆であったときにこちらに回ってきたのだった。第三舞台は30歳代に一度観たことがあった。アングラ・小演劇体験は、転形劇場(太田省吾)・第三エロチカ(川村毅)あたりだったので、少しずれているのだ。春に劇団☆新感線も観たがこれも弟から回ってきたチケットだった。
「朝日のような夕日をつれて」は2024年バージョンではあるが、骨子は変わらないので懐かしいところもあって楽しんだ。

先般紹介した稲葉振一郎『市民社会論の再生』で取り上げられていた東條由紀彦の「市民社会論」は、明治維新の近世から近代への移行を、「まずは労働市場に照準を合わせて、第一次世界大戦前後の時代における「〈分断的累層的労働市場〉から〈統一的位階層的労働市場〉へ」の転換に見出し、それを「家を基本単位(東條的な言い回しとしては、マルクスの言う「個人(個体)的所有」における意味での「個人、あるいは「人格」)とする「近代」の階層的市民社会から、(身体的)個人を基本単位とする「現代」の単一の市民社会へ」の転換と敷衍する、という図式」を解説している。
これについては、後日、転記したいが、東條の論文にあたることが先なので、まだ時間がかかる。

そうこうするうちに、「部落問題」について書き始めなければいけなくなる。

その前に、某県立図書館から県下の職員研修の講師依頼があり、パワーポイント+ZOOM?で作成することになっている。テーマが「選書」なので、以前日図協から出した本以降の動向にも触れることになるが、回答めいたことが言えるわけではない。
出版界自体は縮小傾向にあるのだが、本は出版されている。それを追跡できていないので、「選書」ワークショップは今の私には無理だ。「選書論」について新しい論客がいるのかもしれないが、図書館の現在から少し離れたところにいるのでわからない。

BLコミックのテレビドラマ版で「ひだまりが聴こえる」がいい。
「難聴によっていつしか⼈と距離を置くことが当たり前になってしまった⼤学⽣・航平と、明るくまっすぐな性格の同級⽣・太⼀という正反対な性格の2⼈の⼼を繊細に描いたヒューマンラブストーリー」とネットの紹介にあった。
太一の両親は離婚していて、どちらにも引き取られなく、祖父との二人暮らしであり、奨学金で学費を補い、アルバイト生活である。単身赴任のお父と料理教室の先生の母という恵まれた家庭に育つ航平は、中学の頃突発性難聴を発症し、大学生になって難聴が悪化する。
航平に太一はノートテイクのボランティアとしてかかわることになる。
ドラマだから、平凡な日常ということにはならないのだが、そのドラマの作り方が上手い。
原作のコミックを読みたいと思ったが、財布がそこまで広がらない。
TVは一応、終了のようだが、コミックは続編があるとのこと。
同様のドラマ「タカラのびいどろ」は「泣いているところを慰めてくれた志賀宝のことが忘れられず、地元福岡から上京した中野大進。しかし、大学で再会した宝には冷たく突き放されてしまう。めげずに追いかける大進と、大進のまっすぐな瞳から目が離せなくなっていく宝を描いていく」とネットの紹介にあった。一見まあ他愛のないドラマのようである。しかし、宝の「不器用なやさしさ」、とまどい、の向こうに、ドラマは母親からの影響を少しほのめかしている。原作のコミック版はどうだろうか。宝の「母」への嫌悪と対峙するとともに、大進に心を劈く宝の物語は生まれているのだろうか
どちらの「人との距離の取り方」、身体の劈き方、の問題と読める。
どうしたのだろう。樹村みのり「母親の娘たち」を読みかえしたくなった。

図書館にコミックが蔵書としてスタンダードになるには、図書館のコペルニクス的転回の時点?までたどり着くことになるのだろうが、それは現状の「資料提供(貸出)」を突き詰めるところからしか生まれないだろう、と思う。残念なことに「まだ貸出なのか」という声が大手を振っている。

2024年09月12日

稲葉振一郎「市民社会論の復権に向けて」(『市民社会論の再生――ポスト戦後日本の労働・教育研究』(春秋社.2024)所収)――「市民社会」ということば 残日録240907

私は図書館業界という狭い世界であれこれ書くことがある
「子供の本の選び方――その傾向と対策」(「み」1988-02)は一大決心で書いたものの、反響はなく、約20年後に島弘さんのお仕事によってやっと日の目を見させていただいた。これが当時何かしかの手応えをいただいておれば、児童サービス論をもう少し深めていただろうに、と思う。児童サービスへの発言はその後ずいぶん後になってのことになる。当時はもっぱら児童図書館研究会の組織課題(組織の再編、規則の改定、地方組織の強化)に関わっていた。
「『市民の図書館』再読」(「み」2000-12)は読まれたほうだから多少の反応はあった。
「子供の本…」から「市民の…」までの間には「普通の図書館をめざして」(「み」1994-04)などを書き、それらを「たのしいかしだしにむけて」「本の世界の見せ方」(六夢堂.1997)としてブックレットにまとめている。
「『市民の図書館』再読」を書いたことで、「図書館界」(56-3 2004)の「〈誌上討論〉現代社会において公立図書館の果たすべき役割は何か」に「『貸出』を考える」を書くことになった。その前後にも資料提供について書いている。
『市民の図書館』の「市民」については、「再読」で引っかかるところを書いているのだが、このブログでは20190525『「大衆」と「市民」の戦後思想――藤田省三と松下圭一』(趙星銀.岩波書店.2017)でも「市民」についてふれている。この趙星銀の著作からの学びがあるものの、「市民論」は私自身の20世紀の閉架書庫につっこんだまま「ほこり」を被らせていた。図書館業界では「市民論」は流行らなかった。
このたび稲葉振一郎『市民社会論の再生――ポスト戦後日本の労働・教育研究』を読み、少しだけ刺激を得ることができた。少しだけ、なのは、私の非力のせいである。
松下圭一の「市民論」は構造改革論から生まれたものと言えるが、それとは別に初期マルクスを基にした「市民社会論」があり、これについて、稲葉は「日本資本主義論争」を背景にして紹介している。
ずいぶん長くなる引用だが、忘備録もかね、後に引用するときに便利なように入力しておく。引用したもとの文献まで読んでくれる人は限られているだろうから、この部分あたりは読んでおいていただけたら、と思う。できれば稲葉『市民社会論の再生――ポスト戦後日本の労働・教育研究』を読んでいただきたいが、この本は、第1部が登場由紀彦の労働運動史を、第2部は森重雄と佐々木輝彦の教育学を軸にしているので、これらを読むのは苦手という場合は、「おわりに――市民社会の復権に向けて」だけでも、おすすめする。


日本の戦後の社会科学の流れの中で「市民社会派」といったときは、必ずしもこのマルクス経済学の一学派(「ある意味でのマルクス本来の、あるいは若きマルクスに原点回帰しての、資本主義との対決の思想」(p77))に制限されるわけではなく、もう少し広く、政治的にリベラル左派にシンパシーをもって市民運動などにも連帯した社会科学者を指す場合もある。この広義の「市民社会派」においては丸山眞男がその代表選手として挙げられるわけでもあるし、経済学においても、大塚久雄門下の比較経済学史学もまたそこに数え入れられることがある。ただここでは狭くマルクス経済学プロパーでの「市民社会派」に焦点をあてたい。そうするとほとんどフェティシュな意味合を込めて「市民社会」の語を流行させたのは、第Ⅰ部でみた東條由紀彦にも強く影響を与えた平田清明であり、たしかに平田はことにその名古屋大学在職中に多数の門下生を輩出して学派的な集団を形成しはしたが、同様に重要な存在としては名古屋大学で平田の同僚であった水田洋、そして彼らの一回り上の先輩である内田義彦である。
内田、水田、平田を軸として「社会市民派」を考えるとまず気付かされるのは彼らが理論プロパーの研究者ではなく学説史、思想史の研究者であるということであり、第二に、ことに内田、水田においてはマルクス以上にアダム・スミス、一九世紀社会主義以上に一八世紀啓蒙の影が強く落ちている、ということである。戦後に大学を卒業した平田と異なり、内田、水田は戦前、戦時に大学を卒業し、戦時中に軍属その他の調査員としてそのキャリアをスタートさせている。水田、平田の師である高島善哉は、大河内一男同様、マルクスを論じることを禁じられた戦時中、アダム・スミスを研究し、スミスの向こう側に暗黙にマルクスを見通すことでやり過ごしているわけだが、水田や内田も同様にスミスを読み、スミスの継承者としてのマルクス、マルクスの土台としてのスミスを見出すことで自己の学を形成していった。その中で彼らにとってスミスは単なるマルクスの前提ではなくもうひとりの巨人として確立し、マルクスが目指した社会主義と同じく、(スミスはその語に特別に意味を込めていないが)スミスの中に彼らが見出した市民社会が、目指すべき理想として確立した。それは世界的に見れば、「宇野派」と並んで日本における土着的、自生的な西洋マルクス主義だったと言える。そこには「人間の顔をした社会主義」としての「市民社会的社会主義」への志向が明確である。しかしながらそこで、「市民社会」の理念が重視されたことには、当然ながら日本固有の事情がある。それは言うまでもなく、日本が後進国、後発的、後追い型近代化・資本主義化を行っている社会であるという認識であり、日本においては社会主義革命の前に、まず普通のまともな資本主義、市民社会になるための市民革命が必要だ、という認識から来るものであった。実は形だけみるとこの「二段階革命論」は日本における正統派、日本共産党の認識と変わるものではない。しかし正統派における二段階革命論は、もとをたどれば戦前、スターリン支配下のコミンテルンの「三二年テーゼ」に忠実にのっとっただけの政治先行のものであり、内発的動機も理論的正当化も正統派においては欠けていた。だが「市民社会派」においては、日本における市民社会の実現の必要性についての独自の理論があったのである。
他方ではそれは逆説的にも、高度成長以降の日本の経済社会の展開に対して、正統派よりも有意義な対峙を市民社会派に可能とした。というのは正統派にとって日本資本主義の本質は戦後においても戦前と変わらず、半封建的で後進的なものに過ぎず、戦後の高度成長は労働者や農民の搾取に基づいた不自然で不合理なものとして捉えられていたが、市民社会派はそのような現実を無視した強弁を行う必要がなかった。すなわち市民社会派は、高度成長の現実を素直に受け止めた上で、同時にそれを本来の市民社会の理念からの逸脱、堕落として認識することができたのである。一九世紀の資本主義においては剥き出しの搾取が目立ったのに対して、二〇世紀以降の資本主義の基では、豊かさの成果が労働者大衆にまでいきわたる一方で、高度に組織化された官僚制的大企業の中で、労働の意味は失われ、人々は疎外される――という風に。もちろんそうした展開は日本のみならず先進諸国に共通するが、自主的な市民革命を経験せず、いわば一足飛びに前近代の封建社会から超近代的な独占資本主義に突入した日本は、西欧社会に比べて疎外への抵抗力が弱くなるのではないか、それゆえに現代日本において市民社会の理念はいまだに、というよりも今だからこそ意義を持つのではないか――そうした議論が成り立ちえたのである。
正統派との対比における市民社会派の意義を以上の見たとして、それでは今一つの非正統派マルクス経済学としての宇野派との対比において見るとどうなるだろうか? 政治党派的な観点からすれば宇野派も市民社会派もともに非共産党系と括れてしまうし、どちらも新左翼や非党派的な市民運動に一定の影響力を持ったが、他方で(ある程度)アカデミックな観点からは興味深いことに正統派と市民社会派はともに「講座派」の流れを汲み、宇野派は「労農派」の流れを汲む、ということになってしまうのである。言うまでもなく「講座派」と「労農派」の対立は、まさに「三二年テーゼ」のせいで引き起こされた(その意味で純粋に学術的とはいいがたい)「日本資本主義論争」によるものであり、「三二年テーゼ」どおりに日本を半封建的な社会、日本の資本主義を未熟で部分的なもの(日本の社会経済の全体を覆いつくしていない)、と考える「講座派」と、既に論争の時点である昭和初期において日本は資本主義社会である(たとえば農村の主小作関係も、既に封建的な身分関係ではなく、市場の論理に従う取引関係である)、と考える「労農派」との対立であった。そして繰り返すが、この「講座派」対「労農派」の構図の中では、市民社会派は正統派と同じく講座派の側に繰り入れられてしまうのである。
ただこの「講座派」的な視点と「労農派」的な視点との対立は、たしかにもとはと言えば愚劣な党派政治の所産という色彩が濃いが、まったく無意味だったわけではなく、ことに戦後日本経済学において、非マルクス主義経済学、「近代経済学」の陣営における日本経済研究においても、同様の対立、論争は存在していたことに注意せねばならない。そこで純粋に学問的な観点からこの対立を解釈しようとするならば、いくつかの考え方があることがわかる。まず最初に思いつくのは、もっとも単純に、歴史的な発展段階論の土俵の上で、日本経済の現状をどの段階に位置づけるか、という対立として解釈する、というものだ。その場合講座派は、少なくとも初発の「論争」の時点、昭和初期についていえば日本を自由主義段階以前、下手をすると絶対王政の重商主義との過渡期あたりに位置づけてしまうのに対して、労農派ならば自由主義どころか帝国主義に位置づける、という風になる。しかしそれだけではない。そもそも日本の資本主義、経済社会をダイナミックに発展するものと捉えるか、停滞的なものとして捉えるか、という違いとして、労農派、というより宇野派と、講座派、というより正統派の違いを捉えることもできる。先に見たように戦後の正統派は、戦前のファシズム期のみならず、高度成長期の日本経済さえも本質的に停滞的なものとみなす嫌いがあったのに対して、宇野派は戦後、それどころか既に戦前についても、少なくとも戦間期以降の日本経済を既に帝国主義に突入したものと捉えていた。
ただ以上のように解釈すると,講座派には全く立つ瀬というか救いがなくなってしまう。しかしここでもう一つの解釈が可能となることを指摘したい。つまり成長、発展の通時的なダイナミズムに主たる関心がある労農派――宇野派に対して、講座派の可能性の中心は、共時的な構造の認識にある、という解釈である。講座派の教科書、パラダイムとされるのは山田盛太郎の『日本資本主義分析』であるが、そこでは日本の経済社会は三つのセクター、つまり官営企業や軍工廠主体の重工業セクター、主として軽工業からなる、民間企業主体の普通の資本主義セクター、そして半封建的な農村、からなる、異質なものの複合体として描かれている。これを発展段階的に見れば、最先進部門を民間資本ではなく政府に支配され、人口の大多数を占める農村は半封建的身分社会であるという意味において、それは確かに未成熟な、離陸途上の資本主義という風に位置づけられてしまう――異質なセクターの共存は発展のタイムラグの結果でしかないとされるだろうが、そうではなく、「進んだ」近代的部門と「遅れた」伝統的部門が安定した相互依存関係にある――異質なものの共存は偶然の結果ではなく、恒常的な構造である、と捉えることもできる。つまり二つの立場の対立は「日本資本主義を後進的とみるか先進的とみるか」「日本資本主義を停滞的とみるか動態的とみるか」だけではなく、「日本資本主義を通時的な変化の相においてみるか、共時的な変化の相においてみるか」というものとしてみることもできる、というわけである。(p201-206)


「講座派」にも日本社会の「多重構造論」としてのみるべきところはある、というところか。
最後のところは、中西洋『増補・日本における「社会政策」・「労働問題」研究』「補論1」を参照、とある。


改めてみるならば「市民社会派」の「市民社会」の理念は、ハーバーマスの描く「市民社会」「市民的公共圏」のそれに非常に近い。ハーバーマスが念頭に置いているのは、「市民社会派」の論者たちと同様、思想史的に言えば一八世紀から一九世紀の啓蒙的思想家たちであり、社会階層としては彼らの読者であったような開明的貴族やブルジョワたちであり、そうした人々が書物、更に当時勃興しつつあった新聞雑誌などの定期刊行物、つまりジャーナリズムを通じて、あるいはサロンやコーヒーハウスを通じて行うビジネス上の、あるいは純然たる余暇の娯楽としての社交である。彼らの活動基盤は単に自由な市場だけではなく、市場での活動で破滅することがないだけの財産と教養である。そのような財産がないため、市場から降りる自由がない労働者のために、連帯によって疑似財産(組合の相互扶助によって、辞めてもすぐには飢えない保障)を提供するのが、労働組合のもともとの機能であって、反市場的な共同体というより、市場の円滑な機能を支える下部構造である。いずれにせよ、市場によって自由な活動の余地を持ちつつ、市場によって破壊しない安全保障地を確保している人びとからなる社会が市民社会である。
このような社会のプロトタイプが近代啓蒙期に限定されるわけではないことは「市民社会派」の論客たちにも理解されており、たとえば水田はイタリア・ルネサンスを重視する。しかしルネサンスに目をとめるならば、ルネサンスの知識人たちが「復興」しようとした古典古代の、つまりは、ギリシア、ローマの経験、とりわけポリスの民主政と初期ローマの共和政に注目せねばならない、と主張するのが、狭義の「市民社会派」とは一見縁が遠いが、広義の「市民社会派」には、丸山眞男以来東京大学法学部にかすかに残された糸を通じて連なるローマ法学者の木庭顕である。木庭によれば市民社会とは法のある社会であり、法とは政治の一部、政治の一形態であり、政治とは強制から自由な人々同士の、自由な討論を通じての共同的意思決定である。そして民主政とは、明確な根拠、合理的な理由なしには決定を下さない政治のことであり、そうした根拠づけを整える(アジェンダセッテング(課題設定―明定)や成員資格にかかわる基礎構造に方は深くかかわっている。法とは単なる規則のことではない。いわゆる弾劾主義、対審構造、陪審制などを見れば、我々の知る司法とは裁判官による決定システムなどではなく、当事者を中心に、それを支えるべく陪審や裁判官を置く討議のシステム、つまり政治の一種であることがわかる。経済学を基盤としていたがゆえに「市民社会派」の論者たちの認識には欠けていた(そして実は「市民社会派」に影響を受けていた法学者さえよく理解していなかった)こうした事情を木庭は明らかにし、市場とそれが可能とする社交のみならず、民主政と法もまた市民社会の基礎的構成要素であることを示す。
「市民社会派」が自由な市場を、ハーバーマスが更にそれを基盤としたジャーナリズム、その上での自由な言論を市民社会の構成契機として重視したならば、木庭が古典古代に見出すその対応物は、広場(アゴラ)であり、劇場であり、それらを含めたフィジカルな構造体としての都市である。極端に図式化するならば石畳を敷いた(それゆえ私的に占有して畑にできない)道路や広場からなる都市空間が公共圏であり、他方大多数の人々の生存基盤、私生活の場はそれを取り巻く田園都市、近郊農村部(木庭は「領域」と呼ぶ)である。近代の経済学は市場(しじょう)を抽象的な取引のネットワークとして理解するが、そのフィジカルな基盤は、古代から中世、近世まで、近代的な通信技術の発展以前は、具体的な場所としての市場(いちば)であり、そうした市場を成り立たせる都市同士を結ぶのが、またしばしば石畳で舗装された道路である。そうしたフィジカルな構造物によって公共圏は成り立っているのであり、公と私の区別は単に観念的にあるいは言語的にいうのではなく、物理的にも確定されている。ハンナ・アーレント流に言えば、公共圏を介して人々は切り離されつつ結びつけられるのである。古代にも書物はあったが写本であり、文芸も読まれる以上に謡われ、演じられるものであり、法もまた主として法定における弁論としてあった。このような、古典古代的な都市、そこにおける市場、劇場、議会、法廷を市民社会の原点と考えるならば、近代におけるハーバーマスのいう「市民的公共圏」、あるいは「市民社会派」の考える市民社会とは、それが産業革命以降の近代的な交通通信技術によって変質を伴いつつ拡張したもの、つまり物理的な都市構造によってではなく、メディア技術のネットワークによって支えられたヴァーチャルな都市なのである。
なぜ市民社会の理念を支える都市的なもののフィジカルな実体の水準に注目することが重要なのか? 我々は第2部(「斜めから見る「日本のポストモダン教育学」・改」―明定)において、近代的なヒューマニズムの浅薄さ、それが抱える欺瞞的な構造をマルクス主義、ポストモダニズムが批判してきたことを見てきた。しかしながら社会主義・共産主義が人類の目指すべき希望としての地位から滑り落ちた以上、欺瞞のない完全な正義を掲げて近代ヒューマニズム、リベラリズム、つまりは市民社会的理想を拒絶することはもはやできない。ポストモダニズムにも、その理想を否定したところで、そこに現れるのは剥き出しの暴力の容認、肯定でしかない。だから我々はヒューマニズム、リベラリズムの理念を揚げつつ、そこからは零れ落ちてしまう人間的実存の領域――人は常に自立して合理的であれるわけではなく、他人の監督や世話に頼らずには生きていけないこともあることを認めねばならない。そしてそのような監督―躾け/調教・世話=ケアは、対等な関係性の下での、潜在的に暴力をはらんだものなのであり、そうした暴力を馴致するという課題を、リベラルな正義とは別のケアの正義として追及せねばならない。しかしケアの正義で塗り替えることができるわけではない。というのは、ケアの正義の目標は、結局のところ、ケアされる必要がない主体、リベラルな正義の演技ができる主体を育て上げることだからである。
ここまでは第2部の復習にすぎない。ここで都市的なるものの具体性になぜ注目せねばならないかをいうと、市民社会の理念性を支える具体的な水準、つまり古代都市における広場や劇場、街路といったインフラストラクチャー、近代市民社会においてはそれに加えて、出版、放送、電信電話が織りなすヴァーチャルな広場・劇場、それを支えるテクノロジーについて、その可能性と限界について考えなければ、弱く傷つきやすく愚かな人間同士が、合理的で行動力に富む市民の演技をどこまで、どの程度続けられるのか、どのようなインフラや技術がそうした演技を助けるのか、あるいは歪めるのか、がわからなくなるからだ。我々はただ市民社会の表面で流通する言論や表現だけを、その内的な力や合理性だけを見ていることはできない。それを紡ぎ出しまた享受する、生身を持った人間の実存と、そうした人間を支えるやはり具体的な技術について考えなければならないのだ。
しかしこうした「都市的なるもの」へのセンス、問題意識が、ハーバーマスはともかく日本の「市民社会派」には致命的に欠けていた。中世以来の大学もまた、都市とは切っても切れない存在だったにもかかわらず。かくして都市は、抽象的な市場に目をとられた経済学、領域国家に魂を奪われた政治学双方の視野から抜け落ちてしまった。市民社会のフィジカルな実体的根拠としての都市、社交と祝祭の場であると同時に知的にも産業的にも創造の場である都市への注目はジェーン・ジェイコブズの都市論から本格化し、今日における地域産業集積への深い関心へとつながっていくのだが、「市民社会派」はそうした流れとすれ違っているし、また地域産業集積を「市民社会」という視覚から捉えなおす機運もまだそれほど強くない。
もちろん実践的な運動にもコミットした東條(本書「第1部東條由紀彦の市民社会論の検討」―明定)のみならず、「市民社会派」やハーバーマスに共感を寄せる読者であるならば、本書でこれまで提示してきたような「公共性の構造転換は長期的に見れば反復するだろうし、市民社会もまたいつかどこかで復活するだろう」という客観的・実証的言明だけでは満足できないだろう。「市民社会」の理念がよきものであるなら、少しでもそれが現実化されていくことが望ましい、しかしそのためには何が必要なのか? という問いへのいま少し具体的な答え、と言わずともヒントがほしいだろう。しかしながらここまで我々は、例えば労働運動の可能性について、悲観的な議論しか提出して来なかった。その上であえて少しでも前向きなことを言うとすれば、近年、中小企業研究や文化経済学なので、革新のインキュベーターとしての都市への注目が高まっていることには期待してよいと思われる。「市民社会派」のなけなしの知的遺産を、そうした潮流と掛け合わせてみることは必要だろう。地域産業集積をめぐる議論が、重商主義の延長線上の産業政策論に終わってしまわないためには、経済学や社会物理学の洗礼された数理モデルのみならず、「市民社会としての都市」、そこにおける政治や社交についての徹底した考察が必要となるはずである。それを経由してこそ学校や組合を、閉域としての国家のミニチュアではなく、市民社会の構成要素へと組み替える可能性も見えてくるのではないか。(p212-218)


松下の「市民論」、平田等の「市民社会論」は理念として成立はするが、実社会においては、虚像としての「市民」でしかなかった。その「市民」は20世紀末の「欲望資本主義」=「大衆消費社会」の荒波にかき消されてしまったように見えるが、稲葉は「「市民社会派」のなけなしの知的遺産を、そうした潮流と掛け合わせてみることは必要だろう。」と考え、「「市民社会としての都市」、そこにおける政治や社交についての徹底した考察が必要となるはずである。それを経由してこそ学校や組合を、閉域としての国家のミニチュアではなく、市民社会の構成要素へと組み替える可能性」を切り開こうとしているのである。
「公共性」「コモン」「広場」といった言葉が頻繁に使われるようになったのがいつ頃からなのかは、それ自体が研究の対象になるのだろうが、図書館においては最近のことのように思う。

私は前掲「『市民の図書館』再読」(2000.12)で、

 ……住民でなく「市民」という言葉に違和感もありました。それは「市民社会」や「市民」という概念と、〇〇市に住んでいる日本人とが同定できるかのごとき論調に意義を持っていたからです(私は理念としての〈市民社会〉に否定的ではありませんし、反近代主義ではありません。〈市民〉をあいまいに用いることは避けたいという立場です)。
だから「自由で民主的な社会派、国民の自由な志向と判断によって築かれる。国民の自由な思考と判断は、自由で公平で積極的な資料提供によって保証され、誰でもめいめいの判断資料を公共図書館によって得ることができる」という理念と、現実の「しみん」として暮らしている人との乖離は気になるところでした。/(略)/この本にはこのような理念とともに政策マニュアルが提示されています。「貸出し、児童サービス、全域サービス」というサービスの基礎の有効性は、多くの図書館で検証されてきました。/この政策マニュアルは教養主義からすると「パンドラの」箱を開けたのです。そこから出てきたのは「群衆」であって〈市民〉ではなかったのです。/〈読書する市民〉に成長するであろう大衆、という図書館側の予定したプロセスにのらない人たちの登場です。(p25-6)

と書いている。
今日の図書館において、「公共性」「コモン」「広場」そして「市民」を、「どういう事実(経験・実践)でもって」「どう語るのか」について、表現する者にとって自覚的であることが期待されよう。
私自身、図書館員としての経験をあまり書いてこなかった。ずいぶん前、成田図書館勤務時代に物語仕立てで「選書をする図書館員としての私」(「みんなの図書館」1990-12)を書いたことがあった。それは一回きりで終わった。経験を物語仕立てにして間接的に書くという手法が広がる可能性もあったと思うが、当時の(今も、か?)多くの書き手は「現状報告」を主にしている。
その後、働いた(滋賀県)高月町立(現・長浜市立高月)図書館が不登校生徒にとってどういう場であったのか、そして図書館内に生まれた不登校児のための「教室」のこと、また青少年の心の病のこと、などなども書かないままである。
コミックで図書館が登場するようになったので、図書館員の体験が表現されやすくなったように思う。そういう物語のなかから「公共性」「コモン」「広場」そして「市民」を、市民社会の構成要素へと組み替える可能性が生まれることを期待したい。

「市民社会」については、「労農派」大内兵衛の系譜もあるが、これは後日に持ち越す。

2024年09月07日

「部落解放運動の分岐」(『滋賀の同和事業史』滋賀県人権センター.2021)についてなど 残日録 240831

戦後左翼運動の歴史について、またそこから派生した「新左翼」にいついて、21世紀も20余年たった今、どう過去として記述するのか。1960年前後の当事者の多くが現場から退出しているのだから、歴史として振り返り、個々の局面での経緯を踏まえて、新しい潮流を生み出す動きがあっておかしくはない。
過去を知らないから、または詳しく知らないから、新しい潮流をはじめられるということもある。私などの知らないところでそうした流れが生まれているのかもしれないが、そうだとしたら、過去のゴタゴタを多少知るわたしにできることは、邪魔をしないことしかない。こういう雑文も邪魔をしない範囲のことである。

過去の左翼の歴史について、若い人よりもそう詳しくもないが少しは知識があって気になることもある。
Wikの「丸木俊」に、
「1963年に部分的核実験停止条約が締結されると、その評価を巡り日本の原水禁運動は分裂。俊と位里は1964年6月に朝倉摂、出隆、国分一太郎、佐多稲子、佐藤忠良、野間宏、本郷新、山田勝次郎、宮島義勇、渡部義通とともに党改革の意見書を提出し、翌月に日本共産党を除名される。」
とある。

日本共産党の「除名・離党史」に関わることの一つである。これについて、関心のある人がどれだけ知るのか知らない。ただ、米・英・ソ(当時→ロシア)が調印した「部分的核実験停止条約」の日本の批准に反対した日本共産党は、党議に反して賛成した「丸木俊」などの党員等を「反党分子」として除名している。
そういう歴史がるので「丸木俊」は、党員とその支持者からみれば、私のような者への「踏み絵」でもある。
10年近く前、「原爆の図 丸木美術館」会員に入会を勧められたことがあった。その頃は全教(日本共産党系)の滋賀県の「教育のつどい」に共同研究者として参加していた。美術館の会員になることで、学校司書の部会に何か影響があると面倒なのでお断りした。面倒なことが起こるなどと心配するのは妄想のように思われるかもしれないが、部会の世話人やその周辺にに政治的なことに熱心な人がいて、「「共同研究者」を若い研究者に変わっていただいたら」などと声をかけ、私が参加者に悪影響を及ぼさないようにと、婉曲に排除の配慮される方がおられるとも限らないと、大げさかもしれないが用心したのだった。
ながながと書いたが、70才現役引退前の私はそういうことにも気をつけていたのだった。共産党系の関係者から政治的な意見を求められることがなかったのは、多少は我が身の処し方のせいでもあると思っている。

大衆運動としての部落解放運動の歴史においても1960~70年代からの「分裂」の歴史がある。
それをどう記述しているのか。分裂した双方の立場の公式的な見解というものがある。実際に運動を展開している現場がその公式的見解を主張して分裂・対立していくということが各地で展開する。
Wikiの「日本共産党」の項に「部落解放同盟との対立」がある。

部落解放同盟はその前身の全国水平社の中心人物の西光万吉も入党していたように元々共産党の影響力が強く、1960年代前半までは両者は友好的な関係にあったが、1965年8月11日、内閣同和対策審議会答申[170]が出されたことが大きな転換点となった。社会党員など同盟内の他の潮流は、部落差別の存在を認め、「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である」と明記した答申の内容をおおむね肯定的に評価し、同対審答申完全実施要求国民運動を提起することで一致したのに対し、共産党や同党員である解放同盟の活動家はこの答申を「毒まんじゅう」と批判した。その結果、同盟内で急速に支持を失い、同年の第20回大会では、共産党系代議員の提出した修正案は否決、同対審答申完全実施要求国民運動の展開を骨子とした運動方針が採択され、役員選挙では共産党員である中央執行委員のほとんどが解任された。共産党はこの動きを「一部反党修正主義者、右翼社会民主主義者の幹部」による策動として強く非難した。この当時の消息について、井上清は「部落解放全国婦人大会をやりますと、それが部落問題は行方不明の、共産党の新婦人の会の大会みたいになるんだ。極端な例でいえば、洗剤は有害である、だから洗剤はやめましょうという話が、婦人集会で出る。これは、そのこと自体はいいんですよ、ところが、洗剤追放と部落の婦人解放とが結びついた話にならなくて、日共の例の「二つの敵」のことに部落問題が解消してしまう。洗剤っていうものはアメリカ帝国主義が日本に石油を売り込むためにやっているんだ、洗剤追放すなわち反米闘争すなわち部落解放運動だというので洗剤追放が部落解放の婦人運動の中心題目みたいな話になっちゃうんだな。どうにもあんた、解放運動の側からいうと、わけがわからない。(略)それでとうとう、解放同盟の古くからの闘士の先生方が我慢できなくなっちゃった。」と語っている[171]。
また、元衆議院議員の三谷秀治は「解放同盟本部と社会党が答申を手放しで賛美したのに対し、地方支部の一部や共産党は、答申が、差別を温存してきた政治的責任に触れないで、いままた自民党の高度経済成長政策の枠のなかで欺まん的に部落問題の解決を求めようとしているとして、その融和的な性格を批判した。」「同和問題が憲法にうたわれた基本的人権の保障の課題として位置づけられたことは基本的に正しかったが、非人間的差別を部落に押しつけてきたものはだれなのか、差別を利用して部落民を苦しめてきたものはだれであったのか、という政治的分析にはまるで触れられていなかった。部落差別の根っこが隠蔽されていることから、差別の敵を社会一般に求めようとする誤りが生まれた。」と説明している[172]。分裂前の部落解放同盟に対して「共産党とさえ手を切ってくれるなら同和対策に金はいくらでも出そう」という誘いがさまざまな筋からあり、北原泰作は断ったが、これに乗ってしまったのが朝田善之助だったともいう[173]。
大会以後間もなく、京都府連の分裂が表面化、その余波で、府連書記局が設置されていた文化厚生会館の帰属をめぐり、解放同盟京都府連と部落問題研究所との間で紛争が発生した(文化厚生会館事件)。さらに同和対策事業特別措置法制定が急ピッチで進んでいた1969年2月、党農民漁民部編『今日の部落問題』を刊行し、その中で解放同盟指導部を「改良主義的、融和主義的偏向から自民党政府と安上がりの時限立法による特別措置で妥協した」と批判。同盟中央は抗議の意志を示すため、同書刊行直後に開かれた全国大会に来賓として出席した共産党議員を紹介だけにとどめ、祝辞を読ませないとする対抗措置がとられるなど、さらに関係は悪化した。同年大阪で起きた「矢田教育事件」では、当時の解放同盟や教職員組合、地方行政が取り組んでいた越境入学問題に消極的だった共産党員教員が、解放同盟大阪府連矢田支部による糾弾の対象となり、刑事事件に進展。共産党は、党組織を挙げて解放同盟と対決する姿勢を明確にし、両者の対立は決定的なものになった。同盟中央は、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対して除名・無期限権利停止などの処分で対抗した。こうして、1970年には部落解放同盟正常化全国連絡会議(のちの全国部落解放運動連合会、全解連)が発足した。共産党やその支持者たちはこの経緯について「本来、部落差別にたいして、大同団結して活動をすすめるべき部落解放運動に暴力や利権、組織分断を持ち込み、路線対立から親戚や親子関係の分断をはじめとした地域の人びとを二分する大きな誤りを持ち込む結果となった」と主張している。その頂点としていわれる事件が、1974年の兵庫県立八鹿高等学校における、八鹿高校事件の発生であった。
現在でも共産党・解放同盟両者の関係は極めて険悪である。共産党は、部落解放同盟を鉤括弧書きで「解同」と表記する[174][注釈 17]。1990年代初頭までは「朝田・松井派」と、解放同盟側を分派として糾弾する姿勢をとっていた[注釈 18]。すなわち、「解放同盟を自称しているが、実態は利権あさりの集団に過ぎない」という党見解を反映したものである[175]。また、共産党は「志賀義雄一派と結びついた反共勢力が指導部を占拠(「解同」朝田派)し、「部落民以外はすべて差別者」とする部落排外主義を振りかざして、反対勢力を組織から排除しました。」[176]という認識を示している。また、同和利権批判で有名な寺園敦史らは全解連も批判しているにも関わらず、共産党と関係した経歴から解放同盟には「共産党の反動的国民融合論」と見る向きもあった[要出典]。

Wikiの「部落解放同盟」の項に「「同和対策審議会」答申」の項があり、

1965年8月11日に内閣「同和対策審議会」が佐藤栄作首相に答申[19]してから57年が経過した。当時共産党系の派閥は、「答申」を「毒まんじゅう」であり自民党との妥協の産物であると批判した。一方、社会党系の派閥は「答申」を運動の武器になるとして評価した。佐々木隆爾によると、この部落解放同盟の分裂劇の裏側には、部落解放運動の主流から共産党勢力を排除し、部落解放同盟内の利権派に主導権を握らせ、部落解放運動を体制の中に取り込もうとする旧内務省系の自民党右派議員グループ「素心会」の思惑があったという[20]。以後、1970年代にかけて共産党系の勢力が社会党系の勢力に排除され、今日に至る。このような経緯から、共産党と部落解放同盟は反目を続けている。
(略)
部落解放運動の草創期から「言った・言わない」による暴力的な吊し上げが行われていた。その頂点が八鹿高校事件である[21]。1974年兵庫県立八鹿高等学校で共産党系の「部落問題研究会」に対し、部落解放同盟系の生徒が新たに「部落解放研究会」を学校に申請した。これを共産党系の教師が非公認としたことから、部落解放同盟が組織的に解放研の生徒の支援に乗り出し、教師を糾弾するに及んだ。このとき、共産党支持の教員のみならず社会党支持の教員や支持政党のない教員も暴力の被害を受けている[22]。当時は部落解放同盟の不祥事に関する報道がタブー視されていたことから、全国紙はこの事件を積極的に報道しようとしなかった。共産党はこれらの事件を国会で取り上げ、部落解放同盟を非難している。
(略)
日本共産党は「部落問題は既に解決している」として全解連を解散し、人権一般を扱う団体「全国地域人権運動総連合」(全国人権連)に衣替えした。部落解放同盟も部落のみならず、障害者解放など社会的少数者全般の権利を擁護するとのスタンスに変わりつつあるが、部落問題を最終的に解決するのは『行政の責任』だとする立場は堅持している。

ウィキペディアの記述の正確性に不満をもつ人もいるかと思われるが、書き出すとそれだけで長くなるので、以上、Wikiで「参考まで」としてととどめておく。
解放同盟の側からは「部落解放理論をめぐる諸問題―元解同中執,北原泰作氏の分裂策動と日共宮本一派との野合―北原理論=近代化論を批判する」(大賀正行,部落解放19675.10)などあり。

では、滋賀県ではどうだったのか。
部落解放運動の分裂について、滋賀県人権センターの『滋賀の同和事業史』ではどう書かれているかをみてみたい。

部落解放運動の分裂 ここまで述べてきたように、同対法を背景に部落解放同盟滋賀県連は大きく成長し、差別事件にも積極的に取り組んで、社会的にも注目される組織となっていった。しかし、その一方で全国的に展開していた部落解放同盟の内部に生じた路線対立がしだいに激しくなり、滋賀県の運動にも影響を与えるようになっていた。
 部落差別の撤廃を求めた運動のなかには、古くから、労働運動や農民運動などと連携して全体的な社会変革のなかで目的を実現しようと言う考え方がある一方、あくまでも被差別部落住民の利益を大切にしながら方や制度の充実を図ることで課題解決を目指し意見があるなどいくつかの対立があった。また、それぞれに急進的に運動を進めようとする人びとと、社会の潮流をみながら斬新的な改善の実現を考える人びとがいて、運動の進め方に複雑な相克を生じることとなった。とくに一九六〇年代中ごろからは、部落解放同盟内部の一部の人びとが中央本部の方針を強く避難するようになり、対立がより深まることとなった。
 兵庫県でもこうした対立路線が続いていた一九七四年(昭和四九)四月ころから兵庫県立八鹿高校の同和教育のあり方をめぐってタイル都賀先鋭化し、同年一一月には暴力の行使にまでいたる事態となった。この八鹿高校事件が契機の一つとなって、解放同盟のなかで分岐が進行し、七六年三月一五日には中央本部を批判する人びとが全国部落解放運動連合会(全解連)を結成し、運動の対立は決定的なものとなった。
 滋賀県連の内部にあっても、全国の状況を反映して対立が生じていたが、組織の分裂を避けて統一を守ろうとする意見が大勢を占め、のちに滋賀方式とよばれる独自のスタイルが生まれることになった。
滋賀方式の確立 一九七五年(昭和五〇)一月二七・二八の両日、部落解放同盟滋賀県連の第二八回大会が八日市市(現東近江市)で開催された。前年の八鹿高校事件の衝撃もまださめやらぬなか、メディアも注目する緊張をはらんだ大会となった。
 一九七五年二月五日付『解放新聞』滋賀版一四七号によると、大会冒頭に中村一雄県連委員長は「八鹿高校事件は重視し、本大会で県連統一見解を明示する必要がある」と述べ、二日目に運動方針案についての議論が展開された。当然、八鹿高校事件について見解を示すよう質問が出たが、これに対して飯田富一書記長は「部落解放同盟の名の下での暴力は絶対に許されない。社会性を帯びた、愛される解放同盟でなければならない」と回答し、さらに大会の最後に採択された「県民へのアピール」のなかでは「本件における解放運動の特徴は、県民の支持・共感を得て県民とともにしっかりと団結し、しっかりと地に足をつけた運動を展開してまいりましたし、今後も地道で着実な良識ある運動を推進しなければならないと考える」と述べた。「愛される解放同盟」とは、第三章四節でも述べたように、五七年一月の県連第一一回大会で当時の上田一夫委員長が用いた表現であった。そのときには部落住民から「愛される」という意味であったが、この二八回大会で飯田書記長は県民から「愛される解放同盟」と読みかえて回答したのである。県連執行部としては、事件にあらわれた暴力性が県民の批判を引きおこし、運動に悪影響をおよぼすことを強く警戒したと言えるだろう。
「県民へのアピール」とともに「滋賀県下の解放運動の組織と団結を守る決議」が採択されており、このなかでは、「運動の一部において、脅迫やおどしで威圧し、暴力を振るって相手を屈服させる形で運動が進められ、しかもそれが中央本部の指導と容認のもとに行われているとするならば、このことは断じて許せない」と主張した。八鹿高校事件について、部落解放同盟中央本部は、高校の同和教育の進め方に問題があったと批判し、そうした全体像を踏まえて一連の自体を理解すべきであるとしていた。県連はこうした中央本部の姿勢を「脅迫や脅しで威圧し、暴力を振るって相手を屈服させる形」の運動を「容認」するものだと避難したのである。もっとも県連内部でも見解は分かれており、近江八幡市内の支部が結成していた協議会は中央本部を支持する考え方を示しており、大会の決議のすべてに同盟員が心から賛同したわけではなかったと思われる。しかし、大会の最後に中村委員長が「運動方針の統一と団結を守ることを尊重する」と発言したように、組織の分裂を避けることを重視して意思統一がなされた。こうしてのちに滋賀方式とよばれることになる組織のスタイルが、内部に矛盾をはらみつつも誕生し、しばらくの間継続されていくことになる。(p125-7)

 では「しばらくの間継続され」た滋賀方式はどうなったのか。

滋賀方式の終焉 一九八六年(昭和六一)三月二一日、大津市で部落解放同盟滋賀県連三九回大会が開催された。そのようすを伝えた三月三一日付『解放新聞』滋賀版によると、中村一雄委員長が冒頭のあいさつで「基本法制定へ同盟員が団結し取り組みを進めたい。一部に疑問等あろうかと思うが、本大会で議論を深め、基本法制定への決意をお願いしたい」と述べた。午後から八六年度の運動方針に関する議論がおこなわれたが、それに先だち宮田新太郎書記長が辞任を表明した。全解連の見解を支持していた宮田書記長は県連」から離れる決意をしたのである。書記長の辞任を受けて、武雄正己事務局長が運動方針案を説明し討論に入ったが、部落解放基本法の評価について意見が分かれた。基本法制定に賛成する主張が多いなか、県内の各地域の状況に差異があることを踏まえると、「地域の実状に即した法律はどういうものが必要であるのか、ということを十分検討する必要」があるから、「もう少し時間をおいて基本法についての議論をすべきだ」といった反対意見も出された。これに対して竹尾事務局長は「日本の国を人権国家として背骨の通った国にすること」が大事であり、そのためにも部落解放基本法の制定をめざすべきであると反論した。
 こうした議論をへて採決がなされ、部落解放基本法制定要求などを含む運動方針が原案通りに採決された。全解連の主張を支持する人びとは、この大会ののちに組織を離れ、一九八六年五月一八日に大津市で全解連滋賀県連合会を結成した。委員長に飯田富一、副委員長に宮田新太郎らが就任、書記長は橋元淑夫がになうことになった。部落解放連盟滋賀県連の書記長には宮田新太郎のあとをうけて竹尾正己が就任し、新たな執行体制が確立した。こうして滋賀県の部落解放運動の組織は二つに分かれ、滋賀方式は歴史を閉じることになった。(p159-60)

1969(昭和44)年に同和対策特別措置法制定以来、同和対策事業は2002(平成14)年3まで、33年間にわたって実施された。
その後、部落解放基本法制定の要求は実現せず、2016(平成28)年に「部落差別の解消の推進に関する法律」(部落差別解消推進法)が制定されている。
 21世紀に入り、同推協が人権推進協議会と改称するように、「同和」は「人権」という枠組みのなかで論じられ取り組まれるようになり今日に至っている。

 八鹿高校事件のまえに、1969年に矢田(教育)事件があり、部落解放同盟と日本共産党との対立があり、また映画版『橋のない川』について、部落解放同盟が「差別映画」として「第二部」撮影・上映に妨害する事件が続いた。
 後者についてはWikの「橋のない川」でも引用されているが、灘本昌久「映画『橋のない川』上映阻止は正しかったか 今井正・東陽一版を見て」(1993)が参考になる。私は今井版「第一部」は観たが、「第二部」や東版は観ていない。「第一部」永井藤作役の伊藤雄之助は、差別されながらも生きていかねばならない「部落の中でも飲んだくれでだめなやつと見られている藤作」(灘本)を見事に演じていて名演だった。観た当時その「悲しみ」に落涙した記憶がある。

 解放同盟滋賀県連は1970年代を「分裂」ではなく「統一と団結」で乗り越えたと言えよう。八鹿高校事件にも解放同盟内組織にも関わらず批判的であったことも、記憶に残しておくべきところだろう。
 現在の滋賀県連について知るところはほとんどないが、2021年にまとめられた「事業史」から見ると、分裂当時では大きなところで間違えてはいないといえるだろう。

このところの「部落問題」についての論考の書き写しは、図書館問題研究会の組織内の「和歌山県立図書館閲覧制限問題」への対応について、書いておきたいことがあり、そのための学習ノートといったところである。一つのことを書くにしても、それと関係したことを少しは学んでおかなければ、表現が痩せると思うので、ときどき「部落問題」について学んでいる。
 このテーマについては、途切れ途切れとなるがもう少しだけ続くことになる。

 9月27日に長浜で、角岡伸彦氏の講演会「ふしぎな部落問題(仮題)」がある。
 角岡氏は1963年に加古川市別府町出身とのこと。1952年生の私とは10才余の年齢差であり、ともに同じ加古川市の生まれである。私の生まれた西神吉町と別府町は離れていて、別府町はほとんど知らない土地である。青年期の私は、東播磨地域で長らく人権問題に取り組まれていた大西成己氏の教え子であったので、部落問題や障害児教育などに関心をおもっていたので、共通の知人がいてもおかしくないのだが。

 先に紹介したゴクロス編著の「ザ・セクシュアリー・オプレスド」の翻訳を入手した。少しずつ読みすすむことにする。

2024年08月31日

森実「部落解放をめざす教育の展開」など 残日録240821

滋賀県同和教育研究会(1958年結成)は、1947年発足の小・中学校による「滋賀県同和教育研究協議会」を前身として、高等学校も加わる組織となり、滋賀県人権教育研究会として改称し今日に至る組織である。
『滋賀の同和事業史』(滋賀県人権センター.2021)によると、初期の段階から対立を内包する組織であったとのことである。

……五四年の教育二法(公立学校教員の政治的中立を定めた法律)公布、五八年の勤務評定開始、六一年の全国統一学力テスト実施などへの反対運動を展開し、文部省や各地の教育委員会と鋭く対立していた日本教職員組合(日教組)は、文部省指導の同和教育をきびしく批判していった。こうしたなか、日教組に属する県教組も県教委や管理職による同和教育の進め方に対決する姿勢を取った。六〇年11月二五日付の県教組機関紙『滋賀教育新聞』二一五号は「同和教育特集号」として発行され、このなかで、部落問題は「今日の日本において独占資本が支配している中から出てきた最も基本的な矛盾」の一つであるにもかかわらず、文部省は「同和教育を単なる仲よし教育まで後退させようとし、あるいは特設道徳教育とすり替えようとしている」と政府の姿勢を批判した。さらに県教委主催の研究会は「積極的な取り組みに欠け」ており、滋同教三役の一員でもある某校長は現場の要望に応じた話しあいに応じようとせず、県教委の指導主事が全同教を批判する発言をいたなど、県教委や管理職の姿勢を弾劾する議論を展開した。(p96)

日教組としては、同和教育を、道徳教育なのか、社会科教育なのか、とでも分けているのだろう。とすれば、社会科教育がどれだけ科学教育になっているか、が問われなければならないのだが、なにせ当時は「江戸時代の百姓は貧乏でアワやヒエを食べていた」、江戸時代の百姓は悲惨、という歴史教育だったのだから、科学教育というには危ういものだが、「道徳」⇒「徳目」教育は否定したいところではあったのだろう。
今日だと「人権」教育は「道徳」でありやなしや、というところだろう。(肌の色についての教育がヨーロッパのどこかと日本では違っているそうで、日本は道徳的なのだが。)
 この組織は60年に県教委とともに「同和教育の進め方」と題した指針の素案を発表し、62年に正式な「案」を示すが、これに対しても批判が出る。その争点を『滋賀の同和教育 滋同教四十年の歩み』の引用から転記しておく。これも興味深い。

この際の争点は、「一つは同和教育を学校教育の中に閉じ込めるのか、同和教育運動ととらえるのか、二つ目は、官制同和教育か、自主的、民主的同和教育か、三つ目は、部落差別を封建遺制とみるのか、それとも、現在の日本の社会機構の持つ矛盾としてとらえるのか」の三点であったという。六〇年代を通じて、こうした論争は全国で展開されており、これが滋賀県では滋同教内部の葛藤としてあらわれたといえるだろう。」(p97)

一つ目は「教育権」か「学習権」か、や生涯学習論につながる問いでもあっただろう、といいたいが、争点は教育対象の範囲をどう決めるかであったと思われる。二つ目は構造改革派のヘゲモニー論の影響かもしれない。
三つ目が、その後の部落解放運動や部落史研究とも関係する争点である。部落差別を封建遺制とみる側が「国民的融合論」を展開したり、資本主義社会では部落問題はなくならないとしていた解放同盟が「市民社会論」の影響を受けてか「人権」を保証する運動に展開したりすることにつながるところである。

全国同和教育研究協議会の1960年代の取り組みを、森実は「部落解放をめざす教育の展開」(『現代の部落問題』解放出版社.2022)で、

一九五五年からしばらくは「みんなのためにみんなでとりくむ」という親しみやすそうな言葉が使われ、その後数年間は「足元の問題をほりおこす」という、課題を示した言葉が加えられた。一九六〇年代に入ると、漢字言葉を多用した研究大会テーマが置かれている。このあたりには、同和教育運動の試行錯誤が反映していると言えよう。
その後一九六四年の第一六回研究大会では、「差別の現実を明らかにし、生活を高め、未来を保障する教育を確立しよう」へと変化した。現実から出発した教育実践を組み立てることこそ、この時期の同和教育運動にとって不可欠だった。この研究大会テーマへの変化は、議論を通じて大切なことを確認しながら、教育運動として分裂してしまわないよう留意しつつ原則が模索されていたことを示している。それがさらに一九六五年の第一七回研究大会では「差別の現実から深く学び、生活を高め、未来を保障する教育を確立しよう」という研究テーマとなる。「差別の現実から学ぶ」という言葉は、さまざまな意味合いや論点を含んでいる。たとえば、そもそも「差別の現実」とは何なのか、ということである。ここには、差別をどう捉えるかということが反映して、さまざまな内容を含みうる。差別事象はどのように発生し、その背後に何があるのか。生活実態を含めて差別の現実と捉えるのかどうか。「長欠」や「不就学」、「荒れ」や「低学力」など、差別は子どもの姿にどのように表れるのか。教職員はその姿を子どもや親自身の責任と捉えていなかったか。また、「深く学ぶ」とはなになのかということも重要である。前年までは「差別の現実を明らかにし」という文言だった。「明らかにし」と言えば、教職員にとって差別の現実は自分の外側にだけ存在すると受けとめられやすい。「あそこにあんな差別がある」というニュアンスである。それに対して「差別の現実から深く学ぶ」といえば、現実を見据えることによって、個々人が自分自身を捉え直すことを含む。自分自身のなかに差別意識や差別に通じる認識があることを自覚し、そこから自らを解放しようとするのである。「現実から深く学ぶ」を打ち出す第一七回研究大会に向けて提出された「第一六回研究大会総括と第一七回研究大会の課題」という文書では、この変化について、次のように述べている。

単にこのような事実があるというのではなしに、事実を明らかにし、その背景を追求することを通じて、私たち自体がどのようにものの見方、考え方を変えることができたかをはっきりしたいと思います。お互いが事実をどうとらえ、それによって自分たちがどう変わったのかを追求したいと思います。[「全同教三十年史」編集委員会編 一九九三]

かくしてこの言葉は、教職員がどのような事柄を差別の現実として捉え、そこから自分がどのように学んだのかを語り合い、綴りあうことをも意味するようになっていった。子どもたちを取り巻く事実、実践の事実を通して、教職員が差別の現実をどう捉え、教職員が何を学び、いかに自己変革したのか。これを実践報告に綴り、その内容に則して議論を重ね、教職員としての研鑽を深めるとともに、研究組織としての蓄積を豊かにしていくのである。
一九六五年の研究テーマは、現代に至るまで実に六〇年間近くにわたって維持されている。維持されているのは、この研究テーマが同和教育の核心を言い当てていると認められているからだろう。「差別の現実から深く学ぶ」という文言には、さまざまな意味合いが込められており、込められた内容が発展し変化する可能性をうちに含んでいる。だからこそ、長年にわたって意味を持ち続けてきたのだ。しかしそれは同時に、同和教育に取り組む人たちの間で、そうではない立場が繰り返し登場しており、そういう立場に対して批判し、牽制する意味でこの研究テーマが置かれているということでもある。「そうではない立場」とは、端的に言えば、部落差別を意識の問題としてのみ捉え、心がけをよくすれば差別もなくなると考える立場である。この教育観は、「部落差別は封建遺制である」という発想とつながりやすかった。(p158-160)

森の論考は、「部落差別は封建遺制である」という立場に対抗する「独占資本と対決する同和教育」の取り組みとして、高知の事例を紹介しているが、教育委員会系の人たちをも巻き込んでいる同推協では、論議の広がりを期待するのは無理があっただろう。また、当時の歴史学の状況で、いわゆる「労農派」の部落問題研究がどうであったのか、これについて今のところ参考にする文献にまでたどり着けていない。
小早川『被差別部落像の構築』には、「宇野理論に立脚した大串夏身の産業分析」が紹介されているが、いまのところ未見。(大串『近代被差別部落史研究』(明石書店.1980)

森は「「差別の現実から深く学ぶ」という原則が一九六五年に確率されていなかったら、同和教育運動は混乱していたかもしれない。部落差別を封建遺制としてのみ捉える人たちと、独占資本こそが部落差別を助長していると捉える人たちとの対立により、全同協は分裂していたかもしれない。この原則があったからこそ、混乱は小さく抑えられたとかんがえられる。」(p166)としている。

部落問題について図書館員が知っておいたほうがいいことの一つとして、同和教育(または部落解放教育)の歴史がある。
図書館運動においても「貸出の現実から深く学ぶ」ことが、イデオロギー先行の対立を抑えてきたとも言えよう。図書館問題研究会の活動については「図問研の大会基調報告案にみる資料提供」(明定,みんなの図書館.2018-06)としてまとめておいた。

TBS系列の「木下恵介アワー」の作品の再放送をBSで録画して観ている。脇役に新劇の俳優が出てくるので懐かしい。
「たんとんとん」は1971年放送の作品で、当時、大学生だったので見逃している。脚本は山田太一。
ウィキペディアからの引用で、あらすじは、

高校生の健一は、いつも、母・もと子と喧嘩ばかりしている荒くれ息子。しかし、大工の棟梁である父親が旅先で倒れ帰らぬ人になってしまったことで生活は一変。もと子のあまりの落ち込みように健一は、大学進学を諦め父の跡を継ぐ決意をする。

主演の健一は森田健作。母がミヤコ蝶々。始まってそうそう父親が死ぬので、父親の登場はない。棟梁の弟子の大工に杉浦直樹。知人の大工の棟梁に花沢徳衛。その妻に杉山とく子。
死んだ棟梁の行方知れずの妹が相続金目当てに乗り込んでくるのだが、それが加藤治子(当時49才?)で、気の強いヤクザな女を演じていて面白い。母親役の印象が強いのだが、これは見もの。当人が気に入っているらしいところと、ミヤコ蝶々との掛け合いがいい。
森田健作が「徹子の部屋」で、父の棟梁の死後に雇われる大工を演じる近藤正臣について、その頃、人気が出て忙しくなりスケジュールが合わず、最後の方は登場しないで終わった、と話していた記憶がある。その最後の方だけは以前の再放送で観ている。
近藤扮する大工の青年は行方がわからなくなり、最後は電話ボックスから主人公に電話するシーンがある。青年は田舎から追っかけてきた少女(榊原るみ)と結婚を決意したらしく、故郷の鳥取に帰っていたということだった。その電話ボックスでのシーンの次に、電話ボックスのある駅の近くの風景が映るのだが、それが兵庫・但馬の余部鉄橋だったところがバタバタした収録を伺わせる。
「夢千代日記」の冒頭に餘部鉄橋が出てくるのだが、それは1981年の放送だから、1971年当時なら、全国的には鉄ちゃん以外はあまり気にしなかっただろう。

2024年08月21日

葉月雑記 残日録240806

コロナ禍が広がっているようで、合唱団のメンバーが数人感染したことは前にふれておいたが、なかのお一人が、コロナから肺炎になり昨月の下旬に脳梗塞がわかり、逝去された。コロナからの一連の継続であったのかはわからない。普段、ほとんど気にかけてはいないので、たまに雑踏でマスクをする程度だが、周りからは気をつけるようにとのお言葉がある。

お盆は加古川に帰る。ごえん(院家)さんと、遠縁の無縁仏となっている墓をしまうについて、相談しなければならない。お盆はお忙しいだろうから、9月にするか、などと急ぐわけでもないので引き延ばし、都合の良い石屋さんも紹介してもらおうとしている。「明定家の墓」というのを父が生前に建てたので墓仕舞いしなければと思っていたが、弟が母親の「お骨」を墓と本山に分骨するといい出したので、「墓」はそのままに、となる。父の兄が戦死しているので、戦死者の墓があるのだが、こういう戦死者の墓というのも残しておいたほうがいい、というので、これも当面残すことにする。

氷河期に向かっている地球の今の温暖化については、CO2の影響が言われるので、そんなものかと思いもするが、そこからの対策の話になると、複雑すぎてよくわからない。気候変動が地球の歴史において許容域でありやなしや、となると不確かなことである。
よくわからないのにはいろいろある。電気自動車のほうがガソリン車より環境に良い、という意見もあるが、ガソリン代や電気代は政策的に決まったり、国際的な政治状況に影響を受けたしする。そういうところから離れて、素朴にどちらが効率的でECOか、を学びたいと思う。「縮小社会」化しているという立場からだと、また違った論点も生まれよう。
火力発電より原子力発電のほうがECOだ、というような論が出ると、言いっ放しのように思う。「原子力発電」そのものと現行の原子力発電施設とをぼんやりと一括りにして論じるのは如何かと思う。現行の政治体制下での原子力発電は犯罪だが、良き体制に変革し「民主的な原子力行政」を行うと問題ない。という見解も過去にはあったようにも思う。「原子力発電の作り出すゴミ」が未来永劫、悪い物質ということもないだろう、とも思う。だがしかし、現行の原子力発電施設が当面「ゴミ」問題を解決できていないっことは確かだ。

「一冊の本」(2024.8)の太田光の「芸人人語」が「一〇〇年の森」と題して「神宮外苑再開発」について取り上げていて、いろんな立場の意見を紹介している。お忙しいだろうにと思う。労作だ。

「もう紙面がいっぱいだから、簡単に書くと、環境破壊への懸念による反対。景観が変わることへの懸念による反対。樹木の伐採に対する反対。伝統ある球場、ラグビー場が取り壊さえることへの反対。アマチュアスポーツ施設、例えば軟式野球場などがなくかることに対する反対。再開発計画について市民との対話が足りていないと感じることに対する不満からくる反対。環境アセスメントのデータが完全に開示されていない、あるいは間に合っていないことに対する不信感からの反対。ここまでにいたる政治的プロセスが不透明であることに対する反対……!?など、他にもたくさんある。/これらを全て整理した上で冷静に議論するのは、至難の業だと私は今、この文章を書いていて思う。」(p84)

この春、創刊された「地平」という雑誌の創刊号に「鼎談 地域・メディア・市民」があり、内田聖子(NPO法人アジア太平洋資料センター共同代表)と岸本聡子(杉並区長)、南彰(琉球新報編集委員)の鼎談が載っている。司会は熊谷伸一郎(「地平」編集長)。

岸本 ……杉並区には五七万人の住人が暮らしていますが、住民にとってとても重要な課題、たとえば地域の再開発などの問題をとってみても、ほとんどメディアでは報道されません。外苑の再開発問題は全国紙で報道されていますが、杉並区だけではなく都内のほとんどの区で急速に進められている巨大な開発・再開発プロジェクトは、住民生活に重大な影響を与えるにもかかわらず、ほとんど報道されません。ローカルな開発問題を取材して報道しているのは東京新聞だけですね。
今の国会に、問題の多い地方自治法改正案が出ていて、私たちLIN-Netでも声明を出しているのですが、これについて書いてくれたのも東京新聞だけでした。地域や地方自治における私たちの主体性や主権の重要性ということを全国紙が伝えるということは、難しいのかな、と。(p87)

岸本 ……特に、東京二三区のような基礎自治体では、たとえば大きな都市計画やインフラ整備について、東京都や政府が決めるのは当たり前だと思ってしまう雰囲気があります。たとえ私たちが事業の主体でなくても、地方主権という意味では、きちんと情報公開を求め、その内容や意味を区民にきちんと伝えていく責任があります。私たちは自治の主体であるのに、最初から「自分たちは事業主体でj¥はないから」と、情報を得ることや、それを共有して住民と議論し、都や国に対して意見を述べることを諦めてしまう。これをどうするか。それが今、私にとって大きな問題意識の一つです。(p90)

内田 ……地域の情報を共有して議論していくことの重要性を住民の観点から見てみると、自分たちの政策を実現しようとする首長を誕生させることに成功したとき、そこから住民が「非評者」でなく「自分ごと」としてどうそれを支えていくか、という課題です。私たち住民の側もアップデートし、民主主義や自治を進化させるマインドが必要です。(p90)

岸本 ……住民が地域コミュニティの中で地域課題に向き合うことができる環境が大切だと思います。メディアと緊張感を持ちつつも連携して情報を共有し、行政職員とも議論し、住民とも絶えず議論して、私たち自身の手で政策を地作り、社会的な合意形成をしていくということ。そして、それを本気で実践する力が自治体にはあるのだということを見せていきたい。状況は厳しいですが、危機感とともに希望を感じているところです。(p91-92)

 雑誌「地平」の編集長、熊谷伸一郎は岩波の「世界」の編集者だった人。

 私たちは、2024年6月、あらたな言論の拠点として、雑誌『地平』を創刊します。
 時代が提起する課題と向き合い、思索し、そして変革をめざす風が興るとき、そこには必ず雑誌という形で言論の拠点が存在します。
 私たちがめざすのは、まさにそのような雑誌です。

とあり。
 創刊(7月)号「創刊特集 コトバの復興」。8月号「特集 右翼台頭」。9月号「特集 ジャーナリズムをさがせ」

 9月号は来週に本屋に行き他の定期購読とともに入手予定。

 最近、入手した雑誌に「外交」がある。都市出版株式会社から隔月で出ている最新号で86号となっているのに、田舎住まいでもあり、都会の本屋通いもずいぶん遠のいてたので気づかなかった。No.85はアメリカの大統領選が特集だった。バイデンが舞台から降りたので時事的には古くなった印象を受けるが、アメリカの政治状況を日本の側からどうみているのかは読むことができる。
同号、座談会「韓国総選挙のとらえ方」から

箱田(哲也 朝日新聞記者)
 よく、「韓国外交は大統領の専権事項で、国会は関係ないから変化しない」と言われますが、私はやや懐疑的です。伊大統領の求心力は、今後ますます失われていくでしょう。与党内のみならず、実務当事者たちのパフォーマンスにも影響して来るのではないでしょうか。
 とりわけ、いま万代なのは徴用工問題です。財団を設立して第三者弁済方式をとることで、何とか日本企業に実害が及ばない解決策を出したわけですが、基金の枯渇が追っています。韓国政府や与党の間からも、日本がもっと協力してくれれば、といった声が強まってイます。
 二〇一一年、当時現職の李明博大統領が竹島に上陸したことがありました。李氏の元側近たちに取材すると、単なる支持率上昇のパフォーマンスだけではなく、李氏が大統領として勧めてきた対日政策に日本側が一定の呼応をしてくれなかった失望感が背景にあったというのです。日本はこの教訓を忘れてはならないと思います。合意が成立すれば終わりではなく、アフターケアが大切です。明治日本の産業革命に関する世界遺産をめぐる問題では、韓国側から「日本がゴールポストを動かした」という指摘が出ています。これらのマネジメントは重要なのです。
 特に注意しなければならないのは、最近、LINE・ヤフーと韓国NAVERの提携について日本の総務省が行政指導をした問題です。日本で思われている有情に韓国では深刻に捉えられており、日本による半導体素材輸出規制強化(一九年)の第二弾なのではないか、との指摘さえ出ています。日本の政府に悪意がないのならば詳しく説明し、外交的にご可の芽を早く摘む必要があります。政府間で伝えるだけでなく、一般の韓国の人々にもわかるような「メッセージ」を出し続けなければなりません。

 磯崎(典世 学習院大学教授)
 私も同意します。伊政権の初代外交部長館として大統領と遺書に二三年に訪日し、元徴用工訴訟問題の解決策を発表した朴振は、今回の総選挙で落選しました。彼は政権初期の対米・対日関係改善の「顔」でもあったわけで、伊政権の外交が青果として評価されていない象徴的な例だと思います。今後大統領が、対外政策を変えずに推進していくのは簡単ではないでしょう。箱崎さんが言われるように、日本外交のあり方として相手国の国民にきちんと届く」コトバで説明するという配慮が不足していると思います。徴用工問題の解決策は韓国側として思い切ったのに、日本側は伊政権と合意しただけで全て韓国任せにしていることが、韓国も区民の大きな不信を招いています。
 経済に影響する日本の政策への国民の反応はより激しいものがあります。文在寅政権期の日本製品不買運動も、徴用工問題ではなく半導体素材輸出規制強化が契機でした。そのテンでLINE・ヤフー問題の対応は注意を要します。韓国のNAVERがLINEというアプリを開発し育ててきたのに、日本の総務省の行政指導で経営権が奪われる――すなわち「韓国経済の需要な成果を日本が奪っていく」といった報道がされ、誤解が広まっています。
(p67-68)

 No.86は「欧州は国際秩序を担えるか」が特集。
 編集:『外交』編集委員会は、委員長;中西寛(京大)、委員;飯塚恵子(読売)、川島真(東大)、細谷雄一(慶応)。編集長;中村起一郎

 今週から高月まちづくりセンターで「読み聞かせ教室」を開く。5回の講座にしていただいた。主催は、高月の読み聞かせボランティア「みどりのふうせん」。レジュメは「いつも」のものを使う。
20数年前に、滋賀県教育委員会事務局とともに「教員のための読み聞かせ入門」という研修講座を立ち上げたことがあった。当初の数年間に試行錯誤して作成したレジュメをこういうときには使っている。例示している絵本は古典だから変更せず、講座の中ではそれとは別の比較的新しい絵本を紹介している。
絵本はロングセラーの定番ものが多く、それに加えて、新しく定番となりそうな作品を紹介するのがよいと思っている。
絵本がこども向けにつくられるのではなく、読む世代を問わずにつくられていること、ブックスタートの影響もあってか、乳幼児向けの絵本の出版がさかんなこと、などを言っておくのはいつもの通り。

絵本ナビのランキング100に最近の絵本が少ないのは、児童向けというところから絵本も離れていっているのかもしれない。21世紀前後の「怒り」をもった、「怒り」を隠れもったストーリーはどこへ行っているのだろうか。このところ、絵本を追っかけていない私には見えていない。絵本の評論からも得るものがないのは、勉強不足の所為。
「声」について、竹内敏晴から学んだことなどを、「司書のことばは利用者にとどいているか」という文を「図書館評論」に発表したが、これといった反響はなく、「よみきかせ」の実技講習に役立っている辺りか。
講座は8/9・30 9/6・13・27とあり、9月下旬からまた「部落問題」の課題もどる予定。

2024年08月06日

ハービー・ゴクロス「セクシャリティの意味と機能」または「われわれは何のために性行為をするのか」など 残日録240730

 「こころの科学 233」2024.1 「特別企画 セクシャリティ 対人援助の新たな視点」でハービー・ゴクロスの「セクシャリティの意味と機能」についての記述に出会った。
佐々木掌子「セクシャリティと臨床心理学」という論考の中で紹介されていた。

ゴクロスらは、セクシャリティの意味と機能を以下の五つの要素に分けて考える事ができると指摘している。①性的な快感としての性、②親密な関係としての性、③アイデンティティーとしての性、④生殖としての性、⑤支配や影響力としての性、である。セクシャリティの五つの要素のうち、どれがクライエントのテーマとなっているのか、これを混同しないことがまず重要である。そしてこれら五つの側面について、援助者自身が「〇〇であるべきだ」「〇〇なものだ」とセクシャリティの価値観をもっていても、それを自覚できていないと、無意識のうちにクライエントを善悪で裁くことになりかねない。自覚できた場合、今度は「審判を下してはいけない」と動揺し、スルーしてしまうということが起こるのではないか。
とくに、性的な快感としての生は蔑ろにされやすい。前述の不登校の母親のケースは、親密な関係としての性の話だけでなく、性的な快感としての性もテーマになっているかもしれない。援助職自身が性的な快感に罪悪感や忌避感、羞恥心をもっていたとしたら、動揺し、なかなかクライエントの話を聞く態勢には入れないだろう。あるいは、摂食障害のケースに対して「夫婦になるのは親密な関係の人」という価値観を抱いていたとしたら、自分の価値観と異なる語りをするクライエントに違和を感じ裁いてしまいそうだと動揺し、スルーするということもあるかもしれない。(p25)

このゴクロスの指摘は、Gochros,H.l., Gochros,J.S;The sexually oppressed. Asssociation Press.1977.からの引用、とのことである。

ゴクロスをPCで検索してみたら、「第4回 AIDS文化フォーラムin京都 報告書」がヒットした。
山中京子「ヒューマンセクシャリティ―基礎講座―」の記録の中に「われわれは何のために性行為をするのか」が出ている。

性科学の基礎知識として、人間の性的な発達を受精の瞬間から成人に至るまで遺伝子、ホルモン、性器、性自認、 性役割、性指向のレベルから捉える考え方が紹介され、その知識を基礎に多様な性のあり方が身体的性、身体的性と 性自認の関係、性指向の諸側面で生じていることが説明された。また、性科学者であるミルトン・ダイヤモンドによる「自然は多様性を生むが、社会はそれを規制する」という言葉が引用され、われわれの社会は自然に多様性が生じ てくるヒューマンセクシャリティに対して「異性愛主義」による一定の規制をかけ、そのことが性的少数者である人々 を抑圧し、その人々がありのままの性で生きられない状況を生んでいることが指摘された。また、「われわれは何の ために性行為をするのか」という根本的な疑問についてハービー・ゴクロスの提唱した(1)性的な快感(身体的、 精神的)を得るため、(2)ある特定の人と近づき、親しみ、より知り合うため、(3)誰かを相手に性行為を通じて 自分の何かを証明するため、(4)子どもを生むため、(5)自分を認識するためという考え方が提示された。その他に、 ヒューマンセクシャリティが持つ個別的対社会的、身体的対心理的、個人的対関係的といった両側面について、説明 がなされ、その両立あるいは混在の中にわれわれの社会のヒューマンセクシャリティがあることが確認された。(p38)

① 性的な快感としての性=性的な快感(身体的、 精神的)を得るため
② 親密な関係としての性=ある特定の人と近づき、親しみ、より知り合うため
③ アイデンティティーとしての性=誰かを相手に性行為を通じて 自分の何かを証明するため
④ 生殖としての性=子どもを生むため
⑤ 支配や影響力としての性=自分を認識するため

⑤のところが原文の約として2訳語のあいだに幅があるが。
 これについては、翻訳が鹿児島国際大学福祉社会学部「福祉社会学部論集」に連載されているので、取り寄せることにする。

 BLをテーマにしたTVドラマ・アニメが最近、多くなっていて、それが20世紀末からの「JUNE」系の系譜としてだけでは読み取れなくなってきているように受けとめている。
BL本については、作品論や作家論にまで手を出す余裕がないが、「セクシャリティ」については気になるところであり、このゴクロスの説に出会えたのは嬉しかった。
どこかの政治家が、といっても日本の中での話しだが、少子化対策として「一夫多妻制」を唱えたような情報が流れているが、当人の表現が誤解を生む稚拙であったのかもしれない。明治以前の日本では「性愛」「生殖」「家族」また「家」といったものが今とは違っていただろう。
「処女」神話が日本において大衆にまで流行るのは昭和後期からではないか。
1952年生の私の幼年期の記憶では、まだ村内では「夜這い」は認められていたように思う。
 また、氏子であった生石(おうしこ)神社の秋の祭礼では、「赤(あか)」という赤い天狗面にシュロ様の毛髪を付けた装束の猩々が登場するが、その装束をつけた青年が夜も深くなると暗闇のなか娘を襲うことがあった。私の幼少時には蛮行ではあるのだろうが非行とは受けとめられていなかった印象がある。小学校の高学年になったあたりから非行と見なされるようにもなり、その猩々の衣装に背番号つきの布が縫い付けられ、襲われそうになったら訴え出ることになったが、襲う青年よりも深夜までうろついている娘のほうが非難されていた。

 「こころの科学 233」の滝川一廣「〈性愛〉とはなにか、その発達――LGBT問題に沿って考える」で滝川は、

 ……一九世紀末から二〇世紀初め、性倒錯への異常視や差別感は否定されていた。いや、それを待つまでもなく性の文化史を遡れば、古代アテネ市民の間ではGは公認で、むしろ純粋な〈性愛〉とされたことはよく知られている。Lも、その語源となったレスボス島の女詩人の伝説は少しも否定的なものではなかった。ただ、その後のキリスト教支配によってこれらを聖書に背く「悪徳」となす観念が根を張ったという西欧固有の歴史があったに過ぎない。欧米で端を発したLGBTへのポリティカル・コレクトネスには、その反省と反動という色あいが濃い。
 日本にはそうした歴史はなく、同性愛者も古代から現代まで性文化の一角に収まっていた。明治以降の欧化政策やキリスト教受容によって否定の視線も輸入されたとはいえ、それが社会を覆うことはなかった。たとえば戦前もL色の強い吉屋信子の少女小説は広く愛読され、なんの問題もなかった。八〇年代前後には同性愛を描く青少年向け人気コミックが流行したが、眉を顰める大人はおらず、テレビアニメで放映された作品もあった。性的マイノリティに対する日本人の態度は概して成熟度の高いものだったと考えられる。(p15)

 と西欧と日本の違いを指摘している。
 また、

 私の認識が甘いのでなければ、諸外国は知らず現代日本に性的マイノリティに対する偏見差別が根を張っているとは見えない。それでもLGBT問題が取り沙汰されるのは、単なるグローバリスム下での欧米追随でないとすれば、現代の日本人の〈性愛〉のあり方に何らかの変化が起きている表れではなかろうか。それを探るには、社会一般の性意識、マジョリティをなす異性愛に目を向ける必要がある。紙数も尽きたので、考えどころに触れるにとどめる。(p19)

 早期の性交体験や青年期の婚姻の著減は、〈性愛〉が本来持つ男女を結んで生殖に向かわせるパワーの社会的な弱まりを意味しよう。その意味で、もともと生殖性との結びつきの弱いLGBTとの距離が縮まっているのかもしれない。この弱まりは何に拠ろうか。むろん、これはまだ現代の〈性愛〉問題を追究するための作業仮説に過ぎず、機会があれば検討を進めたい。(p20)

としている。
 性的快感と生殖としての行為と、親として育てることとが連続したものでなかったり、生物としての性と「男性性・女性性」がずれたりするところで、多様な〈性愛〉や〈育ち〉が生まれているのだろう。
 大塚隆史は城戸健太郎との共編『LGBTのひろば』(「こころの科学」SPECIAL ISSUE 2017)の「刊行によせて」で、

 このたび寄稿された原稿を読むと、具体的な悩みの方向性に違いはあれ、性別の枠組みを超えて生きようとすることが、どれだけしんどい試みなのかが痛みを伴って伝わってきます。それぞれは別の問題のように見えても、すべてが同じ根っこから生まれている苦しみです。個人が、社会の「性にまつわるルール」から外れて生きたいと思ったとたんに味わわされるものだからです。そのルールを堅持すべきと信じる人たちは、その動きに不安と恐怖を感じ、意に沿わない他人の生き方への抑圧と束縛を与える装置となっています。それこそがLGBTQの人々を苦しめます。その不安や恐怖は、LGBTQの人々自身の心の中にも巣食っているところが、この問題の根の深さを表しています。
 (略)
 こうやって体験を語り、問題を共有していくことがLGBTQの個々人が孤立をやめ連帯をしていくための第一歩なのだという気がします。男だから…女だから…という足枷は、LGBTQに限らず、実はすべての人に関わっている問題です。この問題では非当事者はいない、という認識ができるだけ多くの人に共有されることを心から願っています。(p1)

 
鯨岡峻編訳『母と子のあいだ 初期コミュニケーションの発達』(1989.ミネルヴァ書房)が「母性神話」から離れて読まれるべきであるように、LGBTQの語りが伏見憲明の「N個の性✖N個の性」というジェンダー論や滝川の「現代の日本人の〈性愛〉のあり方の何らかの変化」と重ねて読まれることを願っている。
「はて」である。ゴクロスのセクシャリティ論は、日本ではどれくらい影響を与えているのだろうか。

2024年07月30日

四月猫あらし『ベランダのあの子』 残日録 240724

四月猫あらし『ベランダのあの子』読了。
父親から「虐待」を受ける小学6年生の男の子のものがたり。
8階建てマンションの最上階に住む一家の一人息子の颯は父親から虐待を受けていた。母にもDVの父だった。
向かいのマンションの4階の部屋のベランダに虐待を受けている女の子を颯は見つける。社会的にはエリートの暴力をふるう父親と虐待を受ける母子の閉じ込められた家庭内の均衡は、その女の子を颯が助けることで破られる。母子は父と別居するが、それでも離婚は成立せず、父から逃れた生活が続くことになる。母に経済力がつくことで、物語は一区切りをつけるという結末になる。
最後の部分。

ぼくは家族を壊した。
もしぼくが壊さなければ、いまだにぼくと父と母はあのマンションに住んでいたはずだ。時々暴発する父に怯えながらも、それでも家族そろって、時々海外にも行って。はたから見たら十分幸せそうに。
実際に幸せだったんじゃないか? 単にぼくのわがままだったんじゃないか? もしかしたら、あとほんのちょっと我慢したら、全てが上手く行ったんじゃないか。
そんな考えが頭の中をぐるぐるとする。
後悔していないと言い切ることはできない。たぶんこの先、ぼくは何度も何度も自分のことを責めるだろう。自分が家族を壊したのだと。下手くそなキャチャーみたいに、父の豪速球の愛を受けとめきれなかっただけじゃないかと。
児童相談所から紹介されたカウンセラーはいつも言う。
「これだけは覚えていて欲しいの。愛は絶対に暴力のかたちをとらない。それは愛じゃない。あなたはなんにも悪くない。あなたのせじゃない」
でも、そうだとしたら、いったい誰のせいなのか、ぼくにはわからないでいる。

それでも、ひとつだけわかることがある。
もしぼくが将来、父や母と同じようなことをするならば。
父のように傷つけ、母のように目をそむけるならば。
それはぼくのぼく自身への裏切りだ。
ぼくはもうぼくに背を向けない。
ぼくはいつでもぼくの味方だ。

そんなぼくのことが、前よりずっと好きだ。   (p194-6)

読書メーターのまる子氏の感想に

なんというか、最初から衝撃的な始まり。小6男子が主人公。毎日父親の顔色をうかがいながら生活し、テストで96点でも怯えなければならない。息子に暴力を振るい、見て見ぬフリをする母親。ある日ベランダにあの子を見かけた。彼女もそう、彼と同じく虐待されている。最後の父親にはガッカリ😮‍💨最後の最後でほんの微かな光が見えたような?いないような?終始気持ちが下がりっぱなしの読書💦著者は元学校司書で、通勤中などにスマホで執筆。新人賞の入選作品。受賞しなくて良かった。子供が読んだらどう思うんだろう…。

まる子氏は、父のことが解決しないままの物語の収束に、いささか不満のようだ。

父のことはまだ整理がつかない。憎いとか憎くないとか、許すとか許さないとかそういうところの、ずっと手前のところにいる。(p193)

のである。物語は下記穴には向かわない。颯自身が「虐待の連鎖」を断ち切ることに向かっている物語でもあるのだ。
日本児童文学者協会第20回「長編児童文学新人賞」入選作。入選作から、日本児童文学者協会賞や協会新人賞の受賞の対象となることはあっても、これは協会と小峰書房の共催による新人賞で、新人賞そのものが受賞作である。

山下都芳の選評では、

父親から虐待を受ける小学六年生の男子が主人公。父親からのあきらかな暴力にもかかわらず、それを虐待とは認めず、自身の無力感や罪悪感へと転嫁していく被虐待児の心情の描き方がリアルで、身につまされた。希望を感じるラストも好印象。

とある。
三輪裕子の選評に「最後両親は離婚するが、暴力を振るう父に更生する気持ちや機会はなかったのか気になった」とあった。はて、どうだろうか、物語の中で子どもたちが生きることを通して「状況が変革される」のではなく、子どもたちは「状況をかい潜り」自己変革を遂げるしか物語は成り立たないのではないだろうか。

子どもは親を選べない。自分の生まれた環境を選べない。遺伝や生育環境から影響をうけて育つ。とは言っても、その子の一つ一つの選択がその人の歩みということにはちがいない。塀の中に入ることがあろうが、また、なかろうが、何かが豊かであろうが、また貧しかろうが、振り返ってみると、そうとしか生きられなかったのだなあ、という思いがする。
諦めではない。生き延びる術と児童文学が近くなれば、児童文学である必要はないのだろうが。

2024年07月23日

文月雑記2 残日録240716

7/14は加古川合唱連盟のサマーコンサートに男性合唱団❝風❞はコロナに罹った人が数人出て、前の週の練習時の感染かな、参加が急遽取りやめになった。その週は、図書館問題研究会の全国大会が茨城県の日立であり、欠席していたので助かった。
 
 市川朔久子『しずかな魔女』読了。
 不登校の中学1年生の女の子が主人公。その子の平日の居場所が図書館という設定。
 『しずかな魔女』は、深津さんという司書が主人公草子(そうこ)に少し気づかいをしてくれるというところから話は動き出す。しゃべるのが得意じゃない草子に〈しずかな子は、魔女に向いてる〉というメモを、お守りとして手渡す。
〈しずかな子は、魔女に向いてる〉という本を読みたいと草子は思い、それを深津に伝える。夏休みになると図書館という居場所がなくなる、という現実を前にしながら本を待つ草子に、「しずかな魔女」というタイトルのプリントアウトしたばかりの紙の束が届く。「それは、ふたりの女の子の、まぶしい夏休みの物語だった。」
物語は『しずかな魔女』というひと夏の物語を入れ子にしている。主人公が、親戚のところでひと夏をすごすとか、家出をするとか、旅に出るとか、どこかに移動して日常と違う体験をするといった物語のパターンではあるが、これは主人公にだけに向けて書かれた物語を読むというストーリーである。無理がなく読みすすめられる展開になっている。

私の関わった図書館は開館以来、不登校生と縁の深い図書館で、開館の数年後に図書館の裏部屋のようなところが「フリースクール」の場となり、それは十数年のあいだ平成の市町村合併まで続いていた。そのフリースクールには教員のOBが配置されていたので、図書館員としては積極的に関わることはなかったが、間接的に学ばせていただくこともあった。
図書館の館内をぶらぶらしている小中学生に本書のように「不登校なの?」とあからさまに聞く利用者がいたかもしれないが、不登校生の居場所になっていることは住民の間でも、図書館に関心のある周辺の町の人にもよく知られていたようで、そういう利用者は少なかったように思う。そういう危険を感じたときは、カウンターのそばに逃げてきていたのかもしれない。

図書館がそういう空間になるには、図書館員の〈からだが劈かれる〉ことが必要だと思う。これについては直接ではないが「司書のことばは利用者に届いているか」(図書館評論58.2017)で竹内敏晴について書いている。

岩瀬成子『ひみつの犬』読了。
著者のデビュー時代には児童文学を読むことも仕事の延長としての日課だったように思う。1950年生れの著者は私より2歳年上で、デビュー作『朝はだんだん見えてくる』(1978年)はしなやかな感性でベ平連の空気をとらえていた。遅れてきたというか、祭りの終わったあと、というか、著者のような時代の気分とは縁のない学生時代をすごした私にとって、追体験などとうていできない脱帽の読後感だった記憶がある。
読書メタ―の「よいこ」さんの感想を転載しておく。

2022年岩崎書店。常に黒い服を着ている5年生羽美のアパートに引っ越してきた4年生細田くんとその犬トミオ。一つの秘密から、いろんな生活の周囲の秘密やなぞ、事件が見えてくる。正しいって何なのか、いけないことをする人は悪い人なのか。とても大事なテーマが流れている本だと思う。しかもリアルで自然だ。そしてやはり岩瀬さんの本は決して決着や正解は示さずにこちらにぐいっと投げかけられて終わるのだった。これは繊細な描写で人間社会の人の心と行動の在り様を映していてすごい小説。特に思春期の子、中高生とかに読んでほしいなあ。

こういう輻輳した物語を読める中高生は、湊かなえを読むような気がする。

図問研の大会では「図書館の自由・危機管理」の分科会に出た。福音館書店『かえるの天神さん』(2020.1)の販売中止・回収に関係して、回収に応じた図書館が問題になっていることについ発言した。
回収の場合もあれば、回収-訂正版の交換、訂正箇所の修正要請、等々もあるのだが、福音館では以前に、たくさんのふしぎ『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』(2010-2)が販売中止・回収となっている。図書館ではそのまま開架にしたり、福音館からの販売中止のお知らせを添付したり、閉架したり、と回収に応じない館もあったが、回収に応じた館もあった。
日本図書館協会は、NPO法人日本禁煙学会の「タバコ礼賛「たくさんのふしぎ2010年2月号」の不当性について」に対して、「図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。」「図書館の収集した資料がどのような思想や主張をもっていようとも、それは図書館や図書館員が支持することを意味するものではない。」といった理由をあげて、資料提供は抑制されるべきでない、と回答してる。
日図協は「個々の資料の扱いを含む図書館の運営について指示を行う立場にはない」のではあるが、協会としては回収に応じることに否定的な意見である。「なお、図書館は著者ないし出版当事者が自著に見解を付加する要請を排除するものではありません」として、お知らせの添付などには肯定的ともとれる判断をしている。通常、ケアレスミスなどの正誤表の範囲内は添付さるが、それの延長として取り扱う分には問題ない。
回収に応じた個々の館の判断に対して、日図協は直接に適・不適の判断をするものではないが、専門職である司書としては「館は回収に応じるべきではない」という立場であるのだと思う。
図問研の高野淳氏の調査によると、「ごく一部の調査であるが、図書館が回収に応じている実態が確認できた。私たちは、図書館は回収に応じないと考えていたが、常識が覆されてきている。」
「人権・プライバシー」に抵触する図書を、閉架とし研究者のみに利用制限することがある(これが鳥取ループ等で揺らいでいますがそれはさておき)のだが、福音館の2例の場合はそういう扱いにはあたらない。
では、訂正・改訂版が出されてそれと交換したいという場合はどうなのか。従来ならば旧版を閉架とし回収・交換に応じず、訂正・改訂版を新たに購入するということになる。旧版へのアクセス権を保障するという意味だと思うが、1970年代ならそうであったかもしれないが、相互貸借のネットワークが成立している現代において、当該図書の所蔵館は旧版を閉架にして利用者のアクセス権を保障する、ということにはならないと考える。県内に旧版が1冊あればアクセスは可能なのである。
こういう現状と「図書館の自由」との調整は必要だろう。旧版を交換に応じ訂正・改訂版を提供しようが、アクセスが保障されていればよいという判断もあってしかるべきだろう。
『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』は、嫌煙派の喫煙助長批判が購入者に影響を与えるという「商品として失敗」(ひこ・田中)の枠に入るだろう。
しかし『かえるの天神さん』の場合は、案山子氏のレビューでは「出版社のHPでは、編集上に瑕疵があったと記していて、それ以上の説明はない。これでは、何が問題だったのかが判然としない。時間をかけてもこの回収については、考えるところが多いように思う。」とある。
「編集上の確認作業において瑕疵」だけでは何のことだかわからない。ネット上では好評なのだが。福音館という出版社がキリスト教以外のテーマを扱うのは問題だ、というわけでもなかろうが。天神信仰の扱いに不満があるのかもしれない、ぐらいの推察か。福音館は「編集作業において瑕疵」というのだから、なんらかの手続き、手順の間違いということだろう。天神信仰への冒涜なのだろうか。
蛇足ではあるが、日本の在来宗教は啓蒙書や児童書の出版に対する意識が低い。まあ、真宗門徒は「南無阿弥陀仏」と唱えていけばいいのであって、知識など妨げで「妙好人」たるべし、ではあるが。

2024年07月16日

文月雑記 残日録240702

春先に「危うきに近寄らず」と思っていた男声合唱団に4月から参加している。月に数回の実家通いのモチベーションを高めるためにも入会した方が良いように思い、練習にも発表会にも参加している。気分転換にもなり、体力の維持にも良さそうだ。
先日、練習の前に加古川の松風ギャラリーで開かれている故藤本白峰氏(1926-2006)の作品展を観てきた。加古川市立図書館勤務時代にいっときではあるが上司であった書家である。滋賀県の書道が大田左卿氏に牽引されたように、兵庫県の書道に大きな足跡を残された樋口尾山氏の高弟であった。滋賀も兵庫も自由な筆の運びを評価する書道教育という傾向がある。
書であっても絵画であっても、芸術は自己と赤裸々に向かい合わなければ表現となり得ない。白峰氏の書は、端正な筆の運びで静謐を希求しておられるように感じられる。その人柄を偲ぶ時間となった。

 今月上旬は、図書館問題研究会の全国大会が茨城県の日立であり、それに参加する。若い世代から刺激を受けたい、というほどにアンテナが尖っているわけでないので、まあ老醜をさらすだけに終始することのないようにと、心している。

 日本児童文学(月刊.日本児童文学者協会)を数年さかのぼって読んでいる。そこから、

加藤純子;(樋口一葉『にごりえ』の)路地を転がるようにさまよう、お力のモノローグは途切れることなくえんえんと続きます。こうした句読点のない文章にたいし、高橋源一郎はこう書いています。「通常のリアリズムになれたわたしたちは、これを読み、まず「読みにくい」と感じると思う。しかし口に出して読むことで、明治二十年代を生きた、私娼宿で働く女のリアリティが描かれているという感慨をいだく」その理由は日本語の古典的なうつくしさを追求した全体的な文章の中に、その当時のリアルな声が保存されているからだと高橋源一郎は分析します。一葉は当時の言文一体によるリアリズムの小説を「リアル」と感じなかったのではないかと……。それで敢えてこうした「読みにくい」文体を選び取ったのではないかと彼は書いているのです。ここに伝え方の一つのヒントが隠されていると思いました。「読みやすさ」と、リアリティを出すためにあえて「読みにくいけれど、生々しくリアルである」文章を放り込むということです。そういえば今のポップスを聴いていて、その言葉の表現から同じようなことを感じたことがあります。「SEKAI NO OWAR」というグループに「SOS」という作品があります。彼らはほとんどの自分たちの曲を日本語で書いていますが、その局だけはすべて英語表現です。けれど訳された日本語はうつくしくそのまま歌ってもいいのにと思うくらいです。けれどメッセージ性の強さを和らげるために彼らはあえて理解しづらい英語という言語で歌っているような気がします。今を生きる若い人たちの孤独な寂寥感と他者と繋がりあおうとする気持ちを表現するための技巧。彼らは「伝える」ということにとても用心深いです。(同.2016.5・6月号.p114)

検索したら和訳が出てきた。Mouseのブログから

(前略)
People needing to be saved
Scream out for help every day
But we grow numb to the sounds
And feelings slowly start to drown
救いを求める人たちが毎日
助けを求めて叫んでる
それでも僕たちは段々その声に慣れてしまった
感覚が徐々に溺れている


The first time, we can hear a voice
But soon it all becomes noise
Fading to silence in the end
I know it doesn't make sense...
始めはそれが声に聴こえても
段々ただの雑音に変わり果てる
そのうち何も聴こえなくなるのさ
言ってることの意味が伝わらないとは思うけど...

When sound all ceases to exist
People think that means happiness
And all the sounds that used to be
Are all just noise to you and me
全ての音が聞こえなくなった時
人々はそれを平和と考える
かつて聴こえていた声は
僕にも君にも ただの騒音でしかないのさ


The cries of help disappear
The silence numbs all of our ears
And when we stop listening
Those screams stop meaning anything
助けを求める泣き声が消えたら
その静寂で耳は麻痺してしまう
僕らが聴くのをやめてしまったら
その叫びは意味を失ってしまうのさ


Don't you let your heart grow numb to everyone
Oh child, listen to the “sound of silence”
Saving someone else means saving yourself
It's true, and I'm sure you know it too
他人に対して無関心になってしまわないで
子供達よ 「静寂の音」に耳を傾けて
他人に手を差し伸べることは、自分を救うことにも繋がるんだよ
本当さ 君も知ってるでしょ
(後略)

英語での歌詞、というのは、マーケットとしての外国を考えてのことでもあるだろうが、音楽を伝える対象が地球規模でありたいということでもあるのだろう。
「SEKAI NO OWAR」とか「YOASOBI」「Mrs. GREEN APPLE」「新しい学校のリーダーズ」といったあたりへの架橋は、(とっくに賞味期限が過ぎているジャンル)「児童文学」の世界においては、極めて数少ない作家でしかなし得ないように思う。
 若い図書館員のなかには音楽と「架橋」できる人ともいると思う。そういう人に活躍していただける場というものがあるのだろうか。私自身は世間を狭くして暮らしてきたので、干からびた反面教師の如くでしかないので、期待する資格があるわけではないのだが。

東野司「語るのは誰か」(「日本児童文学2020.5・6」)から

 新元号への移行で、人びとはすべてがリセットされて、新しい時代が始めるのだと祝祭に参加した。このとき、官房長官の発表を大爆笑しながら見ている女子高生たちの姿がYoutubeにアップされたが、それはとても微笑ましい「新時代」の迎え方に見えた。
 しかし、児童書の子どもたちは、いつもどおり。
 内面を見つめ、分析をし、論理立てて、自分語りをする。他人の距離に敏感で、その分析にも忙しい。物事を否定するときは、首や手をブンブン振り回す。幼なじみは基本的に異性で、自分を助けてくれる無双の存在だ。友人には必ずポニーテイルの子がいるし、たれ目の子はおっとりしている。食べ物やファッションに詳しく、大人たちは親も含めて優しく、まず子どもの側に立ってくれる。叔父、叔母、部活のコーチなど、斜めの関係の大人たちも理解を示してくれる。教室の片隅に、いつも一人で本を読んでいる子がいて、その子に「何の本を読んでるの?」と問うと「なぜあなたにそんなこと言わなければならないの」といわれたりする。図書館は癒しの隠れ家にもなり、もちろん本は子どもたちを助けてくれる大切なアイテムである、などなど。
 元号が変わろうが変わるまいが、書物の子どもたちは総じてこんな佇まいで物語を泳いでいる。一九年だけではない。多分これまでも、である。もちろん、それは書き手の表現と読み手の想像との共同幻想に生きる非実在的子供たちだ。それゆえに、児童書の子どもたちは奇妙なほどに相似的な姿を持っている。
 そんな中で、一九年には相似形を超えて躍動する子どもたちが目についた。(p30-31)

 東野は『しずかな魔女』(市川朔久子.岩崎書店)や『あの子の秘密』(村上雅郁.フレーベル館)などをあげている。森忠明『少年時代の画集』ほどに問題作となっているのだろうか。

2024年07月03日

授業書「差別と迷信」と小早川明良氏の研究 残日録240624

仮説実験授業研究会の研究会ニュースに向けての原稿です。長いので少し縮めますが。
部落差別問題について、もう少し文献にあたって、年末までにまとめたいですね。

授業書「差別と迷信」に関連して小早川明良氏の著書を紹介します。
コロナ禍が始まる前に、長浜市木之本町のまちづくりセンターで、歴史関係の授業書を「日本歴史入門」と称して講座をもったことがありました。「日本歴史入門」「生類憐みの令」「お金と社会」などとともに、授業書「差別と迷信」もとりあげました。参加者はほとんどが高齢者で平均20名くらいの参加がありました。
『差別と迷信』(仮説社)は1998年に出版されています。住本健次さんと板倉聖宣さんの共著です。
この授業書は1990年代の部落史研究の水準からすると、立場によっていろんな意見はあるだろうが、これぐらいは研究者たちが合意できるだろう、一般人も共通の知識として知っておいたほうがよいだろう、という内容になっています。
 この授業書の「近世=江戸時代」については「身分制」として納得がいくのですが、「近代=明治以降」については、よくわからないなあ、という気持ちが残りました。
それは当然のことで、当時は部落史だけでなく、日本史の研究自体が大きな転換期を迎えていたのです。
 『歴史が学ぶ――明治期の地方機械工業と適正技術』鈴木淳(『歴史の技法』東大出版会.1997 所収)によると、
「日本経済史の研究にあっては,第2次世界大戦前から戦後にかけて,マルクスの枠組みによって示されるイギリスを中心とした,欧米の経済発展過程と対比して日本の特殊性を明らかにするという視覚が中心でした。(略)このような事態を当時学会の大勢を占めていたマルクス主義の罪とするのは誤りです.なぜなら欧米先進国との比較においてしか発想しないという点で、(略)この時代の知識人の認識の枠組みが,ひたすら先進国を追う姿勢であったことの結果です.(173-174ぺ)」
とあります。鈴木氏は「この時代の知識人の認識の枠組みが,ひたすら先進国を追う姿勢であったことの結果」、日本史の研究全般の傾向がマルクス主義史学(講座派)的になっていた、と指摘しています。
ウィキペディアによると、マルクス史学は2派あって、「労農派は明治維新を不徹底ながらブルジョア革命と見なし、維新後の日本を封建遺制が残るものの近代資本主義国家であると規定し、したがって社会主義革命を行うことが可能と主張したが、共産党系の講座派は、それに反対して半封建主義的な絶対主義天皇制の支配を強調して、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化を主張した(「二段階革命論」)。この論争を日本資本主義論争と呼ぶ。」
と、あリます。当時の日本史研究や部落史の枠組みはまだまだ「日本の特殊=後進性」が基調にあって、「講座派的」なのでした。
部落史研究における近代についての分析は科学的ではなく党派的で、背景に政治的な立場があるので、授業書のかたちにするのは難しかったのでしょう。板倉さんは、明治維新がブルジョア=市民革命である、という意見ですから、「講座派」的な論をもとにして、明治以降の部落史を授業書で展開することにはなりません。そういうこともあってでしょうか、「授業書」の明治以降についてはわかりにくくなっています。
秋定善和『近代と被差別部落』(解放出版社.1993)で秋定氏は、「『部落解放史』中巻(近代編)の意義は、近代部落史研究新しい枠組みを提起したことだと思います。なぜなら、近代部落史研究は、従来の問題意識ではもうくくれなくなっている、崩壊しているからです。」(15ぺ)と書いています。(『部落解放史』中巻(近代編)』(解放出版社.1989))
1980年代あたりから近代日本史や部落史は問い直されようとしていたのです。
黒川みどり氏は、小早川明良『被差別部落像の構築――作為の陥没』(にんげん出版.2017)『被差別部落像の構築』の書評(「理論と動態」No.12.社会理論・動態研究所.2019)で、
「1990年代以後、部落史研究も、部落問題をたんなる封建遺制ではない“近代“の問題として捉えるようになり、その蓄積も相当に生み出されてきた。評者もまたその点を強調し、封建遺制ではない近代部落史像を描いてきたつもりである。」(198ペ)
「解放運動史や政策史はそれなりに進展をみているが、実のところ、被差別部落の経済構造をはじめとする実態の方は、1970年代以降、さほど研究が進んだとはいえず、近代の被差別部落の経済的貧困が強調されても、そしてその契機が一般的には松方デフレで説明されても、その実態や、そもそも著者もいうように打撃を被ったはずの全国各地の被差別部落の職業構成なども十分につかめているとはいえない。それらは戦後、同和対策事業を勝ちとるべく被差別部落の差別と貧困を強調してきたものであり、その語りからいまだ十分に解放されているとはいえない。」(199ペ)
と部落研究の現状を紹介しています。
小早川氏は前掲の書で、「明治維新がブルジョア=市民革命である」と直接に表現していませんが、講座派の部落差別の封建遺制論を否定し、現在の部落差別は近代社会に根拠があるという立場から書かれています。明治以降に被差別部落は「国家の統治装置として、あらたに構築された」という意見です。
小早川氏はこの本の目的を、これまでの「部落問題研究は、被差別部落(民)を特別の「科学」世界に押し込めてきた。被差別部落民を文化、仕事、アイデンティティなどによって一つの像として括りあげる議論は、本質主義である。部落問題研究は、そのような本質主義を内包してきた。著者の関心は、そのことの弊害、つまり現実の多様な被差別部落(民)との乖離を暴くことにあった(『被差別部落像の構築』序文)。と書いています。
第1部では、被差別部落民の「排除から皇民化」への、社会変動と被差別部落民の天変について展開し、
第2部では、「部落産業」論「部落の文化」論を実証的データでもって批判し、部落問題の「科学性」を問い、
第3部では、少数点在型の被差別部落を対象にして、被差別部落の多数派である「闘わない被差別部落民」の生き方を分析することにより、被差別部落民の多様性を明らかにし、アイデンティティをめぐる諸言説の批判を行う、
という構成になっています。
小早川氏の著書には、前掲の論文集のほかに、一般読者向けに書かれた『被差別部落の真実 創作された「部落の仕事と文化」イメージ』(にんげん出版.1918)『被差別部落の真実2 だれが部落民となったのか』(にんげん出版2022)が出版されています。
第2部の「部落産業」論批判は近代部落論として説得力をもっています。屠畜や皮革、履物、竹細工といった産業を「部落産業」としてきた言説について、統計的、実証的に根拠がない等の批判をしているところです。生活圏での個人的な体験と「部落産業」とが結びつかなかったこともあって、納得のいく分析でした。また、第3部の「闘わない被差別部落民」の生き方の分析は、社会学的な研究領域として未開拓の分野として興味深く読みました。
私は部落問題について詳しくはありません。近年、和歌山県立図書館の図書閲覧制限問題があり、このことに関して考えをまとめる必要があったので、久々に関連文献を読む事になりました。その過程で小早川氏の著作とであうことができました。
授業書「差別と迷信」を取り上げられる方がおられたら、読まれることをおすすめします。

2024年06月24日

「翻訳によるすり替え」について―原秀成『日本国憲法制定の系譜1~3』(日本評論社.2004~2006)から 残日録240611

朝ドラの「虎に翼」が戦後の憲法成立以降の時代に入っている。安倍晋三氏が銃撃で亡くならなかったら、こんなドラマを許すまいに、と思う内容のドラマを見ている。これを野放しにしている岸田首相は宏池会の系譜にかろうじて引っかかっているのだろうか。
 『大阪の社会史』に差別問題に取り組んだ元教員への聞き書きがあり、どうしてそんな人生を歩んだのかと聞かれ、「……ううん、やっぱり、私の年齢で言うたら日本国憲法ができて、身体の中に入り込んでるわな。人格をきちんと認めて、人権保障もして、すべての人は、平等に扱われるべきやっていうな。」(P198)と答えていた。朝ドラでそういう気分を追体験できればいいなあと思う。

原秀成『日本国憲法制定の系譜1~3』は著者が図書館情報学の研究者ということもあって、どう評価されているのかよくわからない。

この著書は「植原悦二郎」という政治学者・政治家の研究に道を拓いたといってよいようです。ネットで検索したら、明治大学教育会長、田中徹太郎「会長挨拶」が出てきて、植原について「原秀成の研究を始発とし、法学、政治学、情報学、ジャーナリストなどの専門家による検証が続けられています」とある。
「翻訳によるすり替え」について原はこの本でふれている。

原秀成『日本国憲法制定の系譜1』より

(1.1.2.4) 用語・呼称の英語との相違――翻訳によるすり替え
「日本国憲法」の制定について、国家や特定の集団の政治的な思惑が強く働き、日々《神話》が形成される。とくに2ヵ国語にわたることから、翻訳による《ごまかし》や《すり替え》が多い。同じ語が反対の意味に訳され、《系譜》は寸断され、変質させられる。本叢書で中心となる重要な語について、注意を喚起しておこう。
 まず「日本国憲法」という語が、問題である。1946年11月3日(日曜日)の公布の時点で、「日本国」なる国家が存在していたのか疑わしい。占領下の日本は、完全な主権をもつ国家ではない。1951年9月の日本国との平和条約で、ソヴィエト連邦などを除く連合国が「日本国」を「主権を有する対等のもの」として承認する(同条約前文)。1952年4月にこの条約が発行し、「日本国」は主権を回復する。英語では、この問題がうまく隠されている。「The Constitution of Japan」とされ、「Japan」が国家なのか、地域としての「にほん」を指すのかがあいまいのままとされているからである。1946年時点で、「日本国」とは、いわば《自称》にすぎなかったのである。
 「憲法」という語は、冒頭で述べたように、英語と大きく意味が異なる。それは、単に「大日本帝国憲法」の用字を踏襲しただけなのである。「憲法」という、いかめしい文字によって、匿名の「国家」運営集団が「法」を独占する。表題自体を《立ち上げのきまり》などと改正すべきなのである。
 改正の主体についての語とその翻訳が、さらに問題である。米国人は《日本の人々(The Japanese people)》と《日本人(the Japanese)》とを、かなり厳密に区別している。前者の「the Japanese」が、自分たちの意思を表明し、憲法を立法化していく主体と想定されている。これを「人民」「民衆」とすると、一定の政治的意味が付与されてしまうので、本叢書では「people」を《人々》とし、他の「persons」などは《人たち、人間たち》とする。日本国憲法では、この「people」が「国民」と翻訳され、日本に住む外国籍の人が、国籍がないとして「国民」から除外されている(日本国憲法第10)。これにたいし、後者の「the Japanese」は、事実としての日本人をさし、むしろ否定的な文脈で用いられることが多い。
 米国の立案者は《日本政府(the Japanese Government)》を、改革すべき対象として、さらに厳格に区別する。米国が改革を《押しつける(impose on)》べき対象は《日本政府》であって、《日本の人々》ではない。両者を分けず「日本」に憲法が「押しつけられた」とする言説は、まったくの欺瞞なのである。《日本政府》に押しつけなければ、《日本の人々》は自由に意思を表明できなかった。それでもその日本政府にたいしてすら、米国は強制を抑制する政策を採ったのである。一般名詞として小文字で記された《日本の政府(Japanese government)》は、現存の政府を前提とせず、革命の発生をも米国は容認している。
 《皇帝(the Emperor)》は大日本帝国憲法の用法を受けて「天皇」とされている。英和辞典に「天皇」という訳語はない。ロシアの皇帝や、ローマ帝国の皇帝と区別し、直接言及すべきでないという「神聖不可侵」さが、「天皇」の用語のなかに染みついている。直接言及しないというのは、中国の律令における「避諱」の法文化である。日常語やジャーナリズムでは「陛下」とだけいい、それは「階」つまり宮殿の階段の下で、伝言をとりつぐ使者を指す。学問である以上、本叢書では《普遍的》な用語を用い、議論の対象とする。「天皇」は大日本帝国憲法および日本国憲法の条文にあり、やむをえない場合についてのみ用いる。同様に「institution of emperor」には《皇帝制度》の語を用い、「天皇制」という日本語を用いない。《君主制(monarchy)》《元首(head of state)》との区別にも注意する。
 「democracy」は《人々による支配》という原義に近く「民主政」と訳す。「民主主義」の語は、英語にないので用いない。《人権(human rights)》は、1940年ころには、多く《人間の権利(rights of man)》とされており、両者を訳し分ける。《市民権(civil rights)》《権利章典(Bill of Rights)》は英米法の概念で、これもそれぞれ訳し分ける。日本にあまりなじみがなく、そのことが問題の一つでもある。(p17-19)

(1.1.2.5) 連合国・同盟国・国際連合――大本営発表を継承する公定訳
 さらに問題が多いのは、「連合国」という訳語である。当時の公定訳における多くの欺瞞を含む訳語が、学問においても無批判に用いられてきている。
 まず「連合国」と「同盟国」が、混用されている。第2次世界大戦終結後において「連合国(United Nations)」と《同盟国(the Allied Powers)》は、厳格に使い分けられえいる。日本に対する《同盟国》とは、1945年9月2日[日曜日]調印の降伏文書第1項で、米国、中国、英国とソヴィエト連邦の「4ヵ国(four powers)」と定義されている(後述§1.6.5.1参照)。降伏文書第6項で、《同盟国最高司令官(SCAP;Supreme Commander for the Allied Powers》が最高権限をもつとされた。これが、公定訳で「連合国」「連合国司令長官」とされ、普及してしまった(資料1-35参照)。しかしこれは誤解を招くばかりか、占領下の統治の主体をごまかし、詐欺的でさえある。マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880.1.26-1964.4.5)は、その4ヵ国の《同盟国》のための、初代「最高司令官」として任命されたのである。
 これにたいし「連合国」は、元来、1942年1月1日[木曜日]の連合国共同宣言に加入した26ヵ国を指していた(資料1-8参照)。この宣言への署名国が、のち1945年6月の「国際連合(the United Nations)」の創設時に「原加盟国」の地位を与えられた(国際連合憲章第3条、資料1-30参照)。本叢書では「the Allied Powers」を《同盟国》とし、《連合国(United Nations)》とは峻別する。(以下略 p19-20)

 原は

このように、公定訳や従来の学会においては、戦時中あるいは戦後における訳語が、無批判あるいは無意識のうちに用いられて来ている。それは敗色が強くなってきても、正面から認めようとしない軍部の「大本営発表」の用語法を引きつぐものである。軍国主義者の宣伝運動(propaganda)における用語が、50年以上も無批判に用いられてきているのである。これに戦勝国側の政治的修辞が、加わる。訳語や呼称を、根本から替えていかなくては、《官》や戦勝国による歴史記述の模倣を脱することはできない。「くにづくり」の神話を、徹底的に解体していかなくてはならないのである。(p21)

と書いている。
植原悦二郎がロンドン大学在学中に書いた博士論文が、英文で『日本の政治発展 1296-1909』として出版された(1910)。
原によると「この書物は日本では忘却され、あるいは無視されてきている。しかし英語世界で、それは大日本帝国憲法の基本書とされ、植原はこの書物によって、英米の著名人から広く知られていた。それだけでなくこの書物が、日本国憲法の立案にまでも影響を与えたのである。」(p56)とのことである。

2024年06月11日

脱「講座派」の部落史 『歴史が学ぶ――明治期の地方機械工業と適正技術』鈴木淳(『歴史の技法』東大出版会.1997 所収) 『差別の視線 近代日本の意識構造』ひろたまさき(吉川弘文館.1998)ほか 残日録240528

鈴木淳の論考から引用する。

(そして,)明治時代の機械工業に対して持たれてきたイメージは,「未発達」の一言につきました.一方で,早い事故から時期から軍工廠(国営の兵器工場)や官営事業として創業されて民間に払い下げられた造船所が大きな規模を持ち,また明治末年には兵器・軍艦や大型汽船の国内化がなんとか達成されていたことから,これら軍事関係の部門だけが国家の政策的な保護によって機械工業の他の部分とかけ離れて発展したと説明されてきました.
 明治時代の機械工業史を研究する上で基本的な文献とされてきたものに1930年に刊行された『明治工業史 機械篇』があります.『明治工業史』は大学出の工学系技術者の団体である工学会が1916年(大正5)に編纂を決定し,各分野の経験豊かな技術者を編纂委員として,多くの史料を用いて書かれたもので,執筆時期の近さ,技術的理解の確かさ,そしてその後失われた史料が多く使われている点などで,今日でも高い価値を持つ研究です。しかし,ここには製糸工場用ボイラーや筑豊の初期の炭鉱用機械類の開発や普及の過程は全く触れられていません.当時の技術者の関心事は,いかにして西洋の最新の技術を取り入れてきたのかにあって,「素人なる諸君(=製糸家)が素人製作人に指揮し,唯々安価にのみ注目し,物理上の考えなく」(高井)行うような機械の生産などは論究する価値を持たなかったのです。
 一方,日本経済史の研究にあっては,第2次世界大戦前から戦後にかけて,マルクスの枠組みによって示されるイギリスを中心とした,欧米の経済発展過程と対比して日本の特殊性を明らかにするという視覚が中心でした。日本経済の全体像を描き出したとして,第2次世界大戦まで影響力を持ったある経済学者の1934年の著作には「半農奴制的零細耕作から流出る膨大な半奴隷的賃金労働者群を消磨的に用ひうるがために技術的進歩は阻止せられ,(中略)一般の金属工業=機械工業の発達は阻碍せらるに至る」という言葉が見られます.「半農奴制的零細耕作」という日本の「特殊性」が生み出す低賃金の労働力を利用できるから労力の節約をもたらす技術進歩は阻まれ,機械工業も発達しにくいというわけです.これは,機械工業の発達水準がより高く,諸産業での機械の利用がより早い時期から活発であった欧米先進国との比較論としては正しいものです.そして,このような発想に基づく限り,「阻碍」とされていた機械工業の発展過程を跡づけようという研究は意味を持たないことになります.そのため,戦後,製糸業や織物業についての研究の進展によって国産機械が利用されていた事例が個別的には知られてきたにもかかわらず,機械工業の役割を積極的に考える研究は生まれてはきませんでした。
 このような事態を当時学会の大勢を占めていたマルクス主義の罪とするのは誤りです.なぜなら欧米先進国との比較においてしか発想しないという点で、それはマルクス主義とは全く無縁な『明治工業史』と本質的に同種の認識だからです。それは,この時代の知識人の認識の枠組みが,ひたすら先進国を追う姿勢であったことの結果です.(p173-174)
 
鈴木の論では「この時代の知識人の認識の枠組みが,ひたすら先進国を追う姿勢であったことの結果」が、日本史研究が「講座派」的になっている、ということになる。
部落史研究において「講座派」の歴史観が大きな影響を与えている。それを前提にしている記述をよく見る。では実証主義を基本にする現代歴史学では部落史はどうなっているのだろうと思っていたが、門外漢はよくわからなかった。実証的研究は対象を個別に細分化するのだろうから、大まかに言ってどうなの、というとはっきりはしない。

黒川みどりは『被差別部落認識の歴史――異化と同化の間』(岩波現代文庫.2021)の「岩波現代文庫版あとがき」において、

従来の部落史は、差別をつくり出している社会の側を十分に描いてこなかった。しかし、差別は社会がつくり出してきたものである、それゆえにこそそれを正面に据えて論じたいとの思いが、修士論文を執筆していた一九八〇年代前半ごろから湧いてきていた。本論でも言及したひろたまきが『〈日本近代思想大系22〉差別の諸相』(岩波書店、一九九〇)の「近代日本の差別構造」と題する「解説」で、「差別」の「個別史」から「差別の「全体史」」へと途を開き一連の差別を生み出している〝近代〟を俎上に載せたことは、私が本書に結実する研究に踏み出す契機となった。一九九〇年前後から〝近代〟を問う研究が盛行し、そのなかでマイノリティや差別の問題への関心が高まった。社会学を中心にアイデンティティをめぐる議論も活発となっていた。部落差別は封建的残滓なのか、資本主義のもとで拡大再生産されているものなのかという二者択一的な逼塞した議論からの突破口をいかに見出すかに苦しんでいた私に、それらはそこからの脱出の糸口を与えてくれるものだった。(p413-414)

と、一九九九年ごろの元版『異化と同化の間――被差別部落認識の軌跡』執筆当時の記憶を記しているが、

部落史を日本史のなかに位置づけることの必要性はかつて盛んに強調されもし、長年の部落史研究者の悲願でもあったが、果たしてそこから前進しえたのだろうか。封建的遺制論のもとに行われた「天皇制と部落問題」と題した研究は、すでに部落差別解消論に立って部落問題研究から撤退するにいたり、そのあとには部落解放運動と結びつきながら部落問題に特化する研究が行われてきた。しかし、それすらも、歴史研究から現実の運動や政策への示唆を引き出すには迂遠と見なされて、部落史は取り上げられることが少なくなっている。(p416)

と現状を評している。

『差別の視線 近代日本の意識構造』ひろたまさき(吉川弘文館.1998)で、ひろたは『差別の諸相』(前掲)の編集意図(成田龍一によるインタビュー)について」語っている。

ひろた たしかに、成田さんのおっしゃるように、歴史学は差別に敏感だったと思いますが、差別からの解放を目指した研究は、被差別者からはじまるといえるんじゃないでしょうか。明治末の三好伊平次(被差別部落)や伊波普猷(沖縄)、昭和初めの違星北斗(アイヌ)らの努力ですね。そうした研究の方向は、一つは被差別者がいかに「一人前の日本人」であるかを示すこと、あるいは「一人前の日本人」になって差別から脱することをめざし、一つは差別者を批判し差別がいかに不合理で前近代的であるかを示すことにあったといえるでしょう。戦後に、ことにマルクス主義的歴史学による研究がさかんになるのですが、方向はほぼ同じで、階級闘争史の一環としての被差別者の闘争史と、差別の原因としての封建制の批判や支配権力に対する批判という線で進んできた。それはことに七〇年代の被差別者による解放運動の高揚とともに深まりましたし、資料集もたくさん出されるようになる。しかしそれらの研究は、被差別部落史とか沖縄史とかアイヌ史、あるいは女性史といった、個別史として進められてきたといえるでしょう。(p220-221)

ひろた 差別の問題は、被差別者の焦点を当てるとどうしても個別史にならざるをえないということがあって、それをどうやって全体史にするかという点ですね。たとえば、被差別部落の歴史と沖縄の歴史とアイヌの歴史とは全然ちがいますよね。違いが大きいから、どうしてもそれぞれ別々の特殊な歴史になってしまう。それを差別者の方に焦点を当てる、差別者にこそ差別の原因があるとすることで、全体をみようとしたのです。
全体としてとらえようという視点は従来にもあったので、それは差別の原因を封建制によるものだとか、支配階級の支配政策によるものだという考え方ですね。その解決の処方箋は、封建制をなくし近代化すること、分裂、支配をされないために平等になり団結しようと言うことになります。これに対して、「近代」こそが差別を生み出すのではないか、その「平等」こそが曲者ではないのか、というのが私の、史料をずらっと並べていくうちに到達した視点だったといえるでしょう。私は、当時のポストモダンの流行には大変懐疑的でしたけれども、それからの影響もあったのかもしれません。(p223)

ひろたは近世と近代との境を明確に分けている。

ひろた これ(「禁服訟嘆難訴記」)は幕末における岡山の渋染一揆の史料の一つなんですが、近世部落民の意識が読みとれる有名な史料です。ですから、これについては従来いろんな解釈と評価をめぐる論争があるわけなんで、この史料によって近世と近代の関係の理解が一定の方向に関係づけられるということはないと思います。しかし、私は、部落民としてのアイデンティティを回復しようとした運動としてこの一揆をみていますし、そうした意識が明確に表現されている史料であって、近世と近代の違いをはっきりと示してくれると思って採ったのです。
私は近世身分制を、社会的分業を血統によって固定化したものだと考えていますが、それゆえにそれぞれの身分や職能に対応した諸特権があり、その職能と特権にもとづいたアイデンティティを持つことができたと思っています。身分制は差別の体系であり、その中で部落民が最も差別されていた人々に属することはたしかですが、部落民もまた「えた」役などを拠り所にアイデンティティをもつことができたと考えるわけです。そのアイデンティティを岡山藩がこわそうとしたから、全部落民が立ちあがった。その一揆が結果として身分制に一定の動揺を与えたことや、その一揆をおこせるほどに部落民の成長があったことはたしかですが、意識としては身分制の枠内にあったのではないか、そこに近世的な意識のあり方が典型的にしめされているのではないかというのが、私の考えです。これに対して、近代の差別は、アイデンティティの拠り所そのものを奪ってしまうところに特徴があると思うんです。
成田 なるほど。
ひろた ここらへんは論争になるところで、成田さんのご意見も伺いたいっところですが、だからといって近世の差別のほうがよかったとか悪かったとか言っているのではありません。私は近代社会というのは、差別からの解放の契機をつくりだしつつも、他方で差別を深化させると考えていますから、近世と近代とどちらがよかったかを単純に議論できないと思ますが、すくなくともそのようにみた場合に、さまざまの差別的な現象が、それ自体は特殊的個別的でありながら、「近代」の視線によって全体として一貫した問題がみえてくるのではないかと思います。つまり、差別は、「近代」によって再構成されるというか、あらたな原理によって生み出されるのであって、封建性あるいは封建遺制に回収すべきではないというのが私の立場なんです。もちろん、それは近代の差別に封建的な現象がしばしばみられるということを否定するものではありません。この本(『差別の諸相』-明定)を編集するときにそこらへんをどのように説得的に示すかでいろいろ悩みましたけれども、議論をハッキリさせるためには、「近代」の論理が差別をつくるという点を強調すべきだと思い直したわけです。
成田 はい。
ひろた ここの史料で、こんなに差別されている人たちがいたんだという発見と、それから、差別が近代社会になってどういうふうに新しい性格をもって出てくるかを、全体的に考える作業と、それが相互的にあるわけです。ひとつは、文明と野蛮、つまり、日本国民を、西欧列強と肩を並べて対抗していく文明国民に仕上げていくために、文明から脱落していく人たちを、あるいはbん名人に到達していないという人たちを排除・区別していく、近代社会のあり方からみていくという、そういう視点と、もうひとつは現実に、この人たちが差別されているのはなんだろう、どういうふうに差別されているんだろうというふうに並べていく史料とはやっぱり一定の乖離がある。それがまざっているので、そう論理的に明快には答えられないところがあるんですね。
あえて言うならば、そういう文明人は、日本国民として成り立つ。だからその意味で、文明とか国民の形成原理を追究する、その原理が、実は差別を生み出すという、私の仮説が優先して出てくる場合だってあるんですよね。
成田 ひろたさんが強調されているのは、近代における差別の論理と近世の差別の論理が違うんだということですね。近代における差別の論理は、ふたつの内容をもっている――ひとつは、文明と野蛮の分割にもとづき、文明の名によって野蛮を排除していくということ、それからもうひとつは、国民形成によるもので、国民という一見すると平等な統合のもとで差別が現れてくるということ。しかも、文明/野蛮の分割が、日本国民の形成というかたちで現れてきて、近代における差別の問題が現象してくるという認識だと思います。
 これは、おそらく、差別の概念を考えていくうえでは、画期的な視点だと思います。従来は、うんと、単純化していえば、近世的な差別が、不徹底な近代化によって、封建遺制として残ってしまい、そこに、差別の原因があるという把握のしかたでした。これに対し、近代こそが問題なんだというところに、ひろたさんの差別論の意義があると思います。
 ただ、文明/野蛮の分割といっても単純な二分割ではなく、文明に馴致することをあらかじめ放棄した差別――「貧民」を「暗黒」ととらえることなど――もあるように思います。(p224-227)

ひろた つまり日本国家は日本領土に住む人間をすべて包み込み、「一視同仁」「人間平等」に認定することを前提にして、しかもその全住民(アイヌも沖縄人も)を文明人にしなければならない。しかし文明人=日本国民とはとうてい言えない野蛮人がいて、これは一緒にできないということで差別がなされる。差別しながら、一方では文明人になればいつでも差別を解除できるという仕組み(実際はそうでなくとも)をもつことで、実は差別された人々は自分の責任で世界に落ち込んでいるんだという視線が形成される。そういう近代の自己責任という論理こそが、被差別者のアイデンティティの拠り所を根底的に奪っていく一つだと思いますね。

  視線の差別、穢れの差別

成田 そうした近代の論理を、ひろたさんは「視線」という言葉を使って説明されている。眼差しによる権力が差別をつくりだしている、あるいは差別を現象させている、という考え方があると思います。あるひとつの枠組みから一律的に出てくるのではなくて(そこに原因があるわけですけれども)、むしろ個々の具体的な差別の場では、「視線」=「眼差し」が重視されるという論点を出されていると思うのですが、いかがでしょうか。
ひろた 成田さんの過大評価があるんじゃないかと思いますが、調子に乗って言わせてもらうと、「視線」の問題は複雑な差別の関係を解いていくうえで重要でしょうね。『差別の諸相』では、差別の様式として、「囲い込み」「忌避」と「視線」の三つを挙げたのですが、そこではまず第一に、文明とか国民国家の論理から生み出される社会的諸規範の意思とか感情とか、感受性を肉体化した「視線」の意味があります。したがってそれは、単純な個人の「視線」ではなくて、他の一般の人々と共犯的な「視線」なんですね。そして、その共犯的視線の内には社会的規範からはずれるような、あるいはそれに反するような感情も込められ、しばしば個人的な憎悪や恐怖も込められるところに、「視線」の強烈さがあるということです。
したがって第二に、それら「視線」には民衆自身が生み出す性格もきわめて濃厚だということがあります。国家や資本のイデオロギーが生み出すものもあるけれども、生活のシステムが差別感をつくりだしていく問題もあり、それはときには国家の意思に反することもあるということです。
第三に、そういう「視線」が被差別者につきささるとともに、被差別者自身にも内面化されていくという問題も指摘しました。つまり、大変悲しことだが、被差別者自身がそれを内面化して、自分自身をおとしめ、縛ってしまうとともに、その「視線」で周囲を眺め、自己救済をはかるための差別の序列化を始めるという問題です。被差別者間の序列化と相互対立の問題は、この本で深められなかったけれども、そしてそれがもっとはっきりした社会現象になってくるのは、植民地帝国になっていくころからでしょうが、この時期でもそうした史料がもっと集められたのではないかと反省しています。
また、第四に、そのように「視線」を考えれば、実は「囲い込み」や「忌避」にも通じる問題として、もっと深められたのではないかと、思いかえしているんです。
成田 ひろたさんが差別を論じていく時に、もうひとつ見逃せない点として、生活のシステムの中に組み込まれた穢の問題を出されています。
ひろた 穢の問題は難しいですね。民俗学や文化人類学にたくさんの成果があり、正直いって私はそれを消化しきれていませんから。ただ、それにもかかわらず私がそれを問題化したのは、ひとえに「近代」というか「文明」の視点で切ってみようという決意があったからです。つまり近世における汚穢・清浄観念はたぶんに宗教的な性格をもっていますが、近代の医学的なあるいは公衆衛生的な清潔観念や血統観念によって大きく変質し、それが差別感をあらたに生みだしていく源泉となるというものですが、明治期のコレラ大流行の頻発を介してひろがっていく公衆衛生観念が、あらたな差別を編成していくというたぐいの研究は、その後ずいぶんさかんにさりましたね。(p299-231)以下略。

ひろたまさきの『差別の諸相』の解説「日本近代社会の差別構造」からも学ぶところが多いのだろうが、門前にて「非力の所為」の足踏み状態である。
講座派の「近代」観ではなく、明治維新を「ブルジョア革命=市民革命」である明治維新の後の近代日本における被差別部落については、小早川明良の研究から学んでいるところである。

2024年05月30日

「題名のない番組」など 卯月雑記2 残日録240425

木挽堂書店「劇評」4月号が届く。民藝店「べにや」から石川さんの箱が届いたので購入した陶器を送るとの電話があった。仮説実験授業のNさんとは上旬にメールでやり取りしたので、先の東京行は一段落した。「劇評」は三月上演の芝居の評なので、「ふうん」と読み流す。
年金生活一年が過ぎ、体調のせいでアルバイトもできずの日々。そろそろ節約生活に、世帯を
小さくしなければならないのだが、惰性の浪費がかさんでいる。少しずつ整理することになるのだろう。
クリーニング店で、手持ちの服を「メルカリ」に出す人がいるけれど、そういうことはしないのか、と聞かれた。蔵書もそうであるが、もう少し身辺が落ち着いたら、と返事した。いつ落ち着くのか、不明だが、忙しくしておれば無駄遣いも少しずつ落ち着くだろう、と楽観的だ。

このところ、部落問題・史について読んでいる。これは、昨年後半から今年度にかけてのテーマなので、時間を限っている。関係した本を、図書館から借りられる本は借りるとするが、県立から借りた本を繰り返し借りるのは面倒なので手元において置きたい本、県立・市立にない本などをアマゾンで買うことになり、これがそれなりの額になる。量も増える。県立図書館も書庫の収蔵冊数には限りがあるので、未所蔵だからといってどれでも寄贈を受け付けてくれることになるのか、それはないだろう。近畿圏内の府県立の何処かにあるから結構です、などということになりはしないか、と思う。どこにでもありそうな本は……。
随分前に書いて、ウイルス事故で消えてしまったが、教育界の「基礎・基本」について調べようとしたことがあった。諸説あるだけで、良くわからなままだった。そういうこともある。東京都政調査会だって良くわからないようだ。
素人ながら、少し詳しく学ぼうとすると、資料が簡単には手に入らないことにぶつかる。研究自体が進んでいないことを知ることもある。研究者が成果を発表してくれていなければ、元図書館員としては中途半端な文献収集にとどまるしかない。
研究は焦点が絞りきれていないと成り立たないが、図書館員が「部落問題」についておおよその「地図」を知っておくことができるようにという程度のまとめをしようとしているのだから、研究するところまでは至らないのだが、それでも私にとっては大事である。

『大阪の生活史』を図書館から借りて読んでいたが、体調のせいもあって途中まで読んで返却期限が着てしまった。次の予約が待っているので、返却して、予約しておいた。
インタビュー集だから、いろんな世代の人が登場しているので飽きない。なかにラジオの「題名のない番組」を思い出した人がいて、私も聴いていたので嬉しかった。検索したら「「題なし」ファンの広田」という御仁などが紹介していた。パロディを楽しむ番組だった。

漫筆日記・「噂と樽」「六代目・傳衛門」さんからの引用。

2011年07月29日 | しみじみした話

もう、半世紀ほども前の大阪に、
「題名のない番組」、通称「題なし」と云う「ちょっと変わったラジオ番組」があった。

ラジオ大阪と云う大阪でも弱小の局であったため、
電波がよく通らす、雑音に悩まされながら聞いていたことを覚えている。
  
  ~~~~~~~~~~~~~~

米朝 リスナーからね、
   「先週の放送で『今日は最低の寒さですね』と言うたやろ、

   最低の寒さとは最高の冬の暑さという意味である、
   ようそれで、SF作家などと称しておるよなあ」と。

小松 つまり、寒さが最低やから暑さが一番やとゆう。

米朝 そうゆうふうに解釈せないかんと、こうゆう。

菊地 そういえばそうだけど。

小松 ゴチャゴチャ細かいこといいなはんな、あんた。

   こないだもなんか知らんけど、暑かったあの日、
   ウチの梅がみんな咲いて、バナナがなったぞ、ほんま。」

米朝 嘘つけ……(笑)。
菊地 嘘ばっかり、ようそんなこと。

  ~~~~~~~~~~~~~~~

米朝と有るのは、現在、人間国宝の桂米朝師。
菊地はラジオ大阪アナウンサーの菊地美智子さん。

そして「小松」と有るのがSF作家の小松左京氏。

「べいやん」、「こまっさん」と呼び合う、
お二人の息も合って、やってる方も実に楽しそうだった。

SF作家仲間の星新一氏や、
まだ「小米」時代の桂枝雀師などが、
前触れなくスタジオに現れるなど雰囲気も自由だった。

博覧強記のお二人だけに、
砕けた大阪弁が弾む座談の内容は縦横無尽。

それにあわせてリスナーから届く葉書のレベルも高かった。

とくに楽しかったのがパロディーの投書で、
上は「終戦の詔勅」から、下は聞いたこともない「小学校の校歌」までなんでもあり。

その中のひとつ。
   
  ~~~~~~~~~~~~~~~

菊地 もときさんからの「貧乏」と題するパロディーです。

    障子破れて 桟(さん)があり
    蜘蛛の巣張って シケモク吹かし
    時に感じては 娘にも涙をそそぎ
    別れを恐れては 妻にも心を驚かす
    家賃は3ヶ月に連なり
    契約 晩期にあたる
    白頭かけば 更に短く
    すべて貧に勝えざらんと欲す

米朝 これは、ようできていますね。
菊地 杜甫の「春望」。
小松 「障子が破れて桟があり」ちゅうのね。五輪書とか、彼のは高級ですよね


パロディや諧謔が今日的には欠乏中だ。
枝雀がまだ小米だった頃から好きだったのはこの番組からではなかったか。大学生時代に東京の御仁に、関西の注目の落語家として小米を紹介したことがあった。小米時代からの枝雀ファンとしては、枝雀の早すぎる死が悲しい。1999年没。

2024年04月25日

「四月歌舞伎座」のことなど―卯月雑記 残日録240418

4月のはじめに歌舞伎座に行った。初日の4月2日は夜の部を、翌3日は昼の部を観た。これまで月の上旬に歌舞伎を見た記憶はない。劇評に「回を重ねると良くなるだろう」などと書いてある、出来たてほやほやの芝居をたぶんはじめて観た。
夜の部は玉三郎の「土手のお六」と仁左衛門の「鬼門の喜兵衛」とご両人の「神田祭」、それに舞踊「四季」。「神田祭」は堪能したが、「お六喜兵衛」は役者同士がまだ手探りで落ち着かなかった。脇役が話の結末を知っている顔をするものだから、時系列が緩んでいて眠くなった。ご両人もその分、手探りのご様子だった。舞踊は孝太郎の「秋砧」に納得。
昼の部は愛之助の「団七九郎兵衛」。これを観たくて歌舞伎座の高い値段の席を予約したのだ。これに、梅玉と松緑の「引窓」と舞踊「七福神」。
愛之助の団七はEテレで博多での公演が放送されていたので、楽しみにしていた。二役の「女房お辰」があっさりしていたのが残念だが、周りも手探りのようだったので、仕方あるまいと思った。梅玉と松緑では「水と油」のようでしっくりこないのだが、回を重ねるとマヨネーズみたいになるのだろうか。
地方に住んでいてなかなか歌舞伎を観る機会がない。そして、愛之助の「団七」を観たいだけでは東京に出かけることにはならない。3月下旬に仮説実験授業の研究会や旧知の陶芸家石川雅一さんの親子展があったので、スケジュールを詰めまくって行ったのだった。歌舞伎だから観るというわけにはならない。座組が気に入らなければ、わざわざ観に行く気にはなれない。座組の不満を言えるほどの歌舞伎通ではなし、いまいち私の「歌舞伎〈推し〉」は弱いのである。月の上旬に歌舞伎を観るのはよほどの歌舞伎通・推しでないとハードルが高い気がした。

私の両親は舞台芸術の世界とは縁がなく、職場の慰安鑑賞会で歌手のステージを楽しみにしていた人たちで、もっぱらEテレで観るだけだった。それでも、13世の仁左衛門が上方歌舞伎の存続のために力を尽くしたことなどは情報として父は知っていて、テレビに出てきたら「偉い人や」と教えてくれたし、昨年95歳で亡くなった母は武原はんさんの舞を実際に観ることもなく人生が終わる寂しさと、その寂しさを共感できる人が身近にいなかった貧しさをつぶやいていた。
そんな両親の子どもは、兄弟ともに歌舞演劇に時間と多少の身銭を費やしている。私が歌舞伎なら、弟は文楽であり、音楽の好みも違っている。それは偶然なのだろうが良くしたものである。
東京に行ったついでに木挽堂書店に寄った。「演劇界」廃刊後、「劇評」を発行している古書店である。歌舞伎座の通りを挟んだ向かいにあって、よく行く「ギャラリー江」の近くにある。名刺代わりの西浅井・大浦の煎餅「丸子船」を手土産にした。
私の演劇鑑賞は20歳代後半の転形劇場「小町風伝」から始まったといってよいだろう。歌舞伎は、30歳のころ、成田市の就職試験か面接の際、上京したついでに、南博の「伝統芸術の会」に出かけたら13世仁左衛門がゲストだった。それがきっかけになった。
長浜に来て以来、忙しさに振り回されて少しずつ演劇から離れていたが、加齢とともに、やらねばならないことばかりだと息切れがするので、気分転換のつもりで劇場に行くのも良し、とすることした。
やらねばいけない、と書いたが、「図書館員のための部落問題入門」がやらねばならないこと、というわけでもないのだろう。やっていたほうがいいのかもしれない、程度のところか。「~入門」はなんとかまとまりそうである。

岸政彦編『大阪の生活史』が1280ページに及ぶので、読了までまだまだ時間がかかる。
小早川明良『被差別部落の構築 作為の陥没』を並行して読み始めることにする。

2024年04月20日

皐月雑記2 残日録240325

 石井裕也監督「月」と塚本晋也監督「ほかげ」の映画を観た。映画を観るのは久しぶりだ。
「月」は「さとくん」演じる磯村勇斗がよかった。「ほかげ」は森山未來の片腕のない男がよかった。俳優の演技力がすごいと思っている。舞台や映画とテレビに、貪欲に挑んでいる俳優たちを観ると、表現って凄いなあ、と思う。
 表現する側と表現をみる(受ける)側との間に、ラインはなく、ボーダレスになっているのだろう。限界芸術に連なる大衆の「しぐさ」のようなものが幅広く広がっている。「オタク」が「推し」や「博士ちゃん」になると、学校の教室、という場は変わらざるを得ないのだろう。凡人には呼吸しづらい空間になってしまうのではないだろうか。もう、なっているかもしれないが。などとうつらうつら思う。
 このところTVの録画を観ている。CMをとばすので、時間が少しは節約できている、かな。CMに登場する俳優を覚えないこともあって、俳優への関心が薄れてきている。その分、本を読んでいない。体調が悪くなっているわけでもないが、身体が停滞時間を求めているらしい。
 急ぐこともないので、毎日が日曜日の「とりとめのなさ」をそのまま受け入れている。
 季節の変わり目、ということで、天候の変化が激しい。長浜の寒風は、東播磨の加古川の実家とは違って、刺さるようである。「比良八荒」と呼ぶ。

 秘密のケンミンショウで栃木の「しもつかれ」を取り上げていた。(240321)名前だけはなにかの歌で知っていた。栃木の名物郷土料理だと思っていたら、好き嫌い両論あり、それも嫌いが多いのには驚いた。SNSでは好き派が力説。農水省のサイトでも「うちの郷土料理」として「おきりこみ」などとともに「すみつかれ」として紹介されている。
 この番組で、栃木県とともに地味な県として、滋賀・佐賀・鳥取があがっていた。
 「しもつかれ」の由来は諸説あるが、TVでは滋賀県由来説が紹介されていた。

「宇治拾遺物語」の「慈恵僧正戒壇築かれたる事」が由来とのこと。

これも今は昔、慈恵僧正は近江の国淺井群の人なり。叡山の戒壇を人夫かなはざりければ、え築かざりける比、淺井郡司は親しき上に、師壇にて佛事を修する間、此の僧正を請じ奉りて、僧膳の料に、前にて大豆を炒りて、酢をかけけるを、「何しに酢をばかくるぞ。」と問はれけれぼ、郡司曰く、「暖なる時、酢をかけつれば、すむつかりとて、苦みにてよく挟まるるなり。然らざれば、滑りて挟まれむなり。」という。僧正の曰く、「いかなりとも、なじかは挟まぬやうやあるべき。投げやるとも、はさみ食ひてん。」とありければ、「いかでさる事あるべき。」と爭ひけり。僧正「勝ち申しなば、異事はあるべからず。戒壇を築きて給へ。」とありけれぼ、「易き事。」とて、煎大豆を投げやるに、一間計のきて居給ひて、一度も落さず挟まれけり。見る者あざまずといふ事なし。柚の実の只今搾り出したるを交ぜて、投げて遣りたるおぞ、挟みてすべらかし給ひけれど、おとしもたてず、又やがて挟みとどめ給ひける。郡司一家廣き者なれば、人數をおこして、不日に戒壇を築きてけりとぞ。

慈恵僧正:
912-985。慈恵大師(じえだいし)、元三大師。第十八代天台座主の良源。延暦寺の堂塔の再建に尽くして、中興の祖と言われる。近江国浅井郡出身。

とある。(「宇治拾遺物語」現代語訳ブログ)
あのおみくじの元祖「元三大師」の話なのですね。虎姫町に大きな看板がある。

 では滋賀県の郷土料理は、というと、農水省のサイトでも「うちの郷土料理」では、
「いさざ豆」(ハゼの一種イサザと大豆の佃煮)
「ごりの佃煮」(琵琶湖の小魚ゴリの佃煮)
「いとこ煮」(小豆を里芋またはかぼちゃで煮た料理)
「ふなずし」(フナのなれずし)
「ぜいたく煮」(塩抜きしたたくあんの煮物)
などがあげられている。他にも「近江牛の味噌漬」「鯖そうめん」。
 湖魚の郷土料理は水深が深い湖北発のものが多い。
 家庭でもつくられるだろうが、長浜ではスーパー「フタバヤ」が人気だ。
 全県的には「平和堂」ということになるが、長浜では「フタバヤ」族が強い。(彦根もそうかもしれないが)
 湖北にはつるや「サラダパン」やびわこ食堂「鳥野菜味噌」もあるが、これは一つの会社だから、対象にはならない。

 故郷の兵庫県は寄せ集めの県(摂津の一部、淡路、播磨、但馬、丹波の一部)ということもあって、郷土料理と農水省のサイトに挙げられていても、ピンとこない。
 我が家の食生活からすると、「かつめし」「そうめん(揖保乃糸)」「焼き穴子」「にくてん(すじ肉・こんにゃく・じゃがいも等の入ったお好み焼き)」くらいが故郷の味といってよい。もちろん「神戸牛のすき焼き」「粕汁」もよく食べていたけれど。
 「かつめし」は職場で出前をとったように思う。いろは食堂だったかEdenだったか、記憶は怪しい。子どもの頃に祖母に連れて行ってもらったのはいろは食堂だったように思うが、記憶の底にある「洋風」の設えはいろはだったのだろうか。今もある「丸万」のうどんが両親の好みで、「かつめし」を一緒に外食した記憶はない。(父は母の手料理が一番で、母は確かに料理上手だった。)

2024年03月26日

皐月雑記1 「朝ドラ」  残日録240302

「波」2024.01の北村薫連載「本の小説」に、吉増剛造が「朝ドラ」を観ていることについて書かれていた。前月号で吉増が観ているまでは読んでいた。この号では冒頭から、といっても「(承前)」ではあるが、何を贔屓にしていたかが書かれている。

 吉増剛造先生は、ちょっと考え、
 ――『ちりとてちん』です。
 いいなあ……と思いました。吉増剛造の口から出る、この響き。
 それ以来、わたしは朝ドラを録画し、観るようになりました。(p80)

 北村薫は吉増が「朝ドラ」を観ていることを驚いているが、私もそれを読んで驚いた。
そのうえに、『ちりとてちん』とは、これは私にとって事件だ。「朝ドラ」のなかで、私も好きな作品なのだ。

ウィキから「概要」

これまでの朝ドラヒロインにありがちな「持ち前の明るさで、困難を乗り越えていく前向きな主人公」とは180度異なる、心配性でマイナス思考のヒロインが大阪で落語家を目指す姿を描く。舞台となるのは福井県小浜市と大阪府で、福井県が朝ドラの舞台になるのは初めて。これにより、中部地方の全県が朝ドラの主な舞台地となった[5]。貫地谷しほりが演じる主人公・和田喜代美(わだきよみ)/後の徒然亭若狭(つれづれていわかさ)、和久井映見が演じる母・糸子(いとこ)、青木崇高が演じる喜代美の兄弟子で後に夫となる徒然亭草々(―そうそう)を中心に、個性豊かな登場人物によって繰り広げられる喜劇仕立ての青春コメディーである[6]。
物語の大きなテーマとなるのは「伝統の継承」。落語と塗箸家業を題材に主人公の父や祖父のような塗箸職人(塗箸は小浜市の名産品である)や、主人公が入門する落語家・徒然亭一門(架空の亭号)など、伝統を受け継ぎそれに従事する人々の姿が描かれる。それに関連したもう一つのテーマは「落語」。本ドラマは主人公が落語家を目指すというものであり、劇中では登場人物が実際に落語を披露するシーンがある(出演者の中には、本職の落語家もいる)。さらに、落語を元にした演出、有名な噺の解説、本編出演者による噺の再現ドラマ(劇中で噺の内容を解説するときに挿入される小芝居)などがふんだんに盛り込まれており、落語通はもちろん、落語を全く知らない人でも楽しめるような作りになっている。ちなみに、ドラマの登場人物の名前の多くは、落語の登場人物から取られたものである(詳しくは後述)。
ドラマには緻密な伏線が張り巡らされており、劇中のさりげない台詞や小ネタが後の重要な場面につながっていくことも多い。さらに、単なる賑やかしの脇役と思われていた人物が、予想外の場面で物語の鍵を握っていることもある。また、年末最後の放送で初めて互いの愛を確かめ合った喜代美(若狭)と草々が、新年最初の放送で何の前触れもなく結婚式を挙げる(OP後の本編に、いきなり喜代美が白無垢姿で登場する)など、時には大胆な展開を迎えることもある。(後略)

 視聴率は大阪制作のなかで当時最低だったそうだが、DVDの売上は過去最高だったそうで、話題になりにくかったがコアなファンがいたことを推察させる。
 落語家役の渡瀬恒彦がよかった。福井出身の五木ひろしの「ふるさと」を和久井映見が応援歌のように歌うのが記憶に残っている。加藤虎ノ介の衣装が「波達」の和モダンで、気に入ったので自分でも着ていた。(「朝ドラ」ではないが、渡・渡瀬兄弟の『あまくちからくち』もあったなぁ。面白かった。)
 わたしの記憶に残る「朝ドラ」を書く。
『心はいつもラムネ色』はモデルが漫才作家秋田實。長沖一との友情が上品に描かれているのが嬉しい。関西の演芸業界の歴史をどう作品にするのか、芸人の引き抜きや戦時中の主人公の「転向?」をどう描くのかに興味があった。
『凜々と』はテレビジョンを発明した川原田政太郎がモデル。技術開発に夢中になる主人公と戦争になだれ込んでいく世相、主人公の妻郁の兄が失語症になるなど、戦前の理系社会の心性を描いて秀逸。(理化学研究所を舞台にした「朝ドラ」もあるといいなあ。田中角栄が端役で登場して兵役逃れをしたり、富塚清が「科学で戦争勝利」を力説したりして。)
『おちょやん』は浪花千栄子がモデル。これについては、堀井憲一郎「なぜ『おちょやん』は朝ドラ屈指の名作となりえたのか その壮大な構想を検証する」を見よ。です。
番外に『ちむどんどん』。視聴者の批判が多かった作品である。登場人物を沖縄人のステレオタイプとして見れば、おおらかさもあって、沖縄人あるある、かもしれないのだが、そういうふうにアナウンスすると偏見と受けとめられるのかもしれない。『ちゅらさん』とは違ったアプローチではあった。視聴者に違和感があったのは、本土人の浅薄な「沖縄人」像が背後にあるのではないか、と思う。琉球王朝の宮廷文化は芸能や工芸として継承されているが、支配された側の民衆の暮らしについて本土人はほとんど知らない。短絡して言うと、封建時代の身分制度を経ていないので、民衆の文化の形成が未発達なのではないだろうか。そういう歴史と、二度に重なる琉球処分のもとでの沖縄人、という時間軸から形成されるパーソナリティーへの想像力が、視聴者の私たちに足りないと思う。『ちむどんどん』は観ていて複雑な心境になった。

2024年03月02日

如月雑記3 読書の周辺 残日録240220

 少し先輩のN氏は退職後にも障害者問題に関わったり、素人ではあるがギターで懐メロを人前で歌ったりしておられる。同級生の中にもバンド活動をしている人もいる。
実家の加古川に帰れば20歳代に参加していた男性コーラスの会がある。誘われているが、たぶん断るだろう。「#」や「♭」がたくさんついていて、転調などもある合唱曲を暗譜で、となると決心と覚悟がいる。
音楽も趣味の範囲にあるが、資料であれ情報であれ、文字を追っかけるのに時間がとられて、聴いて楽しむ程度でしかない。
「晴耕雨読」の「晴耕」という「耕す(身体を動かす)」ことが日常にない。コーラスも「耕す」に入るが、そういう日常に身体を動かすメニューが欠けている。これは考えておきたい事柄だ。バイトをするつもりだったが、体調のせいで無理となった。何かをすること、これは復調後の課題となる。
「晴読雨読」ばかりというほどの読み続ける気力も体力もないので、なんとなく「読んでおきたい本」がたまっていくばかりとなる。若い頃にもっと読んでおけばよかった、という気になったりもする。「今更、読んでみても」という気にもなる。だがしかし、である、「読み学び、そして考える」ことは続けるしかない。読む速度は遅くなっているにもかかわらず、読んでおきたいという好奇心の「加速度」はまだ上昇中のようだ。
現役退職後の読書の、それ以前との違いは、「図書館員としての選書」のことを考えないで読んでいる、ということになるだろう。
このところ続けて読んでいた「部落解放運動」関連の本がもう少し続く。「図書館における(閲覧)制限図書」問題としての「(部落)地名」について書くためには、このあたりまでは知識の裾野を広げておきたいのだ。これは図書館を少し引きずっている。
仮説実験授業の「差別と迷信」は江戸時代の身分制のもとでの「被差別部落」を取り上げている。明治以降はどうなのか、というところまでは対象になっていない。
板倉聖宣『日本史再発見』等によると、板倉氏の「明治維新」観は、マルクス史学的に見ると「主観的には講座派の絶対主義革命(絶対主義・半封建的地主制)であったが、構造的(客観的)には労農派のブルジョア革命(金融資本・独占資本)であった」ということになる。(「主観的」と「構造的」の次には、上部構造・下部構造への論議の延長があるのだろうが、そのあたりになると「科学的」ではなく「迷宮」に入ってしまう。)
「同和対策」は講座派的な半封建的社会における「身分」に対する施策である。部落問題を「半封建的制度」としてとらえ、ブルジョア民主主義革命の対象としている。そのため、被差別部落内の「資本―労働」関係が覆い隠されることになる。市民社会への同化(国民融合論)につながるのも、あながち根拠がないとはいえないだろう。
労農派の立ち位置からみると、「被差別部落民」という封建的「身分」に対する施策ではなく「貧困・スラム」問題への対策としての社会政策となるだろう。部落問題≒講座派という主流からは表立って論じられてはこなかったと思うが、どうなのだろう。「同和対策事業」を「貧困・スラム」問題対策としてみてみると、その限界が見えてくるのではないだろうか。門前の小僧ごときが「思う」程度で書くのはいけないのかもしれないが。
運動史研究として、秋定嘉和『近代と被差別部落』は講座派批判の視点から書かれている。(私はこの本で山口瞳『血族』を読むきっかけを得た。NHKドラマで昔日に観てはいたのだが)
ローラ・E・ハイン『理性ある人びと 力ある言葉―大内兵衛グループの思想と行動』を購入済で積読状態にある。社会民主主義左派について知識を得たいので読んでおきたい。
社会党に居場所を求めた構造改革派は党内の派閥の争いに巻き込まれて、「日本社会党内においては、教条主義的なマルクス主義的理念に対置して、左派政党において議会主義を正当化する考え方として、十分な思想の定着が見られる前に、派閥として右派に伝播していった」(ウィキ)のであるが、その後に関心がある。
構造改革派の樋口篤三も興味深い。30歳代の成田市立図書館勤務時代は新宿の模索社でミニコミ誌を買っていたが、なかに樋口の関係した「労働運動」もあった。
最近、季刊「社会運動」(市民セクター政策機構)を購読している。1980年代に特集によっては読んでいた雑誌である。「ゴミの分別収集」の井手敏彦(元沼津市長)の関係する雑誌である。
樋口や井手の系譜も気になるところだ。
(当時、関西リサイクル運動市民の会から始まる高見裕一氏(現在アース・キッズ代表)の動きに注目していて、高月図書館のオープニングイベントに関連団体の東欧の絵画展示・販売が関わったことを思い出した。)
グラムシの流れでは片桐薫『図書館の第三の時代』もあった。図書館界でこういう本が話題になりづらかった。図書館運動の幅の狭さを思い起こさせる。(私も問われるとこであるが)
構革右派の松下圭一の「市民社会論」があるが、図書館界では『市民の図書館』(日本図書館協会 1970)がサービスのモデルとなり、「市民」について論議の対象にはほとんどならなかった。松下の「市民」観を暗黙知としていたのだろうか。(松下の社会教育批判は再考されなければならないだろう。)
同時代人である内山節氏については20歳代から学ぶところが多かったが、図書館業界に埋没していて疎遠になってしまっていた。私の「貸出」論は、内山氏の「労働過程論」から影響を受けている。2000年以降の未読本を読んでおきたい。
 図書館から借りると、返却日までに借り直してまた、といった流れになるが、積読状態はそのまま積読になることが多い。気を付けておきたい。

2024年02月20日

如月雑記2 山口瞳『血族』など  残日録240216

 私の父は1922(大正11)年の生まれで、戦前から鉄道の運転手をしていた。現役時代は加古川線の運転手で、動力車労働組合(動労)の活動家だった。組合の活動家としてどれだけのことをしたのかは知らないが、小学校の修学旅行の車中で、明定さんの子どもが乗っているらしいと車掌さんが私を見に来たことがある程度の知名度はあったらしい。いっぱしの活動家にはならないで、私達家族や父方や母方の一族・親戚を相手に生涯を費やしたと言ってよいように思う。(父も祖父も機関車の運転手だった。)
退職後は社会的な活動は全くしなくなり、働くことなく週に3~4度は碁会所や公民館の囲碁や将棋のサークルにかよっていた。後ろの20余年は自身へのご褒美だったのだろうか。
80歳も過ぎた頃に公民館の運営の役員になってほしいと依頼され、公民館に通うことをやめたところをみると、他人との関わりは面倒に思っていたようだ。
 母は村内の数件離れた家から嫁いできた。(1927 昭和2 年生まれ)

 (嫁ぐ、とか、嫁や奥さんという言葉を使うと性差別と捉える人もいるかも知れない。昔日、「O君の奥さんが」と口にしたら、差別発言だと指摘されたことがあった。親しいKさんのところの場合は、Kさんのツレアイやパートナーと言ったりするが、O君のところは昔ながらの家族で、奥さんという役割をはたしておられたのだから「O君の奥さんが」と言ったのだった。)

 母の場合は嫁いできたと言うにふさわしいのだった。ご近所から嫁いだ母は他所から嫁いだ女性のような窮屈な生活ではなく、ずいぶんお気楽な嫁であった。姑が父の少年時代に亡くなっていたことで嫁姑問題はなかった。明定の家の側の親戚との付き合いに苦になるところはあっただろうが、それとても他家に比べて悲惨というわけでもない。
 日本毛織印南工場の事務員を少ししていたらしいが、結婚してからは専業主婦であった。舅の方も長男の私が生まれて1年後に長患いもせずに亡くなったので、そこで苦労をすることもなかった。同級生の記憶では、普段から着物姿の人、という印象を残している。おしゃれな人であった。
 父は私が目立たない服装であることを望み、おしゃれになるのを嫌っていたが、母の着物姿は大好きで、自慢げでもあった。美人という程のことはなかったけれど、容姿に恵まれてはいた。
 父が着物好きであったので、中学・高校時代は帰宅すると私たち兄弟も着物だった。振り返ると、村内にあって変な一家でもあっただろうけれど、なにせ村内で結婚しているのだから、周囲の目を気にするなどということはなかったように思う。

 山口瞳『血族』(文藝春秋社 1979)を読了。「『血族』は、母親がひた隠しにしてきた一族の恥となる秘密を、著者の山口瞳が暴いていく過程が、一つの核になっている小説です。」(と「web 小説丸」にある)

 私は屈託なく時を過ごすということが出来ない。いつでも緊張しているし、絶えず気兼ねをしている。それで疲れてしまうし、すぐに肩が凝ってしまう。(p273)

 続けて「レストランで、客がたてこんでくると、」「行きつけの寿司屋で、若主人のスポーツ・シャツが汚れているのを見ると、」という例をあげる。
 気を使ってしまうのである。

 それで対人関係がうまくゆくかというと、決してそうはならない。先方は誤解するのである。ある人はそれをうるさいと思い、ある人は過剰に愛されていると思い、甘えたり、狎れ狎れしくなってきたりする。そんなことで喧嘩わかれになった知人が何人もいる。(同)

 このあとも例をあげる。(略)

 こういうことも含めて、私の諸性格は、すべて出生のためであり、血のせいだと思っているのではない。私における欠落感は、廃人同様の豊太郎のためだとは思っていない。
 泣き虫で、小心翼々としていて、臆病で、万事につけて退嬰的で、安穏な生活を願っているといったことの全てが、遊郭で生まれ育った母の子のためだと思っているわけではない。少年時代に、あまりにひどい貧乏を経験したためだとも思っていない。冷血動物でありゲジゲジだと言われた、自分ではあまり気のついていなかった性情を、出生と環境のせいにしてしまうつもりもない。
 しかし、それが、私の血と全く無関係であるとはどうしても考えられないのである。私は、あきらかに、要望だけでなく、その性情において、丑太郎や勇太郎に似ているのである。すなわち、引込み思案で依頼心が強く、地位を得たときに威張りだすところがあるのである。私は、丑太郎や勇太郎に似て、芝居っ気の強いところがある。つくづくと、もし、少年時代に苦労するところがなかったら、もっともっと厭味な人間になっていただろうと思う。お前のような人間は引っ込んでいろと自分に向かって言うことがある。
 私の息子は正業についていない。妹の子供、弟の子供も同様である。これも血のせいだと思うようなことはないのだけれど、あるとき、突然、出生のことを思い、慄然とするような思いにとらえられることがあるのである。いまになって、母の最大の教育は、隠していたことにあったと思うことがある。(p274~5)

 私の場合はどうだろう。「血族」や「親族」について、最近まで知らなかったことが多い。両親が過去を語りたがらなかったことについては、自慢するようなものがないのだろうから、と思っていた。
母方の祖母は自身の生まれ育った長谷川の家については昔語りを少しはしていたが、私が幼年のころに亡くなった母方の祖父の稲岡家についてはほとんど話さなかった。
 父方のほうについては、これも全くと言ってよいほど聞いたことがなかった。
 父が亡くなったあとに母が少し話すことがあった。
 明定の曽祖父は株屋だったそうだ。稲岡の曽祖父はタオル製造会社のエライさんだったそうだ。1930年代の大恐慌で、ともに没落したらしい。
 父の母、私の父方の祖母は、美人だったと誰彼となくよく聞かされた。祖母は父が12歳のときに踏切で汽車に轢かれて亡くなったのだが、そのことについて話題になることはなかった。
 母から祖母の死は「自殺」だったと聞いた。
 美人で評判の嫁について、夜勤などある機関士の祖父は疑ったのである。疑われる苦しさ悩みを、近所の嫁(母方の祖母)に話していたそうだが、祖父の猜疑心が自死へと追い立ててしまったのだ、ということのようだ。
 母方の祖母の稲岡とよを父は大切にしていた。第一子で長女だった母の実家や義理の兄弟の世話をよくしていた。
 母の側の親戚との付き合いはあるが、父の側は便りの途絶えた遠縁しかなくて、近しい親戚はない。
 
  山口瞳は母の実家が遊郭であったと知る。そして「遠縁」であるらしき老夫婦とは「血」の縁はなく、「遊郭」の人としての「秘密の縁」で繋がっていたことを知る。
「私の諸性格は、すべて出生のためであり、血のせいだと思っているのではない」「自分ではあまり気のついていなかった性情を、出生と環境のせいにしてしまうつもりもない」という山口瞳ではあるが、『血族』は、社会性が乏しいという「私小説のかういふ性格をよくわきまえた上で、社会性を導入しようとした作品で、親族といふ、いはば自己と社会を基本的につなぐ靭帯のやうなものと丁寧につきあふことによって、自己と社会の双方を同時に明らかにしようとしてゐる」(丸谷才一)。
読了後には、私の無自覚になりがちな「自己形成」(というほど大仰なことではないが)を振り返らせもしてくれる。
 私にそんな衝撃の何かがあるわけではない。ただ、何も無い、ということではない。誰にしても何かはある。その何かを引きずるのか、対峙するのか、さっさと逃亡するのか、いずれにしても、私の小さな物語を思い出させてくれた。

2024年02月16日

辰年如月雑記 残日録240206

先月は「和歌山県立図書館の制限図書」をきっかけにして、部落問題関連の本を読んだ。ずいぶん久しぶりのことだ。「反差別国際連帯」の動きの初期あたりまで遡るだろうか。この20年近くはこの問題には冷めていたのだ。
 それが、映画「私のはなし 部落のはなし」を観て、上映会をしようと思ったのだから、映画の影響は大きい。
冷めていた間は、図書館という職場で働き、日本図書館協会の役員をしたり、大学で教えたりしていたが、無為に過ごしていたわけではない。浅学非才とは言え、私なりの日々を積み重ねてきた。
浅学非才はこの湖北地域でよく聞く、そう言っておけば良いという「挨拶語」のようなものだったが、私の場合は、若くして「浅学非才」の我が身を自覚していたので、この言葉は身についた言葉である。

私の中学生時代は吹奏楽部や文芸部という文化系の部活が楽しくて、昼休みは教師と碁を打っていて、勉強をしているという気分はかけらもなかったのだった。受験間近にあっても楽しい中学生生活で、同級生のT嬢から受験先を聞かれ「公立専願」と返事したら、「併願でなくて大丈夫なの」と心配されたことがあった。とうてい「校名」は口にできなかった。入学したとたん、母親同士も同級生のO君の母が、我が子が入れないのに入れるわけがないのに、と怪しんだぐらいだった。それだけ勉強とは縁がなさそうな、ただの本好きの子どもだったのだろう。
東播地域の進学校の加古川東高校にギリギリで滑り込んだ私は、入学してすぐに「ガリ勉」ではなく「頭のいい人」がいることを知る。「暗記を苦労なくできる」「論理的思考ができる」同級生がいた。私が苦手とするこれらのことが、苦なくできているようにしか見えない。進学校に入ってよかったことは、「頭がいい人」がいることを知ったことに尽きる。
高校時代は合唱をやっていて、一時期は「声楽科」進学へのオススメもあったが、学力は低空飛行であり続けた。3年の夏休みから受験勉強を始め、関西大学社会学部という私にとって相性のいい大学・学部に入学した。翌年の受験生の保護者への説明会では、「夏休みからでも関関同立に入れる例があるから遅くない」と説明があったらしく、近所のおばさんが「息子さんのことが話に出ていた」と母に教えてくれたぐらいで「ガンバル」ことはなかった。そういえば「しかたがないのでやる」ことが多いのだった。
学生時代に板倉聖宣という研究者を知り、3回生の夏の仮説実験授業研究会小樽大会に参加し、実際に板倉先生に会うことになる。学生時代に大学で教員としての研究者に出会うことはあったが、親しく接するということはなく、また、学ぶところも限定的であった。板倉先生には、お出会いする以前から、ご逝去後の今日までも、仮説実験論的認識論はじめ多くを学ばせていただいている。
板倉先生と上手く出会えたことで「浅学非才」の私は、「ガリ勉」のような無理することなく、マイペースで実社会に歩み出ることができた。

仮説実験授業研究会に参加することで「名南製作所」を知り、社是の「F=ma 」を知る。
社是の「F=ma 」は「人間の場合は努力というアクセルをふかし続けないと成長しえない」という意味になる。そのアクセルは「内発的」でなければならない。そして「無理」は続かない。ということから、誰かの期待に応えることなく、マイペースを続けてきたのだった。

「F=ma 」はニュートンの第2法則で「力=質量✕加速度」です。
成果物は動く速度に比例します。

努力(加速度)すれば、成功する(成果を得る)←どこで何を「努力」するか、的はずれだとダメで、ともかくバッターボックスに立っていること不可欠です。内発的な「努力」は加速度を増します。無理や他人の後押しでは長続きしない。

「a=F/m」→加速度は、成果の大きさに比例します。力を加えれば(果が増えれば)、加速度も上がります。自分の内部から力を加え続けなければ、すぐにくたばる。

「無理な努力」は続きません。マイペースで始まった「少しの努力」が少しの成果を得ることで、「もう少し努力」することが苦ではなくなり、もう少したくさんの成果を得ることになります。
この「努力」は加速度を得ます。この加速度はあくまでも「身についた」加速度で、他人にヨイショされた加速度でも、叱咤激励された加速度でもない、内発的加速度です。体力的に無理が生じてくたびれることで小休止することはありますが、ちょっとやそっとでは止まりません。(ちょっと繰り返しになりました)

社是「F=ma 」については鎌田勝『不思議な会社』(初版 日本経営出版会1975.7)に詳しい。
人生100年時代だとか、70歳代はまだ働ける、などという活字を目にすることが多くなった。体調が復調にまで至らなくとも、もう少し回復すれば、少しは何かを重ねたい。

3月下旬から4月にかけて、陶芸家の石川雅一(はじめ)さんの個展が東京であるので、体調がゆるせば歌舞伎見物も兼ねて東京見物を計画したいと思っている。年金ぐらしとなり、趣味・道楽で「F=ma 」を発揮する訳にはいかないが、「東京ぶらりどうやろ」という気分。

1月は能登の震災から始まったようTVだったが、元旦は薄っぺらな情報しか流れないので、録画しておいた山田太一のNHKドラマ「今朝の秋」を見た。武満徹の音楽、小津調の物干しの場面。笠智衆、杉村春子、杉浦直樹、倍賞美津子、樹木希林他の出演者。杉村春子と樹木希林の飲み屋の階段あたりの演技のやり取り、文学座の組み合わせ、が以前から気にいっている。
武満のドラマの音楽というと夢千代日記を思い出すが、山口瞳原作「血族」の音楽も武満だった。ドラマの放映が始まるTVの前で音楽が流れるのを、作者の山口は落涙して聴いたという。「血族」も見たいと思った。

年末にH姉様から久しぶりに電話があり、随分前に「ロシアとウクライナ」の戦争は「アメリカの軍需産業」が関連しているといっていたけど、どうなるの、と聞かれた。そろそろ戦争する必要はなさそう「だけど」と返事した。「だけど」が厄介だとつなげた。詳しく解説できるほどの知識はないので、朝日のPR誌「一冊の本」の佐藤優の連載でも読めばよかろうに、と言いたいが、読んでみてわかるということを期待できないので、(歴史も地理も苦手ときている)あれこれに広がらない。「イスラエルとパレスチナ」はと話題を変えてきたので、「難民」が増える、と答えた。「難民」が増えるとどうなるの、と聞くから、「働くことなく援助で飯を食う」人が増えてしまう、と言っておいた。電話の向こうで驚いていた。予想外だったようだ。

2024年02月07日

「部落問題関連資料の制限」その4 残日録240129

部落問題関連資料の制限」その4 残日録240129

「その4」になってようやく「部落問題関連資料の制限」についてたどりついた。
「その3」までは若い人のなかには、知らない人も多いだろうと思い、「被差別部落」の「地名」の扱いが「差別」として糾弾の対象となったりしたことや、解放運動のなかでの『「同和はこわい」考』の出版とこれへの批判などを紹介した。
これらは20世紀末までの部落問題についての情報であって、それ以降の追跡はできていない。

秋定嘉和「「資料」を読んで考えていること」(初出「解放教育」1982.07 『近代と被差別部落』部落解放研究所 1993 p331)から

例えば資料のもつ真偽性についても、差別意識が前提となって作成された場合、その誇張や一面的記述は一般資料に比してはなはだしい。このような記述は「解放令」以降から全国水平社成立にともなって直接糾弾がおこなわれる時期までの文献資料に多く、水平社運動の進展のもとで激減する。その内容は、生活環境の劣悪さや社会的貧窮の事実に対する記述の姿勢や論調に、差別の雨には一般社会から奇異とみられる事象を求め、根拠なき論断が多くみられる。
(以下略)

「部落問題関連資料の制限」は「地名」だけではない。と書いておく。

「図書館の自由に関する宣言」は1979年に「人権・プライバシー条項」などが加えられ、改定された。「知る権利とプライバシーの侵害」や「差別表現」についての取り扱いなど、個別の事象については日本図書館協会の図書館の自由委員会」で検討が重ねられてきており、『ピノキオの冒険』の取り扱いについて名古屋市立図書館の「検討の3原則」が生まれたりしている。
図書館の「資料提供の自由」や「プライバシーを守る」ことについては、この宣言とその後の図書館成長により社会的な認知を得ることになった。しかし、元少年A『絶歌』への対応は(日本図書館協会は「取り扱いの制限を行うべきではない」としたが)図書館によって判断が違ったりしている。
冒頭でふれた村岡の論考では「実際には、提供制限適用の事例は時を追って増えるばかりですし、いったん提供制限が適用されると「時期を経て再検討」される事例を聴くことはあまりありません。「自由宣言」が提示する理念と目の前の現実とは大きく乖離していると思える」としている。
被差別の「地名」についてみれば、復刻やネットで一般の人の知る機会が増えていることと言えるだろう。

和歌山県立図書館の「県立図書館利用制限資料取扱要綱」(2019年制定)では71冊が申請書を出さなくては閲覧できない状態に置かれていた。(「人権と部落」(部落問題研究所)の「特集 部落問題と表現の自由―閲覧制限をめぐって―」2022.09、に詳しい。)
これに対して、著作者(藤本清二郎氏)自身が疑問を呈し質問をしたところ、

「国及び和歌山県が「現在もなお部落差別が存在する」と認識し、差別の解決に取り組んでいることに鑑み、県立図書館も蔵書の中に記された被差別部落の地名等が悪用されることを防ぐため、平成31年3月31日に「県立図書館利用制限資料取扱要綱」を定めているところです。
当要項による蔵書の利用制限は、利用希望者の申請に基づいて館長決済により、図書の閲覧・複写・貸出を許可するもので、利用を禁じておらず、著者の権利侵害が生じるものとは考えていません。」
と回答があった。

藤本氏は、

和歌山県立の図書館の「利用制限」は学問の自由や表現の自由を侵害する行為であるとともに、図書館利用者の「自由に読書する権利」(「知る権利」の不可欠の前提)を侵害する行為である。国民の知る権利を保障する公共の機関である図書館は、とりわけ慎重な態度で学問の自由や表現の自由を守るべきである。和歌山県立図書館の措置には、「研究」を例外とし、研究者と国民を分断する陥穽の論理が含まれ、戦前の検閲・思想統制に通じかねない危険性がある。「取扱要項」には例外規定(除外規定)があるが、これは「研究」目的以外の利用を禁止することと裏腹の関係にあり、例外規定はかえって権利保障が阻害されていることを証明するものとなっている。
今回の和歌山県立図書館の「取扱要項」は、従来の日本図書館協会および全国の図書館が積み上げてきた制限方式に関し、個別判断方式(全体として利用の自由を保障し、個々の図書について問題となった場合、その問題点と判断の根拠を具体的に示し、極力限定して制限する)を離脱し、全体一律判断方式(図書群全体に「人権侵害のおそれ」など抽象的規定に基づく網=今回は「被差別地名」などの有無を一律基準とするような網をかける。自生対象からの除外は個別に行う)を採用したものである。このような全体一律判断方式の採用は、図書館自身の積み上げた諸原則を自己否定するものであって、図書館の運営原則の大転換が生じ、戦後の図書館の存在意義に入内な機器をもたらすおそれがある。和歌山県立図書館方式が先例となり、全国図書館が大転換して良いのかが問われている。

としている。(p11~12)

藤本氏への図問研の回答を読んだ時、なんとも時代錯誤の対応を和歌山県立はしたものだ、と受けとめていた。

ところが図書館雑誌2023.01のコラム「図書館の自由」の「部落差別解消と資料提供の自由」(伊沢ユキエ)を読むと、時代錯誤というわけでもないようだ。

熊本県部落差別の解消の推進に関する条例(2020)には

第7条 県民及び事業者は、この条例の精神を尊重し、自ら啓発に努めるとともに、県が 実施する施策に協力する責務を有する。
2 県民及び事業者は、同和地区(歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域をいう。以下同じ。)の所在地を明らかにした図書、地図その他資料を提供する行為、特定の場所又は地域が同和地区であるか否かを教示し、又は流布する行為、特定の個人の結婚及び就職に際して当該特定の個人又はその親族の現在又は過去の居住地が同和地区に所在するか否かについて調査を依頼する行為その他同和地区に居住していること又は居住していたことを理由としてなされる結婚及び就職に際しての差別事象(以下「結婚及び就職に際しての部落差別事象」という。)の発生につながるおそれのある行為をしてはならない。

とあることを知った(埼玉県でも似たのがある)。条例の根拠を「部落差別の解消の推進に関する法律」においている。
「「同和地区の所在地情報」を提供する行為が「結婚及び就職に際しての部落差別事象」の発生につながるおそれがある」としているので「つながった」という関係ではないのだ。
「疑わしきは罰する」という文脈である。

図書館資料にある「地名」は「要注意」に違いない。だからといって全体一律判断方式の採用が防衛策というわけにはならないだろう。ここのところが時代錯誤である。
もう20年ほど前のこと、カウンターにいたところ顔見知りの利用者が、親切心でというニュアンスで「住宅地図」では同和地区の家がわかるので差別図書になると言ってきたことがあった。とっさに「電話帳はどうなるのですか」と聞き返したことがある。
今、思うと、同和地区がどこだか知っている場合もあるが、それは職業上で得たごく限られた地域の情報でしかなかったのであって、県域内でも全てではなく一部を知っているだけであったのだが。

藤本氏は疑問を出しておられる。

ところで、(歴史地名に繋がるとする)現代の「被差別部落地名」の特定は何を基準にしたのか。図書館は判断基準とする非公開の「地名」一覧を保持しているのであろうか。現在の「被差別部落」と特定を前提にして行政行為を行うことができるのかも疑問である。

和歌山県立図書館が「部落地名総鑑」のようなものを所蔵しているとは思えないし、ようなものがあったとしても、それが被差別部落を網羅しているとは考えられない。

「地名」については「同和地区の識別情報は人権侵害か」(丹羽徹)等として「特集 今日の部落問題をめぐる争点」2023.03 で取り上げている。
「同和地区の識別情報は人権侵害か」は副題に「―東京地裁判決から考える―」とあるので、「「全国部落調査」復刻版裁判」の地裁判決に触れながらの論考である。

個人の私的事項のうち、他人に知られたくない情報に触れられないことはプライバシーの一部をなす。これは平穏な私的生活を不当に介入されないという意味で、憲法13条が保障する人格権として保護されるべきものである。
たとえば、その出自を公開していないAさんについて、「Aさんは旧同和地区の出身者である」と暴露することはプライバシーの侵害となりうる。ここで重要なことは「公開していない」ということである。
他方、この暴露は、旧同和地区出身者を差別的に扱うことを目的として行われた場合には、社会の中での評価を低下させるという意味では名誉毀損という犯罪もしくは不法行為として評価される場合もありうる。
それでは、個人の識別情報ではなく同和地区の識別情報は人権侵害となりうるのか、なりうるとしてどのような人権が侵害されることになるのかについては、必ずしも明らかではない。
また、それ自体は人権侵害とはならないとしても、他の情報と連結させることで結果として個人のプライバシーや名誉と結びつくことがあるが、その場合に同和地区の識別情報の公開が独立して何らかの人権侵害となりうるのか。(p6~7)

について判決の概要を紹介し、それについて「七 本判決後の動き」として問題点を指摘している。

事実認定において、行政文書が多く引用され、とりわけ法務省人権擁護局調査救済課長「依命通知」(2018年12月27日)は大きな影響を与えている。判決の論理から導き出される結論は比較液評価できる部分はあるが、これまでの同和問題解決に向けての取り組みを正当に評価することなく行われた事実認定には問題なしとしない(なお「依命通知」については藤本論文を参照されたい)。
この判決後に、公益社団法人商事法務研究会「インターネット上の誹謗中傷をめぐる法的問題に関する有識者検討会―取りまとめ」が公表されている(2022年5月)。そのなかの「同和地区に関する識別情報の摘示」と題される部分で、本判決が引用されているが、「インターネット上の特定の地域を同和地区であるとする情報は、学術、研究等の正当な目的に基づくものであり、その目的に照らして必要な範囲で公開するものであっても、その公開の態様や文脈等から被害者が具体的な被害を受ける可能性が相当に低いと言える場合でない限り、当該情報を公開されない法的利益がこれを公表する理由に優越し、削除することができると考えられる。」との記述がある。
「被害を受ける可能性が相当に低いと言える場合でない限り」と極めて広範囲に削除できるとしており、明らかに東京地裁判決の内容を超えている。このような理解は、学術、研究を萎縮させかねない。悪意を持って公表する場合とは明確に区別するべきである。(p13)

「可能性が相当に低いといえる場合」の「相当に低い」は裁判所の判断に拠ることになるが、「悪意」や「悪意相当」または「差別解消を阻む」と判断する「原告」がいるとなると、「学術・研究を萎縮させ」ることに繋がる危険性はあるだろう。

日本共産党系の「正常化連→全国人権連」の立場は、「部落問題解決の4つの指標である、格差是正、偏見の克服、自立、自由な社会的交流」は「基本的に達成された」という立場を採り、部落解放同盟(解同)を「部落解放運動の伝統を踏みにじり、差別をネタに利権をねらう暴力・無法・利権集団」と規定している。そのような立場から、部落問題については「『解同問題』に終止符を打たなければ完全な解決は実現できない」と主張している。(ウィキ)
部落差別は解消過程にあるという「国民融合論」からの「学術・研究」が「差別解消を阻む」ことになるという事態も可能性としてはありうる。

元図書館員である村岡和彦氏は「部落差別事象と図書館をめぐるあれこれ―「西と東」「同対」その他」(「みんなの図書館」2023.10)で「地域資料としての運用の複雑化」として、取り上げた和歌山県立の場合や高知県立の事例、古地図のデジタルアーカイブなどについて紹介し、「おわりに」として次のように書いています。

上の事例紹介は、単純に「隠してはいけない」と言いたいわけではありません。上にしょうかいしたような錯綜し重層化したマスキング状態を、「東」の人にまず確認して頂きたいと思います。こうしたところでの認識の落差があると、会話そのものが成立しないというストレスがずっとありました。また自治体内の「同対」という存在にも注意を払っておく必要があります。現在では「人権~」という名称に変わってきていますが、元は「同和対策室」の略称です。人権団体が行政闘争として様々な要求を行う際の窓口が同対です。そうした経過から対人権団体交渉の局面では、庁内で強い権限を持っています。『図問研愛知支部40年史』には1979年の『名古屋市史』問題対応時の経過として、以下のような記述があります。
「しかし、行政の力関係から行っても最も弱い図書館の意見は4局説明会の中で本流とはなり得ない。あざ笑いの中、全面削除の決定に加え図書館が当事者と会うなどまかりならぬの空気が支配した。」(同書p28)
今後も引き続き、東西の意識の落差を埋める事例紹介をしていければと思います。図問研MLなどでリアクションをただければありがたく思います。(p27)

「東」の人の部落差別に関わる「資料制限」やその前提となる「部落差別についての知識」について、「西」の人との間に「認識の落差」があるので、「会話そのものが成立しないストレス」がある、というと、〈東の人は部落差別問題を知らない〉というくくりになってしまうので、読んだ後味が悪い。
文章全体としても論理的でないので、

部落差別事象と図書館の自由宣言――「人権・プライバシー条項」をめぐって

 本誌2023年10月号の村岡和彦氏の「部落差別事象と図書館をめぐるあれこれ――「西と東」「同対」その他」について読後の感想めいたものを投稿する。
「和歌山県立図書館での部落差別関連資料の利用制限に対する問い合わせへの回答」を、「ここでは詳しく述べる余裕はありませんが」と書きつつも、村岡氏は「回答」が「その事象の分析をしないまま」「とても表面的なところで◯✕式の二元論」であると否定的な評価をされている。
 「回答」は「自由宣言」の文言を繰り返しているように思えた、という評価をしつつ「「自由宣言」が提示する理念と眼の前の現実とは大きく乖離していると思えるのですが、この状況どうすれば良いのか、正直言って私にはわかりません」としている。
 「どうすれば良いのか」わからないのであれば、否定的な評価をした「回答」のもつ限界と、村岡氏自身のこれについての問題意識とつなぐ「道すじ」について書きすすめばよいのだと思うが、そうなっているとは読み取れない。
 「ひとつ確かなこと」として図書館員の世代交代の過程で「理念と現実の落差の問題は「自由宣言」を策定した先達の責任ではなく、その後の世代の責というべきでしょう」と自分を含む世代の「責」の問題として受け止められている。
 「世代の責」として捉えるなら、「みなさんの感想を伺い、解像度の高い検討ができればと思います」ということにはならないだろう。「みなさん」の以前に「世代の責」について書き込まれると、論理展開としてわかりやすくなるのだろう、と思った。
 村岡氏が引用している、渡辺俊雄「地名は大胆に、人名は慎重に」(「大阪の部落通信」15号.1998.9)の「地名・人名の扱いについては、すべての場合に通用する一般的な法則といったものがあるわけではない。編纂される史料集の性格、目的や編纂主体、地域の部落解放運動の状況など、それぞれの条件によって扱いもまた違ってくる。」という見解をどう受け止めるのか、についてだけでも論議のあるところだろうと思われる。今日的にはネット上の被差別部落に関する情報(例えば鳥取ループ・示現社)までを論議の対象にすることになるだろう。
 また、部落問題に対する日本の東と西における社会認識の違い、「同和対策室」にも触れられているが、わかる人にはわかる、といった範囲内に収まっている。
 現職の図書館員たちは「わからない」のだから、「どうしてわからないのか」について現場を離れた「世代の責」に問うことをとおして「部落差別問題」と「図書館の自由」とを繋いで考えるきっかけになるのではないだろうか。論議を広げていただきたい。
図問研の回答が「その事象の分析をしないまま」「とても表面的なところで◯✕式の二元論」に終わっていると評価する人もいるだろうが、説明不足ではあるが、許容の範囲内とする立場もあろうと思う。
渡辺氏の文中に「地域の部落解放運動の状況」とあるが、これについてだけでも図書館員としての社会認識が問われるところである。政治的状況に巻き込まれることなく、論議をとおして図書館員としての「立脚点」を確かなものとされたい。
(私は「図書館の自由」問題にほとんど関わらなかったので、「したい」と言えるほどのことはない。今年度から図書館業界から退出したが、部落問題に関しては、数年前に長浜市内のまちづくりセンターで、仮説実験授業の「差別と迷信」の講座をしたり、23年度は長浜市内で、映画「私のはなし 部落のはなし」の連続上映会の実行委員長を務めたりしてはいる。)

と投稿した。日本の「東と西」は歴史の分野等では魅力的であって、ストレスを生むことはなかろうに、と思う。

「図書館の自由」問題にほとんど関わらなかった。「「当代駆け込み寺考」――公共図書館の機能」(菅井光男)という文が「みんなの図書館」1983.10に掲載されたのだが、これについて書いている(「み」1985.06)だけである。
私が「図書館の自由」につい書くときは、滝村隆一の学説の側から書くことになるので、それだけでひと仕事となってしまうのと、そういう立場を旗幟鮮明にして摩擦を生むまでのことはしなかった、というところだ。
図書館員に「部落問題」を少しは理解していただくために、ながながと引用したが、あれこれの知識・情報をもとに、図書館という現場にあって、地域の状況を考慮しながら対話を重ねていく。そのことが、地域の、また利用者の信頼を得ることに繋がると思う。
加古川と長浜とでは「部落問題」の課題が違うだろう。「差別解消」「国民融和」という立場から見ても地域格差はあるだろう。解同の支持基盤の強い地域もあれば、共産党系の全国人権連や自民党系の全日本同和会の強い地域もある。自治体の取り組みの経過によっても違う。
図書館員はその地域の現状を把握し、なにに取り組むべきなのかを考えなければならない、のではあるが、目の前の業務をこなすことに精一杯で、取り組むことはできないのかもしれないが、考えを深め、なにが出来ていないのかを自覚することはできるだろう。

余談ながら

ネット上においてプライバシーが侵害されるなどというのは、メディアの表現する側(タレントや評論家、政治家)が侵害される、無名の市井の一個人には無縁なことと思っている人とがいるかも知れない。しかしSNSを活用しない人でも、当人が知らないけれど、他人からプライバシーを暴露されているという場合もある。普通は市井の一個人の名を検索しようとはしないのだが、検索したらプライバシーがさらされていた、嘘の情報だった、ということもある。(さらされた記事を消去する、さらした相手を確定し、抗議する、などは簡単ではない)
身近な「親密圏」での問題なのではない。そういう人もSNSで登場させられる時代なのである。

被差別部落に生まれたり、「部落民」と見なされたりすることを、他人に知られたくない、と思うこと自体が「差別」と戦っていない人である、として、「部落民宣言」をすることで「差別と戦う力」「生きる力」が育つ、といいう考えもあった。となれば「部落問題」に背を向けている「部落民」を「差別を容認している者」なのだ。という論理立てで「糾弾」する、というようなことに結びつくのだろうか。
こう書き進めると、「部落解放運動」の歴史を対象にすることになってしまうので、ここまで。

2024年01月29日

「部落問題関連資料の制限」その3 残日録240122

『「同和はこわい」考』が論じる対象としていた部落解放運動は、1960年代から部落解放運動の主流派となった朝田善之助の主張を軸に展開されていた。「朝田理論」と称される。(日本共産党系は70年前後から主流派を批判し、組織分裂にいたる)

「朝田理論」(ウィキからの一部コピペ)
前提[編集]
• 「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」
• 「日常生起する問題で、部落にとって、部落民にとって不利益なことは一切差別である」(部落解放同盟第12回大会)
部落差別の3つの命題[編集]
1. 「部落差別の本質は、部落民は差別によって主要な生産関係から除外されていることにある」
2. 「部落差別の社会的存在意義は、部落民に労働市場の底辺を支えさせ、一般労働者、勤労人民の低賃金、低生活のしずめとしての役割、部落民と労働者・勤労人民と対立させる分割支配の役割にある」
3. 「社会意識としての部落差別観念は、自己が意識するとしないとにかかわらず、客観的には空気を吸うように労働者・勤労人民の意識に入り込んでいる」
肯定的評価[編集]
部落解放同盟書記長をつとめた小森龍邦は、この朝田理論を「長い間、差別されていること自体、部落の責任だと思っていたものに、勇気と自信を与え、差別の本質的認識を前進させるために、運動の当初必要とされた、この命題は運動の最後まで必要とされるものである」と讃えている。
否定的評価[編集]
朝田理論に基づく恣意的な差別認定の乱発については、当初から「箸が転んでも差別か」「パチンコに負けるのも、郵便ポストが赤いのも差別か」と揶揄されていた。これに対して朝田は「その通りや」と笑って答え、批判を受け入れようとしなかった。かつて朝田善之助に師事していた東上高志によると、朝田は常々「差別者をつくるのは簡単だ」と豪語していたという。東上は朝田と共に大阪の朝日新聞社まで歩いていた時、「八百八橋」の一つである「四つ橋」にさしかかり、「東上君、あれを読んでみ」と朝田に言われた。「四つ橋」と東上が答えると、朝田は「お前、今、四つ(被差別部落民の賤称)言うて差別したやないか」と非難してみせた。このような強引な難癖の付け方は、矢田事件における「木下挨拶状」への糾弾の際にも応用された、と東上は述べている。
朝田は自らの理論を「実践にすぐ役立つ」と豪語していたが、全解連の中西義雄は、朝田理論を「理論、イデオロギーでもなんでもなく、暴力団が市民にいんねんを吹っかけておどしとるのと、同じ論法にすぎない」と論評している。
岡映によると、岡山県江見町では居酒屋で飲食した5-6名の部落民が金の持ち合わせがないことに気付き、とっさの対応策として居酒屋の主人の「差別発言」をでっち上げ、銚子やコップを割る、椅子を振り回すなど暴れられるだけ暴れ、酒食料を無料にさせ、なおかつ居酒屋の主人を謝らせ、金一封を巻き上げて自慢していたことがある。「後年、『朝田理論』として有名になった『部落に生起する一切の部落と部落民にとっての不利益な問題は、差別である』とする定義づけに、私がどうしても賛成できなかったのは、『朝田理論』の『実践的な原形』ともいえる江見の若衆たちの話を聞かされていたからである」と岡は述べている。
部落民にとって不利なことを全て差別と見なした結果、「僕が勉強でけへんのは差別の結果なんや」と教師に主張する同和地区出身の小学生も現れた。
部落解放同盟出身で、のち対立団体に転じた岡映は朝田理論を「唯利的巧理論」と呼び、海原壱一の「海原御殿」を実例にあげて「金儲けしたくば、朝田派にゆけ」と皮肉っている。同和対策事業で潤った朝田派幹部らは「朝田財閥」と呼ばれた。
「浅田満」および「川口正志」も参照
また、朝田派には同族意識論と呼ばれるものがあった。この同族意識とは、水平社の初期にも問題にされたもので、部落外のものは労働者であっても差別者とみなし、部落の者はたとえ資本家や富豪でもみな兄弟とみなす立場であった。この考え方は、階級的連帯を否定する排他的・閉鎖的な部落排外主義として批判された。
松沢呉一は朝田理論を以下のように批判している。
既存の差別反対運動の中に、当事者が唯一絶対の判定者だって考え方が非常に根強くあります。もう十何年前に『同和はこわい考』(阿吽社、1987年)っていう本が出て、著者の藤田敬一さんは二つの思い込みに対して疑問を呈してました。一つは、【ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない】、もう一つが、【日常部落に生起する部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である】(同書57頁)というものです。これに対して藤田さんが異議を唱えたわけです。『週刊金曜日』の「性と人権」の中でも、「差別された者にしか痛みはわからない」といった言葉はずいぶん出てますよね。これは差別された者は間違いをしないっていう前提で成立する話じゃないですか。これに対して、抗議された側は、反論のしようがないわけです。つまり、議論を拒絶することでしかないんです。この発想は、差別されたと思った人は「被差別者」というグループに属し、彼らが差別した側と見なした人は「差別者」というグループに属し、差別という事象を判定する権限は「被差別者」のグループにしかないということですから、実は差別の構造の逆転なんです。どのグループに属するかの属性だけで、その発言が決定されてしまうんですから。
論理学的には朝田理論は対人論証と呼ばれる詭弁の一形態である。何故なら朝田理論は、言った人間の属性(この場合は部落民か否か)を持って命題の正誤を判断しているからであり、もしこれが正しいとすれば全く同じ言動であっても言っている人によって正しい間違いが変化してしまうことになってしまうことになる。
以上

私自身は20歳代の加古川市立図書館時代、「同和問題」に関心をもっていた。それは被差別部落が市内にあったり、解放運動を身近に感じたり、担当していた移動図書館のサービス・ポイントのなかに地区があったりしたことがあげられる。また、図書館界で「ピノキオ」(差別図書)問題があり、図書館問題研究会の役員として関わったことにもよる。「同和事業」に関わる不正・腐敗までは想像の範囲でしかなかったが、奨学金をもらっている大学生が、授業よりもパチンコ台のほうに熱心であったのに、解放運動に期待される人物としての顔をしているのを白々しく視ていた程度のことはある。
千葉の成田市立図書館時代は、図書館関係の団体のことに取り組んでいて、千葉の「同和問題」とは関わらなかった。「図書館の自由」では「ちびくろサンボ」問題でコメントが記録されているぐらいである。
38歳で滋賀の湖北に転出以降は、ほとんど行政マン・図書館長としての関わりにとどまっている。(私が着任して以降、エセ同和が送り付けてくる高額本の購入は基本的にはなくなった程度のことはあるが)
高月町立図書館では、研究者利用に限定した「制限図書」(閉架本扱い)とした資料はある。
そういう個人的な経験と距離をおいて、自由委員会に関わらなかった者として、部落問題と図書館の自由について書けることは、『「同和はこわい」考』が出版されて以降、近世政治起源説が否定されて以降、部落問題は、解放同盟と全国人権連の対立はあるにしても、動きとしては衰退化してきたと受けとめてきた。解放同盟は『「同和はこわい」考』が提起した問題を受けとめることができないようだったので、積極的に関心を持つことはなかった。先の「全国部落調査」復刻版への取り組みをみても、停滞感は拭えない。
21世紀に入る前から、解放同盟と全国人権連のどちらにしても「まちづくり」という課題に取り組むという立脚点に立つことが求められている、と受けとめていた。
個人的なことについてはこの程度にして置く。

「同和」とはなにか、「同和地区」とはどこか
「同和」とはなにか、「同和地区」とはどこか、「部落民」とは誰か、という問いがある。(労農派の明治維新=ブルジョワ革命の立場からすると、講座派につきあわされるという感じなのだが、講座派の影響は自民党宏池会から日本共産党(旧社会党左派を除く)まで及んでいて、そこの土俵を無視することはできない)

「同和」という言葉は「財団法人中央融和事業協会」が1941年6月に改称した「同和奉公会」と直接繋がっているので、20歳前後の私は大政翼賛的な言葉として否定的に使っていたように記憶している。水平社運動が戦時体制のなかに消滅してしまったこともあり、また、戦後「同胞融和」が「同和」と略された説もあり、「同和」「同和問題」は官製・行政用語として受けとめていた。「同和」「同和問題」は「部落解放」への融和政策と考え、否定的に使っていた。

「同和地区」は、部落解放・人権研究所の用語解説によると、

<同和地区>は,被差別部落を指す行政用語であるが,厳密にいえば被差別部落と同じではない。すなわち,行政機関によって*同和対策事業が必要と認められた地区に限定され,歴史的には被差別部落であっても,同和地区と認定されていないところがある。これを未指定地区【みしていちく】という。たとえば,東京都,富山県,石川県では同和地区はゼロと報告されているが,過去には,それぞれ20地区,233地区,47地区(1935年調査)が存在していたから,これら3都県だけでも,相当数の未指定地区が存在している。また,同和地区数は,71年から87年にかけて増加する傾向にあった。これは,地区住民の意識の高まりや自治体の姿勢の変化によるものであった。しかしながら,政府は87年の<*地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律>以降,新たな地区指定は行なっていない。


とあって、「同和地区」=「被差別部落」ではない。明治以降の「被差別部落」の増減についてはここでは対象にしないが、「71年から87年にかけて、「同和対策事業が必要」と認定された「同和地区」は増加傾向にあったことは動向として踏まえておきたい。

〈未指定地区〉未指定地区になった経緯については,さまざまな理由がある。第1に行政機関の部落問題に対する消極的姿勢,第2に地区住民の間で*〈寝た子を起こすな〉という声が強いこと,第3に,ある程度豊かな地区であったため,<生活環境の安定向上>に主たる力点を置いてきた同和対策事業の実施の必要がなかったため,などが挙げられる。第3の理由による少数の場合を除いて,未指定地区では,同和対策事業が未実施のまま,劣悪な生活実態が放置されている。

とある。
「同和地区」+「未指定地区」=「被差別部落」ということになるのだろうが、どこが「未指定地区」なのかについてはどこで掌握されているのか、私の知るところではない。
先般裁判になった「(復刻版)全国部落調査」や、以前に問題となった「部落地名総鑑」と総称されるものがあるが、それが「悉皆調査(した場合)」と比べてどの程度のカバー率なのかも私は知らない。
「同和地区」でなかったために「劣悪な生活実態が放置されている」「未指定地区」のことについてもっと論及される必要はあるだろう。
 同和対策事業は「同和地区の住民である」(属地)人を対象に行われる。では「同和地区出身」で「地区外」に住む人(属人)に対してはどうなのか。「同和地区外出身の同和地区の住民に対してはどうなのか。これらについては「全国地域人権運動総連合」(全国人権連)からの批判がある。


「部落民」とは誰か
 「部落民」は江戸時代以前の「穢多・非人等」の身分を先祖(系譜)にもつ人々ということになるのだが、

以下、「全国部落調査」復刻版裁判・控訴審勝利に向けて(上)2022.08 より

 もちろん、戸籍には部落出身であることを示すような情報は記載されていない。1871(明治4)年の壬申戸籍には「元えた」「新平民」などの記載はあるが、壬申戸籍は封印されているので、現在一般的な国民が閲覧できる戸籍に部落出身を識別するような情報が記載されていないことは事実だ。もしあったら大変な事だ。したがって戸籍の記載事項で部落出身者は判断できないというのはそのとおりである。
 それでは、お席は部落出身者の身元調査と何の関係もないのかといえば、まったく違う。戸籍が部落出身者を洗い出す〝ツール〟として機能しているのであり、戸籍こそが部落の地名リストから部落出身を割り出す〝切り札〟なのである。具体的には、次のような手順である。すなわち、身元調査の依頼を受けた興信所や探偵社は、行政書士などに依頼して戸籍等を手に入れ、調査対象者やその親、または親族の出生地や住所、本籍を調べる。そのうえで、それらの戸籍情報と「全国部落調査」などの部落リストに記載されている地区とのつながりを照合し、かかわりが見つかれば調査対象者は部落出身であると判断して依頼者に報告する――このような方法で身元を割り出すのである。だからこそ部落出身者の身元調査をおこなおうとする興信所や探偵社などは、行政書士や司法書士などに金を渡して不正に戸籍を入手するのである。逆な言い方をすれば、戸籍がなければ部落出身者を「調査できない」のである。(p87~88)

 世界にめずらしい戸籍制度を廃止する方向に積極的ではなさそうなのが疑問として残る。夫婦別姓や同性婚などとも関連してのことでもある。(明定)

 知ってのとおり、部落差別は江戸時代の身分制度に起源をもっている。現在「部落」と呼ばれる地域のほとんどは江戸時代にえた・ひにんが居住していた地区であり、また系譜的にたどれば部落に住んでいる住民の多くは江戸時代のえた・ひにんにつながっている。しかし、明治以降の近代化のなかで人口の流動化が起き、部落から出ていった人もいれば、外部から部落に入ってきて住み着いた人もいる。そのため現座の部落はさまざまな人が混住して生活している。もちろん大部分は、系譜をたどれば江戸時代のえた・ひにんの子孫であるが、えた・ひにんの子孫でない人も住んでいる。
 ところで、部落差別の実態という観点からみた場合、厳密に系譜的に先祖がえた・ひにんと呼ばれた子孫でなくても、部落に住んでいることによって、あるいはルーツをもつていることで差別の対象となっているのが現実である。実際、大阪府の調査などを見ればよくわかる。国民は、部落と呼ばれている地域に住んでいることをメルクマールとして部落出身者として見なしており、現に住んでいようがいまいが、ルーツをもっているだけで部落出身者と見ている。(略)部落差別は「部落」と呼ばれる地域に生まれた、またはルーツをもつというだけで遠縁の親戚まで部落出身者と見なされ差別の対象とされる。
 それは必ずしも厳密でなくてかまわない。実際、部落出身者を忌避・排除しようとする者は、相手が系譜的に江戸時代からのえた・ひにんの末裔であるかどうかを厳密に調査したうえで忌避・排除しているわけではない。過去の事例をみると部落に何らかのかかわりがあると見れば忌避しえおり、系譜の確認は厳密でなくてもよい。
 畢竟、部落差別とは、差別する側が地区や戸籍や噂を根拠にしてかかわりをもっている人を部落民とみなしておこなう差別的な行為であて、差別される側に何らかの差別される理由や属性の違いがあるわけではないのである。(p93~94)

 部落解放運動や同和教育については、歴史的な経過や行政の取り組みの違いから、地域によって「違い」があるので、全国一律に論じられないところだと思うが、あまり縁のなかった人は、引用した解放同盟側の意見を知っておいていいだう。解放同盟の綱領では「部落民とは、歴史的・社会的に形成された被差別部落に現在居住しているかあるいは過去に居住していたという事実などによって、部落差別をうける可能性をもつ人の総称である」と規定している。

(「あまり縁のなかった人」と書くと、「差別者としての自覚が足りない人」を許容していると受けとめられ、批判する人もあるかもしれない。日本に生まれて、それも「被差別部落と血縁的に縁がない系譜(―これは差別的な表現でもある)をもつ者」は、胎児となる瞬間から「差別者」として存在するのだから、無自覚であるなしに関わらず「差別者」であって、存在そのものが犯罪的存在なのだ、という意見もあるだろう。被差別と差別の間にある「かべ」をどうしたら乗り越えられるのか、乗り越えることなど不可能なのか。前世紀からある問いである。
被差別・差別をこうして考えていくと、日本人として生まれた人間は、即「在日韓国・朝鮮人差別者」かつ「植民地支配者としての心性」をもつ者となる。「差別」の本質は「部落差別にある」という立ち位置からすると、「同民族内の差別」のほうが「異民族間の差別」より「差別」の本質である、ということになるのだろうか。(これらのことを言い出だすと「差別」を弄んでいる、と批判が来るかもしれないが)

鳴海眞人(大西成己)『かべ』(1993.門土社)から、
サンテレビ放映時に監修者部落解放兵庫連合会元委員長、小西弥一郎(故人)からのメッセージを引く。(P172)

かべ、ここに描かれているかべは何でしょう。このドラマは、部落問題を明らかにし、その本質である部落差別を明らかにし、これを取り除かんとする尊い運動……そのじゃまになるかべをひとつひとつのシーンでぶち破っていく。
そこに登場する二人の若者、そして、それを囲む多くの若者は純真であり、清潔そのもの……さあ別との闘いにぶちこみ、恋愛から結婚にゴールインする。その中で、差別と偏見のかべにつき当たるが、見事にこれをぶち破る。しかしつぎにひかえたかべは自分自身の中にある差別のかべであった。これを乗り越えようとする幕切れ……。
彼等は、すばらしい運動家になるであろう。見る人に感動と期待とほのかな展望をもたらす痛快なシ-ンに満ちたドラマである。


別の考えもあって、「全国地域人権運動総連合」(全国人権連―日本共産党系)は「部落問題解決の4つの指標である、格差是正、偏見の克服、自立、自由な社会的交流」は「基本的に達成された」という立場(ウィキ)を採っているので、部落差別が出版・報道で話題になることを「部落差別残存論の逆流現象」と位置づけている。

部落運動について、丹波正史「正常化連から人権連へ」(「人権と部落問題」2018.7)から「解同分裂の背景」「組織排除と正常化連」(p42~43)を引用する。

「解同分裂の背景」
なぜ解同の分裂が起きたのか、歴史の検証が必要である。当時の状況は、原水爆禁止運動の分裂に見られるように、社会党系と共産党系の対立が激化し、さまざまな分野で分裂が生まれた。労働組合運動も、産業変動に見合う形で再編成されはじめた。こうした歴史の流れの中で解同の分裂問題を把握する必要がある。
また同時に、部落問題という独自分野での問題も見逃せない。この1968年は、同和対策事業特別措置法制定の年である。その後、約16兆円が投下された同和対策時事業の出発点となった。こういう歴史的分岐点に部落解放運動は立っていた。
組織を同和対策事業の受け皿にしたいと思う人びとにとって、統一戦線は煙たい存在であった。大阪、京都、奈良の解同書記長の「新春座談会」が当時の「解放新聞」(1969年1月5日・25日付)に掲載されている。
この座談会で、大阪の解同書記長が、同和対策事業特別措置法下の10年間で5兆円から10兆円の金(事業費)がいる、部落の土建屋をまとめて、大阪府とかけあい、認可をとって企業合同をし、大口注文をとるなどと語っている。つまり、解同組織を、予測される莫大な同和対策事業の受け皿組織にしようとう目論見が、幹部によって赤裸々に語られている。

「組織排除と正常化連」
全国的に、朝田派による執拗な分裂策動が繰り広げられ、当時の組織勢力の3分の1が排除された。
排除された組織が中心になって、1970年6月に岡山市で部落解放正常化全国連絡会議(以下、正常化連)が結成された。この組織は、要求実現、組織の民主的強化、共闘の前進という目的と、朝田はの部落排外主義に反対し運動の正常化を実現するという2つの目的をもった組織である。
(略)
正常化連は、朝田派の本格的な分裂策動を受けて」から全国的には5年に及ぶ時間を費やして態勢を整えることとなった。
以上

和歌山県立図書館の事例は全国人権連の側の問題提起あって、これについては日本共産党系の「人権と部落」(部落問題研究所)の「特集 部落問題と表現の自由―閲覧制限をめぐって―」2022.09、があり、「地名」については「同和地区の識別情報は人権侵害か」等として「特集 今日の部落問題をめぐる争点」2023.03 で取り上げいる。

2024年01月22日

「部落問題関連資料の制限」その2 残日録240113

黒川みどり『増補 近代部落史』p259~260
   アイデンティティ論の登場
 当事者にそうした批判や要求(「糾弾のあり方、えせ同和団体・行為などの問題」―明定)が突きつけられる中で、解放とは何かをめぐって、「部落民」という自己認識の消去を前提に差別・格差解消をめざすという方向と、それを保持しつつ解放を実現するという方向との対立が改めて顕在化した。その際に、発達心理学者のエリク・エリクソンの研究や社会学で用いるアイデンティティという概念が導入され、「部落民」というアイデンティティが俎上に載せられていった。
 それはかつて私も「異化」と「同化」という視覚で論じたように(略)、水平社の時代以来の「身分か階級か」という対立の変形であるともいえようが、すでに階級という視点に立ちながら革命をどう見通すかという観点が議論から抜け落ちた中にあっては、「部落民」という〝アイデンティティ〟の問題がそのまま前面に押し出されることとなった。アイデンティティを保持しながら解放を実現するという路線は多分に永久革命的な性質を帯びており、「国民融合」路線がともするとマジョリティがマイノリティの〝問題〟を言挙げしてマジョリティへの包摂を促すことになりかねないのに対して、それに対抗するという意味をもっていた。
 さらにこの「部落民」とはという問いは、次に述べる議論を経て前面に押し出される事となる。

 黒川は論究していないが、「身分か階級か」という観点にかわって、マルクス主義歴史学の資本主義論争からみた「部落問題」が登場しなければならないと思われるが、門外漢の私までには論争は聞こえては来なかった。

ウィキから「日本資本主義論争」一部抜粋
 マルクス主義には「原始社会→奴隷制→封建主義→資本主義→社会主義」という歴史発展五段階の法則があり、1930年代当時の日本が資本主義の段階にあると言えるか否かをめぐって行われたマルクス主義者たちの論争である。この日本資本主義論争は『日本資本主義発達史講座』(1932年5月から1933年8月)の刊行を機に起こった。
労農派は明治維新を不徹底ながらブルジョア革命と見なし、維新後の日本を封建遺制が残るものの近代資本主義国家であると規定し、したがって社会主義革命を行うことが可能と主張したが、共産党系の講座派は、それに反対して半封建主義的な絶対主義天皇制の支配を強調して、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化を主張した(「二段階革命論」)。この論争を日本資本主義論争と呼ぶ。
日本資本主義論争は独自の近代化を遂げた日本社会の発展史をマルクス・レーニン主義のモデルにあてはまるかどうかに焦点が当てられたイデオロギー論争であったから、マルクス主義そのものの権威が失墜するとともに無意味な論争とみなされるようになり、顧みられることが少なくなった。
この論争は共産党系と非共産党系の対立という要素があったので批判のための批判で終わることも多かったが、欧米諸国とは異なる条件で行われた日本の近代社会発展をめぐる様々な問題への知的関心がこの論争によって引き起こされた。
日本資本主義の前近代性を主張する講座派の理論は、大塚久雄を中心とした「大塚史学」にも影響を与えたとされる。また第二次世界大戦後も、日本を「対米従属と大企業・財界の横暴な支配」と認識して当面の「民主主義革命」が必要とする日本共産党系と、日本は既に帝国主義国家であると認識してそれを打倒すべきとする勢力(社会党左派、新左翼など)との、理論や活動の相違に影響を与えた。全体として講座派の潮流は、戦前・戦後を通じて民主主義革命→社会主義革命という2段階革命を主張し、労農派の流れを汲む潮流は、直ちに社会主義革命を主張するという特徴があったといえよう。

 部落問題について言えば、労農派は、明治維新はブルジョア革命、としたので、近世以前の被差別部落・部落民という身分制は解消に向かい、明治以降の社会政策としては「被差別部落(≒同和)対策」ではなく「貧困問題・対策」であるという立場を取ることになるのだろう。
部落解放運動は講座派の影響を受けていると言ってよいだろう。講座派は、半封建主義的な絶対主義天皇制が残存している「半ブルジョア革命」であるから、身分制としての「被差別部落・部落民」は残存することとなる。20世紀後半の日本の資本主義の発達は「ブルジョア(市民的)民主主義」を進展させたので、「国民融合」路線につながる根拠となる可能性もあるが、ここのところは整理されていない。
日本共産党系の「国民融和」論であれば、「半封建主義的な絶対主義天皇制が残存」しているにもかかわらず、「部落問題」が先行して解消するという矛盾が生じるのだが、この「国民融合論」は違う流れから生まれたものだろう。
戦後の社会科学は、労農派では宇野経済学が存在感をもったが、社会科学全般では「大塚史学」「ウエーバー+マルクス問題」などに影響を与えた講座派のほうの影響が大きかった。労農派の社会主義協会系のなども関心は低かったようだ。
「貧困問題・対策」としてとらえることと、「身分差別」として「部落民」を捉えることの違いについてはあまり論議がなされてはいないように思う。
私自身は社会政策としては「貧困問題・対策」であると「部落問題」を考えるが、社会意識論=「差別」論として「部落問題」は成立すると考える。それは宗教や民族学、風習といった文化の領域から、迷信やエセ科学といった分野につながる領域である。

黒川は次に「部落民」のアイデンティティに読者を向き合わせている。
そこには糾弾する側の「抵抗、抗議としての言葉」の社会学や自己形成の問題を「差別する側」「差別される側」の双方に問うことにつながることになる。

黒川みどり『増補 近代部落史』p260~261
中国史研究者の藤田敬一もまた、「意見具申」が引き金となり、『同和はこわい考――地対協を批判する』(あうん双書、1987年)という、まさに現代の差別意識を象徴的に示す表現をそのままタイトルにした本を世に問うて、問題を投げかけたひとりであった。
政府の側から運動に攻勢がかけられてきたことに危機感を強くした藤田は、部落解放運動を解体に導かないためには運動に自浄が必要であるとして、あえて歯に絹を着せぬ苦言を呈するという試みに出た。藤田の主張の柱は、差別・被差別関係の止揚に向けた「協同の営み」としての運動を創出することにあり、それは彼自身が、学生時代から京都を拠点に部落解放運動に参加してきた経験に根ざしていた。「同和はこわい」という意識をなくすためには、差別・被差別の「両側」が、その「立場」や「資格」へのこだわりを超える努力をしなければならないというのである。
ところがこの勇気ある提起にもかかわらず、日頃から差別意識をもち解放運動に反発を感じている人びとが、藤田の意に反して、運動批判の部分だけとり出して共感するという誤った受けとめられ方もあった。また、部落解放同盟は、地対協の論理と藤田の批判は重なり、藤田の主著は「「部落責任論」に片足をつっこんでいる」ともいい、『解放新聞」(第1325号、1987年12月21日)には部落解放同盟中央本部としての批判が掲載された。


『同和はこわい考』に対する基本的見解(部分)

 部落解放運動は重大な局面にさしかかっている。昨年八月五日の「地対協・部会報告」いらい、「啓発推進指針」など一部官僚の手による露骨な反動攻勢は、平和・人権・民主主義の陣営を分断・解体しようとするものであり、その狙いは、衆人の周知するところである。
 それゆえに、「部落解放基本法」制定要求国民運動を中心に、日本の人権と民主主義を守ろうとする力は、この反動攻勢を手放しで放置してはおかなかった。
 「部会報告」が「意見具申」となるとき、相当部分が削除され、書きかえられ、ごまかしによって糊塗的に擬装しなければならなくなったところもある。
 熊代昭彦(前地対室長)の手になる「啓発推進指針」にいたっては、「地対協」路線の後退に歯どめをかけようと、あらん限りの「悪智恵」をしほって、攻撃の体制を強化したものとみることができよう。
 このようなとき、われわれの運動周辺から思わざる混乱を誘発するような論理が飛びだしてきた。
 「同和はこわい考-地対協を批判する」(藤田敬一)がそれである。
 「同和はこわい」という差別思想を「地対協」路線が精一杯ふりまこうとしている、いまの時期、その印象に上塗りをするような書名としたのはなぜか。「奇をてらう」以外のなにものでもなかろう。
 主観的には「地対協を批判する」という副題をつけることによって、部落解放運動と味方陣営に位置しているというポーズをとろうとしているようである。
 だが、「同和はこわい考」は、文字どおり、われわれの運動を「こわい」運動であると分析し、そこからでてくる矛盾、弊害の数かずを「地対協」がいうところと同質の水準で指摘しているのである。

被差別部落外の人びとのあいだに「同和はこわい」という意識が根強く、しかもその原因を「被差別」の側に求める傾きがあることは否定できない。と同時に「被差別」側にも相手のこのような意識に乗じて私的利益を引きだしたり、便宜供与を要求したりして「こわおもて」にでる人がいないわけではない。その数、二百をこえるといわれる自称「同和団体」の叢生はこの間の事情を熟知もしくは察知した連中が「同和は金になる」とむらがっていることを示しており、それがまた人びとの「同和はこわい」という意識を補強もしくは再生産しているのである。(「同和はこわい考」4ページ)

 こうなってくると、「地対協」路線の典型的文書である「部会報告」のつぎの論理とどこが違うであろうか。

 民間運動団体の確認・糾弾という激しい行動形態が、国民に同和問題はこわい問題、面倒な問題であるとの意識を植え付け、同和問題に関する国民各層の批判や意見の公表を抑制してしまっている。(「部会報告」-同和問題について自由な意見交換のできる環境づくり)

 さらにつぎの文章とも、どこが違うかということになる。

 えせ同和行為が横行する原因としては、同和問題はこわい問題であるという意識が企業・行政機関等にあり、不当な要求でも安易に金銭等で解決しようという体質があること等が挙げられる。(「部会報告」-えせ同和行為の排除)

 こうなってくると、「地対協」路線が、一番力点を入れて攻撃している糾弾闘争についても「同和はこわい考」は批判していることになるし、政府・警察権力に弾圧の口実を与える「えせ同和」についても、その責任が、部落解放同盟にあると主張していることになる。
 著者のこのような、あやまてる認識に到達する生活体験は、この人自身がのべているように、少年時代に父方の親戚の家で見た被差別部落民にふるまう食器が「不浄」だとして便所の棚におさめられていたというきびしい差別のイメージと、著者がこれまで交わってきた運動らしきものとの、このましからざる関係によって、部落解放運動を正当に評価しえないところに、のめりこんだことによるものとみるべきであろう。

 「同和はこわい考」のもう一つの差別思想はこうだ。

 識字学級の集りで「文章を書くには、ちゃんと辞書を引いて」と話したところ、「差別の結果、教育をうける権利を奪われたわたしらに辞書を引けというのは、それはひどい」と批判された作家がいる。
 誰にも多かれ少なかれ自己正当化や自己弁護の心理はあり、なにもかも自分の責任にしていたら人は生きてゆけない。問題は自己責任をなにものかに転嫁することによっておこる人間的弛緩だろう。自己責任との緊張関係のない「差別の結果」論は際限のない自己正当化につながり、自立の根拠を失なわせる魔力をもつように思う。(「同和はこわい考」67ページ)

 残念ながら、ここでも、「部会報告」の露骨な、部落更生論、部落責任論の差別思想と同質のものをみざるをえない。著者、藤田敬一氏の、これまでの運動とのかかわりが何であったのかを疑わねばならないであろう。


 宮本正人のブログ「『同和はこわい考』論議と大西巨人1~3」(20221203~24)がこの見解に批判的に触れている。

黒川みどり『増補 近代部落史』p260~261
  「部落民」とはなにか
藤田はその後もねばり強く、雑誌『こぺる』や『「同和はこわい考」通信』などをとおおして自由な議論を喚起しつづけ、その問いかけは、やがて「「部落民」とはなにか」という議論に発展していく。そもそもの議論の中核に「部落民」という「資格」への問が発せられていたため、そこに到るのは必然であった。また一方で、その拝見には、いっそうの部落外との結婚の増大や人の移動によって、部落と部落外の〝境界〟がゆらいでいるという実態がり、その上で何をもって「部落民」とするのかが改めて問われることになったのであった。
 藤田自らが編集した『「部落民」とは何か』(阿吽社.1998年)は、そうした状況のもとで噴出しはじめた議論を集約するものであった。そこでは、そのような問を発することで、「部落民としての意識」自体を改めて対象化し、それによって、かねてからの藤田の主張である「両側から超える」ことがめざされているのであり、同時に、これまでの部落解放運動の中で、「部落民宣言」と称してしばしば疑義を挟む余地なくおこなわれてきたことをはじめとして、〝カミングアウト〟することの意味を改めて問い直されることともなった。

黒川みどり『増補 近代部落史』からの引用はここまでとする。
黒川は部落解放同盟に批判的ではあるが、近い立場にあると言ってよいだろう。日本共産党系の全国地域人権運動総連合(全国人権連)(←全国部落解放運動連絡会←部落解放同盟正常化全国連絡会議(正常化連))や部落問題研究所とは違う立ち位置にある。
黒川はこの部落史のなかで、1990~2000年代のターニングポイントとして「同和はこわい考-地対協を批判する」(藤田敬一)を位置づけていると思われる。

「部落問題関連資料の制限」について考えるとき、「部落解放運動」について知っておいた方がいいと思う情報として『「同和はこわい」考』を紹介しておく。

2024年01月13日

身辺雑事―寒中見舞、「部落問題関連資料の利用制限」ほか 残日録20240111

年末年始は退院後の体調の回復が間に合わず、加古川の実家でなく長浜で正月を迎えた。
喪中に付き、寒中見舞いを1月にだすことにした。

寒中お見舞い申し上げます。今年もよろしくお願い致します。
母 よしゑ が昨年2月に95歳にして西方浄土へ出立。確りとした、「腹ふくるるまま」にしての最期で、阿弥陀様がお導きになる浄土への道が、呪詛のごとき言葉を吐きながらの、果てない旅ではないか、と心配しておりましたが、10数年前に先に逝きました父が、散々聞かされて疲労困憊との便りがとどきました。
図書館業界退出後の徒然の時間を楽しみにしておりましたが、実家の修繕など俗事に勤しみ、病院に通う平凡な日々を重ねております。

とした。

図書館問題研究会の「和歌山県立図書館での部落問題関連資料の利用制限に対する問い合わせへの回答」について、村岡氏の「みんなの図書館」論考への論考があり、その論考への「感想」を「み」に投稿する予定で書いた。
図書館員に向けて、部落問題に関わる「地名」の扱いについて解説があったほうが良いと思い、書く準備を始めたところ、村岡氏が2月の研究集会で「部落差別事象と図書館の半世紀」と題して発表されることを知る。準備を始めてはみたものの、で終わるのか、次年度に発表→論文、となるかわからない。書かなくて良いならそれに越したことはない。2月の研究集会には出席したい。
これまでの浅学を痛感するばかりのことが続いていて、「任にない」「似合わない」ことはあまりやりたくない。老化していくばかりなのに、無理に背伸びをすることもないだろうとも思ってはいる。

黒川みどり『増補 近代部落史』(平凡社.2023)p258~
 「部会報告」「意見具申」(地域改善対策協議会による―明定)と、それらに対して部落解放同盟が投じた批判との間には、「差別の実態」の評価をめぐる違いが一つの主軸となって存在していたが、そのことは今日もはや、部落解放をめぐる論点を引き出す上にさして需要ではないだろう。むしろ当時から重要な争点をなしていたのは、「部会報告」「意見具申」が指摘した糾弾のあり方、えせ同和団体・行為などの問題であった。それらはむろん当を得た指摘を含んではいたが、問題は、〝差別する側〟が一方的に、運動団体の側に〝市民規範〟を身につけたふるまいを求めたことにあったといえよう。その後も、同和対策事業に関わる不正が問題とされる際のマスコミ等の取り上げ方は、その背後にある差別の説明を抜きに不正事件のみが取り沙汰され、しかも〝不正な〟要求を事なかれ主義によって受け入れてきた行政の責任が前景化されることはほとんどなかった。そこにも、被差別部落があたかも不正と犯罪の温床であるかのような認識をうみだしていった要因がある。

 引用が長くなるので、「この項、続く」としておきたい。

 部落解放同盟は、何をもって差別とし、「糾弾」するのか(「何を、どう糾弾するか」(部落解放同盟中央本部編:1991年より―ウェブ「部落問題資料室」

 わが同盟は、差別を自分勝手に判断して、なんでもかんでも「差別だ」と言って糾弾するのではないということは、言うまでもありません。では、どういう場合に糾弾するのでしょうか。それは次のように要約することができます。
①あきらかに差別意識をもって部落民の人権が侵害されたとき。
②差別行為(発言や執筆など)の結果として部落差別が拡大助長されたとき。
 このうち①は、どちらかと言うと、面と向かって行なうケースが多く、②の場合は、自分は差別する意図はなかったけれども、結果として、差別意識を助長拡大させたというときです。
 「露骨な差別落書き」事件や結婚差別事件、また『部落地名総鑑』事件などは①のケースで、「つい、うっかりして買った」というのではなく、会社の利害関係が大きく作用するなかで「部落民の採用を拒否する」という目的をもって購入したものです。だからこそ社会的に大きな影響をおよぼす差別事件としてわが同盟は糾弾闘争を展開したわけです。
 また「…は特殊部落みたいですね」という言葉や文章が電波や出版物などを通じて人びとに差別意識を植えつけていく場合は、その影響力が大きいため、「糾弾」の対象にしています。比喩的に使った場合であっても差別意識を拡大して社会的に与える影響が大きいことを考慮して糾弾闘争を展開しているのです。
 これまでの部落解放運動の血みどろの闘いによって「侮辱の意図をもって部落民の自尊心を傷つける」という差別事件は「差別落書き」の例を除いては少なくなってきていますが、客観的に差別を助長し拡大させる事件は後を絶ってはおりません。その多くは、「無意識のうちに差別してしまった」というものです。
 人間は、無意識のうちに相手を傷つけたり、屈辱感をあたえるということは、よくあるものです。しかし、「無意識」であったとしても差別発言をしたり差別的文書を書くということは、その人間の意識のなかに差別意識が潜在化しており、それが利害関係が働いたときに自然に表面化してくるというものであって、「つい、うっかりしてしたのだから……」とすませるわけにはいきません。無意識だったから問題にしないのではなく、その背景を「糾弾」のなかで明らかにしなければならないのです。
 差別意識が表に出てきたときに、その原因を明らかにして間違いを正さなければ、再び「無意識による差別的言動」をくりかえし、差別のバラまきを招くことは目に見えています。

 「差別語」について、
かつて朝田善之助に師事していた東上高志によると、朝田は常々「差別者をつくるのは簡単だ」と豪語していたという。東上は朝田と共に大阪の朝日新聞まで歩いていた時、「八百八橋」の一つである「四つ橋」にさしかかり、「東上君、あれを読んでみ」と朝田に言われた。「四つ橋」と東上が答えると、朝田は「お前、今、四つ(被差別部落民の賤称)言うて差別したやないか」と非難してみせた。(ウィキ「朝田理論」)とある。

私も、加古川市役所職員時代に、「えった」という言葉を読まされて「死に至る」ことがあるらしきことを講師から聞いたことがあった。作文で「家に帰った」を「家にかえった」と書くのは差別になるのか、と聞いてみたかったが、そうしていたら簡単に「差別者」になっていたかもしれない。
当時、教え子が糾弾している場に列席した元教員がいて、「あいつの言葉遣いは間違っているので、指摘してやろうと思ったが、隣席から余計なことは言わないでくれ」と言われた、と話していたことを思い出して、黙っていたのだった。〝差別する側〟が一方的に、運動団体の側に〝市民規範〟を身につけたふるまいを求めたのではなく、今となると、運動団体の側の〝市民規範〟の欠落を傍観視していたことになるのだろう。
糾弾の側に「差別とはなにか」と問われて「差をつけて区別すること」と答えたので、糾弾が長引いたこともあったらしい。答えた側の人は、地域の部落史の研究をしていた方だった。この方は差別と戦う地点に立っておられた。実際の糾弾の場にあって批判的だったのかもしれない。
「展望」1976.2 に三浦つとむ「「差別語」の理論的解明へ」が掲載されている。

どんな解放運動でも、活動の行き過ぎは運動自身をも傷つけることになる。正しい批判は運動に対する協力であって、運動を支持する者の義務でもある。いま、歴史学者や社会学者の間に用語に対する不当に卑屈な態度が生まれているのも、憂慮すべきことであって、それを防ぐためにも「差別語」の論議はその科学的な解明へとすすまねばならない。(p72)

『増補 近代部落史』は、
3 「部落民であること」
 「アイデンティティ論の登場」「両側から考える」「「部落民」とはなにか」……と続く。

被差別部落と私自身の接点について書く機会があるかもしれないが、それは個人史のレベルであるから、ここで横道にそれることもないだろう。1970年代に、土方鉄『腐食』合同出版.1972 に出会ったことと、加古川にあって部落解放や障害児教育に深く関わられていた大西成己氏から多く学んだことを書いておくにとどめる。


2024年01月11日

映画「私のはなし 部落のはなし」上映のことなど――近況雑事 231127-231224

今年の春頃から「私のはなし 部落のはなし」の長浜上映会に関わっている。NPO湖北じんけんネットワーク(代表;田邊九二彦)に上映の話を持ち込んだら、市民協働事業として長浜市とNPOの共催事業のなかに組み入れて開催することになった。

9月10日(日)試写会 長浜さざなみタウン 参加60人
9月17日(日)監督を交えての学習会 長浜さざなみタウン 参加30人
10月16日(月)第1回実行委員会 
10月30日(火)第2回実行委員会
11月25日(土)連続上映会第1回上映会 臨湖 参加55人

 このあと、第2回が12月10日(日)臨湖、第3回が17日(日)湖北文化ホール、と続く。

 私(明定)は11月30日から大腸手術の件で再入院(人工肛門を閉じて腸をつなぐ)するため、年明けの第3回実行委員会までの後の2回はお任せで、ということになる。

 この映画については、いい映画だったので、関心のある人に見ていただきたいと思った、というあたりにあって、その良さをながなが書くまでは至らない。

第1回の上映にあたっての挨拶は以下のとおり。

この映画は、日本各地でシアター上映と有志の上映会を重ねておりますが、滋賀県内での公開上映会の取り組みは、今年度では長浜のみとなります。
映画は、部落差別の起源と変遷から、近年のネット差別を行う「鳥取ループ」示現社の活動、「私のはなし」としての部落と差別を描いております。
この国において人権問題の基本とされていた部落問題を、ともすれば過去のものとして、「寝た子を起こすな」と言挙げを拒む課題として、受け止める気分というものがあるのではないか、と思っていました。
また、20世紀後半の被差別部落や部落解放運動史の研究は、私の好奇心をたくましくさせてくれるものではありませんでした。
この映画は、そうした私を「こうあるべきだ」といった告発や、「ねばならない」といった啓発ではなく、「新しい場」へと引き寄せてくれる内容でありました。
 みなさんにとって、人権を考える新たなきっかけとなることを期待しております。

 とした。
 
 遠方からの参加者もあって、そのなかに郷里の加古川の2歳年上の先輩Nさんがあった。Nさんは障害者問題に深く関わっておられる。若い頃は部落差別にも熱心に取り組む人だった。

 部落差別についての「私のはなし」となると、あまりまとまらないのだけれど、被差別部落の同級生の記憶とか、図書館現場や図書館問題研究会での話だとか、いくつかのことが思い出される。なかなか書くまでには至らない。怠惰であるとか使命感が足りない、という批判が直接にあるわけではないので、なんとか生きながらえているというあたりだろうか。そうは言っても私自身も「非力の所為」であることには落胆している。

 退院は年末になるだろうから、先週、実家の整理に一区切りをした。来年はいまある物置の整理にはじまり、物置の解体、書庫・物置を兼ねての倉庫を建てる予定。
私の本や収集品は実家の玄関と長浜にあるので、新しい倉庫だか物置は弟の視聴覚関係の機器とコレクション(版画が多いらしい)などの置き場所となるのだろう。

以上まで書いてそのまま入院となり、12月17日(日)に退院となった。

術後の回復は日にち薬のようで、遅々としてはいるが進んでいる。
年末年始は長浜で大人しく過ごすことになる。

「和歌山県立図書館での部落問題関連資料の利用制限に対する問い合わせ」が藤本清二郎氏より図書館問題研究会にあり、図問研の回答は、「和歌山県立図書館利用制限資料」等の資料からして、「図書館の自由に関する宣言」を逸脱している、としている。

「和歌山県立図書館利用制限資料」に記載された資料は、公刊され一般書店等で購入可能なものもあり、他公共図書館においては閲覧、貸出を通常に行っているものも見受けられ、市民が部落問題研究や歴史を学ぶ際にも重要であると考えます。これらの資料にたいして閲覧制限を行うことは、藤本さんが言われるように図書館による「知る権利」「表現の自由」「学問の自由」の侵害、検閲、と言わざるをえません。資料の内容については図書館ではなく、利用者が判断しなければなりません。
また、部落問題は今も根強く残っていますが、昨今の教育や社会情勢から、支所の中には理解が薄く、歴史的な背景や人権を学ぶことも不十分な者が多くおります。今回の件は部落問題の本質がわからないまま、選書と制限を行っている悪例だと考えております。(「み」2023.02 p86)

その回答について、大阪の元図書館員の村岡くんが、みんなの図書館2023-10に「部落差別事象と図書館をめぐるあれこれ」を書いている。

この「回答」がとても表面的なところで◯✕式の二元論を申し述べていて、その事象の分析をしないままに「自由宣言」の文言を繰り返しているように思えた」(p23)という立ち位置からの文章であった。

紙であれ電磁的記録であれ、特定の地域が「被差別地区」であるという識別情報をどう扱うのかについては、図書館の自由宣言の複文の例外規定(「人権・プライバシー条項」)に関わることだ。
村岡氏は、部落差別の事実把握に「西と東の違い」とよぶほかない落差が生まれてしまっていた、と受け止めてもいる。
これについての意見交流が図書館界で活発に行われてきたとは言い難いが、村岡氏も書いているように、それは70歳前後の世代の「責」という意見もあるだろう。「責」ある当事者の如く括られて戸惑うわけではないが、ひとこと付け加えるなら、図書館という世界だけで論じられる問題ではなく、部落問題、部落解放運動と離れて成り立つわけにはいかない問題でもあるのだと考える。
では、どう考えるのか、と問われたら、風呂敷は大きくなるばかりでまとまりそうにはないけれど。

2023年12月24日

佐藤優・山崎耕一郎『マルクスと日本人――社会運動からみた戦後日本論』(2015.明石書店)  残日録231023

 考え方の基本がプロテスタントという立場の佐藤優は、高校2年から1年間の浪人時代を経て大学2年まで、日本社会主義青年同盟(社青同協会派)のメンバーだったという。当時の社青同の中央本部委員長だった山崎耕一郎との対談である。佐藤はまえがきの「はじめに」で「労農派マルクス主義というユニークな思想について伝える類例のない作品になったと自負している」と書いている。
 労農派マルクス主義というが、内容は向坂派に焦点があったっている。社会主義協会(向坂)派のはなしと言えないことはない。
20歳代の加古川市役所職員時代、職員組合の多数派が向坂派であったので、労働組合という現場ではこの派の人たちとはお付き合いがあった。こちらは同じ社会党系ではあるが少数の反協会派であった。組合の執行委員会に図らず、教育委員会担当の執行委員に了解をとっただけで、ストのときに「チラシ」をまくと言ったゲリラ戦法をしたことがあった。
 労農派の構造改革派については別のところで少し紹介したい。
 この本で佐藤が労農派に対抗する講座派について「日本人の『思想の鋳型』」とりて論じているところがあるので紹介したい。

   日本人の「思想の鋳型」
 佐藤 日本人の『思想の鋳型』ということなんですけど。結局、知識人の中の圧倒的大多数の人たちというのはやっぱり講座派的な鋳型だと思うんですよ。日本的なシステムというのは変わらない、という。右翼の国体思想もそうだし、それからあと、かつて共産党員だった藤岡信勝さんとか、『新しい歴史教科書』の方向にいった人たち、この人たちもやっぱり日本のシステムという枠から外に出ない。それから、左の方の人でも、左というか真ん中グライノアカデミズム、エスタブリッシュされたアカデミズムにおいても、大塚久雄にしても丸山真男にしても、みんな日本的な型に入れていっちゃうということになるんですよね。
 山崎さんが、「われわれ農耕民族は」というかたちで言うんですが、これは実は、日本という特殊な型に入れているんじゃなくて、農耕民という型に入れているんです。フランスもその意味では農耕文明国家ですからね、ドイツも、ロシアも。そういったところというのは、やっぱり変わるのに時間がかかる。砂漠と比べて、それは確かだと思うんですよ。
 ですから今、日本の中で僕は非常に危ないと思うのは、相変わらず講座派な思考が主流で、安倍政権もそうです。要するに、国際的に通用しない議論をいろいろなところでやるんだけども、日本の中では通用してしまう。例えば、ホルムズ海峡への掃海艇を出せるか出せないかという議論はまったく意味がないですよ。だって、ホルムズ海峡にかつて機雷を仕掛けたのはサダム・フセインのイラクですけども、現在の「イスラム国」は海軍を持っていないですからね。それでは、イランがここに機雷を仕掛けることを考えているのか。しかし、国際航路帯というのはオマーンの領海内にあるわけだから、イランとアメリカがいま手を打とうとしているのに、そこでイランを仮想敵にするような議論が成り立っているということが異常なんですね。だから外国では報道されないんですよ。意味のないことをやっているから。こういうことにエネルギーのほとんどを費やしていくというのは、やっぱり日本特殊論であるとか講座派の特徴だと思うんですね。それは講座派マルクス主義とか日本共産党のドクトリンとしては大きな影響を与えないんだけれど、あらゆる部分に染みついていると思う。だからそれに対してグローバルなスタンダードというものはきちんと押さえないといけない。というふうになると、もう一回労農派はそこから見ないといけない。
 ただ、労農派的なものの見方についても危険があるわけですよね、労農派的な論理からすると、グローバリゼーションといのは不可避になるという結論も見いだせる。そうしたら竹中平蔵さんあたりのモデルになっちゃうわけですよね。日本的なるものと普遍的なるものが折り合いをどこでつけるかという、この問題というのは、『日本資本主義論争』で中途半端になったきり未だに解決していないように思えるんですね。だから、労農派・講座派という色分けが重要だというよりも、やっぱり「日本資本主義論争」を「封建論争」で中途半端にされちゃった、この後発資本主義国、帝国主義国である日本というものの特徴――普遍的なるものと個別的なるものがどこで交わっているかという問題、これは考えていかなければならない。そのときにどっちを軸に置くのか。僕は普遍的なるものに軸を置くべきだと思うんです。それから、マルクス主義というのは、普遍的なるものに軸を置いている思想だと思うんです。
山崎 昭和史、その周囲の世界の動き全体を考えながら、その中でわれわれの先輩たちとわれわれ自身がどのような発展の過程にいるかを考えることは、日々の活動を考えるうえでも、役に立つと思う。
佐藤 ただ、居心地が悪いんだな、たぶんこの普遍的なほうに軸を置くと。いつも考えていないといけないから。それで、日本とはこういうものなんだということで思考の断絶ができるわけで。日本の鋳型に一回入っちゃえば。常に皇室に回収されて、何とかさまブームみたいな感じになって来る。で、これは差別の問題とも非常に絡んでいるわけですよね。生まれながらに高貴な人がいるというのは、そうでない人もいるということですから。だから、それを沖縄なんかからすれば、要するに、沖縄に生まれたことを運悪く思えと、こういう話以上でも以下でも何でもないわけでしょ。そういう暴論が通用しているわけですよね。それで圧倒的に大多数の日本人というのが、そこのところはあまり自覚しない。どう考えたって0.6%の耕地面積がないところに74%の在日米軍基地があって、しかも今騒動になっている普天間の海兵隊は1950年代までは岐阜と山梨にいた、これは客観的な事実ですから。沖縄にあの海兵隊はいなかったんですから。それだけども、この沖縄の過剰負担ということに対して、これが構造化された差別なんだということを認めようとしないというのは非常に不思議ですよね。それは自分たちの特殊な型に入っているからとしか思えない。(p222~225)

「相変わらず講座派な思考が主流で、安倍政権もそうです。要するに、国際的に通用しない議論をいろいろなところでやるんだけども、日本の中では通用してしまう」というのは、竹村健一の「日本の常識は世界の非常識」を思い出させてもくれる。
労農派は日本の社会科学において少数派で、多数派は講座派なのだ。

この論争は、ウィキによると、
「労農派は明治維新を不徹底ながらブルジョア革命と見なし、維新後の日本を封建遺制が残るものの近代資本主義国家であると規定し、したがって社会主義革命を行うことが可能と主張したが、共産党系の講座派は、それに反対して半封建主義的な絶対主義天皇制の支配を強調して、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化を主張した(「二段階革命論」)。この論争を日本資本主義論争と呼ぶ」とある。
その影響として「日本資本主義の前近代性を主張する講座派の理論は、大塚久雄を中心とした「大塚史学」にも影響を与えたとされる。また第二次世界大戦後も、日本を「対米従属と大企業・財界の横暴な支配」と認識して当面の「民主主義革命」が必要とする日本共産党系と、日本は既に帝国主義国家であると認識してそれを打倒すべきとする勢力(社会党左派、新左翼など)の、理論や活動の相違に影響を与えた。全体として講座派の潮流は、戦前・戦後を通じて民主主義革命→社会主義革命という2段階革命を主張し、労農派の流れを汲む潮流は、直ちに社会主義革命を主張するという特徴があったといえよう」としている。

 仮説実験授業に「差別と迷信――被差別部落の歴史」という授業書がある。この授業書が生まれた初期の段階で、この論争について話題にした人がいた。明治維新というのは主観的には講座派の理論が背景にあったが、明治維新そのものの結果はブルジョワ革命だったのではないか、という意見だった。革命論として興味深い。腑に落ちた。近世の「身分制度」が近代にどうなるのか、ということは部落解放運動とも深く関わりがある。

佐藤 若い世代でも、講座派的な日本特殊論に立つ論客が多いです。講座派型の特徴というのは、最初に結論があるんですよね。これは簡単で、戦前においては「32年テーゼ」というものが動かざる真理としてあった、それが戦後は常に「共産党綱領」というのが背景にある。不破時代の綱領になってからだいぶ緩くなってきたと思いますけれど、61年綱領までは明らかにそうだったわけですよね。だから何を話しても、要するにいくらサイコロを振ったって、道がいくつに分かれていても最後に行き着くところが京都三条大橋であるのと同じで。これはディベートの訓練にはなるわけですよ。その結論にどうやって持っていくのかという。だから、弁護士で共産党系の人って優秀な人が多いですよね。それはどういうことかとゆうと、結論をつけるためにどういう議論をすればいいのかという訓練を党内で徹底的に若い頃からしていく、これは法律家的な発想だと思うんですよ。
 それに対して、労農派というのはある意味では非共産党という一点において、持っている緩やかなネットワークだから、一方においては対馬忠行がいて、他方には向坂逸郎がいる。あるいは高橋正雄みたいな人もいる。だから、政治的なスペクトルからするとトロツキズムから 右翼社民までいる。こういうスペクトルですよね。その中でも、議論をしていくときには、一応その原則というのは、相手の言っているところの中ではこれというものがあったらそこは採用していくというようなところはあった。その先のところに何か新しいものを見出していこうとすると。それだから、ブントだって革共同だって、あるいは解放派だって、講座派と比べると労農派マルクス主義の影響を強く受けているわけですよね。津島忠行を通じてであるとか。
 でも、本来、「労農派マルクス主義」というのはソ連の影響は受けていない、要するに、ソ連を理想視していないはずなんですけども、やっぱりソ連に対する幻想というのはあったということ。それにプラス、「思考の鋳型」の問題ですよね。労農派はどっちかというと「日本特殊論」に立たなかったんだけれども、やっぱり、宇野派の馬場宏治さんなんかにしても日本型の経営を礼賛していくとかいろいろなかたちで、日本というこの文化であるとか、日本の伝統というところに回帰していっちゃうこともある。そのプロセスの中にいると、僕はやっぱり講座派思考は強いなと思ったんですね。
そしてざ、残念だったのは、労農派はソ連をモデルにしていなかったにもかかわらず、レーニンに対する神話というのを維持したところだと思うんですよ。それは裏返すとレーニンとエンゲルスの連続性も高いこともあるんですけれども。レーニンの中には、実践家であって、またそれもある意味では陰謀家的なところがあった。そのどこまでがタクティカルだったのか、例えば、『なにをなすべきか?』の中で、「宣伝」として、社会民主主義者は、マルクス主義は宗教であるということを言ってはいけないんだけども、「扇動」として構わないと。宣伝は、エリートを対象に新聞等で文字にするものだけども、それに対して扇動は大衆を相手に口頭で行うものである、だから悪く言えば、痕跡が残らないものだったらいい加減なことを言ってもいい、とにかく、常に二分法で味方を作ればいいという、マキャベリズムですよね。
 こういうものに対する根源的な批判というのは、本来はローザ・ルクセンブルグであるとか、あるいはカウツキーを通じてあった。特に重要なのは、ローザ・ルクセンブルクがああいう死に方して、悲劇のヒロインみたいな雰囲気があるので、その情緒的なところで、左翼の心をとらえたところがある。しかもあんまり長生きしなかったから、本格的にスターリンと対峙することもなかった。それだからローザについては一応言及できる、リープクネヒトとかそのへんについては言及できることはあったんだけれども、やはり重要なのはカウツキ―だと思うんですよ。カウツキーをあまりに簡単に日本のマルクス主義者は処理してしまった。それから、民族問題について考えるんだったら、オットー・バウアーとか、本来は労農派に近いオーストリア・マルクス主義にはほとんど視点が伸びなかった。気づいてはいたと思うんですよ、みんな。でもなんかやっぱりソ連に対する遠慮・抑制が働いて、共産党が政党なマルクス・レーニン主義者だということを言っているけど、マルクス・レーニン主義ということだったら、われわれもマルクス・レーニン主義なんだと、社会主義協会の人たちは思っていた。この意識が強すぎたように思うんですよね。マルクス主義だけれども、レーニン主義じゃないということを言えなかったわけですよね。(p226~229)

 1970年代後半の加古川市役所職員時代、労働組合の多数派であった(向坂)協会派の時代錯誤に付き合うことができたのは、振り返ってみるとなかなかの体験であった。
 当時、当人としてはあまり気にならなかったことではあったが、加古川での身辺周囲では、新左翼系の活動家というレッテルが貼られていたようであり、その噂も伝え聞いたことがあった。高校生の時、建国記念日制定への反対集会(中核派系?)が神戸であり、友人に誘われて参加したことがあった。その時、発言したので、大学に入学したら中核派のオルグの対象になっていたようだ。そんな情報が就職先の市役所関係に流れていたのかもしれない。
 町内の10軒ほど離れた家の学生が過激派だったらしく、公安がうろついていたことがあったように記憶している。

 日本のマルクス・レーニン主義が素通りしてきたオーストリア社会主義などは、村岡至氏など「フラタニティ」の関係者が研究されている。
 以前、村岡氏の「政治グループ稲妻」時代からの読者として「フラタニティ」に書いたことがある。成功している「道の駅」には「コミュニケーション力の優れた人物がいるにちがいない」と書いた。谷川雁のいう「工作者」ではないのか。「工作者」は左右・保革の別なく生活者として暮らしている。その人たちへの眼差しも労農派は弱い。

2023年10月27日

堤未果「教科書のない学校」(堤未果『デジタル・ファシズム』NHK出版.2021 p249~252)  残日録231015

 ブレットがないと、自分の頭で考えなければならない、という小学校の女の子の言葉を聞いた時、不思議な気持ちになった。
 私の母校である和光小学校には、タブレットどころか教科書自体がないからだ。
 知識を入れるためだけでなく、考えるための教材を先生が自分で探してきて、それをプリントしたものが配られる。毎回授業のたびに数ページ配られる紙を自分で二つに折って、授業の最後にファイルに綴じてゆくので、一学期が終わるころには一冊の教科書ができあがる。授業中に思いついたことの走り書きや計算式、その時流行っていたアニメのイラストが描いてあり、あちこちに折り目がついた、世界に一つしかない、自分だけの教科書だ。
 プリントは毎回、その授業で進む分しか配られないため、当日にならないと内容がわからない。国語の授業で使われる物語は、その日のページ分だけで先の展開が読めないので、皆で登場人物の気持ちや動機を一生懸命考えながら授業が進んでゆく。結末を知らない分、騒動力がどこまでも広がり、毎回どんな意見が飛び出すか、議論がどこに向かうのか予測できない楽しさがあった。
 この学校の授業には、二つの特徴がある。
 一つは「すぐに答えを教えてくれないこと」。
 例えば、ある日理科の授業で先生がこんな問いを出した。
 「パイナップルは、どこになっているでしょう?」
 私はその時率先して手をあげ、自信満々で「木になっています!」と発言した。他の生徒からも「土から生えてる」「冷蔵庫」「わからない」など多数の声が上がる。先生は正解を言う代わりに、私たちにもう一度こう問いかける。
 「未果どうして木だと思うの?」「土に生えていると思った人はなぜ?」
 答えの代わりに問いを投げられた私たちは、小さな頭をフル回転させてそれぞれの理由を皆に説明し、自分とは違う意見にも耳を傾け、丸々一時間話し合う。
 その間先生は口を挟まず、私たちが活発に議論する姿を目を細めて観ていた。
 授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、やっと先生がくれた答えを聞いた私は顔が真っ赤になったけれど、皆と話したあの時間が、とても楽しかったのを覚えている。
 もう一つの特徴は、先生が生徒の答えに〇✕をつけないこと。
 正しいか正しくないかよりも、どうやってその答えに辿り着いたかの方に関心を持ってくれるのだ。間違えても裁かれないので、私たちは思ったことを自由に口に出し、ありのままの自分でいられたように思う。その分話が終わらずに時間切れになってしまうことが多かったが、先生は気にする様子もなく、一緒に熱くなっていた。
 中でも一番重宝されるのが、途中でついていけなくなってしまい、答えが出せなかった生徒だった。彼らはときに「はてなさん」などと妙な名前で呼ばれ、それぞれどこでわからなくなったのかを言わされる。そこからクラスの皆で一緒に考え、疑問を口に出しながら、ゆっくりといっしょに答えを見つけてゆく。どんな意見を口にしても、先生はいったんそのまま受け入れてくれる。だが、面倒くさいからと考えるのを放棄して「○○ちゃんと同じです」などと発言したときだけ、先生は顔をしかめてこう言うのだ。
 「同じ、なんて意見はないよ。未果はどう思うの?」
授業の最中も、先生は黒板を使わずに、壁に張った大きな模造紙に生徒から出された意見をどんどんその場で書いたり、文字でなく図にしてみたり、ときにはプリントを使わずに全部口頭でやってみたり、いきなり演劇から入ったり、その時その時の空気に合わせたやり方をする。
 そんなふうに先生が創意工夫をして、毎回一期一会の授業を作るあの教室では、違う考えを持つクラスメイトたちの存在を同じ空間の中で受け入れることや、答えの出ないことを考える道のりに、何よりも価値が置かれていた。
科学者と起業家たちは今、人工知能を駆使して生徒の間違いを見つけ出し、思考の土台を作り、激励までしてくれる個別学習プログラムを開発中だ。
 だが教師と生徒の間の絆や、教室で生まれる一体感は、果たしてそれらに置き換えられるだろうか?

カバーの表の折込みに

 行政、金融、教育、国の心臓部である日本の公共システムが、今まさに海外資本から狙われていることをご存知だろうか? コロナ禍で進むデジタル改革によって規制緩和され、米中をはじめとする巨大資本が日本に参入し放題。スーパーシティ、デジタル給与、オンラン教育……いったいま、日本で何がおきているのか?気鋭の国際ジャーナリストが精密な取材と膨大な資料をもとに明かす、「日本デジタル化計画」驚きの裏側!

とある。その本に突如現れる著者の教育体験。これは著者にとっての「教育の現像」といっていいものだろう。オンライン教育では格差を広げるだけだとの危惧はこの体験に根ざしているに違いない。荒川区の学校図書館の実践がこの危惧をのりこえる事例として紹介されている。
 タブレットで検索することで回答にたどり着く、というのではなく、AIも同様だけれど、デジタル情報から導き出された回答はそれがゴールではなくスタート地点なのである。そこまでたどりつける力量を身に着け、そこから問題を立て、選択肢を考え、仮説をもとに討論をする。それぞれの仮説が実験(実践)によって検証される、という展開をコミュニケーション術として獲得することが教育に求められる。

2023年10月15日

中北浩爾『日本共産党――「革命」を夢見た100年』(中公新書。2022)  残日録230925

政治と関わりのなかった私だが、知人の大橋通伸氏が滋賀県議会議員選挙に出馬されて、3期12年(2011~2022)の議員生活を送られた関係で、立憲民主党関係の選挙の手伝いをしたことがある。
日本共産党との選挙協力のこともあって、めったにないことだが、立民の関係者から、日本共産党についてどう思うか、とか、どう考えるか、と聞かれることがある。日本共産党の支持者の中にも、私の図書館についての考えを支持してくださる人がいるから、簡単に返事ができることではない、ととりあえずは言っておくことが多い。組織としての「民主集中制」への疑問の程度は言うこともある。
先の大塚の『「日本左翼史」に挑む 私の日本共産党論』において、「客観性と学術研究に裏づけされている」と評価された中北の本書を読んだ。

大国主義・覇権主義や人権問題を理由に中国を社会主義と無塩の国と批判しながら、以前として同じ共産党を名乗っている。共産主義のイデオロギー的な魅力が減退したのであれば、党首選挙なので参加の要素を高めることが当院の獲得につながるはずだが、民主集中制の組織原則が足枷となっている。野党共闘についても、アメリカ帝国主義と大企業・財界を基本的に「二つの敵」とみなす民族民主革命論が妨げになって、安定した野党連合政権を樹立する見通しを持てないでいる。
日本共産党が路線転換するとすれば、一つの選択枝は、イタリア共産党のような社会民主主義への移行である。
安定した連合政府の担い手になるためには、日米同盟や自衛隊の役割を承認するなど現実化が不可欠であり、平和や福祉の実現を目指しながらも、アメリカや大企業・財界と一定のパートナーシップを構築する必要がある。議会制民主主義と資本主義など既存の政治・経済体制の枠内で改良に努める社会民主主義政党に変化すれば、野党連合政権は一気に実現に近づくであろう。
現在、日本にも社会党から党名変更した社会民主党が存在しているとはいえ、二〇二〇年末の分裂と立憲民主党への合流により国会議員が半減し、存亡の危機に瀕している。こうしたなか、社会民主主義政党に移行すれば、より中道に位置する立憲民主党などと緊密に連携し、衆議院の小選挙区比例代表並立制のもと、自民・公明両党に対抗する強力なブロックを形成できる。日本政治のこうぞうは大きく変わるに違いない。
もう一つの選択は、民主的社会主義への移行である。
民主的社会主義は、マルクス主義を含む多様な社会主義イデオロギーに立脚し、反資本主義や反新自由主義など旧来の階級闘争的な政策に加え、エコロジー、ジェンダー、草の根民主主義などニュー・レフト的な課題を重視する。左派ポピュリスト戦略とも親和性が高く、直接的な市民参加を通じた人々の動員に活動の力点を置く。序章で詳しく論じたように、現在、ドイツの左翼党、ギリシャの急進左派連合、スウェーデンの左翼党、スペインのポデモスなど、ヨーロッパの主要な急進左派政党が、ここに位置する。一九五五年体制下の日本社会党も、これに近い性格を持った。
近年、日本共産党は共産主義を維持しつつも、かつての社会等と同様にご軒家非武装中立を唱え、脱原発、ジェンダー平等、国際的な人権保障などを重視している。その意味で社会民主主義化よりも障害が少ない路線変更の方向であり、若者などからの支持の拡大に寄与するであろう。
(p401-402)

  という。
  中北の路線転換の「二つの選択肢」は希望的観測の類ではあるまいか。日本共産党にとって「民主集中制」と「民族民主革命論」を乗り越えるにはハードルが高い。
  
  

2023年09月25日

大塚茂樹『「日本左翼史」に挑む 私の共産党論』2323.あけび書房  残日録230922

入院していたとき、病院内のコンビニに「通販生活」(2023盛夏号)が並んでいたので、買ってみた。この本が本の紹介欄にあったので、取り寄せて読んでみた。
 評者は助田好人。ウェブマガジン「マガジン9」の関係者のようだ。
 以下、書評の引用。

膨大な資料から、日本共産党の再生への道筋を探る。

 池上彰と佐藤優という稀代の論客による「真説」「激動」「漂流」の冠がついた『日本左翼史』3作に、戦前・戦後の日本における左翼運動の研究を続けてきた著者が向き合う体で書かれた意欲作である。博覧強記で知られる池上、佐藤の両氏だが、ときに「知略」に満ちた問いかけに著者は違和感を抱き、その正体を明らかにするため、膨大な資料をひもとく。そして加藤周一、立花隆、小熊英二ら様々な世代言葉を引用し、戦前・戦後初期の活動家への聞き取りや、そこで得た肌感覚をもって丁寧に批評していく。
 その粘り強い筆致で著者はどこに向かおうとしているのか。
 折しも本書が刊行される前、日本共産党に党首公選制を求めてきた松竹伸幸氏の除名が報じられた。「伸びやかな組織となって、後半な人びとの好感度を高めなければ世代継承も実現できない」と書く著者は「松竹氏を凌駕する党改革こそが求められている」という。左翼の可能性を考察する本書が目指す場所はそこにあるのかもしれない。

 評者の「そこにあるのかもしれない」という結び方は、この著者が何を日本共産党に求めているのかが不明瞭である、ということの証左ではあるまいか、と受け取った。
 池上、佐藤の両氏が労農派的な立場から「左翼史」を語っていること、著名な研究者、政治家、活動家など党派とその指導的理論者を基軸にしていて、新左翼の内ゲバを左翼衰退への要因としていること、左翼運動を支えた無名の人々への論及がないこと、などへの違和感を著者は持っている。
 その違和感を契機にして本著は書かれている。著者には身近に日本共産党の活動や、その支持者の営為があり、その立ち位置から「日本左翼史」に挑んでいる。そこのところがこの本を特徴づけている。有田芳生が圧巻とする「日本共産党の深部を描く」の章は、他に類のないもののようである。

 私は政治的な活動には消極的だが、「政治」のことに関心がないわけではない。社会科学的に見れば、山川均の労農派の流れとグラムシの「構造改良」派の流れに影響を受けており、哲学思想的には三浦つとむ⇒板倉聖宣の流れにある、と思っている。
 講座派の論理は、日本におけるマルクス―ウェーバー論から学ぶところがあった。マルクス主義については、マルクス―エンゲルス―レーニンの流れには関心がなかった。
 だから、「左翼」という枠に入るのかどうかは、私自身はよくわからない。

2023年09月22日

身辺雑記 残日録230920

8月15日に入院、17日大腸手術、9月3日に退院。その後は、体力に合わせて、ぼちぼち映画『私のはなし 部落のはなし』上映の準備をした。
9月10日試写会、17日監督を招いての学習会。あとは11~12月の3回の連続上映会の準備となる。
その頃には人工肛門を閉じる手術が待ちかまえている。腰の骨折は手術しないで、リハビリで筋力をつけることになるらしい。
実家の水回りのリホームが終わって、清掃に取り掛からなければならない。先週、加古川に帰ったが、帰るだけでくたびれてしまい、為すことがないままに終わった。来週は台所と風呂場の掃除や家具の搬入をすることにしているが、体力次第ではある。

K氏からの手紙に、病を得て「気力」が落ちた、とあった。お互い様、と書き送った。
私達は団塊世代の少し年下にあたるので、戦後精神、といった「大きな物語」も知っているが、浅田彰『構造と力』や東浩紀『存在論的、郵便的』にも触発されてもいて「ポストモダン」も無縁ではない。K氏や私は狭間の世代とまでは言えないが、とりとめのない、とらえどころのない思考に埋没している人たちなのかもしれない。そのことと「気力」の落ちたことが通底しているようにも思える。「表現」を生み出す「気力」が不足しているのだろうか。
7月に今福龍太氏の連続講座「第1回 木から紙へ、紙から本へ――寿岳文章『紙漉村旅日記』の余白に」が近所であったものだから聴きに行った。書く文章は難解であるのは少し読んでいて知っていた。話はあまりまとまらなくて、話しながら考えるタイプのようだった。内容に目新しところはあまりなくて、加齢の分だけ私の知っていることが多かったのは当然ではあるが、私より若い聴衆には新鮮に聞こえたようであった。
「頭のいい人」というのは、自分が知ったことを周りの人はまだ知らないのだと思える能力がある。今福氏もそういう人のように思えた。昔日であるなら「啓蒙家」だろうか。
寿岳は柳宗悦の民藝運動に参加している。柳も同人であった「白樺派」というのは学習院の出身者が中心で、お金持ちの子弟である。大東亜戦争に提灯持ちの雑文を書いて糊口をしのぐ必要はない人達であった。それを離れて彼らの「営為」は成り立たないように思えるのだ。もちろん、そういう境遇が否定されるべきだということにはならない。柳宗悦の「朝鮮」「沖縄」という例もある。寿岳のそういう側面も言及されてよかったのではないか、と思った。無い物ねだりでもあるのだろうが。
70歳にもなると、古い知識ばかりが頭の中に詰まっていて、そのことが思考のじゃまになることもある。「無い物ねだりでもあるのだろうが」はその類だろう。

2023年09月20日

近況雑事  残日録230726

  一昨年来、某高校の年に一回の長浜散策兼読書会に付き合っている。初年度がゴッデン『ねずみ女房』、昨年がヴィルフェル『灰色の畑と緑の畑』から「ろくでなし」など。そして今年は宮沢賢治『注文の多い料理店』をとりあげた。
  生徒が「宮沢賢治は小説を書かずに、なぜ童話を書いたのだろう」と質問してきた。
  何かを表現しようとするとき、言葉が通じないなあ、と思うことがあって、どうすれば通じるのだろうとあれこれ考えてみる。賢治が見つけた場所が童話の世界だったのではないかな、と答えた。当たっているかどうかはわからないが、そんな言葉が出た
  「さあどうなんだろうねぇ」と応えなかっただけ、まあいいか、と後で思った。

  「ゆとり世代」以降の世代が素晴らしい、という話。先日、加古川駅の隣の宝殿駅で食堂をいとなんでもいる少年サッカーのコーチの言葉を紹介した。コーチ曰く、団塊の世代の人口は多かったけれど金メダルの数は今と比べると数が少ない、という。その通り。サッカーの選手を目指している子どもたちは、日本一を目指しているのではない。世界に通用する選手を目指しているのだ。だから語学が必要なのだ。と言ったことに話は広がった。
「ゆとり世代」以降の世代が素晴らしい、とまでは言い切れないが、2000年代を前にした1980年代からの文科省の「理想主義的」な施策がある程度、評価されるべきであろう。
  それに気のつく業界と気がつかない業界がある。バレーがずっと良くなった。

  入退院と診察・検査。あまり親しくなかった総合病院と縁ある日々が続いている。盆明けには手術入院が待っている。夏から冬にかけてイベントなど企画したのだが、片手間のことしかできないだろう。腰痛もあって、必要なのは休養しかない、という気分だ。この分だと秋に腰の手術だろうか。
  70歳を期に新しい暮らしを、と思っていたが、実家の修理などもあり、修理後は長浜と加古川を行ったり来たりの生活になるのかもしれない。借りている店舗の古書の処分や好きで手に入れた品々にも時間を取られるのだろう。

「引きこもり」というわけではないが、他所様から「もっと活動的になるべきでは」といったお言葉をいただく程度には「静かな日々」と見えるらしい。まあ、程度の差こそあれ「静かな日々」ではある。
昨日は梅田芸術劇場にてミュージカル『ファントム』観劇。今日の午前は病院で「MR」。明日は午前中に市役所で映画会等の相談。明後日の木曜日はリフォーム中の加古川の実家で打ち合わせ。金曜日が病院で外科診断。土曜日の午後は旧長浜市内で今福龍太氏の連続講座の初回。日曜日から2泊3日で東京。初日が井上靖研究会。二日目の夜は落語会。さて3日目はどうするか。

2023年08月05日

「特集2 交錯する人権と外交」(「世界」2023年7月号)  残日録230716

「世界」7月号の「特集1」は「狂騒のChatGPT」であった。これは私の当面の関心事ではない。関心は「マイナカード」に少しあるが、それは下世話のレベルである。これで集積された情報は「簡単に」ハッキングされ、ハッキングされた情報が「ルフィ」を頭目とする集団によって握られ、「強盗」や「振り込め詐欺」や「偽・健康食品販売」やらの基礎データとして大いに活かされ、そこで「兵士シュベイク」が大活躍する未来を思い描いているのだが。タンス預金はお金を市中にまわさないが、犯罪で得られた「ブラックマネー」は「マネーロンダリング」を待つまでもなく市中にまわり消費税を納めてくれるのだから、財務省としても警察や司法の積極的な関与を望まないのである。なんといっても「ルフィ」集団は「旧統一教会」同様に「多数によって選ばれた」政治集団を下支えするのだから強靭である。こうした皮相な物語はお笑いの「コント」でしか成熟の機会がないのだろうか。「反語的精神」「哄笑文学」に我が煩悩は遠く至らないのであるが。

「特集2 交差する人権と外交」に注目した。
特集にあたっての前文、

あらゆる戦争は、人権を踏みにじる。外交はどうだろうか。
戦争の痕が今ものこる広島で開催されたG7で、岸田首相は「自由と民主主義」「法の支配」といった輝かしい理念を謳った。
しかし、それらの理念は文字通りに守られたはいない。イラクやアフガニスタンにおける人道的介入が何をもたらしたのか。徴用工問題という名の人権問題に日本政府はそう向き合っているのか。ウクライナ戦争以降に増幅する安全保障の論理と高まる人権意識は共存しうるものなのか。
外交の本質とは対話である。その可能性を信じるために――矛盾を見つめ、そのさきを思考する。

とある。

三牧聖子「ウクライナ戦争が突きつける問い――規範の二重基準を超えられるか」は「法の支配」の曖昧さを問う。

「ロシア侵略行為への対応をめぐっては、欧米や日本がロシアに制裁を加える一方で、グロ-バルサウスとよばれる主に南半球の新興国は、ロシアの侵攻を避難しつつも、ロシアに加わらない立場を貫いている。グローバルサウス諸国が「法の支配」にも平和にも関心がないということなのか。そうした見方は妥当ではないだろう。欧米によって恣意的に国境を決められ、その支配や介入に苦しめられてきた歴史を持つこれらの国々の態度は、「法の支配」の原則を繰り返す欧米に対して、では、自分たちはその原則を遵守してきたのか、厳しく問いかけている。」(p172)

アメリカ政府は今日まで、「テロとの戦い」で生み出されてきた膨大な犠牲に正面から向き合うことを回避し続けている。それどころか、二〇二一年八月末に米軍がアフガニスタンから完全撤退した後、バイデン政権はますます「テロとの戦い」でドローンを多用する方針を示している。「法の支配」が貫徹された世界においては、いかなる命も暴力手に奪われてはならないはずである。「法の支配」の回復に向けて、アメリカ、そして国際社会は、プーチンやロシア兵の戦争犯罪を厳しく追求していくとともに、同じ厳しい追求の目を、自分たちの過去、そして現在進行形の軍事行動にも向けていかねばならない。」(p195~7)

そうだった。日本国ではなく日本帝国だった大東亜戦争開戦時に、国際法を無視し、「宣戦の詔書」から「凡そ国際条規の範囲に於て、一切の手段を尽し、必ず遺算なからんことを期せよ」を省いた過去を思い出す。

古関彰一「緩み始めた日米同盟の絆――G7と人権・安保」では、欧米の人権基準に背反する「日本精神」が垣間見える日本国に疑念を持っている欧米の姿が紹介されていて面白い。前記の国際法軽視も大濱徹也氏のブログ「大濱先生の読み解く歴史の世界」によると、

対米英戦においては国際法への言及がありません。ここには大東亜戦争という戦争の特質が読み取れます。 明治維新にはじまる新生日本は、国際法の秩序に強く規定されていました。この国際法は、木戸孝允が「万国公法は弱国を奪う一道具」となし、陸羯南(くが かつなん)が「欧州諸国の家法」にすぎず、「世界の公法にあらず」と糾弾していますように、「キリスト教国」「白皙人種」「ヨーロッパ州」の「特権掌握国民」の法との認識を強く持っていました。しかし日本は、欧化-文明化による主権国家として独立富強をめざすべく、「文明国の標準」を受け入れることで国際社会に参入しようとします。そのためには、いかに「欧州諸国の家法」であろうとも、万国公法たる国際法を遵守し、文明国日本を認知してもらわなければならなかったのです。
 大東亜戦争は、第一次大戦の戦勝国とし、欧米列強と肩を並べた帝国日本がヨーロッパの説く文明の論理をアジア殖民地支配の道具とみなし、「文明国の標準」を万世一系の皇統につらなる天皇の国の論理で否定することをめざしたものです。そのため開戦宣言に「国際法」なる文言は無用とみなされました。

とある。LGBTQも靖国参拝批判も、「国是」としての「万世一系の皇統につらなる天皇の国の論理」とは相容れないのである。
横道にそれたが、それたついでに、故安倍晋太郎氏は「日本を取り戻す」と叫び、「敢えて言うなら、これは戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦いであります」と言ったが、中身が不鮮明なこの言葉は「時代の気分」として受け入れられた。
  1951年にサンフランシスコで調印された平和条約11条の日本語文について、「日本語で「裁判」と訳されている個所は、英語では「Judgment」です。いうまでもなく、これは「判決」であり、「裁判」ではありません。だが、どういうわけか、日本の官僚による訳文では「裁判」にすり替えられています」(前野徹)という説が偶に出てくるが、この条約の「日本文」は正文に準ずる扱いとなっているので、「誤訳」と言い募るのは論外なのだが、「戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す」というのは、サンフランシスコ平和条約を破棄するということを意味しているのだろうか、と心配になる。
  日本が占領下にあることを取り戻すのだろうか。「爺やや婆や、お手伝いさん、子守、書生、といった人々に囲まれた大家族の一員としての暮らしを取り戻す」? のだろうか。下僕要員として北朝鮮に侵攻して、拉致してくるのだろうか。故安倍氏の論は「万世一系の皇統につらなる天皇の国の論理」を取り戻すことにあって、その信念から上皇夫妻を小馬鹿にするなど朝飯前なのであろう。
  またまたそれるが、ポツダム宣言の「正文」はなく「外務省訳」である。どう訳してもいいわけではなかろうに。

  在日米軍の諸条件を決めた一九五二年の日米地位協定から現在の地位協定まで、すでに七〇年を超えているが、この屈辱を批判するだけでなく、その本質を原点に立ち返って再考するときに来ているのではないのか。現行の日米地位協定は、安保条約の中核をなす協定で、一九六〇年に安保条約が現行の安保条約に改正された際に協定も改定している。しかし条文の内容はほとんど変わっていない。
  その日米地位協定は、今日まで文字通り「協定」と思われてきたが、米国政府の公文書によると、事実上の「米国大統領命令」であったことが、はっきりしてきた。当時日米安保条約・行政協定の交渉にあたった大統領特使のJ・F・ダレス(のちに国務長官)によると、行政協定は日本にExecutive Agreement(行政執行協定)という制度がないので、日本刻印に受け入れられやすいAdministrative Agreement(行政協定)にしたということだ。
  Executive Agreementとは、田中英夫編の『英米法辞典』(東京大学出版会、一九九一年)を見ると、米国大統領が外交・軍事上に有する権限で、議会の同意を必要としない、とある。であるから、この行政協定を制定する際に、国務・国防両長官は、本来は行政執行協定であることを大統領に進言し、議会にかけないことの承認を得て発出している(FRUS,1952-1954.Vol.XIV、Pr.2)。つまり、米国政府から見ると、行政協定は事実上「米国大統領命令」だと解されていたことになる。
  日本側も、行政協定を当時の『六法全書』(例えば有斐閣の昭和二九年版)に入れているが、驚くべきことに法令番号がない。もちろん国会にも上程されていない。ということは行政協定とはいえ、「行政文書」(「文書」に強調の「`」―明定)にすぎなかったのだ。それを日本では協定として扱ってきた。
  たしかに一九六〇年に定められた現行の地位協定は、行政協定とは異なり、国会に上程されている。しかし、条約の内容(条文)は、ほぼ行政協定のままである。つまり」現行の地位協定は、内容的には事実上、米国大統領命令がそのまま変わることなく七〇年間使われていることになる。
  これでは、在日米軍が堂々と基地の「自由な使用」を続け、日本政府は「おずおずと」遠慮して、ろくに主張もできず、「法の支配」を続けている。これでは被害住民が「米国の植民地だ」というはずである。(p183~4)

  論旨は「日本人の人権意識の低さは、基地の「自由な使用」を可能にしている」(p185)と続く。
そしてそういう現状を肯定する世情の一方で、「日米一体化」が進められていて、「国家安全保障戦略」によって「日・米軍同盟」(「米軍」に強調の「`」―明定)が進められていることを指摘し、「日米同盟の矛盾を深めて「歴史的変動期」に入った(p188)としている。
 欧米の「人権カテゴリー」に「NO」と日本が言うときには、「万世一系の皇統につらなる天皇の国の論理」を否定し、地球規模の「人権」を創出する立ち位置を切り開くことになるのだろう。

阿部浩己「徴用工問題と国際法――時を超える正義の視座」は「脱植民地主義の理路」として未来志向の論理展開を解説している。

日韓請求権協定を含む国際法の主要な担い手とオーディエンスは、長く、強国(欧米)の健常な男性・支配エリートでああ。彼らの間にあって、国際法は植民地支配を正当化するために公然と動員されて疑われることがなかった。だが、前世紀後半から今世紀にかけて、国際法過程に非欧米、市民/民衆、被抑圧者の声が反響し、人間(被害者)中心のものの見方が急速に受容されるようになっている。
これにより従来の国際法のあり方を批判的に問い直す潮流が勢いを増し、この法の基層を成してきた植民地主義・人種主義の根源的な見直しを求められるに及んでいる。現在進行形の人種主義を克服するため過去の植民地支配に向き合うよう求める言説、あるいは、時の壁を超え出るトランス・エンポラルな正義を追求する動勢の深まりと言ってもよい。
植民地支配責任を前景化させる大法院判決は、実のところ、グローバルな次元で生起するこうした動勢と連なりあるものと捉えられる。日韓の力関係の変化、市民/民衆の因を拝啓に、請求権協定をめぐる規範状況はかつてのそれと同じではなくなっている。「国際法違反」と講義の弁を重ね、その是正を言い募るだけでなく、二一世紀世界に広がる新たな環境の中で、日韓請求権の解釈がどうあるべきかに思惟を巡らす好個の契機として大法廷判決を位置付けてしかるべきではないかと考える所以である。(p192)

  なるほど、徴用工問題はこういった文脈で受け止められ、今日の問題として遡上にあげられることになるのだ。門外漢は気付かされた。どこでも門前の小僧でしかないのだが。

  自らが引き起こした過去の重大な不正義を直視し、その是正を図ることは、現代ビジネスに欠かせぬグローバル・スタンダードというべきものに違いない。その理をいっそう深く自覚してしかるべきである。(p198)
  そういう時代である。

五十嵐元道「アメリカが語る正義を冷めた目で見る」は、表題の通りである。
  ウクライナへのロシアの侵攻は、その時点までの外交の場において長々とどういうやり取りが重ねられてきたのかを再考する間もなく、泥沼に突入したという印象であった。どうだい? と来客に問われて、一番特をするのはアメリカの軍事産業だろうから、そういう戦争でもあるのだよ、と返事しておいたのは随分前のことである。米兵が一人も死なない戦争を作り出したのはアメリカにとって素晴らしい発明であった。
  「アメリカが語る正義」など時代遅れなのだが、「正義」すら感じさせない中国は何を持って「理」とするのだろう。

  「世界」のこの特集は読み応えがあった。

  6月の歌舞伎座夜の部の「いがみの権太」を、7月松竹座夜の部「俊寛」を仁左衛門で観た。8月は近鉄アート館「あべのかぶき晴(あお)の会公演 肥後駒下駄」、南座の玉三郎+愛之助「怪談 牡丹燈籠」を見る予定。他に7月の梅田芸術劇場「ミュージカル ファントム」。
  先日、弟と会ったら好む現代劇が被っている。こちらは歌舞伎で、弟は文楽と伝統演劇は棲み分けたかたちだが。彼は東大阪在住・在勤だから、ライブハウスにも行っている。
  過日の大腸ポリプの内視鏡での摘出では収まらなくて、手術入院で盆明けから3週間ほど身動きができない。映画「私のはなし 部落のはなし」長浜市連続上映会実行委員会を立ち上げることになっているのだが、活動は入院前と退院後にということになる。
  盆明けぐらいに実家の水回りのリホームが終わる。
  昨夏からの腰痛をずるずる引きずっているのだろうと思っていたが、先日の検査で4月に滑って倒れたときに腰を骨折していたことが判明。痛いはずである。

2023年07月16日

「発達障害」はどこからきたのか――「発達障害」という見方にひそむ落とし穴――」浜田寿美男――残日録230703

 「そだちの科学」No.32(2019.4 日本評論社)の特集は「発達障害の30年」である。
そこに収録されている浜田論文からの引用と書き足し。

 振り返ってみれば、私が子供だった一九五〇年~六〇年には、子どもの「そだち」から個体としての能力部分を取り出してその「発達」を語ったり、そこでのつまずきを「発達の障害」として意識するようなことは、一部の研究者をのぞけば、まずなかった。もちろん当時の子どもも、個体の能力を伸ばしておとなになっていったことにかわりはないが、そこで意識されていたのは、子どもたちがそのときそのときの力を使って、それぞれ小さな集落に暮らしながら、異年齢の子どもどうしで関係の世界をつくり、あるいは家のなかではおとなたちとともに共同生活の一翼を担いながら生きていく、その姿だったように思う。個体としての「子どものそだち」より、群れとしての「子どもたちのそだち」が全面に出得ていたと言ってよい。そのうえ第一次産業が就業人口のほぼ四割を占めていた状況のなか、田舎では子どもも働き手の一人として野良に出ていたし、街でもいまのように家庭に電化製品のない状況で、家事の幾分かを子どもの仕事として任せられていた。そうしてそだつにつれて、おとなたちから「助かるようになった」と言われ、そのことが子どもなりの自信にもつながっていた。私自身がこうした生活状況のなかでそだってきたこともあって、私のなかで「こどもたちのそだち」として思い浮かぶのは、おおよそそうしたイメージである。(p3)

 と書いている。「発達論」における「子どもたちのそだち」から「こどものそだち」への移行を時代の変容と受け止めつつも、

 じっさい、人間は多様なもの。その多様な人間が生身で出会い、そこに相互のかかわりの世界が多様に展開する。しかし、「障害」というラベルはその多様性のなかに一つの仕切り線を持ち込んで、共同性の質を変えてしまう。「発達障害」という新しいラベルの登場によって、実はそこにもう一つの仕切り線が引かれてしまった。その意味を考えないわけにはいかない。(p5)

と提起している。これは精神医学の領域からの一つの意見。
 この号には滝川一廣「最終講義――精神発達について考えてきたこと」も収録されている。
これ以上書き写す体力がないので、もとの論考並びに他の特集もおすすめしておくにとどめる。杉山登志郎「平成を送る」村上伸治「発達障害と精神療法」が素人には読みやすい。

 浜田の指摘は、滝川一廣「逆境がもたらすもの」(「そだちの科学」No.39 2022.10)につながるのだろうか。 

 やがて愛着への研究的・臨床的な関心が再び高まり、この子どもたちの相互関係の困難やつまずきを「愛着」の障がいと捉えて、そのケアを重視する動きが生まれた。愛着の絆をあらためて育んで、安心感や信頼感の土台を再建しようというものである。(p8)

 障害児教育については、田中昌人(「発達保障論」+「養護学校義務性完全実施派」)VS「養護学校義務性絶対阻止派」という教育心理学の忘れ去られた?領域も近い昔にあって、これだけででもリベラル社民と日本共産党とは相容れない、という政治的立場があっていい。養護学校に異議あり、養護学校=津久井やまゆり園化という声もあっていいだろうに、と思う。
まあそれは教育学・教育心理学の話で、精神医学の領域とはいろんな側面において遠いのかもしれない。とはいえ、スクールカウンセラーである臨床心理士はその狭間にあって、何をして、何にぶつかり、何を考えているのだろう。

疲れているといいつつ蛇足がついた。

2023年07月04日

草稿 元図書館員が仮説実験研究会の一会員を継続すること――振り返って考える  残日録230606

図書館員⇒大学教員として関わってきた図書館関係の研究団体から、齢70歳にして、全て退会した。小さな業界内の表立たないいわゆる「裏話」を少しは知っていたり、なかには私自身が「裏話」に関係していたりすることもある。そういう話でもって「晩節を汚す」御仁もいるので、そうはならないように図書館業界から退出した。
4月になれば毎年、仮説実験研究会の会員を継続するかどうかをはがきによって問われる。問われることにより自問する機会が生まれる。継続することにためらいはなかったが、今年は少し様子が違っていた。図書館から去るのに、「仮説」はなぜ継続するのか、と問われることはないだろうが、自分にとっての節目のようだから、書いておくことにした。
「仮説実験」「板倉聖宣の考え方」は私の生き方に大きな影響を与えた。図書館という現場はそれを応用する場だった。自分で納得できる成果を得た応用の場だから図書館を退出することができた。
「仮説実験授業研究会」の会員でなくともよい、という立場もあるだろうが、研究会という場にあるからこそ、刺激になること、考える機会を得ることができる。「仮説実験授業研究会」の会員を継続するのは、この会や「仮説」(この場合は後述する「学派」の意)の未来がどのようになるのか、につきあっていきたい、というところにある。今の研究会にはいろんな活動がある。会がどういう流れになるのか、未来に大いに関心がある。
こう書くと傍観者のようだが、そのなかには当事者として、そう活躍はしないだろうが、私もいることは確かなのだ。
三浦つとむ、武谷三男、板倉聖宣を知ったのは、大学に入学したての18歳の頃だった。実際に研究会と出会うのは21歳で、夏に小樽であった大会に参加した時だ。仮説の会員になったのは、その数年後のことだ。
学生時代は月2回の四條畷のサークルに参加していた。サークル名は「関西仮説実験研究会」であったが、後に「ゲジゲジサークル」と改称した。図書館に就職したあとも、20歳代は大会に参加していたように思う。20歳代半ば頃、ガリ本(ガリ版刷りの手製本を研究会ではこう言っていた。今はワードなどで作成)の授業記録を読んで、授業を楽しく追体験できるようになり、ようやく「仮説実験授業」を身近に感じることができた。
「ゲジゲジサークル」ではいろんなことが話されていて、聞いていて学ぶことが多々あった。繰り返されたのは「板倉先生が亡くなられたら」「授業」や「研究会」はどうなるのだろうか、だった。展望は見えていないのだが、つぶやきのごとくよく出された。
その頃の広島での大会への感想で、ある会員の講演について「仮説を神棚に祭り上げて拝む」ごとき話はとんでもない、と言った意味のことを書いたことがある。広島のサークルで話題になっていたようだった。「そういうことを言ったのではない」というのだ。
私としては「仮説実験授業」を受けることで、受けた人の「生き方・考え方」がどう変わるのか、変わることで何が生まれるのか、変わるためには何が課題なのか、といったことに関心があったので、「仮説の素晴らしさ」に終始する話は「神棚に上げる」話でしかなかった。
当時、学生気分の抜けなかった私は、廣松渉の「間主観性」「相互主観性」「共同主観性」という立ち位置で仮説実験授業を評価しようとしていたが、大きな空振りではあった。世の中の変革は、現状の「共同主観性」とは異次元の、また異なった位相の生成によるものであって、現状に対抗する「変革」は同じ土俵(「相互主観性」)に立たなければならないので「変革」にはたどり着けない。といったところから見ていたのだった。
「仮説授業は素晴らしい」という話に異論はない。それが「『仮説』をやっていればいいのだ」となるとやっていない私は少し反論をしたくなる。「仮説」をやっていない私は、会員の資格に欠けると言われているみたいになる。まあ、それはその人の考え(仮説)だからそれはそれで良しとしよう。
教師として「仮説」を知り、実践することによって、「教室」の中だけでなく、その人の日常生活に変化をもたらすだろう。また、ものの考え方にも変化をもたらすだろう。もちろん「『仮説実験授業』をやっていればいいのだ」というよころから、生活や考え方に変化が生まれることもあるだろうし、変化が生まれないこともあるだろう。
では「仮説」を受けた生徒たちの方はどうなっているのだろう。教え子たちの同窓会によばれたら、「先生の「プリント授業(仮説の授業書)」が楽しくて、今でも持っています」というような話が出たりするそうだ。
仮説の授業を受けて教師なった例はある。しかし、教師にならなかった自分自身の生き方、考え方に「仮説」体験が影響を与えた、という人は、どれくらいいるのだろう。自覚・無自覚の両方があるだろうけれど、「仮説」を体験した人の未来が気になることがある。楽しい授業の記憶にとどまらない人はどれくらいいるのだろう。
「主体的な人間」つまり「自分の頭で考えられる人間」を「仮説」はどれだけ育てたのだろう。そういう人たちは「仮説実験授業学派」ではないのだろうか。いや、当然「学派」の一人だろう、と思う。そういう人も含めた「学派」でありたいと思う。それは「板倉聖宣学派」と言ったほうが良いのかもしれない。
その一人でありたい私は、日常の仕事の中や図書館の研究会集会の運営、数年前の井上靖『星と祭』復刊プロジジェクト実行委員会の取り組みなどで、「学派」の「知恵」を活かしてきたと思っている。
私は20歳代のころ、図書館の関係者から「何を言ってるのかわからない」と言われたりしていた。私にも「言葉が通じない」という感覚があって、数少ない理解者に支えられての20歳代+αは、孤独な図書館人生活であった。後年、私の講演のあとで研修の担当者に少し年上の業界人が「明定くんは若い頃から言うことが変わらへんのやで」と言ってくださった。その人も図書館人として孤独なところをもつ人で、お互いの理解者だった。
そうした時間を乗り越えられたあれこれの中に、板倉さんの「『百人の中に一人いれば』『千人の中に一人いれば』その場所を変革できる」という言葉があった。板倉さんの口癖とまでは言わないが、何度か聞いた言葉である。私は研究会のいろんな会にほとんど参加できなかったが、仮説社には時々行った。板倉さんと話す、というか、板倉さんが私に話してくださるなかにその言葉があり、私は励まされた。
現状の研究会に私のような者の居場所があるのか、を問うことは私にとって愚問である。いてもいい、ではなくて、いた方がいい、のだと思っている。
今の研究会にはいろんな活動がある、と先に書いた。それぞれが「仮説実験授業」をより豊かなものにしたいという思いから、それぞれができることに取り組んでいるのだろうと受け止めている。
「『仮説実験授業』をやっていればいいのだ」、「たのしければいいのだ」という立ち位置もあるだろう。「板倉認識論や板倉科学史から学び継承する」ことによって、「英訳を期に世界に発信」ということによって、「仮説実験授業」をより豊かなものにしたい、といった人もいるだろう。どれがいい、ということにはならない。それぞれの場で活躍できればいいことだ。そういう多彩な動きが仮説実験授業や「板倉学派」の未来を作っていくことになるのだろう。
そこには失敗も生まれることだろう。「小さな失敗」を重ねることで「大きな失敗」を回避する(板倉)という選択を取ることになるだろう。
これまでの研究会では「小さな失敗」は他人から支持されないので、研究会の舞台から去っていくように私は見ている。その「失敗」が研究会の財産になっているほど意識的に受け止められているようには思えない。課題の一つだろう。
「授業書」と認められたなかに、私としては「授業書」? というものがあったが、それを支持する会員もいた。批判はなかったけれど、支持されない授業書で、廃れてしまった。それを支持した会員は、その失敗から学んだろうか。
「授業書(案)」は子どもたちの「常識」と対決する(を覆す)問題を用意できているのか。構成が好奇心を生み出す仕組みになっているか。
「読み物」は「説明文」でなく「科学読み物」になっているのか。「党派を超えて認めざるを得ない事実」に基づいているのか。
 そういったことが気になる。

 この一文は、仮説実験研究会の「会員ニュース」に投稿しようと思って書いたが、

率直に言って、明定さんならもっと鋭く、もっとわかりやすく、もっと色気を匂わせる文章をつくれるはず、と歯がゆい思いでいっぱいです。現役の教師や退役教員や痴呆老人が読んだら、明定さんが仮説実験授業と板倉思想を「応用して」図書館業界の何に挑み、どんな変革を実現したか、できずに課題が残ったか、具体的に語られていないので、明定さんが『トリゴラス』のセリフのように「よっしゃ、これでええねん」と退出したといっても、共感も反論も質問も入り込めないと思うんですが。僕自身にしても、図書館の仕事に直接の応用と、板倉思想から学んだことの結果として生まれた言動など、うまくイメージできていません。

という友人からの評価を得て、ボツにしました。そんなこと書くと長くなるではないか、とも思いましたが、ボツ、ではあるが、つぶやき程度の記録にしておきたい。

2023年06月06日

PR誌、読む力の衰えのことなど  残日録230605

入院したり通院したり、腰痛で歩行困難になったりしている。雑事に時間を取られる。そう珍しくはない老いの日常なのだろうと思うのだが、活字の世界から少し距離のある日々というのは初めてのような気がする。仕事で忙しくとも、読む時間はあり、読むことに集中する力が漲っていた時間があった。それはつい先日のことである。先日といっても1年余の母が入院する前のような気がしている。
読む気力が衰えた。このことに気づいたのは出版社のPR誌を読む集中力が衰えていることからであった。4誌を取り上げる。

新潮社の「波」6月号;筒井康隆の巻頭特別エッセイと阿川佐和子「やっぱり残るは食欲」をまず読む。連載では銀しゃり・橋本直「細かいところが気になりすぎて」、川本三郎「荷風の昭和」は読むが、梨木香歩、近藤ようこなどの連載は読まないことが多い。対談は若い頃から欠かさず読んでいる。これは知らない小説家を知るのに便利だ。6月号は「伝・永井荷風/四畳半襖の下張」がルビつき新字新仮名で掲載されている。
銀シャリ・橋本のエッセイはまだ発達途上で、それを楽しみにしている。毎月の連載はきついだろうが、拝啓編集者様、どうぞ大器に成長させて頂ますようお願い致します、だ。
私は「食」のエッセイが好きなので、阿川佐和子は愛読だ。父の阿川弘之『食味風々録』もよかった。

岩波書店の「図書」6月号;佐々木孝浩「日本書物史ノート」が6月号で12回の連載を終えた。これを読まなかった。というか、読めなかった。衰えを感じる。
池田嘉郎「破局的表現考——歴史学と映画、それに山際永三」がよかった。

 山際の作品はどれも、破局的状況と絡み合う主体の軌跡に光を当てる。この軌跡は、予算をはじめ制約の多い制作現場における、あるいはまた映画運動の高揚と衰退における、山際自身の経験とも重なった。このことは、過去を研究対象とする歴史学でも、歴史家自身の現在との関わりが、すでに叙述を成り立たせる要素の一部であるという事実に、私の目をあらためて向かわせる。自身が現実に存在する破局的状況の一部なのかもしれないと自覚するとき、歴史家は過去の破局といかに向き合うことになるのか。合わせ鏡のようなこの問が、山際の仕事の中から私の前に立ち上がってくるのである。(p13)

歴史家も、現代社会の一員としての「心性」から免れることはないという、当たり前のことのようで当たり前でないところに視点をおいている。
三宝政美「魯迅の『困惑』——直訳と意訳」もおもしろかった。魯迅自筆の手紙が七三年ぶりに発見されたことによって、増田渉以来の直訳「不安」が竹内好意訳「困惑」に変わり、最新の立間祥介意訳では「心苦しさ」となっているそうだ。

「不安」にも「困惑」にもなかった「申し訳ない」に近い自責の念が新たに投入されたことに注目したい。この視点は作品「藤野先生」解釈に新しい角度を与えるやに思える。(p33)

 国語の読解にも影響を与えるだろう。『超入門!現代文学理論講座』(蓼沼正美著、亀井秀雄監修)を思い出した。
別の号であるが、「鬼滅の刃」と柳田民俗学を論じた論考も興味深かった。松居竜五 『鬼滅の刃』と柳田国男[『図書』2023年4月号]

筑摩書房「ちくま」6月号;連載では、金井美恵子「重箱のすみから」、斎藤美奈子「世の中ラボ」、刈谷剛彦「思考の習性——ニッポンの大学教育を読みとく」を読む。鹿島茂「吉本隆明2019」は本になったら読もうと思っていたが、あまり熱心な吉本読者と言えない私には縁のない本になりそうだ。
「世の中ラボ」は「『ジャニーズ問題』が暴き出したもの」である。毎回、3冊の本を紹介しながら一つのテーマを論じている。3冊を選ぶのが、斎藤の腕の見せどころであり、それらをどう料理するのかも見どころである。今回は少年愛をテーマに、稲垣足穂『少年愛の美学——A感覚とV感覚』、丹尾安典『男色の景色』、高原英理編『少年愛文学選』が取り上げられている。
久世番子『少年愛の世界』という「愛」という少年が主人公の物語を思い出した。ちょっと脱線。
斎藤はジャニー喜多川の「セクハラ」をとば口に「少年愛」を取り上げた。

未成年の少年に対する性的行為は古代から「少年愛」などの名目で容認され、美化されてきたのでなかったか、とふと思い出したのだ。
少年への性的虐待は、男性しかいない空間で起きやすい。中世近世の武家社会、伝統宗教、そして近代の軍隊、男子校の寄宿舎、スポーツチーム……。そういうことは漠然と察知していたものの、そこに犯罪性が入り込む余地があること、少女だけでなく少年も被害者になり得ることを、私たちはきちんと認識してこなかったのではあるまいか。はたしてそこに「闇」はなかったのだろうか。(p16)

と指摘している。
高原の『少年愛文学選』の編者解説の引用も興味深い。丹尾『男色の景色』は、昔日、三月書房で買い求めたが、読んだ記憶はない。手に取ってみると、本も開いてもいただいておりません、といっている。

 朝日新聞社「1冊の本」3月号;連載は、佐藤優「混沌とした時代のはじまり」を読んでいる。この号からの連載、武田砂鉄「『いきり』の構造」は読み続けるだろうか。連載は他に、鴻上尚史「鴻上尚史のほがらか人生相談」、李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」、山本淳子「道長ものがたり」、永田和宏「人生後半に読みたい秀歌」、太田光「芸人人語」がある。どれも、読まなかったり、読まなかったり、たまに読んだり、である。
「道長ものがたり」は「第九回 藤原道長と紫式部」である。これは読んだ。毎回、読んでいるわけではないが、気になる連載である。「読む集中力が衰えている」とはじめに書いたが、雑事に気を取られていると「集中」できない連載の一つである。
鴻上、太田の両氏のは、テーマによって読むことが多い。
連載を読むに向いているものと、連載をまとめた本を読むのに向いているものとが私にはあるようだ。
巻頭随筆は、郷原信郎「日本社会の本当の危機とは」である。「法令遵守と多数決による単純化」による日本の危機を警鐘している自書の紹介文でもある。久々に郷原氏のHPを見ると、ほとんど同じ文面が掲載されている。こちらのほうが字数の関係だろう、HPの方が少しわかりやすくなっている。社会的な事件について郷原氏ならどう考えているだろう、とHPを覗くことがある。「“日露戦争由来「必勝しゃもじ」ウクライナ持参”に見る岸田首相の戦争への「無神経」」を推しておく。

2023年06月05日

渡辺保『続々・歌舞伎日録 2018年から2021年まで』  残日録230511

『歌舞伎日録2009年~2013』『続・歌舞伎日録2013年7月~2017年12月』は個人出版となっていて、都心から遠方のものには入手困難だし、部数もそう多くはなかったようである。『続々』がアマゾンで取り扱われているので、『正』『続』のほうもそうなってほしい。昭和27年からの「観劇ノート集成」がオンデマンドでアマゾンから現在7巻まで出ているので、早晩、出版されるに違いない、と思う。
2005年『批評という鏡』(マガジンハウス)のあとがきに、

 インターネットで劇評を書くようになって、私はそれまでとは違う自立の感覚を持った。そのいきさつは以下の通り。
 朝日新聞、「ちくま」、「中央公論」とおよそ十余年、歌舞伎の劇評を毎月書きついで来た一九九九年、中央公論が読売新聞社に吸収合併されるに及んで、私医は劇評の発表の場を失った。どこか探せばないこともなかっただろうが、この際、私は新しい方法に挑戦したいと思った。
 私がそう思った理由は、それまで私自身が巨大なメディアの庇護のもとで劇評を書いていたことを自覚したからである。私は自分の感じたことをできるだけ正確に書こうとしてきたから、当然私の意見に反対の人も出る。ことに批判された役者の反撥は大きかった。私の知っている限りでも、波状的に、執拗に、私の排斥をメディアに訴えつづけた人もいる。そういう時、当然のことながらメディア―――なかでも担当編集者は私を守ってくれる。おそらく私自身が知っている事実は、担当者の防いでくれた事実の何十分の一にすぎないだろう。そのことに甘えてきた。批評を書く人間には許されぬ甘えである。自分一人で全責任を負って、書き続けることは出来ないだろうか。
 そこでインターネットのホームページに書くことを思い立ったのである。さいわい大学の教え子の一人がホームページをつくってくれて、二〇〇〇年正月からインターネットで劇評を毎月書くことになった。
(略)
 錯綜する苦悩のなかで、結局無料にしてはじめたインターネットは、まもなく月平均七千五百回のクリック数に達した。五年間でおよそ四十五万回。むろん一日何万のクリックされている人気作家やタレントのそれには遠く及ばないが、それでも歌舞伎の劇評にこれだけの人がクリックしてくれることに、私は強い喜びを感じた。(P457~8)

 とある。
 渡辺保氏の劇評は毎月読んでいる。他の専門家の劇評も読み、歌舞伎好きのブログの劇評も読む。
 30歳代の千葉にいた頃は歌舞伎座によく通ったが、座組(ここでは出演者や演目の構成)が不満だったりしたらパスすることもあった。40~50歳代は仕事に追われ、正月の松竹座の歌舞伎は欠かさず観ていたときもあったが、だんだん縁遠くなった。
 20歳代までは加古川にいたので歌舞伎はもっぱらTV中継だった。
 1983年の夏、成田市役所の就職試験か面接で東京による機会があり、南博氏の主催していた伝統芸術の会を覗いてみた。一三代目仁左衛門がゲストだった。芸談に堪能した。一世一代の「廓文章」(吉田屋)をNHK古典芸能鑑賞会で演じるということをそこで聞き、84年の2月に見た。
 それが実際に初めて見た歌舞伎だった。
 その頃の仁左衛門についての劇評は『観劇ノート集成 第八巻』出版を待つことになるのだろう。
 その後は藤十郎の「近松座」を観たり、歌舞伎座に通ったりした。
 渡辺保氏は「二代目吉右衛門」が贔屓であった。読売新聞に追悼文を買いている。
 「二代目中村吉右衛門は、歌舞伎の長い歴史のなかでも、近代から現代への時代の変わり目で、かけがえのない役割を果たした俳優であった。というのは、彼はそれまでの享楽的、趣味的な歌舞伎を、真の現代の古典劇として我々の財産にしたからである。」とあり、「一条大蔵卿」「熊谷陣屋」「新薄雪物語」を挙げている。
「むろん吉右衛門にはこのほかにも多くの当たり芸あった。しかしそのいずれにおいても私たちは、古典的な芸の輪郭と同時に現代的な人間の感動を見た。もしこの人がいなければ歌舞伎はこういう人間的なドラマにはならなかっただろう。そのことを思えば、今この人を送るのは、掌中の玉を失う如く、悲しみにたえない。」
渡辺保氏に個人的な好みはあったかもしれないが、氏の劇評はそれに左右されるものではない、と読むものとして思う。吉右衛門の悪い時には指摘している。
私は、吉右衛門の「河内山」での上州屋の場での「出」が鼻についたことがあった。
「当然私の意見に反対の人も出る。ことに批判された役者の反撥は大きかった。私の知っている限りでも、波状的に、執拗に、私の排斥をメディアに訴えつづけた人もいる。」というところが面白い。いったい誰であったのか。
劇評の読者としての私は、好きな役者が高く評価されると、すこぶる嬉しい。その月は何度もクリックをする。しばらくすると、バックナンバーは消えてしまい、寂しい気がする。
こうして一冊にまとめられると、そこのところを繰り返し読めることになるのだが、手にしてしまうとそういうことは少ない。
2018年2月歌舞伎座「高麗屋襲名二ヶ月目」昼の部「大蔵卿」。

この一幕の傑作は、秀太郎初の鳴瀬である。桧垣でのこの人の行き届いた芝居には終始感心した。いかにも知恵の足りない主人を持った女そのもの。知恵が足りないことを十分承知して、しかも主人として敬愛しながら、周囲に気を使って庇っているよさ。それでいて大事なところはキッチリ取り仕切る賢さ。私は今までも聞いていたせりふながら、今度はじめてなぜお京を召し抱えるのが道端でならなければならないのかを知った。むろん大蔵卿は一条家の当主、女狂言師の一人や二人召し抱えられないことはない。しかしそれには宮廷への届けがいる。正式にするとそこがうるさい。痛くない腹を探られる。そこで往還でつい拾ったということにするのが彼女の知恵なのである。
奥殿で落ち入るところもおどろいた。手負いの勘解由の背中に手を掛けて死ぬのである。その左手の手先に悪人ながらも夫を愛している女の哀れさが出ている。(『続々』P24)

2023年05月11日

近況雑事雑感 残日録230506

4月から土・日・月の営業に変更したのだが、それ以外の日も用がないときは、午後店にいて、書斎もどきの古書店である。
体調は回復基調にあり、週に数回、整形外科で電気治療と点滴をしていただいている。元気になれば、「日本の古本屋」に参加したく思っている。
4月はミュージカル「太平洋序曲」を観劇したが、まとめ方が尻切れトンボの印象。幕間なしの105分は、2月に観た「歌うシャイロック」の90(幕間25)+110分の長丁場と違いあっという間に終わった感じ。6月に舞台「セトツウミ」、7月にミュージカル「ファントム」のチケット確保。明日から一般発売の「パラサイト」は確保できるか。このところ久しぶりの劇場通いが続く。


連休3~5日は加古川の実家ですごす。3日は小一時間ではあるが、家の前の元は畑だったところの雑草をトラ刈がりする。地面にへばりついたようなマメ科の草は、小さな花を咲かせるのでそのままにしている。草刈り機の操作が下手だからでもある。


子どものころは、部屋の南側に朝顔の棚をつくっていたことを思い出して、枯れ草の間に朝顔の種をまく。どう育つのだろう。


空き地の周りはいろんな花が咲いていて、もう少し手入れをすればいいのだろうが、ゆくゆくは、クルマ2台と物置との倉庫になるので、雑草茫々の空き地までならないように、という具合だ。雑草引きをシルバー人材センターに依頼している。


弟と亡き母名義の預金の名義変更の手続き、実家の登記の変更(私の名義になる)や、台所と風呂場の修繕などについて話す。68歳の弟は会社務めの現役で、なかなか辞めそうに見えないので、修繕については私が大工さんに相談して進めていく事になった。とはいっても、概ねは弟の了解を得てのことになる。弟の方が詳しいのだ。


弟は、会社を辞めそうにないのか、辞められないのか。居座っているようには見えないが、納得の行くうまい引き継ぎをしたいのだろう。そんなこと、辞めてしまえばあとは何とかなるものだろうに、と言うわけにもいかない。


私の30歳代は父との関係で実家に近寄らなかったし、40歳代以降は、正月ぐらいは帰るだけ、という日々だったので、親戚とのやり取りをほとんど知らない。そんな私が母方のいとこたち(父方は死んでいない)の一番年上なのだが、なんとも頼りないことである。


過日、屋根のずってきている瓦と、樋のやりかえ等を修繕してもらった。140万余円かかった。水回りの修繕に始まって、車庫兼物置、外壁の焼板へのやり直し等、金のかかることが続く。なにせ築後56年だから。

どのように住んでいくのか、が見えない。長浜と加古川を行き来する日々となるのだろうか(これが都合良いのだが)。長浜の暮らしから撤退することになるのだろうか。実家に振り回される後期高齢者となるように思う。
弟は大阪市内に住んで、実家をセカンドハウスにするみたいな話をする。(私は管理人?)

2023年05月06日

元図書館員が仮説実験研究会の一会員を継続すること 残日録230416 

図書館員⇒大学教員として関わってきた図書館関係の研究団体から、齢70歳にして、全て退会した。小さな業界内の表立たないいわゆる「裏話」を少しは知っていたり、なかには私自身が「裏話」に関係していたりすることもある。そういう話でもって「晩節を汚す」御仁もいるので、そうはならないように図書館業界から退出した。
4月になれば毎年、仮説実験研究会の会員を継続するかどうかをはがきによって問われる。問われることにより自問する機会が生まれる。継続することにためらいはなかったが、今年は少し様子が違っていた。図書館から去るのに、なぜ継続するのか、と問われることはないだろうが、自分にとっての節目のようだから、書いておくことにした。
三浦つとむ、武谷三男、板倉聖宣を知ったのは、大学に入学したての18歳の頃だった。実際に研究会と出会うのは20歳で、夏に小樽であった大会に参加した時だ。仮説の会員になったのは、その数年後のことだ。
学生時代は月2回の四條畷のサークルに参加していた。サークル名は「関西仮説実験研究会」であったが、後に「ゲジゲジサークル」と改称した。図書館に就職したあとも、20歳代は大会に参加していたように思う。20歳代半ば頃、ガリ本(ガリ版刷りの手製本を研究会ではこう言っていた。今はワードなどで作成)授業記録を読んで、授業を楽しく追体験できるようになり、ようやく「仮説」を身近に感じることができた。
「ゲジゲジサークル」ではいろんなことが話されていて、聞いていて学ぶことが多々あった。繰り返されたのは「板倉先生が亡くなられたら」「授業」や「研究会」はどうなるのだろうか、だった。展望は見えてこないのだが、つぶやきのごとくよく出された。
広島での大会への感想で、ある会員の講演について「仮説を神棚に祭り上げて拝む」ごとき話はとんでもない、と言った意味のことを書いたことがある。広島のサークルで話題になっていたようだった。「そういうことを言ったのではない」というのだ。私としては「仮説実験授業」を受けることで、受けた人の「生き方・考え方」がどう変わるのか、変わることで何が生まれるのか、変わるためには何が課題なのか、といったことに関心があったので、「仮説の素晴らしさ」に終始する話は「神棚に上げる」話でしかなかった。

岩瀬直樹氏のブログ(2023.1.6)から「仮説実験授業から学んだこと」(抜粋)で、岩瀬氏は仮説実験授業から学んだことを具体的に6つあげている。①~⑤略。

⑥楽しければ人は学ぶ。
ここで言う楽しいは「おもしろおかしい」ではない。板倉は「たのしさそのものが目的」と『科学と教育のために』の中で喝破し、当時は「楽しいだけでいいのか!」と批判もされてきたが、板倉の言う楽しさは、“科学者とは利己的でなく「自分の働きで他人をたのしくさせたい」という社会的な動機付けに促されながら「問題―予想―討論―実験」という「楽しい科学の仕方」を駆使する存在であり、科学者が研究しているように教えればたのしくなるはずであり「楽しくならなきゃ科学に対して罰当たり」。
つまり「たのしさ」とは科学的概念や法則に裏打ちされた「知的関心」のことで、そのたのしさには知的緊張も努力も当然伴う。このことの価値は離れてずいぶん経って(わりと最近)、ようやく実感できた。

⑦・・・・
とまあ、あげればきりがないがこれらがぼくの土台を形作っているようだ。今思い返すと、初任からの5年間は、豊かなコンテンツの土壌の上でファシリテータートレーニングをしていた毎日だったのだと思う。
ではなぜ離れたか?それは後にファシリテーションを軸としていく自分の変化にも繋がっている。そういえばかつての同僚の渡辺貴裕さんに、
「もし仮説実験授業に出会っていなかったら、今の岩瀬さんはありませんか?」
と聞かれたことがある。
どうだろう。けっこう本質的な問いでまだ答えられずにいる。おそらく今のぼくはないんだと思う。
それにしても子どもたちの討論から仮説が立ちあがっていくやりとりには聞き惚れたなあ。ここに来て社会構成主義に関心をもっているんだけれど、実はあのときの聞き惚れた討論に原点があったりする。

ではなぜ仮説実験授業から離れていったのか?
端的に言えば以下。

①仮説絶対主義的な側面がある。他教科への安易な展開や、仮説さえやっていればいいというような言説。つまりは方法の絶対化。

②教師と子どもの授業書への過度な依存。授業書の質が高いだけに、授業書そのものへの疑いを持たない。このような姿勢は、巧妙な「授業書もどき」を作れば思考や価値観を操作できる危険性をはらんでいる。これは仮説に留まらない大きなリテラシーの問題。

③問いはいつも「降ってくる」ことへの違和。カリキュラム上の自由度の低さ。

④教材研究できない教師をつくりかねない。

とはいえ、今なお仮説実験授業の価値は高いと考えている。その後ボクは、「授業書」が「縛り」に感じられて緩やかに離れることになりました。

また岩瀬氏は「『たのしくなくってわかる授業』って?」(2015.10.19)でも、

「授業書絶対主義」だとボクは感じたのです。
子どもたちが夢中になればなるほど、
「巧妙に子どもを誘導するような授業書を作ったら洗脳のようなことができてしまう危険性があるのではないか」
ということに危惧を覚えたのです。当時ボクは若いエネルギーと正義感に溢れていました。20代半ばですから。
でもこれはファリシテーションでも同じような危険性を孕んでいると思います。
話がそれました。

と書いている。

中一夫さんは講演で、板倉さんには「仮説実験授業の思想」と「楽しい授業の思想」という2つの世界があるという話をされていた。そして後者のほうが大きいのではないか、と言われた。
岩瀬氏の「授業書絶対主義」批判は「楽しい授業」で乗り越えられたのか。
岩瀬氏が「仮説実験授業から離れていった」理由に対して私はどう答えるのか。
一会員として会費を払っていたとしか言えなくもないが、板倉さんから学び、図書館の場で実践してきた者として、考えをまとめるのも宿題の一つであると思う。

2023年04月16日

近況雑事 残日録230402

3月は岩国と尼崎の仮説実験授業の研究会に参加する予定だったが、体調不調で岩国は止めることにした。尼崎の会は初めての参加だった。「図形と角度」や「割合」「グラフ」の分科会などに参加した。「1より小さい数で割ると答えが1より多くなる」ことをどのように教えているのだろう、答えが「1」より小さくなっても疑問をもたないままだと困るな、と思っていた。講師のDさんに質問したら、教科書でも気にはなっているようだが…と、あまり積極的ではない様子だった。「割合」の授業書では「タケノコ」の絵や「タイル」で比べて、矢印を書いて「大きくなる」「小さくなる」を意識させていた
「タス」「カケル」と「増え」、「ヒク」「ワル」と「減る」というイメージを持っている子どもはどれくらいるのだろうか。

南座の三月花形歌舞伎忠臣蔵六段目は壱太郎の勘平Bプロを観た。尾上右近の一文字家お才と判人(はんにん)の源六(市川荒五郎)のやり取りが煩くて、一瞬ウトウト。お才は先年亡くなった秀太郎丈の「粋」が記憶にあるものだから、右近・荒五郎の力演が浮いていると感じた。上方の勘平がリアルである分損をしたかな。
昨年の「番町皿屋敷」は手に余るところがあったが、今年はまずまず。
観劇後、日がまだ高いので、17時から開店の「満常」までのつなぎとして「京極スタンド」に行ったが定休日。近くの「たつみ」でつないだが、「満常」は臨時休業。長らく行っていない。

体調は徐々にではあるけれど、回復に向かっている。右足の付け根からふくらはぎまでの筋肉が痩せてなかなか戻らない。凝り固まっているのを毎週マッサージでほぐしてもらっている。少し歩くと右の腰・膝が痛い。無理をしてもリハビリと思って歩くのだが、無理は続かない。先週、加古川の実家へ帰って電動自転車に久しぶりで乗った。歩くよりリハビリになった気がしたが、翌日は唸ることしきり。

来週、実家の屋根の修理の件で業者さんと打ち合わせがあり、加古川に帰る。その帰りに大学時代からの友人と阿倍野の「明治屋」で昼飲みをすることにした。気分転換にご協力を願う。太田和彦氏ご推奨の名店。

2023年04月02日

近況雑事 入院・母の死など 残日録230311

残日録230311 近況雑事 入院・母の死など

昨年の11月から、久しぶりの残日録です。
 
12月中旬に年賀状の印刷をして年末にアップする予定が、その直前で体調不良になり、今日の日を向えている。

頌春
家庭の味噌汁の作り方は
当人たちがまずい
と感じていても、
変えないものなのだそうだ。
まずい味噌汁では
腹の足しにもなれない
いつまで どこまで 
まずい味噌汁を だ
気に入らぬ風もあろうに
柳々の日々
うさぎの逆立ち、耳が痛い
元ネタ;花森安治 仙崖

賀状は以上だった。

12月23日(金)に非常勤講師の第13回目を終えたのだが、当日に発熱。翌日、長浜市民病院の救急に駆け込み、コロナの検査を受け、解熱剤を出してもらった。翌週でないと結果がわからないので、次週まで高熱をトンプクで凌いだ。
27日(火)にかかりつけのF医院でコロナの検査を受け、コロナ罹患でないことがわかる。ただ、高熱は続き、加古川の実家での年末年始は止めることにする。
1月4日まで寝たきり状態のまま。4日にF医院で診察を受ける。即、当日から市民病院に入院。右肺に膿が溜まる「肺膿症」で同月29日まで入院。
退院前後は2月3日(金)受講生の成績づけにまで忙殺。5日午前3時半ごろ、母の入院先から、母の死が知らされる。
6日通夜。翌日、葬式。
退院後も慌ただしく、通院したら再入院の可能性もでたが、なんとか乗り切る。
25~26日、大阪のルネッサンス高校で仮説実験授業の中一夫さんの会に参加。
24日、3月4日・11日に高月まちづくりセンターで「子どもに本を手わたす講座」で話す。
来週は南座で若手の歌舞伎を見る予定。

店は3月末まで休んで、4月からは「土・日・月・祝」の午後を開けることにする。

2023年03月11日

ボーイズラブ(BL)本についてのいくつかのこと 残日録221123

ボーイズラブ本について書こうとして、紹介が面倒だからと、Wikipediaからコピペしようとしたら、「信頼性」「精度」が低いなどと書かれており、参考にならないと思ったが、「堺市立図書館「BL」本排除事件」の件はまあまあまとまっていたので、コピペしてみた。
文中の統一教会は現在の「世界平和統一家庭連合」である。

堺市立図書館「BL」本排除事件
2008年に大阪府の堺市立図書館で、ボーイズラブ小説が収蔵・貸出されていることを非難する「市民の声」によって廃棄が要求され、ボーイズラブとされた5500冊の本が開架から除去される事件が起きた。この「市民の声」というのは、実際は「匿名市民ひとり(同一人物)から」と、その意向を受けた市議たちで、このことは図書館側も認めている。市議の水の上成彰は「世界日報」の記事で、図書館にボーイズラブがあることを激しく批判し「実質的にポルノ本」であり、図書館にあるのはおかしいと主張している。市民活動家の寺町みどりは、「堺市に届いたメールから分かったことは、特定図書を排除したい人たちは、『同性愛』自体を嫌悪している。同性愛への差別と偏見から『BLをこどもに見せるな』といい、『BL本を処分せよ』と迫った。」と指摘している。
このボーイズラブ本除去運動は、議員の介入、純潔教育やジェンダーフリーバッシング、漫画・アニメ・ゲームの性表現や暴力表現に法的規制をかけるためのロビー活動を行っている韓国発祥のカルト・統一教会の関連会社「世界日報差社」のバックアップを受けていたことが指摘されている。(なお、統一教会は「同性愛は創の原理に反する不自然な関係」であるとして否定しており、「同性愛は倫理道徳の問題であり、人権問題ではない」と主張している。)図書館が示す排除の理由は二転三転し、ボーイズラブとされる基準も不明瞭であったが、ボーイズラブ本として約5500冊がリストアップされ、堺市側は、これらの本は「全て閉架に保存」「今後は収集しない」「青少年には貸出しない」と決定した。この意思決定に至る議論や経過は記録に残っていない。図書館の定まらない対応に、市民は不信感を募らせた。
この事件以前に福井でも、バックラッシュの流れの中で、ジェンダーやバンジョ共同参画に関連するとされた本「ジェンダー図書」が、「市民の声」によって図書館から排除される事件が起きており、原因究明のために東京大学名誉教授上野千鶴子・寺町みどりらによって「ジェンダー図書排除」究明原告団が結成されていた。寺町は福井の事件以降、同様の事件を防ごうとバックラッシュ派のインターネット掲示板「フェミナチを監視する掲示板」に注視しており、そこで匿名男性が図書館にBL本が大量にあるという苦情の電話をかけていることを知ったと述べている。同原告団は堺市の決定を同様の問題ととらえ、連絡を受けた早稲田大学の熱田敬子は除去リストを分析した。熱田敬子は、除去リストには宮乃崎桜子『斎姫異聞』(第5回ホワイトハート大賞を受賞した少女小説)なども含まれており、深く検証する前におかしいことがわかるようなものだったと述べている。堺市は排除理由を「過激な性描写」のあるものとしたと回答しているが、性描写のない本、ほとんどない本も含まれており、「挿絵」も理由として挙げられたが、挿絵に裸や性表現のない本やそもそも挿絵のない本も含まれていた。男性同性愛の要素のない少女小説やセクシュアル・マイノリティの日常を描いた作品が含まれていたり、同じ作家のBLとされる作品でも出版社によって指定されたりされなかったりであったり、同一シリーズの一部だけが指定されていたり、ライトノベルは指定されるが文学は指定されていない、少女向け・女性向けと思われる本は指定しているが、男性向けでセックスをするのが男女であれば性描写の程度に関わらず指定されていない、男性同性愛がテーマでも「ゲイ文学」と認知されているものは含まれていない、性描写の程度では振り分けされていない、ストーリー性や文学性があっても同性愛表現があるだけで指定されているなど、図書館員が共有する基準を持たず各々の判断で選んだかのように一貫性がなく、暗黙の差別があらわになる除去リストであったという。(具体的な内容は、熱田が整理したリストを参照のこと)
堺市の決定に対し、報道やネットで賛成反対様々な意見があがり、BLが図書館にあることを批判する声や、BLの読者を嫌悪するような意見もあった。「図書館の自由」や「表現の自由」を守るため、上野らや市民団体、全国の議員などが反対の声をあげ、堺市長と堺市教育長に対し、市民97人、議員46人、7団体による申し入れがされた。堺市に対して、上野を代表に市民などから監査請求も行われた。監査請求の後、堺市立図書館は「青少年への提供は行なわない」との方針・合意を撤回し、「請求があれば18歳未満にも貸し出す方針を決めた。同日から運用を始めた。」と新聞で報道された。堺市は「拙速で、判断を誤った」としている。「BL図書は収集・保存しない」という措置は、2008年時点では見直されていない。
堺市立図書館は、BL本排除を決定するよう外圧があったことを否定している。これに対し寺町は「インターネットにおける各種情報や新聞等の報道からも、また、事案の経過からも事実に反する。」と述べている。
寺町みどりは、同性愛への嫌悪に基づく要求に従った堺市立図書館にも、「『ボーイズラブは青少年に見せてはいけない』という予断と、セクシュアル・マイノリティへの偏見があったのだろう。だからこそ、堺市立図書館で起きたことは、『ジェンダー図書排除』事件にほかならない。」「巷にあふれる『BL本』の悪いイメージをことさらに振りまいて、自己規制を迫るのは、差別する側の常套手段だ。(中略)わたしは、図書を選別し、区別し、隠すことこそが『焚書』であり、『差別』につながると言いたい。」「『どのような理由であろうと蔵書を排除しない』を基本原則としない限り、第二第三の『図書排除』事件は、起きるだろう」と述べている。
熱田敬子は、そもそも図書館から本を大量に除去することが大問題であるが、このような乱暴な指定で図書を除去することの原理的な問題として、大きく分けて「『BL』という恣意的な括りで、本が排除されるということ」(BLであるかどうかの明瞭な定義はないので、図書館は除去する本を恣意的に選べる)、「『BL』を一括りに排除することがそもそも恣意的である、ということ」(図書館はゾーニングをするべきか)の2点があると述べている。 他に論点として、次のものが挙げられている。
• BLとは何か。
• BLはわいせつか。18禁か。ポルノか。
• BLが有害であるとするなら、「誰にとって」「何故」有害なのか。
• わいせつ図書は図書館にあっていいのか。
• 図書館の自由という観点において、堺市図書館の対応はいかがなものか。
また論争における問題点として、次のことが指摘されている。
• 図書館の自由に基づきありとあらゆる知を提供するという図書館の立ち位置が知られていない。
• BLへの不快感/自重意識から、思考停止または論点のすり替えが行われた。
この事件は、表現の自由の侵害であると同時に明確な差別事件でもあったが、その点は理解されにくく、当時は報道でも識者の間でもあまり注目されなかった。背景には、女性が性的表現を享受することに対する女性自身の後ろめたさや世間の冷淡さ(保守的なフェミニストも含む)、男性オタクからの腐女子へのバッシングだけでなく、ホモ・フォビアやセクシャル・マイノリティ差別があることも指摘されている。
BLに対する表現規制の動きはその後も継続しており、たとえば2020年代現在、東京都青少年の健全な育成に関する条例によって毎月指定される不健全図書の大半はBL作品となっている。指定された作品は都内で青少年向けに販売できなくなるほか、Amazon.co.jpにおける販売が停止される(不健全指定された書籍のタイトルなどは東京都のウェブサイト上の不健全指定図書類一覧で確認できる)。参議院議員の山田太郎は、こうした青少年健全育成を理由としたBLの規制に危惧を表明している。
 
以上であるが、この部分はバランスの取れたものになっている。
10年近く前のことだが、図書館情報学学会で大学院生(女性)が「公共図書館におけるBL本の所蔵に関する予備調査」のような内容を発表した。予定稿にゲイとBLの親和性というか、BLがゲイへの差別解消につながるようなことが書かれていて、それは一概に言えることではないだろう、と指摘したことがある。
隣の席の大学教員が「そんな本があるのか」とつぶやいていた程度だから研究者の話題としてBL本が広がることはなかったように思う。堺市の事象は図書館現場の論議もあまり活発ではなかったように思う。

私の関わった高月図書館では、大半のBL本は閉架あつかいであった。なかには過激なものもリクエストで購入することがあった。興味深かったのは、木原音瀬のリクエストがほとんどなかったことで、BLが本リクエストの常連に聞いてみたら「持っておきたい本は自分で買う」との返事だった。図書館の書庫にあるBLが本は的ハズレが多いのか、と思ったりした。凪良ゆうや鳩村衣杏、椹野道流のBL本も蔵書にしては少ない。烏城あきらにいたっては蔵書にない。
烏城あきらの「許可をください1~6」シリーズは最後の7巻目が未完のままになっている


中小化学薬品製造業・喜美津化学の品証部に勤務する阿久津弘は初の四大理系卒のホープとして期待されている身。そんな弘が社命でフォークリフトの免許を取ることに。慣れない乗り物の操作に難儀する中、指導係として遣わされてきたのは製造部の若頭・前原健一郎。弘と同い年であるにもかかわらず同僚からの信頼も厚く、独特の迫力と風格を持ったこの男に、弘はとある出来事がきっかけで苦手意識を持っていたのだが、意外にも前原の方は-。それなりに平和な工場ライフを送っていた弘を襲う前代未聞の"男×男"関係、ガテン系濃密ラブ。

と、紹介されていて、感想として以下を引用しておく

お仕事BLの最高作品かと思います。工場ってこういう仕事してるんだな~と感心しまくり。
CPは同僚で部署違い。
いわゆる現場主任×デスクワークの品質管理部門の新人。
オラオラ系×ど天然美人で、もちろん攻の押せ押せで関係が深まって行きます。
お仕事で揉めつつ、互いの恋心でもすったもんだありと、素晴らしくドタバタしていてとても楽しい!
泥臭いほど男っぽい攻と、負けん気の強いこちらも大変男らしい受。
仕事に対するプライドと恋心の折り合いが互いにつかず、イライラオロオロムラムラ。ほんと愛おしい男たちです♥

最終巻がいまだ発行されず・・・と、本当に出てくれるのかしら・・・と、それでも信じて待つわ・・・と、首を長くしておりますが、お話しとしては1巻完結ものなので、臆せず手を出して大丈夫な作品ですよ。

私も評価の高いBL本だ。
鳩村衣杏の作品は、男社会の会社で働く女性が「男社会での処世術」を学ぶ本などもあって注目していた。業界物も面白い。

2022年11月23日

『読み聞かせる戦争 新装版』日本ペンクラブ編 加賀美幸子選(光文社.2015)残日録221102

太田治子の解説から。

 おととしの秋、神奈川近代文学館で原爆文学朗読会があった。朗読してくださったのは、加賀美幸子さんである。朗読は最初に原民喜の有名な作品、『夏の花』から始められた。その後に続くどの詩の作者の名前も私は知っていた。
「次は林幸子さんの『ヒロシマの空』です」
 加賀美さんがそういわれた時、はてと思った。その詩も勿論、作者の名前も初めて聞くものであった。朗読に耳を澄ますうちに、私はいたく動揺した。被爆当時少女だった林幸子さんはわが家の焼け跡の土の中から、父君と小さな弟のまだ生暖かい内臓を探しだされた。何といういたましくも生々しい現実だろう。会場からはすすり泣きが漏れて、私の傍らの奥さまも声を上げて泣いていた。誰しもが林さんの友人であり身内であるような思いにかられていた気がする。加賀美さんの朗読はどこまでも落ち着いているだけに、よけい悲しみが伝わって来たのだった。
『ヒロシマの空』を書かれた時に二十代の主婦だった林幸子さんにとって、この詩を書くことはどんなにつらい作業であったろう。
「林さん、よくぞ書いて下さいました。加賀美幸子さん、よくぞ朗読して下さいました。どんなにいたましいことであったか、よくわかりました。ありがとうござました」 
 私は神奈川近代文学館の帰りに元町に向かって山手の道を歩きながら、ずっとそのことを心の中でつぶやき続けていたのである。
 昨年の春の日本ペンクラブ編集出版委員会で新入りの私は、神奈川近代文学館の加賀美幸子さんの朗読に胸がいっぱいになったことをお話しした。加賀美さんの朗読を柱として戦争の現実が伝わる本ができないものでしょうかと発言したところ、どなたも大きくうなづいて下さったのである。それにしても、こんなに早やくその本が刊行されるとは思ってもみなかった。(p259~261)

 そういう経過で、この本は加賀美幸子の朗読CD付きで、初版はアメリカ同時多発テロの翌年2002年に刊行されている。戦後70年新装版として再版されている。27篇の詩と散文(抄録)が選ばれている。

 早乙女勝元の『母と子でみる東京大空襲』から。

 それでは、東京は何回の空襲を受けたのでしょうか。
 百三十回です。延べ四千九百機からの敵機がやってきて、約四十万発もの爆弾・焼夷弾を落としました。
 これにより全東京の六割が消えてなくなり、傷ついた人は約十五万人以上、無念の死をとげた人は約十五万五千人以上です。太平洋戦争開始時に七百三十五万人だった東京の人口は、敗戦時に三百四十七万人になりました。ですから、空襲や疎開のために、四百万人もがいなくなったのです。
 日本全体ですと、約百五十都市が空襲を受け、一般民衆の死者は推定六十万人です。
 このうち、広島・長崎の原爆による死者数が、ちょうど半分に当たります。
 しかし、この一般市民への無差別爆撃は、アメリカが初めて行ったわけではありません。
 日中戦争の始めから、特別な軍事目標のない中国の諸都市に向けて、猛爆撃を行ったのは、実はほかならぬ日本軍だったのです。
 一九三七(昭和十二)年、日本軍は中国の首都南京を占領、市民大虐殺のあと、蒋介石政府を追いかけて、揚子江上流の無防備都市重慶に対し、翌年二月から、非戦闘員をふくめた無差別攻撃に踏み切ったのでした。
 非戦闘員とは、武器を持たない一般市民のことで、小さい者や弱い者たちです。
 日本軍の重慶爆撃の惨状を写真で見たアメリカ大統領ルーズベルトは、拳を握りしめて、「東京市民に、重慶の女子(おんなこ)どもたちの苦しさを思い知らせてやる!」
 と、さけんだとやら。
 このようないきさつをふりかえりますと、なんのことはない。東京のみならず日本本土への空襲と戦災は、ほかならぬ日本軍がその種を撒いたようなもの、といえるかもしれません。アメリカ軍の戦略爆撃は、より大規模な無差別爆撃となって、日本の諸都市にはね返ってきたのでした。
 東京大空襲の惨禍をふりかえるとき私たちは、兵士だった父、祖父たちが、アジア諸国のいたいけな子どもたち、母たちの生命を多く奪った事実も、決して忘れてはならないことだと思います。(p104~106)

 被害者は忘れないが、加害者は忘れる。忘れることもある、そして語らないこともある。
 保阪正康『戦争体験者 沈黙の記録』を思い出す。

 「韓国・朝鮮徴用工」の拉致と「北朝鮮拉致問題」は別のことではあるのだが、前者の記録と記憶については語リたがらない空気がある。

 戦後十六年目の一九六一(昭和三十六)年十二月七日のこと。政府は、アメリカの一軍人に結構な贈物をさし上げました。信じられないことですが、最高級の勲一等旭日大綬章を受け取ったのは、カーチス・ルメー将軍です。
 ルメー将軍は、その時米軍空軍参謀総長で、折からのベトナム戦争にB52戦略爆撃機でベトナムに無差別爆撃の火の雨を降らし始めたんでしたが、このルメーこそ、太平洋戦争末期、東京を中心に日本本土を灰燼にした責任者、サイパン島の第二十一爆撃司令官だったのです。
「日本の自衛隊の育成に貢献したから」
 というのが、叙勲の理由でした。
 炎の中に焼かれていった死者たちが、この世によみがえったとしたら、一体なんと言ったことだろう。
 思えば、こんにち私たちの手の中にある平和は、棚ボタ式に、自動的に得られたものではありません。
 それは、あの日あの時、国の内と外と、言葉や文字にいいつくせぬ人びとの痛ましい犠牲の上に、やっと築かれたもの。だとすれば、それら無念の死者たちの思いまで受け継いでいくのが、生き残った者、あるいはその後に生まれてきた人たち人間としての心であり、義務ではないでしょうか。(p109~111)

 この『読み聞かせる戦争』は、朗読に適う程度の文量の抄録にねっていて、大岡昇平『レイテ戦記』、大西巨人『神聖喜劇』、駒田信二『私の中国捕虜体験記』などが収録されている。


2022年11月02日

『編集とは何か』奥野武範(ほぼ日刊イトイ新聞)取材・構成・文(星海社.2022)残日録221029

 ずいぶん読むのに時間がかかったように思うのは、連続して読了するエネルギーが生まれなかったのと、間々に雑誌を読んだり小説を読んだりしていたからからだ。そうなるにはワケがあって、収録インタビューされた編集者がそれぞれ個性的で圧倒されたからだった。一人ひとりの編集者からの熱量が私のなかで冷めていくのを待たないと、次の編集者のインタビュー記録にたどり着けないのだった。
 実家からの帰りに寄る居酒屋「あまや」で何度開いたことだろう。
 取り上げられた編集者は以下のとおり、

新谷学『文藝春秋』編集長 
石田栄吾『たくさんのふしぎ』編集長
津田淳子『デザインのひきだし』編集長
白石正明 医学書院『ケアをひらく』シリーズ
岩渕貞哉『美術手帖』総編集長
金城小百合『習慣ビックコミックスピリッツ』編集者
鈴木哲也『honeyee.com』創刊編集長
白戸直人 中公新書 前編集長
土井章史 トムズボックス代表
矢野優『新潮』編集長
姫野希美 赤々舎代表
久保雅一 小学館
新井敏記『SWITCH』編集長
河野通和 前ほぼ日の學校長
コラム 古矢徹『VOW』2代目総本部長
    薮下秀樹『VOW』シリーズ担当編集者
あとがきに代えて ターザン山本!『週刊プロレス』元編集長

 といった面々で、奥野氏の構成が良いこともあって、一人ひとりの編集体験を知り、ハッとさせられる。
 『たくさんのふしぎ』の石田栄吾氏の場合は(P63~67)、

――(以下、奥野)2019年9月号の「たくさんのふしぎ」は『一郎くんの写真』という作品で、これがもう……めちゃくちゃ感動的でした。
石田  ありがとうございます(笑)。
――出征してゆく兵隊さんに向けて、近所のみんなで寄せ書きをした「日章旗」を、第二次大戦当時、贈っていたと。で、」あるときに中央に「一郎くんへ」と書かれた日章旗が現代のアメリカで発見され、その「送られ主」である出征兵士・「一郎くん」とは誰なのか、寄せ書きした人の氏名などから探しあてたノンフィクションですけれども。
石田  はい。
――もともと東京新聞に連載されていたものを、石田さんが読んで、かいた記者さんに依頼して絵本にした‥‥‥。
石田  あの、人からよくあきれられるんですけど。
――はい。あきれられる?
石田  わたし、新聞が大好きなんです。新卒のときには、信濃毎日新聞の入社試験を受けたくらい、とくに地方紙が好きなんですが、読んでいるのも、昔から東京新聞でして。
――ええ。中日新聞社が発行する、関東の地方紙。
石田  横浜から巣鴨の青だの通勤電車の行き帰りも、ずーっと読んでいるんですが、今日は「2018年5月」の新聞なんです。
――……………えっ?
石田  はい、新聞が大好きなので、かならず毎日「隅から隅まで読む」んです。昔はきちんと、リアルタイムで、その日の新聞はその日のうちに読んでいたんですけれども、子どもができてバタバタしたりして、ちょっとづつちょっとづつ、遅れていって。
――え、えええーっ……(笑)。
石田  結局、いまは3年2ヶ月遅れで読んでいて。
――ホントだ……そんな人、はじめて(笑)。じゃあ、配達されたけど、まだ読んでいない新聞というものが……。
石田  
はい。わたしの部屋は、未読の新聞で埋まってます。

『一郎くんの写真』完成までの話があって、

――すごい……運命さえ感じます。でもまさしく編集者のお仕事だなあって、うかがっていて主負いました。新聞記事を絵本にしたわけじゃないですか。つまり、ある素材の伝え方を代えて、まったく別の読者に届けている……わけで。
石田  ええ。

 ほかにも引用したいけれどこれを写しておく。どれもが輝いていて、よい一冊に出会えた喜びを堪能している。

2022年10月30日

実家往復などなど――近況報告 残日録221009

 母とは、3週間に1回、5分間、病院の1階でタブレット面会をしている。5月下旬に転医して、環境の変化からか、ずいぶん昔のことを夢に見るらしく、妄想のような混乱した話をするようになっていたが、最近は環境にも慣れて元気に話すようになっている。看護師やリハビリのスタッフとよく話すようになったらしい。
毎週のごとく1泊2日で加古川に通っている。腰痛になったので本の梱包は中止して、母や亡くなった父が実家に溜め込んだ領収書などの整理をしたり、畑の植木鉢代わりの発泡スチロールを片付けたりしている。
 母が回復に向かっている、といっても退院して介護施設に入るのは、ずっと先のことだと思うので、長期戦を覚悟して、片付けはのんびりとすすめたい。今週は畑の月夜柿を――これは渋柿だけれど満月のときには甘くなる柿です――採ります。明日が満月なのですが、12日に帰るのでなんとか甘みが残っていればいいのにと期待しています。今年は生り年なのか、たわわに実っています。
 13日は同窓会の幹事会です。東加古川の「カジュアルレストラン明日香」で午後2時から。早めに行って昼食を食べるのを楽しみにしています。ランチにするか、カツカレーにするかなどなど迷うところです。

 夜は尼崎駅1階の「あまや」で一杯の予定。本気呑みセット1,150円→1200円=本日のおまかせ3品+ドリンク2杯のしっかり目セット+ちょい呑みセット890円→1100円=料理1品とドリンク2杯付をベースにして、追加するパターン。
 行きはICOCAで帰りは一日乗車券。尼崎で新快速に乗ると大阪で確実に座れるのがよいので、このところ「あまや」に通うことが多いのです。
 「フラタニティ」という雑誌があるのですが、「「非政治的日常」と「貴誌」」という文を書きました。次号に掲載予定です。私は「政治」に積極的に関わることがないのですが関心はあります。村岡到という社会運動家の活動と思索に30年余前に出会って以来、私の立ち位置とは違うのですが、関心を持ち続けています。関西の古くからの読者ということで書かせていただきました

2022年10月09日

「利用者を否定しない棚」(『図書館人への言葉のとびら』内野安彦.郵研者.2022)残日録

帯に
一図書館人として道標となることばをひたすら探すことで、迷い道から抜け出せたり、鼓舞されたり、ときには「これでいいのだ」と自信を深めることができました
とあり、69の言葉が取り上げられている。もちろん図書館員の言葉もあるが、出版関係者、書店などからも取り上げられている。私の言葉も取り上げられていている。

「選書の中に利用者像あり」がそれで、
「本を選ぶということは、その図書館の政策の現れです。それは、サービスの対象である利用者像なくしては成りたちません。利用者像はカウンターでの仕事によって養われ、非利用者への想像力、また具体的な調査などによって、ふくらみます。意識するにせよしないにせよ、選書のなかに利用者像があります」
が引用されている。
それにご自身の体験談が続く。(p66)

その次に「利用者を否定しない棚」という言葉が、嶋田学氏の言葉として取り上げられている。この言葉は明定義人にプライオリティがある言葉ので、ちとややこしくなる。
『現代思想』第46巻第18号「図書館と「ものがたり」地方から考えるこれからの図書館」という嶋田氏の論考からの引用である。
島田氏によると「利用者を否定しない棚」を本来、引用注記をつけるべきところを私のミスでつけられないまま掲載されることになりました。これでは、私の地の文における強調表現取られてもしかたありません。後日、その言葉の注記のないことに気づき、明定に詫びを入れておられる。
内野氏の著書が出版されてしまったので、嶋田氏は混乱を招くことにならないように、図書館雑誌の投稿欄「北から南から」に投稿する、とのことだそうだ。
内野氏には「利用者を否定しない棚」はパラダイムとして、普通名詞化の道をあゆみはじめたのかも、しれません! そうなると、嬉しいですね。と連絡しておいた。
その後、図書館のOBになりたてのA氏に、こんなことがあったと話したら、(その言葉は)あちことで使っていますよ、と言われた。どうも、私からは離れて、一般名詞になっているのかも、と思った。
2017年の島田氏の講演レジュメでも「利用者を否定しない棚」とカギカッコで強調しているだけなので、島田氏のなかでも一般名詞化が進行していたのではないだろうか。

2022年09月25日

『随筆 黒い手帖』松本清張(中央公論社.1961)残日録220920

無理をして腰痛になってしまい、気がついたらもう9月も半ばを過ぎている。
10月下旬の締切の雑文をかかえているが、もっぱら読書三昧の日々である。小説は、西加奈子『夜が明ける』、凪良ゆう『わたしの美しい庭』を読んだ。それから石井光太の著書を数冊。ほかあれこれ。
松本清張の上記本から、短い抜粋をしてブログの空白を埋めておくことにする。

私は東京に出てから母を失ったが、このときの区役所の手続きがたいへん簡略であるのに愕いた。一体、役所仕事というものはたいそう面倒なものだが、埋葬許可書を貰う段になると、いとも簡単に手続きが済む。すなわち、医者から死亡診断書を書いてもらい、これを区役所の窓口に届けると、すぐ埋葬許可書がもらえる。この間、係員は死亡診断書を発行した医者に問い合わせるでもない。このことに疑問を持って、多くのお医者さんに訊いてみたが、区役所の窓口から一度も自分の発行した死亡診断書に対しての問い合わせはないという変事だった。
 こうなると、医者の名前を騙り、いや、実在の医者でなくとも、いい加減な名前で医師と偽って死亡診断書を書いても、区役所には分からないのではないかと思った。変死体となるとえらく面倒なのに、病死となるとたいそう簡単なことで済んでしまう。この疑問からヒントを思いつき、『わるいやつら』に書いてみた。考え方によっては、これほど完全な犯罪はないと思う。死体を隠す工作もいらないし、アリバイの苦労もなく、また警察から追われることもない。完全犯罪といえば、これ以上のものはなさそうである。
 これは、区役所の窓口もわれわれと同様に、医師という職業に対して絶大な信頼を寄せて
いるからだと思う。しかし、或る意味で、今日ほど人間相互間に不信を持たれているときはないのに、ここでは一つの盲点を作っているように思われる。(中公文庫版p113~4)

「松川事件判決の瞬間」から

 門田判決は、「証拠不十分」というような消極的な無罪論ではなく、被告の無実の罪を諸証拠によって説教的に明らかにした「完全無罪論」である。裁判長の判決理由の用紙を見ると、随所に捜査当局のアナや検察側論告のミスを衝いている。また、弁護人側に対しては、検察側が出した証拠能力の検討が足りない点をたしなめている。
 たとえば、赤間、本田、高橋の三人が線路破壊を終えての帰りがけに、森永橋というところで休憩した、と検事は主張する。その証拠として、折から通りかかった肥料汲みの車をひいていく農夫が三人の姿を見たと言うのだ。これは午前三時十分ごろで、証人は年齢、服装まで言っている。しかし、今度の差戻し公判で、彼が目撃した夜と同じ月齢で実験したところ、年齢、服装、明確な人数を識別することが不可能であることがわかった。ところが検察側でも検証したが、このときは八月十七日ではなく、七月八日の同時刻であった。このことについて、門田裁判長は、七月八日と八月十七日とでは、同じ日の出時刻前でも明暗度が違うと言い、
「その明暗度は、日の出前の時間が同じであっても、一か月ちがった七月と八月では相当に異なるのである。弁護人は、検察官のこの主張の非科学性をなんら聞こうとはせずに黙過しているのは、あまりにも寛容にすぎる」
と弁護人側の怠慢を衝いているごときである。五十人異常の弁護人は、裁判長から鋭く指摘されると、いずれもうれしいような苦笑いを泛べていた。検察側は無表情にただ朗読に耳を傾けていた。(同p174~5)

 興味深く読んだ。

2022年09月20日

『アンパンマン』と選書(西田博志『いなかの図書館から』)残日録220821

 先日、逝去された西田さんの八日市市立図書館長時代の文を紹介しておく。西田さんは職員の意見を尊重する人でもあり、職員に問題提起する人でもあった。

 私たちの図書館には『アンパンマン』がない。『ノンタン』があって、なぜ『アンパンマン』がないのかという他館職員の問いかけに、明確にこたえる術を持たぬまま、マンガとともに、未だに選書の対象からはずされた状態にある。しかし、そうなっているのは、絵本は子どもの想像力をかきたてるもの、芸術性の高いものをという点で、職員間の一致を見ていないからで、何も特別に排除しているというわけではない。
 選書に関して、私自身はどうかというと、職員からは、どうも」「フラフラしていて頼りない」と思われているらしい。どんな本でも、それなりの価値を持って誕生している。したがって収書をするかどうかは、そのときどきの状況によって判断すればいいというのが私の考えだから、どうしても優柔不断のそしりは免れないのであろう。しかし、もう少し補足すれば、その本の価値を決めるのは利用者(読者)であって、私たち図書館員ではないということである。それじゃあ何でも収書するのかというと、けっしてそうではない。人間誰しも、現在の自分よりもっと、ゆたかになりたいと願っている。そういうひとびとをはげまし、知的冒険心を呼び起こされる、そういう本で図書館をいっぱいにしたいというのが、私のかんがえ方なのである。
 ところで、なぜ『アンパンマン』の話を持ち出したかというと、最近、この本についてかんがえさせられる、とてもいい文章に出くわしたからである。市内のある高校に勤める学校司書、土田由紀さんの「アンパンマンのこと」という短文で、図書館あるいか図書館員の役割をかんがえる上でもたいへん参考になると思う。全文掲載する余裕がないので、要点だけを紹介しておく。
 ――自分自身『アンパンマン』にいい評価を持っていなかったが、要望が強かったので「ミニ・ブックス」を10冊購入した。ところが生徒のなかに『アンパンマン』ばかりくり返し読んでいる子がいて、他の絵本をすすめても見向きもしない。その彼がある日ぽつりといったのである。「これ、幼稚園と小学校においてあった。そのとき、ずっと読んでた。あのころはよかった」後で担任の先生に、その子の家庭がとても複雑であるということをきいた。それで私は「そうなのか」と思った。彼は『アンパンマン』だけを見ていたのではなく、それを読んでいたころの「幸せだった家庭」あるいは「何も知らなかった幸せ」をともに見ていたのか、と。以来私は、「本の差別」は、やめた。どんな本であれ、人は「何か」を求めてその本を読むのだ。だからその「何か」を理解し、より適切な本があれば、それを紹介してあげよう。ともすれば「そんなんより、こっちの方がいいよ」といいたくなるけれど、本ではなく、もっと人を中心にした対応をしていきたいと思う――
 高校生に「アンパンマン」や絵本というのは、ちょっとかんがえにくいかも知れないが、文字さえろくに読めず、読書の世界から隔絶された生徒がおおいこの学校で、彼女は一生けんめい「読みきかせ」をしているのである。そのことにも私は深い感動を覚えるが、それ以上に大切なことが、この文章にふくまれているとおもう。つまり、本の価値をきめるのは図書館員ではなく、利用者自身であること、したがって資料の提供に当たってはけっして「押しつけ」があってはならないことの二つである。私たちの図書館が『アンパンマン』をおかず、マンガやポルノを棚上げしていることと、これら土田さんの指摘とは、果たして矛楯するものかどうか。近いうちに、私は選書会議にこの土田さんの文章を提出するつもりでいる。(以下略 p17~20)

 土田さんの、「彼は『アンパンマン』だけを見ていたのではなく、それを読んでいたころの「幸せだった家庭」あるいは「何も知らなかった幸せ」をともに見ていたのか」という発見は、「良い本」に傾きがちな図書館員を「人」の側に引き寄せてくれる。

 今年の1月にお亡くなりになった松岡享子さんの言葉を思い出す。たとえ絵本としての世間での評価が低い絵本であっても、駅の近くの雑貨屋で並んでいるそうした絵本を、出稼ぎから帰るお父さんが子どものために買ってきた絵本は、その子にとって大切な一冊なのですよ、といったようなことおっしゃられた。「図書館員は本の世界を知っている」と奢ることを戒められたのだと思う。
まとまって書くこともないだろうから、蛇足ながら、松岡さん関連のことを書いておく。
東京子ども図書館の関係者の佐々梨代子さんとは児童図書館研究会で会計担当として数年ご一緒させていただいたし、荒井督子さんとは成田市立図書館時代の館長と職員の間柄だった。3人がけの背もたれつきの椅子に若い女性が座り、若い男性が頭を腰の方を向けて膝枕をしている。それを荒井さんは見つけて、明定さんちょっと注意してきなさいよ、と言う。わたしが二人に言葉をかけると二人は並んで座った。荒井さんは「なんて言ったの」と声を弾ませて聞いた、そんな記憶がある。荒井さんは、私が利用者にどう対応しているのかのあれこれを、石井桃子さんの別荘での松岡さんや中川李枝子さんとの夏の集いで、面白おかしく話のネタにしていたらしい。当時、女性週間誌が郷ひろみと松田聖子で盛り上がっていた。荒井さんはこんな週刊誌が2誌もあるのはどうだろう、と疑問視していて、聖子ちゃん派の職員に論破されていたが、「岸田衿子の恋話」(お相手が私たちの知る人物であった)で軽井沢では盛り上がったそうで、何処も同じと思ったことだ。
松岡さんとはお会いする機会は少なかったけれど、そんなこともあって、親しく接してしていただいた。最後にお愛したのは7年近く前のことで、石井さんの「かつら文庫」で「同文庫」の映像を見ていたときだった。『せいめいのれきし』の改訂版の訳文のチェックをしておられた松岡さんが一段落をされたのか、私の前にこられた。私に何を話されるのだろう、前年度にでた岩波新書は読んでないしなあ、と内心思っていたら、佐々さんと荒井さんの近況だった。 それがまた、おかしいのだった。

2022年08月21日

西田博志氏逝去(1934-2022) 残日録220817

 元八日市市立図書館(元東近江市立八日市図書館)の館長(1984~1997)だった西田博志さんが、長い闘病生活の日々を経て、先日お亡くなりになった。
 現役を離れて、また図書館界とも縁を断たれて、ずいふん長い闘病生活だったので、ご親戚と親しい方たちの小ぢんまりとしたお葬式だった。図書館関係ではご近所に住むSさんと長野からのK夫妻、そして私が参列した。出棺のときにMくんが顔を見せた。私は年に数回、草津の「橘とうふしんざぶろう」の豆腐を手土産にご機嫌伺いをしていた。この春、今年で図書館関係の団体を退会すること、道楽の民藝の世界に入門することを報告して、大いに盛り上がったのが最後になった。
 学生だった頃、講師が吹田に西田くんという館長が活躍しているので会ってみなさい、と言った。ぶらりと吹田の図書館をのぞいた。西田さんは会議で府立夕陽丘図書館に出ている、とカウンターで答えてくださったのが、後にKさんと結婚するIさんだったと記憶している。その昔、20歳台の加古川の図書館で働いていた頃、「みんなの図書館」の編集に関わったことがあった。その時の編集長が西田さんだった。
 私が滋賀県の高月町立図書館準備室(当時→現長浜市立高月図書館)の準備室長として、成田から滋賀に転じることに大きく関わられたのが西田さんだった。当時の県立図書館の前川恒雄館長はあまり乗り気ではなかっただろうし、某町立図書館長はその著書で「滋賀県の図書館づくりに相応しくないのではないか」と前川氏に進言したと書いている。
 私を候補に挙げた人たちのことは、西田さんも含めて想像がついたので、正面から断ることはできないことはわかっていた。前川氏の面接を経て、準備室長への道が開かれたのだった。当時、38歳だった私は、高月図書館を経験して、もう一つ図書館をつくれたら、とぐらいに思っていた。それが定年まで続くとは予想していなかった。そんな話もあったようだが、私のところまでは届かなかった。
 赴任してすぐに八日市図書館に行った。八日市の駅前の商店街でミカン一箱を買って、肩にかついで行った。準備室時代が2年4ヶ月と長かったこともあり、八日市に西田さんを訪ねることがよくあった。図書館のあれこれについて雑談を何時間もした。幸福な時間だった。八日市の職員から、西田館長とフランクに話すのは明定さんぐらいだ、他の館長たちはそんなことはない、と言われて、そんなものなのか、と驚いたことがあった。
 西田さんからたくさんのものを学んできた。私の「幸福な図書館生活」の1%は、故板倉聖宣さんと西田博志さんによって支えられている。(99%は住民の皆さんであることは言うまでもないことだが。)
 西田さんには『図書館員として何ができるのか 私の求めた図書館づくり』『ようかいち通信 人・自然・図書館』の2著作がある。私が作成したブックレット、西田博志著「いなかの図書館から」は「子どもと読書」の連載が元になっている。

2022年08月17日

「大阪心療内科放火事件に思う」野田正彰(「紙の爆弾」2022.8)残日録220801

巻頭に「『心療内科』が抱える闇」とあり、

 昨年十二月十七日、大阪キタの繁華街・北新地の雑居ビルに入居する「働く人の西梅田こころととからだのクリニック」で二十六にんもの人が亡くなった放火事件。「拡大自殺」とされる、放火を実行した男性患者の動機に注目が集まったものの、事件の背景が明かされたとは言いがたい。常軌を逸した人間が起こした惨事というだけでいいのか。彼は現場となった「心療内科」クリニックで治療を受けていたはずだ。また、メディアの報道は亡くなった院長の親身な診療ぶりを伝えるが、クリニックには六〇〇人とも八〇〇人ともいわれる患者が通っていたと言う。
 クリニックでどのような医療が行われていたかに専門的な知見から迫ったのが、精神科医で作家の野田正彰氏だ。野田氏は朝日新聞の有料サイト「論座」の担当者に依頼されて二回分の論考を執筆したが、ページレイアウトもほぼ終えた公開直前に、編集長から「公開見送り」が通告された。朝日新聞はなぜその判断を下したのか。編集長から野田氏に伝えられた説明は、首をひねらざるをえないものだった。なお、事件にからみ、「全裸監督」として知られる村西とおる氏はブログで、心療内科を受診したことをきっかけに「ジャンキー(薬物中毒)」となった体験を明かし、野田氏はそれを引用していたが、「論座」はその内容も掲載拒否の理由のひとつに挙げている。
 今月号では、」「論座」がボツとした論考を掲載するとともに、「論座」不掲載事件の不可解な経緯を検証した。そこから見えてきたのは、二〇〇〇年ごろから現在も日本に急増する「心療内科」の闇とマスコミタブーだった。

と記されている。
 野田氏は「新聞報道があえて逃げた二つの問題」として「通院患者の数」と「リワーク(職場復帰支援プログラム)」を取り上げている。

「通院患者の数」
 約六〇〇にんから八〇〇人の患者を診ていた、と各紙に報道されている。精神科の診療は通常週一回、二十~三十分ほどの精神療法を行うことになっている。だが、現実では月二回が多い。それを週五日(月二十日)、午前も午後も休まず診療していたとして、600人✕2回/20日=60、一日六十人の診療を行わなければならない。初診の患者には最短三十分~一時間かかる。たとえ一人一回十五分かけるとしても、60人✕15分=900分(15時間)。どんなに考えても、精神医学的診療を一瞬の休みもなく十五時間/日、続けることは不可能である。
 (略)
 診療室の扉を開け、椅子に座り、医師と挨拶するまでに約一分はかかる。医師は前回の診断記録を頭に入れ、新しい話を聴き、助言し、薬を処方するのに残り四分。多くの日本の精神科外来の現状では、「どうですか」「別に変わりありません」「そうですか」程度で終わっている。だが、これでも、再診料に加え精神科療法料三三〇〇円が取られている。患者は三割または一割(老人)の負担、担当医師に精神障害者の届けを書いてもらっていれば、さらに様々な負担軽減が付け加わる。
 これが精神科医療の実態なので、大阪の当該クリニックが六百人の患者を診ていたとしても、日本の常だ。異常ではないが、不思議である。ほかにも、異常ではないが不思議なことが精神科医療には常である。
 たとえば心療内科という診療科目は、精神科で受診するほどでない軽い心の悩みを診療する所と、日本では誤用されている。マスコミもその誤用を常識に定着させて来た。実は、心療内科とは、精神的ストレッサーによって起こる身体臓器の病気(たとえば胃潰瘍や心筋梗塞など)を治療する内科領域の専門科名である。医学部では心療内科の教室を持っている所はそれほど多くない。にもかかわらず、どこから心療内科の専門医が湧き出てきたのだろうか。しかも、心療内科領域の病気ではなく、うつ病などの精神疾患を治療していることになっている。
「西梅田こころとからだのクリニック」の院長は、医大卒業後、内科医として働いていたが、六年前に精神科医となったと報道されている。精神科医になるには通常、四~六年の臨床経験を必要とする。内科医が中年になってから精神科医に転科したのなら、よほどの研鑽を積まれたのであろう。 六百人もの患者を診療する心療内科、私には不思議に思えることばかりだが、日本社会では異常(常でない)ではない。精神科・心療内科にかかわる医師・看護師・臨床心理士・ソーシャルワーカー・薬剤師・保健所職員・厚生労働省・製薬企業。皆が、患者のために良いことをしていると信じているようだ。さらに、大新聞、NHK、医療出版社が上記の現実を肯定し、推奨して来た。ただ、病める人びとだけが振り回され、多くの人が投与された向精神薬の副作用に苦しんできた。医療の対象となる人びとの意見は聞かれず、患者を取り巻く職業人の善意のみが評価され続けている。(p38~39)

「リワーク(職場復帰支援プログラム)」
当該クリニックに通っていた患者の多くは「発達障害」と報道されている。このあいまいな伝聞に立って、「クリニックがなくなり、薬が入手できなくなると、発達障害の人はうつ病になる」といった精神科医のコメントが新聞に載っている。他方、本屋に行くと「発達障害」「大人の発達障害」関連の本が本棚を埋めている。「一五〇万部出版」「大人の発達障害は二人に一人」と宣伝する本まである。それならば精神科医の二人に一人も発達障害かもしれない。発達障害の医者が発達障害を診断しているわけか、と妙に納得したくなる。
だが、発達障害は脳の病理が発見された疾病ではなく、近年に単に概念として提出されただけのものだ。すべての医学的根拠がなく、泡のように饒舌で飾られているに過ぎない。幻の病気ゆえに、薬によって治るものではない。
このような曖昧な論説の上に、当該クリニックでは多くの患者がリワーク(rework
=やり直す)なるものを受けていたと報道されている。ところが、リワークとは何かを調べた解説はない。かつて、職場復帰支援プログラムとして提起されたものが、片仮名に替えて精神医学的商品化されたのである。
職場環境などのため出勤が辛くなり、精神科クリニックを受診。抗うつ剤や精神安定剤、入眠剤を飲まされ、長期間休職をする。(薬の副作用が酷くなければ)長く休み職場の負荷から離れたため落ち着いてくる。だが、そのまま元の職場へ戻ると、再び不安・不眠・抑うつ・食不振などの症状が出て通勤できなくなる人もいる。そこで、精神科的リハビリテーションとしてのりワークを勧められることになる。
日本の精神科で行われているリワークなるものは、個々の患者への行動療法のひとつである本来の認知行動療法とはまったく違う、自分の性格特性、完全癖や几帳面さなどを皆の前で話し合う「集団認知行動療法」なるものに偽装されている。ほかに自分の性格についてレポートを書かせたり、ロール・プレイをさせたり、Social Skill Renovationと称する空気を読み周囲に合わせる訓練を受ける。これらは、臨床心理学の様々な技法のごた混ぜであり、「自分探し」集約させて行く。
(略―二つの事例が紹介されている)
精神医学とは、個人の心理的問題と社会状況との関係を分析し、患者と共に、少しでも幸せに生きていく道を見つけいく学門である。そのためにも、現状の社会がどう変わっているのか、各職業、企業経営の変化、その中で働く人びとの精神状態について、十分な知識を持たねばならない。診療所で心理的ゲームを綺麗にデザインすることではない。
うつ病の五分間診療、多剤漫然投薬、発達障害の過剰診断、支援学級の急増などによって、それにもかかわらず、立ち直っていく人もいるだろう。だが、精神医学の治療法の歴史は魔術的思考の歴史であり、どれだけ多くの患者が苦しめられてきたか、今も苦しんでいるか、決して忘れてはいけない。
呪文でも、聖なる水の処方でも、良くなる人はいる。良くなった人の強調よりも、その医療の啓蒙宣伝によって苦しんでいる人がなんと多くいるか、出かけていって調べ、知らなければならない。
情報社会の精神科医は、患者が生活している、診察室の外の世界がどれだけ変化しているか、同僚精神科医たちとの利益のあげ方への関心以上に、学ばねばならない。(p41~42)

 この論考のあとに、浅野健一「野田正彰論考を朝日新聞「掲載見送り」の裏側 「心療内科」はマスコミタブー」が掲載されている。




2022年08月01日

「石川雅一氏の浅鉢」(尾久彰三(しんぞう)『民芸とMingei』晶文社。2014)残日録220719

著者は日本民藝館の元主任学芸員。私が追っかけをしている石川雅一(はじめ)さんの作品について書いている。(P138~141)

毎週のごとく、長浜と加古川を往復したせいもあって、夏バテなので、書き写すだけで、ブログ更新とする。今年度をもって、図書館の世界から退出をし、門前の小僧だった民芸の世界に入門をすることにした。兵庫民芸協会の会員となり、長らく購読を止めていた「民藝」も購読することにした。

「石川雅一氏の浅鉢――平茶碗としても使える、おおらかなしろのバリエーション」
 石川雅一氏から個展の案内が来た。彼とは三十数年来の交際で、気心もしれているので、遠方でない限り、出来るだけ見に行くことにしている。しかし、正直なところ、石川氏は馬力があるせいか、他の作家に較べると、その回数が多いように思う。だからというわけでは無いが、何故かタイミングが合わなくて、私はこのところご無沙汰していた。
 会期二日目の秋分の日、私は日本橋高島屋の芹沢銈介展の取材を兼ねて、編集氏とカメラマン三人で、石川氏の個展会場の、ギャラリー江(こう)へ行った。石川氏の個展と、そんな取材の日が重なったのは、二人にとってラッキーだった。というのは、私はここで、彼の作品と大塚茂夫氏の「白い家」を、同じ益子つながりと、付き合いの古さから、是非紹介しようと思って、両者に参考になる陶歴を記した書類を送るよう、頼んでいたのである。ところが大塚氏からはすぐ来たのに、石川氏はなしの礫だった。私は諦めることにした。そんなことから、会場に居た石川氏を見るなり、私はそのことを詰った。するとFAXで流したとのことだ。うちにFAXはないのである。完全な行き違いである。結局編集氏が、まだ間に合うというので、私は幸いギャラリーが持っていた、石川氏の陶歴書をもらって、彼の作品も何とかここに、紹介できるようになった。

 さて、いただいた石川雅一氏の陶歴を、乱暴な書き方で恐縮だが、そのまま記す。
 昭和三十二年 宇都宮に生まれる。
 昭和五十一年 栃木県立宇都宮高等学校卒業。
 同年 栃木県窯業指導所入所、伝習生となる。
 昭和五十二年 同所研究生となる、かたわら村田浩氏の仕事を手伝う。
 昭和五十四年 岐阜県久々利大萱の吉田善彦氏に師事。
 昭和五十八年 合田陶器研究所で仕事をする。
 昭和六十年 現在地に仕事場、登り窯を築き独立。
 国展・日本民藝館展に連続入選/日本民藝館展奨励賞受賞/栃木県立「先年の扉」に出品
 /益子焼選品会・優秀賞/益子町商工会賞受賞。
 である。
 石川氏は読んでわかるように、若い時から志した陶芸の勘所を、岐阜県大萱の荒川豊蔵の優秀な弟子だった、吉田善彦氏から学んだ後、故郷栃木の一大窯業地である益子に行き、そこで浜田庄司や島岡達三に畏敬されていた合田好道氏から、民芸を根幹にすえた美の神髄を教わり、二十八歳で益子町大沢字四本松の現在地に、仕事場と登り窯と住まいを築き、今日に至っている。
 私は昭和六十年に窯を築く折、石川氏が登り窯にするか、伝記や油やガスにするか迷っていた時、若いのだから中途半端な考えを持つな。登り窯で焼物の美の王道を歩め。と発破をかけたりしたのを思い出すが、今から思うと冷や汗ものの無責任な意見で、その後の石川氏の努力に、かえって私が救われたことを、ただただ感謝しているのである。
 石川氏は幸い父上の援助もあって、それから三十年間、エネルギッシュに制作に励んできた。古染めの麦藁茶筒碗に見る様な、線を引いた湯呑等から始まった作品造りも、すぐにラフワークとなる粉引の手法の皿や碗が中心になり、最近は今度の展覧会場で見た辰砂(しんしゃ)や鉄釉の仕事も加わる様になって、作品に奥行きと幅ができている。
 私は石川氏の無地刷毛の浅鉢の仕事が好きで、家庭料理に使った後、甘い物が欲しくなると、使い終わったそれを洗って、劈じゃ碗に見立てて菓子とともに抹茶を飲む。そして、繁々と眺め、真実の貧の茶に叶う、見事な咲きよ‼と感心しているのである。
 写真は今度の個展で、そんな私の話を聞いた編集氏とカメラマンが、同様の使い方をしたいと、買い求めた浅鉢二点と、石川氏が近頃目標にしている白は、「中国宋代の白磁に見られる白で……、例えばこれですね」と指差した小ぶりの浅鉢で、なるほどと思って私が求めたものである。
 帰りがけに感想をと、彼が言うので、「しばらく見ない間に、太ったのは驚いたけど、作品も皆、ゆったりと大きく立派になったのに感心したよ。まるで今を時めく、相撲の逸ノ城みたいだね。嬉しいす‼」と言って個展会場を後にした。

2022年07月18日

関曠野(せき・ひろの)ブログ「本に溺れたい」「ジャック・ボーによる、ウクライナ危機の深淵」より 残日録220704

ウクライナ東部についてのボー氏の見解を、関曠野氏が紹介している。今回のロシアの侵攻が始まった頃に、どこで知った情報なのか、ドンバス地方で選挙をしたら親欧米派が勝ったという情報があった、と記憶しているのだが、ゼレンスキーが指名したとのことで、誤報だったようだ。但し、ロシアの侵攻前は、東部地方ではロシアに帰属は少数派であるようだ。

この対立の根源を探ってみよう。それは8年間、ドンバスの「分離主義者」や「独立主義者」について語り続けてきた人たちから始まる。これは事実ではない。2014年5月にドネツクとルガンスクの二つの自称共和国が行った住民投票は、一部の不謹慎なジャーナリストが主張したような「独立」の住民投票ではなく、「自決」の住民投票だったのである。「親ロシア」という修飾語は、ロシアが紛争の当事者であることを示唆しているが、実際はそうではなく、「ロシア語話者」とした方がより誠実であっただろう。しかも、これらの国民投票は、プーチンの助言に反して行われたものである。

実際、これらの共和国はウクライナからの分離独立ではなく、ロシア語を公用語として使用することを保障する自治権の地位を求めていたのである。ヤヌコピッチ大統領打倒による新政府最初の立法行為は、ロシア語を公用語とする2012年のキバロス・コレスニチェンコ法の廃止(2014年2月23日)であったからだ。スイスでフランス語とイタリア語が公用語でなくなることをプーチニストが決定したのと同じようなものである。

この決定は、ロシア語圏の人々の間に嵐を巻き起こした。その結果、2014年2月から行われたロシア語圏(オデッサ、ドニエプロペトロフスク、ハリフ、ルカンスク、ドネツク)に対する激しい弾圧が行われ、事態は軍事化し、いくつかの虐殺(最も顕著だったのはオデッサマウリポリ)にもつながった。2014年夏の終わりには、ドネツクとルガンスクの自称共和国だけが残りました。

この段階で、ウクライナの参謀本部はあまりにも硬直的で、作戦術の教条主義的なアプローチに没頭し、勝利することなく敵を制圧してしまったのである。2014年から2016年にかけてのドンバスでの戦闘の経過を調べると、ウクライナ軍の参謀本部が同じ作戦方式を体系的かつ機械的に適応していることがわかる。しかし、自治政府の戦争は、サルヘ地域で観察されたものと非常によく似ていた。つまり、軽い手段で行われる高度な機動作戦であった。より柔軟で教条的でないアプローチで、反政府勢力はウクライナ軍の惰性を利用し、繰り返し「罠」にかけることができたのです。

2014年、私はNATOにいたとき、小型武器の拡散に対する戦いを担当しており、モスクワが関与しているかどうか、反政府軍勢力へのロシアの武器搬入を探知しようとしていた。当時、私たちが得た情報はほぼポーランドの情報機関から得たもので、OSCEから得た情報とは「一致」しなかった。かなり粗雑な主張ではあったが、ロシアから武器や軍事機器がとどけられたことはなかった。

ロシア語を話すウクライナ人部隊が反乱軍側に亡命したおかげで、反乱軍は武装することが出来た。ウクライナの失敗が続くと、戦車、大砲、対空砲の大隊が自治政府の戦列を膨らませた。これが、ウクライナ側をミンスク合意にコミットするように仕向けたのである。

しかし、ミンスク1協定に署名した直後、ウクライナのペトロ・ボロシェンコ大統領はドンバスに対して大規模な反テロ作戦(ATO)を開始しました。Bis repetita placent:NATOの将校の助言が不十分で、ウクライナ人はデバルツェボで大敗し、ミンスク2協定に従わざるを得なくなった。

ここで思い出していただきたいのは、ミンスク1(2014年9月)とミンスク2(2015年2月)合意は、共和国の分離・独立を定めたものではなく、ウクライナの枠組みの中での自治を定めたものであるということです。合意書を読んだことのある人(実際に読んだ人はごくごく少数ですが)なら、共和国の地位はウクライナの内部解決のために、キエフと共和国の代表との間で交渉することになっていることがすべての文字に書かれていることに気づくでしょう。

以下は「本に溺れたい」を御覧ください。
6月は、田舎の書庫代わりの物置の整理で、疲労困憊、それと北山修の自伝や対談集を読むのがやっとの月でした。
秋までは整理と読書の日々が続きます

2022年07月04日

『灯し続けることば』大村はま(小学館.2004)残日録220530

1906(明治39)年―2005(平成17)年。国語教師、国語教育研究家。


「カンカンで、誰の手が止まりましたか」

 私が尊敬する芦田恵之助先生が小学校の訓導をなさっていた頃ですから、だいぶ昔のお話です。
 参観者のいる授業で、子どもに作文を書かせていたそうです。そのころ、鉛筆削りというのはありませんでしたから、教室の一角に鉛筆を削る箱があり、ナイフが備えてありました。作文を書いている子どもたちが、一人二人と鉛筆を削りに立ってきます。静かに立って鉛筆を削ります。ところがその箱の横に花瓶があったので、子どもは削り終わると、その花瓶をはじいていくのだそうです。カンカンと。どの子もどの子も。
 授業が終わると、参観者が先生のところへさっと寄ってきて、「先生、どの子もみんなカンカンといたずらをしていきましたのに、どうしてひとこともご注意なさらなかったのですか」と尋ねました。
 芦田先生は、「あのカンカンで、誰かの書いている手が止まりましたか」と静かに答えられたそうです。
「いいえ」と参観者が言うと、「それでいいではありませんか。私が注意でもしたら、みんなの手が止まってしまいます」。
 常識的で一般的な正しさ、こういうときはこうするのだという固定した見方にとらわれないようにしなければならない。本当に注意する必要のあるときは案外少ないものだ……。

 私は教師として、日々このお話を思い出していました。(P16~18)


教師の世界だけで通用する
言い訳があるようです

いい社会人の大人が、「一生懸命やったんですが、できませんでした(売れませんでした)」なんて行ったとして、それがなにかの言い訳になるでしょうか。「ばかなことを言うな」と叱られるだけではないでしょうか。どんなに一生懸命やろうと、結果が悪い責任はその人個人が引き受けなくてはいけないのですから。
 しかし、教師の世界だけで通用する言い訳があるようです。保護者を呼んで、「一生懸命指導しているんですが、お宅のお子さんはどうも成績が上がりませんね。もう少しおうちで勉強させてください」と行ったりしても平気なようです。保護者のほうも大変恐縮して、家に帰って子どもをしかったり、塾にいかせたりするでしょう。子ども自身も、「自分の勉強が足りないのだ」と思うようになっています。
一般社会と違って、相手を責めても向こうは怒らないという習慣になっているのです。教師というのは、そういう意味で、とてもこわい仕事です。勉強のことは、どこまでも自分の責任と思って指導を工夫するのが、専門職としての教師ではないでしょうか。
放課後、教室の窓が開けっ放しだったようなとき、警備員さんから「先生のクラスの窓が開けっぱなしでしたよ」と注意されて、「占めるように注意しているんですけれど」などと言うのも恥ずかしいことです。
開いていたという責任は逃れられません。注意したけれど、それが実行されなかったということは、自分の言い方が悪かったか、徹底していなかったからだと反省すべきことです。(P36~38)


しかられ上手であることが必要です

 勉強の途上にある子どもたちは、それに研修を続けていくべき教師たちは、「しかられ上手」であることが、必要なようです。悪い点、至らない点を、目上の方や指導者からズバズバ言っていただきやすい人であるというのは、成長発展のためにとても大切なことだと思うからです。
 人は誰でも他の人から悪く思われたくありません。「どうぞご批評を」と言われても、批評する側も、思い切り話せる相手と遠慮してしまう相手があるものです。ですから、お教えをいただく場合、厳しいおことば、本当のおことばがいただけるようなそういう人になっていなくてはならないと思うのです。そのことばを栄養として、自分を育てていかなければならないからです。
 なにかの作品を見ていただいて批評していただくようなとき、次のようなことを口にすると、本当のおことばがいただきにくくなります。
「わたしは一生懸命やりましたので」
 そう言わなくても、一生懸命やったことは作品を見ればわかります。なのに、発表者がまずそう言ってしまうと、悪いところが言いにくくなるものです。
 それから、「私なりに工夫して」という言い方もあります。そうですか、あなたなりにやったら、なにも批評する余地はありませんね、という気持ちになります。他の立場から見てどうかをうかがいたいのだから「私なりに」を言ってしまってはおしまいです。
「時間がなかったから、こうなんで」と、作品をかばうこともおかしいです。時間があれば、もっとよくできたというのでしょうか。時間があってもなくても関係ないのです。今個々にある作品について、批評をいただかなくてはならないのです。作品のつたなさを外側の事情によるものだと弁解されては、じゃ時間があったらすべてできつ方なんだな、批評しなくてもいいなという気持ちにならないでしょうか。
 このように自分で自分をかばうようなことばが過ぎると、批評のことばを封じてしまいます。自分を育てることばをいただけないようになります。
 それは、ことば」遣い、言い方の問題だけではないと思います。その根本となるのは謙虚な心、自分に対して厳しい心です。それが「しかられ上手」に繋がります。(P128~131)



2022年05月30日

大友柳太朗の自死(『大友柳太朗快伝』大友柳太朗の会編著.ワイズ出版.1998)残日録220522

長谷川安彦(監督)
 僕残念なのは何であの人が自殺したか。とっても神経質だった。何かにつけてアレコレと神経遣う人だった。剣会の連中は夜、大映通りの飲み屋で「あの人にシバかれた。シバかれた」ってサカナにしてるけど、大友さんを憎んでいる人はいなかった。京都は東京より古いかもしれないけれど、情があるんですよ。僕らは経歴を尊敬しますよ。市川百々之助さんなんかも、僕は助監督で、冗談で「市川さんあかんあかん。右も左もわからんようになったのかな」なんて言うけど。僕等冗談言いながらも、一定の距離をおいて、尊敬っていうよりも尊重してました。だれかが言ってたけど、活動屋の精神ていうのはフランス行ってもハリウッド行っても全部通じると、通じるものを持ってると。映画を愛するという意味においてそれに長年携わてってきた人たちというものを一応尊重する。大友さんが東京に行ったとき若いスタッフが仕出し扱いをしたっていう話聞いたんですよ。僕は文句言ったことがある。何ていうことをすんのやと。大友さんがNG五回出しても六回出しても、「そら始まった。Zまで行くか」とか賭けしたりしてね。「どこで止まるか」とか。昔エンタツさんがZまで出したことがあったんです。そんな話が若い連中でも京都では伝わってんのね、それもギャグとして。そう言いながら雰囲気悪くないんですとね。照明決まったら動かさないでしょ。だから冗談半分に「腹へったから今の間にメシ食いに行っていいよ」とかね。認めているわけじゃないけど、聞いたらますます役者がアガってしまうことってあるでしょ。そういうものは言わないわけよね。聞いたら東京ではそういう伝統みたいなの全然知らないでね、大友さんがどれ程の人か全然知らないでね。
(略)
 そういう中で僕はそれは、古い形とはいいながら大事にする必要があると思ってただけに、大友さんが東京で、若い裏方が、「じゃまや、おっさん何してるのや」とか「フィルム代でおっさんのギャラのうなるで」とかね。関西弁で言えばそれに近い話を投げかけていたとか。何ちゅうこと言うのやと僕は体が熱くなるほど怒ったことがあった。大友さんは利口な人だから、自分をいじめる状態に持っていくしね。「北の国から」の大友さん見たら、それを痛切に感じましたね。役柄は典型的に時代からズレた爺さんですよね。それを自分にかせをかけていくみたいに、仕事の条件の中に自分を追い込んでいってる感じしてね。傷ましかったけどね。よっぽど深く理解してる人じゃないと大友さんが自殺したのがわからないでしょう。一般に個々は弱いくせに、他人事となると「何も死なんでもいいじゃないか」と。マスコミなんてちょっと弱い奴と思ったらカサにかかっていく。「死ぬ気だったら何でも出来るだろう」と。そんな風な概念でしか他人のことは言わないんですよね。なおさら真相はわからん。俗の中でも更に俗っぽいところのある映画界でしょ。そういう連中から見たら、うかがい知ることの出来ない人間性があの人の中にあるような気がするんだ。だから最後までなじめずにいた部分があると思う。合わない部分を無理矢理合わす幇間じゃないけれど、醜くなる。そこまでは大友さんはようしないんだ。(P180~184)

藤原勝(元付人)
―――大友さんがああいう亡くなり方してどのように思われましたか。
 神経質やからね。そういうとこはありました。もっとおおらかにいきゃいいんですけどね。もう台本読んでも何してもものすごい神経質にやるから。自分で全部しょいこまなくていいのにね。仕事におわれたでしょ、趣味ってないから。もっとおおらかに考えたらいいのに、そういう性格じゃなかったです。夜帰ってから台本の裏にメモするんです。セット入っている間に出ていくんですよ、企画部へ。帰って来ないんです。小便でも行ったかなって、おかしいなって思っていると、「おーい、出やで」って言われるんです。捜してもいいへんのです。企画部で話してる。メモが気になるんですよ、話をせんと。それがすまんと仕事が出来へん。そういうオヤジでしたが、僕から見たら雲の上の人で今でも尊敬しています(P214~215)

松島トモ子(俳優)
 お亡くなりになる何日か前に、大友さんが歩いているのをお見かけしたんですよ。映画館のところに私がいて、その前の通りを通られたのかな。ビルの廊下を大友さんがお歩きになっていて、普段だったらお声を掛けるんですけど、その時はとてもお声を掛けられない雰囲気なんです。悄然としえちられて、興は声を掛けちゃいけないんだって感じで。いろいろセリフ覚えるのが辛くなっていると、そういう話はもれ聞いていました。前から台詞覚えは速いほうじゃなかったですけど。映画の時代だったら大スターさんならスタンバイができるまでみんな待ちますよね。でも、だんだん世の中が礼儀正しくなくなっているから、待つということをなかなかしなくなっているから、難しいのかなって思っていました。

―――若いタレントさんが大友さんの台詞覚えのよくないのを名脇だと言ったのを聞いてしまったという話も伝わっています。

 昔は人が温かだったけど、こういう方っていうのは行きにくい世の中になったんでしょうか。嵐寛寿郎さんのように自分が老いたことを笑っちゃえる人なら……あの方、自分のこと笑っていました。面白がっちゃうっていうか、でも大友さんは面白がれなかったんじゃないかな。あんなに真面目な方ですから。私生活を存じあげないけれど、昔、映画の中で大スターであった人が現代に生きていくというのは、相当強くならないと生きていかれないというか、どっかで自分を笑っちゃわないと、引きつっちゃうんですよ。ほんとに映画が好きな方で大友さんを大好きだっていう人はたくさんいらしたと思うんですけど、そうじゃない非情な人っていうのがきっと周りにはいるわけですね。

―――今作っている人たちがかつて作られたものを観ていないんです。見ていれば、最低限敬意を払う。

そういうのはどうでもいいんじゃないかと私は思うんです。やっぱり今の新しいことの方が面白いから。いくら過去がすごくったって現在しかないのが芸能界で、昔スターだからって敬意払ってもらうことはない。自分がそこでどう生きるかってことしかないんじゃないですか。いつその人がスターでなくなったかわかるのは周りの方がはやくて、自分が一番分かるのが遅いんです。だから自分ではやいこと笑っちゃわないと芸能界では生きていけない。(P219~221)

若松節朗(監督)
 当時は「笑っていいとも」に出始めた頃で、青山とか原宿で、女子高校生が大友先生見ると、「あっ、柳ちゃんだ、柳ちゃんだ」って言うんですよ。そうすると大友先生は「どうもありがとう」って言ってましたよ。そのときの大友柳太朗さんはタモリにギャグで使われた。大友さんの答えがトンチンカンで、そのギャップの面白さだった。マジメが面白いってことでそのハズレ方が最高だったですね。大友さんは頭のいい人ですから、あえてそれわかってやるんですね。そのころの大友さんはそんなに働いていいのってぐらい忙しかったですよ。それが死に直結することになってくるんでしょう。忙しすぎて、自分の肉体とやる気との歯車が狂い始めたことが精神的にまいっていったんでしょうね。まじめな人だし、プライド高い人だから。来たいにこたえたい。仕事は楽しい。お金も入ってくる。往年のスターの復活みたいな。でも70歳すぎた肉体には非情にそれはきついことだったんでしょう。(P232)

黒井和男(監督)
 オレはいろんな役者といろんな付合いやってる。役者ってマジメもいいけどもっといい加減ですよ。だってウソツキな仕事なんだから。他人を演じるなんてこんなバカなことをそんなくそマジメに考えたって出来るわけがない。現実にどうやって近づけようとする情況で、虚実被膜の間で行ったり来たりする仕事になるわけですよ。そんなものマトモに考えてマトモな人がやる仕事じゃない。あの人マトモだもの。

―――本ら、他人を演じるなんて出来ないはずなのに。

 そんなのマジメに考えたら出来るわけがない。今一流のやつはみんないい加減ですよ。いい加減だから一流なのよ。あれマトモにやってたらみんなノイローゼになっちゃいます。大友柳太朗ってエピソードないんだよ。酒飲んでひっくり返ってどっか行っちゃったとかさ。女みんないてこましたとか、そういうエプソードなんにもない。マジメだから。

―――逆にそういうところが面白いんですけど。

 ズレてるから。世の中にズレてる。こんなの普通じゃ考えられないマジメさでしょ。セリフなんてそんなに覚えなくったっていいのに。いちいちオレにセリフ覚えさせるなって言った奴だっているんだから。(P286~287)

 大友柳太朗(1912~1985)享年73歳
 
藤田道郎(プロヂューサー)の談話が面白い。

昭和54年の「親切」って懸賞ドラマで老人問題扱ってるんです。ディレクターの山内暁さんが、おじいちゃん役に大友柳太朗さん使ってくれって来たんです。「大友柳太朗さんって、あの大友柳太朗さん?」みたいなことがあって、ぼくの第一印象は怖い、大丈夫かなっていうのがあったんですが、山内さんはご縁があって、その前に高橋英樹の「鞍馬天狗」で四番目ぐらいの演出家が山内さんで、大友さんは鞍馬天狗に切られる悪役です。だけどよくその説明がしてなかったらしい。スタジオ収録の日になった。大友さんは真面目な方で個室でじーっと「悪役で切られて死ぬ。東映で『怪傑黒頭巾』『丹下左膳』ずーっとやってまいりましたが、悪役で切られて死ぬというのは今までにない。いかにもこれは不名誉である。私の中で許せないものがある。ふんぎりがつかん」と。それで山内さん件名に説明するけど、だめなんです。やっぱり鞍馬天狗に斬られて虚空をつかんで死ぬというのは納得いかんと。ああでもないこうでもない。スタジオの収録みんな待ってるんです。すっと待って待って、結論としてどうなったかというと、結局、切腹をするという形になった。すごい役二なっちゃった。プロヂューサーの舘野さんが、その日はいなくて翌日に原作者の大佛次郎さんに何て説明したらいいんだって、あわててとんでった。どうしたんだか知りませんけど、とにかく作っちゃった。ところが大モメにモメたときの山内さんの対応がいかにも誠実だと。大友さんそういう所ある。感動しちゃってね。それから山内さん山内さんて、何かっていうと電話かけてくる。どっかロケに行っちゃ、海苔の佃煮とか、こまめに送ってくる。山内さんとしても大友柳太朗で頭いっぱいになって。とうじは、懸賞ドラマの演出は比較的ヒマなディレクターにまわってくる。久し振りに仕事がまわってきて、義理も重なって大友さん以外にないっていう、そっから入った。どうもイメージから入っていない。動機は不順なんですよ。ところがドラマは一種の快作ですよ。大友さんが、まるで「らくだ」(落語の噺のタイトル。視認をかついで踊らせる話)のオヤジみたいに風呂の中でひきつって、幽霊のかっこうして、風呂から出てきちゃったりとか、奇妙キテレツな人物になってるんです。

―――おもしろそうですね、ビデオ残ってないんですか。

NHKとしてもあわてて消したというか、いやあるはずですよ。御覧になったら面白いと思います。無学なマネージャーが来て、来週試写「親切」って書いてあるのを見て、「迫力あるなあNHKは。オヤギリ(親切)か」って。小林猛ってチーフ・プロヂューサーが「なる程、そういう読み方もあるのか」。変なやつばかりの班だった。大友さんが急に風呂から上がってタッタッタと、そんなことホントは書いていない。なんか山内って変な演出なの、マンガ的な。しかし「親切」は名作です。何しろ芸術祭賞を受賞したのですから。

―――大友さんの役は痴呆老人ですか。

冨川元文さんのホン(脚本)を読んだ感じでは、素朴な老人問題なんです。痴呆まで行ってない。それに行く手前なんだな、ちょっと。

―――大友さんが演技を勉強するために、痴呆老人の振りをして街をフラついたのはその時の話ですね。

なんかちょっとそれに近かったですね。奇妙なドラマって感じしました。そういうふうにのめり込むタイプの人なんだよ、大友さんて。大友さんに対しては、怪演と言われていた。(P237~239)


 遺作は伊丹十三の映画「たんぽぽ」で、ラーメンの先生として登場する。伊丹はドキュメンタリー映画『伊丹十三のタンポポ撮影日記』(1985年)の中で、「大友さんは台詞を忘れるのではないかトチるのではないかという不安が非常に強い俳優だったのではないかと思う」というナレーションとともに、大友が撮影を待つ間もたえず何度も台詞を繰り返している場面を映し、「まるで彼の心の中に叱る人が住み続けていて、常に彼を脅迫し続けているかの如くだった」と述べている。とウィキペにあり。

2022年05月22日

『演劇太平記』全6巻.北条秀司(毎日新聞社.1985~1991)残日録220514

 全6巻読了。第3巻に「その一二七 世にも不思議な喜劇団」として松竹新喜劇体験が披露されている。

 昭和三十四年十一月、大阪道頓堀中座における劇団新喜劇の公演である。その楽屋風景見学記を、後世のため書きとめて置こう。
 喜劇界の風雲児渋谷天外はなやかなりし頃、わたしははじめてその一座に脚本を描き下ろした。天外さんとの良縁(?)は別に書くことにして、その作品「手術」はわたしが曽って命がけで体験した盲腸炎手術(その35参照)を扱ったものだッタ。天外の老院長に藤山寛美の若院長で、演出は、松竹の奥役から
「マジメに取り組んだら、血圧が上がりますよってに」と止められて、劇作家館直志こと天外座長に一任した。
 でも、折角招かれたのだから、初日の前の日の舞台稽古から立ち会ってやろうと、儀礼とは知らず、出かけて行った。長い時間ホテルで待たされて、やっと迎えが来たのが夜の九時過ぎだ。わたしの芝居らしき舞台装置が骨格だけ出来ていて、その前に登場人物が集まっている。脚本は早く渡してあったから、皆プリント台本は手にしているが、誰も衣装はつけていない。楽屋衣のままだ。
 天外座長が出て来て、立ったままの読み合わせが始まったが、なんとそれが第一回の稽古だと聞いてビックリした。天外だけが舞台の椅子に座り、一場一場人物の出入りを決めてゆく。それがいうところの舞台稽古なのだ。あまりの蕪雑さにグッと来たが、奥役の言葉を思い返してグッとこらえた。
 夜中過ぎに「舞台稽古」が終わった。
「まあ、こんなt古伝な。明日の本番でシッカリ固めます。さあ、前祝いにいっぱいやりに行きまひょ」
「だって、まだこれからセリフ覚えを……」
「大丈夫出す。セリフ覚えどころか、もう一本の新作をこれから書きますのや。まあ一つ、疲れを休めた上で……」
 度肝を抜かれたわたしを引っぱって、有無を言わさず、法善寺横町の夜明かし料亭へ拉致した。
 (略)
 東が白みかかった頃、やっと散会ということになった。
「ああ、これから帰って劇作業や。ほなら、おやすみやす」と。館先生は足元もシッカラと人力車に乗った。
「あと六時間したら、ゼニ取ってお客に見せるんや。ヌスットみたいな商売やな。はは」と、五郎八ッあんも自動車のりばに向った。
 来た以上は完全見学をしてやろうと、翌る朝、開演前に中座へ行くと、もう座長の部屋で稽古が始まっていた。この風景がなかなかおもしろい。御大が鏡台の前にデーンと趺座をかき、両脇に明蝶、五郎八、石河薫、酒井光子らの大幹部が座り、あとは土間に跼んでいる。一番前に寛美が上がり框に手をかけ、石浜、千葉らの中堅がおなじポーズで詰めている。だからあとの連中は突っ立ったまま暖簾の外の廊下にハミ出して、耳を澄ましている。
 原稿はまだ未完成らしい。あれからじゃ出来上がるわけもないだろう。天外は眼をつぶって、頭の中のセリフを口にしているが、持ち前の聞き取りにくい早口だから、小机を前にした黒川君も写し取れない表情だ。でも役者達は手慣れた顔で、頭の中へメモしている。
 廊下で星君が叫んでいる。
「部隊ができたさかい、セリフを貰ろた人は動きだけ決めに来てください」
 口立てが終わったので、皆ゾロゾロと舞台の袖から場面を見に出てゆく。それで稽古終了だ。各自部屋に引き取り、指定された扮装を大急ぎでつけていると、む二挺ベルが鳴りはじめた。でも、べつに周章狼狽のさまも見られない。
 世にも不思議な芝居作りに呆れ果てて客席に廻ると、善男善女の観客がギッシリと充満し、まもなく幕が開いた。
 さぞかしガタガタの芝居を見せるだろうと思っていると、あんがい筋がわかってお客はよろこんでいる。役者達は口立てでもらったセリフを、自分で粉飾してお客をわらわせている。とくに若い寛美が一ト言一ト言お客を爆笑させるのを、松竹会社の連中がアハハハとたのしんでいる。あとで聞いたが、このアドリブの巧拙によって、役者の給金が上がってゆくのだそうである。思いがけない見学だった。
 結局わたしの「手術」がいちばんお客に受けなかった。作者が来ていることを意識して、高度な演技を見せようとしたのが原因らしい。それにしてもひどかった。わたしの憤懣を盗み視た天外が「すンまへん。来年の正月には、南座でシッカリやり直しまっさかい。今回は大目に見とくなはれ」と、先に大小を投げ出した。この口約束が禍になった話は、次の章で書く。(P170~174)

 松竹新喜劇は寛美の死後、低空飛行を続けることになる。
 寛美の「お客様お好みリクエスト」は「お客が選んだ昼の部、夜の部、各三本の演目のうち、最後の一本以外は当たり前だが演目は決まっている。最後の演目は、その日の観客のリクエストで決定される。松竹新喜劇が得意とする演目を20本書いたパネルが舞台の上から降りて来て、観客に、「今日はどの芝居が観たいか」を聞き、拍手の大きさで決めるのだ。
そこで演目が決まると、大道具を組み立てるところから始まり、そのままリクエストされた演目が始まる。いくら手慣れた演目でも、決定後打ち合わせや稽古もなく、わずかな幕間を取るだけでその間に衣装や鬘を変え、舞台を始めるというのは、他にお目にかかったことはない。これは、藤山寛美一人だけでのことではなく、劇団員全員が非常な緊張を強いられるものであると同時に、よほどの結束力がなければできないことだっただろう。観客席の片隅でこの公演を観ていたが、あまりの段取りの良さにただただ驚いていた記憶がある。演劇史的には、関西の「にわか」と呼ばれる即興劇の流れを汲むものだが、アドリブではなく台本が用意されている芝居だ。それを、大劇場の二か月に及ぶ公演で行う、というのは他に例を知らない。」中村義裕氏のHP「演劇批評」のコラムに紹介されている。ここでは20本の演目となっているが、30本の時もあった。

 朝ドラ「おちょやん」は浪花千栄子がモデルだが、新喜劇の酒井光子が浪花が亡くなった時の談話で、「あの人は何も残さんとみんな向こうにもって行きはった」という意味の言葉を残している。

2022年05月14日

「南方古俗と西郷の乱」司馬遼太郎.(『古往今来』中央公論社.1979) 残日録220505

「夜這い」について触れている。

 若衆組に入ると、家で夕食を食ったあとは、一定の若衆組へゆく、そこで談論したり、肝だめしをしたり、漁村なら海難救助の方法をおそわったり、山村なら山火事の消し方を習ったり、ときには夜這いの方法をならったり、あるいは連れて行ってもらったりする。
「娘をもっている親で、若衆が夜這いに来ないようなことなら、親のほうがそのことを苦にした」ということを高知の西の端の中村で、土地の教育関係の人からきいた。熊野の山村で、「複数の若者が行っていて、もし娘さんが妊娠したりするとどうなるのですか」と聞いてみたことがある。古老がおだやかな表情で、「そういうときは娘に指名権があるのです」といった。古老によれば、たれのたねであるかは問題ない、たれもが村の若衆である、たねがたれのものであっても似たようなものだ、という思想が基底にある。娘は、自分の好きな感じの、あるいは将来を安定させてくれそうな若者を、恣意に指名すればよい。(P82)

 赤松啓介の本に「夜這い」が出てくるのを思い出した。西播磨出身の柳田國男「常民」に反発し、「非常民」の民俗学を打ち立てた東播磨出身の民俗学者である。

『夜這いの民俗学』赤松啓介(明石書店.1994)
 夜這いにもいろいろの方法や型があり、ムラ、ムラで違う。田舎では自分のムラのことしか知らず、他のムラでも、自分のムラと同じことをやっていると思っているものが多い。しかし隣のムラでは、もう違うことが多い。それはムラの戸数、人口、男女の人口さでも違う。男女の差も現在人口と出稼ぎその他の不在人口の差で違う。
 大きく分類すると、ムラの女なら、みんな夜這いしてよいのと、夜這いするのは未婚の女に限るところがある。つまり娘はもとより、嫁、嬶、婆さんまで、夜這いできるのと、独身の娘、後家、女中、子守でないと、できないムラとがある。また自分のムラの男だけでなく、他の村の男でも自由に夜這いにきてよいムラと、自分のムラの男に限り、他村の男は拒否したムラとがある。他に盆とか、祭の日だけ他のムラの男にも解放するムラもあり、だいたいこの三つの型がある。
 若衆仲間と娘仲間との相談で、一年間をクジその他で組合せるムラがあり、また盆、祭りなどに組合せるムラもある。こうしたムラではクジで決めると絶対に変更しないムラと、一か月とか、三か月すんで変えられるムラもある。そのときに酒一升とか、二升つけるムラもある。また若衆と娘が相談して順廻りするムラもある。これであると娘に通う男は一夜、一夜で変わるわけだ。病気や他出で行けないと、次の男が行き、行けるようになれば、次の番から入る。ムラの女なら娘はもとより婆、嬶、嫁でも夜這いしてよいというムラでは、嫁、嬶など旦那のある者は、旦那の留守に限るというムラが多く、その日の夜から夜這いに行ってよいムラ、三日留守、5日留守したら行ってよいムラトがある。(P92~93)

 結婚と夜這いは別のもので、僕は結婚は労働力の問題と関わり、夜這いは、宗教や信仰に頼りながら苛酷な農作業を続けねばならないムラの構造的機能、そういうものがなければ共同体としてのムラが存立していけなくなるような機能だと、一応考えるが、当時、いまのような避妊具があったわけでなく、自然と子供が生まれることになる。子供ができたとしても、だれのタネのものかわからず、結婚していても同棲の男との間に出来たものかどうか怪しかったが、生まれてきた子どもはいつの間にかムラのどこかで、生んだ娘の家やタネ主がどうかわからぬ男のところで、育てられていた。大正初には、東播磨あたりのムラでも、ヒザに子どもを乗せたオヤジが、この子の顔、俺にチットモ似とらんだろうと笑わせるものもいた。夜這いが自由なムラでは当たり前のことで、だからといって深刻に考えたりするバカはいない。(P32)

 私が子供の頃、1960年代前半には、まだ夜這いは残っていたように記憶している。その当時の秋祭りで天狗の仮面を被って神輿とともに練り歩くのだが、日が暮れるとその天狗が娘を襲うことが毎年あって、誰だかわからないので天狗の衣装に背番号をつけることになった。襲うことが非難された印象はなかったので、慣習であったのだろう。赤松啓介の指摘しているように、近代化によってムラが解体され、修身や純血の教育やキリスト教の影響があって、消えていったのだろう。

2022年05月05日

「助六曲輪初花桜」(特選DVDコレクション.松竹) 残日録220501

1998(平成10)年2月、15代片岡仁左衛門の歌舞伎座での襲名披露公演で収録されたもの。

仁左衛門はこの年の1・2月を歌舞伎座で、
1月昼 菅原伝授手習鑑・寺子屋の松王丸 源蔵=吉右衛門・千代=芝翫(7代目)・戸浪=菊五郎
1月夜 廓文章・吉田屋の伊左衛門 夕霧=雀右衛門(4代目)
2月昼 一谷嫩(ふたば)軍記・熊谷陣屋の直実 相模=雀右衛門(4代目)・弥陀六=羽左衛門・義経=團十郎・藤の方=玉三郎
2月夜 助六曲輪初花櫻・三浦屋格子先 後述

4月松竹座
4月昼 菅原伝授手習鑑・寺子屋の松王丸 源蔵=團十郎・千代=雀右衛門(4代目) ・戸浪=菊五郎
4月夜 恋飛脚大和往来・封印切の忠兵衛 梅川=秀太郎・八右衛門=我當・治右衛門=富十郎・おえん=鴈治郎(3代目)

5月昼 伊勢音頭恋寝(こいのねばた)の貢 喜助=富十郎・万野=芝翫・お紺=鴈治郎・お鹿=勘九郎(5代目)・万次郎=梅玉・お岸=秀太郎
5月夜 助六曲輪初花櫻・三浦屋格子先の助六 揚巻=玉三郎・意休=我當

10月御園座 
10月昼 廓文章・吉田屋の伊左衛門 夕霧=玉三郎
10月夜 助六曲輪初花櫻・三浦屋格子先の助六 揚巻=玉三郎・意休=左團次

12月南座
12月昼 廓文章・吉田屋の伊左衛門 夕霧=鴈治郎(3代目)
12月夜 一谷嫩(ふたば)軍記・熊谷陣屋の直実 相模=雀右衛門(4代目)・弥陀六=富十郎・義経=團十郎・藤の方=秀太郎
1999(平成11)年 公文協巡業東西コース
7・9月昼 廓文章・吉田屋の伊左衛門 夕霧=時蔵
7・9月夜 双蝶々曲輪日記の与兵衛 長五郎=左團次

2000(平成12年)2月博多座
2月昼 菅原伝授手習鑑・寺子屋の松王丸 源蔵=富十郎・千代=芝翫(7代目) ・戸浪=秀太郎
2月夜 恋飛脚大和往来・封印切の忠兵衛 梅川=秀太郎・八右衛門=我當・治右衛門=富十郎・おえん=宗十郎

というところで、今回観たDVDの「助六」の配役が懐かしい。
花川戸助六 片桐仁左衛門
三浦家揚巻 坂東玉三郎
三浦家白玉 中村時蔵
通人 里暁 澤村藤十郎
福山かつぎ 坂東八十助
三浦家 傾城 中村翫雀・中村信二郎・片岡孝太郎・片岡愛之助・中村扇雀
くわんぺら門兵衛 片岡我當
白酒売新兵衛 尾上菊五郎
髭の意休 中村富十郎
母 満江 中村鴈治郎(3代目)

八十助、富十郎、鴈治郎=藤十郎が物故者に、我當と澤村藤十郎が病気休演。

澤村藤十郎の通人、これは役者が工夫して笑いを取る役どころ、品が良くて出過ぎないでなかなかいい。藤十郎の舞台を見ていないことを思い出した。めっきり演劇から縁遠くなっている。
このところ、松竹は「孝玉コンビ」再来のごとく、仁左衛門と玉三郎の共演を連発しているが、「助六」はもう出ないだろうと思うと、このDVDは貴重だ。
歌右衛門は昭和60(1985)年12月の南座での団十郎襲名披露の揚巻が最後のようだ。68歳の時。玉三郎72歳
渡辺保氏のブログに、昨年十一月の歌舞伎座での仁左衛門の「連獅子」評で「後半元気に毛を振り続けるのはいいが、体を大事にして欲しい。今や歌舞伎界になくてはならぬ大看板だからである」とあったが、仁左衛門はこの3月に「体調不調」で数日休演した。仁左衛門77歳。

2022年05月02日

ブログ「江草乗の言いたい放題」から「維新」の件 残日録220426

南河内の罵倒王、江草乗です。暴言コラム書いています。投資家です。スポーツカーが好きです。きれいな女性も好きです。コラム「江草乗の言いたい放題」は2003年から書き続けています。クルマであちこち出かけることと、京都の和菓子が好きです。映画もよく見に行きます。

と自己紹介されている。維新批判の多い人だ。私も同類なので、政治嫌いの同居人から呆れられている。
2022年04月13日の江草ブログ「維新利権は不動産利権である」の大阪公立大学や市立高校の府への無償譲渡などは、私もそう思っていた。

 昔の政治家の錬金術と言えば土地ころがしが主流だった。開発予定地を先行取得しておいて、公共事業用地として値上がりしたら売り飛ばすということである。購入資金は公金が使われるわけで、言ってみれば政治家による税金のピンはねである。滋賀県の国松知事が嘉田由紀子に敗れたのは、新幹線の栗東駅を作らせて周辺の開発に関わる土地ころがしで一儲けしようとたくらんだのが県民に却下されたからである。
 大阪もそうした利権の巣窟である。市大府大の大学統合は、当初は「市と府の二重行政解消」という名目だったが、入学式で松井一郎は「少子化による生徒減対策」と語り、二重行政(もともとそんなものは存在しないのだが)の話は一言もなかった。しかし、生徒減対策というのも真っ赤なウソで、一番の目的は不動産利権である。
 大阪公立大の新校舎建設費は1000億円と言われる。その中のどれだけが維新政治家の取り分なんだろうか。たぶん1割の100億円くらいは抜かれるのだろう。維新利権の中核部分がこの「不動産利権」である。大阪市営地下鉄を民営化したとき、さりげなく事業内容にそれまでは存在しなかった不動産開発が付け加えられた。すでに大阪メトロは民泊用に購入したホテルを安値で売却することで大きな損失を出してるが、その損失は実は誰かの利益になってるのである。大阪メトロにその物件を高値で売りつけたのはいったい誰なのか。
 大阪市立の高校22校がすべて大阪府に無償譲渡されたが、その後これらの高校は大阪府独自の3年ルールの適用を受ける。つまり、3年連続で定員割れを起こせば整理統合の対象となるというルールである。その結果として、大阪市内の一等地にたくさんのタワマン用地が発生する。府立高校はほとんど郊外の二束三文の土地だったが、市立高校は交通至便な都心部にある。いったいこの土地を利用してどれだけ怪しいゼニが動くのだろうか。

とある。まっとうなご意見だ。
コロナ禍でも吉村知事は「やっています感」を振りまくだけで、死亡率の高さをマスメディアが指摘しない(マスコミ対策も露わである)ので、追求を免れている。尼崎駅周辺の飲み屋で、大阪のおっさんが「なんで大坂の死亡者が多いんやろ」と喋っていた。のんびりしたものや。半グレのイケイケに同調して一票入れとんのと違うか、と思った。

岸政彦(社会学)が維新支持派を取り上げていた。閉塞感があるのやろなあ、一発逆転をねろてるみたいや。宝くじならまだしも……。

山下肇『京の夢大阪の夢』(編集工房ノア.1989)の初めの方に東大退官後に関西大学に赴任して、千里に引っ越してきたところ、大阪の電車内の「交通道徳」の悪さに驚いたことが書かれている。1982年当時のことである。

大坂の人たちはみな、予想以上・東京以上によろしい服装でゆったりと腰をおろしており、東京なら必ず五人掛けしているところを四人しか掛けず、荷物を横において平気な人もザラにいる。といってそれをだれもとがめようとせず、強いて五人目に掛けようとする人もいない。
そもそも東京風のこせついた意識のあり方さえ存在しないかのようだ。それでいて、駅のホームのマイクは「お年寄りや体の不自由な方に席を譲りましょう」と呼びかけているが、それに応える気配はさらさら見えない。スピーカーの空々しさがだんだん胸につかえてきて、それだけ大阪の方が〝ゆとり〟というか、のんびりしているのでしょうかね」と聞いてみると、「いや、それは大阪人特有の、目先だけの専有欲、エゴイズムですよ」と答えてくれた人もいる。

そんなに酷くはなかったと記憶しているが、もっぱら当時の国鉄に乗っていたからかもしれない。維新が大阪だけの現象にとどまってほしいが、兵庫県知事がそうであったことを思い出した。

2022年04月26日

『遅れ時計の詩人』(2017)『やちまたの人』(2018)涸沢純平(編集工房ノア刊)残日録220426

ともに「編集工房ノア著者追悼記」とある。追悼記だからもう死んでしまった著者と出版社の話である。
「編集工房ノア」については、三月書房のブログによく出てきていたので、気になる出版社ではあったけれど、文芸書を読む習慣がとっくになくなっていたので、読むことはなかった。
店主の宍戸さんからPR誌「海鳴り」をいただいたこともあった。
この出版社から出ている山田稔さんの本を図書館から借りて数冊続けて読んで、この出版社のことを知りたくなり、読むことにした。図書館には未所蔵だったので、アマゾンで古書を取り寄せた。贈呈された本で、「贈呈」の紙が挟んであった。新聞社等に送られた本だろうと思う。

題名の「遅れ時計の詩人」は清水正一という蒲鉾屋を営む詩人の話。
「私は、詩人清水さんには申し訳ないけれど、清水さんを詩人というより、父のように思っていた。清水さんもそのように接してくれるので、そのように思っていた」と書く。その分、少しだけ余分に手触りを感じさせる文になっている。
カバーに清水の手書きの詩「雪」の部分がデザインされている。縦書きだが横書きで書き写す。

雪ガフッテイル






ソンナオトシテ降ッテイル

「私の父は漁師であったが、町に出ると父の魚くさいのが嫌だった。清水さんと喫茶店に入る時、出版記念会に店からかけつけた時など、清水さんの身体から強い油の臭いがして、嫌だと思うことがあった。それは他人に閉口するというより、肉親が他人に対して恥ずかしいという嫌さであった」という表現が効いている。
清水正一の墓は、播州の土山駅の近くにある。長男の勇氏が播磨耐火煉瓦に就職した関係で、長男の家が近くにあるからだそうだ。播磨耐火煉瓦の工場が生まれた村にあったことを思い出した。ググってみたら黒崎窯業と合併して黒崎播磨となっている。

帯は、地方小出版流通センター代表川上賢一による。

全国の地方出版社の中でも少ない、
関西で唯一の文芸出版社主・涸沢純平が綴る、
表現者たちとの熱い交わり模様、亡き文人たちを
語る惜別のことば。奥さんと二人の出版物語。

「やちまたの人」という題は足立巻一の『人の世やちまた』からとっている。カバーは足立の直筆が使われている。

こちらの帯は山田稔。

著者の涸沢純平によれば、出版とは本をこしらえて売るだけでなく、著
作を敬愛し著者を家族と思うことである。その著者たちとの、人生の「やち
また」でめぐり会いから永の別れまでをつぶさに描いた本書は、前著
『遅れ時計の詩人』同様、いわば「ノア」一族の家族アルバムであると同
時に、関西の文学界にとって貴重な人間記録となっている。

とある。
こちらの本では、三輪正道が気になったので、読んでみたいと思った。長浜市立図書館は未所蔵だったので、県内図書館の横断検索をした。数館で所蔵があった。彦根が5冊所蔵していた。彦根は三輪が就職して最初の任地である。

「就職して三年目にして、精神の破滅(急性分裂病のような神経衰弱)を経験し、一昨年の呉から一カ月は憂鬱状態につき自宅療養、今も抑鬱剤のお世話になってどうにか会社に通っている」

そこから、あちこちに転勤するのだが、彦根時代の同僚か知人のリクエストによる所蔵かも知れない。たぶん、そんなところだろう、と思った。
読んでみたいが、今はそのゆとりがない。後日、ということになる。

この2冊のなかに、20才代の頃、詩人の大西隆志さんから聞いた人の名前が出てきたりして、懐かしい気分になった。

このところ、母の入院で実家が空き家になってしまうので、家に風を入れてやらねばならないのと、本をおいている物置を壊して車庫スペースをつくるために、本の移動をしなければならないので、週に一泊二日、帰郷している。
本を箱詰めしていたら、大学時代のノートが出てきて、そこに小説らしきものを書いている。そういう時間が蒙昧な自分にもあったことを、すっかり忘れていた。

2022年04月23日

「日本が生き延びるための条件」内田樹(「一冊の本」2022.4)残日録220405

内田は10年前から毎年韓国に公演旅行に行く。コロナのせいで、この2年間はオンラインでの講演になった。今年のテーマは「地方消滅危機時代の人文知の役割」。そのことに触れたエッセイ。
そこから紹介する。(P4~5)

日本は「地方消滅危機」においては韓国に一歩先んじている。おそらくはその「経験知」を語って欲しいというところだったのだと思う。期待に添えず申し訳ないが、私は韓国の方に「成功事例」を語って差し上げることができなかった。日本政府には「人口減対策」と呼べるようなものはないからである。
人口減対策としては大きく二つのシナリオしかない。都市部への一極集中か地方への資源の分配か、いずれかである。人口減と高齢化という否定的条件の下でなお経済成長を続け、資本主義の繁栄を求めようという無理筋を通すつもりなら、都市への一極集中と地方の消滅という未来しかない。国土のほとんどを無住地にしても都市に人口を集めれば、そこだけは人口が密集し、活発な生産と消費が行なわれる。「シンガポール化」である。
日本の政官財界はすでにこのシナリオを選んでいると私は思う。本来なら、国の将来のかたちを決める重大な事案なのであるから、ひろく衆知を集めて国民的な議論をして合意形成を図るべきことなのだが、そのような議論はこれまでまったくなされていないし、そもそも国民的な合意形成が必要だという合意さえない。「ある限りの資源を都市に集め、地方は捨てる」ということは既決事項なのである。それ以外に資本主義が延命できる道がないのである。
そのことを政治家が語らず、メディアも話題にしないのは、そのシナリオを今の時点で公開してしまうと、自民党が地方の議席のほとんどを失って、政権の座から転落することがわかり切っているからである。

人口減への対策として、移民の受け入れという選択肢がある。それについてはどうなのか。

つまり、韓国は北朝鮮を、台湾は香港を、中国はアフリカをそれぞれ人口減対策のために「当てにしている」。翻ってわがくにはどうなのだろう。日本はベトナム、インドネシア、フィリピン、マレーシアなどの、人口が多く、年齢が若い国からの移民労働者を当てにしている。だが、賃金水準ではいずれ中国に抜かれる。日本が彼らに提供できるとしたら「政治的自由」と「異邦人に対する寛容と歓待」くらいしかない。しかし、今の日本の政官財の指導者たちを見ていると、その二つが日本が生き延びるための必須の条件だということに気づいている人はほとんどいない。

賃金が上がらない、については諸説ある。それに比例して物価が安い。ユニクロ、百均、牛丼屋など低価格で質の高い商品がある。原材料が上がるので、価格は上昇するだろうけれど、影響はそう大きくはないだろう。なにせ、賃金が上がらないのだから、高騰には限りがある。
移民にとっても生活はし易いだろうから、「政治的自由」と「異邦人に対する寛容と歓待」に「安全」と「暮らしやすさ」でもって売っていくしかないのだろう。
石油は高騰するに違いないので、物流の費用も高騰する。そうなれば、地球全体としても地域ごとに「縮小社会化」が進むことになる。食料自給率を上げる必要が出てくる。地方を放棄するという選択が可能なのか。製造業の生産性の低さをどれほど克服できるのか。日本の資本主義は、賃金同様、相対的に低落していくのだろうか。

2022年04月05日

雑録 母の近況など② 残日録220330

先日、27日(日)の深夜、従兄妹から電話で、母が緊急入院したとの連絡が入った。
翌日、行ってみると、肋骨の骨折のせいで、肺に水が溜まっている、とのことであった。ご近所のご意見もあり、退院後は施設に入ってもらうことに、弟と相談して決めた。本人の意向でもある。
入院のことや施設への入所については、弟にお任せということにした。こういう実務的なことは私より得意である。なにせ、従業員150余人の会社の役職付き総務課長だから、父の葬儀のときも任せた。相続も仕切ってもらった。印鑑証明を○枚、用意して、と言われただけだった。
こうなると、実家の世話は私の担当となる。加古川と長浜を行き来して、加古川の実家にある不用品を捨てることから始めなくてはならない。まずは紙袋だろうか。大きなゴミ袋でも収まりきれない量がある。次は使わない食器類だろう。その次は父の衣服だろうか。
ゆくゆくは、書庫にしていた物置を壊して、車庫スペースをつくることになる。書庫の整理もすすめなくてはならない。本の多くは長浜に運んだが、耽美雑誌「ジュネ」の初期のものや、鶴屋八幡の「あまカラ」数十冊(古書店で1冊800円)などもまだ発掘できていない。
慌ただしい日々が続くことになるのだろう。
コロナ禍の前は井上靖『星と祭』の復刊に取り組んだ。その次は「エコノミックガーデニング」(地域経済振興)に関わろうかと考えていたが、その余裕はないようだ。今年で70歳を迎えるのだから、残日の録は私的な細々としたことになっていくのだろう。
このところ、山田稔の本を読んでいるのだが、いい文章だ。品格が文章となって現れるので、読んでいて気持ちがいい。
「やさしい声」(山田稔『生命の酒樽』所収)に、谷原幸子「つりがねにんじん」が出てくる。

「島秋人が死んで、もう七年余りの年月が過ぎてしまった。私は、その死を昭和四十二年二十六日の毎日新聞歌壇の窪田章一郎氏の『歌人・島秋人』という文章で知った。三十三歳の刑死である。」
「つりがねめいじん」はこのような文章で始まっている。(P144)

歌集『遺愛集』などは、長浜市立図書館も所蔵している。

ひと日着て残る体温いとしみつ 青さ薄れし囚衣たたみぬ
握手さえはばむ金網(あみ)目に師が妻の 手のひら添へばわれも押し添う
土ちかき部屋に移され処刑待つ ひととき温きいのち愛しむ(処刑直前の辞世の歌)

作者の谷原は、死刑囚歌人のまわりにいた何人もの人の中から、彼と文通し、花を持ってしばしば面会に行っていた若い女性、前坂和子に関心を持つ。
「つりがねにんじん」は前坂を巡っての小説である。

処刑の前夜、つりがねにんじんと桔梗の花束をもって面会に訪れたか前坂和子は、島秋人とはじめて金網を除いた対面をしたのだった。
差し入れのつりがねにんじん雨の日に 濡れ来て終日(ひとひ)よく匂ひたり
十一月二十六日の「毎日歌壇」にのった最後の特選歌を、島秋人はわが目で読むことはなかった。
「私は、『遺愛集』の紹介記事に前坂さんが当時勤務していた高校の名があったのを思い出し、そこへ彼女の現住所を問い合わせようと考えた。私の中の前坂さんは、今どの辺りを歩いているのか。私は、掌の上の精霊をふっと吹いた。(土ちかき所へ帰れ)気がつくと、床の上に、いくつも、はかない透きとおった精霊が落ちていた。テーブルの上にも、ソファの上にも落ちていた。」
小説『つりがねにんじん』はこのように終わっている。(P150)

島秋人は記憶にないが、朝日歌壇に投稿したアメリカ在住の死刑囚、郷隼人や浅間山荘事件の坂口弘の歌集も図書館に所蔵されている。郷隼人の歌はその掲載を楽しみにしていた記憶がある。

2022年03月30日

雑録―母の近況など 残日録220326

父が亡くなって10年経つ。享年89歳。母の一人暮らし歴10年である。弟は連休になるとマメに帰っている。長男の私は、盆と正月に帰るほかは、めったに帰ることはない。長浜と加古川では新快速で3時間ほど時間がかかる。電話をすることも、年に数回だ。
母は昭和2年生まれで、この2月に95歳になった。ゴミ出しや畑仕事など、ご近所さんのお世話になっている。週に3回、介護に来てくれる。買い物と病院通いは従兄妹がやってくれている。
その従兄妹に不満があるので、その不満を電話でも対面でも聞くことになる。帰郷したときは、その不満を筆頭にして、他人様に言えない恨み辛みを3時間ほど聞くこともある。この正月は4時間を記録した。弟は私が長浜に帰ると、そのあと母の体調がくずれる、という。あれだけしゃべり続けると草臥れもするだろうし、体調も悪くするだろう。
何せご近所の洗濯物の干し方が気に入らない、といったことが、いろいろある。だれそれにこう言われた、ああ言われた、とずいぶん昔のことでも「腹ふくるるわざなり」が多い人である。年月によって忘れるわけでない。今年は私の高校進学についての話が加わった。何とか進学校に滑り込んだ私について、同級生のQ君の母親が、うちの子が行けないのにあんたの子が入れるわけがない、何か手をまわしたのでは、と問いただした。という新ネタが加わった。手をまわしたことはないが、勉強ができない中学生と思われていたのだろう。
久しぶりに加古川の母に電話をした。台所と居間の間のガラス障子に身体をぶつけてしまい、ろっ骨を折ったという。折った右側の腕が伸び切らないので、起き上がることが一仕事なのだという。施設に入ろうかと思うが、周囲の人から、そんなところに入るとボケるからやめた方がいい、といわれているそうである。今のところ、痴呆はない。興奮すると人の名前を間違える程度。ボケもあるだろうけれど、施設の職員への不満をいっぱい心にためてしまうだろう、と思う。先年、亡くなった大伯母は施設で100歳から5年間暮らしていたが、しだいに痴呆が進んでいった。施設の内情はよく知っている。
もう少しの間は、這ってでも家のお守りをしていただかねばならない。母が施設に入ることになると、毎週、長浜と加古川の往復生活になる。これは覚悟のことではあるけれど、なるだけ先に延ばしたい、というのが本音。
夫婦とも小津安二郎の映画が好きだった。若い頃はよく覚えているなあと思っていたが、一本の映画を何回か繰り返し観ていたらしい。夫婦そろって「佇まい」を気にする人たちだと言える。

2022年03月26日

『世界史の分岐点』橋爪大三郎・佐藤優.SB新書.2022 残日録220321

丸亀製麺に行くと、思うことがある。丸亀製麺の製造工程は機械化・マニュアル化できている部分はあるが、それはまだまだ「技能」の段階から少し進歩したというあたりでしかない。
「手づくり」が評価されて、「機械化」が否定されることがあるけれど、それはまだ「機械化」が「手作り」に敵わない段階であるということであって、機械化を否定することにはならない。「機械化」することで、その製造過程で人の苦痛が低減されるほうがいいに決まっている。進歩しなければいけない課題の「発見」とそれを克服する「発明」が丸亀製麺にも期待されるのだ。
ことは一企業の課題ではないだろう。キンレイの冷凍うどんの課題とも通じることだ。
名人や熟練工の手練手管の経験を技術化する、というとこから応用科学が生まれる。標準化、というのは労働過程の質の向上につながるのが本来の姿だろう。
「原子力発電」という技術も、限りある化石燃料の枯渇と地球温暖化を抑える技術としては悪くないのだが、現実の社会にその技術を適用しようとすると、安全性や社会的費用の面や廃棄物で課題が山積している。それらの課題を克服する科学技術の進展に期待するしかないのだろう。一足飛びに反原発、ということにはならないのだ。
橋爪と佐藤のこの本では「核融合発電こそ未来である」という立場である。(P92~)

橋爪 核融合発電は、簡単に言えば、原子核のエネルギー(核力)を、原子核を融合させて、取り出して、発電することです。
 分子量の大きな原子は、分裂すると核力を放出します。人間に有害な、放射性物質も生まれます。これに対して、分子量の小さな原子は、融合すると核力を放出します。放射性物質は出ません。太陽は、水素がヘリウムに核融合して、燃えています。
 核融合発電の場合は、重水素をヘリウムに融合させます。重水素は、原子核と陽子と中性子。原子核が陽子2個と中性子の三重水素(トリウム)も用います。これが融合してヘリウムになると、高エネルギーの中性子が出てくる。その中性子をキャッチして、熱に変換します。で、発電ができる。ヘリウムは無害です。中性子は、キャッチすれば無害です。熱になるほかに、三重水素も生産されるので、発電しながら核融合の原料がつくれます。
 さて、核融合炉はいつ実用化するのか。原理がわかっているだけで、いまは炉の基本設計ができかけた段階です。重水素や三重水素を加速して、高エネルギー状態(1億度)のプラズマにします。このプラズマを閉じ込めると、核融合反応が安定的に起こると予想されます。その装置は、トカマク型といって、電磁石のドーナツみたいです。
佐藤 これは昔、ソ連でやっていたものと似ています。
橋爪 あれを改良したものです。
 トカマク型は、直径が数十メートルで、超電導磁石を極低温に冷やして、強い磁場をかける。この中のプラズマを安定的にぐるぐる回らせるのがむずかしいのです。
 核融合反応が起きると、中性子が飛び出します。その中性子を、ドーナツを腹巻むたいにプランケットというもので覆っておいて、キャッチするんですね。熱が出て、ヘリウムと三重水素が生成される。
 さて、あと何年でこの技術が実用化するのか。諸説あります。数十年、遅くても今世紀中でしょう。
 核融合炉とは、簡単に言うと、「エネルギーが装置で生産できる」ということです。ふつうエネルギーは生産できないので、エネルギー資源を燃やしていたりしていたのが、装置産業になる。産業全体、経済全体が、エネルギーの成約から事由になるのです。しかも、炭酸ガスが出ない。環境への負荷もほとんどない。これがどんなに画期的な意味をもつか、わかりますね。他のエネルギー技術とは話が違うのです。
 核融合にも、少しの材料は必要です。三重水素は核融合炉の副産物として出てくるから問題ない。重水素は海水中にあって、ほぼ無尽蔵です。ということで、石炭や石油のようねエネルギー資源に依存する時代は終わるのです。
 電力価格ほどのレベルに落ち着くか。石炭石油や、再生可能エネルギーによる電力よりも、安くなる可能性が高い。人類はやがて、この核融合発電による電力を使う社会に移行していく、と私は思います。これが二一世紀後半に起こる。世界史の分岐点ですね。
佐藤 私もまったく同じ認識です。ただ問題は、やはり先ほども言った政治コストなんですよ。
 この対談に先駆けて私も核融合について少し勉強し、いろいろな人に話題を振ってみました。
 電力会社の人などに聞いても、核融合技術の実用性はもちろん認めているのだけれど、政治コストが壁だといいますね。核に対する形而上学的な抵抗感。こえあは、理屈を分かっているほうからすると迷信に過ぎませんが、迷信で合うがゆえに根強いんです。これを迷信以上の建設的な議論にもっていくには、ある意味、力業で押し切っていくしかないと想いまます。要は政治家が思考停止をせずに政治をする。つまり政治的に立ち回って実現させていく気があるのかという問題です。

 このあとも続くのだが、佐藤は、

一九世紀のロマン主義でもなく、二十世紀ポストモダン以降の価値相対主義でもなく、一八世紀の啓蒙的理性の力をクッ検させ、信頼していこう」

と述べている。
 この本は「経済」『科学』『技術』『軍事』『文明』をテーマに語り合っている。

2022年03月21日

『わかりやすい民藝』高木崇雄(d BOOKS.2020)残日録220308

著者は民芸店「工藝風向」店主。1974年生まれ。いい考察をしている。こういう本にもっと早く会いたかった。
一時期、日本民藝協会の雑誌『民藝』を購読していたことがあった。その当時は、柳宗悦はこう書いている、といった懐古趣味的な雑誌のように読めたので、購読は止めてしまった。備後屋の前店主から「民藝夏期学校」に行かれましたか、とたずねられて返事に窮したり、ギャラリー華の俵有作さんに「何かまとまったことができませんか」と問われたりしたこともあったのだが、仕事が忙しかった時期でもあったので、民藝好きにとどまり、もっぱら門前の小僧として今日に至っている。
良い本に出会えてよかった。

さて、今現在、「みんげい」という言葉が意味する対象は大きく三つ、それにオマケを一つ加えて四種類あるんじゃないかと僕は考えています。それは次の通りです。四つ目の「いかみん」は僕の造語なので、あとで説明しますね。

1 見出す民藝(選択・スタイルとしての民藝)
2 保存する、作り出す民藝(運動としての民藝)
3 「ものさし」としての民藝(暮らしの指針、可能性としての民藝)
4 その他(郷土品・お土産的な、〝いかみん〟としての「みんげい」)

まず一つ目は「見出す民藝」。
 柳宗悦とその仲間たちが選び、集めたものです。「李朝」と呼ばれる朝鮮王朝時代の陶磁器や、丹波(兵庫県)や、武雄(佐賀県)、沖縄やアイヌの人々が作り出したものなど、日本民藝館におさめられている、柳たちの目によって選ばれた品々です。いわば、「目で作られた民藝」ですね。この基準を守る役を、日本民藝館が果たしてきました。

 二つ目は、「保存する、作り出す民藝」。
 柳たちが先の品々を発見した当時、1920年ですら、社会は近代化が進み、すでに失われつつある仕事やものはたくさん存在しました。そんな価値ある仕事を今に伝えるため、柳たちが始めたムーブメント、つまり民藝運動に関わった人々は協力を惜しまなかった。また、その中には、かつての優れたものを参考に、新たなものを作り出そうとした人々もいました。
 たとえば、沖縄の染め物・紅型に刺激を受け、型染めの仕事を行った芹沢銈介や、イランの絨毯などを参考に、倉敷で「ノッティング織椅子敷」を生み出した外村吉之介、松本で家具作りの仕事を立ち上げた池田三四郎、河井寛次郎との出会いをきっかけに民藝運動に参加した若者たちの窯・出西窯などをあげても良いでしょう。
 つまり二つ目は、このような、民芸運動に関わった人々の仕事に対する呼び名としての「運動としての民藝」です。この役割を主に担ってきたのが日本民藝協会だったと言ってもいいんじゃないでしょうか。

 そして三つ目の、「ものさしとしての民藝」。
 先にあげた二つの〈民藝〉の立場から選ばれ、生み出されてきた品々や、民芸運動を主導した人々の言葉をベースとして、あらためて〈民藝〉を読み直し、今の社会や個人の生活、暮らし、自分たちが行っていることの指針として定義し直す試みとしての〈民藝〉です。「民芸の可能性」はどこまで広がるのか、を考える試みといってもいいでしょう。
 たとえば、今回のトークイベントもまた、D&DEPARTMENT PROJECTの活動を、21世紀における民藝運動の新たな形として考えなおす機会でもあるはずですよね。そういったことです。だからこそ、「ものさしとしての民藝」を考えるためには、一つのモノだけじゃなく、建築空間や風土に関する考察も必要ですし、歴史や言葉、思想なども重要になってきます。

 そんな「可能性としての民藝」を語るための基礎となるキーワードは、きっと次のようなものが挙げられると思います。
 「無名」「用の美(?)」、あえて「?」をつけて書きましたが、その理由はのちほど。「不二」「手仕事」「暮らしが仕事、仕事が暮らし」、これは河井寛次郎の言葉ですね。「無事の美」「貧の美」「平の美」なども〈民藝〉を語るときよく出てきます。「直観」もよく言われますね。「直下に観よ」、ですとかね。「今見ヨ イツ見ルモ」「見テ知リテ ナ 見ソ」といった柳の短い詩(心偈こころうたと呼ばれます)もよく使われますね。

 で、こういった言葉をテコにして、たとえば無印良品の品や、柳宗理のデザインしたヤカンであったり、日本民藝館の館長となった深澤直人さんの仕事、「小道具坂田」の坂田和實さんの選ぶ古いものや、「生活工芸」と呼ばれるムーブメント、もちろんD&DEPARTMENT PROJECT、あと花森安治が始めた『暮らしの手帖』なども、「民藝的」かどうかを考えられる時代となっています。
 「ふつう」「シンプル」「無名性」「飾らない」「素朴」「数もの(生産量の多いもの)」「ローカル」「暮らし」「手しごと」である、といった要素が含まれていると、〈民藝〉と比較されやすいですね。
 あと、ちょっと過去のデザインでいうと、ブラウンの電卓やアアルトの家具、チャールズ・イームズの仕事も民藝に近いんじゃないの、という人もいますし、安い値段で大量に普通の物を作っていれば〈民藝〉だったら、ユニクロの服も〈民藝〉では、という人もいます。個別の話については、2章で深めますので、お待ちくださいね。

いずれにせよ、暮らしのあり方からデザインや哲学といった領域に至るまで、広く語られるようになった〈民藝〉ですが、その用いられ方はさまざまです。とはいえ今回、どの〈民藝〉が正しいか、間違っているのかという話しをするつもりはありません。むしろ、これら「ものさしとしての民藝」の根っこがどこにあるのかについて検討することの方がよほど需要かなあ、と僕は思っています。

 さて、四つ目の「いかみん」(笑)。
 「見いだす民藝」「保存する、作り出す民藝」「『ものさし』としての民藝」の三つが柳たちが考え、実践してきた意味での「民藝」と、その発展形です。ただ、実は、それ以外にも「みんげい」が存在します。
 存在します、というか、大多数の人にとっては、こっちの意味の方が強いんじゃないでしょうか。雪も降らない地域なのに、必然性もなく傾斜の急な屋根をもつ合掌造りになっていて、白い漆喰の壁で梁が太くて黒光りしている、みたいな飲食店の建物なんかが国道沿いに時々ありますよね。
 ああいう建物を「民芸建築」と呼んだりします。困ったことに、ものであれ空間であれ、和風で素朴な感じがすると、「民芸調」と呼ばれてしまうんですよ。……
 (略)
 ということで、これは最初に説明した、三つの〈民藝〉とは関係を持たない「みんげい」ですので、僕は「〝いかにも〟民藝みたいなモノ」を略して「いかみん」と呼んでいます。
(P18~27)

 柳宗悦において、

・『白樺派』を通じて得た「友情」に基づく、フラットに成立する人間観。
・「民」という希望を持っていた時代。
・「○○にもかかわらず」という思考の枠組み。
・朝鮮で浅川兄弟とともに出会った、これまでの常識と異なる
 矛盾とも思えるような環境から生まれる美と「友人」「民族」。
・世界を均一化する「帝国的美術」へ抗う「友人」との連帯としての「工藝」
・生活のリズムが表出され、長い時間が濃縮された結果生じる
 「工藝的なるもの」。

これらがすべて一体となって、「民藝的工藝」としての〈民藝〉は、成立しているのです。ですから、「民衆的」とは単に「地方」や「田舎」、まして下層階級の仁といった意図を含んだ「庶民・大衆」を指す言葉ではありません。むしろ、風土に従い合理的に仕事をする人々であり、また、観念的でない、土着のモダニズムとも呼びうるひとつの合理性をもった仕事を生きる人々に対して、「民衆的」という言葉を託した、ということです。

さらにまとめると、柳が「民衆的工藝」としての〈民藝〉に見出したものは四つあります。

1 頭の中で作り上げられた観念的な美ではない、ということ。
2 土地に暮らす人が風土の中で、必然的に生み出す品。
3 長い期間使われてく中で、土地固有の模様、
リズムを持つようになった品。
4 忘れてはならないのは、権威やブランドといった記号に関係なく、
もの自体に存在する「美」

 さて、ここで「合理性」「モダニズム」、という言葉を使ったことには理由があります。往々にして民藝は古いものを守ることを中心とする、反近代的な運動、かんがえ方であるかのように思われることが多いのですが、必ずしもそうとは言えないからです。むしろ、当時、彼らほど近代主義の先を走っていた芸術運動はなかったのではないかと僕は思っています。
(P115~117)

1 〈民藝〉は保守的な運動ではない。
2 むしろ近代主義者とも呼びうる人たちが主導した。
3 当時の他の芸術運動と同じく、
  カウンターカルチャーとしてうまれた。
4 制度に抵抗する「友人」から「民族」、
して「民衆」を結びつける思想だった。
5 〈民藝〉が生まれる背景には、
  「それぞれの土地に暮らす人」が育てる「工藝的な時間」がある。
5 柳宗悦は〈民藝〉に湛えられた「美」に、
「近代」という枠組みを超えるものの具体性を見出した。
7 「○○だから民藝」と言えるものはなに一つない。

 この一番最後が大切です。これによって、〈民藝〉は自分自身を自由な存在とすることができる、はず、だった。歯切れが悪いですね(笑)。なぜ歯切れが悪いかといえば、当然疑問がわいてくるからです。
 〈民藝〉が「美術」→「工藝美術」→「工藝」というヒエラルキーを無効なものとする試みであったにも関わらず、なぜ現在もなお〈民藝〉は「工芸」の一分野でありつづけ、〈民藝〉は「手仕事」や「無名の職人」にこだわりつづける、いささか偏屈なジャンルだと見なされるようになってしまったのでしょうか。
(P126~127)

 著者は「○○だから民藝」という誤解の具体例として、日本民藝協会のウェブサイトを引き合いに出します。

1 実用性。鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたものである。
2 無銘性。特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたものである。
3 複数性。民衆の要求に応えるために、数多くつくられたものである。
4 廉価性。誰もが買い求められる程に値段が安いものである。
5 労働性。くり返しの激しい労働によって得られる熟練した技術をともなうものである。
6 地方性。それぞれの地域の暮らしに根ざした独自の色や形など、地方色が豊かである。
7 分業性。数を多くつくるため、複数の人間による共同作業が必要である。
8 伝統性。伝統という先人たちの技や知識の積み重ねによって守られている。
9 他力性。個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、眼に見えない大きな力によって支えられているものである。

これらを満たさなければ民藝品ではなく、ゆえに濱田庄司や河井寛次郎などが作り出すものは大量でもない「作家もの」だから、民藝品ではないはずだ、などと言われてしまう。また、日本民藝館におさめられている柳の蒐集品には、朝鮮王朝時代の支配階級「両班」が使っていた道具や絵画などもありますが、これらに対して、支配階級のものだから「民衆的」とは言えないではないか、といった批判もよくある話です。ほか、よくある誤解としては、「手仕事だから民藝」「民藝と言っているのに、値段が高い」「柳宗理デザインの製品は工業製品だから、民藝ではない」などがあげられるでしょう。
なるほど、〈民藝〉が、「○○だから民藝」という条件によって成立するものならば、どれも確かに正しいでしょうし、柳が書いた文章を言葉通りに読んでいく限りには、条件としか思えない箇所も存在します。ただ、これまで述べてきたように、柳が当時なぜこれらの言葉を用いなければならなかったかを考え、調べることによって、そのなぞは容易に解けていきます。
柳が当時の、帝国化にともない一元化する社会や、「帝国工藝部」「工藝美術家」といった「制度化された美」に抗うための批評として文章を書いていたのだと考えると、また、真実や美が順接ではなく逆説によってこそ示される、と考えた柳の枠組みからするならば、これらは条件ではなく、むしろ「○○にもかかわらず」、「○○ではなく」という、否定を通して語っている、と受け止めなおされるべきなのです。
ですから、前掲の条件をあえて否定によって記しなおすならば、次のようなものとなるでしょう。

1 非鑑賞性。鑑賞を目的として作られたものではない。
2 非有銘性。自らの名をあげるために作られたのではない。
3 非単数性。希少価値を求めてつくられたものではない。
4 非高価性。高価であること自体を求めてつくられたものではない。
5 非趣味性。美的趣味の表現のために特化された技法を用いていない。
6 反グローバル性。どこにでもある形を志向しない。
7 反孤立性。自分一人で作品を作り上げているなどと思い込まない。
8 反新奇性。思いつきで作る形や色、模様などではない。
9 非自力性。個人の力、個人の生という、限られた力や時間だけに頼らない。

そして無論、仮に今提示したこれらの条件もまた、固定化されてはならないのです。つまり、1から9までのすべての条件を兼ね備えているの「だから」民藝品、とはならない。柳が次のように書いている通りです。文中の「こと」とは条件、〝だから〟〝それで〟などの順接を意味します。

ものの美しさを見ます時、「こと」を通さずに「もの」を見て参りましたので、個人とか、工人とか有名とか無名とかの区別なく、ただ率直に見て参りました。
(P134~138)

 長い引用になってしまったが、なるほどと納得できるし、いろんなモヤモヤしたところが少し分かりだした気がする。
「数もの」でも気に入った品は欲しくなる。
 「作家もの」は、今のところ下田の土屋典康さんと益子の石川雅一(はじめ)さんの作品が中心で、こんなに集めてどうするの、という収納に限りあり、の状態だ。
ヤフオクを覗くと、何ともいやはや、終活の安売り・投げ売り、という有り様。日本経済の低迷を反映している。コロナ禍で中国からの需要も少ないのだろう。
そういえば、青森のMさんが亡くなってずいぶん経つ。たくさんのコレクションはどうなっているのだろう。他人が心配することではないが、一月にも某氏のコレクションの行き場がなくて、という話を聞いたことを思いだした。

2022年03月08日

「ベーシックインカム それは可能だ。しかし可能こそがその限界だ」大澤真幸.(「一冊の本」.朝日新聞.2022.02号.P22~31)残日録220228

「一冊の本」の大澤の連載「この世界の問い方」のこの号のテーマはベーシックインカムである。

「日本社会ではベーシックインカムを必要とするか」についての大澤の結論は「こうした現状を考えると、BIは、日本社会には必要だし、また効果的であると予想できる」である。こうした現状とは、橘木俊詔の2006年の著書から、生活保護水準以下の所得で暮らしている人は、13%であるが、実際に生活保護を受けている人は、同年で、人口の1.2%にしかならなくて、生活保護を本来必要としている人の10%くらいしか受け取っていないので、効果的な貧困対策にはなっていないことを指す。また、ジニ係数でみると日本の値はかなり悪いこと、日本の生活保護の給付額は低くはないことにもふれている。

「BIは財政的に可能である」根拠として、原田泰の2015年の著書から、原田の「20歳以上に月額7万円、20歳未満に月額3万円」の案について、現状の生活保護では、単身者の場合、概ね12万円ほどなので、家賃のことを考えると「1人暮らしの7万円は厳しいが、たとえば夫婦で子供二人の家族ならば、原田の構想では20万円が支給されるので、東京で暮らせないこともないとして、「日本の生活保護の捕捉率は著しく低い。このことを考えると、BIの支給額で揉めている場合ではない。多少、金額が低くても、BIを導入した方が、しないよりはずっとよい、ということになるだろう。/結論的に言えば、日本でBIを導入するとして、財源は少なくとも理論上は確保できる、ということになる」という論である。
 単身東京で月額7万円で暮らすのは厳しいだろうが、シェアハウスするということや、家賃の低い地方への転居も考えられよう。
 生活保護だと、働いた収入分だけ減額されるが、田舎暮らしをして耕作放棄地を再生する老後生活も可能だろうし、珍しい野菜を「道の駅」で販売することも考えられる。

「利己的にして贖罪的な消費の先に……」では、1968年以降の資本主義ははっきりと変質したとし、「利己的な消費と利他的な(慈善的な)動機とが、セットになり始めたのだ。BIは、」その延長線上に登場するはずだ、と予想することができるのだ」と論を進めていく。
 「消費者は、慈善的な理由、利他的な理由、あるいは自然環境に関連する理由によって、商品の価格が高くなることを、積極的に受け入れるようになっている。」/「慈善や環境が理由になって少しだけ高価になっている商品を、人は喜んで買う。どうしてか。その高い価格によって、消費者は、消費の利己主義が作り出す「罪」を贖っているのだ。要するに、「贖罪」自体が、今や消費されているのである。古典的な資本主義とは異なり、20世紀末以降の文化資本主義の中では、消費は、背反する二つの効用を同時に満たしていることになる。一方で、利己的な消費は、何らかの罪を作っている。貧しい人を搾取したり、地球を汚したり、と。人はそのことにすこし疚しさを感じている。しかし、だいじょうぶだ。他方で、人は、消費を通じて、その罪を贖うことができるからだ。罪を作りながら、それを贖うこと、これが現在の消費である。」/「こうした態度、こうした傾向を強化し、延長させていけばどうなるのか。そうすれば、やがて、そこから、BIも現れるだろう。利他的に、あるいは事前的に振る舞うことは、今日の資本主義と矛盾してはいない。むしろ、資本主義的にそれは促進されている。その利他性の部分を拡大していくと、やがて人々は、BIのための出費をも受け入れることになるだろう。豊かな先進国で、BIが民主的に支持される日も湊東区はない、と推察するのは、BIへと結実しうる今述べたような傾向が、世界的には、主流になりつつあるからだ」
と展開していく。

「まさにそれゆえにBIには限界がある」と大澤は論をすすめる。
 「社会システムが資本主義であるということは、――マルクス経済学の用語で言えば――剰余価値が発生するようになっているということだ。「利潤」と言ってもよい。剰余価値(利潤)が発生している以上は、システムのどこかで、労働の搾取がなされていることになる。これはマルクスが述べていたことだが、日本の偉大な二人のマルクス経済学者が、この命題の厳密な証明にかかわっている。まず、森嶋通夫が、このマルクスの主張を「マルクスの基本定理」と名付け定式化した。これを受けて、置塩信雄が、定理を厳密に数学的に証明した。要するに、プラスの利潤が発生するための必要かつ十分な条件が、労働者の状夜道の搾取である。//「BIは、格差や貧困の問題への対応策だ。しかし、格差・貧困の究極の原因が、資本主義的な生産関係の中での労働の搾取にあるとしたらどうか。BIは、真の病因は取り除かない対処療法だということになるのではあるまいか」
と、BIの資本主義的生産関係内での限界を指摘している。
 森島や置塩は、労働の搾取を証明しているが、それをどうこうするという論を展開しているのではない、と記憶しているが、ずいぶん昔の勉強での事ゆえ、きわめて曖昧である。

「親切な奴隷主のように」ではこれまでの論をまとめて、
 「BIは確かに実現可能である。しかし、それが実現可能なのは、資本主義の枠内に止まるからだ。そうだとすると、BIは、結局、それがまさに解決しようとしている問題の真の原因を除去しない限りでのみ機能する政策だということになるだろう」としている。
 つまり「BIは、親切な奴隷主のようなものである。親切な奴隷主は、奴隷の窮状に深く同情する立派な人物である。が、いくら奴隷たちに親切に接したとしても、問題はけっして解決しない。それどころか、奴隷主として親切であるならば、問題は永続することだろう。なぜなら、問題の根元は、奴隷制度そのものにあるからだ。/同じことはBIにも言える。奴隷制度の中での親切な主人が問題を解決できないように、資本主義の中でのBIは、問題を真に解決しない」ということになる。

 大澤は、はじめの「日本社会ではベーシックインカムを必要とするか」のところで「BIは、究極の貧困対策である」と規定しているが、BI論者には新自由主義の立場からの論者もいるので、そうとばかりは言えないだろう、と思う。
 大澤は「レントとしてのBI」で

 「GAFAM(ガファム;Google、Amazon、Facebook、Apple、Microsoftの頭文字を取った呼び名―明定)があれほど儲かるのはどうしてなのか。それは、本来は誰のものでもない「一般的知性」(マルクス)が私的に所有され、そのことを根拠にしたレント(使用料)を彼らに支払われているからである。この場合、一般的知性とは、インターネットやICT技術(情報通信技術―明定)に関連した知識のことである。/マルクスは、知識というものは、そもそも私的に所有することができないので、利潤を得るための主要な手段が知識になったときには、資本主義そのものが終焉を迎えることになるだろう、と予測していた。しかし、このマルクスの予想はまったく外れた。知識に私的所有権を設定し、そこからレントを得ることで、資本主義的な搾取はますます成功するのだ。/ここで述べておきたいことは、次のことである。BIは、格差への対処策だが、そこで用いられている方法――つまりレント――は、まさに今日の格差をもたらしたメカニズムと基本的に同じものである」

と、搾取された利潤=レントの再配分としてBIを捉え、「コモンズへ」と問題提起をする。

 「富は基本的には――誰のものとも限定できない――普遍的なコモンズであるというアイディアから自然的に引き出されるのは、コミュニズムである。コミュニズムとは、誰もが能力に応じて貢献し、必要に応じて取ることができる、ということだ。BIが、市民権に帰属するレントとして設定されている限り、それは、コミュニズムとは別物である。しかし、BIには正義があるという直観の根拠に依拠するならば、われわれは、コミュニズムを支持しなくてはならない。そうだとすれば、BIはゴールではなく、コミュニズムへの長い道のりの通過点である。/親切な奴隷主であることに満足してはならない。奴隷制度そのものを克服するところまでいかなくては……」

 ???
 「コミュニズムが自然に引き出される?」 「消費者は、慈善的な理由、利他的な理由、あるいは自然環境に関連する理由によって、商品の価格が高くなることを、積極的に受け入れるようになっている」傾向があるというが、そこからコミュニズムへは「自然につながる」のだろうか。
「親切な奴隷主であることに満足してはならない」? 私は奴隷ではないのか、奴隷主ではない、ことは確かだ。奴隷=貧困層ということではないだろう。なんだか、上から目線である。
 「BIはゴールではなく、コミュニズムへの長い道のりの通過点である」というのは簡単だが、「長い道のり」の一言で済ませられるわけにはいかないだろう。
 BIが資本主義社会の到達点であるならば、そのBI社会(消費者市民社会)の中から、次のメタモルフォーゼの種やステージが内発的かつ必然的に生まれるのだろう。それは単なる「通過点」ということにはならないし、政治的な土壌から生まれるとは限らない。むしろ、非政治的なるもののなかから生起するのではないだろうか。現在のわれわれには予測不可能なものであるだろう。

2022年02月28日

「探求(未知の世界)への誘い」岩瀬直樹(図書館雑誌2021.12)残日録220213

「学校全体が大きなライブラリー――軽井沢風越学園の子ども主体の探求を形にした学校建築」からの一部引用(P756)

 風越のライブラリーの特徴の一つは2階へ続くスロープの「探求エリア」だ。問いが生まれると一人であるいはスタッフと一緒にここへ向かう。『もしも原子が見えたなら』の読み聞かせから原子・分子に興味を持った4,5年生6人は,「原子・分子プロジェクト」というマイクロプロジェクト(個人探求)を)始めた。「原子って何種類あるんだろう?」「世の中,全部原子でできているっていうけど,鉄とかも?」読み聞かせを景気に問いが次々に生まれていく。「俺,どこに原子の本あるか知ってるよ」という科学好きの5年生に連れられて「探求エリア」の書架に向かうと『世界で一番美しい元素図鑑』に出会い,みんなでのぞき込む。「これめっちゃきれい!」1冊の本をあれこれ指差しながら自然と対話が生まれていく。「写真みたいながあるけど,どうすれば目で見えるんだろう?顕微鏡?新たな問が生まれ再び書架へ。」探求が駆動したときにすぐに手を伸ばせる環境なのだ。
 風越のカリキュラムの軸は「テーマプロジェクト」と呼ばれる教科融合の探求である。その特徴は,以下の六つである。1)年齢の近いグループでスタッフ発信のテーマに取り組む,2)理科・社会を中心に多様な教科・領域を横断しながら深める, 3)自分なりの問いを立て,自分なりの答えを求めて探求する, 4)多様な探求方法や発信の方法を考える, 5)共同して取り組む, 6)学校外のリソース(人的・物的共に)活用する。子ども一人ひとりの「~したい」を大切にしながら,学ぶプロセスで本物の人に出会ったり,実社会につなげていくことを目指し,そこで得られた学びを他者と共有して深めていく。週6時間設定されているテーマプロジェクト。前述のマイクロプロジェクト合わせると,週時数の半分近くが探求である。探求を支える空間の中に常に見を置き続けられるのが風越ライブラリーだ。環境が探求を常に応援し続けている。学校図書館を「目的を持ってわざわざ行くところ」から,「日常を過ごすところ」への転機なのだ。時には,偶然にある本に」出会うことも起きるだろう。そのためには選書が重要である。子どもたちに出会って欲しいと願いが込められた本,子どもたちの知的欲求にこたえる本が並べられているか。司書教諭を中心に3万冊を超えようとする幅広い蔵書を丁寧に整えていくことが,その偶然の質を高める。スタッフにとってはライブラリーはプロジュクとのアイディアに出会ったり,設計・実践するための豊かな資料に出会う場所でもある。大人の学びも支えているのだ。(以下略)

軽井沢風越学園は2019年10月31日設立。岩瀬直樹氏は学園の校長であり同幼稚園の園長である。埼玉県の公立小学校勤務後、東京学芸大大学院准教授。著作多し。
理事長は楽天の前身であるエム・ディー・エム起業に携わり取締役として楽天市場をつくりあげ、1999年取締役副社長になった仁。2005年に退社、同年4勝ちから横浜市立中学校の校長になる、とういう経歴を持つ。

私立の一貫校はこういう新しい取り組みができるところが良いとこだ。しかし、授業料が払えるか払えないか、で生徒が均一化するので、生徒に多様性がない。
世間に出たとき、戸惑うかもしれない。上級国民は一般人との出会いは少なくなっていくのかもしれないけれど。
募集人員を見てみると、
・幼稚園:男女計24名
・小学1年生:男女計35名(2~6年は若干名)
・中学1年生:男女計15名
である。
教育環境の格差によって、社会が階層化するのだろうか。

岩瀬はブログで仮説実験授業のことにふれている。

初任からの5年間の、どっぷり仮説実験授業を学び実践した。今思い返すと、初任からの5年間は、豊かなコンテンツの土壌の上でファシリテータートレーニングをしていた毎日だったのだと思う。
ではなぜ離れたか?それは後にファシリテーションを軸としていく自分の変化にも繋がっている。そういえば同僚の渡辺貴裕さんに、
「もし仮説実験授業に出会っていなかったら、今の岩瀬さんはありませんか?」
と聞かれたことがある。
どうだろう。けっこう本質的な問いでまだ答えられずにいる。おそらく今のぼくはないんだと思う。
それにしても子どもたちの討論から仮説が立ちあがっていくやりとりには聞き惚れたなあ。ここに来て社会構成主義を勉強しているんだけれど、実はあのときの聞き惚れた討論に原点があったりする。
ではなぜ仮説実験授業から離れていったのか?
端的に言えば以下。
①仮説絶対主義的な側面がある。他教科への安易な展開や、仮説さえやっていればいいというような言説。つまりは方法の絶対化。
②教師と子どもの授業書への過度な依存。授業書の質が高いだけに、授業書そのものへの疑いを持たない。このような姿勢は、巧妙な「授業書もどき」を作れば思考や価値観を操作できる危険性をはらんでいる。これは仮説に留まらない大きなリテラシーの問題。
③問いはいつも「降ってくる」ことへの違和。カリキュラム上の自由度の低さ。
とはいえ、今なお仮説実験授業の価値は高いと考えている。
仮説実験授業の豊かな蓄積をぼくたちはどのように継承していけばよいのか。
仮説における「楽しさ」の価値とは?
改めて検討したい。なんせ5年間、脇目もふらずに学び尽くしたことが大きかった。
5年やり続けると強みになる。

仮説実験研究会の会員でもある私も、「仮説さえやっていればいいというような言説」には抵抗感があった。そう言いながら、教師としてのいくらかの配慮はしているのだろうが。「巧妙な「授業書もどき」を作れば思考や価値観を操作できる危険性をはらんでいる」については、板倉氏亡き後でも授業書の改訂が重ねられているので、あまり気にならないことではある。ただ、「授業書もどき」が生まれなかったわけでもなかったと思う。それは露骨に批判されることはなかったが、時間を経るうちに自然淘汰されるのだ、という経験知もあってのことだ。

2022年02月13日

『子どもが壊れる家』草薙厚子(文藝春秋社.2005) 残日録220207

非行少年とは、①犯罪少年、②触法少年及び③虞犯少年をいう、とある。学生の頃、社会病理学で習ったことを思い出した。
少年非行の動向(令和3年犯罪白書)によると、

「少年による刑法犯,危険運転致死傷及び過失運転致死傷等の検挙人員の推移には 昭和期において,26年の16万6,433人をピークとする第一の波,39年の23万8,830人をピークとする第二の波,58年の31万7,438をピークとする第三の波,という三つの大きな波が見られる。平成期においては,平成8年から10年及び13年から15年にそれぞれ一時的な増加があったものの,全体としては減少傾向にあり,24年以降戦後最少を記録し続け,令和2年は戦後最少を更新する3万2,063人(前年度比13.8%減)であった。」

とある。

草薙の本書は2005(平成17)年に書かれていて、

1983(昭和58)年―中学生らにより、横浜浮浪者を殺害
1988(昭和63)年―名古屋市緑区大高緑地公園での、少年(19歳2人、17歳、20歳)、少女(17歳、18歳)によるアベック殺害事件
1988(昭和63)年―足立区綾瀬での、少年ら(18歳、17歳15-16歳、16-17歳)による、女子高校生コンクリート詰め殺人
1997(平成9)年―神戸須磨区での少年A(14歳)
1998(平成10)年―栃木剣黒磯市黒磯北中学校内、男子中学1年生(13歳)が女性教諭を殺害
1999(平成11)年―山口県光市で少年(18歳)が主婦と長女を殺害
1999(平成11)年―愛知県西尾市で男子県立高校生(17歳)が女子同級生を殺害
2000(平成12)年―愛知県豊川市で少年(17歳)が主婦を殺害
2000(平成12)年―佐賀県の少年(17歳)がバスジャックをし、乗客を死傷
2000(平成12)年―大分県野津町(現臼杵市)で、高校男子(15歳)による一家六人殺傷。
2001(平成13)年―少年2人(18歳)が東京の地下鉄ホーム内で銀行員を暴行殺害
2002(平成14)年―岩手県前沢町で、少年2人(15歳、16歳)による老夫婦殺人未遂。
2003(平成15)年―沖縄県北谷(ちゃたん)町で、高1男子(16歳)、中3男子(14歳)、中3女子(14歳)、中2男子(13歳)が、中学生を殺害
2003(平成15)年―長崎市で中1男子(12歳)が4歳の幼児を殺害
2003(平成15)年―東京都稲城市立小学校の女子児童4人が、アルバイト目的で接触した容疑者(29歳)に4日間監禁され、保護された。容疑者は自殺
2003(平成15)年―千葉県警は、窃盗容疑で、少年少女を含む11人を逮捕
2004(平成16)年―石川県金沢市で、少年(17歳)が窃盗目的で民家に侵入し、夫婦を殺害
2004(平成16)年―長崎県佐世保市の小学校内で、小学6年女子(11歳)が同級生を殺害
2004(平成16)年―新宿区の団地で、中学2年女子が、5歳の男の子を4階と5階の間の外階段から突き落とし、軽症
2005(平成17)年―板橋区で、社員寮の管理人夫妻を長男(15歳)が殺害


が挙げられている。
 著者は「新しい非行の誕生」として「モダン型の非行」と位置づけている。

 この新しい非行の萌芽は」、昭和五十六(一九八三)年前後に現れ始めました。その大きな特徴は、中学生を中心とする年少少年が非行の中心となり始めたことです。そして、非行少年のうち、両親の揃っている家庭が約八割、中流家庭の非行少年が八割以上を占め、決してどの家庭も安心していられない事実を鋭く突きつけたのです。
 高度成長期を経て、物が溢れている豊かな時代に幼少年期を過ごした少年らにとって、「生活のため」に非行に走る必要はほとんどありません。金品ではなく、「面白さ」や「スリル」、「成功体験」を求め、あるいは集団で犯行を行うことによって、交友関係を維持しようとしたのです。こうして貧しきゆえに起こすクラシック型の非行から、モダン型の非行へと完全な脱皮が行なわれました。
 このモダン型の非行は、問題が見えにくいままに(少なくとも非行歴が公式に記録されないままに)、日常生活の一部、あるいは遊びの一種として浸透していきました。そして、その非行がたわいもなく、動機も単純であるために、後々の重大事件との関わりが予測できず、司法や行政機関からも、学校・家庭からも深刻に受け止められずに見過ごされました。(P39)

としている。

ここには挙がっていないが、1993(平成5)年、山形県新庄市立の男子中学生が、同校生7人(14歳3人、13歳4人)により、窒息死させられた「山形マット死事件」というのがある。これは、事情聴取で犯行を認めていた生徒たちが、公判で「自白は強制されたもの」と被告側が自供を撤回したことで、大きな話題になった。被告側が冤罪を主張する日本国民救援会山形県本部や国民救援会中央本部の支援を得ることで、判決が有罪と無罪の間を揺れ動くこととなった事件である。
これはいじめとの関連で捉えるので挙がっていないのかもしれないが、いじめが遊びの一種の延長である例でもあるだろう。

少年犯罪は他にもありここに挙がっていない事件、著者の執筆後の事件もある。

1988(昭和63)年―堺市通り魔事件
1992(平成4)年―市川一家4人殺人事件
1994(平成6)年―大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件
2000(平成12)年―岡山金属バット母親殺害事件
2003(平成13)年―千葉少女墓石撲殺事件
2010(平成22)年―石巻3人殺傷事件
2011(平成23)年―大津市中2いじめ自殺事件
2013(平成25)年―東京都吉祥寺路上女性強殺事件
2013(平成25)年―広島少女集団暴行事件
2014(平成26)年―佐世保女子高生殺害事件
2015(平成27)年―船橋18歳少女殺害事件
2015(平成27)年―川崎市中1男子生徒殺害事件

 2021(令和3)年11月にも愛知県弥富市の市立中学校で、3年の男子生徒(14)が3年の別の男子生徒(14)に包丁で腹部を刺され死亡。という事件があり、2016(平成28)年以降にも多々あるだろう。

 著者は「少年犯罪を生む過程の共通項」として、

○家庭内で、おもに母親による過干渉と、父親の存在感の無さが共通して見られる(逆の場合もある)。 
○過干渉によって子どもの中には「もう一人の自分」が芽生え、次第に攻撃性を強めていく。
○家庭や学校に居場所をなくした子どもは、ゲームやインターネット、ホラービデオなどの「幻想の世界」にのめり込む用になる。
○残虐な映像が頭の中を支配するようになり、現実と空想の境界線が曖昧になって行く。
○ゲームやインターネット、ホラービデオにンめり込む子どもたちを、親が黙認するうちに歯止めが効かなくなる。

 結局、私たちが少年犯罪から得るべき教訓は、
・過干渉しない=子どもを自分の理想に嵌め込もうとしない。
・放任しない=ゲームやインターネットとの関わりを放置しない。
 の二点と言えるでしょう。(p158~9)

を上げている。

 親はなくとも子は育つ、子どもは放っておいても大きくなるものさ、というおおらかな諺は、もう通用しなくなりました。放っておかれた子どもを構うたくさんの親類や近所の人たち、外で一緒に遊ぶ友達、一人で遊んでも新しい発見がある原っぱなどは、ほとんど姿を消しました。彼らは部屋で一人、パソコンやゲームに向かうのです。そんな子どもたちに言われるままにゲームやビデオのソフトを与え、目の前でおとなしくしているからと安心してしまう怠惰が、「子どもを飼う」親を、そして深刻な少年非行を増やすのです。(P161~2)

 私は子育ての経験はないし、身近な親戚にも非行にはしる従兄弟の子どももいない。だからイマイチ、リアル感がない。でも、図書館という現場にいた頃は、子どもの生き難さや生き辛さを感じたものだった。カウンターの向こうとこっちで、何ができるということはないのだが、いや、また、何かをしてあげたほうがいいとは思うのだが、突っ立っている自分を思い出す。
 図書館があってよかった、と思い返す当時子どもだった若い親たちが少しはいるだろうか。少しはいる、と思う。その人たちには、原っぱのような役割をしていたのだろう。
 図書館があってよかった、と当時、思っていてくれた親はいるだろうか。これは期待できない。礼を言われたこともあったが、多くの親はそれどころではなかっただろう。
 「図書館という居場所」という雑文を書いたことがある。

 図書館という居場所

 高月町の図書館には、いろんな子どもがやってくる。図書館に用がない子、本に関心がない子、不登校の子、心が壊れそうな子、落ち着きのない子もやってくる。居場所を求めてやってくる。
 歓迎するほどの心のゆとりが職員の側にあるわけではない。ただ、なるだけ拒否しないでいたい、と思っている。
 素行に問題のある子どもたちもやってくる。家にも教室にもそして部活にも居場所のない子達がやってくる。その子がいるだけで衝かれる、ということも往々にしてある。腹をたてることもある。
 そんな子どもたちと日々つきあわざるをえない教師はたいへんだろうともう。
 子どものうしろにはその子を育てた家庭がある。教師はそれとも付き合わなければならない。めんどうなことだろうになあ。
 生きにくい子どものそばにあって、教師はどんな悲しみを抱いているのだろうか、そんな感傷にひたる余裕はないのだろうか。
 図書館という場に、本好きの子だけでなくいろんな子どもが来てくれるので、忘れがちな悲しみがわたしのこころにも生まれる。
 居場所を求めてやってくる子への戸惑いや、ささくれだったこころの棘をあらわにした子たちへのいらだちを、わたしの「悲しみ」へとつなぐ。これはたいへんしんどいことだが、それがないと子どもたちの居場所にはならない。
 図書館を居場所としている子どもたちのおかげで、いくつものことを学ばせていただけることのありがたさを大切にしたい。
「みーな びわ湖から」No.68 2001

 統計的には少年非行は減少傾向である。しかしながら、「モダン型」の非行の件数は少なくとも、非行に至らないまでも境界の事例や現象は裾野を広げていくだろう。
 一方において『ケーキを切れない非行少年たち』(境界知能)の存在もあり、コミュニケーション障害もある。虐待の連鎖もある。
 少年非行について、現在の私にできることなど無いに等しい。私の生活が、暮らしのかたちが、こういう子どもたちとどこかで繋がっていると思っている。

2022年02月07日

『ひそませること/あばきたてること――絵本編集の現場から』澤田精一.現代企画室.2014 残日録220130

 『ごろごろにゃーん』長新太.福音館書店.1984、この絵本を初めて読み聞かせに使ったとき、子どもたちから大いにウケた。ページをめくるたびに笑いが起きる。そんな体験を1970年代にした。20才代だった。それ以降、何回か読み聞かせに取り上げたが、あの時ほどの笑いはない。読む側の成功体験が邪魔をしているのかもしれない。子どもが笑いから遠ざけられているのかもしれない。などと思った。

 福音館のサイトでは、

くじらのような、イルカのような翁飛行機が海に浮かんでいます。大勢の猫たちがそれに乗り込み、「ごろごろにゃーん」と出発です。「ごろごろにゃーん」と飛行機は飛んでいきます。魚を釣りながら「ごろごろにゃーん」。くじらにあっても「ごろごろにゃーん」。山を超え、街をながめ、飛行機はにぎやかに「ごろごろにゃーん」と猫たちをのせて飛んでいきます。長新太の真骨頂!斬新で愉快な絵本です。

とある。ほとんどの見開きページが「ごろごろにゃーんとひこうきはとんでいきます」という文で、絵を見せていく絵本になっている。

 澤田のこの本に『ごろごろにゃーん』が出てくる。

 今までの「こどものとも」の歴史の中で、ときどき異色の絵本がでることがある。入社したときには、佐々木マキさんの『やっぱりおおかみ』出版された直後で、編集部でかなり激しい議論をしていたのを覚えている。長新太さんの『ごろごろにゃーん』、片山健さんの『おなかのすくさんぽ』、タイガー立石さんの『とらのゆめ』、いずれも話題を呼んだ絵本だったけれども、問題はそういう絵本が編集されながらあとにつなげる手立てがなく、そのときだけの冒険に終わってしまうのが常だった。やるからには、意識的でなければ意味がないだろうし、その作品の成し遂げた内容を魏の時代へ引き継ぐことができなければ歴史も生まれようがない。では、どうしたら、それが可能になるのだろうか。
 それは絵本の編集を始めて、いつも頭を離れない問題だった。編集をしていて出せるといえば出せるけれど、それでいいのか。それがよくないのであれば、どうするのか。なんでもではなくて、これを出したいということには、私の価値観が前提としてある。その価値観を目の前に出せないとよろしくないのではないか。絵本の編集という実践もだいじだけれども、それを支える理論も必要だと思った。ところが九十年初頭には、まだまだ今のような絵本についての文献が少なかったし、欧米の影響が強い理論書は、日本の作家に作品をお願いする私の仕事では、なかなかうまく活用できなかった。(P16~17)

そういえばそうだな。月刊で絵本を定期的に出版していくという期限付きのルーティーンからくるマンネリと無難な内容とともに、絵本作りの現場が袋小路に陥っているように、当時、司書として感じていた。
90年代の荒井良二などの登場によって、絵本は変化を始める。
そうしたなかで、『こどもの館』から月刊絵本の編集担当に異動した澤田は、そういう流れを作った編集者のひとりである。大竹伸朗『ジャリおじさん』や伊藤比呂美『あーあった』といった、当時ではよくわからないと受け止められていた絵本を作っていく。
『ジャリおじさん』について、

……刊行後、この絵本はわからないというクレームがかなり来た。それに答えるのも編集者の仕事なのだが、なかでもある幼稚園の園長から絵本のなかにカラオケをしている図(P11)があり、これは子どもに与えるのにふさわしくない絵本で返品したいという旨の電話が入って、三十分ほど話し合ったことがある。一九九三年の時点で現代美術作家・大竹伸朗について社内で知っている人はいなかった。無論、原画を「こどものとも」編集部で見せたとき、みんな黙り込んでいた。私はその沈黙は了解の意味にとったのだが、のちにあんな保守的な「こどものとも」でどうして大竹さんの絵本がでたのかと、聞かれたこともあった。
 否定的な反応はあらかじめ予想できたので、資料を揃えて説明を試みた。「こどものとも」の折り込でも、何人かの人に『ジャリおじさん』について書いてもらった。ところが翌年の一九九四年に小学館絵画賞受賞。九五年にBIB(Biennial of Illustration Bratislava)金牌を受賞するにおよんで、やや社内でも認知されたかなと思う。(P40~41)

と書いている。
 誰かの絵本に「カラオケ」でなく「ラブホテル」が背景に小さく描かれていることに抗議した司書がいたことをおもいだした。

 澤田の関わった絵本に、『ごろごろにゃーん』とよく似たスタイルの絵本がある。
 スズキコージ『きゅうりさん あぶないよ』(年少版・こどものとも 1996年9月1日)がある。この絵本の成立についてふれている。

 『ジャリおじさん』をだし、翌年『ぼくはへいたろう』(他にも何冊も担当しているがその年の代表作ということで)をだして、九五年に「こどものとも」第二編集部へ異動となった。そして九六年に『きゅうりさん あぶないよ』を担当した。これにはいろいろな経緯がある。まず「年少版」の「こどものとも」にスズキコージという作家を登場させたかった。それまでの「年少版」というのは、二~四歳児を対象とするなかで、簡単な文章、簡略されて描かれた絵で構成される場合が多かった。しかし、「年少版」は読み聞かせをして絵本を読んでいくケースが圧倒的である。耳からの文章の言葉を聞き、自分の目で絵本の絵を追っていくのである。そうならば、もっと絵の情報を多くしてもいいのではないかと思った。年長の子どもに比べて年少の子どもは語彙が豊富でないといっても、絵ならばなんでも見られるし、そこに数年の差はないはずである。

 福音館のサイトで『きゅうりさん あぶないよ』は、

きゅうりさんの変化する姿が楽しい1冊
 きゅうりさんが歩いています。動物たちが、「きゅうりさん そっちにいったら あぶないよ」といって、いろいろな物をくれます。帽子、グローブ、ベルト、バックパック、ほうき……。みんなもらったものすべてを身につけると、姿がすっかり変わってしまったきゅうりさん。街に辿り着いたきゅうりさんが最後に遭遇したものは……。色彩豊かな色使いが想像力を掻き立てます。

と、紹介されている。
 絵からの情報を読み取る能力を幼児期から身につけていくことによって、絵本を楽しめる能力が育つ。『バムケロ』シリーズを楽しんだ記憶のある学生は、絵を読むことができているのだ。
 第二章「絵本をめぐる対話」は、5つの対話と著者へのインタビューで構成されている。
 小野明の「別冊太陽」『一〇〇冊の絵本』の編集に触れての発言を引いておく。

小野 ……日本の絵本のイメージで、名作とかロングセラーとかいうのは、だいたい五十年代の終わりから七十年代の終わりまでの二十年間ですよね。その二十年間にでたのが、『ぐりとぐら』(中川李枝子 文、山脇百合子 絵、福音館書店)とか『わたしのワンピース』(西巻茅子 作、こぐま社)とか、もう永遠といわれるロングセラーはだいたいこの時期にでていて、七十八年以降はあんまりでていない。それは絵本の衰弱なのか、それとも名作やロングセラー中心のいい絵本とか、ブックリストに引っ張られて見えていないのか。それを確かめたかったんですね。(P119)

ということで、小野は1978年以降の、画家が文章も書いている絵本から、日本と外国の各50冊を選んだ。

小野 ……子供のためにというのをいろいろな形でとらえたときに、子どものためになにかをつくっていくという意識のほうが強いんじゃないか。そうすると、そのための方法論というのは、七八年以前に、日本で名作といわれている絵本で、ほとんど出尽くしている感があるんです。方法論は揃っているんじゃないか、と。で、しかもその当時は作家にも編集者にも活気があったんでしょう。熱い、強い絵本がいっぱいでてるし、それが支持されているのは分かります。
七八年以降、絵本の質は落ちているとは絶対思わないんですが、ただその売れ方を見ていると、ロングセラーとか形に残っているものが少ない。結局、絵本というのは作家が新しいものを表現するというよりは、求められているものを世にだしていくという作業が基本じゃないかと、ちょっと思っちゃうくらい、この七八年から二十年間というのは、支持されていないですよ。
土井、澤田 うん。(P121~122)

 そう言われれば、納得せざるを得ない。学生たちに「記憶に残る絵本」をグループで話し合ってもらい、そこで出た絵本をリストにしても、古典・ロングセラーが多い。

 澤田精一のことは『光吉夏弥 戦後絵本の源流』(岩波書店.2021)の著者としてはじめて知った。こちらの本は、抑制された評伝であった。「季刊ぱろる」で出会っていたのかもしれなかったが、記憶にない。(この雑誌が出版された1990年代中頃は高月町立図書館(現;長浜市立高月図書館)の開館直後で、多忙を極めていた。)
 講演もされているので、機会があれば聴きたい。

2022年01月30日

『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』松岡宗嗣.柏書房.2021 残日録220125

 塚森裕太がログアウトしたら』の第2章で「アウティング」という言葉がでてくる。この章で教師の小山田は娘がレズではないかと疑い、同僚の梅澤との話の中でそのことを伝える。梅澤からその行為はやってはいけない「アウティング」だと指摘される。小山田は研修で学んでいるはずだったが知らなかった。妻にも指摘される。
読んでいる私もその言葉は記憶になかった。してはいけないことだと分かっているが、そういう言葉があることを忘れていた。
松岡の本のジャケットでは「アウティング」は「本人の性のあり方を同意なく第三者に暴露すること」とあった。
「はじめに」のところで、

二〇一六年、アウティングによって一人のゲイの大学生が転落死した。「一橋大学アウティング事件裁判」が報道されて以降、性的マイノリティの当事者が、なくなった大学院生に自分自身を重ねる少なくない語りを見かけた。なぜ「もしかしたらあのときの私も」と記憶を重ねるのか? それは、アウティング被害がそれだけ当事者にとって身近な事象であり、かつ、生と死が交差する紙一重な瞬間であること、そして、たまたまその「分岐点」を乗り越え、これまで生き残れたにすぎないという想いを表しているのではないか。」(P5)

と書かれている。この事件をきっかけにしてこの本は生まれたと言える。事件の経緯と判決にページが割かれている。アウティングした当事者とは和解が成立したが、大学側の責任は問われることはなかった。
本書にはいろんな事例が出てくる。
「出生時は『男性』と割り当てられたが、二〇代で性別適応手術を受け、二〇〇四年に法律上の性別も『女性』に変更し、名前も変更した」当事者が、2013年に看護助手として働き始めた病院の上司から「男性だったこと」を職場で要求され、それを拒んだが、十数人の同僚の前で勝手に暴露――アウティングされた事例。
同性と付き合っていた地方の女子高生は友人がそのことを教員に暴露してしまい、そのご、教員から「同性愛が他の生徒にうつる」などと言われ、クラスの授業を受けることが出来なくなった上に、住んでいた親戚の家にまでアウティングしたという事例。などなど。
また、自治体に「アウティングの禁止」やカミングアウトの強制やカミングアウトをさせないようにすることの禁止」を明記した条例が広がり始めたこともこの本で知った。国レベルでは2019年5月に「改正労働施策総合推進法(いわゆるパワハラ防止法)」が成立したが、参議院での可決の際に、附帯決議として、以下のことが記された。

職場におけるあらゆる差別をなくすため、性的指向・性自認に関わるハラスメント及び性的指向・性自認の望まぬ暴露であるいわゆるアウティングも雇用管理上の措置の対象になり得ること、そのためアウティングを念頭に置いたプライバシー保護を講ずること。
(P108)

著者の松岡は「おわりに」の中で、

本書を書くにあたって、やはりブレたくなかったのは、アウティングが「命」の問題だと言うことです。アウティングされても何も問題が起きず、むしろアウティングされて結果的に「よかった」という場合さえあります。しかし、その一方では、命が脅かされる事態にまで発展することもある。ここには明らかに「分岐点』があります。私はその分かれ道をたまたま生き延びたと思っていますが、その「たまたま」にも、実は構造的な問題がひそんでいることは忘れてはいけないと思います。
性的マイノリティを取り巻く法制度、家族・友人・地域のコミュニティ、収入や教育環境など、政治的・文化的・経済的な要因が、その「たまたま」を左右すると言えるでしょう。こうした点についてはあまり触れることができませんでした。
シスジェンダー(性自認と身体的性が一致している人―明定義人)の男性でゲイであるという立場上の「発言」のしやすさもあります。アウティングの問題を論じる上でも、自身の立場に近い視点が中心になり、例えばレズビアンやトランスジェンダーなど、他のさまざまなジェンダーやセクシュアリティの人々の経験や視点を本書で十分に掘り下げられたとは言えません。(P228~9)

と書いている。
それぞれの立場からの発言が足りないのだろう。

『はじめて学ぶLGBT 基礎からトレンドまで』石田仁.ナツメ社.2019 でも「一橋大学アウティング事件裁判」が「当事者を追い込むアウティング」として取り上げられています。「アウティング事件は単なる失恋だったのか?」という問いを立てて、

友人が言った言葉を手がかりに考えてみましょう。
「おれはもうおまえがゲイであることを隠しておくのはムリだ。」
 まず、仮にこの文を「おまえが異性愛者であることを隠しておくのはムリだ」にしたらどうでしょうか。文は有意味でなくなります。よってこの言動はセクシャリティのアウティングです。では次に、仮に告白した側がじょせいだったとして、「おまえが俺を好きであることを隠しておくのはムリだ」にしたらどうでしょうか。今度は、異性間であったとしても、当人の好意を第三者に暴露したことに変わりありません。
 よって友人が行なったのは、セクシャリティと好意のアウティングです。失恋や同性愛を苦にした事件に矮小化されるべきではありません。(P40)

としています。

2022年01月25日

「義憤について、肯定について」村瀬学.『飢餓陣営』No.54 残日録220119

村瀬学が斎藤幸平『人新世の「資本論」』について論じている。

 以上のような斎藤幸平『人新世の「資本論」』が、今、多くの若者に読まれているのは、「資本論」を数式じみたものとともに紹介するようなことを一切しないで、半分学問風、半分ジャーナリズム風に書いていて読みやすくされていたという事がまずあったと思います。
 しかしそれ以上に、顕著なのは、この本の構成がとても明快にできているところに、若い読者が魅せられたのではないかと想います。「明快に」というのは、この本には「悪者」がつねにしっかりと見つめられていて、読者が忘れそうになると、それを思い出させるかのように一定のリズムで、この「悪者」が喚起させられるように仕組まれていたところです。
 その「悪者」は、二者あって、一つは「資本主義」で、一つは「成長神話」、ということになっています。なので、著者が取り上げる多くの先行研究者の理論も、その説明に読者が退屈を覚えだす頃を見計らって、この2つの尺度がつきつけられて、「そうは言うものの、この研究者は結局は資本主義を認めており、その結果〈脱成長〉に向かうことができず、根本問題である〈地球温暖化〉をとめることができない理論になっている」と糾弾されることになり、読者は、そうそうそこなんだ! と認識を新たにするという読書体験を続けることになります。
 ある意味ではドラマ『水戸黄門』のように、話の終盤になると、やおら「印籠」が持ち出され「この紋所が目に入らぬか」と読者につきつけるような構成です。その「印籠」には、「資本主義」と「成長神話」の紋所が入っていて、それをみたら、ひれ伏すしかないような絶対的な正義を喚起させる役割を果すことになっています。私の好きな『座頭市』もそうでした。「市」の居合切りの前では、どんな巨悪党でも、一刀両断されずにはすまされませんでしたから。
 わたしは斎藤幸平『人新世の「資本論」』を、ドラマ『水戸黄門』『座頭市』などと比べて、なにか不当な評価をしようとしているわけではありません。私などは特に『座頭市』が好きなものですから、そういう意図は全くありません。ではなぜ、そのような比較をするのかと言いますと、『人新世の「資本論」』を私は「アカデミックな演芸」のように読み終えていたからですし、そういう風に読むことが、この本の正しい読み方ではないかと思ってきたからです。「アカデミックな演芸」といっても悪い意味では無く、ヴォルテール風に言えば「哲学コント(演芸)」のようなものとして受けとめるのがいいと思って来ました。
 というのも、こういう「演芸」には「現実」とは別に、「義憤」をかき立てるような意図が至る所に込められていて、私は若い頃に、こういう「演芸」に触れておくことは大事だと思ってきました。わたし自身の学生時代を思い出すと、はっきりとそのことはわかります。私自身の体験は、「全共闘」や「大学紛争」、「反帝反スタ(反帝国主義反スターリン主義)」の体験であったりしたもので、総体としていえば「左翼体験」と言ってもいいと想いますが、それは「若気の至り」ではなく、若いときに感じる世の中の矛盾のようなものに対する「義憤の体験」としてあるものだったからです。
 私が斎藤幸平『人新世の「資本論」』をあえて「演芸」と呼び「義憤の書」としてよむのがいいと言うのかというと、「現実」はまた別のところにあると強く感じる所があったからです。(p173~4)

 村瀬は、斎藤の本で、格別に妙に気になっているところがある、として「それは「資本主義」の弊害を述べる中で、「人間らしい仕事」が出来なくなっていることへの批判をさまざまな例を上げて述べているところ」を指摘している。
「世界は『資本主義』のもとに動いているから、すべての人は『奴隷』のように働いていることになります。そうすると、こういう生活のどこかにしろ『肯定』するということは、『奴隷制』を肯定することになってゆきます。」として、論を進めます。

 社会に「義憤」を感じる次元と、「生きていること」を「肯定」する次元は、どこか深く異なっているのではないかということなんですね。それだから、子供の誕生日に勝ってきたケーキを前にして、このケーキの上に乗っている「おめでとう」の書かれたチョコレート板を指差して、これはアフリカの児童労働の盛んなココナツ農園で採られてものから作られているので、うれしそうに食べるべきではない、などと親は言ってはいけないということなんですね。誕生日を「肯定」すべき日に、そんな「否定」的なことを言って、大事な存在感をぶち壊すわすことがあって良いものかと私なら思うからです。(p181)

 そして、吉本隆明を引用している。

 第三世界の飢えにたいして責任があるのは第一に第三世界の国家権力であり、つぎに責任があるのは日本資本主義国家の国家権力であり、そのつぎに責任があるのはたぶん日本の大衆や知識人で」あるので、日本の知識人の責任までもってくるためには少なくともいくつかの壁をとおってかんがえなきゃいけないというのがぼくのかんがえ方で、それは何ら倫理の問題ではないんじゃないでしょうか、倫理が介入する余地は本当はないんですよ。個々の知識人がいかに苦慮するべきかという問題としては提起されない。(p182)

30数年前のこと。新宿の茶店でメニューに知らないドリンクがあったのでなんだろうと思って注文したところ、一緒に座っていた知人が、そんなの注文するのはおかしい、という。なんで? と聞くと、あれは南アフリカの児童労働によってつくられたものだから、それを注文するのはおかしい、という。知らないものだからどんなもんだろうと思って注文してみた、と言ったが、今度は、知らないのがおかしい、ときた。
あれは「義憤」だったのだろう、と思い出した。
 もちろん「知識人」に対してもそうだけれど、「知識人」ではない私に、「義憤」をぶつけても、何が生まれるわけでもない。

 私はこの本を読む多くの若い人が、グローバル化する資本主義が、地球の資源の破壊や気候変動をもたらし、多くの人々の生活を貧困に陥れていることの指摘をしていることに、共感し、そういう世界になってきいていることに大きな「義憤」を感じることは良いことだと思っています。
 でも何かしらこの本に奇妙な違和感を感じるのかと言いますと、著者がこの本を「演芸商品」でhなく、何かしら「思想書」のようなものとして提出している感じがするところなんです。その「奇妙な感じ」が現れているのが、六ヶ月で三〇〇〇万円の収入を得てしまうことの「システム」についてです。著者にたずねても、誰にたずねても、それは「違法」ではなく「合法的」なものと認めるものでしたが、実はこの理屈は、コカコーラやWindowsのようなパソコンを売って巨万の利益を得る資本家の言い分と少しも変わらないということなんですね。彼らも少しも「違法」なことをしているわけではなく、まったく「合法的」にそういうことをしているだけの(こと)ですから。そしてそれが「資本主義」のシステムの受け入れから生じている「富」にすぎないということなのです。
 ところが斎藤幸平の本は、この「資本主義」を根本点に否定売ることで売り出しているのに、ほんの出版が大手の出版社の大資本のシステムを受容するところで出版、販売されているものですから、「売れる商品」の性格を持てば、それは巨万の富を得るところに自動的に向かってしまいます。そうして「売れるシステム」そのものを否定しているのですから、誰が見ても不思議にうつるのではないでしょうか。
 多くの現実的で良心的な知識人は、この「資本主義」という化け物の「合法性」までは否定できないでいるなかで、突然に「資本主義」そのものを全面否定する「理論」で登場してきて、そしてちゃっかりと巨万の富を得るということになっていれば、それはいくらなんでも、おかしいのではという疑問符がつくことになると思います。でも私は、それを「理論」書と考えないで「演芸」と考えれば、この本が根本に抱える矛盾に「怒り」をもつよりか、こういう「売り方」もありなのだと認められるように感じてきました。
 そういうふうにこの本を読まないと、ここに書かれている極論やアカデミズムの言葉として操作される用語軍(資本主義、脱成長、コミュニズム、気候正義など)が、著者が繰り返し否定しているかつての古い左翼が使っていた扇動用語に似たような性質をおびているところがとても気になってしまうからです。そもそも、「資本主義」が、従来の国家の枠を越えてグローバル化してゆく道筋には、見返りとしての国家の利益、後進国の国家の利益、政治的権力者の利益、資本家へ税金優遇策、富裕層からの賄賂(政治献金)、巧妙な税金逃れ、などなどの「異様な欺瞞」が働いていて、それが「資本主義」と手を組んで実現してきた環境破壊や民衆の貧困があって、その「非」nすべてが「資本主義」という一言でくくられるものではない事は、私たちが戦後の左翼運動とその批判を通して学び得て来たことでした。(p185~6)

 この論考は、この雑誌を編集・発行している佐藤幹夫の問に答えるという構成になっており、同誌に往復メールとして佐藤の返信メール「『新たな時代のマルクス』をめぐって――賢治と吉本隆明と斎藤幸平」が続いている。

2022年01月19日

『塚森裕太がログアウトしたら』浅原ナオト(幻冬舎.2020)残日録220112

著者の『御徒町カグヤナイツ』ではこんな中学生はいないだろう、と灰谷健次郎『太陽の子』以来、数十年たって久々に思ったが、『塚原裕太…』のほうは高校生の話で、まあこっちは成り立っているなあ、と思った。でも内省として描かれる自己分析が出来すぎというところはある。
塚原裕太という主人公は「顔が良くて、勉強ができて、スポーツができて、性格が良い」その彼がインスタでゲイであることをカミングアウトする。そのことは、多くの人に肯定的に受け止められる。
塚森を含む5人の一週間の話。

第1章.清水瑛斗は塚森と同じ学校の生徒で隠れゲイ。2000円で団地の4回でタバコ臭い男とセックスをしている。塚森のカミングアウトに匿名で「こいつと同じ高校のゲイだけどこういう自分に酔ったカミングアウト本当に迷惑。人生充実しているキラキラマンには話題にされたくないって感覚がわからないのかな。みんなお前みたいに強いわけじゃないんだけど」と悪態をつく。
塚森はそれに反応して、高校の昼休みの全校放送で、隠れゲイがこの学校にもいることを伝え、当事者を傷つけてしまうようなことはしてほしくない、と伝える。この発言は拍手を持って向かい入れられる。
バスケットボール部のエースの塚森が週末の試合で精彩を欠く。清水は僕のせいじゃない。と思う。どうして精細がないのかは、謎として最終章まで持ち越される。
終わりの頃に、第3章の内藤まゆが登場する。「塚森先輩が何を考えているのか、知りたいんだ。なんでカミングアウトをしたのか。なんで全校放送を流したのか。カミングアウトも全校放送も大成功なのに、なんで今日はあんなに調子が悪いのか。そういうの、ちゃんと理解したい。それがすごく、自分にとって大事なことな気がするんだ」と清水が内藤に訊ねる。「好きな人のこと、分からないから分かりたいと思うし、分かろうとするんでしょ」と内藤は答える。
清水は「僕は自分を認められないから、自分のことが嫌いだった訳ではない。/自分のことが好きだから。/自分はもっとやれると信じているから。/だから、何もできない自分を認められなかったのだ。」というところに行き着く。これはネガとポジとして終章にまで届いている。いい伏線になっている。

第2章.小山田貴文は娘がレズビアンかもしれないと疑う藤森の通う高校の教員である。親しいバスケの顧問教員梅澤を介して、藤森に接近する。梅澤は塚森のしようとしている全校放送について「立派すぎるんだよ」と言う。小山田はスピーチを聞いて「内容も話し方も高校生とは思えない素晴らしいスピーチだと感じた」。「あいつはどういう顔でスピーチを聞いていたのだろう。食堂に入るはずの梅澤を思い出しながら、弁当のプチトマトを頬張る」。
「同性愛の知り合いとの接し方に困っている」という小山田の相談に塚森は「機械みたいな出来すぎな」返答を返す。「ああいう風に世界を俯瞰できる子」という小山田の言葉に、梅澤は「決定的に意見を違えている」。その梅澤に小山田は「お前は目の前の塚森くんを、ありのままに認めてやればいいんだ」と言う。
試合の前日に「塚森くん、と揉めた」武井進が登場する。揉めた内容は第4章になるまでわからない。小山田は「何もしなかったから、なるようになった。それだけなんだよ。人と人は放っておいたら離れるものなんだ。だから繋がりたい人とは、必死になって繋がらなくちゃならない。僕はそれに気づいていなかった」と、家族であるから繋がっていると思っていた己を顧みつつ、「もし君が、まだ塚森くんと繋がりたいと思っているなら、必死にならなきゃいけないよ」といい、武井と自分に、まだ「間に合うよ」と言う。
塚森の物語に巻き込まれた梅澤は「俺も色々、分かったことがある。分からないことも」と小山田に試合が終わったら話す、という。「負けちまえばいいんだ」と呟く。

第3章.内藤まゆは妻森ファンの女子高生。塚森がゲイでも応援し続ける。インスタでのゲイとカミングアウトした塚森に「感動しました! 塚森先輩がどんな人でも、私は塚森先輩を支え続けます」と即刻コメントを打つ。塚森の追っかけとして分かる範囲の試合は観戦する。それを最優先している。内藤はファンと自称している。バスケのマネージャーの佐伯先輩が塚森のことを好きだと分かっている。
「私たちきっと、裕太のことを何も見ていなかったんだよ。自分勝手に見ているつもりになって、自惚れていただけ。これからどうなるにしても、どうするにしても、まずそれを認めないといけない」という佐伯に、「わたしは違う。わたしは塚森先輩のことちゃんと見てきた。ゲイであることに気づかなかったのは、単に気にしていなかったからだ。わたしは塚森先輩と付き合いたいわけではないから、塚森先輩が誰のことを好きでも良かった。自分を好きになってほしかった佐伯先輩とはそもそもポジションが違う」と言い聞かせる。
けなげだ。
全校放送のあった日のバスケの練習は大量のギャラリーで溢れている。「語るカリスマと大衆という関係が、塚森先輩の存在力によって作り上げられた」と内藤は思う。塚森が練習の妨げになるので、とギャラリーの退場を促す。
試合当日、練習の見学者を追い返したことを、塚森から「内藤さんにはどういう風に見えてたかなと思って」と聞かれる。「素敵だ」「いつも通り立派で、カッコよかったです」と答えると、「ほんの一瞬。/パラパラ漫画に一枚おかしな絵が混ざったみたいに、塚森先輩の表情がほんの一瞬だけ歪んだ」。内藤は気になった。
精細のないプレイをする塚森に、去年のインハイの準決勝を思い出し、「あの時は塚森先輩が手を振ってくれた。今度はわたしだ。そういう想いで笑みを浮かべ、ひらひらと手を振る。/塚森先輩が、ぷいと頭を下げた。」
内藤は、「どうしたって好きになれない相手に好意を向けられて、差し入れなんか送られて、さぞ鬱陶しかっただろう」と気づく。
「好きじゃん。/わたし、塚森先輩のこと、めちゃくちゃ好きじゃん」と気づく。
その後、清水に会い、武井とすれ違い、小山田と会う。

第4章.武井進はバスケ部の一年生。塚森のカミングアウトをどうしても受け入れられない。
阿部先輩と塚森先輩がストレッチをしている。「余計な情報が入っているせいで特殊な意味を帯びて見える。阿部先輩は今、どういう気持で塚森先輩とのストレッチをしているのだろう。塚森先輩は今まで、どういう気持で阿部先輩にストレッチの相手をさせていたのだろう。考えなくてもいいのに、考えないほうがいいのに、つい考えてしまう」武井だった。
阿部先輩が「俺が言いたいのは、お前らにはあいつの味方をやって欲しいことだ。誰かにあいつのことを聞かれたら褒めてほしい。バカにするやつがいたら止めて欲しい。あいつがすごいプレーヤーで、すごいいいやつなんだって、そう伝えて欲しいんだ。俺はあいつがそう言われるだけのことをやってきたと思っている。お前達だってそうだろ。あいつのこと、すくなくとも嫌いでないだろ」と言う。同意しない武井がいる。

武井が塚森にひどいことを言った。
小山田先生は「間に合うよ」「きっと、間に合う」と言う。

「おれは許されない事をした。本当ならこのまま部活を辞めて、責任をとらなくちゃならない。だけど辞めない。しがみつく」/流れに任せてはいけない。なるようになってはいけない。何も選ばなければ離れて行ってしまう人と、これからもきちんと繋がり続けるために。/「そのためには、無理をしないわけにはいかないだろう」と言い切る武井だった。
塚森を「バスケの神様」だと思っていた武井は、「貴方はやっぱり、神さまではない。/人間だ。おれと何も変わらない、ティーンエイジャーの少年。それに気づかなかったおれに、気づかずめちゃくちゃにしてしまったおれに、謝るチャンスを与えて欲しい。もう手遅れかもしれない。間に合わないかもしれない。だけど試すことすらできないのはイヤだ。だから、この試合は――/――勝ってください。」

ここまで仕込みに仕込んだ。伏線もそろっている。

第5章.当事者、塚森裕太。バスケ部エースで人気者。カミングアウトもあたたかく受け入れられ、完璧な「塚森裕太」であり続けようとするが……。

あまり小説は読まない。こういうの、山田詠美『学問』以来かな。セックスから学ぶところはないけれど。
もう少し書き込むと、苦しさが勝ってしまう。いいところでまとまりをつけているなあと思った。
梅澤先生の章はさすがにあるわけがないだろう。スピンオフならありか。

2022年01月12日

頌春 2022 残日録220101

頌春
植物が冬眠するのだということ、鍬で耕され、肥料をもらい、移植され、挿し木に使われ、剪定され、支柱にくくられ、種が熟さないように咲いた花を切られ、枯れた葉を取ってもらい、病気から保護されているものだということを、正確に知っているものはいない。
素人園芸家になるには、ある程度、人間が熟していなければならない。
おまけに、自分の庭を持つことが必要だ。
年配になるとどこかに庭らしきものを持ち、そこに何かを植える。その何かは、新しい年を迎えるごとに高さと美しさが増していく。ありがたいことに、私たちはまた一年齢をとる。
                      種本:チャペック『園芸家12カ月』

2022年01月04日

2021年・年の暮れ 残日録2101226

昨年から、逆流性食道炎や肺血栓、それに加えて貧血症を併発していたのだが、ようやく回復ということになった。体調も少しずつ良くなっている。
年をまたいて、2月の研究集会での発表と4月末までの原稿化に取り組んだ「児童サービスにおける『子ども観』」が、この12月に「図書館評論No.62」に収録された。
3月に加古川市立図書館での「江戸時代を楽しむ」という講演をした。これは、コロナ禍以前に木之本まちづくりセンターでやった日本歴史入門講座①~④の続編で、内容を90分に濃縮したもの。受講生に小学校の同級生が来ていて、同窓会での軽薄な印象との違いに驚かれたそうだ。まあ、ちょっと値の張るスーツ姿だから驚いたことだろう。
5月以降は読書に明け暮れていた日々だった。読了するつもりだったブルデュー『ディスタシオン』は夏頃に手放してしまい、しばらく読む気になるのを待つことにした。
宮崎県立図書館からの県内の図書館員への研修依頼があり、秋ごろから12月の遠隔の講演に向けてパワーポイント作成。テーマは選書だった。宮崎県立看護大学の初代学長の薄井坦子の本が宮崎市立に2冊蔵書としてあるけれど(他の図書館にも1冊所蔵)、県立図書館に未所蔵なのには驚いた。感想は好評だったが、どれだけ実践につなげていただけるか、だろう。コロナ禍以前に高知県で選書のワークショップもしていたが、現場を離れて10年近くになる。代わりの人材が出てくればいいのだが、と思う。
年賀状を投函し終え、ようやくのんびりした気分になっている。
大学の非常勤講師はあと一年。2023年3月末をもって図書館関連の団体から少しずつ脱会しようと思っている。残るのは仮説実験授業研究会と縮小社会研究会あたりだろう。
図書館関連で残しているのは「ヤングアダルト・サービス」についての論考で、来年の課題となるだろう。本来は来年の研究集会で発表し、来年内に論文化するのがベストだが、青少年に対する昨今の研究を追えていないので一年延ばすこととした。
アベノミクスの成長戦略については、以前「「成長戦略」と徳川吉宗「新規御法度」」としてブログに書いたが、TV番組の「博士ちゃん」を見ているとこれからの日本にも期待が持てる気がしている。いまのところ既存の知識を独自に集積している段階だが、成長するにつれて発明・発見につながるだろう。好奇心が基礎学力を自ら鍛えているところがいい。
電気工事士第一種(小5で)・第二種(小3で)を取得した「博士ちゃん」は父から「幼稚園児に電気設備の専門書を見せてもわからないので、『読み聞かせ』をしてもらっていたという。小学校に上がる頃には、「自分で読めるようになりたい」と、専門書の難しい漢字を書き取り、意味を調べるようになったという。
この番組で、同じようなことに関心を持つ子どもたちのネットワークが生まれたりしている。それもいいなあと思う。

2021年12月26日

『小説岸信介常在戦場』池田太郎(社会評論社.2014)残日録211225

占領下のGHQでの話。
「……次の点でも我々(=ウイロビー+ジョージ+サカナリ+河辺虎四郎+有末精三+服部卓四郎←明定)の意見は完全一致した。現在GHQ民政局を中心にして行われている日本の過度の民主化政策は間違っている。極東軍事法廷が日本の旧体制を一掃した場合、日本の復興は完全に十年遅れる。そうなれば、いまソヴィエトの援助を受けて中国大陸で大攻勢に出ている中国共産党の影響を日本はモロに受ける。米映画日本の占領を解いたトタン、日本は共産化されるだろう。戦争犯罪を観念的に規定し優秀な人材を根こそぎ起訴するならば、日本は弱体化し、二度と立ち上がれなくなる」(P135~6)

起訴から外す候補に「岸信介」が入った。

岸への訪問を縫うように、ウイロビーの移行を受けた河辺虎四郎がジョージたちのセクションに一つの提案を持ち込んできた。
石原、登場、岸、鮎川以前から満州入りしていて、満州の石原・岸・鮎川を知る人物はGHQ第一生命ビルと目と鼻の先、日比谷公園内に焼け残った日比谷図書館に努めていた。彼にあって話を聴こう、というのだ。

ジョージとサカナリは河辺の案内で、図書館三階の日本図書館協会理事長室に、旧満州鉄道奉天図書館長を務めた衛藤利夫(六三)歳を訪ねた。
 河辺によれば、衛藤は二十年間満州で満鉄図書館のライブラリーマンとして過ごし、満蒙に関する書籍の一大収集家として知られていた。スコットランドから満蒙に入った伝道師ヂュガルド・クリスティの著作「奉天生活三十年」を、生きた日本語に翻訳した人でもあり、まさに満州の字引的存在だという。
 河辺は、ジョージとサカナリがGHQの情報部員であることも、隠さず衛藤に紹介した。
(略)
「天皇を筆頭に、東条さんや岸さん、私も含めて日本人全体がこの戦争に責任があるのだと思っています。」
 ジョージは驚いた。こうハッキリといった日本人には初めてあったような気がする。サカナリも頷いていた。                         (P155~157)

 衛藤は政治と距離を持つ図書館人ではなかった。杉原千畝とも関わりを持ち、政財界との交流も深い。戦前の岸との接点を引用しておく。

開戦から2年を経た支那戦線は、表向きは日本の連勝だが、奥地へ奥地へと誘い込まれ、戦線が異常に長く伸びるだけで完全に行き詰まっていた。
その状況を見て、1939年(昭和14年)8月末、鮎川(義介;内地で評判の大衆投資会社・日産総裁←明定)は満州重工業新京ビルの奥まった一室で「ユダヤ問題研究会」を開いた。岸信介、安田大佐、片倉衷少佐、衛藤利夫館長、ユダヤ人協会のヤボ、鮎川の秘書美保勘太郎が参加した。
(略)
 「関東軍と国務院は満州で強力な統制経済を推進すると言ったが、期待した内地からの資本の投下は行われなかった。そこでわし(鮎川←明定)が満州へ来た。一方、アメリカでは日本軍の支那侵攻に避難の声が高まっておる。アメリカも支那を市場として考えておるからだ。したがってこの状況を一撃に打開する国際的で合法的な一手こそ、米軍のユダヤ資本の満州への投下である! アメリカ人もそう考えておるのだ」
 この時、それまで下を向いていた衛藤が顔を上げた。
 「総裁。一つ尋ねしたいことがあります」
 「衛藤館長。何なりどうぞ」
 鮎川が手を差し伸べた。
 「その資本投下への担保は何でしょう」
 「担保? そりゃあ衛藤さん…」
 鮎川が不意を衝かれて言いよどんだ。
 「米国のユダヤ資本投下に対する担保です」
 「何を言う!」
 安田大佐が思わずステッキを握った。
 「そりゃあ何ですな。担保はこの満州だ。それ以外にありません」
 岸がサラリと言ってのけた。
 斎藤は岸に向き直った。
 「岸さん。その満州は誰のものです? 少なくとも日本のモノじゃぁない。石原中佐たちが一夜にして銃弾の力で奪ったモノじゃないですか! わたしの三男が最後まで身から離さなかった聖書の、栞の挟まれたページに書かれておりました。『剣を取るものはみな、剣によって滅ぶ』。剣で奪い、それを担保にして金を借りれば、わたしたち日本人は火点け強盗、人殺しの類になる」
 ハラハラしてヤポが叫んだ。
 「衛藤さんの息子さんは先週、病院で亡くなられたんです!」
 「息子さんが?」
 鮎川も驚く。
 「わたしと一緒にユダヤ教会に通い、ユダヤ人大会を応援してくださった方でした!」
 片倉がニヤリとした。
 「関東軍は満州を支那から切り離し。傀儡政権を作った。つまり満州は我が領土じゃないですか! これは領土を担保とする正々堂々の商取引ですよ」
 しかし衛藤は引き下がらなかった。
 「満州は、満蒙の人の土地、財産、権益、資源です。世界中が知っている! だから、ユダヤ資本の導入も、日米による詐欺、掠奪、強盗の類ですよ!」
 安だが唸った。
 「詐欺、掠奪、強盗だとぉ?」
 鮎川が手を上げて安江を制した。
 「衛藤館長。仰る事はわかる。われわれは当然満人からするとモラルを問われる。それには答えなければならない」
 「ならばお聞きします。鮎川さんの目的は何ですか? 五族協和、王道楽土は嘘っぱちだった。それに代わる目的は何ですか」
 その時、それまで黙っていた岸が割って入った。
 「衛藤さん、あなたの目的は何です?」
 衛藤が岸に向き直る。
 「逆にお聴きします! 岸さん、あなたは満州町の総務副長官だ。あなたは満州の人々に何をするためにここへきたのか? 何をしているのか? あなたは満人のために何をしたいと考えるのか? 満人のクーリーのために何をするのか?」
 「私は満人のためでではない、日本人のために満州に来たんですよ」
 「日本人のため?」
 「そうです。だから満州へ来た」
 「日本人のためなら、日本にもクーリーはいる。その人たちのためなら、満人のクーリーのためもあるんじゃないですか?」
 岸が腹を抱えて笑った。
 「では聞く。衛藤くん、君の目的は何だ。満州をどうすればいい?」
 「満州自由経済圏。十年後までに満州に産業を整備し、関東軍は引き揚げる。永世中立国満州国を世界に宣言する! クリスティの理想には遠く及ばない。でも、その第一歩がユダヤ資本の導入ならば私は賛成です!」
 安田が愛用のステッキを握りしめた。 
 「ええい。四の五の言いやがる! てめえはヤソと一緒か! 外へ出ろ、根性を叩きなおしてやるッ」
 ヤポが安田のステッキに縋った。片倉も安田と衛藤の間に割って入った。衛藤はやめなかった。
 「鮎川さん、わたしが貴方についてきたのは、マネーでサーベル組を黙らせると仰ったからです。ところが満州重工業は今やサーベルに使われている。これではわたしはついていけない」 
 岸は何も言わず微笑していた。
 鮎川が厳しい顔で乗り出した。

「わたしには議論をする時間はない。なすべきはユダヤ資本の一日も早い満州への導入、日米戦争の回避だ」
 岸が続く。
 「ユダヤ資本の投下、アメリカによる中国戦線の仲裁、ですな」
 鮎川が大きく肯いた。
 「こうなったらわしが動く。本年中にヨーロッパへ旅立つ。機を見てアメリカへ渡り、ローズベルトに会う」
 「ローズベルト!」
 全員に衝撃が走った。
 「ローズベルトに直接、資本投下とシナの和平工作を頼む。衛藤くん、どうだろう?」
 衛藤は無言だった。
(P207~214)

 長い引用だが、中国における衛藤については前々から少し関心を持っていた。内山完造の本のなかに魯迅などとの対談に出ていることを20歳代前半に知っていたから、ただの満鉄奉天図書館長というわけでもないなあ、とその立ち位置に興味があった。
この小説に登場する衛藤に出会えて、岸のような国家社会主義的な統制経済を唱える「革新官僚」や満鉄調査部などへの関心が少し蘇った。


2021年12月25日

『昭和演劇大全集』渡辺保・高泉淳子(平凡社.2012)残日録211221

この本のなかに松竹新喜劇の『船場の子守歌』が出てくる。

船場の薬問屋祝い天心堂は、岩井長平が本家からの暖簾わけで一代で築いた店である。長男の平太郎に店をゆずり、長平が二年ほど四国で暮らしていた間に事件が起きていた。腕利きの社員吉田を、本家と類似した薬を販売した廉で店をクビにしたのだが、吉田は長平の孫娘・清子の恋人で二人は出奔してしまった。吉田は通販の仕事、清子は手内職で貸間暮らししながら、もう赤ちゃんも生まれていると聞かされるが平太郎は許そうとしない。そこへ長平が何も知らずに船場に帰ってくる。不始末を隠そうと七転八倒する平太郎一家。何かあると察した長平が、二人のつつましい貸間に一人で尋ねてくる。強情を張るばかりが生き方でないと清子を諭しているところへ、平太郎がやってくる。あわてて曾孫を抱いて物干し台に隠れる長平の障子超しに、平太郎は初孫に会いたいという。曾孫が泣き出し長平が先回りしていたこともわかり、一家はすべてを許しあい元の鞘におさまることになる。(P296)

こういう話です。

渡辺 僕は松竹新喜劇ならではの特色が二つあると思うんですよ。一つは、東京の人間にはそこがちょっと距離感があるとこなんだけど、教訓なんです。あの名作「桂春団治」(昭和二十七年)でも、牡蠣船のところ(後編二幕二場)で、女と金で窮地に立った春団治が、人に笑ってもらう芸だけでええ、と人生訓をいうわけだよね。新喜劇のレパートリーにはどの作品にもああいう人生の教訓があると思う。「船場の子守歌」でも、おじいちゃんが、親と子の絆を説き、可愛い孫への愛情を語って、孫娘を説得するところに人生訓がありますよね。それは偉い先生の人生哲学じゃなくて、町場で生きている普通の市民の人生訓なんです。それがすんなり観客の耳に入って、涙と笑いとに結びついてくるんです。もともと、江戸時代から大坂には富永仲基とか、石田梅岩みたいな町の学者が大勢いたし、懐徳堂みたいな学校もあったわけです。普通のお店の人たちが、そういう学校や、町の儒者のもとに通うのは、町民が商業都市の中で商業道徳上どう生きたらいいかと常に考えていたからだと思うのね。「船場の子守歌」でも、儲けりゃいいってもんじゃないと言っているでしょ。それは現代にも当てはまるじゃないですか。昭和の終わりまで新喜劇が言い残ってきたのは、大阪という町の歴史的背景と同時に、お客と同じ目線で生きてきた市井の人生訓があったからですよ。私はそれが松竹新喜劇の強みであり特色だと思います。(P298)

なるほど、と納得した。人生訓のところで、「そうや、そうや」と観客が拍手するのやった。

渡辺 喜劇はいろいろとあって、ギャグで作る喜劇とか、スラップスティックっていう無意味な喜劇とかいろいろありますよね。その中で関西の喜劇は口立てで面白くしていくシチュエーション喜劇だと思うのね。東京の喜劇は、アドリブではなくて、まず台本ありきなんだから、現場主義と台本主義の違いが、東京と関西の大きな違いだと思いますね。どっちも喜劇としては大事なんです。(P301)

朝ドラ「おちょやん」のモデルだった元新喜劇の役者の浪花千栄子もアドリブの美味い役者だった。芦屋小雁が「浪花千栄子とは舞台でもよくご一緒しました。勝手に演ってしまわはる人やから、有名な監督の映画に出たら大変やと思うわ。小津安二郎の『彼岸花』‘58でも、小津監督がとめてとめて、やっとここまで、という感じと違う?」(『シネマで夢を見てたいねん』P184)と書いている。

この本には、僕が追っかけをしていた太田省吾の劇も取り上げられている。取り上げられた「小町風伝」が初めての太田劇との出会いだった。

襤褸の十二単衣に身をつつんだ老婆が、ゆるい風に身を任せるように、橋掛かりをゆっくり登場する。独り住まいのアパートの一室で、老婆は若い頃の軍人との短い夫婦生活を回想する。朝のラジオ体操が聞こえる中で、大谷が十八年間に三言しかはなしたことのない老婆のしもの世話をしにやってくる。隣の家では父と娘、息子がいつものような朝の食卓を囲み、出勤する風景がくりひろげられる。老婆は再び回想のなかに入っていく。医者がやってきて老婆を診察するが、その不思議な生命力は解明できない。フォークダンスの音楽が流れ、町内は運動会が開かれているようだ。人々が去っていくと老婆が一人舞台に残され、風のありかをたずねるようにひとり去っていく。(P378)

高泉 わたしは先輩から、すごい舞台だから覚悟して、見に行ってご覧いわれて行ったんです(笑い)。最初の出にもうびっくりして、観客がいったいどうなっているのかしらと思った頃にようやく、これは老婆の夢の世界だということがわかってくる。舞台に登場人物が、戸とかいろんな道具を持って登場してくるでしょ。あそこがいいんですね。
渡辺 刺激的でしたよね。
高泉 そして、やっと現実のせりふになる。あれだけ長く音のない時間を過ごした後、声を聞くとほんとにホッとするんですね、劇場で言葉を聞くのは当たり前なんだけど、そのせりふは日常の会話なんですね。がらりと変わるあの手法がすごく印象に残っていますね。
渡辺 この芝居は、幻想の部分と現実の部分、沈黙のところと饒舌なところがうまく重なってよくできているんですね。老婆の幻想t現実の場面、アパートの隣の世界で起きる現実と、老婆の幻想だけで成立してる部分が一つの舞台の中でうまくつながっていきのは太田さんの功績ですね。(P382~383)
高泉 太田さんのほうは、一種のスローモーションですね。
渡辺 スローモーションでやってみると人生の現実、あるいは幻想の持っている虚偽性とか真実が明らかになる。現実を顕微鏡にかけて拡大して細かく見るというのが太田さんの演出なんですね。脳はゆっくりしているように見えるけど、実は、速いところは結構速い。俳優の身体としていえば、能役者は舞台の上で緊張してるから、長い時間は持たないんです。
高泉 あぁ、そうなんですか。太田さんの舞台では、時間のずれとか、その虚構感のズレとかがスローモーションで演じる役者の体で表現されていますね。
渡辺 「小町風伝」の冒頭は、なんで長いんだろうと、それは高泉さんだけじゃなく、観客はみな、私だって思いましたよ。だけどその時間をゆっくりと見ることで、観客は、太田省吾にその世界の一部を開かされたわけだよね。だから、脳と転形劇場はゆっくりしているようだけど、「小町風伝」で佐藤さんが演じている老婆と、能役者の演じる、たとえば、「関町小町」なり「卒塔婆小町」の小野とは、対照的に違うんですよね。(P381~382)

記憶では「地の駅」だったと思うが、大谷石地下採掘場跡で初演した時、セリフのない沈黙劇の緊張に耐えられなくなった観客が、煎餅を音を立てて食べ出したことがあって、近くの人が「静かにしなさい」か「静かにさせなさい」とか言ってざわついたことがあった。その後「クックック」と引いた笑い声がした。こんな不便なところに誘った連中も連中だなあと思った。

2021年12月21日

『真夜中の図書館/図書館を作る』辻桂子 郁朋社.2006 残日録211130

「マ・ヨ・ト」の司書さんはいつも人を見ている。きっとニコニコしたポーカーフェイスで〈僕はあなたの借りる本なんかに、関心はありませんね〉というようにお天気の話なんかしながら本を並べたりしているに違いない。それでいながら、あの人はこの前もあの本棚の前で長い時間立ち止まっていたな、なんてことを頭の隅に書き残しているに違いない。そして、彼女にきっと必要とされるだろうという本を注文し、本棚に並べる。それからあの大きな目をくりっと回して「きっと来る」とまじないをかける。毎日、毎日、図書館の中でこんな素敵な罠をいっぱい仕掛けて「今日は誰が来るかな」とわくわくして待っている。すると、大体1ヶ月、いや3ヶ月もかかるかな、彼女は罠にかかって本を手にする。それが自分のために並べられた本だとは露知らず「この本が読みたかったのよ」とか何とか言いながらカウンターに向かう。それを見た「マ・ヨ・ト」の司書さんは、やれやれと一仕事終えた満足感に浸りながら本棚へ向かい「次はこれとこれ」と本の背表紙を少しだけ前に引き出す。彼女が次にこの本を読んでくれるように……。
 そんな「マ・ヨ・ト」の司書さんの正体はきっと「いそぎんちゃく」に違いない。図書館の本の海に住んでいて、体中から何千本の透明な触手をまちの隅々まで伸ばし「みんなの暮らし」や「まちの悩み」や「子どもの涙」なんかをそっとなでている。夜になると、ビールなんか飲みながら、ふぅーと、ため息をついて、今度買う本のことを考えている。海の広さはちょうどこのコミュニティぐらいあって、浅瀬にも岩場にもいろんな人が住んでいる。月の夜に生まれたばかりの赤ちゃんもいるし、一体いくつになったのか誰も知らない大亀もいる。「マ・ヨ・ト」の司書さんは物珍しそうに、波間を漂いながらいろんな人と友達になる。
図書館の海は、その深いところにコミュニティの遠い昔を抱えている。「マ・ヨ・ト」の司書さんはときには歴史に埋もれて、じっと過去を見ている。かと思えば、嵐の海で危険を冒しながら波を飛び出し、真っ暗な海で灯台の明かりを探す。未来がどっちの方向なのかをどうしても知らなければならないからだ。
辻桂子『真夜中の図書館/図書館を作る』郁朋社.2006年 (p79~80)

辻桂子さんは、出版された時点では、西日本新聞地域情報誌『エルル』記者。司書・生涯学習インストラクター。前原氏の図書館作りを応援する会、「ぶっくくらぶ」代表。「図書館発見塾」代表。などとある。現在も地域づくりアドバイザーとして「ワークショップ型計画づくり」「ワークショップ型研修会」などの「まちづくり」に関わっておられるようだ。(ネット上の同姓同名の情報だから確実なものではないが、福岡県内の「辻桂子」ではあるのだ。)
 図書館員が本を選ぶ、その行為への期待が書かれているといってよいだろう。「未来がどっちの方向なのかを知らなければならない」のだが、そのためには、「予想」を立て「実験」結果(社会の進み方)から学び、社会認識を深めていくしかないのだろう。
 来月は宮崎の図書館員に向けて「選書」の話を遠隔でする。はじめのところで、辻さんのこの部分を紹介することにしている。

2021年11月30日

『迷走する民主主義』森政稔.2016.3 残日録211102 

著者の森は1959年生まれ。私より7才年下。団塊の世代に近い私と違って、全共闘世代と距離をもっての思考の所為を感じる一冊です。

 じつをいうと、本書はもともとずっと以前の政権交代時、民主党新政権が圧倒的な支持を得ていたときに、これではまずいのではないかと言おうとして構想しはじめ、その後、政治の変化に応じて何度も書き直してできたものである。私の政治についても見通しなど、これまで当たったことはないが、今回は例外だった。
 小泉政権以来、新自由主義にシフトした自民党政治に対する批判者として、私は民主党の存在に意義があると考えてはきたが、二〇〇九年の政権交代時の民主党のマニュフェストの内容および政治権力についての考え方に接して、それらには大いに問題があるように思われた。それにもかかわらず、メディアや世論がお祭り騒ぎに浸っているのは、かえって将来的には大きな反動をもたらす恐れがあり、民主主義思想からする問題点を書きとめておこうとしたのが、本書の出発点だった。その結果は予想以上の速さでの民主党政権の失墜であり、そのために本書のもともとの案(本書第Ⅱ部を中心とするもの)は、批判の対象と発表の機会を失ってしまった。
 しかいいろいろと迷ったあと、民主党政権の問題点を検討したもとの部分に、その後書き加えた部分、すなわち、現代社会の変動のなかで民主主義が直面している困難についての考察(第Ⅰ部)、そして金融恐慌や大震災というカタストロフを経て民主主義思想が何かを考えるべきか検討した部分(第Ⅲ部)を合わせて、あらためて世に問うことにした。(p12-13


とあります。
「第6章 民主党政権の失敗——その政治思想的検討」の部分だけでも、民主党関係者にどれほどの影響を与えたのだろうか、と思う。政治家や支援者は本を読む時間がないのかもしれない。また、話題にすることがないのかもしれない。そう思うと寂しい気がします。少しは影響があったのだろうか。そう思うと寂しさが増します。
大平正芳や前尾繫三郎といった政治家であり読書家が語り継がれているのだが、今日では誰なのだろう。村上誠一郎あたりかな。

2021年11月02日

『一度きりの大泉の話』萩尾望都.河出書房新社.2021 残日録211012

 「大泉に住んでいた時代のことはほとんど誰にもお話しせず、忘れてというか、封印していました。/しかし今回は、その当時の大泉のことを初めてお話ししようと思います。この執筆が終わりましたら、もう一度この記憶は永久凍土に封じ込めるつもりです。埋めた過去を掘り起こすことが、もう、ありませんように。」と帯にあります。
竹宮惠子が『少年の名はジルベール』小学館.2016 という『風と木の歌』の連載を始めるまで(1976~)の自伝本を出版し、その中に萩尾望都と共同生活をしていた1970から1972年までの大泉での2年間が書かれており、そのせいで対談やドラマ化の話がもちこまれたりして、周りが騒がしくなります。
当時の大泉(竹宮と萩尾、そしてのちに竹宮のブレインとなる浪人生の増山法恵の3人を中心にしたサロン)のこと、ずっと沈黙していた理由や、お別れした経緯など、封印していた記憶を一度は書くしかない、と思うようになりこの一冊が生まれることになります。
竹宮は『少年の名はジルベール』のなかで、

萩尾さんに関していえば、はたから見ても絵を描くのに迷いというものがないように思えたし、それくらい素直に描いている様子だった。
「あえて言えば……」と、萩尾さんが続けた。
「私、人物を横から見たときの肩の感じがうまく描けないんだよ」
 肩? 横から見た時の肩? 私そんなこと考えたこともないと思った。
「あなたは上手に描けていると思うの。私のは遠近感がなくて」
「え、そう? 描けてないかな?」と言いながら、あらためて彼女の絵をのぞき込んだりしたが、その時はよくわからなかった。
(略)
でもそれは彼女が「あえて言えば」気になっている部分にすぎない。それを補って余りあるものが彼女にはすでに備わっていたからだ。萩尾さんの漫画をえがく技術には、私だけでなく、大泉を訪れる多くの人々が並々ならぬ関心を持っていた。
話の作り方、演出方法にしても、私自身はすごくオーソドックスなタイプだと思うのだが、彼女の場合は、意外なところから切り込んでいた。その切り込み方自体に興味があった。彼女の作品には先が読める展開が少ない。いきなり何かの事件の最中を見せてしまうという、作家として非常に勇気が必要なことを形にしてしまう。(p132-3)

萩尾の『ポーの一族』シリーズの成功に、竹宮は「大きな才能に置いていかれそうな不安を、これ以上感じていたくなかった。」(p167)「わずか2年なのに、大泉での日々は、5年にも6年にも感じられた。/萩尾さんには、彼女に対するジェラシーと憧れがないまぜになった気持ちを正確に伝えることは、とてもできなかった。それが若さだと今は思うしかない。」(p168)

ということで、アパートの契約更新期をもって「大森サロン」を解散することとなった。大森から数駅離れた広いマンションに引っ越した竹宮であったが、「萩尾さんもここから歩いて5分くらいの場所によい部屋を見つけることができたらしく、これでまた行き来できると安心していた。それを聞いて私の心にはうっすらと影が広がっていったが、その闇を見ないように努めていた。」(p169)
マンションで増山と共同生活をする竹宮のところに萩尾や他のマンガ家が訪ねたりする、半径1キロの円内がサロン化したような状態となった。

そのころ、萩尾さんの名を耳にするたびに、耳そのものがギュっとつかまれるような感覚があった。紙面でそれを目にするたびに、何度もその名が心のなかを行き過ぎるのを止められなくて苦しかった。その日一日中、繰り返し、そのことを思い出してしまう。自分でコントロールできない状態に陥っているという自覚はあるのだが、打ち消すことが難しかった。どうすれば解放されるのか。せめて離れたかった。異なる空間のなかにいれば、少しは救われるかもしれないと思い始めるのに時間はかからなかったと思う。

それから……。どうしようもなくなった私は萩尾さんに、「距離を置きたい」という主旨のことを告げた。それは「大泉サロン」の本当に終わりになることを意味していた。(p178)

萩尾は大泉での共同生活解散後、下井草に半年ほど住んだ後で、埼玉の緑深い田舎に引っ越します。

引っ越し後は竹宮惠子先生と増山法恵さんとは交流を断ってしまいました。その後はほとんどお二人にはお会いしていません。また、竹宮先生の作品も読んでおりません。/私は一切を忘れて考えないようにしてきました。考えると苦しいし、眠れず食べられず目が見えず、体調不調になるからです。忘れていれば呼吸ができました。体を動かし、仕事もできました。前に進めました。(以下引用竹宮本p3)

「これは私の出会った方との交友が失われた、人間関係失敗談です。」(p5)と書かれていますが、そう一言ではまとめきれない内容の一冊となっています。

「竹宮先生と増山さんは「少女漫画革命」を目指していました。」(p268)萩尾と竹宮に出会った増山は、二人の才能をもってすれば当時評価の低かった少女漫画のレベルを上げる少女漫画革命が起こせると思っていたのです。

 たぶん、1971年の終わりぐらいから。二人(竹宮と増山—明定)が将来の「少女漫画革命」を掲げてお披露目するのは、竹宮先生でなくてはならない。そういう考えが生まれ、その計画を立てたのではないでしょうか。それは計画を立てるというほど厳密なものではなく、水が流れに沿うように自然に生まれていったのではないかと思います。二人のエネルギーが自然にそういう方向に流れていった。
 画期的な「少年愛新作」つまり『風と木の歌』ですが、これをたけみやせんせいが世に出したら、どんなに世間が騒ぐことでしょう。そのことは二人の気持ちを一つにしたことでしょう。竹宮先生は増山さんの作品への希望(こうでなきゃだめ、あそこのシーンはこうして)を聞いて、さらに自分のセンスと力で作品世界を大きく構築していったのではないかと思います。
 お互いに作品のパートナーとして、なくてはならない存在になっていったのだと思います。増山さんだけでは漫画が描けないので、竹宮先生が必要でしょうし、竹宮先生は博識な増山さんの指導やアイディアが必要だった。二人で画期的な「少年愛新作」を描いて「少女漫画革命」を達成するのだ。そんな風に思ってらしたのではないだろうか、と思います。

 そうなると、うっかりこの世界に引き込んだ私という存在は、気がつくと、邪魔な存在になっていたのではないでしょうか。だって、私にでも誰であっても、先に描かれては困るでしょう。そう気が付いた時、二人は「しまった」と思ったかもしれません。「教えなきゃ良かった」と思ったかもしれません。まさかまさか、『11月のギムナジウム』を描き、『小鳥の巣』を描き、少年愛はわからないと言いつつ、『トーマの心臓』を発表するとは。これは、ふたりにとっては酷いことです。(p268-9)

 末尾に萩尾のマネージャーの城章子「萩尾望都が萩尾望都であるために」があり、そのなかで、

「竹宮先生が萩尾遠征に嫉妬して大泉が解散した」ということを最初に言ったのは私ではなく、佐藤史生さんなんです。史生さんと一緒にアシスタントしていた頃、下井草や岸さんちを行き来していた時だったかな? 「ケーコタンがモーサマに嫉妬して大泉を解散させたんだ、ケーコタンに同調してモーサマを苦しめるんじゃない」との注意でした。(p344)

とあります。
 竹宮本では「嫉妬」のことを記憶の一つとして吐露しているように読める。それに対して萩尾本は、「封印」してきただけに、覚悟を感じさせる読み物となっています。

2021年10月13日

近況雑記 残日録211004

月下旬から9月にかけて、週一の非常勤講師の仕事の準備やら雑事やらで、よくなりかけていた体調を少し崩してしまいました。
授業が「対面」で実施することになっていたのですが、「遠隔」という可能性も出てきたので、せっせと資料作りに取り組んだのでした。  「図書館資源情報特論」100分×7回、のほうは昨年末のPCのデータ消滅からは逃れたのですが、「児童サービス論A・B」100分×14回のデータはうっかりミスで消えてしまっていて、再入力をしなければならないことになったのでした。「遠隔」を想定して昨年より多くの資料を加えたのでした。データだと読む方は大変ですが、当方は貼り付けておけばいいので、データづくりに時間をとりました。ところが「対面」になり、後期のはじめの7回は、1時間目と4・5時間目の授業で、100分×3講義が続くことになります。体力的に厳しい授業で、この膨らんだ資料をどこまで活用するのか、目下、思案中です。
 読書はモリスに関わって『ウイリアム・モリスの遺したもの』(川端康雄.岩波書店.2016)を読み、研究論文を取り寄せたところでとどまっています。
 「飢餓陣営」の最新号で、『例外社会』(笠井潔.朝日新聞出版.2009)『自己決定権という罠』(小松美彦.現代書館.2020)を知り読了。この2冊、日ごろなんとなく思っていることを、少し明瞭にしてくれました。
「演劇界」10月号は「特集 読書の秋 芸談を読もう」でした。なかなか読ませる内容で、もちろん「芸談」そのものではないのですが、評論家たちの力作ぞろいでした。
店の棚に『秀十郎夜話——初代吉右衛門の黒子』(冨山房百科文庫.1994)があるが、これは買っただけのようです。『鴈治郎芸談』(水落潔.向陽書房.2000)これは先年亡くなった藤十郎の襲名記念と帯にあります。今年、亡くなった秀太郎の『上方のをんな』(アールズ出版.2011)、『芸十夜』(復刻版.八代目坂東三津五郎・武智鉄二.雄山閣.2010)この3冊は読了。13世の仁左衛門の芸談も記憶にあるが、まだマンションか田舎の書庫に埋もれているようです。『今尾哲也先生と読む『芸十夜』(田口章子編.雄山閣.2010)はまだ読めていません。
渡辺保氏の劇評を楽しみにしています。手元に『観劇ノート集成 第(1~4)』があります。いつになったら読めることか、と思います。未読の本ばかりが増えております。

2021年10月04日

『「日本型格差社会」からの脱却』岩田規久男.光文社新書.2021 残日録210818

リフレ派の岩田氏の新書が出た。アベノミックス「量的・質的金融緩和」がどう評価されているのか、岩田氏の提案する「政策パッケージ」を読みたい、と思った。

アベノミックスについては、

「安部首相の辞任で、アベノミクスが解決しようとした問題のかなりの部分が解決されることなく残ってしまった。」(p60)「安部前首相は、首相就任当時は「経済成長なくして財政再建なし」と述べて、アベノミックスを始めた。しかし、抵抗勢力が強く、途中から「成長と財政再建は両立する」と言わざるを得なくなり、2014年度に消費税を実施し、2%の物価安定化に失敗した。」(P97)「アベノミックスがデフレから完全脱却に失敗したのは、この2回の消費税増税と「基礎的財政収支の黒字化」を達成する日にちを、そのときの経済状態にかかわらず、前もって決めて実行する(日付ベースまたはカレンダーベースの政策)という、財政緊縮政策をとったことにある。」(p100)とある。

とある。金融(日銀)と財政(政府)の両輪が違う方向を向いていては、デフレからの脱却は難しいのだ。

「政策パッケージ」は「はじめに」で要約して提示されている。
① 格差の縮小は高所得者・高資産家から低所得者・低資産家への分配を伴うが、それだけでは将来の医療や年金制度などを「国民が安心できる」水準に維持することはできない。この水準を維持するためには、1人当たりの生産性、つまりは1人当たりGDPを引き上げる政策が必要である。その政策は公正な競争政策を導入し、女性の労働参加率を引き上げ、さらに次の②から⑧を実施することである。
② 日本の所得再配分政策は社会保障による高齢者への再配分に偏っており、税による所得再配分が弱い。これを正すために資本所得課税に累進性を導入する。
③ 雇用契約の自由化により、正規社員と非正規社員の区別をなくし、労働市場の流動化を進める。
④ 失業や転職などが不利にならないように、職業訓練制度や就業支援制度を取り入れた積極的労働市場政策に転換する。日本でも、2014年頃から積極的朗度市場への転換が始まった。今後はこの政策を進化させることが必要である。
⑤ 所得再配分政策を集団的所得再配分政策(中小企業や農業などの特定の集団を保護することによって所得を再配分すること)から個人単位の所得再配分へ転換する。
⑥ ⑤から派生する問題であるが、公的補助は供給者ではなく、消費者を対象にすべきである。教育や保育などの分野での利用券(バウチャー)制度の導入がその例である。
⑦ 切れ目のないセーフティネットを整備するために、④の積極的労働市場政策を推進するとともに、負の所得課税方式の給付付き累進課税制度を導入する。切れ目のないセーフティネットが整備されれば、生活保護の対象者は不稼働者(健康上の理由等により働く能力を欠く人)だけになる。
⑧ 年金純債務(すでに年金保険料を支払った年金支給開始以降の加入者の存命中に、政府が支給しなければいけない年金額から年金積立金を差し引いた政府の純債務)を、新たに創設する「年金清算事業団」に移し、時限的に新型相続税を設けて、それを財源に長期に渡って返済する。今後、年金を受給する世代の年金制度は「修正賦課方式」から「積立方式」に転換する。
(pp,13-14)
前日銀副総裁の「処方箋」は明確である。
長期デフレが「格差と貧困」をもたらしていることがよくわかる内容であった。

主婦優遇税制を止めること一つをとってみても、なかなか困難なのだろうと思っているので、この「処方箋」が受け入れられるのは困難かもしれないが、④⑤などいくつかについては可能なのかもしれない。

「日本における解決を迫られている問題」が「あとがき」で触れられている。
一つは

日本ではデフレ脱却を専門に考えるべきマクロ経済研究者の多数派が、日本銀行がデフレ脱却のために実施している「量的・質的緩和」に反対している状況である。このようなマクロ経済研究者の無理解が、デフレから脱却しようとしている矢先の2014年に消費税増税の実施を許してしまい、デフレからの完全脱却が未だにできずにいる主たる原因である。

もう一つは

「自称リベラル派」が格差や貧困(相対的貧困)といった「デフレの悪」を理解しないまま、むしろ「失業を増やし、格差を拡大する」ような政策批判を繰り返していることである。そもそも、デフレ下の「消費増税」を「財政と社会保障の再建を可能にする」として主張したのは、選挙で揚げた「マニュフェスト」を、解散選挙で民意を問うこともなく平気で破った「旧民主党」である。それにもかかわらず、「立憲」を掲げていることは不思議な現象である。
自称リベラル派が「経済無知」であるため(立憲民主党にも旧民主党にも経済に精通している人はごく少数ながら存在するが、執行部になれないことが最大の問題である)、アベノミックスの真に足りない点を修正できずに、もっぱら政権のスキャンダル追及に時間を費やしている政治状況は、日本にとって不幸なことである。
(pp,356-357)

「もう一つ」の方は、見苦しいことこの上ない。
昔日、構造改良論があったが、政治の世界では未熟なまま消滅した。政府の政策に対抗すべき「政策提案」が求められることもあったが、55年体制のなかでは改良主義的な取り組みとの評価もあり、あまり広がらなかった。
「政策科学」としての「処方箋」は、井出英策『日本財政 転換の指針』(岩波新書,2013)などもあって、巷間での論議が求められている。井出氏は自称リベラルに近い存在であろうが、「経済無知」の衆はほとんど関心がないのではないか。
左派にとって「マルクス—エンゲルス―レーニン」という国家社会主義の影響が大きかった。国家というステージで対抗することに無理がるのだろう。協同組合主義というステージや、地方自治、国家を超えての連帯の輪といったところから再構築しなければならないのだろう。

2021年08月18日

『ウイリアム・モリスのマルクス主義』大内秀明.平凡社.2012 残日録210810

モリスというと民芸に影響を与えた社会主義者という印象があり、『ユートピアだより』という書名からして、空想的社会主義者という先入観を持っていた。
科学的マルクス主義は「マルクス→エンゲルス→レーニン」の国家社会主義的な流れとは別に「後期マルクス→モリス」という共同体社会主義的な流れがある、ということをこの本で知った。
モリスはフランス語版の『資本論』(マルクスが書いた第一巻のこと)を熟読して、科学的社会主義の理論を学んだ。初期マルクス・エンゲルスの唯物史観は作業仮設であって、後期マルクスの『資本論』においては事実上放棄されていた、と大内氏は指摘している。宇野(弘蔵)派の大内氏は「科学としての経済学にこそ『資本論』の偉大さがある」として、革命のアジテーションとしての史的唯物論を避ける立場である。
モリス+バックス『社会主義——その成長および成果』から、モリスの社会主義を紹介している。

八時間労働制にせよ、最低賃金制にせよ、改良主義の闘争には限界がある。と言って「当然のことながら我々は、土曜の夜には資本家的だったものが、月曜の朝には共産制国家の太陽が昇るような存在になる」という、そんな一挙崩壊型の権力奪取の革命主義はとらない。従って、移行過程が重要になるわけです。「様々な計画が提示されている。これらは経験によってテストされることになるが」、たとえば文献や自治の強化、「現政府による軍や教会区の形成を準備する法案は、まだ力が小さいけれども、重要なステップになる。民主的な機関の提供が、社会主義の目的に将来利用できる」。つまり、革命は段階的に進むし、人類の理想に向けて、永続的な変革になります。
ただ、近代の官僚国家については、社会主義者の間に見解が分かれている。両者の見解は「究極的対立ではないが」、一方は、移行期間、若干の政治組織を維持する見解であり、「新しい社会も、古い官僚国家の政治傘下でそれ自身発展する」と見ている。他方は、「国家体制を、より基本的な要素として成功的に扱うことはできない」と見る、モリスたちの見解です。近代国家の官僚制は、国際的には連邦制により、それを死滅させるべきだし、また、地方的には、分権自治の強化で、政治的国家の外堀を埋めるべきだ」、」とモリスは主張します。明らかに、マルクスの「国家の死滅」のための移行期の理解です。国家権力への参加や介入、利用のための移行期ではない。国家の死滅のための移行期が位置づけられています。
さらに中央国家には、「現在機能している第三の役割、国際問題の規制が残されている。そして近代では、戦争と平和の問題が、資本主義的危機の問題とともに論議されるが、この役割も含めて資本主義の没落とともに政治的国家は破綻するだろう。そのために残されるものは何もなく、死に逝くのみだろう」。ただ、現実的な提案もしています。「戦争を回避する目的で、調停のための国際委員会をつくる提案がある。これは容易に国際的な「政府」に発展するかもしれない。戦争のための調停の代替機関は、それ自身が社会主義をもたらすものでないが、しかし明らかに回避することで、……社会主義を前進させるだろう」と。
モリスは最後に、いわゆる革命の方式について述べます。「我々の心はただ一つ、社会主義体制の開始に進むために、大衆の意見や意欲の漸進的な動きに合わせることである。武装闘争、もしくは市民戦争には、争いは起こりがちかも知れないし、他の局面、また革命の最終局面でもそうだろう。しかし、どんな場合でも、人びとの感情の変革に代わり得ないし、それに先行するより、それについて行くに違いない」。もりすは、武装闘争や権力的な上からの革命を強く否定します。逆に、下からの大衆の永続的な意識変革に期待します。従って、「一日で完全な共産主義の体制は樹立しないし、それは滑稽なことだろう」として、「我々の目前の闘争は、生産手段の共有であり、近代の資本主義と比べて、相対的な平等が達成されるような社会の実現だろうし、それ以外にはないが、それは言葉の本当の意味での社会主義の始まりだ。しかし、そこに止まることはできない」。社会主義の将来社会を、二〇世紀どころか二一世紀、さらに二二世紀への長期展望としたモリスらしい提起でしょう。(pp169~172)

そしてまた、宮沢賢治と社会主義運動との関係も知った。
川端康雄『ウィリアム・モリスの残したもの』によると、賢治の羅須地人協会の活動は、「恩田が示唆するように、ラスキンが「関与」した「労働者学校」、すなわちキリスト教社会主義者F・D・モリスが1854年にロンドンに設立した「ワーキング・メンズ・コレッジ」にヒントを得た可能性は十分あるし、また賢治の理想主義的な計画は、渡辺俊雄が指摘するように、「特にその教育的かつ農業的見地においてラスキンのセント・ジョージ・ギルドに非常に近かった」といえる。この説に一定の信憑性があるのは、羅須地人協会の理念と実践に、ラスキンとウィリアム・モリスの影響が強く認められるからである」(p206)。また、賢治の「農民芸術概論綱要」にも影響が認められる、とある。
大内氏の言う「土着社会主義」は戦後の日本社会党の党内派閥の抗争のなかで行方知れずになったかのようだが、モリスの共同体社会主義の文脈から見てみると、モリスの直接の影響はないのだろうが、いくつかの組織の底流に「土着社会主義」が探れるように思っている。

2021年08月10日

「労農派」の流れ 残日録210426

『ニッポニカ』の「講座派・労農派」の解説によれば、
第二次世界大戦前に、日本資本主義の特質をめぐって行われたマルクス主義者間の論争、すなわち日本資本主義論争において対立した二つの思想的理論的集団。
 講座派とは、野呂(のろ)栄太郎を中心に編集され1932年(昭和7)から1933年にかけて岩波書店から刊行された『日本資本主義発達史講座』、とくに同講座所収の論文をまとめた山田盛太郎(もりたろう)『日本資本主義分析』(1934)と平野義太郎(よしたろう)『日本資本主義社会の機構』(1934)の説を信奉する理論家集団をいう。日本資本主義の構造的特質をその軍事的半封建的特殊性に求め、とくに絶対主義的天皇制(検閲の制約のため明示的には語られていないが)と半封建的土地所有制の役割を強調するのが講座派理論の特徴である。そのような日本資本主義論は『講座』刊行前から、野呂栄太郎などの日本共産党系の理論家によって主張されていたが、『講座』とくに山田、平野の論稿は、それを全面的に展開・深化させたものであって、日本の社会科学全体に強い影響を与えた。なお『講座』刊行の直前に発表されたコミンテルンの日本問題についてのテーゼ(三二年テーゼ)の日本認識と、『講座』の基調とはほぼ一致していた。
 労農派は、日本共産党およびその上部組織コミンテルンの現状分析や政治路線を批判し続けた社会主義者のグループであり、その名称は、山川均(ひとし)、猪俣津南雄(いのまたつなお)、荒畑寒村(あらはたかんそん)などが中心となって1927年(昭和2)12月に創刊した雑誌『労農』に由来する。共産党と直接間接に結び付いていた講座派と違って、労農派は特定の政治組織との結び付きをもたないルーズなグループであり、その結束は固いものではなかったが、山川、荒畑のような古い社会主義者を中心とする広い人脈をもっていた。共産党の政治路線や現状分析に対する労農派的立場からの批判は、山川の共同戦線党理論や猪俣の日本政治・経済論として1920年代末から展開されていたが、『講座』の刊行は、それに対する労農派人脈に属する学者からの批判をも活発にし、山田、平野の日本資本主義論に対しては向坂逸郎(さきさかいつろう)、高橋正雄、岡田宗司(そうじ)などが、羽仁(はに)五郎や服部之総(はっとりしそう)の明治維新論やマニュファクチュア論に対しては土屋喬雄(たかお)などが、さらに農業問題に関しては櫛田民蔵(くしだたみぞう)、小野道雄などが批判の論陣を張った。
 1930年代前半の論壇をにぎわせた両派の華々しい論争は、それぞれの主要メンバーが、講座派は1936年に「コム・アカデミー事件」で、労農派は1937年および1938年に「人民戦線事件」で検挙されたため、論壇からは消えていったが、日本のマルクス主義者を二分した講座派・労農派の二つの流れとその対立とは、第二次世界大戦後にも引き継がれていった。
[山崎春成]

とある。
石河(いしこ)康国『労農派マルクス主義——理論・ひと・歴史 上・下巻』は向坂逸郎の流れにある社会主義協会(向坂派)からの著作である。図書館で借りて読んでみたが、我田引水の印象が強い。それに、マルクス・レーニン主義の立場にあるから、労農派から逸脱しているとみることもできる。大内秀明・平山昇『土着社会主義の水脈——労農派と宇野弘蔵』の方が労農派を知るうえで適書と言える。

非転向を貫いた労農派の矜持 『真説 日本左翼史』池上彰・佐藤優.講談社現代新書.2021
池上 そのように、ソ連型の一党独裁型の社会主義とは異なる社会主義の可能性が東欧諸国を中心に世界的に模索されていた時期に、日本でも山川均や向坂逸郎など、戦中は息を潜めていた、非共産主義系のマルクス主義者たちが再び活動の場を得るようになりました。
佐藤 そうです。先ほど少し話に出ましたが、その多くが雑誌『労農』の同人であったことから「労農派」と呼ばれているグループですね。彼ら労農派のマルクス主義者には学者が多く参加していたこともあって、彼らが組み上げた革命理論は日本独自の事情や国際状況までしっかり考慮されているという点で共産党よりも精密なものでした。
 徳田球一や野坂参三がアメリカ軍は解放軍であり、彼らと手を携えることで平和革命ができると無邪気にも思い込んでいる時期に、労農派のマルクス主義者たちは、米軍占領下での平和革命など不可能であることを早々に見抜いていました。
 しかも労農派時は、共産党と違って戦時中に転向していないという特徴があります。
 彼らが転向せずに済んだのは、弾圧下にあっても自分たちの力で食いつないでゆく術を苦労しながらも見つけることができたからです。向坂逸郎は第一次人民戦線事件(一九三七)によって九州帝大の教授を辞任させられた後は改造社の『マルクス=エンゲルス全集』の編纂・翻訳に取り組みましたし、投獄・保釈を経て言語活動を禁じられてからも、小さな畑を耕して自給自足生活のかたわら匿名でドイツ語の書籍を翻訳していました。
 彼が戦時中に匿名で訳した『独逸文化史』(G・フライターク)は全四巻のうち一巻が一九四三(昭和一八)年に中央公論社から出ています。
 向坂自身が後年に書いた手記によれば、実は二巻目の翻訳も終えていて、ゲラの構成もすべて終わっていたのに発刊直前で出せなくなったそうです。出せなくなった理由について、中央公論の編集者は何度尋ねても絶対に答えなかったそうですけどね。
池上 略
佐藤 向坂のような社会主義者に仕事を発注することでサポートしていたからこそ中央公論社は横浜事件でやられてしまったのだ、という雰囲気は伝わってきますよね。
 ただ『独逸文化史』の邦訳が出せないとなると原稿料が貰えないので向坂としては困るわけです。大いに困るのですが、向坂が凄いのはここでまた腹をくくるのです。「もうこの国では翻訳では食っていけないのは分かった。だったら新しい研究をして学びなおしだ」と決心した。そして農業書を取り寄せてジャガイモの作り方を学んだのです。
 いい芋をたくさん収穫するには穴をどれくらい掘ればいいのか、堆肥をどうやって作ればいいのか、すべてをイチから学んで、奥さんと馬糞を拾いに行った話なども後年書いています。
 あるいは空襲があると、空襲で焼けた家までリュックサックを担いで行って、その中にいっぱい灰を詰めてきて、その灰を肥料にしてイモを作ったこともあったそうなのですが、近所の農民たちは向坂のそのイモ作り見ながら笑ったそうです。「そんな深く掘って大丈夫か?」とか「葉っぱの芽が出過ぎるからろくなイモができないぞ」などとバカにされたと言うのですね。
 でも収穫の時期になってみると、向坂のイモ畑は普通の畑の倍もイモの収穫できたので、「日本の農業問題は、非科学的なことだ」なんて憤慨している。そのくらいイモ作りに熱中してやっていたのですよ。
 (略)
 山川均も妻の山川菊栄と藤沢市でウズラの飼育場を営みながら言論活動を続けていました。このように労農派は、どんな体制にあっても生き延びる道はあるはずだと信じて、生活の糧を自力で確保することによって転向を免れたひとたちなんですね。(P73~75)
 といった姿勢で戦中を乗り越える。

 戦後、講座派は日本共産党、労農派は戦後結成される日本社会党の理論的支柱になる。
ウィキによると、日本社会党は1945年、第二次世界大戦前の非共産党系の合法社会主義勢力が大同団結する形で結成された。右派の社会民衆党(社民)系、中間派の日本労農党(日労)系、左派の日本無産党(日無)系などが合同したもので、右派、中間派は民主社会主義的な社会主義観を、左派は労農派マルクス主義的な社会主義観をもち、後に分裂して民主社会党(後の民社党)を結成していく右派は反共主義でもあった。日労系の中心的メンバーは、戦前、社会主義運動の行き詰まりを打開するために、天皇を中心とした社会主義の実現を求めて軍部に積極的に協力し、護国同志会出身者を中心に、大政翼賛会への合流を推進した議員が多かった。一方、左派は天皇制打倒を目指そうとした者が多かった。なお最初の結党の動きは、終戦の翌日に西尾末広(後の民社党初代委員長)と水谷長三郎が上京に向けて動き出すところから始まり、旧社会民衆党の議員が中心となって動き出した。
(という雑居ビル状態にあった。—明定)
1951年(昭和26年)には山川均・大内兵衛・向坂逸郎など戦前の労農派マルクス主義の活動家が中心となって社会主義協会が結成されるなど、その後社会党を支える組織的、理論的背景がこの頃に形成されていった。この西欧社会民主主義と異なる日本社会党の性格を、日本型社会民主主義と呼ぶ見解もある。
三池争議を指導した社会主義協会の向坂逸郎の影響が大きく、労農派のなかでも社会主義協会、向坂逸郎の発言力が増す。
1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「日本における社会主義への道」(通称「道」)が決定され、事実上の綱領となった。「道」は1966年の補訂で、事実上プロレタリア独裁を肯定する表現が盛り込まれた。
この「道」によって改良主義的性格は退けられ、階級政党としての側面が強く出される。
1985年、社会主義協会の指導者であった向坂逸郎が死去し、その前後から社会主義協会内も現実路線と原則路線との対立が始まった。1986年、激しい論争を経て、石橋政嗣委員長のもと、「道」は「歴史的文書」として棚上げされ、新しい綱領的文書である「日本社会党の新宣言」が決定された。これは従来の、平和革命による社会主義建設を否定し、自由主義経済を認め、党の性格も「階級的大衆政党」から「国民の党」に変更するなど、西欧社会民主主義政党の立場を確立したものである。ただし採決による決着を回避し社会主義協会派代議員を含めた全会一致の採択を実現するための妥協策として、旧路線を継承するとも取れる付帯決議を付加したため、路線転換は明確とはならなかった。
とある。その後、社会党は1996年に社民党に改称するが、党勢は衰退していく。

 労農派の大内秀明は『土着社会主義の源流を求めて』大内・平山昇.社会評論社.2014で、社会党の左右両派の対立について、ともに戦前の労農派の流れをくむ論客である、右派の森戸辰男、左派の稲村順三の論争(一九四九年)が、以降の論争の原型となった、と言われています。対立の論点を整理して、戦前の労農派との関連を確認しておきたいと思います。(p372~375)として、
3.森戸・稲村論争とその対立点
 森戸・稲村論争については、両者それぞれ関連した論考もありますが、論点が具体的に提起され、第四回の党大会の運動方針を巡っての論争の性格上、勝間田清一の司会で行われた対談を取り上げましょう。戦前、ともに労農派の論客だった点でも、両氏の対談は興味深いといえます。対談は、一九四九年五月二四日に当事者の総括のために行われた座談会です。(初出は『社会思潮』1949.7) 司会の勝間田による問題提起は、まず敗戦と占領下の混乱の中で、共産党を除く戦前の諸潮流の大同団結が優先、党の目標、性格や路線については、十分な論議のないままの出発だった。民主主義の憲法、社会主義的な政策、それに国際的な平和主義、この三点だけの大まかな合意だった。しかも、短期間で片山内閣による政権党になったが、連立政権の足並みの乱れなども加わり、改めて党の性格や路線を深めなくてはならない。また、目指す社会主義への移行についても、当初は一時的に実現の幻想が一部に生じただけで、占領下で共産党との関係からも、移行の条件は見当たらない点も強調されました。
 両者の見解は、連立政権に対する評価と反省で別れました。稲村は、連立に批判的で反対、論拠は(1)ブルジョワ社会での階級闘争から、ブルジョワ政党との連立はあり得ない。(2)同時に共産党に対する批判も不十分であり、(3)まず革命方式を中心に党の主体性を強化する。こうした提起に対し、森戸は連立政権の閣僚だったこともあり、功罪両面を指摘する。その上で、(1)単なる反対党でイデオロギーを主張するだけでなく、政策を具体的に提起しなければならない。(2)マルキシズムとの」関係では、階級闘争や階級国家論について、現実的に考え直す必要があり、(3)関連して革命方式ついても、平和革命を理論的に深化させる必要がある。さらに(4)むしろ日常的な運動や大衆闘争を重視しなければならない。
 稲村は、社会主義の目標として、「社会民主主義」についても、マルクスのゴーター綱領批判を参考にして、社会主義を民主主義に解消してはならず、「この際我々は、社旗主義の政党であるということを何よりも明確にして、いわゆる社会主義プラス民主主義の政党、社会主義者プラス民主主義者の共同政党だというな、こういう意味は持たせない方がいよい」と主張する。それに対し森戸は、ドイツを中心に社会改良主義、社会民主主義、社会主義の思想史的変遷を説明した上で、社会改良主義に対立して「実はマルキシズムの党派が社会民主主義とずっと言ってきたので、ロシアのボルシェヴィキがわじゃれて社会民主主義の多数党となるまでは、大体マルキシズムの政党が社会民主主義の政党と言われておったわけです」。森戸は、ここで社会民主主義をボルシェヴィズム=マルクス・レーニン主義に対抗するものとして位置づけ、堺・山川の正統的マルキシズムである労農派の立場を説明しています。こうした森戸の説明については、勝間田も「社会民主主義政党としての社会党の革命プログラムを作っていくということは、当然といわねばならぬことになりましょうね」と両人に同意を求めています。
 そこで革命の内容、方式を巡っての議論に進みますが、森戸は「社会主義の中心点は経済組織の変革、資本主義的な経済組織が社会主義的な経済組織に変わることであって」、その上で「政治的な面から言っても、政治の一つの場面に、権力の獲得というか、それが集中されないで、中央の政治もあり、地方の政治もあり、また政治の面と並んで経済の面、文化の面等の新しく社会主義を作ろうという力が浸透して行く。」「民主的な変革というものが一時的なものではなく、ある程度漸進的であり、段階的であり、したがってまたそれは建設的、平和的なものであるということになるのではないか、と僕は思っておるのです」として、稲村に同意を求めています。ここでの森戸の主張もまた、明らかにマルクス——モリス、そして堺・山川の労農派社会主義の立場から、ロシア革命を教条化したボルシェヴィズム=マルクス・レーニン主義を批判し、プロレタリア独裁、集権的な政治革命方式と対立する社会変革の内容、その方式を提起していることが解ります。
 こうした森戸の提起に対し、稲村も正面から対立することは避けつつ、「ぼくはもう少し違うのですが、民主主義とゆうものと、平和とか暴力とかいうものに関する考え、ことに平和とか民主主義とかいう考え方については、もっとも広くぼくは解釈したい」と述べ、階級対立の面で支配階級が、「必然の形で社会主義へ向かって資本主義の基礎が動いていくのを、これをどうしても食いとめよう、チェックしようとするために集中的政治権力を常に用いておる。したがって、いかに経済的に最高に発達しても、これをチェックしている政治力というものを除去しない限り、日本は結局において大きな矛盾を蔵しつつも資本主義の段階を出ることはできない。ぼくはそう考える。それで質的転換をするためには、チェックするものを取除いて、そうしてそれを推進する新しい政治権力というものが生まれなければならない。——革命という以上は一つの質的返還を表徴するものでなければならぬ」。
 この稲村の主張は、マルクス・エンゲルスのイデオロギー的仮説に過ぎなかった唯物史観、つまり単純な階級闘争史観が前提され、資本主義はブルジョアジーとプロレタリア=との非和解的な階級対立が不可避である。ブルジョアジーは階級支配のために国家権力を利用し、近代ブルジョア国家は階級支配の道具として、ブルジョア独裁の権力支配を進めている。したがって、体制変革にはプロレタリアによるブルジョアからの権力奪取が必要であり、ロシア革命方式のプロレタリア独裁が不可避だった。その点で、左社綱領、そして右社綱領ボルシュヴィキの暴力革命論が前提されざるを得なくなるが、稲村氏も一方で議会主義や平和主義を前提する以上、次のように弁明せざるを得なくなる。「これは暴ボルシェヴィキ和といっても、実を言うと、いかに平和的にやったとしても、やはりある程度の行使とうもんはやむを得ぬ場合もあり得るんだね。なぜかというと、こっちが行使しないでも、敵が行使する場合がある」、いわゆる「敵の出方論」ですが、「ただ力は議会を通じて合法的にやるのだ。これが僕は、やはり我々の言う民主主義的、平和的という解釈になると思う。そういうふうな建前から、僕らはうかと言うと、一応やはり政治権力は確保するというある時期なり、段階がある」。稲村のここでの主張は、かなり譲歩した表現ながら、ブルジョア独裁に代わるプロレタリア独裁、権力奪取による革命、中央集権的な体制、そして上からの体制変革としての革命、こんな図式が透視されてきます。

 大内は「戦後の日本社会党の左右の対立について、一般的に左派の立場が「労農派マルクス主義」と系統づけられているのは必ずしも正確ではないのではないか? むしろ、右派を代表する森戸の立場の方が、堺・山川に代表された労農派社会主義の継承とみるべきでしょう。左派は、基本的にボルシェヴィズムの教条に近い立場にシフトし逆転してしまい、それだけに議会主義による平和革命論との間の矛盾に苦悩をつづけることとなったと思います。」と評価している。(p377)
 「第二次大戦後の冷戦構造は、すでにみたとおり日本では、1951年のサンフランシスコ講和・日米安保条約により定着します。そして、それへの対応を巡り、左右社会党への分裂につながりました。左右両派は、それぞれ左社綱領、そして右社綱領を策定して対立しました。すでに紹介した森戸・稲村論争による左右の対立を受け継ぎ、左社綱領は稲村が戦前の学者グループの一人だった向坂逸郎(九大教授)らと協議して原案策定、右社綱領は森戸案を受けて、河上民雄などが草案を策定したといわれています。この左、右の社会党の綱領は、森戸・稲村論争と比較しますと、一方の左社綱領はマルクス・レーニン主義の教条的理論と議会主義の平和革命論、他方の右社綱領は、マルクス主義の批判に向かい、西欧社会民主主義から改良主義の傾向が強まりました。この時点で、戦前からの堺利彦・山川均のマルクスーモリスの「正統派マルクス主義」の系譜が消滅した感が強まりました。むしろ左右社会党の対立は、米ソ二つの世界の対立という冷戦構造を、日本的な特殊性を反映した形での対立だったとみるべきでしょう。」、「このように戦前の労農派社会主義の伝統が、戦後この時点で消滅したと判断するについては、いろいろな事情が考えられます。」(p388~387)としている。

 労農派の流れは今どこに残っているのか、どう広げていくのか、について考察したい。

2021年07月26日

マリッジ・イクオリティ(同性結婚の許可も含め、結婚が誰にも開かれた人権だとする考え方)残日録210714

『ゲイカルチャーの未来へ』田亀源五郎.Pヴァイン.2017 より。
編集者から問いが投げかけられる。

『弟の夫』ではあくまで涼二とマイクの一対一のパートナーシップに焦点が当てられている。そうしたモノガミー(一対一の性愛関係)に対するポリアモリー(三人以上の複数人による合意の上の性愛関係)、あるいはオープン・リレーションシップ(パートナー関係において、お互いの合意の上で他の人物との性愛関係を許容している状態)の是非は、ゲイ当事者間でマリッジ・イクオリティを考える上でしばしば議論に挙がるトピックだ。

これに対して田亀は、

ポリアモリーの話は意識的に省いています。そこまでみんな、ついてこられない。芸能人や政治家が不倫しただけで、これだけ球団される世界では無理ですね。それひとつで新しく別の話を描くのならともかく。ポリアモリー自体、この間はじめてコロンビアで制度として認可されましたけど、男三人夫夫というのは私の身近でもいたし、私自身がそれに近い状況だったこともあったのでけっして珍しくはないです。ただ、それを今の社会制度と適合させるのはすごく難しいだろうな、とは思います。パートナーシップが男女であるか男男であるか女女であるかという話と、一対一の契約なのか三の契約も含まれるのかという話は、ベクトルも違えばフェイズも違う気がするんですね。制度の中の組み合わせを変える話と、制度自体を変える話ということですから。そこまではちょっと作品のなかでは負いきれない。たしかに三人で暮らしていれば、家族になれる制度があったほうがいいだろうなとは思いますけどね。
 オープン・リレーションについても、正直私はどのくらい機能しているか疑問です。そのルールに人間の心がどれだけ順応できているのかということを考えると、どうなんだろうと。というのも、実際トラブっている例をけっこう見ていますから。まあでもこういうことは、当事者がどう考えるかというのが一番重要なことで、第三者があれこれ言うようなことでもないと思います。それでも制度的なことも絡めた視点から言うと、婚外セックスの問題については、私は男女のほうで話を進めていてほしいんですよ。結婚生活をキープするために互いに外で自由にセックスをするというのは、すでに結婚している状態のパートナーと関係を維持していくための方法論ですよね。ゲイはそれ以前ですから。同性婚ができるようになったら、それを維持するために婚外セックスの話をするのもいいんだけど、同性カップルに関してはそれ以前の段階なのだから、だったらまずこちらはパートナーシップを維持するためのものではなく、パートナーシップを保証してくれる制度をつくりましょうよ、ということです。

とこたえている。(p44~46)
少子化について、出生率の低下について、子どもを産みやすく育てやすくしましょう。という掛け声はあっても、フランスのように事実婚が制度的に認められてはいないし、生まれる子どもの半数が婚外子という状況も生まれていない。
(孫引きだが、OECDの提言(2005)によると「育児費用のため税金の控除や児童手当の増額を行うこと」「正式な保育施設を整備強化すること」がポイントのようだ。)
 マリッジ・イクオリティはLGBTに限られているわけではなく、まずは男女の課題であって、結婚生活と性愛の多様性については、男女間においてもクローゼットである。明治以来の一夫一妻制が極めて禁欲的であるのはキリスト教の影響なのか。
マリッジ・イクオリティという言葉はこの本で初めて出会った。夫婦別姓あたりでうろうろしている現状からはまだまだ遠い。

2021年07月14日

『リニア中央新幹線をめぐって――原発事故とコロナ・パンデミックスから見直す』山本義隆.みすず書房 残日録210705

「リニア中央新幹線計画に対する批判は、福島の原発事故とコロナのパンデミックスを経験した私たちが現在の日本社会の基本的なありように対してしなければならない総点検の一環なのです」(p11)とある。
リニアについては、非現実的な工事計画のことを知っている。トンネルを掘ったあとに出る残土の行き場所や輸送の問題や、大井川の水への影響などがよく知られていることである。先般、静岡県知事選があり、リニアに同意していない現職が勝った。ほっとしていたところ、先日来の熱海の土石流である。これで残土の行き場所は、盆地をダムにするがごとく、残土大地を作るくらいしか手はあるまい。それにしても下流に住む人への危険度はダムごときではあるまい。
大深度地下のトンネルについては東京外郭環状道路が先行していて、地盤沈下や地下空洞が発生している。
この本では、リニアに大量の電気が必要なこと、そのためには原発を再稼働または新設する必要があること、電磁波の影響、といった科学の領域の話だけでなく、東京一極集中(名古屋・大阪の東京圏への時込み)のパンデミックスの危険性、JR東海の採算性、といったあたりにまでふれられている。
JR東日本の元会長・松田昌士の談話が紹介されている。

高価なヘリュウムを使い、大量の電力を消費する。トンネルを時速500㎞で飛ばすと、ボルト一つ外れても大惨事になる。
「俺はリニアには乗らない。だって、治下の深いところだから、死骸もでてこねえわな」

どうも事故は想定外のようである。この本からの孫引きになるが、紹介しておきたい。
ではなぜリニアなのか。池内了によると、

科学者は世界初の原爆作りに熱中してしまい、それがどのような厄災をもたらすかについては(少なくとも完成まで)考えも及ばなかったのだ。科学者は「世界初」という美名と潤沢な研究資金が提供されれば、結果がどうなろうと突き進んでしまう存在なのである。……世界一となることが目的であり、科学者もそれに積極的に参加していったのだ。(科学者は「世界一」という言葉に滅法弱い)。

橋山禮次郎によると、

この計画を考え出したJR東海の目的、経営戦略上の狙いはどこにあるのだろうか。……計画概要から読み取れる狙いは、「世界一速い鉄道を実現し、世界の鉄道界をリードしたい」、「これまでの鉄道にイノベーション(革新)を起こす」、「そのため、これまで開発してきた未踏の新技術である超電導磁気浮上方式のリニアを中央新幹線で実用化する」ということにあるように思われる。

JR東海自身が中央新幹線の運行方式について「在来型新幹線と同じでは能がない」と公言してきた背後には、もうひとつのバイパス新幹線をつくることではなく、「リニアを実現すること」という真の狙いがある。

高速化をどう実現するか。JR東海の考えは、これまた明快である。在来新幹線方式ではスピードアップに限界がある。世界の鉄道革新の先頭に立つには、これまで巨額の開発費をつぎ込んできた超電導磁気浮上リニアの実現しかない。

としてナショナルな要素が指摘されている。

著者は「脱成長」に方向をきる選択を提起している。
広井良典『定常型社会』『ポスト資本主義』や飯田哲也・金子勝『メガ・リスク時代の「日本再生」戦略』、セルヴィーニュ・スティーヴンス『崩壊学』、斎藤幸平『人新生の「資本論」』などが紹介されている。

2021年07月05日

故松本亮三井上靖文学館館長への追悼文集『始まりは出会いにほかならない』(2016)への文 残日録210623

PCのドキュメントにこれがあったので記録として残しておきたい。松本氏を検索すると、もっと情報が出てくると思っていたが、そうでもなかったのが意外だった。私と同じように、語り継ぐ余裕がない、そんな時間が流れているのだろう。



不思議な魅力

                  明定義人(元滋賀県高月町立図書館長)

 井上靖記念文化財団の井上靖賞授賞式の式場での松本さんのお姿が印象に残っている。そういう世界に関わりを持たなかった経歴の方だったが、ご自身ができることを自然な振る舞いでなさっていた。難しいポストだろうになるほどの人事だと思った記憶がある。
 現職のころはなかなか伺うことができず、お会いするのは滋賀に来られた時が多かった。年末に伊豆の方々と一緒に来られたこともあった。まちづくりに関わっておられる活動の一端を知ることができた。
 退職後、昨年、やっと時間が取れて、文学館でお世話になったお礼を申し上げた。いろんな方々のご指導、ご支援をいただいてきた。氏もそのお一人である。
 不思議な魅力をもった方だった。ご一緒すると、世知辛いや所在のないところから、遥か遠くにいる気持ちになったことを思い出す。
 もっともっと取り組みたいことが沸き出てくる時間や、ひととのつながりのなかから生まれる一座建立の場が、氏の前途にあった。清清とした老いと向かい合うことなく急逝された。クレマチスの丘に白い空隙が生まれた。残された者はそれを閉じていかねばならないのだ、と遠く湖北にあって思う。


「松本館長を偲ぶ会」の趣意書  松本館長を偲ぶ会 発起人一同

 昨年9月29日、井上靖文学館館長の松本亮三氏が急逝されました。

 松本館長は、井上文学が広く世代を超えて読み継がれることに大きな情熱を注ぎ、日本全国各地の井上文学を愛し、井上先生を慕う方々とのネットワークを築いてこられました。その功績が井上文学愛好家の間で高く評価されているのは周知の通りです。

 昨秋の突然の別れに際し、これまで親交のあった多くの方々より改めて松本館長のその功績を讃え、お人柄を偲びたいという声が非常に多く寄せられております。

 つきましては、是非松本館長と親交のありました皆様のご参加を賜りたくお願い申し上げます。

 尚、詳細につきましては皆様と今後詰めてまいりたいと存じますが、現段階では本年5月末、三島プラザホテルでの開催を予定しております。また、同時に追悼文集「はじまりは出会いに他ならない」を作成し、当日配布する予定でおります。

2021年06月23日

『人新世』の「資本論」』斎藤幸平著.集英社新書.2020 残日録210621

「人新世」Wikiによると、じんしんせい、とも、ひとしんせい、とも読む。斎藤は「ひとしんせい」とルビをふっている。この本がよく売れているらしいので、こちらの方が通用することになるのだろうか。新人世しんじんせい、とも訳されているそうだ。Anthropoceneの訳で、読みは「アントロポセン」。
 「地球の大気に関して直近数世紀の人類行動の影響が新たな地質時代を構成するほど重要であると考えた待機化学者パウル・クルッツェンによって2000年にこの用語が広く普及した」とある。
 本のカバーに、
  人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するためには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。/いや、危機の解決策はある。ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす。
とある。
 著者は、1987年生まれ。大阪市立大学大学院経済学研究科准教授。2018年邦訳『大洪水の前に』によって、権威ある「ドイッチャー記念賞」を歴代最年少で受賞。
 この人のおかげで、1952年生まれの小生はまた過去の人の道を数歩前進することになった。加齢とはそういうことでもあるのだ。
 資本制経済が「コモン(共有財)」や「アソシエーション(共同)」を解体していき、中間共同体が弱化して個々人の生がバラバラになる状況についての分析はなるほどと読んだが、その解決策については、あまり材料を持っていないように思った。
世界のグローバル化がより進行するという説もあるが、化石燃料の枯渇というより、高騰化や非効率化によってブロック経済化するという説もある。そうなると、遠方との物流を維持できるのは、付加価値の高い嵩の高くないものではないか。3Dプリンターが解決してくれることやAIによる労働環境の変化など、「人新世」=環境危機の時代に論じることは多岐にわたるだろう。
解決策はプラグマティックに見いだすしかない時代である。
土曜日のTV番組の「博士ちゃん」に登場する青少年は、未来について語らないけれど、そのうち未来について語る博士ちゃんが登場することだろうと期待している。

2021年06月21日

『国体論——菊と星条旗』白井聡 残日録210613

2018年に集英社新書として刊行された。明治維新前後から敗戦までを
① 「天皇の国民」=国民国家の建設期——「坂の上の雲」
② 「天皇なき国民」期=大正デモクラシー
③ 「国民の天皇」期=昭和維新運動⇒ファシズム
と分け、敗戦から現在までを、
① 「アメリカの日本」期=占領改革⇒高度成長
② 「アメリカなき日本」期=「ジャパン・アズ・ナンバーワン」⇒低成長と冷戦終結
③ 「日本のアメリカ」期=ポスト冷戦⇒失われた20~30(?)年
として、それぞれの時期の国体の性格を分析している。
 敗戦後の占領政策によって、天皇を象徴とする国体が憲法として提示される。日本の中にいれば日本国憲法があり、天皇条項があり、憲法第9条があるのだが、サンフランシスコ講和条約とともに締結された日米安保条約によって、軍事的にアメリカの属国化する。その程度のことは当たり前のことである。著者は、天皇と憲法の上に、アメリカという存在を位置づける。この構図は見事だ。
 現役の政治家のなかに、リアルにそのことを受け止めている人がどれだけいるのだろうか。アメリカの日本への注文をYES,YES,YESと受け止めているとしか思えない対米従属なのだ。1989年に始まった日米構造協議⇒日米包括経済会議⇒年次改革要望書⇒日米経済調和対話枠組みによるアメリカの要求に諾諾と従っていることに、内心、反発している政治家がどれだけいるのだろうか。
 「TPO交渉の過程で明らかになったように、日米構造協議において発明された「非関税障壁」の概念は肥大化し、「グローバル企業が拡大展開する際に障害になりうるすべての事象」を意味するようになってきている。つまり、国民生活の安定や安全に寄与するための規制や制度すべてが、論理上、この「障壁」にカテゴライズされうるのである。この延長線上で懸念されているのは、たとえば、日本の国民皆保険制度に対する攻撃である。ウォールストリートの金融資本から見れば、普遍的な公的健康保険の存在は「参入障壁」であり、取り除かれるべきである、ということになる。」(P290)
「日本の場合、際立っているのは、こうした動向に対する批判の声があまりにも小さいことである。たとえば、大手新聞メディアにしても、TPPをアメリカあるいはグローバル企業による新たな収奪攻勢としてとらえるという論調は、ほとんど見られなかった。むしろ、アメリカ発の「非関税障壁への批判」を「日本社会の閉鎖性」といった曖昧な概念によって擁護する論調が九〇年代以降、急速に力を伸ばした。」(P290~291)
これを著者は「異様なる隷属」としている。
著者は「戦後日本の対米従属の問題は、天皇制の問題として、≪国体≫の概念を用いて分析しなければ解けない」と考えてきた。
二〇一六年八月八日の前の天皇(現上皇)のテレビを通して発せられた、強い「言葉の力」に衝撃を受けた。「ついにここまで踏み込まざるを得なかったか」という感慨と、この本はつながっている。
 「敗戦国で「権威ある傀儡」の地位にとどまらざるを得なかった父(昭和天皇)の第二始まった象徴天皇制を、烈しいいのりによって再賦活した根性天皇は、時勢に適合しなくなったその根本構造を乗り越えるために何が必要なのかを国民に考えるよう呼び掛けた。」(P39)
 「お言葉」にどう応えるのか、が問われている。それは象徴天皇制をどうこうするということではない。

 


2021年06月13日

『フライデー・ブラック』ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー著 読了 残日録210609

この本の帯にプレイディみかこが「シャープでダークでユーモラス。唸るほどポリティカル。/恐れ知らずのアナーキーな展開に笑いながらゾッとした」とあったので、この言葉に惹かれて読んだ。プレイディみかこはイギリスの多民族かつ底辺社会に暮らしていて、そこからいくつものエッセイ、ルポルタージュを書いている。小難しい本を読む合間の気分転換と思い手に取ったが、「シャープでダーク」「ゾッとした」は同感ではあるが、「ユーモラス。唸るほどポリティカル。/恐れ知らずのアナーキーな展開に笑いながら」には程遠い読後感であった。アメリカ社会の「アフリカ系アメリカ人」への暴力とそれへの抗議はTVで知ってはいるが、最初の「フィンケツスティーンS」は、黒人の少年少女五人の頭部をチェインソーで切断した白人に対して、白人が大半を占めた陪審員団は無罪判決を下した。その判決の理不尽さへの怒り、黒人は盗むと決めつけているかのような警備員の態度には耐えられるが、白人へのリンチに加担してしまう主人公は、警官に頭部を撃たれて死ぬ。こんな話からはじまる。
TVで見ればアメリカの警官は生死にかかわらない足などを撃ち逮捕するのではなく、すぐに射殺する。日本では許されないだろうと前々から気になっていた。これも差別と関係あるのだろうか。退役軍人の就職先なのだろうか。
アメリカ人が日本を安全な国という。そのなかでも平穏な田舎の小都市に住んでいると、リアルな皮膚感覚でこういった物語を受けとめられない。私の想像力が届かない、そんな感じがした。
表題作「フライデー・ブラック」は、アメリカ合衆国において、毎年11月の第4木曜日に行われる感謝祭の翌日を「ブラック・フライデー」とび、その日からクリスマスセールが開始されるそうだが、そのセールの混乱をブラックユーモアでえがいている。バーゲンセールの混乱で死体が山積みになるのだが、筒井康隆風だなあ、と思った。「アイスキングが伝授する「ジャケットの売り方」」「小売業界で生きる秘訣」とともに、皮肉がきいていて楽しめた。

2021年06月09日

安岡真『三島事件 その心的基層』(石風社.2020) 残日録210526

作家三島由紀夫が盾の会の会員4名とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で起こした事件。三島は森田必勝とともに割腹自殺をする。
当時、高等学校3年生だった私は、その後の国語の授業中に教師から、どう思ったかという問いかけに対して、「あんな右翼はさっさと死ねばいい」という風なことを言った。親しいYが、切腹したときに痛みを感じたのだろうか、と言うもんだから、そんなの痛いに決まってるやろ、と反論した。そんな記憶がある。
『仮面の告白』や『鏡子の家』『金閣寺』は読んだが、『豊饒の海』四部作は読んでいない。祖父の平岡定太郎の本籍が、私が生まれ育った村とそう離れていない、印南郡志方村(加古川市志方町)上冨木だったこと。ずいぶん前のことだが、猪瀬直樹が三島についてテレビで取材したことがあって、その番組に、母の知人の船江のおじさんが農民作家として登場し、徴兵検査のときの三島についてはなしたのにびっくりした。その徴兵検査の場所が加古川市の公会堂であって、後に市立図書館となり、8年間、図書館員として働いたことがある。
三島由紀夫についてその程度の関心しかなくて、三島についての本も読んでこなかった。
どこかにこの本のことが紹介してあって、私より4年年下の著者がどう書いているのかと気になり、読んでみた。帯に
「徴兵監査第二乙種合格/二十歳の平岡公威=三島は、/兵庫で入隊検査を受ける。/風邪気味だった三島を/若き軍医は肺湿潤と誤診。/三島が入隊すべき聯隊は、/その後フィリピンで/多くの死者を出した/」と、三島は終生思い込んだ。」
とある。乙種には第一と第二があり、第一は「乙種であっても現役を志願する者」「抽選で当たった者」第二は「抽選で外れたもの」、一応は「現役に適する」から召集令状が来たので入隊検査となったのである。徴兵逃れではないが「田舎の隊で検査を受けた方がひ弱さが目立って採られないですむかもしれない」という父の入れ知恵により本籍地の加古川で徴兵検査を受けたが合格した。とウィキにある。
著者によると、その後フィリピンで多くの死者を出した、のではなくて、聯隊は小田原に配置され全員生還していたのである。そのことを三島は知らないまま戦後を生き、そして自死した。という説である。すごい三島論が出た。
だからといって、『豊饒の海』四部作を読もうという気にはならないのは、このところ読んでおきたい本が山積みになっているからだ。3月の「江戸を楽しむ」という講演と4月末の「児童サービスにおける「子ども観」」という作文にエネルギーを使った後、斎藤幸平『大洪水の前に』に手こずり、という5月だった。

2021年05月26日

山口果林『安部公房とわたし』 残日録210519

2013年に出版された本。山口果林が妻子ある安部公房と親密な間柄だったことは、安部が生前だった頃のテレビを通しても感じられることだった。この本には出てこないが、安部の死後、しばらくたってのことだったが、山口果林が『徹子の部屋』に出て、安部について語ることがあった。


徹子さんは、尊敬する安部が死を迎えた時「あなたはその時、どこにいらっしたの」と聞いた。山口は「自宅のマンションにいました」と答えた。「そう、それで安部先生のご自宅にうかがったのね」と徹子さんと言ったと記憶している。


私は意地悪な質問だと思った。安部は山口に看取られたのに違いないと思っていたからだ。

この本で事の顛末を読み、そうではなく、二人の間に幸福な時間の末に残酷な時間が訪れたことを知った。山口はこの本を書くことで、安部との時間から解き放されたのだろう。


夫人の安部真知の死について深く触れていないところが、次の宿題になっているのではないだろうか。

2021年05月21日

図書館長1%論 残日録 210515 

ある図書館長の談話が新聞に載ったのです。「自分が図書館長としてできることは、図書館の仕事の中で1パーセントにすぎません。後の99パーセントは、市民の皆さんがやって下さるのです。私はそれに従うだけです」こういう館長は一体、責任をどう思っているのでしょうか。いかにもきれいでしょ。市民の皆さんが見ると、あっ素敵な館長だなと思うかもしれないけれど、これは全然素敵じゃないですよ。専門家だ専門家だと言いながら、その専門家とは、一体何なんですか。市民と役所とか市民と図書館の関係というのは、やはり一種の緊張関係にあるのですね。「市民の皆さんの言うことを私はやるだけです」なんて本当にやれると思いますか?第一、市民の皆さんが言うことといったって、何万人居る人の」いうことをみな聞いているわけではないし、聞くとしたって、せいぜい数人ですよ。一見もっともらしいきれいごとをいう。市民をべたべたべたべた持ち上げる。「みなさんのおかげです」というようなことをやたらいう。私は、本当にあれはいやですね。」
『前川恒雄著作集』第2巻.出版ニュース社.1999.p173~174

とある。「ある図書館長」とその「談話」は明定義人自身のことではあるが、それ以外は、そこから引き出した前川氏の意見というものだろう。ひとくくりにして、人物評として受け止められると、困るところがある。わたしは市民をべたべた持ち上げたつもりはない。専門家だ専門家だと言っている図書館員もいるのかもしれないが、わたしはそういう言葉を使うことはない。専門家なのか、そうでないのか、は99%の側の評価にある。
1%というのは建築家村野藤吾の『99%を聞き、1%を(村野に)託す』という言葉から学んだ姿勢である。建築の世界では有名な言葉である。長谷川堯との対談集『建築をつくる者の心』(「なにわ塾」新書.大阪府.1981)がわかりやすい。
明定の『本の世界の見せ方』(日本図書館協会.2017)でもふれている。

2021年05月15日

映画「ゴジラ」——演劇評論家 上村以和於公式サイト 随談第640回から 残日録 210425 

上村氏は1940年生まれの山村女子短期大学教授で歌舞伎評論家。劇評は日経新聞に書かれている。ブログでは随談だから歌舞伎以外のことも書かれていて、私が楽しみにしているブログの一つ。毎月の渡辺保氏の劇評もまだかまだかと首を長くして待っているのだが、上村氏の方はご多忙のようで、このところ毎月とはいかないこともある。(両氏が3月の仁左衛門の『熊谷陣屋』をほめているので、贔屓としては楽しい。)
もっとも、歌舞伎を観る機会はめったになく、小生も忙しいことこの上ないのだが、これも加齢のせいですることが遅くなっているからだろう。3月下旬からの400字×60枚の原稿が漸くまとまりがついた。内容はもちろんあるのだが、そのための引用が多くて、量だけが目立つ。脇道にそれたが、「ゴジラ」のところを紹介する

先日、日本映画チャンネルで久しぶりに『ゴジラ』を見た。もちろん、1954年制作の元祖ゴジラである。いま改めて見ると、随分真面目に作った作であったことが今更のように思われる。言い尽くされていることながら、この年の春にあったビキニ環礁の水爆実験と第五福竜丸の事件が、仮に際物として作るにせよ、生半可なことでお茶を濁しリアリティをもって見せられなければ、際物としても支持を得られなかったであろう。ゴジラが遂に東京湾から上陸してきて、元の日劇や何かがぺしゃんこにされてしまい、実況中継のアナウンサーの身にも危険が迫り、「皆さん、さようなら」と悲壮な声で叫ぶ中、逃げ道を失って子供を二人抱えた中年の母親が「お父さまのところへ行きましょうね」と言い聞かせているのは、戦地で亡くなり天国にいる夫のことであろう。いま見ると驚くべきリアリティをもって刺さってくる。

とある。小生もTVで見たような記憶があるが、驚くべきリアリティ、に共感する。ウルトラQや初期のウルトラマンにも戦後が色濃くあった。
 上村氏の「随想」風に話を飛ばすと、『キューポラのある町』も戦後をえがいている。最後の方に北朝鮮への「帰還事業」で北朝鮮に帰る朝鮮人一家が出てくる。私の生まれ育った部落(どこの村のことも当時は部落と呼んでいた)にも、朝鮮の人たちがいた。その人たちは帰国をした。後年、一人だけ残っていた人がいて、その人は広島で被爆していて、被爆手帳を持っているので残ったと言っていた。帰ってしばらくは「消しゴムを送ってくれ」などと手紙が来たが、数年後には音沙汰なしになった、と話していた。

2021年04月25日

前川恒雄『未来の図書館のために』(夏葉社.2020.12) 残日録 210405 

一昨日、12時ごろに六夢堂に入ったら、着信履歴があったので、折り返し電話をかけた。前川さんの『未来の図書館のために』が出たことを知っているか、と聞かれた。私(O氏)と明定さんが出てくる、事実誤認のところがあるので、「みんなの図書館」に反論を書いているところだという。
 早速、図書館に予約を入れて、探してみた。93ページに出てくる。

 一九八七年、図書館問題研究会の機関紙「みんなの図書館」が『市民の図書館』批判特集号を組んだ。多摩市立図書館の伊藤峻は、前川がイギリスで間違った勉強をしたから、市民からも行政からも見放された、と書いた。滋賀県高月町図書館長で日本図書館協会の常務理事であったMは、何をいっているのか分からないことを書き、編集担当で日野市立図書館の職員だったOも何がなんだか分からないことを書いた。こんな人たちが私を批判する文章を書いた特集号だった。ある国会図書館の幹部職員が、前川さんは反論を書くでしょうと言ったので、あんな連中と同列になりたくないから書きませんと答えた。
 図書館問題研究会はある時期から私に対する反感を示すようになっていた。私が日野市立図書館長であった頃、小柳屯(たむろ―明定)の業績をとりあげ、歴史のある図書館を改革するのは困難だが、何もないところからの図書館づくりは簡単だと、明らかな私への当てこすりを書いた。数年後の滋賀県立図書館での私をどう評価するべきかとの答えが、あの「みんなの図書館」の特集号であろう。今でも図書館問題研究会は口舌の徒の集まりだと思っている。……

 O氏は他のページにも指定管理のところで出てくる。指定管理のところの訂正を求めるのだろう。引用した部分については2000年12月号の間違い程度の訂正ですむことだろうと思う。
 引用した部分については、読んでみて「わかる人」もあれば「わからない人」もあるわけで、「わからなければならない」というわけでもないだろう。どこかで波風が立つということでもないだろうに、と思う。

2021年04月05日

講演の付録で言えなかった与太話 残日録 210403

国際収支 2018末:341.4 2019末:364.5 (単位;兆円) 日本銀行国際局

   貿易・サービス収支 貿易収支は、モノの輸出入の差、サービス収支は、輸   送費、通信費、金融、保険、旅行など、形のない取引の収支
   2018:0.1 2019:0.5
   第一次所得収支 対外資産からの投資収益。具体的には、配当、利子、工場    から上がる収益など
   2018:21.3 2019:21.0
   第二次所得収支 国際機関への拠出、食料や医薬品などの無償援助、海外で   働く人々の本国への送金(野球やサッカー選手を含む)
   2018:△2.0 2019:△1.4
   資本移転等収支 政府が外国に行う資本形成の援助(道路や港など)
   2018: △0.2 20198:△0.4
   金融収支    海外に工場を建てるなどの直接投資、外国の株式や債券を   購入する証券資、外貨準備など
   2018:20.0 2019:24.3
   誤差脱漏    2018:0.8 2019:4.6


3月21日に加古川で「江戸時代を楽しむ」という講演をした。間に10分の休憩をはさんで90分間、話した。予定より10分伸びてしまったのだが、質問が出なかった時のために、江戸の中・後期と現在とを比較する話題を用意しておいた。質問は出なかったのだが、熱心に聴講されていて、お疲れの様子だったので、司会者はこちらに「何か、追加することはありませんか」と振ることなく閉められた。
そのときに準備していたのは、日本が「貿易立国」ではなく「内需」によって成り立っているという話で、国内需要が低いために、企業の利益は海外投資に流れていき、第一次所得収支が大幅な黒字になっていること、そしてその黒字がまた海外投資として回っていき、国内で「円」として流通しないこと、などなど、であった。
そして、内需が伸びないのは何故か、という話になり、江戸時代には「御新規御法度」新しいものを開発してはならない、と幕府がブレーキをかけるが、現在の日本ではどうでしょうね、と問いかけて終わることにしていたのだった。
現在の内需を拡大させることについては、いろんなことが考えられると思う。内需が大きくならない原因についてもいろんなことが言えるだろう。
コロナ禍のパンデミックのなかで、いまどの国も他国との人と人交流を縮小させている。当分はインバウンド需要は見込めない。
高齢者の外出を制限し、軽症で収まる若者にまで、飲食店利用の規制を求めなくともよいではないか。もちろん、一人一人の席の間にアクリルパネル立はてた方がいいし、それは行政の仕事だろう。長野県では食堂、レストラン、ラーメン店、バー、ナイトクラブ、喫茶店など、申請すれば無償配布している。
「三蜜」、マスク、手洗いは、自己防衛の範囲であって、そこに行政が力点を置くのは自己努力を求める「新自由主義」の発想だろう。やつらの「自助」というのは、「財力がある」「コネがある」「忖度される立場にある」あたりであって、コロナに罹るのも「自助」力が低いからであって、罹るやつらは、「三蜜」の居酒屋あたりで、大声を張り上げている「敗者」の群れにしか見えない。厚労省の役人は「自助」族なもので、コロナに罹るとはつゆほども思っていない。
だがしかし、その敗者の群れが内需を拡大させるのであって、「自助」族は「株価」を「バブル化」するしか能はない。

2021年04月03日

2021の賀状

頌春 

年明け早々、幾度見直しても影の薄れた自分の顔が、こいつが宿命的にあんまりいい出来でないことをまた見定めた。御蔭でいわゆる余計者の言葉を確実に所有した。余計者もこの世に断じて生きねばならぬ。過去というものと虚栄というものと、この二つの後始末さえもできないまま、月並みな老いの嘆きのただ中にある。

余計者にも語りたい一つの事と聞いて欲しい一人の友は入用なのだ。

 

元ネタ;小林秀雄「Xへの手紙」

2021年03月08日

斎藤環+與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮社.2020)

「表裏」に、



「友達」はいないといけないのか。「家族」はそんなに大事なのか。「お金」で買えないものはあるのか。「夢」をあきらめたら負け組なのか。「話し上手」でないとダメなのか。「仕事」を辞めたら人生終わりなのか。「ひきこもり」を専門とする精神科医と、重度の「うつ」をくぐり抜けた歴史学者が、心が楽になる人間関係とコミュニケーションのあり方を考える。



とある。



與那覇 実はデイケアでSST(社会技能訓練)をやっていたときに、忘れられないエピソードがあるんです。患者さんが「働いているときに苦しかった状況」をロールプレーイングで再現するのですが、どう考えても「病気」なのは患者を追いつめた人の方でしょ、という話がいっぱい出てくる。パワハラ上司とか、モンスタークレーマーとかですね。彼らに攻撃されてうつになるのは「普通の人」であって、ほんとうに治療が必要なのは相手の側なわけです(苦笑)。

 これって変じゃないですかと尋ねたところ、臨床心理士の答えが振るっていて、「たしかに上司やクレーマーがクリニックに来たら、病気と診断される可能性が高い。ただ彼らはたまたま、いまのところ地位や立場が守られていて<本人が困難を感じていない>から、来院せず、病気だと言われていないだけですよ」と。つまり誰が心の病気と呼ばれるのかは、しばしば当人の気質や症状以上に、社会に置かれている環境で決まるわけですね。



斎藤 医療関係者が「事例性の問題」と呼ぶものですね。典型は発達障害で、少し子どものふるまいが周囲と違っても、親が「この子の個性だから」と受け入れて何もしなければ事例化しません。しかし親御さんが過敏だったり、「発達障害バブル」的な言説に煽られたりして「うちの子は絶対おかしいから診てほしい!」と病院に連れてくると、「障害」として事例化することもあるわけです。

 心の病気は①本人が苦しさを感じるか、②周囲が問題視しているか、という二重の基準によって、病気として発現するかどうかが決まる。その意味では「相対的なもの」ですが、だからといって苦しさの度合いが低いわけではなく、レントゲン等で「客観的」に観察できる病気よりも、社会的な病であるからこその、深刻な苦痛や葛藤を引き起こすことがあります。



與那覇 ある社会では「きみはおかしい。病院に一度行くべきだ」と言われることが、他の社会では「こんなの常識。そっちが合わせろ」となっていることもありえると、



斎藤 その通りです。わかりやすいのは青少年のいじめで、アメリカなら加害者がパーソナリティ障害などを疑われていて病院に連れていかれるケースでも、日本は逆に被害者だけが通院して「適応障害」などの診断を受けて終わりにされることが多い。つまり、いじめる側の「やんちゃ」は一過性のもので、大人になれば落ち着くだろう。だから病気とまで言うほどのことはないと、そう扱われがちな風土があるんですね。



與那覇 なにが病気と見なされるかは、裏返すと「なにが〈普通〉と見なされているるか」とイコールですから、心の病を切り口とすることで、社会や文化の問題が見えてくる。気になるのは、本書のこうした認識が、どこまで治療者の側にフィードバックしているかなのですが……。



斎藤 これが大問題で、遺憾ながら精神科医の九割以上は、あくまで疾患を「脳の問題」としてのみ捉えて、薬物治療主義に閉じこもっている状況なんです。うつ病でも統合失調症でも、「この検査データがこうなっていたら確実にその病気」といったバイオマーカーは発見されていないのですが、頑なに病因を脳に還元して、社会とのつながりを軽視する人が多い。学校や職場の人間関係にちょっと介入するだけで解決できる問題もずいぶんあるのですが、そうしたケースワークが不得手な意思があまりにも多い。

(P240-243)



 これは「保険適用にするには「病気」にしないといけない、そのためには生物学的な病因がなくては……といった思考に行きがち」だからだと斎藤は言っている。薬物治療主義は「診察時間の短縮」ともつながっているのかもしれない、と思うが、想像の域を出るわけではない。斎藤によると「最近は、ひきこもりの当事者たちがこうした傾向に反発しはじめている」という。「当事者研究」という分野から様々な声があがることだろうと思う。

20201011

2021年01月09日

「成長戦略」と徳川吉宗「新規御法度」



リフレ派の上念司の『経済で読み解く明治維新――江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟で解明する』では江戸時代の中期以降、人口が3000万人と停滞していることについて、幕府内の権力闘争によって老中の構成が変わることで、「リフレから緊縮へ」「緊縮からリフレ」へというかたちで何度も経済政策が転換され、「根拠なき緊縮政策」が新井白石や松平定信によって推進されたことによりデフレーションが発生した、としている。

 リフレ派だから量的金融緩和(アベノミクス第一の矢)は当然だが、「金融緩和によってお金を増やせば、必ず物価が上がり、名目GDPも増加する」(原田泰)ということにはなっていない。

 第二の矢の「財政・税制」では、公共投資の効果については論議の分かれるところだが、少なくとも五輪需要が無くなって以降の建設セクターでの下支えにはなっている。消費税増税はリフレ派からするとブレーキでしかないのではないか。

 さて、第三の矢の成長戦略と言うと見通しは暗い。

 あほ内閣からすか内閣に変わって、竹中平蔵がより一層前面に出てくることで、新自由主義(ネオリベラリズム)政策が進められると、小泉政権時代のホームレス続出が再来するのではないか、という危惧も思い浮かぶ。

そうならないことを願うが、今日の成長戦略の空振りについて考えたい。

江戸時代中期からの人口の停滞は、経済政策の混乱もあったが、8代将軍の徳川吉宗が出した「新規御法度の御触書」が発明・技術の改良を阻んだ面も大きいと思う。

藤原裕文「新規御法度制度から特許制度まで」によると、



江戸時代には新規のものを工夫・発明することを禁止した時期があった。享保の改革を行い、徳川家中興の主といわれる8代将軍・徳川吉宗は、

「一、呉服物、諸道具、書物はいうに及ばず、諸商売物、菓子類も新規に巧出することを、今後堅く禁ずる。もしやむを得ない仔細のある者は役所へ訴え出て、許しを受け巧出すること」「一、諸商物のうち、古来通りですむ物を、近年色を変えたり、数奇に作り出す類の物は、おって吟味し禁止を命ずるので心得おくこと」という新規御法度の御触れ書きを1721年に発し、その後も同様の主旨の法度をたびたび発しているのである。本来は農民に自給自足を強要して米経済を維持するために贅沢を禁止する法令であったが、改善や新規発明に関するお触れ書きにそれ程の規制力はなかったとする見方もあるが、明治時代に制定された特許制度のように積極的に新規の発明を保護・奨励しようとするものではなかった。

 特許制度が存在しない江戸時代において、一子相伝により、技術を伝え、独占し、利益を確保するのは、やむを得ない事であった。



 小林聡「江戸時代における発明・創作と権利保護」では、



 新規法度は、質素倹約・奢侈禁止という武家の風潮に基づく禁令であったとするのは説明として十分でない。これらの触は物価抑制のために出された触である。江戸時代は、近現代とは異なり、清算の主力は機械ではなく職人であって、職人が生産技術を習得するには年単位での歳月を必要とした時代であり、労働力の流動性や柔軟性に乏しかった時代である。江戸時代中期の日本の人口は2500万人前後で、年鑑増減数は多いときで20万人弱であったとされ、災害直後を除き需要が大きく変動することは少なかった。一方、職人が発明・創作に労力を費やせば自ずと有来物の生産性が低下し、供給量が減少するから有来物の価格上昇につながることとなる。また、当時の物価は他の品目の価格上昇に敏感に反応したこともあって、幕府は江戸時代を通じて諸物価の上昇に神経をとがらせていた。江戸時代中期にあたる享保年間、幕府は物価抑制策として、新規法度を出すとともに、業者間の組合を結成させ、組合による価格の監視と価格の維持・抑制を行わせることとした。



とある。

 新規御法度は発明・改良を阻んだ。そして物価安定のために組合をつくることで、新たな参入を阻む結果となった。

 江戸時代の新規御法度や経済政策から、今日の成長戦略の不在を考えると、原因は違っているが、発明・改良の機運の停滞、物価抑制策をとっていないにもかかわらずインフレ基調にならない、という現象は同じだといえる。

 発明・改良の改良の方は日本人のお得意とするところである。発明はどうかというとあまり得意とは言えない。クリエーティブであること、失敗を恐れないこと、については苦手とするところである。

 江戸中期には、幕府が新御法度をだして規制をしたのだが、明治以降令和に至るまで、教育の国家統制によって、多彩な人材は生まれにくく、発明・改良は阻まれている。

 黄野いづみによると「東大脳」とは「自分で目標設定し自分で努力する、自立した脳」のことだそうである。「東大脳」を持った東大生がどれくらいいるのか、クイズに強い「東大王」はTVで観たことがあるが。「東大脳」とは変なネーミングであるが、「自分で目標設定し自分で努力する、自立した脳」を獲得する人たちが増えると、発明・改良の波は高くなることは間違いない。

 私はリフレ派支持であるが、「金融緩和によってお金を増やせば、必ず物価が上がり、名目GDPも増加する」(原田泰)とはなっていないのは、増やしたお金が株価を押し上げるだけになっているからである。麻生副総理の「老後2000万円」発言で、高齢者の消費は縮小し、2%の消費増税でも買え控えがあり、その上今次のコロナ禍である。先行きの不安を払拭してくれる政策は期待できないから、消費は伸びない。

 そしてもう一つ消費が伸びない要因に、購入慾を刺激する商品が開発されていないことが挙げられる。人々は安くてそれなりに良いものを消費する。

20201220

2021年01月09日

與那覇潤「赤い新自由主義」論

與那覇の『知性は死なない―平成の鬱をこえて』文藝春秋,2018 から



 昭和60年安保を念頭に「集団的自衛権に反対して政権をとめる、たおす」と息まいた人々は、知識人もふくめて完敗しました。必要性を説く相手にたいして、国民多数の支持をえられなかったからです。

 同一労働同一賃金では、論争の構図が反転します。政権側がその必要性を打ちあげても、安倍首相に代表される保守主義を基盤とするかぎり、それは「実現できない」のです。

 あの時やるといったのに、できていないではないか。それはあなたがたの思想に、根本的な岩塊があるからではないか。「なんでも反対」ではなく、「実現するための交代」をもとめていく力が、いま野党には必要とされていると思います。

——―そう、まさに平成の最初にも、そのように説かれていたように。

 そのためには「生き方は個人の自由であるべきだ」という価値観を、国民の共通認識にすることから、はじめなくてはいけません。保守主義が標榜する特定の家族観やライフコースには、しばられない社会像を提示して、はじめてリベラルの意義が生まれます。

「正社員である」「入籍している」「子どもがいる」。それぞれにすばらしいことです。

 しかしそれは、ほかの生き方を否定する利湯にはならないし、だからそういう特定の人生設計だけを、国家や資本が支援するような諸制度は、改正が必要だ。

 同一賃金同一労働とは、「こっちにも金よこせ」という分配の問題である前に、自由な生きかたの問題なのだ。そういう認識に立てるかが、多数派形成の鍵になるのではないでしょうか。

 すでにのべたとおり、そうした発想は、終身雇用・年功賃金といった「日本型雇用慣行」を解体させてゆくので、平成に展開した以上の「新自由主義」になります。しかし、伝統的な家族像に依拠する生きかたの強要をも、拒否する点で、レーガン=サッチャー氏j\期の英米のそれとも異なります。

 だれもが自由に生きかたを選べる社会を、目指すうえで提携すべきは、弱肉強食をといてきたこれまでの新自由主義ではないのです。「能力があるなら」自由になれると主張して、ごく一部の「有能な個人」をシンボルに立てて多数派をうしなった、平成の書物群がとった戦略の失敗をくりかえしてはいけません。

 むしろこれから必要なのは、日本では同一企業の内側のみにとどめられてきたコミュニズム(共存主義)の原理を、その外にひろがる社会へと、時はなっていくことです。

 そのために必要とされるのが、たとえばアフォーダンス的な方向での、能力観の刷新であり、社会的に能力を「共有」しつつも、自由や競争をそこなわない制度の検討です。心理学から経済学まで、さまざまな学問の知見がもとめられます。

 冷戦下では両極端にあるとされてきた、コミュニズムとネオリベラリズムの統一戦線———いわば「赤い新自由主義」(red neo-liberalism)だけが、清に冷戦がおわったあと、きたるべき時代における保守政治への対抗軸たりうると、私は信じています。(p274~6) 太字は、元は強調の「ヽ」



アフォーダンスについて、日本大百科全書の中島秀之の解説(2019.7.19)では・



知覚研究で知られるアメリカのギブソンJames Jerome Gibson(1904―1979)によって提唱された概念。環境がそこに生活する動物に対してアフォード(提供)する「価値」や「意味」のこと。歴史的にみると、ギブソン以前の考え方は、環境からの刺激を生体がその内部に取り込んでからさまざまな処理をして、意味や価値をみいだすというものであった。たとえば当時の視覚研究においては、網膜は外界の情報を写したものであり、認知システムは網膜情報のみを用いて知覚を行っているという考え方が主流であった。ギブソンの貢献は、そうした考え方からの脱却にある。ギブソンは、アフォーダンスは環境の側にあり、認知主体はそれを探すだけだというのである。たとえば、地面の傾斜の情報はそもそも地面の側にあり、主体が視覚情報から計算するのではないということだ。これと同様の考え方は「環世界」や「オートポイエーシス」にみられる。

 ただ、ギブソンの考え方は情報源を環境の側に限定している点が、少し行き過ぎと思われる。実際には「価値」や「意味」は、主体と環境との相互作用によって明らかになると考えるのが正しい。たとえば、森を歩いているときに、木の切り株をみつけたとする。ギブソンに従えば、木の切り株は「座る」という行為を人間にアフォードしていることになるが、実際に「座る」かどうかは、座る側の人間の身長や体重に依存するであろう。

 なお、アメリカの認知科学者ノーマンDonald A. Norman(1935― )はデザインの分野で同じ用語を使い始めた。よいデザインとはその使い方をアフォードするものでなければならないという。たとえば、ドアについた縦の取っ手は引くことを、横の取っ手は押すことをアフォードしているという。



 とある。

 「主体と環境との相互作用」によって生まれる「価値」や「意味」は、過去の経験によって先入観などの固定概念として個々人が獲得するものであって、そこには差異がある。與那覇は「人間は、言語によって組みたてられる論理だけで、うごいているのではありません」とし、言語帝国主義(文明・進歩・科学・平等・自由……といった抽象的な言語によって語られる理念の世界)への身体の反発(反知性主義≒反正統主義)を肯定する立場でなく、アフォーダンスを引き合いに出し、能力観の刷新を求めているのです。「広義の反知性主義のほうが「多くの人間にとってはふつうのありかた」なのだと、発想を変えなくてはいけないと思っています。/ほんらい、主義(-ism)とよばれるべきなのは、「大学、ないしそれに準ずる正統的なサークルに属し、言語によってものを考え・分析し・表現している人々だけが、知性のにない手である」とする価値観、いわば「知性主義」のほうではないかと思います。/そうすることではじめて、世界的なアンチ・インテレクチャリズムの奔流にどうむきあうか、そのために大学にはなにが必要なのかが、みえてくるのだと思っています。(P147~148)



 鬱状態から回復する中で書かれた一冊である。身体論が身近にあった私の人生からは遠く離れたところにあるが、與那覇の「言語化」のエネルギーから刺激を受けるところが多い。

20201107

2021年01月09日

菊田一夫の「戦意高揚劇」と戦後

小幡欣治『評伝菊田一夫』岩波書店.2008から



 (昭和十八年の「情報局国民演劇選奨要綱」について)

 要約すると、「聖戦完遂に対する国家総力結集の原動力たり得べき国民演劇の樹立を促進するは、決戦化日本演劇に課せられたる重大使命である」の趣旨のもとに、参加した作品は厳重に審査し、承認された演目が上演される場合には「情報局国民演劇参加作品」と明記するように命じられている。優良な物には情報局賞(千円)、とくに優良な物には総裁賞として参千円が贈与されると決められていた。(『演劇年鑑』昭和十八年版)

 該当作品は必ずしも戦場や兵隊の出てくる「戦争劇」とは限らないが、「高揚劇」であることに変わりはなかった。

 菊田一夫を例にとると、同局の参加作品は昭和十八年『交換船』(情報局賞受賞)の一本だけだが、ロッパ主演の「高揚劇」は十本以上にのぼっている。劇場はすべて有楽座であったことを考えると「戦意高揚劇」の時代だった、と言ってよいだろう。

(略)

べつに菊田一人だけが書いていた訳ではない。同時代の商業劇作家、たとえば川口松太郎も中野實も書いているし、北条秀司や阿木翁助も書いた。だが、戦時中の「高揚劇」ということになると、なにはさておいても菊田一夫の名前が真っ先に挙げられた。他の作家たちに比して数が多かったということもあったろう。しかしそれにもまして菊田一夫の名前に「高揚劇作家」の刻印が打たれたのは、滅私奉公を主軸とした巧みな菊田ドラマに、戦時下の観客が感銘したからである。すべてとは言わないまでも、その中のいくつかは、説得力もあり人物の造形も確かな力作と呼べる作品だった。しかもこの時期『道修町』を書き、代表作の『花咲く港』を発表して得意の絶頂にあった。いい替えれば、菊田一夫のこれまでの作家人生の中で最も脂が乗りきっていたのが、皮肉なことに戦時中のこの時期だった。皮肉というのは、もしこの時期、筆力が衰えていたら、あんなにたくさんの「高揚劇」は書かなかったろうし、また書かせて貰えなかったろう。『髭のある天使』や『交換船』といった異色の「高揚劇」だって生まれなかった。そうであれば、戦後になって菊田一夫が戦犯作家と呼ばれ、占領軍の影に怯えながら日々を過ごすこともなたった、という意味で、ピーにであったことは皮肉だった。

(略)

戦後六十年が経ち、今のこの時点で菊田たちを批判するのは簡単だ。しかし、多少なりとも時代を共に生きた私には、菊田一夫やほかの作家たちの仕事を断罪する気にはなれない。問題があるとすれば、戦後になって彼らがどういう生き方をしたか、ということだと思っている。そのことについては後章に触れる。(p109~112)



とある。戦後、昭和二十三年十一月十三日、東京裁判で東条英機ら七名に絞首刑の判決が下った翌日未明に書かれた私信では、



戦争裁判が遂に終わり、判決が下されました。過ぎた日のあの戦争を、判決をうける人自衛であったと言いはり、判決はそうではない侵略であったと宣言されました。

その国にはその国々の体質があり性格がありますから、判決をうける人々もきっと嘘を言っているのではなく、心から自衛だと思っているのだと考えます。

あの人たちのこしらえた政策により、私たちがそう思わされたにもせよ、あの当時は、私たちも、あの人たちを立派だと思ったり尊敬したりはしなかったにもせよ、少なくとも、私たちの代表だと思っていたことにはまちがいがありません。……と思って、あの当時、心から、戦争が勝てばいいと思っていたのは、私のような学問のない、物書きだけかもわかりませんけど、いま判決をきいて、ほんとに心から、あの人々を気の毒だと思い、たくさんお戦死者のことを考えると、やっぱり、死んでいただかなくてはと考えます。あの人たちがわるかったのではなく、あの人たちのやった政策が、死に値するほど、いけないものだったという意味でです。



戦争はほんとうにいけないことでした。

わたしにわかることは、唯、それだけです。

ほかの難しいことは判りません。



 (略)



私などは、所詮、芸術などというものは書けないのですから、せめて、今後は、戦争のない世の中になるようにと念願したものだけを、書きつけていきたいと思っています。(p150~153)





 昭和二十二年に二本の舞台劇『東京哀詩』『堕胎医』を発表している。



 前者は、戦後まもないガード下が舞台で、戦災孤児、夜の女、やくざ者、など、底辺に生きる人間たちの姿が生々しく描かれている。戦後風景の一齣を切り取ったドラマとして菊田は覚めた目で書いている。わずかに最後の景で、浮浪児たちが夢の中で死んだ父母に出会ったり、楽しい食事をしたりする場面に、菊田一夫のリリシズムが胸を熱くさせる。

 (略)

 後者は……戦地から帰って来た若い医師が、夫から性病を移された妊婦に診察を頼まれる。彼は極力、人口流産をすすめて、それを実行する。因果な病毒の子は、ひとまず出生をまぬがれたが、やがて手術に当たった医師は、堕胎医の嫌疑で警察の取り調べをうける。

 菊田一夫のヒューマニズムが暗い芝居を支えているが、描かれるのは、国内におけるもう一つの戦争の惨禍である。(p160)



 菊田一夫の戦後の大ヒットはラジオドラマ『鐘の鳴る丘』『君の名は』から始まる。



 戦争中に、国策協力という至上命令で多くの「高揚劇」を書かされた、否、使命感に燃えて書いたが、その付けは、戦犯文士という思いもよらぬ代償として帰ってきた。政治や社会運動にはおよそ無縁だった菊田一夫にすれば、なにがなんだか判らぬうちに足元を掬われて転倒した。一介の芝居書きが、それもアチャラカ出身の作家が、政治的な報復を受けるなどとは夢にも思わなかっただけに、彼は政治というものの恐ろしさにふるえ上がった。

 『鐘の鳴る丘』は、汚名をすすぐ、というよりは戦時中の贖罪の意味を込めて必死に書いた。幸い好評だった。しかし『鐘の鳴る丘』と『君の名は』の間には五年の歳月があった。五年を長いとみるか短いとみるかは別にして、戦後の傷跡に触れることに多くの日本人の心が微妙に変化しているのを、菊田は投書の数々で知った。「わずか五年間に、なぜ変わってしまったのか」、うつろい易い「大衆」の心理といってしまえばそれまでだが―—社会の矛盾なんかどうでもよい、そんなことより、春樹と真知子の恋はどうなるのだ―—という聴取者の声を菊田は憮然たる思いで聞いた。

 『君の名は』冒頭の「忘却とは忘れ去るものなり」の序詞が、「大衆」を指したものであったという皮肉に菊田一夫が気がついたかどうか、今となっては判らない。

 この時の教訓は、その後の菊田作品から政治的な問題はむろんのこと、時事的な話題ですら意識的に避けるという芝居づくりになって現れた。(p177~178)



 蛇足ではないけれど。



 「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」の前半だけだと「大衆」を指しているが、「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」もそうだろうけど、少し深い。



 忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ-。テレビが普及する前の1950年代初め、毎回こんなナレーションで始まるラジオドラマが大ヒットした

▼菊田一夫原作「君の名は」。戦火の中で巡り合った男女が愛し合いながら擦れ違いの運命に翻弄(ほんろう)される。それでも互いに相手のことがあきらめ切れない…。後年、映画やテレビドラマにもなった

▼忘れることができるなら、それこそどんなに楽なことか。悲恋に限らず、人はさまざまな苦難に直面する。とりわけ災害や犯罪で理不尽にも尊い肉親らを失った人々の境遇は過酷だ

▼忘れることは癒やしにつながる。時の流れがそれを後押しする。けれども社会全体としてみれば、惨事の記憶こそ忘却のかなたに追いやってはならない。そんなジレンマもある

▼地震への備え、虐待の防止、通学路の安全…。教訓が叫ばれながら私たちは人ごとのように聞き流していたのか。今年も幼い女児らが相次いで命を落とすなど悲劇が繰り返されている

▼テレビに加えインターネットが普及した情報社会にあって、人の記憶力や想像力はむしろ退化していないか。1年の後半が始まるきょう7月1日は「国民安全の日」-。生活のあらゆる面で国民一人一人が安全に留意し、災害の防止を図る日とされている。政府がこの日を制定したのは1960年。先のドラマと同じく半世紀以上前のことである。

=2018/07/01付 西日本新聞朝刊=

20200914

2021年01月09日

小宮山量平「『敗戦』三十年を考える」から

 先見の明を誇る思いはないのです。むしろ哀しい予感というべきでしょうか。八・一五から一年たち、二年たつのにつれて、深い哀しさが私をとらえるようになりました。

 ――私たちの心は一九四五年8月5日において敗れてはおらず、おそらくは更に二、三十年後に真の敗戦を実感するのであろう。

 当然、こういう意味の文章を、何度も記しております。季刊『理論』は、こんな思いを刻むための雑誌であったとも言えましょう。公式主義を踏まえて頑なに対立しあうような風潮を克服するための「共通地盤」を考える特集を、毎号つづけていたものです。

 それらの特集から、『近代理論経済学とマルクス主義経済学』とか、『社会科学と自然科学の現代的交流』など、私の初期単行本の出版も発足したのでした。今にして、学際的交流などが高唱されはじめている潮流を眼のあたりにしますと、悲しい微笑が生じます。

 また、啓蒙主義的な理論や思想の受け売りめいた客観主義に逆らって、『主体的唯物論への途』だの『戦後精神の探求』なdの諸著が示すような主体性への呼びかけも熾烈な社風でありました。この時期の単行本が二十年後の六十年代に、学生の基本文献であるかの如く復活しはじめたころ、私は、あだ花をみつめる思いで、自分では増刷も新版も試みませんでした。

 ――虚しく時は過ぎた!

 そう思うのです。気づくべきときに気づくのと、後になって気づくのとでは、埋めつくせない溝があるものです。後悔は先に立たず腹水は本にかえらない道理です。もともと、「敗戦」と言えば、どんな革命や改革よりも、ダイナミックな変革の道すじを示す大転機だったはずです。(以下略)

(初出「文化通信」1975.3.10 『出版の正像を求めて』日本エディタースクール出版部,1985 所収)



 理論社というと『兎の眼』や「ぼくは王さまシリーズ」の児童書の出版社という印象が強いが、創業者の小宮山は当初、経済・歴史・社会科学の出版社として理論社を発足させている。

20200901

2021年01月09日

菅野青顔 再び



以前、青顔について書いたことがあった。後日、ブログを読まれた市立気仙沼図書館の元館長の荒木英夫氏から、自ら書かれた「菅野青顔」の論稿の複写をいただいた。お手紙では、昭和4年(1929)の気仙沼大火に罹災した経験から、海岸線近くの市中でなく、青顔の強い意志で、住民にとって不便な高台に図書館を立てている。このことが気仙沼図書館の蔵書を津波からまもることとなった。荒木氏は青顔の先見の明に脱帽しておられる。

 青顔の活躍については「気仙沼市の図書館100年のあゆみ」がPCでその概略を知ることができる。



 この程度のことなら「「菅野青顔 +追記+また」として書き足しておくこともできたのだが、安藤鶴夫『新版百花園にて』(三月書房.1999)に菅野青顔らしき人物を発見したので、「再び」として載せることにした。



みちのく本〈巷談本牧亭〉(P190~195)

 読売新聞で、日曜だけ休載というへんてこな連載をはじめた。ということは、正直いって、週にいちど休みになるということは、たいへん、書きにくかったということである。

 だから、去年の一月四日の夕刊からはじまって、六月二八日の夕刊で、ぴたり一五〇回を終わって、それから、たしか、二週間も経たない七月の話である。

 宮城県気仙沼市笹ヶ陣というだけでも、わたしはびっくりしたのだが、その市立図書館とあって、その図書館の館長さんなのか、司書さんなのか、そのへんはまるっきりわからないのだけれど、S・Sという方から新聞が届いた。

 なんだろうと思って、さっそく、帯封を切って、その地方新聞をあけてみて、びっくりした。

 文化面、あるいは文芸面とおぼしきページの、トップに、五段抜きの写真で〝巷談本牧亭〟の本が出ている。

〝巷談本牧亭〟とあって〝安藤鶴夫著〟という、たいへん、立派な本である。

 ぎょっ、という感じと、えっ?まじりあったショックである。

なぜかというと、わたしはまだ、〝巷談本牧亭〟を本にした覚えがないからである。(略)

なにがなんだかわからず、S・S氏の文章を読んだ。

それによると、はじめ、なにげなく〝巷談本牧亭〟を読んでいると、いつもの園芸読みものなんだなと、バカにして掛かっていたら、そのうちになんだか巣k地違ってきて、とうとう、読者になって、こんどは、毎日、新聞のくるのを待つようになり、終わって見事な製本をして、それを撮影して、そして書評を書いたというのである。

(略)

私は、著者の私が知らない間に、この世の中にちゃんと〝巷談本牧亭〟が本になっていることを知って、感動し、涙をこぼした。

しかも、それが宮城県気仙沼というところである。

(略)

そんな遠いところで、みも知らぬひとが、わたしの本をつくって、机の上にのせて下さるということは、なんとも、ありがたいことである。

(以下、略)

20200831

2021年01月09日

気仙沼の図書館長だった菅野青顔

敗戦以降の図書館人を振り返ると、伝説の時代があり、英雄の時代があり、群雄割拠の時代があった。今は茶坊主の時代だ。と研究集会で言ったら、少し受けた。

その伝説の時代の図書館人の一人に、気仙沼の図書館長だった菅野青顔という人物がいる。

この人は気仙沼の水産加工業を営む家の倅で、1903(明治36)年、気仙沼生まれ、小学校を終えると、気仙沼水産講習所(のちの気仙沼水産高校)にすすんだ。17歳の頃、突然「書物三昧」の生活に入り込み、仕事をしなくなる。結婚するのだが、やがて家業は倒産、家屋敷を手放すことになる。青顔は「書物三昧」の世界に入り、生計は青顔夫人やへ子が支えることになる。その後、大気新聞の記者を経て、1941(昭和16)年、気仙沼町立図書館の事務嘱託職員、1949(昭和24)年8代目の図書館長となる。1978(昭和53)年7月まで館長を続け、その後は読書三昧と三陸新報『萬有流転』の執筆生活に入る。1990(平成2)年、逝去。

菅野青顔については青森の三上強二氏から聞くことはあったが、1970年代の図書館の潮流とは異質の人物であったので、後任の荒木英夫館長にもお聞きする機会を逸していた。

菅野青顔追悼集『追悼・菅野青顔を語る』(1990)の中で、荒木氏は以下のように書かれている。(P352~354)

青顔館長は図書館の蔵書は権威あるものでなければならないとの信念を持ち、図書館を利用すれば、中央の学者にも負けない研究が出来るような図書館を気仙沼につくることが念願であった。だから私らに良くいったものだ。「せっかく文献を集めたのだから、東大や外国の学者が頭下げて教えを乞うくらいの研究をしろや、それが図書館の権威を上げることだよ」と。

青顔館長のもう一つ素晴らしいことは、図書館の仕事に誇りを持ったことであろう。とかく行政体の中で、図書館とは閑職と思われ、コンプレックスを持つ人も多いが、氏にはそれが塵ほども無かった。「人まねの出来る動物はいても、本を読む動物は人間だけだ。本も読まず、図書館に関心ない人間は、相手が誰であろうと俺には猿か熊くらいの価値しかない」と言い、また初代国立国会図書館長金森徳次郎氏が、「人生を顧みて、お前の生前やった良い事は何かと閻魔に尋ねられたら、恥入ることばかりだ」との意味の随筆を書いてあったのを評し、図書館の親分をやったくらい立派なことはない、それで文句を言う閻魔なら、頭を殴りつければ良い、と言ったものである。

特に念願の新図書館を落成させ、昭和四十四年度の北日本図書館大会を開催した時は、閉会に当たり、「図書館職員は〝世界至高最大な仕事〟に誇りを持ち、推進したい」と挨拶し、参加者に感銘を与えたものであった。

新館落成後は、実務は専ら職員にまかせ、その人間的魅力と政治力で作られた二十余りの寄贈文庫(市民有志から年間一定額の寄付申し出を受け、図書の選定は館長にまかせる)を基礎に基本蔵書の充実に力を注いだ。

この頃から、戦前以来の教養主義中心の読書に対し、社会一般人に根を下ろした図書館活動が展開されてきたが、他方それに疑問を表明する渋谷国忠氏(前橋図書館長)を代表とする図書館人もあった。青顔館長も渋谷氏も大正期に青年時代を送った教養人、自由人であり、また辻潤の研究家で萩原朔太郎の研究家であった渋谷氏とは親交があったためか考えに共通する所があった。「基本図書も大切ですが、市民の利用する小説や実用書も充実させては」と進言したが、「俺はクズ本は集めない」と主張は曲げなかった。教養人として徹し、哲学を持った館長だったといえよう。ただし館外奉仕の本の選定と。収書以外のことは職員を信用して自由にやらせてくれ、頼み甲斐のある上司であり、その自由な雰囲気の下で、日本の公立図書館としては大分変ったこと(公立図書館としては当然の活動と思っているが)もやった。

例えば昭和四十七年に有吉佐和子の『恍惚の人』が話題となり、読書界で良く使われたが、同じベストセラーの『日本列島改造論』を題材にしないのはおかしいと、保守系と革新系の市会議員を講師に市民読書会を計画したら、総選挙にぶつかり、外部から見合わせるよう注意されたが、青顔館長は「やれてバ」と支持してくれて、実行、大勢の市民が参加し好評だった。

また昭和五十二年に大型店が進出した際、大型店問題の資料を提供するのは公立図書館の市民に対する義務だと資料を集めたが、その提供に当たり行政と市民団体の間に立ち、いろいろ困難な問題に当面した。これを何とか乗り切れたのも青顔館長が理解してくれたからで、その活動経過は情報公開制度と今後の図書館活動の在り方として図書館界で注目をうけ、『法律時報』で取り上げられたりした。これが私を図書館の自由宣言に関係させることになってしまったのである。

菅野青顔は、辻潤や武林無想庵と親交があった。大泉黒石、宮沢賢治、湯川秀樹らを早くから評価していたという。

青顔というのは雅号で、「青顔さんは終始一貫、本名を用いず、雅号で押し通した。市役所など公文書は本名を記すので、『千助』という本名の表彰状や辞令をもらうと、青顔さんは憤懣やるかたない態度を示すのが常だった。青顔館長の反骨の姿勢がそこにみられるようであった。」(佐々木徳二)は贔屓の引き倒しだろうが、追悼文集は80人近くの人が文を寄せている。教養人、自由人であり魅力的な人物であることは間違いない。

追記

民芸店の備後屋でギャラリー華を開いていた故俵有作さんが、気仙沼の図書館に博学の館長がいた、君もああいう図書館人になりなさい、と言われたことがあった。菅野青顔のことだな、と思ったが、そんなの到底無理ですよ、と言ったことを思い出した。青顔は生活のことなど関係なしの人生であって、家計は奥さんまかせのようだったらしい。追悼集にそのようなことが書かれている。

私はそこまで徹底できない。というか、人としての大きさや魅力が欠ける私には、青顔を目標にすることなど、およびもつかない。石橋を叩いて渡らない父の背をみて育った者にとっては、青顔は無縁の人である。図書館についても「門前の小僧」でしかない私からすると、青顔や残日録54の蒲池正夫の闊達が羨ましくもある。

2019

2021年01月09日

宮脇淳子の中国論ほか

藤原書店のPR誌「機」に宮脇氏の連載「歴史から中国を観る」がある。2020.08号はその3回目「一国二制度」から一部を紹介する。



 しかし、歴史上、中国が約束を守ったことがあっただろうか。

一九一一年十月、清の南部で辛亥革命が起きたよく一二年二月、生涯皇帝の称号を有して紫禁城で暮らしてもよい、という優待条件を袁世凱が示したので、清朝は中華民国に禅譲した。しかし、一九二四年最後の皇帝溥儀は、軍閥の一人馮玉祥のよって紫禁城から追い出される。

一九一五年、日本は南満州鉄道と関東州の租借期限の九九年延長を、袁世凱に認めさせた。ところが張学良は、袁世凱が結んだ「二十一カ条要求」は無効であるとして、国権回復運動を起こす。これが満州事変の原因となった。

これらは、他人の結んだ約束など、私には関係がない、という表明である。

鄧小平の「韜光養晦」(とうこうようかい;才覚を覆い隠して、時期を待つ)戦術は、中国が力をつけるまでの時間稼ぎにすぎなかった。力がついたいま、何をしようと勝手だ、というのが中国人のふつうの考えなのである。



1984年に中国とイギリスが調印した「50年間は一国二制度」が、香港返還23年目にして「香港国家安全維持法」施行された。今回の習近平の措置は約束違反であると西側世界は抗議している。このことについて書かれたものである。

宮脇氏には『かわいそうな歴史の国の中国人』『悲しい歴史の国の韓国人』『満州国から見た近現代史の真実』といった著作がある。

『かわいそうな歴史の国の中国人』は「歴史的にみれば中国という国すらない」「「中国」と「中国人」は20世紀に誕生した言葉」から始まり、「沈む船から一番先に逃げ出すのが中国人」までコラム風の歯切れのよい文章が並ぶ。

 2年ほど前、まちづくりセンターで「日本歴史入門講座」を数回開いた。関連で、ミニ授業書「焼肉と唐辛子」を取り上げ、朝鮮―韓国の歴史を学習したが、その時までに『悲しい歴史の国の韓国人』を読んでいたら、もっと話題を豊富に出来たことだろう。

『満州国から見た近現代史の真実』はいかに自身の滿洲像が浅薄なものであったかを思い知らされた

20200830

2021年01月09日

與那覇潤『歴史がおわるまえに』亜紀書房,2019

「率直にいって私たちの社会――日本に限らず世界の全域でいま、人びとが過去の歩みに学ばなくなり、歴史の存在感が薄らいでいることは事実だ。そうした事態を食い止めようとする学者時代のわたしの活動は、端的にいって徒労だったと思う」(P340)。

 こう書く與那覇の学者時代の活動は単著『中国化する日本』『日本人はなぜ存在するか』や東島誠との共著『日本の起源』でその啓蒙的な絵解きを読むことができる。

 本書の第一部「日本史を語りなおす」第三章「現代の原点をさがして」の対談はそうした「徒労」時代の最後の産物であったのだろう。前記の三著書よりもいっそう深い内容になっている。その分、啓蒙度は低くなる。

 その間に挟まれた第二章「眼前の潮流を読む 時評」は、もう少し「林達夫」風に仕上げればよかったものを、と思わせる。背景に少し「徒労」を感じさせるとすれば、與那覇と林の生きる時代の違いや「大衆」観の違いであるだろう。

 これらの時間のあと、與那覇は双極性障害Ⅱ型(うつ病)をきっかけとして学者時代を終える(退職)こととなる(2017)。

 「むしろこれからは(依存の意味での)歴史が壊死していくことを前提として、それでもなお維持できる共存のあり方を考えねばならないのだろう。まだ答えは出せていないが、そのヒントを模索する病後の作品を集めた(P340)」のが、第四章「歴史がおわったあとに―—現在」である。

「それでもなお維持できる共存のあり方を考えねばならない」と書いてしまうところが、「徒労」の深さと相まっている。

「かつて社会主義体制の崩壊を「歴史の終わり」と呼ぶ人がいました。しかしそうした見方じたいが、必然として語られた歴史そのものだった。むしろ多くの歴史の語りとともにあった、必然という発想そのものを終えた後にはじめて、私たちはほんとうに問うべきことを考えられるのだと思います」(P12)とはいうものの、「ねばならない」から遠く離れたところに立脚点を置くことは難しい。その困難に向かう與那覇をこれからも追っていきたい。

20200822

2021年01月09日

飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』(筑摩選書)

快挙といってよい本が出版された。本が売れないと言っているのに、子どもの本だけは活況を呈している。

著者は三つの謎を「はじめに」で提示する。



謎①子ども向けの「本」市場だけが復活し、「雑誌」はボロボロ

謎②ヒット作の背景がわからない

謎③なぜか通史を書いた本がない



本書は第一章で「なぜ子どもの本の市場は今のような姿になったのか?」というマクロ的な環境要因を追い、第二章以降では「なぜ今の子どもの本市場の中で、このタイトルが売れているのか?」というミクロ的な個別事例を掘り下げていく。(p21)



謎①について、

『出版指標年報2018年版』は

教育熱心な親や祖父母が積極的に児童書を購入

大人の読者にも人気を呼ぶ児童書(特に絵本)が増

新進絵本作家の活躍、新規参入者の主に翻訳書によるユニークな企画が市場を活性化

幼児期の読み聞かせや小中学校の「朝の読書」の広がりが下支え

と指摘し、書店でも読み聞かせスペースなどを設け、規模を拡大する店舗が増えつつある、とまとめている。

との見解を紹介している。(p10)『年報』の指摘は妥当なところだろう。



謎②については「幼児~小学生編」として、「おしりたんてい」「ヨシタケシンスケ」「ルルとララ」「ほねほねザウルス」「かいけつゾロリ」などの紹介分析をしている。

なかでは「飛翔する児童文庫―—講談社青い鳥文庫と角川つばさ文庫」の項が読みごたえがあった。宗田理の「ぼくら」シリーズの著者による表現の「改稿」「加筆・修正」というブラッシュアップを支持する立場から、児童文庫の可能性を見出している。女の子に支持されてきた児童文庫が、男の子に読まれるラインナップを切り開いたのは編集者や著者の力によるものに違いない。



謎③については本書第一章でとりあげられている。バランスの取れたものになっていると思う。渦中の端にいるものとして、もっとざっくりとした「略史」を話すことはあるが、私の任にないことがらであるから書くことはないとおもうので、ぜひ、お読みいただけたらと思う。

20200815

2021年01月09日

正岡容の岡鬼太郎「らくだ」評

正岡容『寄席囃子』から、



 岡鬼太郎氏が吉右衛門一座に与えた「らくだ」の劇化「眠駱駝(ねむるがらくだ)物語」は、おしまいに近所で殺人のあるのが薬が強すぎて後味が悪い。岡さんのいやな辛辣な一面が、不用意に表れているように思われる。陰惨な情景は、あくまでむらく(むらくに「ヽ」)のそれのごとく、終始、らくだの兄弟分と屑屋の言動との滑稽の中で発展さすべきである。それでなくても思えば「子猿七之助」以上に陰惨どん底のこの噺の世界は、わずかに彼ら二人の酔態に伴う位置の転倒という滑稽においてのみ尊く救われているのであるから。ということはしっくりそのままお生にこの噺を頂戴して、不熟な左傾思想をでッち込み、その頃、雑誌『解放』へ何とかいう戯曲に仕立て上げた島田清次郎あることによっても立証できるだろうと思う。



 「むらく」は「群雲」だろう。2017年12月の歌舞伎座、中車と愛之助の「らくだ」について、渡辺保氏の劇評に、



 私はこれまで岡鬼太郎作の「らくだ」しか知らなかった。今度ははじめて大阪版(略)なるものを見て大いに笑った。もともと「らくだ」は大坂落語だから本家本元というべきか。東京版とは感覚がまるで違う。岡鬼太郎が人間の死の尊厳にふれているのに対して、大坂版は一切理屈抜きで、野放図に笑いに徹しているところが面白い。



とある。前年の正月の松竹座での二人の「らくだ」には好評のブログがあるが、こちらの方は「キレが悪い」との声もあり、東西の観客の違いにとまどったのだろうか。

 一時期(3~40歳代)、歌舞伎を見ていたことがあったが、そういう時間が持てないでいる。このままだと、落語の「らくだ」も歌舞伎の「らくだ」も縁なくして終わりそうだ。そういう面への慾がなくなったともいえる。



 Zoomでふたコマ講義をすることになり、慌てた2週間だ。準備の方が少し落ち着いたので、気分転換に「正岡容」を読んだ。

20200722

2021年01月09日

久米明『ぼくの戦後舞台・テレビ・映画史70年』(河出書房新社.2018)

コロナ騒ぎが始まった2月ごろから昨年の「みすず 1・2月 アンケート特集号」から気になった本をぽつぽつ読んでいる。これもその一冊。先日、一晩で読了した。面白かった。

 10代から演劇や映画に関心はあったが、何せ加古川の田舎育ちだから、実際に芝居を観るということはほとんどなかった。実際に見始めたのは30歳代になる少し前、芦屋で観た転形劇場の「小町風伝」からだった。1980年代からだから、小演劇の流れは既に始まっていて、久米明のような「新劇」の芝居を観ないところからの観劇体験だった。

 久米明は「俳優座」「民藝」「文学座」といった主流の劇団ではなく、木下順二、山本安英、岡倉士朗らと1947年に「ぶどうの会」を結成し、俳優としての道を歩み始める。1964年の同会解散後は1966年「劇団欅」に入団、1976年「劇団昴」の結成に参加(~2007)するなど、舞台俳優として、またテレビ俳優として活躍をした人である。

 また2019年3月まで現役として「鶴瓶の家族に乾杯」のナレーターをしていた。

 この春、96歳で逝去。

 前半は岡倉士朗、後半は福田恒存、という二人の演出家との関係を軸として、ご自身の俳優としての人生を回顧するという構成になっている。新劇としては傍流ではあるが、劇団内のもめごとなども書かれていて、私にとっては興味深い内容だった。

 「ぶどうの会」の解散について、



……秋の公演、秋元松代作「マニラ瑞穂記」は、山本・久米出演辞退のあと、稽古が続けられていたが、異変が起きた。演出の竹内が、秋の第二弾、宮本研作「ザ・パイロット」準備のため、勝手に途中降板、放り出して稽古場に出てこないという。見かねた秋元氏みずから稽古に当たり、初日の幕を開けたものの、劇団統制は地に落ちた。

 この事態収拾のため久米は復帰、幹事会に臨んだ。思い決したことがあった。今いろんな矛盾が噴き出した。この際みんな頭を休めて出直したらどうだろう。入院以後、様々な想いを集約して、結論づけた解散論を披露した。おふたり(山本安英と木下順二―明定)はそうしようと納得された。直ちに全員を集め、総会を開いた。

 竹内の責任を問うた上で、混迷の元を断ち切る想いをこめて久米は言った。

 ぶどうの会は師弟関係から出発、リアリズム演技を木下作品によって研磨し、舞台の上に実現すべく、理想に燃えて歩みつづけてきた。山本、木下、岡倉の相互信頼の上に築かれた創造集団だ(岡倉は1959年に死去―明定)。この本質を歪めたら存在意義は失われる。竹内の内外に喧伝する木下批判はみずからの首を絞める行為だ。今や劇団内の統制は崩れ、その亀裂は日々を追って深まるばかり、集団の活力は失せた。目先をごまかして維持するよりも、ひと思いに解散し、清算して、それぞれが望む道に進むべきだ。

 徹夜の総会討議の結果、解散を決議した。存続の意見は一ツも出なかった。



 ここに出てくる「竹内」は竹内敏晴のことで、90歳を過ぎても久米明は怒りを抑えきれない、と読める。

 この解散の記述の少し前、木下順二作「沖縄」の竹内演出(1963)について「演出の竹内は拡張のある言葉の上ッ面を撫でるだけだった。生きた人間のぶつかり合うエネルギーは舞台から溢れ出なかった。力演する山本さんに久米も桑山も対峙できずに終わってしまった。岡倉先生だったらば……歯軋りしたところで敗者の繰り言だ」とある。

 竹内はもう一か所に登場するが、そこでは評価されている。当時ともに40歳を前にした年齢、久米明が1歳年上である。

 全体として抑制された回顧談だが、「ぶどうの会」の木下順二と竹内には厳しいところがある。

 後半の福田恒存との交流は、評論家としての福田を少し読むだけだった私にとって、演出家福田を知るいい機会となった。こういう読者は多いと思う。「劇団雲」の福田派と芥川派の対立など、なるほどと読んだ。

20200713

2021年01月09日

出口汪(ひろし)の国語教育

「出口汪の日本語論理トレーニング」シリーズ(小学一~六年,基礎編,応用編,計12冊)を購入した。習熟編6冊は考え中。

出口汪が気になったのは10数年前に働いていた図書館のカウンターでの親同士の会話からだった。片方の母親が以前から出口の「読解・作文トレーニング」シリーズを子どものために借りていたのは知っていた。小学4~6」のシリーズで、中学に入るその母親の子は、このシリーズで国語力がついたので、あんたとこもやるといい、とすすめていたのだ。問題を読ませて、答えさせたり、べつの紙にでも書かせればいい、とのことだった。

この「論理トレーニング」の解答は短い。小学五年基礎編から問題を紹介する。



文を組み合わせる

日本の都道府県について調べています。Aの文がBの文の————線部につながるようにして、一文にまとめましょう。

山形県

A 山形県はくだもののさいばいがさかんである。

B 山形県はさくらんぼの生産量が日本一である。



解答 くだもののさいばいがさかんな山形県は、さくらんぼの生産量が日本一である。

  くわしい考え方

Bの「山形県は」、は主語です。そこで、Aの文を主語を説明する語句に変形します。「くだもののさいばいがさかんである」→「山形県は」としても間違いではありませんが、文末も「である」となるので、「くだもののさいばいがさかんな山形県は」としましょう。



と、丁寧な説明です。



愛知県

A 愛知県の県ちょう所在地(しょざいち)は名古屋市である。

B 名古屋市は中京工業地帯の中心で、製造業(せいぞうぎょう)がさかんだ。



解答 愛知県の県ちょう所在地である名古屋市は、中京工業地帯の中心で、製造業がさかんだ。

くわしい考え方

 Aの文を「名古屋市」を説明する語句に変形します。「言葉のつながり」を意識すると、「愛知県の県ちょう所在地である」となります。



このシリーズの表紙には「論理エンジンJr.とは…過程で無理なく考える力と読解力を身につけられる“論理エンジン”の小学生版です!」とあります。他にも、中学・高校生、受験生、社会人向けにもいろんな本を出されています。

数年前、神戸でセミナーがあったので出かけてきました。若い熱意のある先生たちが参加されていました。そこで使われていた教材は図書館には販売しなません、と販売代行社の方がおっしゃっていました。

出口汪オフィシャルウェブサイトによると「大本」教祖・出口王仁三郎が曾祖父だそうです。

東進ハイスクールなどの予備校(2019年まで客員講師)の「現代文のカリスマ」と評されていました。2000年、教材開発・出版を目的とした水王社を設立しています。教育評論家でもあり、教育研究者でもあります。

20200629

2021年01月09日

人生の親戚

 ひとの「死」というのはどこにでもあって、平凡な「死」もあれば劇場型の「死」もあるだろう。平凡な人生であったが、強烈な悲しみを抱え続けて生涯を閉じた身近な友人がいる。大江健三郎は、この悲しみを小説で「人生の親戚」と呼んでいる。その悲しみを通底するもの同士の間柄であった友人が「死」をむかえた。親友という言葉は使いたくない。悲しみを共有する者として「人生の親戚」だと思ってきた。

一年前、末期がんだった小山が「言っておきたいことがある」と言った。何だったのか、言わないで逝去していった。言わずもがな、のことであったのか、言ってもどうしようもないことであったのか、「まあいいか」ということにおさまったのだろうか。数少ない大切な「親戚」が一人消えた。

 私は、人とあまり親しく付き合わない。図書館業界でも師弟関係はないし、グループを作ったり、グループに入ったりはしない。もちろん業界の団体の会員であるし、そこで役員になったり、発表もすることはある。ただそれは付き合いの延長で、個人的な感情を伴うものではない。誰かから、どこの会にもいるけれど、どこの会の人でもないね、と言われたことがあったが、長年の付き合いの人の観察力は正しい。いろんな場にも「人生の親戚」はいる。

 昨夜、遠方から「今は大丈夫かも知れないけれど、飲みすぎは、脳にダメージを与えるから減らしてください。おやすみ」とメールがとどいていた。朝、読んだ。

年をとるにつれて、年下の「人生の親戚」ができる。同業者ではないが、「強烈な悲しみ」というと大げさに思うかも知れないが、一人ひとりにとっての「生きにくさ」の「根」は深い。数少ないけれどそういう「親戚」がいる。

20200615

2021年01月09日

坪内祐三追悼特集

「本の雑誌」2020年4月号と「ユリイカ」2020年5月臨時増刊号が坪内祐三の追悼号になっている。「本の雑誌」では四方田犬彦の短文がいい。



 (前略)坪内祐三が急逝いたと知らされ、わたしは残念に思った。緑雨は自分の肉を斬らせて相手の骨を斬るといった、真剣白刃取りの批評家として生涯を終えのたが、坪内は結局、彼のようにはならなかったからである。きっと緑雨よりも心優しかったのだろう。心優しかったから、女子の零落を見届けるなどという残酷なことができなかった。わたしは彼が同業者を何人か集めて、タクシー会社の宣伝のような雑誌を拵えたとき、これはダメだと思った。群れなどしていては、いい批評など書けるわけがないからだ。ちょっと可哀そうなことを書くようだが、新宿の狭い「文壇」とやらに入り浸って、英語の本を読む習慣を忘れてしまったのは、彼の凋落の始まりだったような気がしている。



 「タクシー会社の宣伝のような雑誌」とは「en-taxi」という坪内の他に柳美里、福田和也、リリー・フランキーが「責任編集」となっていた雑誌。



 「ユリイカ」のほうは、浅羽通明「SF嫌いの矜持と寂寥 坪内祐三の思想について」がいい。「シブい歴史――ディテールの坪内VSセンスオブワンダーの小熊」という章では、小熊英二と比較して論じている。



 (小熊への)坪内の嫌悪と危惧は、その翌年に書かれた「(一九六〇年代に関する若い政治学者や社会学者のあまりにもデタラメというか歴史的感受性を欠いた記述が目に付くだけに)」、彼が歴史的摘転換点だったと考える一九七二年が、半世紀後、どう歴史化されるのか、「それを考えると私は恐ろしい」という『人声天語2』収録の「尖閣諸島問題も一九七二年に始まる」の一節でも繰り返される。/逆に六年ほど遡れば、「記録と記憶と準記憶 歴史を知る」(『人声天語』)にこんな一文がみつかる。/生き残った当事者の記憶と記録、それらに触れてイメージを再構成する努力をした続く世代の準記憶。そうやって継がれてゆくはずの歴史から切断されたところで、「歴史」を語り、「さらに言えば自分たちの不満のハケ口をある「歴史」に根拠づけようとする、そういう若者の恐ろしさ」を坪内はそこで警告していた。/かれらはおうおうにして「ネオ・ナショ」に走りがちだからと。「ネオ・ナショ」すなわち現在の「ネトウヨ」である。/この「時代のディテール」というのは、都築道夫が書いて遺した中野の消えゆく二軒長屋とか、広瀬正が交渉を徹底した銀座の店並びとかでもあり、川本三郎が映画と共に忘れず触れるパンフレットや映画館でもあるだろう。/「歴史的感受性」というのは、坪内が丸山真男にはあるとした「ゴシップ的感受性」、すなわち「他者への関心の強さ」と重なる。この他者は、必ずしも人物とは限らない。建築や店や町の一角だってちょっと我を押さえて謙虚に街を歩けば、きっと語りかけてくる知らない加古という他者からの目くばせだ。(中略)こうしたディテールを漂わせる空気、匂いといったものをすべて捨象し、大事件や言説だけをつぎはぎして歴史を記述したと考える者たちを、坪内は許せなかったのだ。

20200509

2021年01月09日

宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮社,2019)の紹介記事「週刊文春2019月9月5日号」より

丸い円が描かれた紙があり、「ここに丸いケーキがあります。3人で食べるとしたらどうやって切りますか? 皆が平等になるように切ってください」と出題されたら、多くの人がメルセデス・ベンツのロゴマークのように線を引き、3等分するだろう。しかし、凶悪犯罪に手を染めた非行少年たちの中には、認知力の弱さから、このようにケーキを切れない者が少なくないそうだ。

『ケーキの切れない非行少年たち』の著者・宮口幸治さんは、公立精神科病院に児童精神科医として勤務した後、2009年から発達障害・知的障害を持つ非行少年が収容される医療少年院に6年間、女子少年院に1年間勤務していた。

「最初は衝撃でした。医療少年院で、ある少年の面接をした際、ケーキを3等分する問題を出してみました。すると、まず円の中に縦線を1本引いて2等分し、『う~ん』と悩みこんでしまったのです。その後、何度ケーキを切らせても同じことを繰り返して悩んでしまう。そんな少年に非行の反省や被害者の気持ちを考える従来の矯正教育を行って、どんなに教え諭しても、右の耳から左の耳へと抜けていくでしょう。

 医療少年院に収容された非行少年たちの成育歴を調べてみると、小学2年生くらいから勉強についていけなくなり、学校では『厄介な子』として扱われ、友人にいじめられたり、家庭で虐待を受けたりするなどネガティブな環境に置かれています。軽度知的障害や境界知能があったとしても、その障害に気づかれることはほとんどありません。次第に学校へ行かなくなり、暴力や万引きなどの問題行動を起こし、犯罪によって被害者を作り、逮捕され、少年院に入ることになる。そんな状況になって初めて障害があると気づかれる子どもたちが大勢いることに危機感を抱きました」

「境界知能」はIQ70~84を指し、人口の十数パーセントいるとされる。明らかな知的障害ではないが、状況によっては支援が必要だ。境界知能の人々は健常者と見分けがつきにくく、特別な支援が必要でありながら見過ごされがちだという。



宮口幸治さん

「非行少年の特徴として、『見る』『聞く』『想像する』などの認知機能の弱さがあります。少年たちが更生するには、自分がやった非行としっかり向き合い、被害者の立場から考えることが必要ですが、そもそもその力がない“反省以前”の状態の少年がとても多い。ところが、彼らに『もし大切な家族や最愛の恋人が犯罪被害者になったらどう思うか?』と問うと、絶対に許せないと真剣に答えます。他者の視点に立つところまで誰かが手伝ってあげれば、そこで取返しのつかないことをしてしまったと気づける。逆にいえば、そこまで言わなければ、気づかないのです」

 では、どうしたら少年の非行を抑止できるのか。本書では、認知機能の向上への支援として有効なトレーニング「コグトレ」が紹介されている。

「たとえば、ある図形を正面から見た場合と右側、反対側、左側からの見え方を想像する『心で回転』という課題は、相手の立場に立つ練習であり、相手の気持ちを考える力に繋がる可能性があります。そして、知的なハンディキャップを持って困っている子どもを早期に発見し、効率よく支援する場として、子どもたちが毎日通う学校は最適です。こうしたトレーニングを小学校の朝の会や帰りの会で毎日5分でもいいから続けていくと、認知機能をずいぶんと底上げできると思うのです」

みやぐちこうじ/立命館大学産業社会学部教授。児童精神科医として精神科病院や医療少年院に勤務、2016年より現職。困っている子どもたちの支援を行う「コグトレ研究会」を主宰。医学博士、臨床心理士。著書に『1日5分! 教室で使える漢字コグトレ』などがある。

DAIAMOND onllne 2019.12.30

児童精神科医の著者は、医療少年院と呼ばれる矯正施設に勤務していた。その頃、非行少年たちの中に「反省以前の子ども」がかなりいることに気づいた。凶悪犯罪を起こした自分と向き合い、被害者のことを考えて内省しようにも、その力がないのだ。学力はもちろん認知力も弱く、「ケーキを等分に切る」ことすらできない非行少年が少なくないという。

 そうした子どもたちは知的なハンディを抱えていることが多く、本来は支援の手が差し伸べられるべき存在だ。だが、障害の程度が「軽度」であるため、家族や教員など、周囲の大人に気づかれることがない。勉強についていけず、人間関係もうまく築けずに非行に走ってしまう。必要な支援にアクセスできないまま、最終的に少年院に行き着くことも多い。彼らは何も特別な存在ではない。著者の算定によれば、支援を必要としている子どもの割合は約14%。つまり学校の1クラスが35名だとすれば、5人程度は何かしらの知的な障害を抱えている可能性がある。

 近年、ADHD(注意欠陥多動症)など発達障害に関する認知はだいぶ広まってきた。一方で知的障害に関しては、学校教育現場でも関心が注がれておらず、その詳しい定義すら知らない教員も多いのが現状だ。そこで、著者は自ら5年の歳月をかけて、支援の届きにくい子どもに向けたトレーニングを開発した。すでに一定の効果が得られているという。決して楽観できない現状をレポートした本書 『ケーキの切れない非行少年たち』だが、解決に向けた実践的なメソッドが示されている点に大きな希望が感じられる。すべての大人に知っていただきたい真実が詰まった一冊だ。(小島和子)



本書の要点

(1)非行少年は知的なハンディを抱えていることも多く、その場合は「反省」する力さえない。その背景のひとつには、IQによる知的障害の定義が変わり、必要な支援を受けられない現状がある。
(2)彼らは障害が軽度であれば日頃は普通に過ごせるため、大人になってからも支援の機会を逸し、さまざまな困難に直面しがちだ。
(3)受刑者が一人生まれると年間400万円の社会コストがかかる。国力を上げるためにも、「困っている子ども」の早期発見と支援が欠かせない。学校教育においても、全ての学習の基礎となる認知機能面のトレーニングが必要だ。

要約本文

◆反省以前の子どもたち
◇「厄介な子」が行き着く先は少年院

 著者はこれまで多くの非行少年たちと面接してきた。そこで気づいたのは、凶悪犯罪を行った少年にその理由を尋ねても、難しすぎて彼らには答えられないことが多いということだ。更生のためには自分の行いと向き合い、被害者のことを考えて内省し、自己を洞察することが必要となる。ところが、そもそもその力がない。つまり「反省以前の問題」を抱えた子どもが大勢いるのだ。

 彼らは簡単な足し算や引き算ができず、漢字も読めないだけでなく、見る力や聞く力、そして見えないものを想像する力がとても弱い。そのため話を聞き間違えたり、周りの状況が読めなくて人間関係で失敗したり、イジメに遭ったりしやすい。それが非行の原因になっているのだ。

 こうした子どもは、小学校2年生くらいから勉強についていけなくなる。やがて学校に行かなくなり、暴力や万引きなど問題行動を起こすようになる。軽度知的障害や「境界知能(明らかな知的障害ではないが状況によっては支援が必要)」があったとしても、気づかれることはほとんどない。学校では「厄介な子」として扱われるだけだ。

 非行は突然降ってくるわけではない。必要な支援がうまく届かず、手に負えなくなった子どもたちが、最終的に行き着くところが少年院なのだ。



◇ケーキを切れない非行少年たち

 児童精神科医として公立精神科病院に勤務した後、著者は、医療少年院に赴任した。そこで驚いたことがいくつもある。その一つが、凶悪犯罪に手を染めていた非行少年たちが「ケーキを切れない」ことだった。著者は、紙に描いた丸い円をケーキに見立て、「3人で食べるために平等に切ってください」と促した。すると、ある粗暴な言動が目立つ少年は、悩んで固まってしまった。少年といっても中高生だ。その年頃で「ケーキを切れない」ようでは、非行の反省や被害者の気持ちを考えさせる従来の矯正教育を行っても、効果は見込めない。こうした少年たちは非常に生きにくいはずだ。だが、学校がそこに気づくことはなく、非行化して少年院に来ても理解されず、ひたすら反省を強いられてきた。これこそが問題なのだ。

 著者が幼稚園や小中学校で学校コンサルテーションや教育・発達相談を行う中で、よく挙がってくる問題がある。例えば、感情コントロールが苦手ですぐにカッとなる子ども。嘘をつく子ども。そして、じっと座っていられない子どもの存在だ。彼らの特徴は、実は少年院にいる非行少年の小学校時代のそれとほぼ同じである。

 幼女への強制猥褻罪で逮捕された16歳の少年は、次のように語った。「勉強についていけずにイライラして悪いことをした。特別な支援を受けられていたら、ストレスが溜まらなかったと思う」。もし小学校で特別支援教育につながっていたら、彼が少年院に来ることもなく、被害者を生まずに済んだかもしれない。

◇クラスの下から5人には支援が必要

 一般的に、IQが70未満で、社会的にも障害があれば知的障害と診断される。この基準は1970年代以降のものだ。1950年代の一時期は、IQ85未満が知的障害とされていたことがある。だが、この定義では全体の約16%の人が知的障害となり、あまりに人数が多過ぎる。支援現場の実態にそぐわないなどという理由で、基準がIQ70未満に下げられた経緯がある。

 時代によって知的障害の定義が変わっても、事実が変わるわけではない。現在、IQ70~84は「境界知能」にあたるが、ここに相当する子どもたちは、知的障害者と同じしんどさを感じており、支援を必要としているかもしれない。こうした子どもたちの割合は約14%と算定される。つまり、標準的な1クラス35名のうち、下から数えて5人程度は、かつての定義であれば知的障害に相当していた可能性が

◇4次障害

 障害を持った非行少年たちは、少年院を出た後は社会で真面目に働きたいと思っている。だが、その多くは、理解のある会社で職を得ても、長くて3カ月くらいで辞めてしまう。認知機能の弱さ、対人スキルの乏しさ、身体的不器用さ。これらが原因となり、非行に理解はあっても発達障害や知的障害の知識が不十分な雇用主から叱責され、やる気があっても続けられないのだ。

 職がなければお金もない。そこで安易に窃盗などに手を染めることになる。著者はこれを「4次障害」だと考える。1次障害は障害自体によるもの。2次障害は周囲から障害を理解されず、学校などで適切な支援を受けられなかったことによるものだ。3次障害は非行化して矯正施設に入っても理解されず、厳しい指導を受け、ますます悪化することだ。そして4次障害として、社会に出てからも理解されず、偏見もあり、仕事が続かず再非行につながってしまう。

◆忘れられた人々
◇理解できない凶悪犯罪の背景

「なぜこんな犯罪を?」と首を傾げたくなる事件をよく耳にする。著者の印象に強く残っているのは、2014年に起きた神戸市長田区小1女児殺害事件だ。ビニール袋に入れられた遺体が雑木林で見つかったのだが、そのビニール袋には、たばこの吸い殻と犯人の名前の書かれた診察券が入っていた。どうして犯人は、すぐに身元が割れるようなことをしたのか。

 後になって容疑者が療育手帳(軽度知的障害の範囲)を所持していたことがわかり、その奇異な行動の意味が理解できた。知的障害のある人は、後先を考えて行動するのが苦手だ。そのため、診察券から素性がバレると想像できなかったのだろう。

「軽度」という言葉から誤解を招きがちだが、軽度知的障害や境界知能を持っている人たちは、実は多くの支援を必要としている。ふだん生活している限りでは、ほとんど健常の人たちと見分けがつかず、通常の会話も普通にできる。そのため、障害があるとは思われない。先の容疑者も、陸上自衛隊に勤務し、大型一種免許や特殊車両免許を持っており、それなりに能力があったのは確かだ。

◇受刑者の半数は知的なハンディを抱える

 彼らはいつもと違ったことや初めての場面に遭遇すると、どう対応していいかわからず思考が固まってしまうことがある。例えば、いつも乗っている電車が人身事故で止まってしまった場合、柔軟に違うルートを探すといったことは困難だ。

◇4次障害

 障害を持った非行少年たちは、少年院を出た後は社会で真面目に働きたいと思っている。だが、その多くは、理解のある会社で職を得ても、長くて3カ月くらいで辞めてしまう。認知機能の弱さ、対人スキルの乏しさ、身体的不器用さ。これらが原因となり、非行に理解はあっても発達障害や知的障害の知識が不十分な雇用主から叱責され、やる気があっても続けられないのだ。

 職がなければお金もない。そこで安易に窃盗などに手を染めることになる。著者はこれを「4次障害」だと考える。1次障害は障害自体によるもの。2次障害は周囲から障害を理解されず、学校などで適切な支援を受けられなかったことによるものだ。3次障害は非行化して矯正施設に入っても理解されず、厳しい指導を受け、ますます悪化することだ。そして4次障害として、社会に出てからも理解されず、偏見もあり、仕事が続かず再非行につながってしまう。

 彼らは社会的には普通の人と区別がつかない。そのため、要求度の高い仕事を与えられて、失敗すると非難されたり、自分のせいだと思ってしまったりする。本人も普通を装い、支援を拒否するケースもあり、支援を受ける機会を逃してしまう。結果的に、社会から「厄介な人たち」と攻撃や搾取の対象にされてしまいがちだ。そのため、場合によっては、意図せずとも反社会的な行動に巻き込まれる可能性もある。

 おそらく刑務所にいる受刑者のうち、かなりの割合を軽度知的障害や境界知能を持った人が占めていると思われる。法務省の統計データから類推すると、2017年の新受刑者のうち、半数近くがそうした人たちだ。一般に、軽度知的障害や境界知能の割合は15~16%程度であることを考えると、かなり高い割合だといっていい。

【必読ポイント!】
◆1日5分で日本を変える
◇ソーシャルスキルが身につかない訳

 知的なハンディが原因で罪を犯すことがないよう、学校では子どもたちにどのような支援をすればいいのか。子どもへの支援を大別すると、学習面、身体面(運動面)、社会面の3つとなる。このうち、対人スキルや感情コントロール、問題解決力といった社会面については、系統だった支援が全くないのが現状だ。

 集団生活を通して自然に身につけられる子どもも多いが、発達障害や知的障害のある子どもには難しい。学校で系統的に学ぶしかない。その機会がないと、多くの問題行動につながりやすく、非行化するリスクが高まる。

 支援対象となる子どもについて、心理士などの専門家は、「対人関係に課題があるため、ソーシャルスキルを身につける必要あり」とみなすことが多い。そのためによく用いられるのが、認知行動療法に基づいたトレーニングだ。認知行動療法とは、考え方を変えることによって、不適切な行動を適切な行動に変えていく方法である。心理療法の分野で効果が認められている。

 だが、問題は、このトレーニングが「認知機能に大きな問題がない」ことを前提としていることだ。「考え方」を変える以上、本人にある程度の「考える力」が求められる。対象者の認知機能に何かしらの問題があれば、効果は期待できない。にもかかわらず、矯正教育や学校教育の現場では、対象者の能力を考慮せず、「とにかくソーシャルスキルトレーニングを」と、形式的な対応がなされることがしばしばだ。

認知機能に着目した新しい治療教育

 近頃、認知機能面への介入の必要性が、学校教育でも認識されるようになってきた。認知機能向上への支援として有効なトレーニングに、「コグトレ」と呼ばれるものがある。認知機能を構成する5つの要素(記憶、言語理解、注意、知覚、推論・判断)に対応した認知機能強化トレーニングだ。著者が医療少年院で約5年の歳月をかけて開発したもので、すでに一定の効果が得られている。

 コグトレは、パズルやゲームのような形式であるため、直接的には学習という印象を与えない。漢字や計算ドリルができないと、子どもは「学習そのものができない」と思って傷ついてしまう。しかしコグトレならば、楽しみながらゲーム感覚で取り組めるうえに、できなかったからといって傷つくこともない。

 学校のカリキュラムは、学習指導要領に沿って厳格に管理されている。独自にまとまった時間を取って、系統立ったトレーニングをすることは難しい。だが、このコグトレなら、朝の会や帰りの会の5分を使って行うだけでも効果がある。

 コグトレのような認知機能トレーニングは、犯罪を減らすことにもつながる。凶悪犯罪の中には、生活歴や性格の問題以外にも、脳機能障害の問題を避けて通れない事件もあるためだ。

◇犯罪者を納税者に

 刑務所にいる受刑者を一人養うのに、年間約300万円かかるという試算がある。一方で、平均的な勤労者は、消費税なども考慮すると、一人あたり年間100万円程度は何らかの税金を納めている。もし、受刑者を一人でも健全な納税者に変えられたなら、約400万円の経済効果になるわけだ。

 逆にいえば、受刑者一人につき400万円の損失が生じているともいえる。刑事施設の収容人数が約5万6000人(平成29年度末)であることを考えると、単純計算でも年間2240億円の損失だ。被害者の損失額も加味すれば、年間の損害額は5000億円を下らないはずだ。こうした点で見ると、犯罪者を減らすことが日本の国力を上げるうえでも重要だといえる。

 そのためにできることは、「困っている子ども」の早期発見と支援だ。それを最も効果的に行えるのは、子どもたちが毎日通う学校以外にあり得ない。今後、新たな視点をもった学校教育が充実することを願ってやまない。

一読のすすめ

 著者は、医療少年院に送られた非行少年や大人の受刑者など、犯罪に手を染めてしまった人々と、その背景にある知的なハンディの関係について述べている。認知機能に「軽度」の障害を抱えたまま社会に出て、「普通に」暮らしている人は、思いのほか大勢いるのだろう。周囲にも一人や二人、思い浮かぶのではないだろうか。「あの人、空気読めなくて困るよね」、「もっと臨機応変に対応してくれないかな」といった人が。そうした人々のうち何割かは、本書で述べられているような課題を抱えているのかもしれない。

 教育関係者でもない立場で、知人や同僚、隣人として何ができるのかまで、本書がつまびらかに示しているわけではない。だが、一見「厄介な人」にも、何かしら事情があるのではないか。せめてそう思いを馳せられる人が増えれば、彼らの生きづらさが多少は和らぐのかもしれない。そんな大事なことに気づかせてくれる貴重な一冊だ。多くの方に手に取ってお読みいただきたい。
20200414

2021年01月09日

『二十歳のころ』の加藤尚武と廣松渉

当時、高田馬場にあった板倉(聖宜―明定)研究室の下の階にあった仮説会館に立ち寄ったら、板倉先生がおられて、少し雑談をした。帰ろうとしたら、もうすぐ立花ゼミ生がインタビューに来るとおっしゃる。いてもよかったのだろうが、用もあるので退出した。後日、立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ『二十歳のころ』(1998,新潮社)としてまとめられている。

 板倉さんのところは読んだものの、そのままになっていた。

 この度、拾い読みをした。

 「加藤尚武にきく」のところに、



――で、奥様は……。

 私の妻は廣松渉夫人の妹です。私の結婚は彼の政治工作の成功した唯一のもので、彼はいろんな政治工作をしたけれど、自分の女房にしようと思っていた女性の妹を加藤尚武と結婚させようってこと以外は、しっぱいしたんじゃないですか。うす暗がりの中の陰謀が好きな男で、四人で学習塾をやるという条件を作って、いろいろそういうお膳立てをして、結局彼の思惑どおり私は彼女と結婚してしまったわけです。結婚式をしたのが確か一九六五年の十月、院生時代です。



 とあった。これは知らないことだった。

加藤氏は、板倉さんたちがつくった東大自然弁証法研究会の会員だった。廣松は二度、その会に顔を出していたと板倉さんから聞いている。廣松の伝記では黒田寛一の自然弁証法研究会にいっていることになっていた。これは誤りではないかと思う。

また廣松の『科学の危機と認識論』に背後に板倉科学論を、私は読み取るのだが、どうだろうか。

20200412

2021年01月09日

磯崎純一『龍彦親王航海記 澁澤龍彦伝』読了

小室直樹、鶴見俊輔、宇沢弘文と伝記を読んできたが、この度、澁澤龍彦の伝記を読み終えた。

同級生のYと親しかった頃だから高校生時代だと記憶しているのだが、三宮の書店コーベブックスに稀覯本を並べたコーナーがあり、不思議なとしか高校生には言いようのない女性が店員としていた。その女性が、高橋たか子が澁澤龍彦とできてね、奥さんとごたごたしているらしいの、という話を聞いたことがあり、その奥さんが矢川澄子だと知り、矢川澄子は谷川雁と関係を持ったことを後日に読んだりしたので、そんなごたごたに魅かれて読んでみようと思ったのだった。澁澤とその周辺の人々について、若い頃は関心を持ち、読んだりしていた。加古川の田舎者には東京の空気は全くわからないのだが、澁澤の文体や金子国義や四谷シモンの作品を楽しむ時間があった。高橋睦郎という詩人は、詩では食えないから貧しい生活をしているのだろうと思っていたりする田舎者であった。広西元信という人物がこの伝記に一度だけ登場するが、「そのころ(1948年—明定)電通ビルの前に「ねすぱ」という喫茶店があり、ジャーナリストの溜まり場となっていたが、私はここで、当時「世界文化」を抱いていた気鋭のジャーナリスト水島治男や広西元信に会っている」という澁澤の戦前戦後、わたしの銀座」からの引用に登場する。磯崎は広西が『資本論の誤訳』の著者であることにはふれていない。まあこの伝記には関係のないところではあるが、「なにしろ若かったので、談論風発する多士済々のなかに混じって、私は学生服をきて、ただ黙々と酒を呑んでいるほかなかった」の「談論風発」のイメージが弱いことは確かである。

20200406

2021年01月09日

主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニングの視点からの授業改善)

教育心理学の三宅なほみ氏が癌により逝去された(1946年―2015年)のは残念であった。死の翌年に『協調学習とは 対話を通して理解を深めるアクティブラーニング型授業』(三宅なほみ・東京大学CoREF・河合塾編著,北大路書房,2016)が出版された。そこでは「知識構成型ジグソー法」の取り組みが提案されている。生きておられたら、主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニングの視点からの授業改善)に大きな役割を果たされたと思う。

「ジグソー法」はアメリカのアロンソンによって編み出された「共同学習を促すための学習方法である。東京大学CoREFのHPによると、「知識構成型ジグソー法」はアロンソンの「ジグソー法」とは異なる狙いや手法を持つ、CoREF(大学発教育支援コンソーシアム機構)が独自に開発した学習法である。HPを見ると、大学の授業でも使えそうな定番教材がある。

この機構の副機構長として、三宅氏はこの取り組みをリードした。前職の中京大学での「単純ジグソー」の取り組み(1991~2007)からはじまり、多様な学習法を組み合わせながら学びをデザインした。東京大学に移籍(2008)後、学習科学の理論に基づく対話型授業「知識構成型ジグソー法」という授業法と、評価の手法としての「授業前後理解比較法」と「多面的対話分析法」という評価手法の研究をした。

三宅氏のご講演を仮説実験授業研究会の会で聴く機会があった。その時のお話は興味深いものであった。

日本でアクティブ・ラーニングというと、仮説実験授業が取り上げられたりする。

仮説実験授業は心理学者の波多野誼余夫がアメリカで紹介している。同じような教授法が1980年代以降英米でもあるようだが、波多野の影響がどれほどのものなのかはわからない。ただ、認知心理学・教育心理学の研究者にはよく知られていたと思われる。三宅氏のお話では、波多野誼余夫は自分が日本語で書いたものは「論文」に数えないそうであった。ウィキによると、欧米7つの学会誌の編集委員を務めた、とある。

2019年に板倉の原著論文といくつかの授業書の英訳本が出版された。これの反響も知りたいところである。

2020年から全面実施される「主体的・対話的で深い学び」はどうなるのだろう。

20200311

2021年01月09日

春の雪誰かに電話したくなり/八十八

 新潮社の「波」の連載に「掌のうた」があり、歌人の三枝昂之が短歌を一首、俳人の小澤實が俳句を一句、紹介している。

 2020年3月号で小澤の選んだ句が「春の雪誰かに電話したくなり」である。八十八は桂米朝の俳号。師の正岡容(いるる)の共に弟子筋である小沢昭一、大西信之、永井啓夫(ひろお)、加藤武らとともに「東京ヤナギ句会」を結成。句会の宗匠は入船亭扇橋。ほかに永六輔、柳家小三治がいる。句会編「楽し句も、苦し句もあり、五・七・五」(岩波書店,2011)の「自薦 折々の句 三十」には採られていないが、エッセイで登場する。「たとえ苦し紛れに作った句でも、天に採ってもらうと、急に「ええ句かもしれん」と思えてくる」とある。

 近所の親子丼の「鳥喜多」の壁にこの句の色紙が飾られているので、活字になるまえから知っていた。米朝一門が堪能する「鳥新」の亭主から紹介されたという店。小沢昭一もよく足をはこんでいた。

 (正岡容が桂米朝を褒めるので、小沢と加藤がちょっと妬いた、とどこかで読んだことがあるのを思い出した。)

 小澤實;「うちの子でない子がいてる昼寝覚め」。ナツ、昼寝から覚めてみると、知らない子も眠っていた。まさに開けっ放しの長屋暮らしである。「うちの子でない子」に神秘的なにおいもある。大阪ことばが生きている。日常をよく観察して落語に生かしたという目も感じられる」

20200303

2021年01月09日

三浦つとむの「漱石論」から

吉本隆明「三浦つとむ他」(『追悼私記』所収)



 このなかで吉本は、

おれはこの人の漱石を論じた文章がいちばん好きだったなあ。漱石は文学とは何かを科学的につきとめていって、じぶんのつきつめた(あるいはつきつめきれなかった)文学の理論をじっさいに作品で試みるために小説をかきはじめたという見解を、漱石の文学の動機にあげたのは、おれの知っているかぎりみうらつとむだけだよ。おれはおもわずハッとしたね。これはものすごい卓見で、ほんとうにそうだったかもしれない面を、漱石の文学はもっている。漱石の作品はどこかしらに<問題>小説(プロブレマテック・ノベル)の面があって、それが講談調になってみたり、推理小説風になってみたり、観念の長口舌を登場人物がやってみせたりというところに、あられている。意識的か無意識的かは別として、文学理念があって創作はそれをためしてみるための手段だという面があったからだといえなくない。三浦つとむのこの漱石観には、謎解きの論理に熱中したところから、しだいに哲学に踏み込んだじぶんの体験と、芸術理論家としての知見とがとてもよく発揮されていた。三浦つとむの文章の中でいちばん文学的な文章だったとおもうな。(P96-97)



とある。



三浦つとむ「漱石のイギリス留学をめぐって」から

  私は漱石の経歴に関心がなかったから、『文学論』の著作があるとは知っていたが、小説家が文学論をやったものだと思って目を通そうとはしなかった。小泉の文章で、自分がまったく誤解していたこと、文学理論家が小説を書くようになってのだと知って、はじめて『文学論』を読み、またそれまで注意を払わなかった漱石の後期の小説を読みなおしてみた。われわれは、彼が英文学科に入ったという経歴だけを見て、小林秀雄が仏文科に入ったのと同視してはならないのである。私は科学者の一人として云っておきたいのだが、科学の方法論に関心を持つのは科学者の中でも人まねの科学者ではなく創造的な学者の態度なのである。これは出世主義や優等生根性とは異質なばかりでなく、若い時にこのような傾向を持った人間は一生それを持ち続けるものである。こういう詩誌の人間が、英文科へ入って、彼の語っているような英文学の講義に満足できたとしたら、それこそおかしな話である。彼は英文学を専攻する人間として、「英文学はしばらく措いて」「文学とは何いうものか」を理解することを欲した。これは試験にいい点をとりたいからではない。英文学を理論的に把握するためには、文学の本質論がなければならなぬというのが漱石の方法論的発想だったのであり、このように本質論から出発して理論を体系的に組み上げていこうというのが、創造的な科学者のとらねばならなぬ道なのである。

(略)

……漱石のやりたかった事業にくらべれば、発表した諸作品は「下らない創作」でしかなかった。高浜虚子あての手紙に、「とにかくやめたきは教師、やりたきは創作。創作さえできればそれだけで天に対しても人に対しても義理は立つと在候。」と書いたくらい、教師をいやがっていながらも、自分の創作に対してはきびしい評価を加えていたわけである。……その事業は挫折したけれども、誠実で勇気のある科学者としての漱石の態度は、「下らない創作」にもつらぬかれることになった。「何か書かないと生きてゐる気がしない」人間の、これまでの文学とはどういうものなのかの本質的な探究が、







三浦つとむ「夏目漱石における『アイヴァンホー』の分析」から

……漱石の東大での文学論の講義は明治三六年九月~三八年六月であるから、「間隔論」はおそらく三八年春ころの講義であろうが、この部分は講述を不満として新しく書き直したものであるから、『アイヴァンホー』の分析が三八年の講義でどのように語られたか、三九年の新稿でどのように改められたか知るよしもない。ただ私がこの分析を読んだとき想い浮べたのは、三九年四月に公けにされた『坊つちやん』の一場面であった。終り近く、山嵐と坊っちゃんが宿屋の二階に陣取って、角屋の入口を見おろし、赤シャツが泊りにやってくるのを「一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らして」その穴からのぞいて待っている部分である。赤シャツは来るかも知れないし、来ないかも知れない。私たち読者にとって未知数であるばかりか、二人にとってもまた未知数である。「もし赤シャツが此処へ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加へる事は出来ないのである」! だがついに来た。赤シャツが野だいこといっしょに、二人の悪口をいいながら角屋に入っていく。二人は「おい」「おい」「来たぜ」「とうとう来た」と声をかけ合う。この〈表現主体〉を読者は〈追体験〉して、ついに天誅を加える機会が来たことを知った二人といっしょに、読者もまた興奮するのである。Rebecca は戦いを見おろしたが、山嵐と坊っちゃんは敵が来たのを見おろしてから戦いをはじめようというわけである。

三浦『現実・弁証法・言語』(P297-298)



 これについて吉本は講演のなかでもふれていて、その記録が「ほぼ日刊イトイ新聞」の「不安な漱石「不安な漱石――『門』『彼岸過迄』『行人』」である。三浦の説をつかって「漱石の作品の『推理小説性』」を論じている。



ぼくの知っている人で、漱石の小説というのは、普通の作家が書く小説と違って、初めに文学についての理論を、文学論ですけど、文学についての漱石流の理論があって、その理論を確かめたいので、確かめるために作品を書いたというふうに言える面があるんだということを、ぼくが知っている限りでは三浦つとむっていう、亡くなりました哲学者がいるんですけど、三浦つとむだけがそういうことを言っていると思います。

20200215

2021年01月09日

『「大衆」と「市民」の戦後思想—―藤田省三と松下圭一』(趙星銀著.岩波書店.2017)の「プロローグ「大衆民主主義」再考」から

 「大衆」と「市民」

 藤田の最初の著述は『政治学事典』(平凡社、一九五四年)の「天皇制」項目である。その中で藤田は、大衆社会への迎合に成功した戦後の天皇制とその裏面に持続している戦前型の官僚制の温存に、戦後の支配構造の核心を見出している。一方、松下の論壇デビュー作は岩波書店の『思想』一九五六年一一月号の論文「大衆国家の成立とその問題性」である。松下はその中で、国家に〝対する〟革命ではなく、国家に〝よる〟福祉の拡充を求める労働者たちを「大衆」と名付け、彼らの出現が古典的な社会主義理論への転換を要求していると主張した。

 デビュー当初、二〇代後半の気鋭の新人であった二人は、こうして一九五〇年代半ばの日本社会における「大衆」の問題を指摘しながら登場した。

 (略)

 今日において、政治的語彙としての「市民」は、公共生活に自発的に参加する人間、民主主義の政治体制に相応しい人間を指す場合が多い。この語は著しい規範性を帯びているが、それは敗戦後、連合軍から与えられたものとして出発した「戦後民主主義」の特殊性と関連している。与えられた民主主義を真に我々のものに変えるために、主権を握る人々がそれに相応しい規範を身につけることが強く要求されたからである。そした問題意識の上で規範概念としての「市民」が構想され、語られてきた。

 そして「市民」という語がもっとも理想的な民主政治の姿を指すとすれは、「大衆」は、おそらくそのもっとも危険な担い手を指す言葉であろう。「大衆」をめぐる言説を支えるのは、民主主義そのものに対する根強い会議である。古代ギリシャにおける衆愚政治への危惧からトクヴィルの「多数の専制」への警戒まで、〝デモスの支配〟の否定面への憂慮は長い歴史を持っている。つまり、民主主義の歴史は民主主義に対する不信と警戒の歴史と表裏をなしているのである。現代語における「大衆」は、いわば民主主義の影のような存在であるといえるかもしれない。

 以上は、今日における「市民」と「大衆」のイメージを簡略にスケッチしたものである。ところがこれらの概念を近代以降の日本思想史の文脈の中で論じるためには、もう一つの決定的な思想潮流を考慮する必要がある。それは社会主義の言語としての「大衆」と「市民」の文脈である。そこにおいて、「大衆」はプロレタリアートと、「市民」はブルジョアジーと重なり合っており、またそれに「マス」や「群衆」、「小市民」や「中間層」などの語が混入しながら言語空間を作り上げたのである。

 こうした経年の混在の中で、「第一の戦後」と「第二の戦後」は、それぞれ「大衆」と「市民」が社会変革の主人公として語られ、その可能性と問題性に注目が集まった時代でもある。その境目にあった六〇年安保において、社会主義の説く「大衆」と大衆社会論の説く「大衆」の緊張関係を意識しながら、新しく「市民」が語られ始めた経緯については、後で検討する。(同書P ~ )

「『市民の図書館』再読」(みんなの図書館、2000年12月号)で私は、「〈市民〉をあいまいに用いることは避けたいという立場です」と書きました。

 「自由で民主的な社会は、国民の自由な思考と判断によって築かれる。国民の自由な思考と判断は、自由で公平で積極的な資料提供によって保障され、誰でもめいめいの判断資料を公共図書館によって得ることができる」(『市民の図書館』十一ページ)という理念と、現実の「市民」として暮らしている人との乖離は気になるところでした。

と書いている。『市民の図書館』は、理念と政策と技術が書かれているのですからそれはそれでよいとしても、その後の論議が「市民」と「大衆」の問題を無視し、「市民」という言葉をどこかに違和感を持つことなく使っていることが、気になっていた。

 この政策マニュアル(貸出し、児童サービス、全域サービス―明定)教養主義からすると「パンドラの箱」を開けたのです。そこから出てきたのは「大衆」「群衆」であって〈市民〉ではなかったのです。

とも書いている。この論は「図書館界」の「貸出を考える」でも触れている。

 図書館情報学の研究者はこういうことに関心がないのかもしれない。

 上記の本が出たので、気になるところ「第三章市民と政治」「終章「国家に抗する社会」の夢」などを読んでみた。

 高度成長を続けた公共図書館は、バブル期以降の「私生活主義」に迎合するだけに終始してしまった、という私の考えは、田中義久の『私生活主義批判』(筑摩書房、1973)あたりの影響を受けている。藤田の「私生活(第一)主義」とは違う文脈であることを知った。

 また、この「第三章」を若い人たちが読むことで、『市民の図書館』刊行当時の「市民」ということばの持つニュアンスを知ることができるだろう。

 「市民との協働」といった時に使う「市民=住民」が定着している現在に至るまでの「市民論」には、松下の「しみん」が大きな影響を与えている。図書館界も間接的ながら影響を受けている。松下の「社会教育の終焉論」からも、とつけ加えておきたい。


 松下は新憲法と高度成長によって涵養された権利意識と自発性のエネルギーを、自治体の政策決定過程における市民参加に転化する道を模索した。市民が参加することによって、その意思決定は公共性を主張する正統性を確保することができ、また参加者個々人は発言と聴取を通じて、実際の意思決定過程における様々な衝突を経験し、合意に到達するための技術を身に着けるようになる。こうした政治教育が、政治への無関心の悪環境を断ち切る契機となり、政治観そのものの変革につながることを松下は期待した。

 しかし一九九〇年以降、そうした市民参加の構想は新たな問題に直面する。一つは、「市民」の条件である時間的・経済的な「余裕」をめぐる問題である。経済規模が順調に成長し、またその持続が約束されていた時代においては大多数の人々が「中流」意識を持つことができた。彼ら「大衆」が「市民」として自発的に政治に参加する時、そこで構築される公共性の主張は正統性を持ちえた。

 しかしその後、経済成長は次第に鈍化し、続いて投機による資産価格の上昇と遊楽を中心にバブル経済の崩壊と呼ばれる事態が到来する。資産市場と雇用市場は安定性を失い、かつての暑い中間階層の分化が進む。日本経営の三種の神器とよばれた年功序列、終身雇用、企業内組合の基盤は次第に危うくなり、やがて新しい貧困の問題が浮上する。中間層の階層分化によって社会全体における格差の増大すると「太守」と「市民」は再び分離する。

 もう一つの問題は、「市民」の自発性を制度化していく中で発生する逆説である。サイモン・アヴネルは二〇一〇年の著書Making Japanese Citizenの中で、六〇年安保以降に展開された市民運動の性格を「べ平連」運動に代表される「良心的潮流」、反公害運動や反開発運動の「プラグマチックな潮流」、そして松下や「都政調査会」のメンバーが主導した「市民参加運動」の三つに区分している。これらの運動はいずれも六〇年安保の成果と限界を意識した形で展開されたものであり、その中で進められた運動の持続化と専門化、実行化のための努力は、後の世代の市民運動に継承されることになる。

 しかし同時に、そのような遺産を吸収した次世代の市民運動の多くは、市民団体と政府との協調関係を前提にするものであった。その過程において、かつての市民運動の持っていた対抗的・対立的な方式は拒否された。根本的には資本主義を肯定し、官僚制との協業を前提にした形で運動が進められるようになったのである。こうした傾向は、特に一九九八年の「特定非営利活動促進法(NPO法)」の制定以後、国家が「市民社会」の成長を奨励し、それを積極的に育成することになった後、より顕著になる。NPOを中心とする「市民社会」が、政府の補完機構、とりわけ新自由主義的な路線に李っきゃ開く下小さい政府の補完機構として機能する側面が露呈したのである。(同書P328~9)

 

 「市民」が小さい政府の補完機構として機能するなかで、図書館という場においても同じことが進んでいる。「市民」を生み出そうとした図書館は、「しみん」をそのシステムに組み込むことになったが、個人貸出を軸にしたサービスが生み出した「大衆」「群衆」について、図書館はどういう関係を持つことができるのか、が問われている。

 

 著者はこの本を次のように結んでいる。

 

 おそらく高度成長以降の日本社会は、市民社会の側面と大衆社会の側面、松下的なものと藤田的なものを、ともに備えている。そして今日の社会も、、そのような緊張関係から自由ではない。戦後の議論空間に立ち返り、可能性の源泉としての戦後思想を再検討する作業が必要な理由もそこにあるのではないか。(同書P333)

 

 私は前出の「『市民の図書館』再読」で、

 

 『市民の図書館』の貸出の方を軸に展開しているのは、伊藤昭治氏を中心にした日本図書館研究会の読書調査グループです。

 伊藤氏等の考えは「大衆から市民へ」という構図をその背景に持ちながらも、大衆の求める価値を起点とした側からの自己形成による〈個の確立〉を求めています。それを妨げるのは、啓蒙する側として高みに立つ図書館員である、という考え方です。

 「個人貸出を基本」とするサービスが各地で生まれ広がる中で、この考え方がどういう役割を果たしているのか、といったことも論議されるべきでしょう。

 その論議は、「絶対的価値基準」を否定した「相対主義」とその幸福について、といった内容になるだろうと思います。

 〈市民の図書館〉という理念を実現するには、どういう過程が必要なのか。実践や論争の展開が求められていると思います。

 

とも書いている。

 そのことが、藤田省三の「大衆」論、「私生活(第一)主義」や、松下圭一のやり残した課題とつながるのだろうか。直接的ではないものの、つながったところで考えていきたい。

20190525

2021年01月09日

『〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち』イメルラ・日地谷・キルシュネライト編 岩波書店 2018.12



 編者が1982年に日本の女性の作家たちにインタビューした、そのインタビューが活字となって2018年に刊行された。

 当時の私は司書人生の駆け出しの頃であって、小説を読むことが少なくなっていた。児童文学を読まなければならなかったし、縁のなかったエンターテイメントの作品も読む必要に迫られていた。これらの作品は面白く興味深いものが多く、そういった読書に時間を割いていた。

 この本に登場する12人の作家については著名な人たちばかりで読む必要を感じなかった。

 佐多稲子については中野重治との関係からいくつか読んでいる。

 円地文子は教科書で随筆を読んだ程度。

 河野多惠子、石牟礼道子は読んでいない。

 田辺聖子、三枝和子、大庭みな子、戸川昌子、津島佑子、金井美恵子、中山千夏、瀬戸内寂聴は読んだ記憶がある。

 その程度である。

 ドイツ人の若き日本文学研究者が同じ質問を作家たちに投げかけている。

 「男性の評論家から公平に、客観的に扱われていると思うか」「(男性の)評論家が『女性作家の作品は、どうも私には完全に読んで理解することが不可能だが』と書いているのをどう思うか」「女性作家には、家庭の雑事があって時間を取られるだけでなく、出産というものもあるので、仕事に集中できない。これをどう考えるか」といった質問である。



 佐多稲子への質問のなかから

――女性は政治に関する関心や働きかけが弱いとよく言われますが、佐多さんは文学が政治的、社会的なテーマを書くべきだとお考えですか。

佐多 必ずしも直接に、政治的、社会的なテーマを書くべきだとは思っていません。プロレタリア運動から政治へ移った人もいましたけど、政治と文学の世界はまったく異なったものですからね、あまりそれに密着しすぎるのも問題だと思います。でも、政治的、社会的な視点などが作品に流れ込んだり、その土台となるようなことは、当然だとおもいますね。文学者だといっても、やはり民衆の一人なのですから。

20190421

2021年01月09日