『小説岸信介常在戦場』池田太郎(社会評論社.2014)残日録211225
占領下のGHQでの話。
「……次の点でも我々(=ウイロビー+ジョージ+サカナリ+河辺虎四郎+有末精三+服部卓四郎←明定)の意見は完全一致した。現在GHQ民政局を中心にして行われている日本の過度の民主化政策は間違っている。極東軍事法廷が日本の旧体制を一掃した場合、日本の復興は完全に十年遅れる。そうなれば、いまソヴィエトの援助を受けて中国大陸で大攻勢に出ている中国共産党の影響を日本はモロに受ける。米映画日本の占領を解いたトタン、日本は共産化されるだろう。戦争犯罪を観念的に規定し優秀な人材を根こそぎ起訴するならば、日本は弱体化し、二度と立ち上がれなくなる」(P135~6)
起訴から外す候補に「岸信介」が入った。
岸への訪問を縫うように、ウイロビーの移行を受けた河辺虎四郎がジョージたちのセクションに一つの提案を持ち込んできた。
石原、登場、岸、鮎川以前から満州入りしていて、満州の石原・岸・鮎川を知る人物はGHQ第一生命ビルと目と鼻の先、日比谷公園内に焼け残った日比谷図書館に努めていた。彼にあって話を聴こう、というのだ。
ジョージとサカナリは河辺の案内で、図書館三階の日本図書館協会理事長室に、旧満州鉄道奉天図書館長を務めた衛藤利夫(六三)歳を訪ねた。
河辺によれば、衛藤は二十年間満州で満鉄図書館のライブラリーマンとして過ごし、満蒙に関する書籍の一大収集家として知られていた。スコットランドから満蒙に入った伝道師ヂュガルド・クリスティの著作「奉天生活三十年」を、生きた日本語に翻訳した人でもあり、まさに満州の字引的存在だという。
河辺は、ジョージとサカナリがGHQの情報部員であることも、隠さず衛藤に紹介した。
(略)
「天皇を筆頭に、東条さんや岸さん、私も含めて日本人全体がこの戦争に責任があるのだと思っています。」
ジョージは驚いた。こうハッキリといった日本人には初めてあったような気がする。サカナリも頷いていた。 (P155~157)
衛藤は政治と距離を持つ図書館人ではなかった。杉原千畝とも関わりを持ち、政財界との交流も深い。戦前の岸との接点を引用しておく。
開戦から2年を経た支那戦線は、表向きは日本の連勝だが、奥地へ奥地へと誘い込まれ、戦線が異常に長く伸びるだけで完全に行き詰まっていた。
その状況を見て、1939年(昭和14年)8月末、鮎川(義介;内地で評判の大衆投資会社・日産総裁←明定)は満州重工業新京ビルの奥まった一室で「ユダヤ問題研究会」を開いた。岸信介、安田大佐、片倉衷少佐、衛藤利夫館長、ユダヤ人協会のヤボ、鮎川の秘書美保勘太郎が参加した。
(略)
「関東軍と国務院は満州で強力な統制経済を推進すると言ったが、期待した内地からの資本の投下は行われなかった。そこでわし(鮎川←明定)が満州へ来た。一方、アメリカでは日本軍の支那侵攻に避難の声が高まっておる。アメリカも支那を市場として考えておるからだ。したがってこの状況を一撃に打開する国際的で合法的な一手こそ、米軍のユダヤ資本の満州への投下である! アメリカ人もそう考えておるのだ」
この時、それまで下を向いていた衛藤が顔を上げた。
「総裁。一つ尋ねしたいことがあります」
「衛藤館長。何なりどうぞ」
鮎川が手を差し伸べた。
「その資本投下への担保は何でしょう」
「担保? そりゃあ衛藤さん…」
鮎川が不意を衝かれて言いよどんだ。
「米国のユダヤ資本投下に対する担保です」
「何を言う!」
安田大佐が思わずステッキを握った。
「そりゃあ何ですな。担保はこの満州だ。それ以外にありません」
岸がサラリと言ってのけた。
斎藤は岸に向き直った。
「岸さん。その満州は誰のものです? 少なくとも日本のモノじゃぁない。石原中佐たちが一夜にして銃弾の力で奪ったモノじゃないですか! わたしの三男が最後まで身から離さなかった聖書の、栞の挟まれたページに書かれておりました。『剣を取るものはみな、剣によって滅ぶ』。剣で奪い、それを担保にして金を借りれば、わたしたち日本人は火点け強盗、人殺しの類になる」
ハラハラしてヤポが叫んだ。
「衛藤さんの息子さんは先週、病院で亡くなられたんです!」
「息子さんが?」
鮎川も驚く。
「わたしと一緒にユダヤ教会に通い、ユダヤ人大会を応援してくださった方でした!」
片倉がニヤリとした。
「関東軍は満州を支那から切り離し。傀儡政権を作った。つまり満州は我が領土じゃないですか! これは領土を担保とする正々堂々の商取引ですよ」
しかし衛藤は引き下がらなかった。
「満州は、満蒙の人の土地、財産、権益、資源です。世界中が知っている! だから、ユダヤ資本の導入も、日米による詐欺、掠奪、強盗の類ですよ!」
安だが唸った。
「詐欺、掠奪、強盗だとぉ?」
鮎川が手を上げて安江を制した。
「衛藤館長。仰る事はわかる。われわれは当然満人からするとモラルを問われる。それには答えなければならない」
「ならばお聞きします。鮎川さんの目的は何ですか? 五族協和、王道楽土は嘘っぱちだった。それに代わる目的は何ですか」
その時、それまで黙っていた岸が割って入った。
「衛藤さん、あなたの目的は何です?」
衛藤が岸に向き直る。
「逆にお聴きします! 岸さん、あなたは満州町の総務副長官だ。あなたは満州の人々に何をするためにここへきたのか? 何をしているのか? あなたは満人のために何をしたいと考えるのか? 満人のクーリーのために何をするのか?」
「私は満人のためでではない、日本人のために満州に来たんですよ」
「日本人のため?」
「そうです。だから満州へ来た」
「日本人のためなら、日本にもクーリーはいる。その人たちのためなら、満人のクーリーのためもあるんじゃないですか?」
岸が腹を抱えて笑った。
「では聞く。衛藤くん、君の目的は何だ。満州をどうすればいい?」
「満州自由経済圏。十年後までに満州に産業を整備し、関東軍は引き揚げる。永世中立国満州国を世界に宣言する! クリスティの理想には遠く及ばない。でも、その第一歩がユダヤ資本の導入ならば私は賛成です!」
安田が愛用のステッキを握りしめた。
「ええい。四の五の言いやがる! てめえはヤソと一緒か! 外へ出ろ、根性を叩きなおしてやるッ」
ヤポが安田のステッキに縋った。片倉も安田と衛藤の間に割って入った。衛藤はやめなかった。
「鮎川さん、わたしが貴方についてきたのは、マネーでサーベル組を黙らせると仰ったからです。ところが満州重工業は今やサーベルに使われている。これではわたしはついていけない」
岸は何も言わず微笑していた。
鮎川が厳しい顔で乗り出した。
「わたしには議論をする時間はない。なすべきはユダヤ資本の一日も早い満州への導入、日米戦争の回避だ」
岸が続く。
「ユダヤ資本の投下、アメリカによる中国戦線の仲裁、ですな」
鮎川が大きく肯いた。
「こうなったらわしが動く。本年中にヨーロッパへ旅立つ。機を見てアメリカへ渡り、ローズベルトに会う」
「ローズベルト!」
全員に衝撃が走った。
「ローズベルトに直接、資本投下とシナの和平工作を頼む。衛藤くん、どうだろう?」
衛藤は無言だった。
(P207~214)
長い引用だが、中国における衛藤については前々から少し関心を持っていた。内山完造の本のなかに魯迅などとの対談に出ていることを20歳代前半に知っていたから、ただの満鉄奉天図書館長というわけでもないなあ、とその立ち位置に興味があった。
この小説に登場する衛藤に出会えて、岸のような国家社会主義的な統制経済を唱える「革新官僚」や満鉄調査部などへの関心が少し蘇った。