大友柳太朗の自死(『大友柳太朗快伝』大友柳太朗の会編著.ワイズ出版.1998)残日録220522
長谷川安彦(監督)
僕残念なのは何であの人が自殺したか。とっても神経質だった。何かにつけてアレコレと神経遣う人だった。剣会の連中は夜、大映通りの飲み屋で「あの人にシバかれた。シバかれた」ってサカナにしてるけど、大友さんを憎んでいる人はいなかった。京都は東京より古いかもしれないけれど、情があるんですよ。僕らは経歴を尊敬しますよ。市川百々之助さんなんかも、僕は助監督で、冗談で「市川さんあかんあかん。右も左もわからんようになったのかな」なんて言うけど。僕等冗談言いながらも、一定の距離をおいて、尊敬っていうよりも尊重してました。だれかが言ってたけど、活動屋の精神ていうのはフランス行ってもハリウッド行っても全部通じると、通じるものを持ってると。映画を愛するという意味においてそれに長年携わてってきた人たちというものを一応尊重する。大友さんが東京に行ったとき若いスタッフが仕出し扱いをしたっていう話聞いたんですよ。僕は文句言ったことがある。何ていうことをすんのやと。大友さんがNG五回出しても六回出しても、「そら始まった。Zまで行くか」とか賭けしたりしてね。「どこで止まるか」とか。昔エンタツさんがZまで出したことがあったんです。そんな話が若い連中でも京都では伝わってんのね、それもギャグとして。そう言いながら雰囲気悪くないんですとね。照明決まったら動かさないでしょ。だから冗談半分に「腹へったから今の間にメシ食いに行っていいよ」とかね。認めているわけじゃないけど、聞いたらますます役者がアガってしまうことってあるでしょ。そういうものは言わないわけよね。聞いたら東京ではそういう伝統みたいなの全然知らないでね、大友さんがどれ程の人か全然知らないでね。
(略)
そういう中で僕はそれは、古い形とはいいながら大事にする必要があると思ってただけに、大友さんが東京で、若い裏方が、「じゃまや、おっさん何してるのや」とか「フィルム代でおっさんのギャラのうなるで」とかね。関西弁で言えばそれに近い話を投げかけていたとか。何ちゅうこと言うのやと僕は体が熱くなるほど怒ったことがあった。大友さんは利口な人だから、自分をいじめる状態に持っていくしね。「北の国から」の大友さん見たら、それを痛切に感じましたね。役柄は典型的に時代からズレた爺さんですよね。それを自分にかせをかけていくみたいに、仕事の条件の中に自分を追い込んでいってる感じしてね。傷ましかったけどね。よっぽど深く理解してる人じゃないと大友さんが自殺したのがわからないでしょう。一般に個々は弱いくせに、他人事となると「何も死なんでもいいじゃないか」と。マスコミなんてちょっと弱い奴と思ったらカサにかかっていく。「死ぬ気だったら何でも出来るだろう」と。そんな風な概念でしか他人のことは言わないんですよね。なおさら真相はわからん。俗の中でも更に俗っぽいところのある映画界でしょ。そういう連中から見たら、うかがい知ることの出来ない人間性があの人の中にあるような気がするんだ。だから最後までなじめずにいた部分があると思う。合わない部分を無理矢理合わす幇間じゃないけれど、醜くなる。そこまでは大友さんはようしないんだ。(P180~184)
藤原勝(元付人)
―――大友さんがああいう亡くなり方してどのように思われましたか。
神経質やからね。そういうとこはありました。もっとおおらかにいきゃいいんですけどね。もう台本読んでも何してもものすごい神経質にやるから。自分で全部しょいこまなくていいのにね。仕事におわれたでしょ、趣味ってないから。もっとおおらかに考えたらいいのに、そういう性格じゃなかったです。夜帰ってから台本の裏にメモするんです。セット入っている間に出ていくんですよ、企画部へ。帰って来ないんです。小便でも行ったかなって、おかしいなって思っていると、「おーい、出やで」って言われるんです。捜してもいいへんのです。企画部で話してる。メモが気になるんですよ、話をせんと。それがすまんと仕事が出来へん。そういうオヤジでしたが、僕から見たら雲の上の人で今でも尊敬しています(P214~215)
松島トモ子(俳優)
お亡くなりになる何日か前に、大友さんが歩いているのをお見かけしたんですよ。映画館のところに私がいて、その前の通りを通られたのかな。ビルの廊下を大友さんがお歩きになっていて、普段だったらお声を掛けるんですけど、その時はとてもお声を掛けられない雰囲気なんです。悄然としえちられて、興は声を掛けちゃいけないんだって感じで。いろいろセリフ覚えるのが辛くなっていると、そういう話はもれ聞いていました。前から台詞覚えは速いほうじゃなかったですけど。映画の時代だったら大スターさんならスタンバイができるまでみんな待ちますよね。でも、だんだん世の中が礼儀正しくなくなっているから、待つということをなかなかしなくなっているから、難しいのかなって思っていました。
―――若いタレントさんが大友さんの台詞覚えのよくないのを名脇だと言ったのを聞いてしまったという話も伝わっています。
昔は人が温かだったけど、こういう方っていうのは行きにくい世の中になったんでしょうか。嵐寛寿郎さんのように自分が老いたことを笑っちゃえる人なら……あの方、自分のこと笑っていました。面白がっちゃうっていうか、でも大友さんは面白がれなかったんじゃないかな。あんなに真面目な方ですから。私生活を存じあげないけれど、昔、映画の中で大スターであった人が現代に生きていくというのは、相当強くならないと生きていかれないというか、どっかで自分を笑っちゃわないと、引きつっちゃうんですよ。ほんとに映画が好きな方で大友さんを大好きだっていう人はたくさんいらしたと思うんですけど、そうじゃない非情な人っていうのがきっと周りにはいるわけですね。
―――今作っている人たちがかつて作られたものを観ていないんです。見ていれば、最低限敬意を払う。
そういうのはどうでもいいんじゃないかと私は思うんです。やっぱり今の新しいことの方が面白いから。いくら過去がすごくったって現在しかないのが芸能界で、昔スターだからって敬意払ってもらうことはない。自分がそこでどう生きるかってことしかないんじゃないですか。いつその人がスターでなくなったかわかるのは周りの方がはやくて、自分が一番分かるのが遅いんです。だから自分ではやいこと笑っちゃわないと芸能界では生きていけない。(P219~221)
若松節朗(監督)
当時は「笑っていいとも」に出始めた頃で、青山とか原宿で、女子高校生が大友先生見ると、「あっ、柳ちゃんだ、柳ちゃんだ」って言うんですよ。そうすると大友先生は「どうもありがとう」って言ってましたよ。そのときの大友柳太朗さんはタモリにギャグで使われた。大友さんの答えがトンチンカンで、そのギャップの面白さだった。マジメが面白いってことでそのハズレ方が最高だったですね。大友さんは頭のいい人ですから、あえてそれわかってやるんですね。そのころの大友さんはそんなに働いていいのってぐらい忙しかったですよ。それが死に直結することになってくるんでしょう。忙しすぎて、自分の肉体とやる気との歯車が狂い始めたことが精神的にまいっていったんでしょうね。まじめな人だし、プライド高い人だから。来たいにこたえたい。仕事は楽しい。お金も入ってくる。往年のスターの復活みたいな。でも70歳すぎた肉体には非情にそれはきついことだったんでしょう。(P232)
黒井和男(監督)
オレはいろんな役者といろんな付合いやってる。役者ってマジメもいいけどもっといい加減ですよ。だってウソツキな仕事なんだから。他人を演じるなんてこんなバカなことをそんなくそマジメに考えたって出来るわけがない。現実にどうやって近づけようとする情況で、虚実被膜の間で行ったり来たりする仕事になるわけですよ。そんなものマトモに考えてマトモな人がやる仕事じゃない。あの人マトモだもの。
―――本ら、他人を演じるなんて出来ないはずなのに。
そんなのマジメに考えたら出来るわけがない。今一流のやつはみんないい加減ですよ。いい加減だから一流なのよ。あれマトモにやってたらみんなノイローゼになっちゃいます。大友柳太朗ってエピソードないんだよ。酒飲んでひっくり返ってどっか行っちゃったとかさ。女みんないてこましたとか、そういうエプソードなんにもない。マジメだから。
―――逆にそういうところが面白いんですけど。
ズレてるから。世の中にズレてる。こんなの普通じゃ考えられないマジメさでしょ。セリフなんてそんなに覚えなくったっていいのに。いちいちオレにセリフ覚えさせるなって言った奴だっているんだから。(P286~287)
大友柳太朗(1912~1985)享年73歳
藤田道郎(プロヂューサー)の談話が面白い。
昭和54年の「親切」って懸賞ドラマで老人問題扱ってるんです。ディレクターの山内暁さんが、おじいちゃん役に大友柳太朗さん使ってくれって来たんです。「大友柳太朗さんって、あの大友柳太朗さん?」みたいなことがあって、ぼくの第一印象は怖い、大丈夫かなっていうのがあったんですが、山内さんはご縁があって、その前に高橋英樹の「鞍馬天狗」で四番目ぐらいの演出家が山内さんで、大友さんは鞍馬天狗に切られる悪役です。だけどよくその説明がしてなかったらしい。スタジオ収録の日になった。大友さんは真面目な方で個室でじーっと「悪役で切られて死ぬ。東映で『怪傑黒頭巾』『丹下左膳』ずーっとやってまいりましたが、悪役で切られて死ぬというのは今までにない。いかにもこれは不名誉である。私の中で許せないものがある。ふんぎりがつかん」と。それで山内さん件名に説明するけど、だめなんです。やっぱり鞍馬天狗に斬られて虚空をつかんで死ぬというのは納得いかんと。ああでもないこうでもない。スタジオの収録みんな待ってるんです。すっと待って待って、結論としてどうなったかというと、結局、切腹をするという形になった。すごい役二なっちゃった。プロヂューサーの舘野さんが、その日はいなくて翌日に原作者の大佛次郎さんに何て説明したらいいんだって、あわててとんでった。どうしたんだか知りませんけど、とにかく作っちゃった。ところが大モメにモメたときの山内さんの対応がいかにも誠実だと。大友さんそういう所ある。感動しちゃってね。それから山内さん山内さんて、何かっていうと電話かけてくる。どっかロケに行っちゃ、海苔の佃煮とか、こまめに送ってくる。山内さんとしても大友柳太朗で頭いっぱいになって。とうじは、懸賞ドラマの演出は比較的ヒマなディレクターにまわってくる。久し振りに仕事がまわってきて、義理も重なって大友さん以外にないっていう、そっから入った。どうもイメージから入っていない。動機は不順なんですよ。ところがドラマは一種の快作ですよ。大友さんが、まるで「らくだ」(落語の噺のタイトル。視認をかついで踊らせる話)のオヤジみたいに風呂の中でひきつって、幽霊のかっこうして、風呂から出てきちゃったりとか、奇妙キテレツな人物になってるんです。
―――おもしろそうですね、ビデオ残ってないんですか。
NHKとしてもあわてて消したというか、いやあるはずですよ。御覧になったら面白いと思います。無学なマネージャーが来て、来週試写「親切」って書いてあるのを見て、「迫力あるなあNHKは。オヤギリ(親切)か」って。小林猛ってチーフ・プロヂューサーが「なる程、そういう読み方もあるのか」。変なやつばかりの班だった。大友さんが急に風呂から上がってタッタッタと、そんなことホントは書いていない。なんか山内って変な演出なの、マンガ的な。しかし「親切」は名作です。何しろ芸術祭賞を受賞したのですから。
―――大友さんの役は痴呆老人ですか。
冨川元文さんのホン(脚本)を読んだ感じでは、素朴な老人問題なんです。痴呆まで行ってない。それに行く手前なんだな、ちょっと。
―――大友さんが演技を勉強するために、痴呆老人の振りをして街をフラついたのはその時の話ですね。
なんかちょっとそれに近かったですね。奇妙なドラマって感じしました。そういうふうにのめり込むタイプの人なんだよ、大友さんて。大友さんに対しては、怪演と言われていた。(P237~239)
遺作は伊丹十三の映画「たんぽぽ」で、ラーメンの先生として登場する。伊丹はドキュメンタリー映画『伊丹十三のタンポポ撮影日記』(1985年)の中で、「大友さんは台詞を忘れるのではないかトチるのではないかという不安が非常に強い俳優だったのではないかと思う」というナレーションとともに、大友が撮影を待つ間もたえず何度も台詞を繰り返している場面を映し、「まるで彼の心の中に叱る人が住み続けていて、常に彼を脅迫し続けているかの如くだった」と述べている。とウィキペにあり。