残日録31 幼年文学

 このところ、幼年文学を読んでいる。

 「10歳の峠」感覚的な思考から抽象的・論理的な思考へと転回していく時間の児童文学。

 

 宮川健郎は「日本児童文学 1013.3-4 特集子どもが読むはじめての文学」で、音読する「声」をとりもどさなければならないのではないか。と書いている。

 

  読者層の中心を幼年から十代の子どもへと引きあげ、読んであげる「声」とわかれて書きことばとし て緻密化していく、そして、「文学」と主題を共有する。—―こうした現代児童文学のあり方そのもの が、幼年文学の危機をまねいた。幼年に向けて書かれた読み物も、それなりの数が出つづけているけれ ど、すでに評価の安定したものが、くりかえし読まれている。……もう行くところまで行ってしまった 現代児童文学は、音読する「声」をとりもどさなければならないのではないか。/それなら、いま、「 子どもたちの「聞くことのコップ」を満たす物語はあるだろうか。


 宮川の紹介している、石井睦美『すみれちゃん』、市川宣子『きのうの夜、おとうさんがおそく帰ったそのわけは……』、岡田淳『願いのかなうまがり角』などを読んだ。確かに「ト書き」といった説明文や、散文による情景描写がないもので、すみれちゃんの独り言だったり、おとうさんの語りであったりして、黙読していても、声が聞こえてくるような文体になっている。「聞くことのコップ」を満たそうとしてくれている。

 石井直人の「おそらく読書に2種類あって、読んだことを他人と共有する読書と、私だけが私有する読書がある。幼年文学は、「母と子の20分読書運動」のように、前者に属する。そして、後者こそが私を自立させるのだ。あるいは、私を孤独にするといってもよい。児童文学論は、従来、この2種類をあまり区別しないで読書一般を奨励すべきものとみなしてきたのではなかったか」という論を引いて、宮川は、「聞くことのコップ」を満たす読書と、「孤独」=「自立」につながる読書があることを指摘している。

 そういう視点で幼年文学をみると、どちらもが不足しているといってよいだろう。

 「10才の峠」には内語の発達がかかわっているのだろうと思うが、このあたりはどうつながっているのだろう。

 

 

 

2018年10月17日