菊田一夫の「戦意高揚劇」と戦後
小幡欣治『評伝菊田一夫』岩波書店.2008から
(昭和十八年の「情報局国民演劇選奨要綱」について)
要約すると、「聖戦完遂に対する国家総力結集の原動力たり得べき国民演劇の樹立を促進するは、決戦化日本演劇に課せられたる重大使命である」の趣旨のもとに、参加した作品は厳重に審査し、承認された演目が上演される場合には「情報局国民演劇参加作品」と明記するように命じられている。優良な物には情報局賞(千円)、とくに優良な物には総裁賞として参千円が贈与されると決められていた。(『演劇年鑑』昭和十八年版)
該当作品は必ずしも戦場や兵隊の出てくる「戦争劇」とは限らないが、「高揚劇」であることに変わりはなかった。
菊田一夫を例にとると、同局の参加作品は昭和十八年『交換船』(情報局賞受賞)の一本だけだが、ロッパ主演の「高揚劇」は十本以上にのぼっている。劇場はすべて有楽座であったことを考えると「戦意高揚劇」の時代だった、と言ってよいだろう。
(略)
べつに菊田一人だけが書いていた訳ではない。同時代の商業劇作家、たとえば川口松太郎も中野實も書いているし、北条秀司や阿木翁助も書いた。だが、戦時中の「高揚劇」ということになると、なにはさておいても菊田一夫の名前が真っ先に挙げられた。他の作家たちに比して数が多かったということもあったろう。しかしそれにもまして菊田一夫の名前に「高揚劇作家」の刻印が打たれたのは、滅私奉公を主軸とした巧みな菊田ドラマに、戦時下の観客が感銘したからである。すべてとは言わないまでも、その中のいくつかは、説得力もあり人物の造形も確かな力作と呼べる作品だった。しかもこの時期『道修町』を書き、代表作の『花咲く港』を発表して得意の絶頂にあった。いい替えれば、菊田一夫のこれまでの作家人生の中で最も脂が乗りきっていたのが、皮肉なことに戦時中のこの時期だった。皮肉というのは、もしこの時期、筆力が衰えていたら、あんなにたくさんの「高揚劇」は書かなかったろうし、また書かせて貰えなかったろう。『髭のある天使』や『交換船』といった異色の「高揚劇」だって生まれなかった。そうであれば、戦後になって菊田一夫が戦犯作家と呼ばれ、占領軍の影に怯えながら日々を過ごすこともなたった、という意味で、ピーにであったことは皮肉だった。
(略)
戦後六十年が経ち、今のこの時点で菊田たちを批判するのは簡単だ。しかし、多少なりとも時代を共に生きた私には、菊田一夫やほかの作家たちの仕事を断罪する気にはなれない。問題があるとすれば、戦後になって彼らがどういう生き方をしたか、ということだと思っている。そのことについては後章に触れる。(p109~112)
とある。戦後、昭和二十三年十一月十三日、東京裁判で東条英機ら七名に絞首刑の判決が下った翌日未明に書かれた私信では、
戦争裁判が遂に終わり、判決が下されました。過ぎた日のあの戦争を、判決をうける人自衛であったと言いはり、判決はそうではない侵略であったと宣言されました。
その国にはその国々の体質があり性格がありますから、判決をうける人々もきっと嘘を言っているのではなく、心から自衛だと思っているのだと考えます。
あの人たちのこしらえた政策により、私たちがそう思わされたにもせよ、あの当時は、私たちも、あの人たちを立派だと思ったり尊敬したりはしなかったにもせよ、少なくとも、私たちの代表だと思っていたことにはまちがいがありません。……と思って、あの当時、心から、戦争が勝てばいいと思っていたのは、私のような学問のない、物書きだけかもわかりませんけど、いま判決をきいて、ほんとに心から、あの人々を気の毒だと思い、たくさんお戦死者のことを考えると、やっぱり、死んでいただかなくてはと考えます。あの人たちがわるかったのではなく、あの人たちのやった政策が、死に値するほど、いけないものだったという意味でです。
戦争はほんとうにいけないことでした。
わたしにわかることは、唯、それだけです。
ほかの難しいことは判りません。
(略)
私などは、所詮、芸術などというものは書けないのですから、せめて、今後は、戦争のない世の中になるようにと念願したものだけを、書きつけていきたいと思っています。(p150~153)
昭和二十二年に二本の舞台劇『東京哀詩』『堕胎医』を発表している。
前者は、戦後まもないガード下が舞台で、戦災孤児、夜の女、やくざ者、など、底辺に生きる人間たちの姿が生々しく描かれている。戦後風景の一齣を切り取ったドラマとして菊田は覚めた目で書いている。わずかに最後の景で、浮浪児たちが夢の中で死んだ父母に出会ったり、楽しい食事をしたりする場面に、菊田一夫のリリシズムが胸を熱くさせる。
(略)
後者は……戦地から帰って来た若い医師が、夫から性病を移された妊婦に診察を頼まれる。彼は極力、人口流産をすすめて、それを実行する。因果な病毒の子は、ひとまず出生をまぬがれたが、やがて手術に当たった医師は、堕胎医の嫌疑で警察の取り調べをうける。
菊田一夫のヒューマニズムが暗い芝居を支えているが、描かれるのは、国内におけるもう一つの戦争の惨禍である。(p160)
菊田一夫の戦後の大ヒットはラジオドラマ『鐘の鳴る丘』『君の名は』から始まる。
戦争中に、国策協力という至上命令で多くの「高揚劇」を書かされた、否、使命感に燃えて書いたが、その付けは、戦犯文士という思いもよらぬ代償として帰ってきた。政治や社会運動にはおよそ無縁だった菊田一夫にすれば、なにがなんだか判らぬうちに足元を掬われて転倒した。一介の芝居書きが、それもアチャラカ出身の作家が、政治的な報復を受けるなどとは夢にも思わなかっただけに、彼は政治というものの恐ろしさにふるえ上がった。
『鐘の鳴る丘』は、汚名をすすぐ、というよりは戦時中の贖罪の意味を込めて必死に書いた。幸い好評だった。しかし『鐘の鳴る丘』と『君の名は』の間には五年の歳月があった。五年を長いとみるか短いとみるかは別にして、戦後の傷跡に触れることに多くの日本人の心が微妙に変化しているのを、菊田は投書の数々で知った。「わずか五年間に、なぜ変わってしまったのか」、うつろい易い「大衆」の心理といってしまえばそれまでだが―—社会の矛盾なんかどうでもよい、そんなことより、春樹と真知子の恋はどうなるのだ―—という聴取者の声を菊田は憮然たる思いで聞いた。
『君の名は』冒頭の「忘却とは忘れ去るものなり」の序詞が、「大衆」を指したものであったという皮肉に菊田一夫が気がついたかどうか、今となっては判らない。
この時の教訓は、その後の菊田作品から政治的な問題はむろんのこと、時事的な話題ですら意識的に避けるという芝居づくりになって現れた。(p177~178)
蛇足ではないけれど。
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」の前半だけだと「大衆」を指しているが、「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」もそうだろうけど、少し深い。
忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ-。テレビが普及する前の1950年代初め、毎回こんなナレーションで始まるラジオドラマが大ヒットした
▼菊田一夫原作「君の名は」。戦火の中で巡り合った男女が愛し合いながら擦れ違いの運命に翻弄(ほんろう)される。それでも互いに相手のことがあきらめ切れない…。後年、映画やテレビドラマにもなった
▼忘れることができるなら、それこそどんなに楽なことか。悲恋に限らず、人はさまざまな苦難に直面する。とりわけ災害や犯罪で理不尽にも尊い肉親らを失った人々の境遇は過酷だ
▼忘れることは癒やしにつながる。時の流れがそれを後押しする。けれども社会全体としてみれば、惨事の記憶こそ忘却のかなたに追いやってはならない。そんなジレンマもある
▼地震への備え、虐待の防止、通学路の安全…。教訓が叫ばれながら私たちは人ごとのように聞き流していたのか。今年も幼い女児らが相次いで命を落とすなど悲劇が繰り返されている
▼テレビに加えインターネットが普及した情報社会にあって、人の記憶力や想像力はむしろ退化していないか。1年の後半が始まるきょう7月1日は「国民安全の日」-。生活のあらゆる面で国民一人一人が安全に留意し、災害の防止を図る日とされている。政府がこの日を制定したのは1960年。先のドラマと同じく半世紀以上前のことである。
=2018/07/01付 西日本新聞朝刊=
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