「南方古俗と西郷の乱」司馬遼太郎.(『古往今来』中央公論社.1979) 残日録220505

「夜這い」について触れている。

 若衆組に入ると、家で夕食を食ったあとは、一定の若衆組へゆく、そこで談論したり、肝だめしをしたり、漁村なら海難救助の方法をおそわったり、山村なら山火事の消し方を習ったり、ときには夜這いの方法をならったり、あるいは連れて行ってもらったりする。
「娘をもっている親で、若衆が夜這いに来ないようなことなら、親のほうがそのことを苦にした」ということを高知の西の端の中村で、土地の教育関係の人からきいた。熊野の山村で、「複数の若者が行っていて、もし娘さんが妊娠したりするとどうなるのですか」と聞いてみたことがある。古老がおだやかな表情で、「そういうときは娘に指名権があるのです」といった。古老によれば、たれのたねであるかは問題ない、たれもが村の若衆である、たねがたれのものであっても似たようなものだ、という思想が基底にある。娘は、自分の好きな感じの、あるいは将来を安定させてくれそうな若者を、恣意に指名すればよい。(P82)

 赤松啓介の本に「夜這い」が出てくるのを思い出した。西播磨出身の柳田國男「常民」に反発し、「非常民」の民俗学を打ち立てた東播磨出身の民俗学者である。

『夜這いの民俗学』赤松啓介(明石書店.1994)
 夜這いにもいろいろの方法や型があり、ムラ、ムラで違う。田舎では自分のムラのことしか知らず、他のムラでも、自分のムラと同じことをやっていると思っているものが多い。しかし隣のムラでは、もう違うことが多い。それはムラの戸数、人口、男女の人口さでも違う。男女の差も現在人口と出稼ぎその他の不在人口の差で違う。
 大きく分類すると、ムラの女なら、みんな夜這いしてよいのと、夜這いするのは未婚の女に限るところがある。つまり娘はもとより、嫁、嬶、婆さんまで、夜這いできるのと、独身の娘、後家、女中、子守でないと、できないムラとがある。また自分のムラの男だけでなく、他の村の男でも自由に夜這いにきてよいムラと、自分のムラの男に限り、他村の男は拒否したムラとがある。他に盆とか、祭の日だけ他のムラの男にも解放するムラもあり、だいたいこの三つの型がある。
 若衆仲間と娘仲間との相談で、一年間をクジその他で組合せるムラがあり、また盆、祭りなどに組合せるムラもある。こうしたムラではクジで決めると絶対に変更しないムラと、一か月とか、三か月すんで変えられるムラもある。そのときに酒一升とか、二升つけるムラもある。また若衆と娘が相談して順廻りするムラもある。これであると娘に通う男は一夜、一夜で変わるわけだ。病気や他出で行けないと、次の男が行き、行けるようになれば、次の番から入る。ムラの女なら娘はもとより婆、嬶、嫁でも夜這いしてよいというムラでは、嫁、嬶など旦那のある者は、旦那の留守に限るというムラが多く、その日の夜から夜這いに行ってよいムラ、三日留守、5日留守したら行ってよいムラトがある。(P92~93)

 結婚と夜這いは別のもので、僕は結婚は労働力の問題と関わり、夜這いは、宗教や信仰に頼りながら苛酷な農作業を続けねばならないムラの構造的機能、そういうものがなければ共同体としてのムラが存立していけなくなるような機能だと、一応考えるが、当時、いまのような避妊具があったわけでなく、自然と子供が生まれることになる。子供ができたとしても、だれのタネのものかわからず、結婚していても同棲の男との間に出来たものかどうか怪しかったが、生まれてきた子どもはいつの間にかムラのどこかで、生んだ娘の家やタネ主がどうかわからぬ男のところで、育てられていた。大正初には、東播磨あたりのムラでも、ヒザに子どもを乗せたオヤジが、この子の顔、俺にチットモ似とらんだろうと笑わせるものもいた。夜這いが自由なムラでは当たり前のことで、だからといって深刻に考えたりするバカはいない。(P32)

 私が子供の頃、1960年代前半には、まだ夜這いは残っていたように記憶している。その当時の秋祭りで天狗の仮面を被って神輿とともに練り歩くのだが、日が暮れるとその天狗が娘を襲うことが毎年あって、誰だかわからないので天狗の衣装に背番号をつけることになった。襲うことが非難された印象はなかったので、慣習であったのだろう。赤松啓介の指摘しているように、近代化によってムラが解体され、修身や純血の教育やキリスト教の影響があって、消えていったのだろう。

2022年05月05日