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残日録 210405 前川恒雄『未来の図書館のために』(夏葉社.2020.12)

一昨日、12時ごろに六夢堂に入ったら、着信履歴があったので、折り返し電話をかけた。前川さんの『未来の図書館のために』が出たことを知っているか、と聞かれた。私(O氏)と明定さんが出てくる、事実誤認のところがあるので、「みんなの図書館」に反論を書いているところだという。
 早速、図書館に予約を入れて、探してみた。93ページに出てくる。

 一九八七年、図書館問題研究会の機関紙「みんなの図書館」が『市民の図書館』批判特集号を組んだ。多摩市立図書館の伊藤峻は、前川がイギリスで間違った勉強をしたから、市民からも行政からも見放された、と書いた。滋賀県高月町図書館長で日本図書館協会の常務理事であったMは、何をいっているのか分からないことを書き、編集担当で日野市立図書館の職員だったOも何がなんだか分からないことを書いた。こんな人たちが私を批判する文章を書いた特集号だった。ある国会図書館の幹部職員が、前川さんは反論を書くでしょうと言ったので、あんな連中と同列になりたくないから書きませんと答えた。
 図書館問題研究会はある時期から私に対する反感を示すようになっていた。私が日野市立図書館長であった頃、小柳屯(たむろ―明定)の業績をとりあげ、歴史のある図書館を改革するのは困難だが、何もないところからの図書館づくりは簡単だと、明らかな私への当てこすりを書いた。数年後の滋賀県立図書館での私をどう評価するべきかとの答えが、あの「みんなの図書館」の特集号であろう。今でも図書館問題研究会は口舌の徒の集まりだと思っている。……

 O氏は他のページにも指定管理のところで出てくる。指定管理のところの訂正を求めるのだろう。引用した部分については2000年12月号の間違い程度の訂正ですむことだろうと思う。
 引用した部分については、読んでみて「わかる人」もあれば「わからない人」もあるわけで、「わからなければならない」というわけでもないだろう。どこかで波風が立つということでもないだろうに、と思う。

2021年04月05日

残日録 210403 講演の付録で言えなかった与太話

国際収支 2018末:341.4 2019末:364.5 (単位;兆円) 日本銀行国際局

   貿易・サービス収支 貿易収支は、モノの輸出入の差、サービス収支は、輸   送費、通信費、金融、保険、旅行など、形のない取引の収支
   2018:0.1 2019:0.5
   第一次所得収支 対外資産からの投資収益。具体的には、配当、利子、工場    から上がる収益など
   2018:21.3 2019:21.0
   第二次所得収支 国際機関への拠出、食料や医薬品などの無償援助、海外で   働く人々の本国への送金(野球やサッカー選手を含む)
   2018:△2.0 2019:△1.4
   資本移転等収支 政府が外国に行う資本形成の援助(道路や港など)
   2018: △0.2 20198:△0.4
   金融収支    海外に工場を建てるなどの直接投資、外国の株式や債券を   購入する証券資、外貨準備など
   2018:20.0 2019:24.3
   誤差脱漏    2018:0.8 2019:4.6


3月21日に加古川で「江戸時代を楽しむ」という講演をした。間に10分の休憩をはさんで90分間、話した。予定より10分伸びてしまったのだが、質問が出なかった時のために、江戸の中・後期と現在とを比較する話題を用意しておいた。質問は出なかったのだが、熱心に聴講されていて、お疲れの様子だったので、司会者はこちらに「何か、追加することはありませんか」と振ることなく閉められた。
そのときに準備していたのは、日本が「貿易立国」ではなく「内需」によって成り立っているという話で、国内需要が低いために、企業の利益は海外投資に流れていき、第一次所得収支が大幅な黒字になっていること、そしてその黒字がまた海外投資として回っていき、国内で「円」として流通しないこと、などなど、であった。
そして、内需が伸びないのは何故か、という話になり、江戸時代には「御新規御法度」新しいものを開発してはならない、と幕府がブレーキをかけるが、現在の日本ではどうでしょうね、と問いかけて終わることにしていたのだった。
現在の内需を拡大させることについては、いろんなことが考えられると思う。内需が大きくならない原因についてもいろんなことが言えるだろう。
コロナ禍のパンデミックのなかで、いまどの国も他国との人と人交流を縮小させている。当分はインバウンド需要は見込めない。
高齢者の外出を制限し、軽症で収まる若者にまで、飲食店利用の規制を求めなくともよいではないか。もちろん、一人一人の席の間にアクリルパネル立はてた方がいいし、それは行政の仕事だろう。長野県では食堂、レストラン、ラーメン店、バー、ナイトクラブ、喫茶店など、申請すれば無償配布している。
「三蜜」、マスク、手洗いは、自己防衛の範囲であって、そこに行政が力点を置くのは自己努力を求める「新自由主義」の発想だろう。やつらの「自助」というのは、「財力がある」「コネがある」「忖度される立場にある」あたりであって、コロナに罹るのも「自助」力が低いからであって、罹るやつらは、「三蜜」の居酒屋あたりで、大声を張り上げている「敗者」の群れにしか見えない。厚労省の役人は「自助」族なもので、コロナに罹るとはつゆほども思っていない。
だがしかし、その敗者の群れが内需を拡大させるのであって、「自助」族は「株価」を「バブル化」するしか能はない。

2021年04月03日

2021の賀状

頌春 

年明け早々、幾度見直しても影の薄れた自分の顔が、こいつが宿命的にあんまりいい出来でないことをまた見定めた。御蔭でいわゆる余計者の言葉を確実に所有した。余計者もこの世に断じて生きねばならぬ。過去というものと虚栄というものと、この二つの後始末さえもできないまま、月並みな老いの嘆きのただ中にある。

余計者にも語りたい一つの事と聞いて欲しい一人の友は入用なのだ。

 

元ネタ;小林秀雄「Xへの手紙」

2021年03月08日

斎藤環+與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮社.2020)

「表裏」に、



「友達」はいないといけないのか。「家族」はそんなに大事なのか。「お金」で買えないものはあるのか。「夢」をあきらめたら負け組なのか。「話し上手」でないとダメなのか。「仕事」を辞めたら人生終わりなのか。「ひきこもり」を専門とする精神科医と、重度の「うつ」をくぐり抜けた歴史学者が、心が楽になる人間関係とコミュニケーションのあり方を考える。



とある。



與那覇 実はデイケアでSST(社会技能訓練)をやっていたときに、忘れられないエピソードがあるんです。患者さんが「働いているときに苦しかった状況」をロールプレーイングで再現するのですが、どう考えても「病気」なのは患者を追いつめた人の方でしょ、という話がいっぱい出てくる。パワハラ上司とか、モンスタークレーマーとかですね。彼らに攻撃されてうつになるのは「普通の人」であって、ほんとうに治療が必要なのは相手の側なわけです(苦笑)。

 これって変じゃないですかと尋ねたところ、臨床心理士の答えが振るっていて、「たしかに上司やクレーマーがクリニックに来たら、病気と診断される可能性が高い。ただ彼らはたまたま、いまのところ地位や立場が守られていて<本人が困難を感じていない>から、来院せず、病気だと言われていないだけですよ」と。つまり誰が心の病気と呼ばれるのかは、しばしば当人の気質や症状以上に、社会に置かれている環境で決まるわけですね。



斎藤 医療関係者が「事例性の問題」と呼ぶものですね。典型は発達障害で、少し子どものふるまいが周囲と違っても、親が「この子の個性だから」と受け入れて何もしなければ事例化しません。しかし親御さんが過敏だったり、「発達障害バブル」的な言説に煽られたりして「うちの子は絶対おかしいから診てほしい!」と病院に連れてくると、「障害」として事例化することもあるわけです。

 心の病気は①本人が苦しさを感じるか、②周囲が問題視しているか、という二重の基準によって、病気として発現するかどうかが決まる。その意味では「相対的なもの」ですが、だからといって苦しさの度合いが低いわけではなく、レントゲン等で「客観的」に観察できる病気よりも、社会的な病であるからこその、深刻な苦痛や葛藤を引き起こすことがあります。



與那覇 ある社会では「きみはおかしい。病院に一度行くべきだ」と言われることが、他の社会では「こんなの常識。そっちが合わせろ」となっていることもありえると、



斎藤 その通りです。わかりやすいのは青少年のいじめで、アメリカなら加害者がパーソナリティ障害などを疑われていて病院に連れていかれるケースでも、日本は逆に被害者だけが通院して「適応障害」などの診断を受けて終わりにされることが多い。つまり、いじめる側の「やんちゃ」は一過性のもので、大人になれば落ち着くだろう。だから病気とまで言うほどのことはないと、そう扱われがちな風土があるんですね。



與那覇 なにが病気と見なされるかは、裏返すと「なにが〈普通〉と見なされているるか」とイコールですから、心の病を切り口とすることで、社会や文化の問題が見えてくる。気になるのは、本書のこうした認識が、どこまで治療者の側にフィードバックしているかなのですが……。



斎藤 これが大問題で、遺憾ながら精神科医の九割以上は、あくまで疾患を「脳の問題」としてのみ捉えて、薬物治療主義に閉じこもっている状況なんです。うつ病でも統合失調症でも、「この検査データがこうなっていたら確実にその病気」といったバイオマーカーは発見されていないのですが、頑なに病因を脳に還元して、社会とのつながりを軽視する人が多い。学校や職場の人間関係にちょっと介入するだけで解決できる問題もずいぶんあるのですが、そうしたケースワークが不得手な意思があまりにも多い。

(P240-243)



 これは「保険適用にするには「病気」にしないといけない、そのためには生物学的な病因がなくては……といった思考に行きがち」だからだと斎藤は言っている。薬物治療主義は「診察時間の短縮」ともつながっているのかもしれない、と思うが、想像の域を出るわけではない。斎藤によると「最近は、ひきこもりの当事者たちがこうした傾向に反発しはじめている」という。「当事者研究」という分野から様々な声があがることだろうと思う。

20201011

2021年01月09日

「成長戦略」と徳川吉宗「新規御法度」



リフレ派の上念司の『経済で読み解く明治維新――江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟で解明する』では江戸時代の中期以降、人口が3000万人と停滞していることについて、幕府内の権力闘争によって老中の構成が変わることで、「リフレから緊縮へ」「緊縮からリフレ」へというかたちで何度も経済政策が転換され、「根拠なき緊縮政策」が新井白石や松平定信によって推進されたことによりデフレーションが発生した、としている。

 リフレ派だから量的金融緩和(アベノミクス第一の矢)は当然だが、「金融緩和によってお金を増やせば、必ず物価が上がり、名目GDPも増加する」(原田泰)ということにはなっていない。

 第二の矢の「財政・税制」では、公共投資の効果については論議の分かれるところだが、少なくとも五輪需要が無くなって以降の建設セクターでの下支えにはなっている。消費税増税はリフレ派からするとブレーキでしかないのではないか。

 さて、第三の矢の成長戦略と言うと未透視は暗い。

 あほ内閣からすか内閣に変わって、竹中平蔵がより一層前面に出てくることで、新自由主義(ネオリベラリズム)政策が進められると、小泉政権時代のホームレス続出が再来するのではないか、という危惧も思い浮かぶ。

そうならないことを願うが、今日の成長戦略の空振りについて考えたい。

江戸時代中期からの人口の停滞は、経済政策の混乱もあったが、8代将軍の徳川吉宗が出した「新規御法度の御触書」が発明・技術の改良を阻んだ面も大きいと思う。

藤原裕文「新規御法度制度から特許制度まで」によると、



江戸時代には新規のものを工夫・発明することを禁止した時期があった。享保の改革を行い、徳川家中興の主といわれる8代将軍・徳川吉宗は、

「一、呉服物、諸道具、書物はいうに及ばず、諸商売物、菓子類も新規に巧出することを、今後堅く禁ずる。もしやむを得ない仔細のある者は役所へ訴え出て、許しを受け巧出すること」「一、諸商物のうち、古来通りですむ物を、近年色を変えたり、数奇に作り出す類の物は、おって吟味し禁止を命ずるので心得おくこと」という新規御法度の御触れ書きを1721年に発し、その後も同様の主旨の法度をたびたび発しているのである。本来は農民に自給自足を強要して米経済を維持するために贅沢を禁止する法令であったが、改善や新規発明に関するお触れ書きにそれ程の規制力はなかったとする見方もあるが、明治時代に制定された特許制度のように積極的に新規の発明を保護・奨励しようとするものではなかった。

 特許制度が存在しない江戸時代において、一子相伝により、技術を伝え、独占し、利益を確保するのは、やむを得ない事であった。



 小林聡「江戸時代における発明・創作と権利保護」では、



 新規法度は、質素倹約・奢侈禁止という武家の風潮に基づく禁令であったとするのは説明として十分でない。これらの触は物価抑制のために出された触である。江戸時代は、近現代とは異なり、清算の主力は機械ではなく職人であって、職人が生産技術を習得するには年単位での歳月を必要とした時代であり、労働力の流動性や柔軟性に乏しかった時代である。江戸時代中期の日本の人口は2500万人前後で、年鑑増減数は多いときで20万人弱であったとされ、災害直後を除き需要が大きく変動することは少なかった。一方、職人が発明・創作に労力を費やせば自ずと有来物の生産性が低下し、供給量が減少するから有来物の価格上昇につながることとなる。また、当時の物価は他の品目の価格上昇に敏感に反応したこともあって、幕府は江戸時代を通じて諸物価の上昇に神経をとがらせていた。江戸時代中期にあたる享保年間、幕府は物価抑制策として、新規法度を出すとともに、業者間の組合を結成させ、組合による価格の監視と価格の維持・抑制を行わせることとした。



とある。

 新規御法度は発明・改良を阻んだ。そして物価安定のために組合をつくることで、新たな参入を阻む結果となった。

 江戸時代の新規御法度や経済政策から、今日の成長戦略の不在を考えると、原因は違っているが、発明・改良の機運の停滞、物価抑制策をとっていないにもかかわらずインフレ基調にならない、という現象は同じだといえる。

 発明・改良の改良の方は日本人のお得意とするところである。発明はどうかというとあまり得意とは言えない。クリエーティブであること、失敗を恐れないこと、については苦手とするところである。

 江戸中期には、幕府が新御法度をだして規制をしたのだが、明治以降令和に至るまで、教育の国家統制によって、多彩な人材は生まれにくく、発明・改良は阻まれている。

 黄野いづみによると「東大脳」とは「自分で目標設定し自分で努力する、自立した脳」のことだそうである。「東大脳」を持った東大生がどれくらいいるのか、クイズに強い「東大王」はTVで観たことがあるが。「東大脳」とは変なネーミングであるが、「自分で目標設定し自分で努力する、自立した脳」を獲得する人たちが増えると、発明・改良の波は高くなることは間違いない。

 私はリフレ派支持であるが、「金融緩和によってお金を増やせば、必ず物価が上がり、名目GDPも増加する」(原田泰)とはなっていないのは、増やしたお金が株価を押し上げるだけになっているからである。麻生副総理の「老後2000蔓延」発言で、高齢者の消費は縮小し、2%の消費増税でも買え控えがあり、その上今次のコロナ禍である。先行きの不安を払拭してくれる政策は期待できないから、消費は伸びない。

 そしてもう一つ消費が伸びない要因に、購入慾を刺激する商品が開発されていないことが挙げられる。人々は安くてそれなりに良いものを消費する。

20201220

2021年01月09日

與那覇潤「赤い新自由主義」論

與那覇の『知性は死なない―平成の鬱をこえて』文藝春秋,2018 から



 昭和60年安保を念頭に「集団的自衛権に反対して政権をとめる、たおす」と息まいた人々は、知識人もふくめて乾杯しました。必要性を説く相手にたいして、「ひつようあに」とする水かけ論」をいどんで、国民多数の支持をえられなかったからです。

 同一労働同一賃金では、論争の構図が反転します。政権側がその必要性を打ちあげても、安倍首相に代表される保守主義を基盤とするかぎり、それは「実現できない」のです。

 あの時やるといったのに、できていないではないか。それはあなたがたの思想に、根本的な岩塊があるからではないか。「なんでも反対」ではなく、「実現するための交代」をもとめていく力が、いま野党には必要とされていると思います。

——―そう、まさに平成の最初にも、そのように説かれていたように。

 そのためには「生き方は個人の自由であるべきだ」という価値観を、国民の共通認識にすることから、はじめなくてはいけません。保守主義が標榜する特定の家族観やライフコースには、しばられない社会像を提示して、はじめてリベラルの意義が生まれます。

「正社員である」「入籍している」「子どもがいる」。それぞれにすばらしいことです。

 しかしそれは、ほかの生き方を否定する利湯にはならないし、だからそういう特定の人生設計だけを、国家や資本が支援するような諸制度は、改正が必要だ。

 同一賃金同一労働とは、「こっちにも金よこせ」という分配の問題である前に、自由な生きかたの問題なのだ。そういう認識に立てるかが、多数派形成の鍵になるのではないでしょうか。

 すでにのべたとおり、そうした発想は、終身雇用・年功賃金といった「日本型雇用慣行」を解体させてゆくので、平成に展開した以上の「新自由主義」になります。しかし、伝統的な家族像に依拠する生きかたの強要をも、拒否する点で、レーガン=サッチャー氏j\期の英米のそれとも異なります。

 だれもが自由に生きかたを選べる社会を、目指すうえで提携すべきは、弱肉強食をといてきたこれまでの新自由主義ではないのです。「能力があるなら」自由になれると主張して、ごく一部の「有能な個人」をシンボルに立てて多数派をうしなった、平成の書物群がとった戦略の失敗をくりかえしてはいけません。

 むしろこれから必要なのは、日本では同一企業の内側のみにとどめられてきたコミュニズム(共存主義)の原理を、その外にひろがる社会へと、時はなっていくことです。

 そのために必要とされるのが、たとえばアフォーダンス的な方向での、能力観の刷新であり、社会的に能力を「共有」しつつも、自由や競争をそこなわない制度の検討です。心理学から経済学まで、さまざまな学問の知見がもとめられます。

 冷戦下では両極端にあるとされてきた、コミュニズムとネオリベラリズムの統一戦線———いわば「赤い新自由主義」(red neo-liberalism)だけが、清に冷戦がおわったあと、きたるべき時代における保守政治への対抗軸たりうると、私は信じています。(p274~6) 太字は、元は強調の「ヽ」



アフォーダンスについて、日本大百科全書の中島秀之の解説(2019.7.19)では・



知覚研究で知られるアメリカのギブソンJames Jerome Gibson(1904―1979)によって提唱された概念。環境がそこに生活する動物に対してアフォード(提供)する「価値」や「意味」のこと。歴史的にみると、ギブソン以前の考え方は、環境からの刺激を生体がその内部に取り込んでからさまざまな処理をして、意味や価値をみいだすというものであった。たとえば当時の視覚研究においては、網膜は外界の情報を写したものであり、認知システムは網膜情報のみを用いて知覚を行っているという考え方が主流であった。ギブソンの貢献は、そうした考え方からの脱却にある。ギブソンは、アフォーダンスは環境の側にあり、認知主体はそれを探すだけだというのである。たとえば、地面の傾斜の情報はそもそも地面の側にあり、主体が視覚情報から計算するのではないということだ。これと同様の考え方は「環世界」や「オートポイエーシス」にみられる。

 ただ、ギブソンの考え方は情報源を環境の側に限定している点が、少し行き過ぎと思われる。実際には「価値」や「意味」は、主体と環境との相互作用によって明らかになると考えるのが正しい。たとえば、森を歩いているときに、木の切り株をみつけたとする。ギブソンに従えば、木の切り株は「座る」という行為を人間にアフォードしていることになるが、実際に「座る」かどうかは、座る側の人間の身長や体重に依存するであろう。

 なお、アメリカの認知科学者ノーマンDonald A. Norman(1935― )はデザインの分野で同じ用語を使い始めた。よいデザインとはその使い方をアフォードするものでなければならないという。たとえば、ドアについた縦の取っ手は引くことを、横の取っ手は押すことをアフォードしているという。



 とある。

 「主体と環境との相互作用」によって生まれる「価値」や「意味」は、過去の経験によって先入観などの固定概念として個々人が獲得するものであって、そこには差異がある。與那覇は「人間は、言語によって組みたてられる論理だけで、うごいているのではありません」とし、言語帝国主義(文明・進歩・科学・平等・自由……といった抽象的な言語によって語られる理念の世界)への身体の反発(反知性主義≒反正統主義)を肯定する立場でなく、アフォーダンスを引き合いに出し、能力観の刷新を求めているのです。「広義の反知性主義のほうが「多くの人間にとってはふつうのありかた」なのだと、発想を変えなくてはいけないと思っています。/ほんらい、主義(-ism)とよばれるべきなのは、「大学、ないしそれに準ずる正統的なサークルに属し、言語によってものを考え・分析し・表現している人々だけが、知性のにない手である」とする価値観、いわば「知性主義」のほうではないかと思います。/そうすることではじめて、世界的なアンチ・インテレクチャリズムの奔流にどうむきあうか、そのために大学にはなにが必要なのかが、みえてくるのだと思っています。(P147~148)



 鬱状態から回復する中で書かれた一冊である。身体論が身近にあった私の人生からは遠く離れたところにあるが、與那覇の「言語化」のエネルギーから刺激を受けるところが多い。

20201107

2021年01月09日

菊田一夫の「戦意高揚劇」と戦後

小幡欣治『評伝菊田一夫』岩波書店.2008から



 (昭和十八年の「情報局国民演劇選奨要綱」について)

 要約すると、「聖戦完遂に対する国家総力結集の原動力たり得べき国民演劇の樹立を促進するは、決戦化日本演劇に課せられたる重大使命である」の趣旨のもとに、参加した作品は厳重に審査し、承認された演目が上演される場合には「情報局国民演劇参加作品」と明記するように命じられている。優良な物には情報局賞(千円)、とくに優良な物には総裁賞として参千円が贈与されると決められていた。(『演劇年鑑』昭和十八年版)

 該当作品は必ずしも戦場や兵隊の出てくる「戦争劇」とは限らないが、「高揚劇」であることに変わりはなかった。

 菊田一夫を例にとると、同局の参加作品は昭和十八年『交換船』(情報局賞受賞)の一本だけだが、ロッパ主演の「高揚劇」は十本以上にのぼっている。劇場はすべて有楽座であったことを考えると「戦意高揚劇」の時代だった、と言ってよいだろう。

(略)

べつに菊田一人だけが書いていた訳ではない。同時代の商業劇作家、たとえば川口松太郎も中野實も書いているし、北条秀司や阿木翁助も書いた。だが、戦時中の「高揚劇」ということになると、なにはさておいても菊田一夫の名前が真っ先に挙げられた。他の作家たちに比して数が多かったということもあったろう。しかしそれにもまして菊田一夫の名前に「高揚劇作家」の刻印が打たれたのは、滅私奉公を主軸とした巧みな菊田ドラマに、戦時下の観客が感銘したからである。すべてとは言わないまでも、その中のいくつかは、説得力もあり人物の造形も確かな力作と呼べる作品だった。しかもこの時期『道修町』を書き、代表作の『花咲く港』を発表して得意の絶頂にあった。いい替えれば、菊田一夫のこれまでの作家人生の中で最も脂が乗りきっていたのが、皮肉なことに戦時中のこの時期だった。皮肉というのは、もしこの時期、筆力が衰えていたら、あんなにたくさんの「高揚劇」は書かなかったろうし、また書かせて貰えなかったろう。『髭のある天使』や『交換船』といった異色の「高揚劇」だって生まれなかった。そうであれば、戦後になって菊田一夫が戦犯作家と呼ばれ、占領軍の影に怯えながら日々を過ごすこともなたった、という意味で、ピーにであったことは皮肉だった。

(略)

戦後六十年が経ち、今のこの時点で菊田たちを批判するのは簡単だ。しかし、多少なりとも時代を共に生きた私には、菊田一夫やほかの作家たちの仕事を断罪する気にはなれない。問題があるとすれば、戦後になって彼らがどういう生き方をしたか、ということだと思っている。そのことについては後章に触れる。(p109~112)



とある。戦後、昭和二十三年十一月十三日、東京裁判で東条英機ら七名に絞首刑の判決が下った翌日未明に書かれた私信では、



戦争裁判が遂に終わり、判決が下されました。過ぎた日のあの戦争を、判決をうける人自衛であったと言いはり、判決はそうではない侵略であったと宣言されました。

その国にはその国々の体質があり性格がありますから、判決をうける人々もきっと嘘を言っているのではなく、心から自衛だと思っているのだと考えます。

あの人たちのこしらえた政策により、私たちがそう思わされたにもせよ、あの当時は、私たちも、あの人たちを立派だと思ったり尊敬したりはしなかったにもせよ、少なくとも、私たちの代表だと思っていたことにはまちがいがありません。……と思って、あの当時、心から、戦争が勝てばいいと思っていたのは、私のような学問のない、物書きだけかもわかりませんけど、いま判決をきいて、ほんとに心から、あの人々を気の毒だと思い、たくさんお戦死者のことを考えると、やっぱり、死んでいただかなくてはと考えます。あの人たちがわるかったのではなく、あの人たちのやった政策が、死に値するほど、いけないものだったという意味でです。



戦争はほんとうにいけないことでした。

わたしにわかることは、唯、それだけです。

ほかの難しいことは判りません。



 (略)



私などは、所詮、芸術などというものは書けないのですから、せめて、今後は、戦争のない世の中になるようにと念願したものだけを、書きつけていきたいと思っています。(p150~153)





 昭和二十二年に二本の舞台劇『東京哀詩』『堕胎医』を発表している。



 前者は、戦後まもないガード下が舞台で、戦災孤児、夜の女、やくざ者、など、底辺に生きる人間たちの姿が生々しく描かれている。戦後風景の一齣を切り取ったドラマとして菊田は覚めた目で書いている。わずかに最後の景で、浮浪児たちが夢の中で死んだ父母に出会ったり、楽しい食事をしたりする場面に、菊田一夫のリリシズムが胸を熱くさせる。

 (略)

 後者は……戦地から帰って来た若い医師が、夫から性病を移された妊婦に診察を頼まれる。彼は極力、人口流産をすすめて、それを実行する。因果な病毒の子は、ひとまず出生をまぬがれたが、やがて手術に当たった医師は、堕胎医の嫌疑で警察の取り調べをうける。

 菊田一夫のヒューマニズムが暗い芝居を支えているが、描かれるのは、国内におけるもう一つの戦争の惨禍である。(p160)



 菊田一夫の戦後の大ヒットはラジオドラマ『鐘の鳴る丘』『君の名は』から始まる。



 戦争中に、国策協力という至上命令で多くの「高揚劇」を書かされた、否、使命感に燃えて書いたが、その付けは、戦犯文士という思いもよらぬ代償として帰ってきた。政治や社会運動にはおよそ無縁だった菊田一夫にすれば、なにがなんだか判らぬうちに足元を掬われて転倒した。一介の芝居書きが、それもアチャラカ出身の作家が、政治的な報復を受けるなどとは夢にも思わなかっただけに、彼は政治というものの恐ろしさにふるえ上がった。

 『鐘の鳴る丘』は、汚名をすすぐ、というよりは戦時中の贖罪の意味を込めて必死に書いた。幸い好評だった。しかし『鐘の鳴る丘』と『君の名は』の間には五年の歳月があった。五年を長いとみるか短いとみるかは別にして、戦後の傷跡に触れることに多くの日本人の心が微妙に変化しているのを、菊田は投書の数々で知った。「わずか五年間に、なぜ変わってしまったのか」、うつろい易い「大衆」の心理といってしまえばそれまでだが―—社会の矛盾なんかどうでもよい、そんなことより、春樹と真知子の恋はどうなるのだ―—という聴取者の声を菊田は憮然たる思いで聞いた。

 『君の名は』冒頭の「忘却とは忘れ去るものなり」の序詞が、「大衆」を指したものであったという皮肉に菊田一夫が気がついたかどうか、今となっては判らない。

 この時の教訓は、その後の菊田作品から政治的な問題はむろんのこと、時事的な話題ですら意識的に避けるという芝居づくりになって現れた。(p177~178)



 蛇足ではないけれど。



 「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」の前半だけだと「大衆」を指しているが、「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」もそうだろうけど、少し深い。



 忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ-。テレビが普及する前の1950年代初め、毎回こんなナレーションで始まるラジオドラマが大ヒットした

▼菊田一夫原作「君の名は」。戦火の中で巡り合った男女が愛し合いながら擦れ違いの運命に翻弄(ほんろう)される。それでも互いに相手のことがあきらめ切れない…。後年、映画やテレビドラマにもなった

▼忘れることができるなら、それこそどんなに楽なことか。悲恋に限らず、人はさまざまな苦難に直面する。とりわけ災害や犯罪で理不尽にも尊い肉親らを失った人々の境遇は過酷だ

▼忘れることは癒やしにつながる。時の流れがそれを後押しする。けれども社会全体としてみれば、惨事の記憶こそ忘却のかなたに追いやってはならない。そんなジレンマもある

▼地震への備え、虐待の防止、通学路の安全…。教訓が叫ばれながら私たちは人ごとのように聞き流していたのか。今年も幼い女児らが相次いで命を落とすなど悲劇が繰り返されている

▼テレビに加えインターネットが普及した情報社会にあって、人の記憶力や想像力はむしろ退化していないか。1年の後半が始まるきょう7月1日は「国民安全の日」-。生活のあらゆる面で国民一人一人が安全に留意し、災害の防止を図る日とされている。政府がこの日を制定したのは1960年。先のドラマと同じく半世紀以上前のことである。

=2018/07/01付 西日本新聞朝刊=

20200914

2021年01月09日

小宮山量平「『敗戦』三十年を考える」から

 先見の明を誇る思いはないのです。むしろ哀しい予感というべきでしょうか。八・一五から一年たち、二年たつのにつれて、深い哀しさが私をとらえるようになりました。

 ――私たちの心は一九四五年8月5日において敗れてはおらず、おそらくは更に二、三十年後に真の敗戦を実感するのであろう。

 当然、こういう意味の文章を、何度も記しております。季刊『理論』は、こんな思いを刻むための雑誌であったとも言えましょう。公式主義を踏まえて頑なに対立しあうような風潮を克服するための「共通地盤」を考える特集を、毎号つづけていたものです。

 それらの特集から、『近代理論経済学とマルクス主義経済学』とか、『社会科学と自然科学の現代的交流』など、私の初期単行本の出版も発足したのでした。今にして、学際的交流などが高唱されはじめている潮流を眼のあたりにしますと、悲しい微笑が生じます。

 また、啓蒙主義的な理論や思想の受け売りめいた客観主義に逆らって、『主体的唯物論への途』だの『戦後精神の探求』なdの諸著が示すような主体性への呼びかけも熾烈な社風でありました。この時期の単行本が二十年後の六十年代に、学生の基本文献であるかの如く復活しはじめたころ、私は、あだ花をみつめる思いで、自分では増刷も新版も試みませんでした。

 ――虚しく時は過ぎた!

 そう思うのです。気づくべきときに気づくのと、後になって気づくのとでは、埋めつくせない溝があるものです。後悔は先に立たず腹水は本にかえらない道理です。もともと、「敗戦」と言えば、どんな革命や改革よりも、ダイナミックな変革の道すじを示す大転機だったはずです。(以下略)

(初出「文化通信」1975.3.10 『出版の正像を求めて』日本エディタースクール出版部,1985 所収)



 理論社というと『兎の眼』や「ぼくは王さまシリーズ」の児童書の出版社という印象が強いが、創業者の小宮山は当初、経済・歴史・社会科学の出版社として理論社を発足させている。

20200901

2021年01月09日

菅野青顔 再び



以前、青顔について書いたことがあった。後日、ブログを読まれた市立気仙沼図書館の元館長の荒木英夫氏から、自ら書かれた「菅野青顔」の論稿の複写をいただいた。お手紙では、昭和4年(1929)の気仙沼大火に罹災した経験から、海岸線近くの市中でなく、青顔の強い意志で、住民にとって不便な高台に図書館を立てている。このことが気仙沼図書館の蔵書を津波からまもることとなった。荒木氏は青顔の先見の明に脱帽しておられる。

 青顔の活躍については「気仙沼市の図書館100年のあゆみ」がPCでその概略を知ることができる。



 この程度のことなら「「菅野青顔 +追記+また」として書き足しておくこともできたのだが、安藤鶴夫『新版百花園にて』(三月書房.1999)に菅野青顔らしき人物を発見したので、「再び」として載せることにした。



みちのく本〈巷談本牧亭〉(P190~195)

 読売新聞で、日曜だけ休載というへんてこな連載をはじめた。ということは、正直いって、週にいちど休みになるということは、たいへん、書きにくかったということである。

 だから、去年の一月四日の夕刊からはじまって、六月二八日の夕刊で、ぴたり一五〇回を終わって、それから、たしか、二週間も経たない七月の話である。

 宮城県気仙沼市笹ヶ陣というだけでも、わたしはびっくりしたのだが、その市立図書館とあってえ、その図書館の館長さんなのか、司書さんなのか、そのへんはまるっきりわからないのだけれど、S・Sという方から新聞が届いた。

 なんだろうと思って、さっそく、帯封を切って、その地方新聞をあけてみて、びっくりした。

 文化面、あるいは文芸面とおぼしきページの、トップに、五段抜きの写真で〝巷談本牧亭〟の本が出ている。

〝巷談本牧亭〟とあって〝安藤鶴夫著〟という、たいへん、立派な本である。

 ぎょっ、という感じと、えっ?まじりあったショックである。

なぜかというと、わたしはまだ、〝巷談本牧亭〟を本にした覚えがないからである。(略)

なにがなんだかわからず、S・S氏の文章を読んだ。

それによると、はじめ、なにげなく〝巷談本牧亭〟を読んでいると、いつもの園芸読みものなんだなと、バカにして掛かっていたら、そのうちになんだか巣k地違ってきて、とうとう、読者になって、こんどは、毎日、新聞のくるのを待つようになり、終わって見事な製本をして、それを撮影して、そして書評を書いたというのである。

(略)

私は、著者の私が知らない間に、この世の中にちゃんと〝巷談本牧亭〟が本になっていることを知って、感動し、涙をこぼした。

しかも、それが宮城県気仙沼というところである。

(略)

そんな遠いところで、みも知らぬひとが、わたしの本をつくって、机の上にのせて下さるということは、なんとも、ありがたいことである。

(以下、略)

20200831

2021年01月09日

気仙沼の図書館長だった菅野青顔

敗戦以降の図書館人を振り返ると、伝説の時代があり、英雄の時代があり、群雄割拠の時代があった。今は茶坊主の時代だ。と研究集会で言ったら、少し受けた。

その伝説の時代の図書館人の一人に、気仙沼の図書館長だった菅野青顔という人物がいる。

この人は気仙沼の水産加工業を営む家の倅で、1903(明治36)年、気仙沼生まれ、小学校を終えると、気仙沼水産講習所(のちの気仙沼水産高校)にすすんだ。17歳の頃、突然「書物三昧」の生活に入り込み、仕事をしなくなる。結婚するのだが、やがて家業は倒産、家屋敷を手放すことになる。青顔は「書物三昧」の世界に入り、生計は青顔夫人やへ子が支えることになる。その後、大気新聞の記者を経て、1941(昭和16)年、気仙沼町立図書館の事務嘱託職員、1949(昭和24)年8代目の図書館長となる。1978(昭和53)年7月まで館長を続け、その後は読書三昧と三陸新報『萬有流転』の執筆生活に入る。1990(平成2)年、逝去。

菅野青顔については青森の三上強二氏から聞くことはあったが、1970年代の図書館の潮流とは異質の人物であったので、後任の荒木英夫館長にもお聞きする機会を逸していた。

菅野青顔追悼集『追悼・菅野青顔を語る』(1990)の中で、荒木氏は以下のように書かれている。(P352~354)

青顔館長は図書館の蔵書は権威あるものでなければならないとの信念を持ち、図書館を利用すれば、中央の学者にも負けない研究が出来るような図書館を気仙沼につくることが念願であった。だから私らに良くいったものだ。「せっかく文献を集めたのだから、東大や外国の学者が頭下げて教えを乞うくらいの研究をしろや、それが図書館の権威を上げることだよ」と。

青顔館長のもう一つ素晴らしいことは、図書館の仕事に誇りを持ったことであろう。とかく行政体の中で、図書館とは閑職と思われ、コンプレックスを持つ人も多いが、氏にはそれが塵ほども無かった。「人まねの出来る動物はいても、本を読む動物は人間だけだ。本も読まず、図書館に関心ない人間は、相手が誰であろうと俺には猿か熊くらいの価値しかない」と言い、また初代国立国会図書館長金森徳次郎氏が、「人生を顧みて、お前の生前やった良い事は何かと閻魔に尋ねられたら、恥入ることばかりだ」との意味の随筆を書いてあったのを評し、図書館の親分をやったくらい立派なことはない、それで文句を言う閻魔なら、頭を殴りつければ良い、と言ったものである。

特に念願の新図書館を落成させ、昭和四十四年度の北日本図書館大会を開催した時は、閉会に当たり、「図書館職員は〝世界至高最大な仕事〟に誇りを持ち、推進したい」と挨拶し、参加者に感銘を与えたものであった。

新館落成後は、実務は専ら職員にまかせ、その人間的魅力と政治力で作られた二十余りの寄贈文庫(市民有志から年間一定額の寄付申し出を受け、図書の選定は館長にまかせる)を基礎に基本蔵書の充実に力を注いだ。

この頃から、戦前以来の教養主義中心の読書に対し、社会一般人に根を下ろした図書館活動が展開されてきたが、他方それに疑問を表明する渋谷国忠氏(前橋図書館長)を代表とする図書館人もあった。青顔館長も渋谷氏も大正期に青年時代を送った教養人、自由人であり、また辻潤の研究家で萩原朔太郎の研究家であった渋谷氏とは親交があったためか考えに共通する所があった。「基本図書も大切ですが、市民の利用する小説や実用書も充実させては」と進言したが、「俺はクズ本は集めない」と主張は曲げなかった。教養人として徹し、哲学を持った館長だったといえよう。ただし館外奉仕の本の選定と。収書以外のことは職員を信用して自由にやらせてくれ、頼み甲斐のある上司であり、その自由な雰囲気の下で、日本の公立図書館としては大分変ったこと(公立図書館としては当然の活動と思っているが)もやった。

例えば昭和四十七年に有吉佐和子の『恍惚の人』が話題となり、読書界で良く使われたが、同じベストセラーの『日本列島改造論』を題材にしないのはおかしいと、保守系と革新系の市会議員を講師に市民読書会を計画したら、総選挙にぶつかり、外部から見合わせるよう注意されたが、青顔館長は「やれてバ」と支持してくれて、実行、大勢の市民が参加し好評だった。

また昭和五十二年に大型店が進出した際、大型店問題の資料を提供するのは公立図書館の市民に対する義務だと資料を集めたが、その提供に当たり行政と市民団体の間に立ち、いろいろ困難な問題に当面した。これを何とか乗り切れたのも青顔館長が理解してくれたからで、その活動経過は情報公開制度と今後の図書館活動の在り方として図書館界で注目をうけ、『法律時報』で取り上げられたりした。これが私を図書館の自由宣言に関係させることになってしまったのである。

菅野青顔は、辻潤や武林無想庵と親交があった。大泉黒石、宮沢賢治、湯川秀樹らを早くから評価していたという。

青顔というのは雅号で、「青顔さんは終始一貫、本名を用いず、雅号で押し通した。市役所など公文書は本名を記すので、『千助』という本名の表彰状や辞令をもらうと、青顔さんは憤懣やるかたない態度を示すのが常だった。青顔館長の反骨の姿勢がそこにみられるようであった。」(佐々木徳二)は贔屓の引き倒しだろうが、追悼文集は80人近くの人が文を寄せている。教養人、自由人であり魅力的な人物であることは間違いない。

追記

民芸店の備後屋でギャラリー華を開いていた故俵有作さんが、気仙沼の図書館に博学の館長がいた、君もああいう図書館人になりなさい、と言われたことがあった。菅野青顔のことだな、と思ったが、そんなの到底無理ですよ、と言ったことを思い出した。青顔は生活のことなど関係なしの人生であって、家計は奥さんまかせのようだったらしい。追悼集にそのようなことが書かれている。

私はそこまで徹底できない。というか、人としての大きさや魅力が欠ける私には、青顔を目標にすることなど、およびもつかない。石橋を叩いて渡らない父の背をみて育った者にとっては、青顔は無縁の人である。図書館についても「門前の小僧」でしかない私からすると、青顔や残日録54の蒲池正夫の闊達が羨ましくもある。

2019

2021年01月09日

宮脇淳子の中国論ほか

藤原書店のPR誌「機」に宮脇氏の連載「歴史から中国を観る」がある。2020.08号はその3回目「一国二制度」から一部を紹介する。



 しかし、歴史上、中国が約束を守ったことがあっただろうか。

一九一一年十月、清の南部で辛亥革命が起きたよく一二年二月、生涯皇帝の称号を有して紫禁城で暮らしてもよい、という優待条件を袁世凱が示したので、清朝は中華民国に禅譲した。しかし、一九二四年最後の皇帝溥儀は、軍閥の一人馮玉祥のよって紫禁城から追い出される。

一九一五年、日本は南満州鉄道と関東州の租借期限の九九年延長を、袁世凱に認めさせた。ところが張学良は、袁世凱が結んだ「二十一カ条要求」は無効であるとして、国権回復運動を起こす。これが満州事変の原因となった。

これらは、他人の結んだ約束など、私には関係がない、という表明である。

鄧小平の「韜光養晦」(とうこうようかい;才覚を覆い隠して、時期を待つ)戦術は、中国が力をつけるまでの時間稼ぎにすぎなかった。力がついたいま、何をしようと勝手だ、というのが中国人のふつうの考えなのである。



1984年に中国とイギリスが調印した「50年間は一国二制度」が、香港返還23年目にして「香港国家安全維持法」施行された。今回の習近平の措置は約束違反であると西側世界は抗議している。このことについて書かれたものである。

宮脇氏には『かわいそうな歴史の国の中国人』『悲しい歴史の国の韓国人』『満州国から見た近現代史の真実』といった著作がある。

『かわいそうな歴史の国の中国人』は「歴史的にみれば中国という国すらない」「「中国」と「中国人」は20世紀に誕生した言葉」から始まり、「沈む船から一番先に逃げ出すのが中国人」までコラム風の歯切れのよい文章が並ぶ。

 2年ほど前、まちづくりセンターで「日本歴史入門講座」を数回開いた。関連で、ミニ授業書「焼肉と唐辛子」を取り上げ、朝鮮―韓国の歴史を学習したが、その時までに『悲しい歴史の国の韓国人』を読んでいたら、もっと話題を豊富に出来たことだろう。

『満州国から見た近現代史の真実』はいかに自身の滿洲像が浅薄なものであったかを思い知らされた

20200830

2021年01月09日

與那覇潤『歴史がおわるまえに』亜紀書房,2019

「率直にいって私たちの社会――日本に限らず世界の全域でいま、人びとが過去の歩みに学ばなくなり、歴史の存在感が薄らいでいることは事実だ。そうした事態を食い止めようとする学者時代のわたしの活動は、端的にいって徒労だったと思う」(P340)。

 こう書く與那覇の学者時代の活動は単著『中国化する日本』『日本人はなぜ存在するか』や東島誠との共著『日本の起源』でその啓蒙的な絵解きを読むことができる。

 本書の第一部「日本史を語りなおす」第三章「現代の原点をさがして」の対談はそうした「徒労」時代の最後の産物であったのだろう。前記の三著書よりもいっそう深い内容になっている。その分、啓蒙度は低くなる。

 その間に挟まれた第二章「眼前の潮流を読む 時評」は、もう少し「林達夫」風に仕上げればよかったものを、と思わせる。背景に少し「徒労」を感じさせるとすれば、與那覇と林の生きる時代の違いや「大衆」観の違いであるだろう。

 これらの時間のあと、與那覇は双極性障害Ⅱ型(うつ病)をきっかけとして学者時代を終える(退職)こととなる(2017)。

 「むしろこれからは(依存の意味での)歴史が壊死していくことを前提として、それでもなお維持できる共存のあり方を考えねばならないのだろう。まだ答えは出せていないが、そのヒントを模索する病後の作品を集めた(P340)」のが、第四章「歴史がおわったあとに―—現在」である。

「それでもなお維持できる共存のあり方を考えねばならない」と書いてしまうところが、「徒労」の深さと相まっている。

「かつて社会主義体制の崩壊を「歴史の終わり」と呼ぶ人がいました。しかしそうした見方じたいが、必然として語られた歴史そのものだった。むしろ多くの歴史の語りとともにあった、必然という発想そのものを終えた後にはじめて、私たちはほんとうに問うべきことを考えられるのだと思います」(P12)とはいうものの、「ねばならない」から遠く離れたところに立脚点を置くことは難しい。その困難に向かう與那覇をこれからも追っていきたい。

20200822

2021年01月09日

飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』(筑摩選書)

快挙といってよい本が出版された。本が売れないと言っているのに、子どもの本だけは活況を呈している。

著者は三つの謎を「はじめに」で提示する。



謎①子ども向けの「本」市場だけが復活し、「雑誌」はボロボロ

謎②ヒット作の背景がわからない

謎③なぜか通史を書いた本がない



本書は第一章で「なぜ子どもの本の市場は今のような姿になったのか?」というマクロ的な環境要因を追い、第二章以降では「なぜ今の子どもの本市場の中で、このタイトルが売れているのか?」というミクロ的な個別事例を掘り下げていく。(p21)



謎①について、

『出版指標年報2018年版』は

教育熱心な親や祖父母が積極的に児童書を購入

大人の読者にも人気を呼ぶ児童書(特に絵本)が増

新進絵本作家の活躍、新規参入者の主に翻訳書によるユニークな企画が市場を活性化

幼児期の読み聞かせや小中学校の「朝の読書」の広がりが下支え

と指摘し、書店でも読み聞かせスペースなどを設け、規模を拡大する店舗が増えつつある、とまとめている。

との見解を紹介している。(p10)『年報』の指摘は妥当なところだろう。



謎②については「幼児~小学生編」として、「おしりたんてい」「ヨシタケシンスケ」「ルルとララ」「ほねほねザウルス」「かいけつゾロリ」などの紹介分析をしている。

なかでは「飛翔する児童文庫―—講談社青い鳥文庫と角川つばさ文庫」の項が読みごたえがあった。宗田理の「ぼくら」シリーズの著者による表現の「改稿」「加筆・修正」というブラッシュアップを支持する立場から、児童文庫の可能性を見出している。女の子に支持されてきた児童文庫が、男の子に読まれるラインナップを切り開いたのは編集者や著者の力によるものに違いない。



謎③については本書第一章でとりあげられている。バランスの取れたものになっていると思う。渦中の端にいるものとして、もっとざっくりとした「略史」を話すことはあるが、私の任にないことがらであるから書くことはないとおもうので、ぜひ、お読みいただけたらと思う。

20200815

2021年01月09日

正岡容の岡鬼太郎「らくだ」評

正岡容『寄席囃子』から、



 岡鬼太郎氏が吉右衛門一座に与えた「らくだ」の劇化「眠駱駝(ねむるがらくだ)物語」は、おしまいに近所で殺人のあるのが薬が強すぎて後味が悪い。岡さんのいやな辛辣な一面が、不用意に表れているように思われる。陰惨な情景は、あくまでむらく(むらくに「ヽ」)のそれのごとく、終始、らくだの兄弟分と屑屋の言動との滑稽の中で発展さすべきである。それでなくても思えば「子猿七之助」以上に陰惨どん底のこの噺の世界は、わずかに彼ら二人の酔態に伴う位置の転倒という滑稽においてのみ尊く救われているのであるから。ということはしっくりそのままお生にこの噺を頂戴して、不熟な左傾思想をでッち込み、その頃、雑誌『解放』へ何とかいう戯曲に仕立て上げた島田清次郎あることによっても立証できるだろうと思う。



 「むらく」は「群雲」だろう。2017年12月の歌舞伎座、中車と愛之助の「らくだ」について、渡辺保氏の劇評に、



 私はこれまで岡鬼太郎作の「らくだ」しか知らなかった。今度ははじめて大阪版(略)なるものを見て大いに笑った。もともと「らくだ」は大坂落語だから本家本元というべきか。東京版とは感覚がまるで違う。岡鬼太郎が人間の死の尊厳にふれているのに対して、大坂版は一切理屈抜きで、野放図に笑いに徹しているところが面白い。



とある。前年の正月の松竹座での二人の「らくだ」には好評のブログがあるが、こちらの方は「キレが悪い」との声もあり、東西の観客の違いにとまどったのだろうか。

 一時期(3~40歳代)、歌舞伎を見ていたことがあったが、そういう時間が持てないでいる。このままだと、落語の「らくだ」も歌舞伎の「らくだ」も縁なくして終わりそうだ。そういう面への慾がなくなったともいえる。



 Zoomでふたコマ講義をすることになり、慌てた2週間だ。準備の方が少し落ち着いたので、気分転換に「正岡容」を読んだ。

20200722

2021年01月09日

久米明『ぼくの戦後舞台・テレビ・映画史70年』(河出書房新社.2018)

コロナ騒ぎが始まった2月ごろから昨年の「みすず 1・2月 アンケート特集号」から気になった本をぽつぽつ読んでいる。これもその一冊。先日、一晩で読了した。面白かった。

 10代から演劇や映画に関心はあったが、何せ加古川の田舎育ちだから、実際に芝居を観るということはほとんどなかった。実際に見始めたのは30歳代になる少し前、芦屋で観た転形劇場の「小町風伝」からだった。1980年代からだから、小演劇の流れは既に始まっていて、久米明のような「新劇」の芝居を観ないところからの観劇体験だった。

 久米明は「俳優座」「民藝」「文学座」といった主流の劇団ではなく、木下順二、山本安英、岡倉士朗らと1947年に「ぶどうの会」を結成し、俳優としての道を歩み始める。1964年の同会解散後は1966年「劇団欅」に入団、1976年「劇団昴」の結成に参加(~2007)するなど、舞台俳優として、またテレビ俳優として活躍をした人である。

 また2019年3月まで現役として「鶴瓶の家族に乾杯」のナレーターをしていた。

 この春、96歳で逝去。

 前半は岡倉士朗、後半は福田恒存、という二人の演出家との関係を軸として、ご自身の俳優としての人生を回顧するという構成になっている。新劇としては傍流ではあるが、劇団内のもめごとなども書かれていて、私にとっては興味深い内容だった。

 「ぶどうの会」の解散について、



……秋の公演、秋元松代作「マニラ瑞穂記」は、山本・久米出演辞退のあと、稽古が続けられていたが、異変が起きた。演出の竹内が、秋の第二弾、宮本研作「ザ・パイロット」準備のため、勝手に途中降板、放り出して稽古場に出てこないという。見かねた秋元氏みずから稽古に当たり、初日の幕を開けたものの、劇団統制は地に落ちた。

 この事態収拾のため久米は復帰、幹事会に臨んだ。思い決したことがあった。今いろんな矛盾が噴き出した。この際みんな頭を休めて出直したらどうだろう。入院以後、様々な想いを集約して、結論づけた解散論を披露した。おふたり(山本安英と木下順二―明定)はそうしようと納得された。直ちに全員を集め、総会を開いた。

 竹内の責任を問うた上で、混迷の元を断ち切る想いをこめて久米は言った。

 ぶどうの会は師弟関係から出発、リアリズム演技を木下作品によって研磨し、舞台の上に実現すべく、理想に燃えて歩みつづけてきた。山本、木下、岡倉の相互信頼の上に築かれた創造集団だ(岡倉は1959年に死去―明定)。この本質を歪めたら存在意義は失われる。竹内の内外に喧伝する木下批判はみずからの首を絞める行為だ。今や劇団内の統制は崩れ、その亀裂は日々を追って深まるばかり、集団の活力は失せた。目先をごまかして維持するよりも、ひと思いに解散し、清算して、それぞれが望む道に進むべきだ。

 徹夜の総会討議の結果、解散を決議した。存続の意見は一ツも出なかった。



 ここに出てくる「竹内」は竹内敏晴のことで、90歳を過ぎても久米明は怒りを抑えきれない、と読める。

 この解散の記述の少し前、木下順二作「沖縄」の竹内演出(1963)について「演出の竹内は拡張のある言葉の上ッ面を撫でるだけだった。生きた人間のぶつかり合うエネルギーは舞台から溢れ出なかった。力演する山本さんに久米も桑山も対峙できずに終わってしまった。岡倉先生だったらば……歯軋りしたところで敗者の繰り言だ」とある。

 竹内はもう一か所に登場するが、そこでは評価されている。当時ともに40歳を前にした年齢、久米明が1歳年上である。

 全体として抑制された回顧談だが、「ぶどうの会」の木下順二と竹内には厳しいところがある。

 後半の福田恒存との交流は、評論家としての福田を少し読むだけだった私にとって、演出家福田を知るいい機会となった。こういう読者は多いと思う。「劇団雲」の福田派と芥川派の対立など、なるほどと読んだ。

20200713

2021年01月09日

出口汪(ひろし)の国語教育

「出口汪の日本語論理トレーニング」シリーズ(小学一~六年,基礎編,応用編,計12冊)を購入した。習熟編6冊は考え中。

出口汪が気になったのは10数年前に働いていた図書館のカウンターでの親同士の会話からだった。片方の母親が以前から出口の「読解・作文トレーニング」シリーズを子どものために借りていたのは知っていた。小学4~6」のシリーズで、中学に入るその母親の子は、このシリーズで国語力がついたので、あんたとこもやるといい、とすすめていたのだ。問題を読ませて、答えさせたり、べつの紙にでも書かせればいい、とのことだった。

この「論理トレーニング」の解答は短い。小学五年基礎編から問題を紹介する。



文を組み合わせる

日本の都道府県について調べています。Aの文がBの文の————線部につながるようにして、一文にまとめましょう。

山形県

A 山形県はくだもののさいばいがさかんである。

B 山形県はさくらんぼの生産量が日本一である。



解答 くだもののさいばいがさかんな山形県は、さくらんぼの生産量が日本一である。

  くわしい考え方

Bの「山形県は」、は主語です。そこで、Aの文を主語を説明する語句に変形します。「くだもののさいばいがさかんである」→「山形県は」としても間違いではありませんが、文末も「である」となるので、「くだもののさいばいがさかんな山形県は」としましょう。



と、丁寧な説明です。



愛知県

A 愛知県の県ちょう所在地(しょざいち)は名古屋市である。

B 名古屋市は中京工業地帯の中心で、製造業(せいぞうぎょう)がさかんだ。



解答 愛知県の県ちょう所在地である名古屋市は、中京工業地帯の中心で、製造業がさかんだ。

くわしい考え方

 Aの文を「名古屋市」を説明する語句に変形します。「言葉のつながり」を意識すると、「愛知県の県ちょう所在地である」となります。



このシリーズの表紙には「論理エンジンJr.とは…過程で無理なく考える力と読解力を身につけられる“論理エンジン”の小学生版です!」とあります。他にも、中学・高校生、受験生、社会人向けにもいろんな本を出されています。

数年前、神戸でセミナーがあったので出かけてきました。若い熱意のある先生たちが参加されていました。そこで使われていた教材は図書館には販売しなません、と販売代行社の方がおっしゃっていました。

出口汪オフィシャルウェブサイトによると「大本」教祖・出口王仁三郎が曾祖父だそうです。

東進ハイスクールなどの予備校(2019年まで客員講師)の「現代文のカリスマ」と評されていました。2000年、教材開発・出版を目的とした水王社を設立しています。教育評論家でもあり、教育研究者でもあります。

20200629

2021年01月09日

人生の親戚

 ひとの「死」というのはどこにでもあって、平凡な「死」もあれば劇場型の「死」もあるだろう。平凡な人生であったが、強烈な悲しみを抱え続けて生涯を閉じた身近な友人がいる。大江健三郎は、この悲しみを小説で「人生の親戚」と呼んでいる。その悲しみを通底するもの同士の間柄であった友人が「死」をむかえた。親友という言葉は使いたくない。悲しみを共有する者として「人生の親戚」だと思ってきた。

一年前、末期がんだった小山が「言っておきたいことがある」と言った。何だったのか、言わないで逝去していった。言わずもがな、のことであったのか、言ってもどうしようもないことであったのか、「まあいいか」ということにおさまったのだろうか。数少ない大切な「親戚」が一人消えた。

 私は、人とあまり親しく付き合わない。図書館業界でも師弟関係はないし、グループを作ったり、グループに入ったりはしない。もちろん業界の団体の会員であるし、そこで役員になったり、発表もすることはある。ただそれは付き合いの延長で、個人的な感情を伴うものではない。誰かから、どこの会にもいるけれど、どこの会の人でもないね、と言われたことがあったが、長年の付き合いの人の観察力は正しい。いろんな場にも「人生の親戚」はいる。

 昨夜、遠方から「今は大丈夫かも知れないけれど、飲みすぎは、脳にダメージを与えるから減らしてください。おやすみ」とメールがとどいていた。朝、読んだ。

年をとるにつれて、年下の「人生の親戚」ができる。同業者ではないが、「強烈な悲しみ」というと大げさに思うかも知れないが、一人ひとりにとっての「生きにくさ」の「根」は深い。数少ないけれどそういう「親戚」がいる。

20200615

2021年01月09日

坪内祐三追悼特集

「本の雑誌」2020年4月号と「ユリイカ」2020年5月臨時増刊号が坪内祐三の追悼号になっている。「本の雑誌」では四方田犬彦の短文がいい。



 (前略)坪内祐三が急逝いたと知らされ、わたしは残念に思った。緑雨は自分の肉を斬らせて相手の骨を斬るといった、真剣白刃取りの批評家として生涯を終えのたが、坪内は結局、彼のようにはならなかったからである。きっと緑雨よりも心優しかったのだろう。心優しかったから、女子の零落を見届けるなどという残酷なことができなかった。わたしは彼が同業者を何人か集めて、タクシー会社の宣伝のような雑誌を拵えたとき、これはダメだと思った。群れなどしていては、いい批評など書けるわけがないからだ。ちょっと可哀そうなことを書くようだが、新宿の狭い「文壇」とやらに入り浸って、英語の本を読む習慣を忘れてしまったのは、彼の凋落の始まりだったような気がしている。



 「タクシー会社の宣伝のような雑誌」とは「en-taxi」という坪内の他に柳美里、福田和也、リリー・フランキーが「責任編集」となっていた雑誌。



 「ユリイカ」のほうは、浅羽通明「SF嫌いの矜持と寂寥 坪内祐三の思想について」がいい。「シブい歴史――ディテールの坪内VSセンスオブワンダーの小熊」という章では、小熊英二と比較して論じている。



 (小熊への)坪内の嫌悪と危惧は、その翌年に書かれた「(一九六〇年代に関する若い政治学者や社会学者のあまりにもデタラメというか歴史的感受性を欠いた記述が目に付くだけに)」、彼が歴史的摘転換点だったと考える一九七二年が、半世紀後、どう歴史化されるのか、「それを考えると私は恐ろしい」という『人声天語2』収録の「尖閣諸島問題も一九七二年に始まる」の一節でも繰り返される。/逆に六年ほど遡れば、「記録と記憶と準記憶 歴史を知る」(『人声天語』)にこんな一文がみつかる。/生き残った当事者の記憶と記録、それらに触れてイメージを再構成する努力をした続く世代の準記憶。そうやって継がれてゆくはずの歴史から切断されたところで、「歴史」を語り、「さらに言えば自分たちの不満のハケ口をある「歴史」に根拠づけようとする、そういう若者の恐ろしさ」を坪内はそこで警告していた。/かれらはおうおうにして「ネオ・ナショ」に走りがちだからと。「ネオ・ナショ」すなわち現在の「ネトウヨ」である。/この「時代のディテール」というのは、都築道夫が書いて遺した中野の消えゆく二軒長屋とか、広瀬正が交渉を徹底した銀座の店並びとかでもあり、川本三郎が映画と共に忘れず触れるパンフレットや映画館でもあるだろう。/「歴史的感受性」というのは、坪内が丸山真男にはあるとした「ゴシップ的感受性」、すなわち「他者への関心の強さ」と重なる。この他者は、必ずしも人物とは限らない。建築や店や町の一角だってちょっと我を押さえて謙虚に街を歩けば、きっと語りかけてくる知らない加古という他者からの目くばせだ。(中略)こうしたディテールを漂わせる空気、匂いといったものをすべて捨象し、大事件や言説だけをつぎはぎして歴史を記述したと考える者たちを、坪内は許せなかったのだ。

20200509

2021年01月09日

宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮社,2019)の紹介記事「週刊文春2019月9月5日号」より

丸い円が描かれた紙があり、「ここに丸いケーキがあります。3人で食べるとしたらどうやって切りますか? 皆が平等になるように切ってください」と出題されたら、多くの人がメルセデス・ベンツのロゴマークのように線を引き、3等分するだろう。しかし、凶悪犯罪に手を染めた非行少年たちの中には、認知力の弱さから、このようにケーキを切れない者が少なくないそうだ。

『ケーキの切れない非行少年たち』の著者・宮口幸治さんは、公立精神科病院に児童精神科医として勤務した後、2009年から発達障害・知的障害を持つ非行少年が収容される医療少年院に6年間、女子少年院に1年間勤務していた。

「最初は衝撃でした。医療少年院で、ある少年の面接をした際、ケーキを3等分する問題を出してみました。すると、まず円の中に縦線を1本引いて2等分し、『う~ん』と悩みこんでしまったのです。その後、何度ケーキを切らせても同じことを繰り返して悩んでしまう。そんな少年に非行の反省や被害者の気持ちを考える従来の矯正教育を行って、どんなに教え諭しても、右の耳から左の耳へと抜けていくでしょう。

 医療少年院に収容された非行少年たちの成育歴を調べてみると、小学2年生くらいから勉強についていけなくなり、学校では『厄介な子』として扱われ、友人にいじめられたり、家庭で虐待を受けたりするなどネガティブな環境に置かれています。軽度知的障害や境界知能があったとしても、その障害に気づかれることはほとんどありません。次第に学校へ行かなくなり、暴力や万引きなどの問題行動を起こし、犯罪によって被害者を作り、逮捕され、少年院に入ることになる。そんな状況になって初めて障害があると気づかれる子どもたちが大勢いることに危機感を抱きました」

「境界知能」はIQ70~84を指し、人口の十数パーセントいるとされる。明らかな知的障害ではないが、状況によっては支援が必要だ。境界知能の人々は健常者と見分けがつきにくく、特別な支援が必要でありながら見過ごされがちだという。



宮口幸治さん

「非行少年の特徴として、『見る』『聞く』『想像する』などの認知機能の弱さがあります。少年たちが更生するには、自分がやった非行としっかり向き合い、被害者の立場から考えることが必要ですが、そもそもその力がない“反省以前”の状態の少年がとても多い。ところが、彼らに『もし大切な家族や最愛の恋人が犯罪被害者になったらどう思うか?』と問うと、絶対に許せないと真剣に答えます。他者の視点に立つところまで誰かが手伝ってあげれば、そこで取返しのつかないことをしてしまったと気づける。逆にいえば、そこまで言わなければ、気づかないのです」

 では、どうしたら少年の非行を抑止できるのか。本書では、認知機能の向上への支援として有効なトレーニング「コグトレ」が紹介されている。

「たとえば、ある図形を正面から見た場合と右側、反対側、左側からの見え方を想像する『心で回転』という課題は、相手の立場に立つ練習であり、相手の気持ちを考える力に繋がる可能性があります。そして、知的なハンディキャップを持って困っている子どもを早期に発見し、効率よく支援する場として、子どもたちが毎日通う学校は最適です。こうしたトレーニングを小学校の朝の会や帰りの会で毎日5分でもいいから続けていくと、認知機能をずいぶんと底上げできると思うのです」

みやぐちこうじ/立命館大学産業社会学部教授。児童精神科医として精神科病院や医療少年院に勤務、2016年より現職。困っている子どもたちの支援を行う「コグトレ研究会」を主宰。医学博士、臨床心理士。著書に『1日5分! 教室で使える漢字コグトレ』などがある。

DAIAMOND onllne 2019.12.30

児童精神科医の著者は、医療少年院と呼ばれる矯正施設に勤務していた。その頃、非行少年たちの中に「反省以前の子ども」がかなりいることに気づいた。凶悪犯罪を起こした自分と向き合い、被害者のことを考えて内省しようにも、その力がないのだ。学力はもちろん認知力も弱く、「ケーキを等分に切る」ことすらできない非行少年が少なくないという。

 そうした子どもたちは知的なハンディを抱えていることが多く、本来は支援の手が差し伸べられるべき存在だ。だが、障害の程度が「軽度」であるため、家族や教員など、周囲の大人に気づかれることがない。勉強についていけず、人間関係もうまく築けずに非行に走ってしまう。必要な支援にアクセスできないまま、最終的に少年院に行き着くことも多い。彼らは何も特別な存在ではない。著者の算定によれば、支援を必要としている子どもの割合は約14%。つまり学校の1クラスが35名だとすれば、5人程度は何かしらの知的な障害を抱えている可能性がある。

 近年、ADHD(注意欠陥多動症)など発達障害に関する認知はだいぶ広まってきた。一方で知的障害に関しては、学校教育現場でも関心が注がれておらず、その詳しい定義すら知らない教員も多いのが現状だ。そこで、著者は自ら5年の歳月をかけて、支援の届きにくい子どもに向けたトレーニングを開発した。すでに一定の効果が得られているという。決して楽観できない現状をレポートした本書 『ケーキの切れない非行少年たち』だが、解決に向けた実践的なメソッドが示されている点に大きな希望が感じられる。すべての大人に知っていただきたい真実が詰まった一冊だ。(小島和子)



本書の要点

(1)非行少年は知的なハンディを抱えていることも多く、その場合は「反省」する力さえない。その背景のひとつには、IQによる知的障害の定義が変わり、必要な支援を受けられない現状がある。
(2)彼らは障害が軽度であれば日頃は普通に過ごせるため、大人になってからも支援の機会を逸し、さまざまな困難に直面しがちだ。
(3)受刑者が一人生まれると年間400万円の社会コストがかかる。国力を上げるためにも、「困っている子ども」の早期発見と支援が欠かせない。学校教育においても、全ての学習の基礎となる認知機能面のトレーニングが必要だ。

要約本文

◆反省以前の子どもたち
◇「厄介な子」が行き着く先は少年院

 著者はこれまで多くの非行少年たちと面接してきた。そこで気づいたのは、凶悪犯罪を行った少年にその理由を尋ねても、難しすぎて彼らには答えられないことが多いということだ。更生のためには自分の行いと向き合い、被害者のことを考えて内省し、自己を洞察することが必要となる。ところが、そもそもその力がない。つまり「反省以前の問題」を抱えた子どもが大勢いるのだ。

 彼らは簡単な足し算や引き算ができず、漢字も読めないだけでなく、見る力や聞く力、そして見えないものを想像する力がとても弱い。そのため話を聞き間違えたり、周りの状況が読めなくて人間関係で失敗したり、イジメに遭ったりしやすい。それが非行の原因になっているのだ。

 こうした子どもは、小学校2年生くらいから勉強についていけなくなる。やがて学校に行かなくなり、暴力や万引きなど問題行動を起こすようになる。軽度知的障害や「境界知能(明らかな知的障害ではないが状況によっては支援が必要)」があったとしても、気づかれることはほとんどない。学校では「厄介な子」として扱われるだけだ。

 非行は突然降ってくるわけではない。必要な支援がうまく届かず、手に負えなくなった子どもたちが、最終的に行き着くところが少年院なのだ。



◇ケーキを切れない非行少年たち

 児童精神科医として公立精神科病院に勤務した後、著者は、医療少年院に赴任した。そこで驚いたことがいくつもある。その一つが、凶悪犯罪に手を染めていた非行少年たちが「ケーキを切れない」ことだった。著者は、紙に描いた丸い円をケーキに見立て、「3人で食べるために平等に切ってください」と促した。すると、ある粗暴な言動が目立つ少年は、悩んで固まってしまった。少年といっても中高生だ。その年頃で「ケーキを切れない」ようでは、非行の反省や被害者の気持ちを考えさせる従来の矯正教育を行っても、効果は見込めない。こうした少年たちは非常に生きにくいはずだ。だが、学校がそこに気づくことはなく、非行化して少年院に来ても理解されず、ひたすら反省を強いられてきた。これこそが問題なのだ。

 著者が幼稚園や小中学校で学校コンサルテーションや教育・発達相談を行う中で、よく挙がってくる問題がある。例えば、感情コントロールが苦手ですぐにカッとなる子ども。嘘をつく子ども。そして、じっと座っていられない子どもの存在だ。彼らの特徴は、実は少年院にいる非行少年の小学校時代のそれとほぼ同じである。

 幼女への強制猥褻罪で逮捕された16歳の少年は、次のように語った。「勉強についていけずにイライラして悪いことをした。特別な支援を受けられていたら、ストレスが溜まらなかったと思う」。もし小学校で特別支援教育につながっていたら、彼が少年院に来ることもなく、被害者を生まずに済んだかもしれない。

◇クラスの下から5人には支援が必要

 一般的に、IQが70未満で、社会的にも障害があれば知的障害と診断される。この基準は1970年代以降のものだ。1950年代の一時期は、IQ85未満が知的障害とされていたことがある。だが、この定義では全体の約16%の人が知的障害となり、あまりに人数が多過ぎる。支援現場の実態にそぐわないなどという理由で、基準がIQ70未満に下げられた経緯がある。

 時代によって知的障害の定義が変わっても、事実が変わるわけではない。現在、IQ70~84は「境界知能」にあたるが、ここに相当する子どもたちは、知的障害者と同じしんどさを感じており、支援を必要としているかもしれない。こうした子どもたちの割合は約14%と算定される。つまり、標準的な1クラス35名のうち、下から数えて5人程度は、かつての定義であれば知的障害に相当していた可能性が

◇4次障害

 障害を持った非行少年たちは、少年院を出た後は社会で真面目に働きたいと思っている。だが、その多くは、理解のある会社で職を得ても、長くて3カ月くらいで辞めてしまう。認知機能の弱さ、対人スキルの乏しさ、身体的不器用さ。これらが原因となり、非行に理解はあっても発達障害や知的障害の知識が不十分な雇用主から叱責され、やる気があっても続けられないのだ。

 職がなければお金もない。そこで安易に窃盗などに手を染めることになる。著者はこれを「4次障害」だと考える。1次障害は障害自体によるもの。2次障害は周囲から障害を理解されず、学校などで適切な支援を受けられなかったことによるものだ。3次障害は非行化して矯正施設に入っても理解されず、厳しい指導を受け、ますます悪化することだ。そして4次障害として、社会に出てからも理解されず、偏見もあり、仕事が続かず再非行につながってしまう。

◆忘れられた人々
◇理解できない凶悪犯罪の背景

「なぜこんな犯罪を?」と首を傾げたくなる事件をよく耳にする。著者の印象に強く残っているのは、2014年に起きた神戸市長田区小1女児殺害事件だ。ビニール袋に入れられた遺体が雑木林で見つかったのだが、そのビニール袋には、たばこの吸い殻と犯人の名前の書かれた診察券が入っていた。どうして犯人は、すぐに身元が割れるようなことをしたのか。

 後になって容疑者が療育手帳(軽度知的障害の範囲)を所持していたことがわかり、その奇異な行動の意味が理解できた。知的障害のある人は、後先を考えて行動するのが苦手だ。そのため、診察券から素性がバレると想像できなかったのだろう。

「軽度」という言葉から誤解を招きがちだが、軽度知的障害や境界知能を持っている人たちは、実は多くの支援を必要としている。ふだん生活している限りでは、ほとんど健常の人たちと見分けがつかず、通常の会話も普通にできる。そのため、障害があるとは思われない。先の容疑者も、陸上自衛隊に勤務し、大型一種免許や特殊車両免許を持っており、それなりに能力があったのは確かだ。

◇受刑者の半数は知的なハンディを抱える

 彼らはいつもと違ったことや初めての場面に遭遇すると、どう対応していいかわからず思考が固まってしまうことがある。例えば、いつも乗っている電車が人身事故で止まってしまった場合、柔軟に違うルートを探すといったことは困難だ。

◇4次障害

 障害を持った非行少年たちは、少年院を出た後は社会で真面目に働きたいと思っている。だが、その多くは、理解のある会社で職を得ても、長くて3カ月くらいで辞めてしまう。認知機能の弱さ、対人スキルの乏しさ、身体的不器用さ。これらが原因となり、非行に理解はあっても発達障害や知的障害の知識が不十分な雇用主から叱責され、やる気があっても続けられないのだ。

 職がなければお金もない。そこで安易に窃盗などに手を染めることになる。著者はこれを「4次障害」だと考える。1次障害は障害自体によるもの。2次障害は周囲から障害を理解されず、学校などで適切な支援を受けられなかったことによるものだ。3次障害は非行化して矯正施設に入っても理解されず、厳しい指導を受け、ますます悪化することだ。そして4次障害として、社会に出てからも理解されず、偏見もあり、仕事が続かず再非行につながってしまう。

 彼らは社会的には普通の人と区別がつかない。そのため、要求度の高い仕事を与えられて、失敗すると非難されたり、自分のせいだと思ってしまったりする。本人も普通を装い、支援を拒否するケースもあり、支援を受ける機会を逃してしまう。結果的に、社会から「厄介な人たち」と攻撃や搾取の対象にされてしまいがちだ。そのため、場合によっては、意図せずとも反社会的な行動に巻き込まれる可能性もある。

 おそらく刑務所にいる受刑者のうち、かなりの割合を軽度知的障害や境界知能を持った人が占めていると思われる。法務省の統計データから類推すると、2017年の新受刑者のうち、半数近くがそうした人たちだ。一般に、軽度知的障害や境界知能の割合は15~16%程度であることを考えると、かなり高い割合だといっていい。

【必読ポイント!】
◆1日5分で日本を変える
◇ソーシャルスキルが身につかない訳

 知的なハンディが原因で罪を犯すことがないよう、学校では子どもたちにどのような支援をすればいいのか。子どもへの支援を大別すると、学習面、身体面(運動面)、社会面の3つとなる。このうち、対人スキルや感情コントロール、問題解決力といった社会面については、系統だった支援が全くないのが現状だ。

 集団生活を通して自然に身につけられる子どもも多いが、発達障害や知的障害のある子どもには難しい。学校で系統的に学ぶしかない。その機会がないと、多くの問題行動につながりやすく、非行化するリスクが高まる。

 支援対象となる子どもについて、心理士などの専門家は、「対人関係に課題があるため、ソーシャルスキルを身につける必要あり」とみなすことが多い。そのためによく用いられるのが、認知行動療法に基づいたトレーニングだ。認知行動療法とは、考え方を変えることによって、不適切な行動を適切な行動に変えていく方法である。心理療法の分野で効果が認められている。

 だが、問題は、このトレーニングが「認知機能に大きな問題がない」ことを前提としていることだ。「考え方」を変える以上、本人にある程度の「考える力」が求められる。対象者の認知機能に何かしらの問題があれば、効果は期待できない。にもかかわらず、矯正教育や学校教育の現場では、対象者の能力を考慮せず、「とにかくソーシャルスキルトレーニングを」と、形式的な対応がなされることがしばしばだ。

認知機能に着目した新しい治療教育

 近頃、認知機能面への介入の必要性が、学校教育でも認識されるようになってきた。認知機能向上への支援として有効なトレーニングに、「コグトレ」と呼ばれるものがある。認知機能を構成する5つの要素(記憶、言語理解、注意、知覚、推論・判断)に対応した認知機能強化トレーニングだ。著者が医療少年院で約5年の歳月をかけて開発したもので、すでに一定の効果が得られている。

 コグトレは、パズルやゲームのような形式であるため、直接的には学習という印象を与えない。漢字や計算ドリルができないと、子どもは「学習そのものができない」と思って傷ついてしまう。しかしコグトレならば、楽しみながらゲーム感覚で取り組めるうえに、できなかったからといって傷つくこともない。

 学校のカリキュラムは、学習指導要領に沿って厳格に管理されている。独自にまとまった時間を取って、系統立ったトレーニングをすることは難しい。だが、このコグトレなら、朝の会や帰りの会の5分を使って行うだけでも効果がある。

 コグトレのような認知機能トレーニングは、犯罪を減らすことにもつながる。凶悪犯罪の中には、生活歴や性格の問題以外にも、脳機能障害の問題を避けて通れない事件もあるためだ。

◇犯罪者を納税者に

 刑務所にいる受刑者を一人養うのに、年間約300万円かかるという試算がある。一方で、平均的な勤労者は、消費税なども考慮すると、一人あたり年間100万円程度は何らかの税金を納めている。もし、受刑者を一人でも健全な納税者に変えられたなら、約400万円の経済効果になるわけだ。

 逆にいえば、受刑者一人につき400万円の損失が生じているともいえる。刑事施設の収容人数が約5万6000人(平成29年度末)であることを考えると、単純計算でも年間2240億円の損失だ。被害者の損失額も加味すれば、年間の損害額は5000億円を下らないはずだ。こうした点で見ると、犯罪者を減らすことが日本の国力を上げるうえでも重要だといえる。

 そのためにできることは、「困っている子ども」の早期発見と支援だ。それを最も効果的に行えるのは、子どもたちが毎日通う学校以外にあり得ない。今後、新たな視点をもった学校教育が充実することを願ってやまない。

一読のすすめ

 著者は、医療少年院に送られた非行少年や大人の受刑者など、犯罪に手を染めてしまった人々と、その背景にある知的なハンディの関係について述べている。認知機能に「軽度」の障害を抱えたまま社会に出て、「普通に」暮らしている人は、思いのほか大勢いるのだろう。周囲にも一人や二人、思い浮かぶのではないだろうか。「あの人、空気読めなくて困るよね」、「もっと臨機応変に対応してくれないかな」といった人が。そうした人々のうち何割かは、本書で述べられているような課題を抱えているのかもしれない。

 教育関係者でもない立場で、知人や同僚、隣人として何ができるのかまで、本書がつまびらかに示しているわけではない。だが、一見「厄介な人」にも、何かしら事情があるのではないか。せめてそう思いを馳せられる人が増えれば、彼らの生きづらさが多少は和らぐのかもしれない。そんな大事なことに気づかせてくれる貴重な一冊だ。多くの方に手に取ってお読みいただきたい。
20200414

2021年01月09日

『二十歳のころ』の加藤尚武と廣松渉

当時、高田馬場にあった板倉(聖宜―明定)研究室の下の階にあった仮説会館に立ち寄ったら、板倉先生がおられて、少し雑談をした。帰ろうとしたら、もうすぐ立花ゼミ生がインタビューに来るとおっしゃる。いてもよかったのだろうが、用もあるので退出した。後日、立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ『二十歳のころ』(1998,新潮社)としてまとめられている。

 板倉さんのところは読んだものの、そのままになっていた。

 この度、拾い読みをした。

 「加藤尚武にきく」のところに、



――で、奥様は……。

 私の妻は廣松渉夫人の妹です。私の結婚は彼の政治工作の成功した唯一のもので、彼はいろんな政治工作をしたけれど、自分の女房にしようと思っていた女性の妹を加藤尚武と結婚させようってこと以外は、しっぱいしたんじゃないですか。うす暗がりの中の陰謀が好きな男で、四人で学習塾をやるという条件を作って、いろいろそういうお膳立てをして、結局彼の思惑どおり私は彼女と結婚してしまったわけです。結婚式をしたのが確か一九六五年の十月、院政時代です。



 とあった。これは知らないことだった。

加藤氏は、板倉さんたちがつくった東大自然弁証法研究会の会員だった。廣松は二度、その会に顔を出していたと板倉さんから聞いている。廣松の伝記では黒田寛一の自然弁証法研究会にいっていることになっていた。これは誤りではないかと思う。

また廣松の『科学の危機と認識論』に背後に板倉科学論を、私は読み取るのだが、どうだろうか。

20200412

2021年01月09日

磯崎純一『龍彦親王航海記 澁澤龍彦伝』読了

小室直樹、鶴見俊輔、宇沢弘文と伝記を読んできたが、この度、澁澤龍彦の伝記を読み終えた。

同級生のYと親しかった頃だから高校生時代だと記憶しているのだが、三宮の書店コーベブックスに稀覯本を並べたコーナーがあり、不思議なとしか高校生には言いようのない女性が店員としていた。その女性が、高橋たか子が澁澤龍彦とできてね、奥さんとごたごたしているらしいの、という話を聞いたことがあり、その奥さんが矢川澄子だと知り、矢川澄子は谷川雁と関係を持ったことを後日に読んだりしたので、そんなごたごたに魅かれて読んでみようと思ったのだった。澁澤とその周辺の人々について、若い頃は関心を持ち、読んだりしていた。加古川の田舎者には東京の空気は全くわからないのだが、澁澤の文体や金子国義や四谷シモンの作品を楽しむ時間があった。高橋睦郎という詩人は、詩では食えないから貧しい生活をしているのだろうと思っていたりする田舎者であった。広西元信という人物がこの伝記に一度だけ登場するが、「そのころ(1948年—明定)電通ビルの前に「ねすぱ」という喫茶店があり、ジャーナリストの溜まり場となっていたが、私はここで、当時「世界文化」を抱いていた気鋭のジャーナリスト水島治男や広西元信に会っている」という澁澤の戦前戦後、わたしの銀座」からの引用に登場する。磯崎は広西が『資本論の誤訳』の著者であることにはふれていない。まあこの伝記には関係のないところではあるが、「なにしろ若かったので、談論風発する多士済々のなかに混じって、私は学生服をきて、ただ黙々と酒を呑んでいるほかなかった」の「談論風発」のイメージが弱いことは確かである。

20200406

2021年01月09日

主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニングの視点からの授業改善)

教育心理学の三宅なほみ氏が癌により逝去された(1946年―2015年)のは残念であった。死の翌年に『協調学習とは 対話を通して理解を深めるアクティブラーニング型授業』(三宅なほみ・東京大学CoREF・河合塾編著,北大路書房,2016)が出版された。そこでは「知識構成型ジグソー法」の取り組みが提案されている。生きておられたら、主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニングの視点からの授業改善)に大きな役割を果たされたと思う。

「ジグソー法」はアメリカのアロンソンによって編み出された「共同学習を促すための学習方法である。東京大学CoREFのHPによると、「知識構成型ジグソー法」はアロンソンの「ジグソー法」とは異なる狙いや手法を持つ、CoREF(大学発教育支援コンソーシアム機構)が独自に開発した学習法である。HPを見ると、大学の授業でも使えそうな定番教材がある。

この機構の副機構長として、三宅氏はこの取り組みをリードした。前職の中京大学での「単純ジグソー」の取り組み(1991~2007)からはじまり、多様な学習法を組み合わせながら学びをデザインした。東京大学に移籍(2008)後、学習科学の理論に基づく対話型授業「知識構成型ジグソー法」という授業法と、評価の手法としての「授業前後理解比較法」と「多面的対話分析法」という評価手法の研究をした。

三宅氏のご講演を仮説実験授業研究会の会で聴く機会があった。その時のお話は興味深いものであった。

日本でアクティブ・ラーニングというと、仮説実験授業が取り上げられたりする。

仮説実験授業は心理学者の波多野誼余夫がアメリカで紹介している。同じような教授法が1980年代以降英米でもあるようだが、波多野の影響がどれほどのものなのかはわからない。ただ、認知心理学・教育心理学の研究者にはよく知られていたと思われる。三宅氏のお話では、波多野誼余夫は自分が日本語で書いたものは「論文」に数えないそうであった。ウィキによると、欧米7つの学会誌の編集委員を務めた、とある。

2019年に板倉の原著論文といくつかの授業書の英訳本が出版された。これの反響も知りたいところである。

2020年から全面実施される「主体的・対話的で深い学び」はどうなるのだろう。

20200311

2021年01月09日

春の雪誰かに電話したくなり/八十八

 新潮社の「波」の連載に「掌のうた」があり、歌人の三枝昂之が短歌を一首、俳人の小澤實が俳句を一句、紹介している。

 2020年3月号で小澤の選んだ句が「春の雪誰かに電話したくなり」である。八十八は桂米朝の俳号。師の正岡容(いるる)の共に弟子筋である小沢昭一、大西信之、永井啓夫(ひろお)、加藤武らとともに「東京ヤナギ句会」を結成。句会の宗匠は入船亭扇橋。ほかに永六輔、柳家小三治がいる。句会編「楽し句も、苦し句もあり、五・七・五」(岩波書店,2011)の「自薦 折々の句 三十」には採られていないが、エッセイで登場する。「たとえ苦し紛れに作った句でも、天に採ってもらうと、急に「ええ句かもしれん」と思えてくる」とある。

 近所の親子丼の「鳥喜多」の壁にこの句の色紙が飾られているので、活字になるまえから知っていた。米朝一門が堪能する「鳥新」の亭主から紹介されたという店。小沢昭一もよく足をはこんでいた。

 (正岡容が桂米朝を褒めるので、小沢と加藤がちょっと妬いた、とどこかで読んだことがあるのを思い出した。)

 小澤實;「うちの子でない子がいてる昼寝覚め」。ナツ、昼寝から覚めてみると、知らない子も眠っていた。まさに開けっ放しの長屋暮らしである。「うちの子でない子」に神秘的なにおいもある。大阪ことばが生きている。日常をよく観察して落語に生かしたという目も感じられる」

20200303

2021年01月09日

三浦つとむの「漱石論」から

吉本隆明「三浦つとむ他」(『追悼私記』所収)



 このなかで吉本は、

おれはこの人の漱石を論じた文章がいちばん好きだったなあ。漱石は文学とは何かを科学的につきとめていって、じぶんのつきつめた(あるいはつきつめきれなかった)文学の理論をじっさいに作品で試みるために小説をかきはじめたという見解を、漱石の文学の動機にあげたのは、おれの知っているかぎりみうらつとむだけだよ。おれはおもわずハッとしたね。これはものすごい卓見で、ほんとうにそうだったかもしれない面を、漱石の文学はもっている。漱石の作品はどこかしらに<問題>小説(プロブレマテック・ノベル)の面があって、それが講談調になってみたり、推理小説風になってみたり、観念の長口舌を登場人物がやってみせたりというところに、あられている。意識的か無意識的かは別として、部bb学理念があって捜索はそれをためしてみるための手段だという面があったからだといえなくない。三浦つとむのこの漱石観には、謎解きの論理に熱中したところから、しだいに哲学に踏み込んだじぶんの体験と、芸術理論家としての知見とがとてもよく発揮されていた。三浦つとむの文章の中でいちばん文学的な文章だったとおもうな。(P96-97)



とある。



三浦つとむ「漱石のイギリス留学をめぐって」から

  私は漱石の経歴に関心がなかったから、『文学論』の著作があるとは知っていたが、小説家が文学論をやったものだと思って目を通そうとはしなかった。小泉の文章で、自分がまったく誤解していたこと、文学理論家が小説を書くようになってのだと知って、はじめて『文学論』を読み、またそれまで注意を払わなかった漱石の後期の小説を読みなおしてみた。われわれは、彼が英文学科に入ったという経歴だけを見て、小林秀雄が仏文科に入ったのと同視してはならないのである。私は科学者の一人として云っておきたいのだが、科学の方法論に関心を持つのは科学者の中でも人まねの科学者ではなく創造的な学者の態度なのである。これは出世主義や優等生根性とは異質なばかりでなく、若い時にこのような傾向を持った人間は一生それを持ち続けるものである。こういう詩誌の人間が、英文科へ入って、彼の語っているような英文学の講義に満足できたとしたら、それこそおかしな話である。彼は英文学を専攻する人間として、「英文学はしばらく措いて」「文学とは何いうものか」を理解することを欲した。これは試験にいい点をとりたいからではない。英文学を理論的に把握するためには、文学の本質論がなければならなぬというのが漱石の方法論的発想だったのであり、このように本質論から出発して理論を体系的に組み上げていこうというのが、創造的な科学者のとらねばならなぬ道なのである。

(略)

……漱石のやりたかった事業にくらべれば、発表した諸作品は「下らない創作」でしかなかった。高浜虚子あての手紙に、「とにかくやめたきは教師、やりたきは創作。創作さえできればそれだけで天に対しても人に対しても義理は立つと在候。」と書いたくらい、教師をいやがっていながらも、自分の創作に対してはきびしい評価を加えていたわけである。……その事業は挫折したけれども、誠実で勇気のある科学者としての漱石の態度は、「下らない創作」にもつらぬかれることになった。「何か書かないと生きてゐる気がしない」人間の、これまでの文学とはどういうものなのかの本質的な探究が、







三浦つとむ「夏目漱石における『アイヴァンホー』の分析」から

……漱石の東大での文学論の講義は明治三六年九月~三八年六月であるから、「間隔論」はおそらく三八年春ころの講義であろうが、この部分は講述を不満として新しく書き直したものであるから、『アイヴァンホー』の分析が三八年の講義でどのように語られたか、三九年の新稿でどのように改められたか知るよしもない。ただ私がこの分析を読んだとき想い浮べたのは、三九年四月に公けにされた『坊つちやん』の一場面であった。終り近く、山嵐と坊っちゃんが宿屋の二階に陣取って、角屋の入口を見おろし、赤シャツが泊りにやってくるのを「一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らして」その穴からのぞいて待っている部分である。赤シャツは来るかも知れないし、来ないかも知れない。私たち読者にとって未知数であるばかりか、二人にとってもまた未知数である。「もし赤シャツが此処へ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加へる事は出来ないのである」! だがついに来た。赤シャツが野だいこといっしょに、二人の悪口をいいながら角屋に入っていく。二人は「おい」「おい」「来たぜ」「とうとう来た」と声をかけ合う。この〈表現主体〉を読者は〈追体験〉して、ついに天誅を加える機会が来たことを知った二人といっしょに、読者もまた興奮するのである。Rebecca は戦いを見おろしたが、山嵐と坊っちゃんは敵が来たのを見おろしてから戦いをはじめようというわけである。

三浦『現実・弁証法・言語』(P297-298)



 これについて吉本は講演のなかでもふれていて、その記録が「ほぼ日刊イトイ新聞」の「不安な漱石「不安な漱石――『門』『彼岸過迄』『行人』」である。三浦の説をつかって「漱石の作品の『推理小説性』」を論じている。



ぼくの知っている人で、漱石の小説というのは、普通の作家が書く小説と違って、初めに文学についての理論を、文学論ですけど、文学についての漱石流の理論があって、その理論を確かめたいので、確かめるために作品を書いたというふうに言える面があるんだということを、ぼくが知っている限りでは三浦つとむっていう、亡くなりました哲学者がいるんですけど、三浦つとむだけがそういうことを言っていると思います。

20200215

2021年01月09日

『「大衆」と「市民」の戦後思想—―藤田省三と松下圭一』(趙星銀著.岩波書店.2017)の「プロローグ「大衆民主主義」再考」から

 「大衆」と「市民」

 藤田の最初の著述は『政治学事典』(平凡社、一九五四年)の「天皇制」項目である。その中で藤田は、大衆社会への迎合に成功した戦後の天皇制とその裏面に持続している戦前型の官僚制の温存に、戦後の支配構造の核心を見出している。一方、松下の論壇デビュー作は岩波書店の『思想』一九五六年一一月号の論文「大衆国家の成立とその問題性」である。松下はその中で、国家に〝対する〟革命ではなく、国家に〝よる〟福祉の拡充を求める労働者たちを「大衆」と名付け、彼らの出現が古典的な社会主義理論への転換を要求していると主張した。

 デビュー当初、二〇代後半の気鋭の新人であった二人は、こうして一九五〇年代半ばの日本社会における「大衆」の問題を指摘しながら登場した。

 (略)

 今日において、政治的語彙としての「市民」は、公共生活に自発的に参加する人間、民主主義の政治体制に相応しい人間を指す場合が多い。この語は著しい規範性を帯びているが、それは敗戦後、連合軍から与えられたものとして出発した「戦後民主主義」の特殊性と関連している。与えられた民主主義を真に我々のものに変えるために、主権を握る人々がそれに相応しい規範を身につけることが強く要求されたからである。そした問題意識の上で規範概念としての「市民」が構想され、語られてきた。

 そして「市民」という語がもっとも理想的な民主政治の姿を指すとすれは、「大衆」は、おそらくそのもっとも危険な担い手を指す言葉であろう。「大衆」をめぐる言説を支えるのは、民主主義そのものに対する根強い会議である。古代ギリシャにおける衆愚政治への危惧からトクヴィルの「多数の専制」への警戒まで、〝デモスの支配〟の否定面への憂慮は長い歴史を持っている。つまり、民主主義の歴史は民主主義に対する不信と警戒の歴史と表裏をなしているのである。現代語における「大衆」は、いわば民主主義の影のような存在であるといえるかもしれない。

 以上は、今日における「市民」と「大衆」のイメージを簡略にスケッチしたものである。ところがこれらの概念を近代以降の日本思想史の文脈の中で論じるためには、もう一つの決定的な思想潮流を考慮する必要がある。それは社会主義の言語としての「大衆」と「市民」の文脈である。そこにおいて、「大衆」はプロレタリアートと、「市民」はブルジョアジーと重なり合っており、またそれに「マス」や「群衆」、「小市民」や「中間層」などの語が混入しながら言語空間を作り上げたのである。

 こうした経年の混在の中で、「第一の戦後」と「第二の戦後」は、それぞれ「大衆」と「市民」が社会変革の主人公として語られ、その可能性と問題性に注目が集まった時代でもある。その境目にあった六〇年安保において、社会主義の説く「大衆」と大衆社会論の説く「大衆」の緊張関係を意識しながら、新しく「市民」が語られ始めた経緯については、後で検討する。

「『市民の図書館』再読」(みんなの図書館、2000年12月号)で私は、「〈市民〉をあいまいに用いることは避けたいという立場です」と書きました。

 「自由で民主的な社会は、国民の自由な思考と判断によって築かれる。国民の自由な思考と判断は、自由で公平で積極的な資料提供によって保障され、誰でもめいめいの判断資料を公共図書館によって得ることができる」(『市民の図書館』十一ページ)という理念と、現実の「市民」として暮らしている人との乖離は気になるところでした。

と書いている。『市民の図書館』は、理念と政策と技術が書かれているのですからそれはそれでよいとしても、その後の論議が「市民」と「大衆」の問題を無視し、「市民」という言葉をどこかに違和感を持つことなく使っていることが、気になっていた。

 この政策マニュアル(貸出し、児童サービス、全域サービス―明定)教養主義からすると「パンドラの箱」を開けたのです。そこから出てきたのは「大衆」「群衆」であって〈市民〉ではなかったのです。

とも書いている。この論は「図書館界」の「貸出を考える」でも触れている。

 図書館情報学の研究者はこういうことに関心がないのかもしれない。

 上記の本が出たので、気になるところ「第三章市民と政治」「終章「国家に抗する社会」の夢」などを読んでみた。

 高度成長を続けた公共図書館は、バブル期以降の「私生活主義」に迎合するだけに終始してしまった、という私の考えは、田中義久の『私生活主義批判』(筑摩書房、1973)あたりの影響を受けている。藤田の「私生活(第一)主義」とは違う文脈であることを知った。

20190525

2021年01月09日

『〈女流〉放談 昭和を生きた女性作家たち』イメルラ・日地谷・キルシュネライト編 岩波書店 2018.12



 編者が1982年に日本の女性の作家たちにインタビューした、そのインタビューが活字となって2018年に刊行された。

 当時の私は司書人生の駆け出しの頃であって、小説を読むことが少なくなっていた。児童文学を読まなければならなかったし、縁のなかったエンターテイメントの作品も読む必要に迫られていた。これらの作品は面白く興味深いものが多く、そういった読書に時間を割いていた。

 この本に登場する12人の作家については著名な人たちばかりで読む必要を感じなかった。

 佐多稲子については中野重治との関係からいくつか読んでいる。

 円地文子は教科書で随筆を読んだ程度。

 河野多惠子、石牟礼道子は読んでいない。

 田辺聖子、三枝和子、大庭みな子、戸川昌子、津島佑子、金井美恵子、中山千夏、瀬戸内寂聴は読んだ記憶がある。

 その程度である。

 ドイツ人の若き日本文学研究者が同じ質問を作家たちに投げかけている。

 「男性の評論家から公平に、客観的に扱われていると思うか」「(男性の)評論家が『女性作家の作品は、どうも私には完全に読んで理解することが不可能だが』と書いているのをどう思うか」「女性作家には、家庭の雑事があって時間を取られるだけでなく、出産というものもあるので、仕事に集中できない。これをどう考えるか」といった質問である。



 佐多稲子への質問のなかから

――女性は政治に関する関心や働きかけが弱いとよく言われますが、佐多さんは文学が政治的、社会的なテーマを書くべきだとお考えですか。

佐多 必ずしも直接に、政治的、社会的なテーマを書くべきだとは思っていません。プロレタリア運動から政治へ移った人もいましたけど、政治と文学の世界はまったく異なったものですからね、あまりそれに密着しすぎるのも問題だと思います。でも、政治的、社会的な視点などが作品に流れ込んだり、その土台となるようなことは、当然だとおもいますね。文学者だといっても、やはり民衆の一人なのですから。

20190421

2021年01月09日