「部落問題関連資料の制限」その4 残日録240129
「部落問題関連資料の制限」その4 残日録240129
「その4」になってようやく「部落問題関連資料の制限」についてたどりついた。
「その3」までは若い人のなかには、知らない人も多いだろうと思い、「被差別部落」の「地名」の扱いが「差別」として糾弾の対象となったりしたことや、解放運動のなかでの『「同和はこわい」考』の出版とこれへの批判などを紹介した。
これらは20世紀末までの部落問題についての情報であって、それ以降の追跡はできていない。
秋定嘉和「「資料」を読んで考えていること」(初出「解放教育」1982.07 『近代と被差別部落』部落解放研究所 1993 p331)から
例えば資料のもつ真偽性についても、差別意識が前提となって作成された場合、その誇張や一面的記述は一般資料に比してはなはだしい。このような記述は「解放令」以降から全国水平社成立にともなって直接糾弾がおこなわれる時期までの文献資料に多く、水平社運動の進展のもとで激減する。その内容は、生活環境の劣悪さや社会的貧窮の事実に対する記述の姿勢や論調に、差別の雨には一般社会から奇異とみられる事象を求め、根拠なき論断が多くみられる。
(以下略)
「部落問題関連資料の制限」は「地名」だけではない。と書いておく。
「図書館の自由に関する宣言」は1979年に「人権・プライバシー条項」などが加えられ、改定された。「知る権利とプライバシーの侵害」や「差別表現」についての取り扱いなど、個別の事象については日本図書館協会の図書館の自由委員会」で検討が重ねられてきており、『ピノキオの冒険』の取り扱いについて名古屋市立図書館の「検討の3原則」が生まれたりしている。
図書館の「資料提供の自由」や「プライバシーを守る」ことについては、この宣言とその後の図書館成長により社会的な認知を得ることになった。しかし、元少年A『絶歌』への対応は(日本図書館協会は「取り扱いの制限を行うべきではない」としたが)図書館によって判断が違ったりしている。
冒頭でふれた村岡の論考では「実際には、提供制限適用の事例は時を追って増えるばかりですし、いったん提供制限が適用されると「時期を経て再検討」される事例を聴くことはあまりありません。「自由宣言」が提示する理念と目の前の現実とは大きく乖離していると思える」としている。
被差別の「地名」についてみれば、復刻やネットで一般の人の知る機会が増えていることと言えるだろう。
和歌山県立図書館の「県立図書館利用制限資料取扱要綱」(2019年制定)では71冊が申請書を出さなくては閲覧できない状態に置かれていた。(「人権と部落」(部落問題研究所)の「特集
部落問題と表現の自由―閲覧制限をめぐって―」2022.09、に詳しい。)
これに対して、著作者(藤本清二郎氏)自身が疑問を呈し質問をしたところ、
「国及び和歌山県が「現在もなお部落差別が存在する」と認識し、差別の解決に取り組んでいることに鑑み、県立図書館も蔵書の中に記された被差別部落の地名等が悪用されることを防ぐため、平成31年3月31日に「県立図書館利用制限資料取扱要綱」を定めているところです。
当要項による蔵書の利用制限は、利用希望者の申請に基づいて館長決済により、図書の閲覧・複写・貸出を許可するもので、利用を禁じておらず、著者の権利侵害が生じるものとは考えていません。」
と回答があった。
藤本氏は、
和歌山県立の図書館の「利用制限」は学問の自由や表現の自由を侵害する行為であるとともに、図書館利用者の「自由に読書する権利」(「知る権利」の不可欠の前提)を侵害する行為である。国民の知る権利を保障する公共の機関である図書館は、とりわけ慎重な態度で学問の自由や表現の自由を守るべきである。和歌山県立図書館の措置には、「研究」を例外とし、研究者と国民を分断する陥穽の論理が含まれ、戦前の検閲・思想統制に通じかねない危険性がある。「取扱要項」には例外規定(除外規定)があるが、これは「研究」目的以外の利用を禁止することと裏腹の関係にあり、例外規定はかえって権利保障が阻害されていることを証明するものとなっている。
今回の和歌山県立図書館の「取扱要項」は、従来の日本図書館協会および全国の図書館が積み上げてきた制限方式に関し、個別判断方式(全体として利用の自由を保障し、個々の図書について問題となった場合、その問題点と判断の根拠を具体的に示し、極力限定して制限する)を離脱し、全体一律判断方式(図書群全体に「人権侵害のおそれ」など抽象的規定に基づく網=今回は「被差別地名」などの有無を一律基準とするような網をかける。自生対象からの除外は個別に行う)を採用したものである。このような全体一律判断方式の採用は、図書館自身の積み上げた諸原則を自己否定するものであって、図書館の運営原則の大転換が生じ、戦後の図書館の存在意義に入内な機器をもたらすおそれがある。和歌山県立図書館方式が先例となり、全国図書館が大転換して良いのかが問われている。
としている。(p11~12)
藤本氏への図問研の回答を読んだ時、なんとも時代錯誤の対応を和歌山県立はしたものだ、と受けとめていた。
ところが図書館雑誌2023.01のコラム「図書館の自由」の「部落差別解消と資料提供の自由」(伊沢ユキエ)を読むと、時代錯誤というわけでもないようだ。
熊本県部落差別の解消の推進に関する条例(2020)には
第7条 県民及び事業者は、この条例の精神を尊重し、自ら啓発に努めるとともに、県が 実施する施策に協力する責務を有する。
2 県民及び事業者は、同和地区(歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域をいう。以下同じ。)の所在地を明らかにした図書、地図その他資料を提供する行為、特定の場所又は地域が同和地区であるか否かを教示し、又は流布する行為、特定の個人の結婚及び就職に際して当該特定の個人又はその親族の現在又は過去の居住地が同和地区に所在するか否かについて調査を依頼する行為その他同和地区に居住していること又は居住していたことを理由としてなされる結婚及び就職に際しての差別事象(以下「結婚及び就職に際しての部落差別事象」という。)の発生につながるおそれのある行為をしてはならない。
とあることを知った(埼玉県でも似たのがある)。条例の根拠を「部落差別の解消の推進に関する法律」においている。
「「同和地区の所在地情報」を提供する行為が「結婚及び就職に際しての部落差別事象」の発生につながるおそれがある」としているので「つながった」という関係ではないのだ。
「疑わしきは罰する」という文脈である。
図書館資料にある「地名」は「要注意」に違いない。だからといって全体一律判断方式の採用が防衛策というわけにはならないだろう。ここのところが時代錯誤である。
もう20年ほど前のこと、カウンターにいたところ顔見知りの利用者が、親切心でというニュアンスで「住宅地図」では同和地区の家がわかるので差別図書になると言ってきたことがあった。とっさに「電話帳はどうなるのですか」と聞き返したことがある。
今、思うと、同和地区がどこだか知っている場合もあるが、それは職業上で得たごく限られた地域の情報でしかなかったのであって、県域内でも全てではなく一部を知っているだけであったのだが。
藤本氏は疑問を出しておられる。
ところで、(歴史地名に繋がるとする)現代の「被差別部落地名」の特定は何を基準にしたのか。図書館は判断基準とする非公開の「地名」一覧を保持しているのであろうか。現在の「被差別部落」と特定を前提にして行政行為を行うことができるのかも疑問である。
和歌山県立図書館が「部落地名総鑑」のようなものを所蔵しているとは思えないし、ようなものがあったとしても、それが被差別部落を網羅しているとは考えられない。
「地名」については「同和地区の識別情報は人権侵害か」(丹羽徹)等として「特集 今日の部落問題をめぐる争点」2023.03 で取り上げている。
「同和地区の識別情報は人権侵害か」は副題に「―東京地裁判決から考える―」とあるので、「「全国部落調査」復刻版裁判」の地裁判決に触れながらの論考である。
個人の私的事項のうち、他人に知られたくない情報に触れられないことはプライバシーの一部をなす。これは平穏な私的生活を不当に介入されないという意味で、憲法13条が保障する人格権として保護されるべきものである。
たとえば、その出自を公開していないAさんについて、「Aさんは旧同和地区の出身者である」と暴露することはプライバシーの侵害となりうる。ここで重要なことは「公開していない」ということである。
他方、この暴露は、旧同和地区出身者を差別的に扱うことを目的として行われた場合には、社会の中での評価を低下させるという意味では名誉毀損という犯罪もしくは不法行為として評価される場合もありうる。
それでは、個人の識別情報ではなく同和地区の識別情報は人権侵害となりうるのか、なりうるとしてどのような人権が侵害されることになるのかについては、必ずしも明らかではない。
また、それ自体は人権侵害とはならないとしても、他の情報と連結させることで結果として個人のプライバシーや名誉と結びつくことがあるが、その場合に同和地区の識別情報の公開が独立して何らかの人権侵害となりうるのか。(p6~7)
について判決の概要を紹介し、それについて「七 本判決後の動き」として問題点を指摘している。
事実認定において、行政文書が多く引用され、とりわけ法務省人権擁護局調査救済課長「依命通知」(2018年12月27日)は大きな影響を与えている。判決の論理から導き出される結論は比較液評価できる部分はあるが、これまでの同和問題解決に向けての取り組みを正当に評価することなく行われた事実認定には問題なしとしない(なお「依命通知」については藤本論文を参照されたい)。
この判決後に、公益社団法人商事法務研究会「インターネット上の誹謗中傷をめぐる法的問題に関する有識者検討会―取りまとめ」が公表されている(2022年5月)。そのなかの「同和地区に関する識別情報の摘示」と題される部分で、本判決が引用されているが、「インターネット上の特定の地域を同和地区であるとする情報は、学術、研究等の正当な目的に基づくものであり、その目的に照らして必要な範囲で公開するものであっても、その公開の態様や文脈等から被害者が具体的な被害を受ける可能性が相当に低いと言える場合でない限り、当該情報を公開されない法的利益がこれを公表する理由に優越し、削除することができると考えられる。」との記述がある。
「被害を受ける可能性が相当に低いと言える場合でない限り」と極めて広範囲に削除できるとしており、明らかに東京地裁判決の内容を超えている。このような理解は、学術、研究を萎縮させかねない。悪意を持って公表する場合とは明確に区別するべきである。(p13)
「可能性が相当に低いといえる場合」の「相当に低い」は裁判所の判断に拠ることになるが、「悪意」や「悪意相当」または「差別解消を阻む」と判断する「原告」がいるとなると、「学術・研究を萎縮させ」ることに繋がる危険性はあるだろう。
日本共産党系の「正常化連→全国人権連」の立場は、「部落問題解決の4つの指標である、格差是正、偏見の克服、自立、自由な社会的交流」は「基本的に達成された」という立場を採り、部落解放同盟(解同)を「部落解放運動の伝統を踏みにじり、差別をネタに利権をねらう暴力・無法・利権集団」と規定している。そのような立場から、部落問題については「『解同問題』に終止符を打たなければ完全な解決は実現できない」と主張している。(ウィキ)
部落差別は解消過程にあるという「国民融合論」からの「学術・研究」が「差別解消を阻む」ことになるという事態も可能性としてはありうる。
元図書館員である村岡和彦氏は「部落差別事象と図書館をめぐるあれこれ―「西と東」「同対」その他」(「みんなの図書館」2023.10)で「地域資料としての運用の複雑化」として、取り上げた和歌山県立の場合や高知県立の事例、古地図のデジタルアーカイブなどについて紹介し、「おわりに」として次のように書いています。
上の事例紹介は、単純に「隠してはいけない」と言いたいわけではありません。上にしょうかいしたような錯綜し重層化したマスキング状態を、「東」の人にまず確認して頂きたいと思います。こうしたところでの認識の落差があると、会話そのものが成立しないというストレスがずっとありました。また自治体内の「同対」という存在にも注意を払っておく必要があります。現在では「人権~」という名称に変わってきていますが、元は「同和対策室」の略称です。人権団体が行政闘争として様々な要求を行う際の窓口が同対です。そうした経過から対人権団体交渉の局面では、庁内で強い権限を持っています。『図問研愛知支部40年史』には1979年の『名古屋市史』問題対応時の経過として、以下のような記述があります。
「しかし、行政の力関係から行っても最も弱い図書館の意見は4局説明会の中で本流とはなり得ない。あざ笑いの中、全面削除の決定に加え図書館が当事者と会うなどまかりならぬの空気が支配した。」(同書p28)
今後も引き続き、東西の意識の落差を埋める事例紹介をしていければと思います。図問研MLなどでリアクションをただければありがたく思います。(p27)
「東」の人の部落差別に関わる「資料制限」やその前提となる「部落差別についての知識」について、「西」の人との間に「認識の落差」があるので、「会話そのものが成立しないストレス」がある、というと、〈東の人は部落差別問題を知らない〉というくくりになってしまうので、読んだ後味が悪い。
文章全体としても論理的でないので、
部落差別事象と図書館の自由宣言――「人権・プライバシー条項」をめぐって
本誌2023年10月号の村岡和彦氏の「部落差別事象と図書館をめぐるあれこれ――「西と東」「同対」その他」について読後の感想めいたものを投稿する。
「和歌山県立図書館での部落差別関連資料の利用制限に対する問い合わせへの回答」を、「ここでは詳しく述べる余裕はありませんが」と書きつつも、村岡氏は「回答」が「その事象の分析をしないまま」「とても表面的なところで◯✕式の二元論」であると否定的な評価をされている。
「回答」は「自由宣言」の文言を繰り返しているように思えた、という評価をしつつ「「自由宣言」が提示する理念と眼の前の現実とは大きく乖離していると思えるのですが、この状況どうすれば良いのか、正直言って私にはわかりません」としている。
「どうすれば良いのか」わからないのであれば、否定的な評価をした「回答」のもつ限界と、村岡氏自身のこれについての問題意識とつなぐ「道すじ」について書きすすめばよいのだと思うが、そうなっているとは読み取れない。
「ひとつ確かなこと」として図書館員の世代交代の過程で「理念と現実の落差の問題は「自由宣言」を策定した先達の責任ではなく、その後の世代の責というべきでしょう」と自分を含む世代の「責」の問題として受け止められている。
「世代の責」として捉えるなら、「みなさんの感想を伺い、解像度の高い検討ができればと思います」ということにはならないだろう。「みなさん」の以前に「世代の責」について書き込まれると、論理展開としてわかりやすくなるのだろう、と思った。
村岡氏が引用している、渡辺俊雄「地名は大胆に、人名は慎重に」(「大阪の部落通信」15号.1998.9)の「地名・人名の扱いについては、すべての場合に通用する一般的な法則といったものがあるわけではない。編纂される史料集の性格、目的や編纂主体、地域の部落解放運動の状況など、それぞれの条件によって扱いもまた違ってくる。」という見解をどう受け止めるのか、についてだけでも論議のあるところだろうと思われる。今日的にはネット上の被差別部落に関する情報(例えば鳥取ループ・示現社)までを論議の対象にすることになるだろう。
また、部落問題に対する日本の東と西における社会認識の違い、「同和対策室」にも触れられているが、わかる人にはわかる、といった範囲内に収まっている。
現職の図書館員たちは「わからない」のだから、「どうしてわからないのか」について現場を離れた「世代の責」に問うことをとおして「部落差別問題」と「図書館の自由」とを繋いで考えるきっかけになるのではないだろうか。論議を広げていただきたい。
図問研の回答が「その事象の分析をしないまま」「とても表面的なところで◯✕式の二元論」に終わっていると評価する人もいるだろうが、説明不足ではあるが、許容の範囲内とする立場もあろうと思う。
渡辺氏の文中に「地域の部落解放運動の状況」とあるが、これについてだけでも図書館員としての社会認識が問われるところである。政治的状況に巻き込まれることなく、論議をとおして図書館員としての「立脚点」を確かなものとされたい。
(私は「図書館の自由」問題にほとんど関わらなかったので、「したい」と言えるほどのことはない。今年度から図書館業界から退出したが、部落問題に関しては、数年前に長浜市内のまちづくりセンターで、仮説実験授業の「差別と迷信」の講座をしたり、23年度は長浜市内で、映画「私のはなし
部落のはなし」の連続上映会の実行委員長を務めたりしてはいる。)
と投稿した。日本の「東と西」は歴史の分野等では魅力的であって、ストレスを生むことはなかろうに、と思う。
「図書館の自由」問題にほとんど関わらなかった。「「当代駆け込み寺考」――公共図書館の機能」(菅井光男)という文が「みんなの図書館」1983.10に掲載されたのだが、これについて書いている(「み」1985.06)だけである。
私が「図書館の自由」につい書くときは、滝村隆一の学説の側から書くことになるので、それだけでひと仕事となってしまうのと、そういう立場を旗幟鮮明にして摩擦を生むまでのことはしなかった、というところだ。
図書館員に「部落問題」を少しは理解していただくために、ながながと引用したが、あれこれの知識・情報をもとに、図書館という現場にあって、地域の状況を考慮しながら対話を重ねていく。そのことが、地域の、また利用者の信頼を得ることに繋がると思う。
加古川と長浜とでは「部落問題」の課題が違うだろう。「差別解消」「国民融和」という立場から見ても地域格差はあるだろう。解同の支持基盤の強い地域もあれば、共産党系の全国人権連や自民党系の全日本同和会の強い地域もある。自治体の取り組みの経過によっても違う。
図書館員はその地域の現状を把握し、なにに取り組むべきなのかを考えなければならない、のではあるが、目の前の業務をこなすことに精一杯で、取り組むことはできないのかもしれないが、考えを深め、なにが出来ていないのかを自覚することはできるだろう。
余談ながら
ネット上においてプライバシーが侵害されるなどというのは、メディアの表現する側(タレントや評論家、政治家)が侵害される、無名の市井の一個人には無縁なことと思っている人とがいるかも知れない。しかしSNSを活用しない人でも、当人が知らないけれど、他人からプライバシーを暴露されているという場合もある。普通は市井の一個人の名を検索しようとはしないのだが、検索したらプライバシーがさらされていた、嘘の情報だった、ということもある。(さらされた記事を消去する、さらした相手を確定し、抗議する、などは簡単ではない)
身近な「親密圏」での問題なのではない。そういう人もSNSで登場させられる時代なのである。
被差別部落に生まれたり、「部落民」と見なされたりすることを、他人に知られたくない、と思うこと自体が「差別」と戦っていない人である、として、「部落民宣言」をすることで「差別と戦う力」「生きる力」が育つ、といいう考えもあった。となれば「部落問題」に背を向けている「部落民」を「差別を容認している者」なのだ。という論理立てで「糾弾」する、というようなことに結びつくのだろうか。
こう書き進めると、「部落解放運動」の歴史を対象にすることになってしまうので、ここまで。