「部落解放運動の分岐」(『滋賀の同和事業史』滋賀県人権センター.2021)についてなど 残日録 240831
戦後左翼運動の歴史について、またそこから派生した「新左翼」にいついて、21世紀も20余年たった今、どう過去として記述するのか。1960年前後の当事者の多くが現場から退出しているのだから、歴史として振り返り、個々の局面での経緯を踏まえて、新しい潮流を生み出す動きがあっておかしくはない。
過去を知らないから、または詳しく知らないから、新しい潮流をはじめられるということもある。私などの知らないところでそうした流れが生まれているのかもしれないが、そうだとしたら、過去のゴタゴタを多少知るわたしにできることは、邪魔をしないことしかない。こういう雑文も邪魔をしない範囲のことである。
過去の左翼の歴史について、若い人よりもそう詳しくもないが少しは知識があって気になることもある。
Wikの「丸木俊」に、
「1963年に部分的核実験停止条約が締結されると、その評価を巡り日本の原水禁運動は分裂。俊と位里は1964年6月に朝倉摂、出隆、国分一太郎、佐多稲子、佐藤忠良、野間宏、本郷新、山田勝次郎、宮島義勇、渡部義通とともに党改革の意見書を提出し、翌月に日本共産党を除名される。」
とある。
日本共産党の「除名・離党史」に関わることの一つである。これについて、関心のある人がどれだけ知るのか知らない。ただ、米・英・ソ(当時→ロシア)が調印した「部分的核実験停止条約」の日本の批准に反対した日本共産党は、党議に反して賛成した「丸木俊」などの党員等を「反党分子」として除名している。
そういう歴史がるので「丸木俊」は、党員とその支持者からみれば、私のような者への「踏み絵」でもある。
10年近く前、「原爆の図 丸木美術館」会員に入会を勧められたことがあった。その頃は全教(日本共産党系)の滋賀県の「教育のつどい」に共同研究者として参加していた。美術館の会員になることで、学校司書の部会に何か影響があると面倒なのでお断りした。面倒なことが起こるなどと心配するのは妄想のように思われるかもしれないが、部会の世話人やその周辺にに政治的なことに熱心な人がいて、「「共同研究者」を若い研究者に変わっていただいたら」などと声をかけ、私が参加者に悪影響を及ぼさないようにと、婉曲に排除の配慮される方がおられるとも限らないと、大げさかもしれないが用心したのだった。
ながながと書いたが、70才現役引退前の私はそういうことにも気をつけていたのだった。共産党系の関係者から政治的な意見を求められることがなかったのは、多少は我が身の処し方のせいでもあると思っている。
大衆運動としての部落解放運動の歴史においても1960~70年代からの「分裂」の歴史がある。
それをどう記述しているのか。分裂した双方の立場の公式的な見解というものがある。実際に運動を展開している現場がその公式的見解を主張して分裂・対立していくということが各地で展開する。
Wikiの「日本共産党」の項に「部落解放同盟との対立」がある。
部落解放同盟はその前身の全国水平社の中心人物の西光万吉も入党していたように元々共産党の影響力が強く、1960年代前半までは両者は友好的な関係にあったが、1965年8月11日、内閣同和対策審議会答申[170]が出されたことが大きな転換点となった。社会党員など同盟内の他の潮流は、部落差別の存在を認め、「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である」と明記した答申の内容をおおむね肯定的に評価し、同対審答申完全実施要求国民運動を提起することで一致したのに対し、共産党や同党員である解放同盟の活動家はこの答申を「毒まんじゅう」と批判した。その結果、同盟内で急速に支持を失い、同年の第20回大会では、共産党系代議員の提出した修正案は否決、同対審答申完全実施要求国民運動の展開を骨子とした運動方針が採択され、役員選挙では共産党員である中央執行委員のほとんどが解任された。共産党はこの動きを「一部反党修正主義者、右翼社会民主主義者の幹部」による策動として強く非難した。この当時の消息について、井上清は「部落解放全国婦人大会をやりますと、それが部落問題は行方不明の、共産党の新婦人の会の大会みたいになるんだ。極端な例でいえば、洗剤は有害である、だから洗剤はやめましょうという話が、婦人集会で出る。これは、そのこと自体はいいんですよ、ところが、洗剤追放と部落の婦人解放とが結びついた話にならなくて、日共の例の「二つの敵」のことに部落問題が解消してしまう。洗剤っていうものはアメリカ帝国主義が日本に石油を売り込むためにやっているんだ、洗剤追放すなわち反米闘争すなわち部落解放運動だというので洗剤追放が部落解放の婦人運動の中心題目みたいな話になっちゃうんだな。どうにもあんた、解放運動の側からいうと、わけがわからない。(略)それでとうとう、解放同盟の古くからの闘士の先生方が我慢できなくなっちゃった。」と語っている[171]。
また、元衆議院議員の三谷秀治は「解放同盟本部と社会党が答申を手放しで賛美したのに対し、地方支部の一部や共産党は、答申が、差別を温存してきた政治的責任に触れないで、いままた自民党の高度経済成長政策の枠のなかで欺まん的に部落問題の解決を求めようとしているとして、その融和的な性格を批判した。」「同和問題が憲法にうたわれた基本的人権の保障の課題として位置づけられたことは基本的に正しかったが、非人間的差別を部落に押しつけてきたものはだれなのか、差別を利用して部落民を苦しめてきたものはだれであったのか、という政治的分析にはまるで触れられていなかった。部落差別の根っこが隠蔽されていることから、差別の敵を社会一般に求めようとする誤りが生まれた。」と説明している[172]。分裂前の部落解放同盟に対して「共産党とさえ手を切ってくれるなら同和対策に金はいくらでも出そう」という誘いがさまざまな筋からあり、北原泰作は断ったが、これに乗ってしまったのが朝田善之助だったともいう[173]。
大会以後間もなく、京都府連の分裂が表面化、その余波で、府連書記局が設置されていた文化厚生会館の帰属をめぐり、解放同盟京都府連と部落問題研究所との間で紛争が発生した(文化厚生会館事件)。さらに同和対策事業特別措置法制定が急ピッチで進んでいた1969年2月、党農民漁民部編『今日の部落問題』を刊行し、その中で解放同盟指導部を「改良主義的、融和主義的偏向から自民党政府と安上がりの時限立法による特別措置で妥協した」と批判。同盟中央は抗議の意志を示すため、同書刊行直後に開かれた全国大会に来賓として出席した共産党議員を紹介だけにとどめ、祝辞を読ませないとする対抗措置がとられるなど、さらに関係は悪化した。同年大阪で起きた「矢田教育事件」では、当時の解放同盟や教職員組合、地方行政が取り組んでいた越境入学問題に消極的だった共産党員教員が、解放同盟大阪府連矢田支部による糾弾の対象となり、刑事事件に進展。共産党は、党組織を挙げて解放同盟と対決する姿勢を明確にし、両者の対立は決定的なものになった。同盟中央は、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対して除名・無期限権利停止などの処分で対抗した。こうして、1970年には部落解放同盟正常化全国連絡会議(のちの全国部落解放運動連合会、全解連)が発足した。共産党やその支持者たちはこの経緯について「本来、部落差別にたいして、大同団結して活動をすすめるべき部落解放運動に暴力や利権、組織分断を持ち込み、路線対立から親戚や親子関係の分断をはじめとした地域の人びとを二分する大きな誤りを持ち込む結果となった」と主張している。その頂点としていわれる事件が、1974年の兵庫県立八鹿高等学校における、八鹿高校事件の発生であった。
現在でも共産党・解放同盟両者の関係は極めて険悪である。共産党は、部落解放同盟を鉤括弧書きで「解同」と表記する[174][注釈 17]。1990年代初頭までは「朝田・松井派」と、解放同盟側を分派として糾弾する姿勢をとっていた[注釈
18]。すなわち、「解放同盟を自称しているが、実態は利権あさりの集団に過ぎない」という党見解を反映したものである[175]。また、共産党は「志賀義雄一派と結びついた反共勢力が指導部を占拠(「解同」朝田派)し、「部落民以外はすべて差別者」とする部落排外主義を振りかざして、反対勢力を組織から排除しました。」[176]という認識を示している。また、同和利権批判で有名な寺園敦史らは全解連も批判しているにも関わらず、共産党と関係した経歴から解放同盟には「共産党の反動的国民融合論」と見る向きもあった[要出典]。
Wikiの「部落解放同盟」の項に「「同和対策審議会」答申」の項があり、
1965年8月11日に内閣「同和対策審議会」が佐藤栄作首相に答申[19]してから57年が経過した。当時共産党系の派閥は、「答申」を「毒まんじゅう」であり自民党との妥協の産物であると批判した。一方、社会党系の派閥は「答申」を運動の武器になるとして評価した。佐々木隆爾によると、この部落解放同盟の分裂劇の裏側には、部落解放運動の主流から共産党勢力を排除し、部落解放同盟内の利権派に主導権を握らせ、部落解放運動を体制の中に取り込もうとする旧内務省系の自民党右派議員グループ「素心会」の思惑があったという[20]。以後、1970年代にかけて共産党系の勢力が社会党系の勢力に排除され、今日に至る。このような経緯から、共産党と部落解放同盟は反目を続けている。
(略)
部落解放運動の草創期から「言った・言わない」による暴力的な吊し上げが行われていた。その頂点が八鹿高校事件である[21]。1974年兵庫県立八鹿高等学校で共産党系の「部落問題研究会」に対し、部落解放同盟系の生徒が新たに「部落解放研究会」を学校に申請した。これを共産党系の教師が非公認としたことから、部落解放同盟が組織的に解放研の生徒の支援に乗り出し、教師を糾弾するに及んだ。このとき、共産党支持の教員のみならず社会党支持の教員や支持政党のない教員も暴力の被害を受けている[22]。当時は部落解放同盟の不祥事に関する報道がタブー視されていたことから、全国紙はこの事件を積極的に報道しようとしなかった。共産党はこれらの事件を国会で取り上げ、部落解放同盟を非難している。
(略)
日本共産党は「部落問題は既に解決している」として全解連を解散し、人権一般を扱う団体「全国地域人権運動総連合」(全国人権連)に衣替えした。部落解放同盟も部落のみならず、障害者解放など社会的少数者全般の権利を擁護するとのスタンスに変わりつつあるが、部落問題を最終的に解決するのは『行政の責任』だとする立場は堅持している。
ウィキペディアの記述の正確性に不満をもつ人もいるかと思われるが、書き出すとそれだけで長くなるので、以上、Wikiで「参考まで」としてととどめておく。
解放同盟の側からは「部落解放理論をめぐる諸問題―元解同中執,北原泰作氏の分裂策動と日共宮本一派との野合―北原理論=近代化論を批判する」(大賀正行,部落解放19675.10)などあり。
では、滋賀県ではどうだったのか。
部落解放運動の分裂について、滋賀県人権センターの『滋賀の同和事業史』ではどう書かれているかをみてみたい。
部落解放運動の分裂 ここまで述べてきたように、同対法を背景に部落解放同盟滋賀県連は大きく成長し、差別事件にも積極的に取り組んで、社会的にも注目される組織となっていった。しかし、その一方で全国的に展開していた部落解放同盟の内部に生じた路線対立がしだいに激しくなり、滋賀県の運動にも影響を与えるようになっていた。
部落差別の撤廃を求めた運動のなかには、古くから、労働運動や農民運動などと連携して全体的な社会変革のなかで目的を実現しようと言う考え方がある一方、あくまでも被差別部落住民の利益を大切にしながら方や制度の充実を図ることで課題解決を目指し意見があるなどいくつかの対立があった。また、それぞれに急進的に運動を進めようとする人びとと、社会の潮流をみながら斬新的な改善の実現を考える人びとがいて、運動の進め方に複雑な相克を生じることとなった。とくに一九六〇年代中ごろからは、部落解放同盟内部の一部の人びとが中央本部の方針を強く避難するようになり、対立がより深まることとなった。
兵庫県でもこうした対立路線が続いていた一九七四年(昭和四九)四月ころから兵庫県立八鹿高校の同和教育のあり方をめぐってタイル都賀先鋭化し、同年一一月には暴力の行使にまでいたる事態となった。この八鹿高校事件が契機の一つとなって、解放同盟のなかで分岐が進行し、七六年三月一五日には中央本部を批判する人びとが全国部落解放運動連合会(全解連)を結成し、運動の対立は決定的なものとなった。
滋賀県連の内部にあっても、全国の状況を反映して対立が生じていたが、組織の分裂を避けて統一を守ろうとする意見が大勢を占め、のちに滋賀方式とよばれる独自のスタイルが生まれることになった。
滋賀方式の確立 一九七五年(昭和五〇)一月二七・二八の両日、部落解放同盟滋賀県連の第二八回大会が八日市市(現東近江市)で開催された。前年の八鹿高校事件の衝撃もまださめやらぬなか、メディアも注目する緊張をはらんだ大会となった。
一九七五年二月五日付『解放新聞』滋賀版一四七号によると、大会冒頭に中村一雄県連委員長は「八鹿高校事件は重視し、本大会で県連統一見解を明示する必要がある」と述べ、二日目に運動方針案についての議論が展開された。当然、八鹿高校事件について見解を示すよう質問が出たが、これに対して飯田富一書記長は「部落解放同盟の名の下での暴力は絶対に許されない。社会性を帯びた、愛される解放同盟でなければならない」と回答し、さらに大会の最後に採択された「県民へのアピール」のなかでは「本件における解放運動の特徴は、県民の支持・共感を得て県民とともにしっかりと団結し、しっかりと地に足をつけた運動を展開してまいりましたし、今後も地道で着実な良識ある運動を推進しなければならないと考える」と述べた。「愛される解放同盟」とは、第三章四節でも述べたように、五七年一月の県連第一一回大会で当時の上田一夫委員長が用いた表現であった。そのときには部落住民から「愛される」という意味であったが、この二八回大会で飯田書記長は県民から「愛される解放同盟」と読みかえて回答したのである。県連執行部としては、事件にあらわれた暴力性が県民の批判を引きおこし、運動に悪影響をおよぼすことを強く警戒したと言えるだろう。
「県民へのアピール」とともに「滋賀県下の解放運動の組織と団結を守る決議」が採択されており、このなかでは、「運動の一部において、脅迫やおどしで威圧し、暴力を振るって相手を屈服させる形で運動が進められ、しかもそれが中央本部の指導と容認のもとに行われているとするならば、このことは断じて許せない」と主張した。八鹿高校事件について、部落解放同盟中央本部は、高校の同和教育の進め方に問題があったと批判し、そうした全体像を踏まえて一連の自体を理解すべきであるとしていた。県連はこうした中央本部の姿勢を「脅迫や脅しで威圧し、暴力を振るって相手を屈服させる形」の運動を「容認」するものだと避難したのである。もっとも県連内部でも見解は分かれており、近江八幡市内の支部が結成していた協議会は中央本部を支持する考え方を示しており、大会の決議のすべてに同盟員が心から賛同したわけではなかったと思われる。しかし、大会の最後に中村委員長が「運動方針の統一と団結を守ることを尊重する」と発言したように、組織の分裂を避けることを重視して意思統一がなされた。こうしてのちに滋賀方式とよばれることになる組織のスタイルが、内部に矛盾をはらみつつも誕生し、しばらくの間継続されていくことになる。(p125-7)
では「しばらくの間継続され」た滋賀方式はどうなったのか。
滋賀方式の終焉 一九八六年(昭和六一)三月二一日、大津市で部落解放同盟滋賀県連三九回大会が開催された。そのようすを伝えた三月三一日付『解放新聞』滋賀版によると、中村一雄委員長が冒頭のあいさつで「基本法制定へ同盟員が団結し取り組みを進めたい。一部に疑問等あろうかと思うが、本大会で議論を深め、基本法制定への決意をお願いしたい」と述べた。午後から八六年度の運動方針に関する議論がおこなわれたが、それに先だち宮田新太郎書記長が辞任を表明した。全解連の見解を支持していた宮田書記長は県連」から離れる決意をしたのである。書記長の辞任を受けて、武雄正己事務局長が運動方針案を説明し討論に入ったが、部落解放基本法の評価について意見が分かれた。基本法制定に賛成する主張が多いなか、県内の各地域の状況に差異があることを踏まえると、「地域の実状に即した法律はどういうものが必要であるのか、ということを十分検討する必要」があるから、「もう少し時間をおいて基本法についての議論をすべきだ」といった反対意見も出された。これに対して竹尾事務局長は「日本の国を人権国家として背骨の通った国にすること」が大事であり、そのためにも部落解放基本法の制定をめざすべきであると反論した。
こうした議論をへて採決がなされ、部落解放基本法制定要求などを含む運動方針が原案通りに採決された。全解連の主張を支持する人びとは、この大会ののちに組織を離れ、一九八六年五月一八日に大津市で全解連滋賀県連合会を結成した。委員長に飯田富一、副委員長に宮田新太郎らが就任、書記長は橋元淑夫がになうことになった。部落解放連盟滋賀県連の書記長には宮田新太郎のあとをうけて竹尾正己が就任し、新たな執行体制が確立した。こうして滋賀県の部落解放運動の組織は二つに分かれ、滋賀方式は歴史を閉じることになった。(p159-60)
1969(昭和44)年に同和対策特別措置法制定以来、同和対策事業は2002(平成14)年3まで、33年間にわたって実施された。
その後、部落解放基本法制定の要求は実現せず、2016(平成28)年に「部落差別の解消の推進に関する法律」(部落差別解消推進法)が制定されている。
21世紀に入り、同推協が人権推進協議会と改称するように、「同和」は「人権」という枠組みのなかで論じられ取り組まれるようになり今日に至っている。
八鹿高校事件のまえに、1969年に矢田(教育)事件があり、部落解放同盟と日本共産党との対立があり、また映画版『橋のない川』について、部落解放同盟が「差別映画」として「第二部」撮影・上映に妨害する事件が続いた。
後者についてはWikの「橋のない川」でも引用されているが、灘本昌久「映画『橋のない川』上映阻止は正しかったか 今井正・東陽一版を見て」(1993)が参考になる。私は今井版「第一部」は観たが、「第二部」や東版は観ていない。「第一部」永井藤作役の伊藤雄之助は、差別されながらも生きていかねばならない「部落の中でも飲んだくれでだめなやつと見られている藤作」(灘本)を見事に演じていて名演だった。観た当時その「悲しみ」に落涙した記憶がある。
解放同盟滋賀県連は1970年代を「分裂」ではなく「統一と団結」で乗り越えたと言えよう。八鹿高校事件にも解放同盟内組織にも関わらず批判的であったことも、記憶に残しておくべきところだろう。
現在の滋賀県連について知るところはほとんどないが、2021年にまとめられた「事業史」から見ると、分裂当時では大きなところで間違えてはいないといえるだろう。
このところの「部落問題」についての論考の書き写しは、図書館問題研究会の組織内の「和歌山県立図書館閲覧制限問題」への対応について、書いておきたいことがあり、そのための学習ノートといったところである。一つのことを書くにしても、それと関係したことを少しは学んでおかなければ、表現が痩せると思うので、ときどき「部落問題」について学んでいる。
このテーマについては、途切れ途切れとなるがもう少しだけ続くことになる。
9月27日に長浜で、角岡伸彦氏の講演会「ふしぎな部落問題(仮題)」がある。
角岡氏は1963年に加古川市別府町出身とのこと。1952年生の私とは10才余の年齢差であり、ともに同じ加古川市の生まれである。私の生まれた西神吉町と別府町は離れていて、別府町はほとんど知らない土地である。青年期の私は、東播磨地域で長らく人権問題に取り組まれていた大西成己氏の教え子であったので、部落問題や障害児教育などに関心をおもっていたので、共通の知人がいてもおかしくないのだが。
先に紹介したゴクロス編著の「ザ・セクシュアリー・オプレスド」の翻訳を入手した。少しずつ読みすすむことにする。