與那覇潤「赤い新自由主義」論
與那覇の『知性は死なない―平成の鬱をこえて』文藝春秋,2018 から
昭和60年安保を念頭に「集団的自衛権に反対して政権をとめる、たおす」と息まいた人々は、知識人もふくめて完敗しました。必要性を説く相手にたいして、国民多数の支持をえられなかったからです。
同一労働同一賃金では、論争の構図が反転します。政権側がその必要性を打ちあげても、安倍首相に代表される保守主義を基盤とするかぎり、それは「実現できない」のです。
あの時やるといったのに、できていないではないか。それはあなたがたの思想に、根本的な岩塊があるからではないか。「なんでも反対」ではなく、「実現するための交代」をもとめていく力が、いま野党には必要とされていると思います。
——―そう、まさに平成の最初にも、そのように説かれていたように。
そのためには「生き方は個人の自由であるべきだ」という価値観を、国民の共通認識にすることから、はじめなくてはいけません。保守主義が標榜する特定の家族観やライフコースには、しばられない社会像を提示して、はじめてリベラルの意義が生まれます。
「正社員である」「入籍している」「子どもがいる」。それぞれにすばらしいことです。
しかしそれは、ほかの生き方を否定する利湯にはならないし、だからそういう特定の人生設計だけを、国家や資本が支援するような諸制度は、改正が必要だ。
同一賃金同一労働とは、「こっちにも金よこせ」という分配の問題である前に、自由な生きかたの問題なのだ。そういう認識に立てるかが、多数派形成の鍵になるのではないでしょうか。
すでにのべたとおり、そうした発想は、終身雇用・年功賃金といった「日本型雇用慣行」を解体させてゆくので、平成に展開した以上の「新自由主義」になります。しかし、伝統的な家族像に依拠する生きかたの強要をも、拒否する点で、レーガン=サッチャー氏j\期の英米のそれとも異なります。
だれもが自由に生きかたを選べる社会を、目指すうえで提携すべきは、弱肉強食をといてきたこれまでの新自由主義ではないのです。「能力があるなら」自由になれると主張して、ごく一部の「有能な個人」をシンボルに立てて多数派をうしなった、平成の書物群がとった戦略の失敗をくりかえしてはいけません。
むしろこれから必要なのは、日本では同一企業の内側のみにとどめられてきたコミュニズム(共存主義)の原理を、その外にひろがる社会へと、時はなっていくことです。
そのために必要とされるのが、たとえばアフォーダンス的な方向での、能力観の刷新であり、社会的に能力を「共有」しつつも、自由や競争をそこなわない制度の検討です。心理学から経済学まで、さまざまな学問の知見がもとめられます。
冷戦下では両極端にあるとされてきた、コミュニズムとネオリベラリズムの統一戦線———いわば「赤い新自由主義」(red neo-liberalism)だけが、清に冷戦がおわったあと、きたるべき時代における保守政治への対抗軸たりうると、私は信じています。(p274~6) 太字は、元は強調の「ヽ」
アフォーダンスについて、日本大百科全書の中島秀之の解説(2019.7.19)では・
知覚研究で知られるアメリカのギブソンJames Jerome Gibson(1904―1979)によって提唱された概念。環境がそこに生活する動物に対してアフォード(提供)する「価値」や「意味」のこと。歴史的にみると、ギブソン以前の考え方は、環境からの刺激を生体がその内部に取り込んでからさまざまな処理をして、意味や価値をみいだすというものであった。たとえば当時の視覚研究においては、網膜は外界の情報を写したものであり、認知システムは網膜情報のみを用いて知覚を行っているという考え方が主流であった。ギブソンの貢献は、そうした考え方からの脱却にある。ギブソンは、アフォーダンスは環境の側にあり、認知主体はそれを探すだけだというのである。たとえば、地面の傾斜の情報はそもそも地面の側にあり、主体が視覚情報から計算するのではないということだ。これと同様の考え方は「環世界」や「オートポイエーシス」にみられる。
ただ、ギブソンの考え方は情報源を環境の側に限定している点が、少し行き過ぎと思われる。実際には「価値」や「意味」は、主体と環境との相互作用によって明らかになると考えるのが正しい。たとえば、森を歩いているときに、木の切り株をみつけたとする。ギブソンに従えば、木の切り株は「座る」という行為を人間にアフォードしていることになるが、実際に「座る」かどうかは、座る側の人間の身長や体重に依存するであろう。
なお、アメリカの認知科学者ノーマンDonald A. Norman(1935― )はデザインの分野で同じ用語を使い始めた。よいデザインとはその使い方をアフォードするものでなければならないという。たとえば、ドアについた縦の取っ手は引くことを、横の取っ手は押すことをアフォードしているという。
とある。
「主体と環境との相互作用」によって生まれる「価値」や「意味」は、過去の経験によって先入観などの固定概念として個々人が獲得するものであって、そこには差異がある。與那覇は「人間は、言語によって組みたてられる論理だけで、うごいているのではありません」とし、言語帝国主義(文明・進歩・科学・平等・自由……といった抽象的な言語によって語られる理念の世界)への身体の反発(反知性主義≒反正統主義)を肯定する立場でなく、アフォーダンスを引き合いに出し、能力観の刷新を求めているのです。「広義の反知性主義のほうが「多くの人間にとってはふつうのありかた」なのだと、発想を変えなくてはいけないと思っています。/ほんらい、主義(-ism)とよばれるべきなのは、「大学、ないしそれに準ずる正統的なサークルに属し、言語によってものを考え・分析し・表現している人々だけが、知性のにない手である」とする価値観、いわば「知性主義」のほうではないかと思います。/そうすることではじめて、世界的なアンチ・インテレクチャリズムの奔流にどうむきあうか、そのために大学にはなにが必要なのかが、みえてくるのだと思っています。(P147~148)
鬱状態から回復する中で書かれた一冊である。身体論が身近にあった私の人生からは遠く離れたところにあるが、與那覇の「言語化」のエネルギーから刺激を受けるところが多い。
20201107