『ひそませること/あばきたてること――絵本編集の現場から』澤田精一.現代企画室.2014 残日録220130

 『ごろごろにゃーん』長新太.福音館書店.1984、この絵本を初めて読み聞かせに使ったとき、子どもたちから大いにウケた。ページをめくるたびに笑いが起きる。そんな体験を1970年代にした。20才代だった。それ以降、何回か読み聞かせに取り上げたが、あの時ほどの笑いはない。読む側の成功体験が邪魔をしているのかもしれない。子どもが笑いから遠ざけられているのかもしれない。などと思った。

 福音館のサイトでは、

くじらのような、イルカのような翁飛行機が海に浮かんでいます。大勢の猫たちがそれに乗り込み、「ごろごろにゃーん」と出発です。「ごろごろにゃーん」と飛行機は飛んでいきます。魚を釣りながら「ごろごろにゃーん」。くじらにあっても「ごろごろにゃーん」。山を超え、街をながめ、飛行機はにぎやかに「ごろごろにゃーん」と猫たちをのせて飛んでいきます。長新太の真骨頂!斬新で愉快な絵本です。

とある。ほとんどの見開きページが「ごろごろにゃーんとひこうきはとんでいきます」という文で、絵を見せていく絵本になっている。

 澤田のこの本に『ごろごろにゃーん』が出てくる。

 今までの「こどものとも」の歴史の中で、ときどき異色の絵本がでることがある。入社したときには、佐々木マキさんの『やっぱりおおかみ』出版された直後で、編集部でかなり激しい議論をしていたのを覚えている。長新太さんの『ごろごろにゃーん』、片山健さんの『おなかのすくさんぽ』、タイガー立石さんの『とらのゆめ』、いずれも話題を呼んだ絵本だったけれども、問題はそういう絵本が編集されながらあとにつなげる手立てがなく、そのときだけの冒険に終わってしまうのが常だった。やるからには、意識的でなければ意味がないだろうし、その作品の成し遂げた内容を魏の時代へ引き継ぐことができなければ歴史も生まれようがない。では、どうしたら、それが可能になるのだろうか。
 それは絵本の編集を始めて、いつも頭を離れない問題だった。編集をしていて出せるといえば出せるけれど、それでいいのか。それがよくないのであれば、どうするのか。なんでもではなくて、これを出したいということには、私の価値観が前提としてある。その価値観を目の前に出せないとよろしくないのではないか。絵本の編集という実践もだいじだけれども、それを支える理論も必要だと思った。ところが九十年初頭には、まだまだ今のような絵本についての文献が少なかったし、欧米の影響が強い理論書は、日本の作家に作品をお願いする私の仕事では、なかなかうまく活用できなかった。(P16~17)

そういえばそうだな。月刊で絵本を定期的に出版していくという期限付きのルーティーンからくるマンネリと無難な内容とともに、絵本作りの現場が袋小路に陥っているように、当時、司書として感じていた。
90年代の荒井良二などの登場によって、絵本は変化を始める。
そうしたなかで、『こどもの館』から月刊絵本の編集担当に異動した澤田は、そういう流れを作った編集者のひとりである。大竹伸朗『ジャリおじさん』や伊藤比呂美『あーあった』といった、当時ではよくわからないと受け止められていた絵本を作っていく。
『ジャリおじさん』について、

……刊行後、この絵本はわからないというクレームがかなり来た。それに答えるのも編集者の仕事なのだが、なかでもある幼稚園の園長から絵本のなかにカラオケをしている図(P11)があり、これは子どもに与えるのにふさわしくない絵本で返品したいという旨の電話が入って、三十分ほど話し合ったことがある。一九九三年の時点で現代美術作家・大竹伸朗について社内で知っている人はいなかった。無論、原画を「こどものとも」編集部で見せたとき、みんな黙り込んでいた。私はその沈黙は了解の意味にとったのだが、のちにあんな保守的な「こどものとも」でどうして大竹さんの絵本がでたのかと、聞かれたこともあった。
 否定的な反応はあらかじめ予想できたので、資料を揃えて説明を試みた。「こどものとも」の折り込でも、何人かの人に『ジャリおじさん』について書いてもらった。ところが翌年の一九九四年に小学館絵画賞受賞。九五年にBIB(Biennial of Illustration Bratislava)金牌を受賞するにおよんで、やや社内でも認知されたかなと思う。(P40~41)

と書いている。
 誰かの絵本に「カラオケ」でなく「ラブホテル」が背景に小さく描かれていることに抗議した司書がいたことをおもいだした。

 澤田の関わった絵本に、『ごろごろにゃーん』とよく似たスタイルの絵本がある。
 スズキコージ『きゅうりさん あぶないよ』(年少版・こどものとも 1996年9月1日)がある。この絵本の成立についてふれている。

 『ジャリおじさん』をだし、翌年『ぼくはへいたろう』(他にも何冊も担当しているがその年の代表作ということで)をだして、九五年に「こどものとも」第二編集部へ異動となった。そして九六年に『きゅうりさん あぶないよ』を担当した。これにはいろいろな経緯がある。まず「年少版」の「こどものとも」にスズキコージという作家を登場させたかった。それまでの「年少版」というのは、二~四歳児を対象とするなかで、簡単な文章、簡略されて描かれた絵で構成される場合が多かった。しかし、「年少版」は読み聞かせをして絵本を読んでいくケースが圧倒的である。耳からの文章の言葉を聞き、自分の目で絵本の絵を追っていくのである。そうならば、もっと絵の情報を多くしてもいいのではないかと思った。年長の子どもに比べて年少の子どもは語彙が豊富でないといっても、絵ならばなんでも見られるし、そこに数年の差はないはずである。

 福音館のサイトで『きゅうりさん あぶないよ』は、

きゅうりさんの変化する姿が楽しい1冊
 きゅうりさんが歩いています。動物たちが、「きゅうりさん そっちにいったら あぶないよ」といって、いろいろな物をくれます。帽子、グローブ、ベルト、バックパック、ほうき……。みんなもらったものすべてを身につけると、姿がすっかり変わってしまったきゅうりさん。街に辿り着いたきゅうりさんが最後に遭遇したものは……。色彩豊かな色使いが想像力を掻き立てます。

と、紹介されている。
 絵からの情報を読み取る能力を幼児期から身につけていくことによって、絵本を楽しめる能力が育つ。『バムケロ』シリーズを楽しんだ記憶のある学生は、絵を読むことができているのだ。
 第二章「絵本をめぐる対話」は、5つの対話と著者へのインタビューで構成されている。
 小野明の「別冊太陽」『一〇〇冊の絵本』の編集に触れての発言を引いておく。

小野 ……日本の絵本のイメージで、名作とかロングセラーとかいうのは、だいたい五十年代の終わりから七十年代の終わりまでの二十年間ですよね。その二十年間にでたのが、『ぐりとぐら』(中川李枝子 文、山脇百合子 絵、福音館書店)とか『わたしのワンピース』(西巻茅子 作、こぐま社)とか、もう永遠といわれるロングセラーはだいたいこの時期にでていて、七十八年以降はあんまりでていない。それは絵本の衰弱なのか、それとも名作やロングセラー中心のいい絵本とか、ブックリストに引っ張られて見えていないのか。それを確かめたかったんですね。(P119)

ということで、小野は1978年以降の、画家が文章も書いている絵本から、日本と外国の各50冊を選んだ。

小野 ……子供のためにというのをいろいろな形でとらえたときに、子どものためになにかをつくっていくという意識のほうが強いんじゃないか。そうすると、そのための方法論というのは、七八年以前に、日本で名作といわれている絵本で、ほとんど出尽くしている感があるんです。方法論は揃っているんじゃないか、と。で、しかもその当時は作家にも編集者にも活気があったんでしょう。熱い、強い絵本がいっぱいでてるし、それが支持されているのは分かります。
七八年以降、絵本の質は落ちているとは絶対思わないんですが、ただその売れ方を見ていると、ロングセラーとか形に残っているものが少ない。結局、絵本というのは作家が新しいものを表現するというよりは、求められているものを世にだしていくという作業が基本じゃないかと、ちょっと思っちゃうくらい、この七八年から二十年間というのは、支持されていないですよ。
土井、澤田 うん。(P121~122)

 そう言われれば、納得せざるを得ない。学生たちに「記憶に残る絵本」をグループで話し合ってもらい、そこで出た絵本をリストにしても、古典・ロングセラーが多い。

 澤田精一のことは『光吉夏弥 戦後絵本の源流』(岩波書店.2021)の著者としてはじめて知った。こちらの本は、抑制された評伝であった。「季刊ぱろる」で出会っていたのかもしれなかったが、記憶にない。(この雑誌が出版された1990年代中頃は高月町立図書館(現;長浜市立高月図書館)の開館直後で、多忙を極めていた。)
 講演もされているので、機会があれば聴きたい。

2022年01月30日