『一度きりの大泉の話』萩尾望都.河出書房新社.2021 残日録211012
「大泉に住んでいた時代のことはほとんど誰にもお話しせず、忘れてというか、封印していました。/しかし今回は、その当時の大泉のことを初めてお話ししようと思います。この執筆が終わりましたら、もう一度この記憶は永久凍土に封じ込めるつもりです。埋めた過去を掘り起こすことが、もう、ありませんように。」と帯にあります。
竹宮惠子が『少年の名はジルベール』小学館.2016 という『風と木の歌』の連載を始めるまで(1976~)の自伝本を出版し、その中に萩尾望都と共同生活をしていた1970から1972年までの大泉での2年間が書かれており、そのせいで対談やドラマ化の話がもちこまれたりして、周りが騒がしくなります。
当時の大泉(竹宮と萩尾、そしてのちに竹宮のブレインとなる浪人生の増山法恵の3人を中心にしたサロン)のこと、ずっと沈黙していた理由や、お別れした経緯など、封印していた記憶を一度は書くしかない、と思うようになりこの一冊が生まれることになります。
竹宮は『少年の名はジルベール』のなかで、
萩尾さんに関していえば、はたから見ても絵を描くのに迷いというものがないように思えたし、それくらい素直に描いている様子だった。
「あえて言えば……」と、萩尾さんが続けた。
「私、人物を横から見たときの肩の感じがうまく描けないんだよ」
肩? 横から見た時の肩? 私そんなこと考えたこともないと思った。
「あなたは上手に描けていると思うの。私のは遠近感がなくて」
「え、そう? 描けてないかな?」と言いながら、あらためて彼女の絵をのぞき込んだりしたが、その時はよくわからなかった。
(略)
でもそれは彼女が「あえて言えば」気になっている部分にすぎない。それを補って余りあるものが彼女にはすでに備わっていたからだ。萩尾さんの漫画をえがく技術には、私だけでなく、大泉を訪れる多くの人々が並々ならぬ関心を持っていた。
話の作り方、演出方法にしても、私自身はすごくオーソドックスなタイプだと思うのだが、彼女の場合は、意外なところから切り込んでいた。その切り込み方自体に興味があった。彼女の作品には先が読める展開が少ない。いきなり何かの事件の最中を見せてしまうという、作家として非常に勇気が必要なことを形にしてしまう。(p132-3)
萩尾の『ポーの一族』シリーズの成功に、竹宮は「大きな才能に置いていかれそうな不安を、これ以上感じていたくなかった。」(p167)「わずか2年なのに、大泉での日々は、5年にも6年にも感じられた。/萩尾さんには、彼女に対するジェラシーと憧れがないまぜになった気持ちを正確に伝えることは、とてもできなかった。それが若さだと今は思うしかない。」(p168)
ということで、アパートの契約更新期をもって「大森サロン」を解散することとなった。大森から数駅離れた広いマンションに引っ越した竹宮であったが、「萩尾さんもここから歩いて5分くらいの場所によい部屋を見つけることができたらしく、これでまた行き来できると安心していた。それを聞いて私の心にはうっすらと影が広がっていったが、その闇を見ないように努めていた。」(p169)
マンションで増山と共同生活をする竹宮のところに萩尾や他のマンガ家が訪ねたりする、半径1キロの円内がサロン化したような状態となった。
そのころ、萩尾さんの名を耳にするたびに、耳そのものがギュっとつかまれるような感覚があった。紙面でそれを目にするたびに、何度もその名が心のなかを行き過ぎるのを止められなくて苦しかった。その日一日中、繰り返し、そのことを思い出してしまう。自分でコントロールできない状態に陥っているという自覚はあるのだが、打ち消すことが難しかった。どうすれば解放されるのか。せめて離れたかった。異なる空間のなかにいれば、少しは救われるかもしれないと思い始めるのに時間はかからなかったと思う。
それから……。どうしようもなくなった私は萩尾さんに、「距離を置きたい」という主旨のことを告げた。それは「大泉サロン」の本当に終わりになることを意味していた。(p178)
萩尾は大泉での共同生活解散後、下井草に半年ほど住んだ後で、埼玉の緑深い田舎に引っ越します。
引っ越し後は竹宮惠子先生と増山法恵さんとは交流を断ってしまいました。その後はほとんどお二人にはお会いしていません。また、竹宮先生の作品も読んでおりません。/私は一切を忘れて考えないようにしてきました。考えると苦しいし、眠れず食べられず目が見えず、体調不調になるからです。忘れていれば呼吸ができました。体を動かし、仕事もできました。前に進めました。(以下引用竹宮本p3)
「これは私の出会った方との交友が失われた、人間関係失敗談です。」(p5)と書かれていますが、そう一言ではまとめきれない内容の一冊となっています。
「竹宮先生と増山さんは「少女漫画革命」を目指していました。」(p268)萩尾と竹宮に出会った増山は、二人の才能をもってすれば当時評価の低かった少女漫画のレベルを上げる少女漫画革命が起こせると思っていたのです。
たぶん、1971年の終わりぐらいから。二人(竹宮と増山—明定)が将来の「少女漫画革命」を掲げてお披露目するのは、竹宮先生でなくてはならない。そういう考えが生まれ、その計画を立てたのではないでしょうか。それは計画を立てるというほど厳密なものではなく、水が流れに沿うように自然に生まれていったのではないかと思います。二人のエネルギーが自然にそういう方向に流れていった。
画期的な「少年愛新作」つまり『風と木の歌』ですが、これをたけみやせんせいが世に出したら、どんなに世間が騒ぐことでしょう。そのことは二人の気持ちを一つにしたことでしょう。竹宮先生は増山さんの作品への希望(こうでなきゃだめ、あそこのシーンはこうして)を聞いて、さらに自分のセンスと力で作品世界を大きく構築していったのではないかと思います。
お互いに作品のパートナーとして、なくてはならない存在になっていったのだと思います。増山さんだけでは漫画が描けないので、竹宮先生が必要でしょうし、竹宮先生は博識な増山さんの指導やアイディアが必要だった。二人で画期的な「少年愛新作」を描いて「少女漫画革命」を達成するのだ。そんな風に思ってらしたのではないだろうか、と思います。
そうなると、うっかりこの世界に引き込んだ私という存在は、気がつくと、邪魔な存在になっていたのではないでしょうか。だって、私にでも誰であっても、先に描かれては困るでしょう。そう気が付いた時、二人は「しまった」と思ったかもしれません。「教えなきゃ良かった」と思ったかもしれません。まさかまさか、『11月のギムナジウム』を描き、『小鳥の巣』を描き、少年愛はわからないと言いつつ、『トーマの心臓』を発表するとは。これは、ふたりにとっては酷いことです。(p268-9)
末尾に萩尾のマネージャーの城章子「萩尾望都が萩尾望都であるために」があり、そのなかで、
「竹宮先生が萩尾遠征に嫉妬して大泉が解散した」ということを最初に言ったのは私ではなく、佐藤史生さんなんです。史生さんと一緒にアシスタントしていた頃、下井草や岸さんちを行き来していた時だったかな? 「ケーコタンがモーサマに嫉妬して大泉を解散させたんだ、ケーコタンに同調してモーサマを苦しめるんじゃない」との注意でした。(p344)
とあります。
竹宮本では「嫉妬」のことを記憶の一つとして吐露しているように読める。それに対して萩尾本は、「封印」してきただけに、覚悟を感じさせる読み物となっています。