如月雑記2 山口瞳『血族』など  残日録240216

 私の父は1922(大正11)年の生まれで、戦前から鉄道の運転手をしていた。現役時代は加古川線の運転手で、動力車労働組合(動労)の活動家だった。組合の活動家としてどれだけのことをしたのかは知らないが、小学校の修学旅行の車中で、明定さんの子どもが乗っているらしいと車掌さんが私を見に来たことがある程度の知名度はあったらしい。いっぱしの活動家にはならないで、私達家族や父方や母方の一族・親戚を相手に生涯を費やしたと言ってよいように思う。(父も祖父も機関車の運転手だった。)
退職後は社会的な活動は全くしなくなり、働くことなく週に3~4度は碁会所や公民館の囲碁や将棋のサークルにかよっていた。後ろの20余年は自身へのご褒美だったのだろうか。
80歳も過ぎた頃に公民館の運営の役員になってほしいと依頼され、公民館に通うことをやめたところをみると、他人との関わりは面倒に思っていたようだ。
 母は村内の数件離れた家から嫁いできた。(1927 昭和2 年生まれ)

 (嫁ぐ、とか、嫁や奥さんという言葉を使うと性差別と捉える人もいるかも知れない。昔日、「O君の奥さんが」と口にしたら、差別発言だと指摘されたことがあった。親しいKさんのところの場合は、Kさんのツレアイやパートナーと言ったりするが、O君のところは昔ながらの家族で、奥さんという役割をはたしておられたのだから「O君の奥さんが」と言ったのだった。)

 母の場合は嫁いできたと言うにふさわしいのだった。ご近所から嫁いだ母は他所から嫁いだ女性のような窮屈な生活ではなく、ずいぶんお気楽な嫁であった。姑が父の少年時代に亡くなっていたことで嫁姑問題はなかった。明定の家の側の親戚との付き合いに苦になるところはあっただろうが、それとても他家に比べて悲惨というわけでもない。
 日本毛織印南工場の事務員を少ししていたらしいが、結婚してからは専業主婦であった。舅の方も長男の私が生まれて1年後に長患いもせずに亡くなったので、そこで苦労をすることもなかった。同級生の記憶では、普段から着物姿の人、という印象を残している。おしゃれな人であった。
 父は私が目立たない服装であることを望み、おしゃれになるのを嫌っていたが、母の着物姿は大好きで、自慢げでもあった。美人という程のことはなかったけれど、容姿に恵まれてはいた。
 父が着物好きであったので、中学・高校時代は帰宅すると私たち兄弟も着物だった。振り返ると、村内にあって変な一家でもあっただろうけれど、なにせ村内で結婚しているのだから、周囲の目を気にするなどということはなかったように思う。

 山口瞳『血族』(文藝春秋社 1979)を読了。「『血族』は、母親がひた隠しにしてきた一族の恥となる秘密を、著者の山口瞳が暴いていく過程が、一つの核になっている小説です。」(と「web 小説丸」にある)

 私は屈託なく時を過ごすということが出来ない。いつでも緊張しているし、絶えず気兼ねをしている。それで疲れてしまうし、すぐに肩が凝ってしまう。(p273)

 続けて「レストランで、客がたてこんでくると、」「行きつけの寿司屋で、若主人のスポーツ・シャツが汚れているのを見ると、」という例をあげる。
 気を使ってしまうのである。

 それで対人関係がうまくゆくかというと、決してそうはならない。先方は誤解するのである。ある人はそれをうるさいと思い、ある人は過剰に愛されていると思い、甘えたり、狎れ狎れしくなってきたりする。そんなことで喧嘩わかれになった知人が何人もいる。(同)

 このあとも例をあげる。(略)

 こういうことも含めて、私の諸性格は、すべて出生のためであり、血のせいだと思っているのではない。私における欠落感は、廃人同様の豊太郎のためだとは思っていない。
 泣き虫で、小心翼々としていて、臆病で、万事につけて退嬰的で、安穏な生活を願っているといったことの全てが、遊郭で生まれ育った母の子のためだと思っているわけではない。少年時代に、あまりにひどい貧乏を経験したためだとも思っていない。冷血動物でありゲジゲジだと言われた、自分ではあまり気のついていなかった性情を、出生と環境のせいにしてしまうつもりもない。
 しかし、それが、私の血と全く無関係であるとはどうしても考えられないのである。私は、あきらかに、要望だけでなく、その性情において、丑太郎や勇太郎に似ているのである。すなわち、引込み思案で依頼心が強く、地位を得たときに威張りだすところがあるのである。私は、丑太郎や勇太郎に似て、芝居っ気の強いところがある。つくづくと、もし、少年時代に苦労するところがなかったら、もっともっと厭味な人間になっていただろうと思う。お前のような人間は引っ込んでいろと自分に向かって言うことがある。
 私の息子は正業についていない。妹の子供、弟の子供も同様である。これも血のせいだと思うようなことはないのだけれど、あるとき、突然、出生のことを思い、慄然とするような思いにとらえられることがあるのである。いまになって、母の最大の教育は、隠していたことにあったと思うことがある。(p274~5)

 私の場合はどうだろう。「血族」や「親族」について、最近まで知らなかったことが多い。両親が過去を語りたがらなかったことについては、自慢するようなものがないのだろうから、と思っていた。
母方の祖母は自身の生まれ育った長谷川の家については昔語りを少しはしていたが、私が幼年のころに亡くなった母方の祖父の稲岡家についてはほとんど話さなかった。
 父方のほうについては、これも全くと言ってよいほど聞いたことがなかった。
 父が亡くなったあとに母が少し話すことがあった。
 明定の曽祖父は株屋だったそうだ。稲岡の曽祖父はタオル製造会社のエライさんだったそうだ。1930年代の大恐慌で、ともに没落したらしい。
 父の母、私の父方の祖母は、美人だったと誰彼となくよく聞かされた。祖母は父が12歳のときに踏切で汽車に轢かれて亡くなったのだが、そのことについて話題になることはなかった。
 母から祖母の死は「自殺」だったと聞いた。
 美人で評判の嫁について、夜勤などある機関士の祖父は疑ったのである。疑われる苦しさ悩みを、近所の嫁(母方の祖母)に話していたそうだが、祖父の猜疑心が自死へと追い立ててしまったのだ、ということのようだ。
 母方の祖母の稲岡とよを父は大切にしていた。第一子で長女だった母の実家や義理の兄弟の世話をよくしていた。
 母の側の親戚との付き合いはあるが、父の側は便りの途絶えた遠縁しかなくて、近しい親戚はない。
 
  山口瞳は母の実家が遊郭であったと知る。そして「遠縁」であるらしき老夫婦とは「血」の縁はなく、「遊郭」の人としての「秘密の縁」で繋がっていたことを知る。
「私の諸性格は、すべて出生のためであり、血のせいだと思っているのではない」「自分ではあまり気のついていなかった性情を、出生と環境のせいにしてしまうつもりもない」という山口瞳ではあるが、『血族』は、社会性が乏しいという「私小説のかういふ性格をよくわきまえた上で、社会性を導入しようとした作品で、親族といふ、いはば自己と社会を基本的につなぐ靭帯のやうなものと丁寧につきあふことによって、自己と社会の双方を同時に明らかにしようとしてゐる」(丸谷才一)。
読了後には、私の無自覚になりがちな「自己形成」(というほど大仰なことではないが)を振り返らせもしてくれる。
 私にそんな衝撃の何かがあるわけではない。ただ、何も無い、ということではない。誰にしても何かはある。その何かを引きずるのか、対峙するのか、さっさと逃亡するのか、いずれにしても、私の小さな物語を思い出させてくれた。

2024年02月16日