皐月雑記2 残日録240325
石井裕也監督「月」と塚本晋也監督「ほかげ」の映画を観た。映画を観るのは久しぶりだ。
「月」は「さとくん」演じる磯村勇斗がよかった。「ほかげ」は森山未來の片腕のない男がよかった。俳優の演技力がすごいと思っている。舞台や映画とテレビに、貪欲に挑んでいる俳優たちを観ると、表現って凄いなあ、と思う。
表現する側と表現をみる(受ける)側との間に、ラインはなく、ボーダレスになっているのだろう。限界芸術に連なる大衆の「しぐさ」のようなものが幅広く広がっている。「オタク」が「推し」や「博士ちゃん」になると、学校の教室、という場は変わらざるを得ないのだろう。凡人には呼吸しづらい空間になってしまうのではないだろうか。もう、なっているかもしれないが。などとうつらうつら思う。
このところTVの録画を観ている。CMをとばすので、時間が少しは節約できている、かな。CMに登場する俳優を覚えないこともあって、俳優への関心が薄れてきている。その分、本を読んでいない。体調が悪くなっているわけでもないが、身体が停滞時間を求めているらしい。
急ぐこともないので、毎日が日曜日の「とりとめのなさ」をそのまま受け入れている。
季節の変わり目、ということで、天候の変化が激しい。長浜の寒風は、東播磨の加古川の実家とは違って、刺さるようである。「比良八荒」と呼ぶ。
秘密のケンミンショウで栃木の「しもつかれ」を取り上げていた。(240321)名前だけはなにかの歌で知っていた。栃木の名物郷土料理だと思っていたら、好き嫌い両論あり、それも嫌いが多いのには驚いた。SNSでは好き派が力説。農水省のサイトでも「うちの郷土料理」として「おきりこみ」などとともに「すみつかれ」として紹介されている。
この番組で、栃木県とともに地味な県として、滋賀・佐賀・鳥取があがっていた。
「しもつかれ」の由来は諸説あるが、TVでは滋賀県由来説が紹介されていた。
「宇治拾遺物語」の「慈恵僧正戒壇築かれたる事」が由来とのこと。
これも今は昔、慈恵僧正は近江の国淺井群の人なり。叡山の戒壇を人夫かなはざりければ、え築かざりける比、淺井郡司は親しき上に、師壇にて佛事を修する間、此の僧正を請じ奉りて、僧膳の料に、前にて大豆を炒りて、酢をかけけるを、「何しに酢をばかくるぞ。」と問はれけれぼ、郡司曰く、「暖なる時、酢をかけつれば、すむつかりとて、苦みにてよく挟まるるなり。然らざれば、滑りて挟まれむなり。」という。僧正の曰く、「いかなりとも、なじかは挟まぬやうやあるべき。投げやるとも、はさみ食ひてん。」とありければ、「いかでさる事あるべき。」と爭ひけり。僧正「勝ち申しなば、異事はあるべからず。戒壇を築きて給へ。」とありけれぼ、「易き事。」とて、煎大豆を投げやるに、一間計のきて居給ひて、一度も落さず挟まれけり。見る者あざまずといふ事なし。柚の実の只今搾り出したるを交ぜて、投げて遣りたるおぞ、挟みてすべらかし給ひけれど、おとしもたてず、又やがて挟みとどめ給ひける。郡司一家廣き者なれば、人數をおこして、不日に戒壇を築きてけりとぞ。
慈恵僧正:
912-985。慈恵大師(じえだいし)、元三大師。第十八代天台座主の良源。延暦寺の堂塔の再建に尽くして、中興の祖と言われる。近江国浅井郡出身。
とある。(「宇治拾遺物語」現代語訳ブログ)
あのおみくじの元祖「元三大師」の話なのですね。虎姫町に大きな看板がある。
では滋賀県の郷土料理は、というと、農水省のサイトでも「うちの郷土料理」では、
「いさざ豆」(ハゼの一種イサザと大豆の佃煮)
「ごりの佃煮」(琵琶湖の小魚ゴリの佃煮)
「いとこ煮」(小豆を里芋またはかぼちゃで煮た料理)
「ふなずし」(フナのなれずし)
「ぜいたく煮」(塩抜きしたたくあんの煮物)
などがあげられている。他にも「近江牛の味噌漬」「鯖そうめん」。
湖魚の郷土料理は水深が深い湖北発のものが多い。
家庭でもつくられるだろうが、長浜ではスーパー「フタバヤ」が人気だ。
全県的には「平和堂」ということになるが、長浜では「フタバヤ」族が強い。(彦根もそうかもしれないが)
湖北にはつるや「サラダパン」やびわこ食堂「鳥野菜味噌」もあるが、これは一つの会社だから、対象にはならない。
故郷の兵庫県は寄せ集めの県(摂津の一部、淡路、播磨、但馬、丹波の一部)ということもあって、郷土料理と農水省のサイトに挙げられていても、ピンとこない。
我が家の食生活からすると、「かつめし」「そうめん(揖保乃糸)」「焼き穴子」「にくてん(すじ肉・こんにゃく・じゃがいも等の入ったお好み焼き)」くらいが故郷の味といってよい。もちろん「神戸牛のすき焼き」「粕汁」もよく食べていたけれど。
「かつめし」は職場で出前をとったように思う。いろは食堂だったかEdenだったか、記憶は怪しい。子どもの頃に祖母に連れて行ってもらったのはいろは食堂だったように思うが、記憶の底にある「洋風」の設えはいろはだったのだろうか。今もある「丸万」のうどんが両親の好みで、「かつめし」を一緒に外食した記憶はない。(父は母の手料理が一番で、母は確かに料理上手だった。)