PR誌、読む力の衰えのことなど 残日録230605
入院したり通院したり、腰痛で歩行困難になったりしている。雑事に時間を取られる。そう珍しくはない老いの日常なのだろうと思うのだが、活字の世界から少し距離のある日々というのは初めてのような気がする。仕事で忙しくとも、読む時間はあり、読むことに集中する力が漲っていた時間があった。それはつい先日のことである。先日といっても1年余の母が入院する前のような気がしている。
読む気力が衰えた。このことに気づいたのは出版社のPR誌を読む集中力が衰えていることからであった。4誌を取り上げる。
新潮社の「波」6月号;筒井康隆の巻頭特別エッセイと阿川佐和子「やっぱり残るは食欲」をまず読む。連載では銀しゃり・橋本直「細かいところが気になりすぎて」、川本三郎「荷風の昭和」は読むが、梨木香歩、近藤ようこなどの連載は読まないことが多い。対談は若い頃から欠かさず読んでいる。これは知らない小説家を知るのに便利だ。6月号は「伝・永井荷風/四畳半襖の下張」がルビつき新字新仮名で掲載されている。
銀シャリ・橋本のエッセイはまだ発達途上で、それを楽しみにしている。毎月の連載はきついだろうが、拝啓編集者様、どうぞ大器に成長させて頂ますようお願い致します、だ。
私は「食」のエッセイが好きなので、阿川佐和子は愛読だ。父の阿川弘之『食味風々録』もよかった。
岩波書店の「図書」6月号;佐々木孝浩「日本書物史ノート」が6月号で12回の連載を終えた。これを読まなかった。というか、読めなかった。衰えを感じる。
池田嘉郎「破局的表現考——歴史学と映画、それに山際永三」がよかった。
山際の作品はどれも、破局的状況と絡み合う主体の軌跡に光を当てる。この軌跡は、予算をはじめ制約の多い制作現場における、あるいはまた映画運動の高揚と衰退における、山際自身の経験とも重なった。このことは、過去を研究対象とする歴史学でも、歴史家自身の現在との関わりが、すでに叙述を成り立たせる要素の一部であるという事実に、私の目をあらためて向かわせる。自身が現実に存在する破局的状況の一部なのかもしれないと自覚するとき、歴史家は過去の破局といかに向き合うことになるのか。合わせ鏡のようなこの問が、山際の仕事の中から私の前に立ち上がってくるのである。(p13)
歴史家も、現代社会の一員としての「心性」から免れることはないという、当たり前のことのようで当たり前でないところに視点をおいている。
三宝政美「魯迅の『困惑』——直訳と意訳」もおもしろかった。魯迅自筆の手紙が七三年ぶりに発見されたことによって、増田渉以来の直訳「不安」が竹内好意訳「困惑」に変わり、最新の立間祥介意訳では「心苦しさ」となっているそうだ。
「不安」にも「困惑」にもなかった「申し訳ない」に近い自責の念が新たに投入されたことに注目したい。この視点は作品「藤野先生」解釈に新しい角度を与えるやに思える。(p33)
国語の読解にも影響を与えるだろう。『超入門!現代文学理論講座』(蓼沼正美著、亀井秀雄監修)を思い出した。
別の号であるが、「鬼滅の刃」と柳田民俗学を論じた論考も興味深かった。松居竜五 『鬼滅の刃』と柳田国男[『図書』2023年4月号]
筑摩書房「ちくま」6月号;連載では、金井美恵子「重箱のすみから」、斎藤美奈子「世の中ラボ」、刈谷剛彦「思考の習性——ニッポンの大学教育を読みとく」を読む。鹿島茂「吉本隆明2019」は本になったら読もうと思っていたが、あまり熱心な吉本読者と言えない私には縁のない本になりそうだ。
「世の中ラボ」は「『ジャニーズ問題』が暴き出したもの」である。毎回、3冊の本を紹介しながら一つのテーマを論じている。3冊を選ぶのが、斎藤の腕の見せどころであり、それらをどう料理するのかも見どころである。今回は少年愛をテーマに、稲垣足穂『少年愛の美学——A感覚とV感覚』、丹尾安典『男色の景色』、高原英理編『少年愛文学選』が取り上げられている。
久世番子『少年愛の世界』という「愛」という少年が主人公の物語を思い出した。ちょっと脱線。
斎藤はジャニー喜多川の「セクハラ」をとば口に「少年愛」を取り上げた。
未成年の少年に対する性的行為は古代から「少年愛」などの名目で容認され、美化されてきたのでなかったか、とふと思い出したのだ。
少年への性的虐待は、男性しかいない空間で起きやすい。中世近世の武家社会、伝統宗教、そして近代の軍隊、男子校の寄宿舎、スポーツチーム……。そういうことは漠然と察知していたものの、そこに犯罪性が入り込む余地があること、少女だけでなく少年も被害者になり得ることを、私たちはきちんと認識してこなかったのではあるまいか。はたしてそこに「闇」はなかったのだろうか。(p16)
と指摘している。
高原の『少年愛文学選』の編者解説の引用も興味深い。丹尾『男色の景色』は、昔日、三月書房で買い求めたが、読んだ記憶はない。手に取ってみると、本も開いてもいただいておりません、といっている。
朝日新聞社「1冊の本」3月号;連載は、佐藤優「混沌とした時代のはじまり」を読んでいる。この号からの連載、武田砂鉄「『いきり』の構造」は読み続けるだろうか。連載は他に、鴻上尚史「鴻上尚史のほがらか人生相談」、李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」、山本淳子「道長ものがたり」、永田和宏「人生後半に読みたい秀歌」、太田光「芸人人語」がある。どれも、読まなかったり、読まなかったり、たまに読んだり、である。
「道長ものがたり」は「第九回 藤原道長と紫式部」である。これは読んだ。毎回、読んでいるわけではないが、気になる連載である。「読む集中力が衰えている」とはじめに書いたが、雑事に気を取られていると「集中」できない連載の一つである。
鴻上、太田の両氏のは、テーマによって読むことが多い。
連載を読むに向いているものと、連載をまとめた本を読むのに向いているものとが私にはあるようだ。
巻頭随筆は、郷原信郎「日本社会の本当の危機とは」である。「法令遵守と多数決による単純化」による日本の危機を警鐘している自書の紹介文でもある。久々に郷原氏のHPを見ると、ほとんど同じ文面が掲載されている。こちらのほうが字数の関係だろう、HPの方が少しわかりやすくなっている。社会的な事件について郷原氏ならどう考えているだろう、とHPを覗くことがある。「“日露戦争由来「必勝しゃもじ」ウクライナ持参”に見る岸田首相の戦争への「無神経」」を推しておく。