文月雑記2 残日録240716

7/14は加古川合唱連盟のサマーコンサートに男性合唱団❝風❞はコロナに罹った人が数人出て、前の週の練習時の感染かな、参加が急遽取りやめになった。その週は、図書館問題研究会の全国大会が茨城県の日立であり、欠席していたので助かった。
 
 市川朔久子『しずかな魔女』読了。
 不登校の中学1年生の女の子が主人公。その子の平日の居場所が図書館という設定。
 『しずかな魔女』は、深津さんという司書が主人公草子(そうこ)に少し気づかいをしてくれるというところから話は動き出す。しゃべるのが得意じゃない草子に〈しずかな子は、魔女に向いてる〉というメモを、お守りとして手渡す。
〈しずかな子は、魔女に向いてる〉という本を読みたいと草子は思い、それを深津に伝える。夏休みになると図書館という居場所がなくなる、という現実を前にしながら本を待つ草子に、「しずかな魔女」というタイトルのプリントアウトしたばかりの紙の束が届く。「それは、ふたりの女の子の、まぶしい夏休みの物語だった。」
物語は『しずかな魔女』というひと夏の物語を入れ子にしている。主人公が、親戚のところでひと夏をすごすとか、家出をするとか、旅に出るとか、どこかに移動して日常と違う体験をするといった物語のパターンではあるが、これは主人公にだけに向けて書かれた物語を読むというストーリーである。無理がなく読みすすめられる展開になっている。

私の関わった図書館は開館以来、不登校生と縁の深い図書館で、開館の数年後に図書館の裏部屋のようなところが「フリースクール」の場となり、それは十数年のあいだ平成の市町村合併まで続いていた。そのフリースクールには教員のOBが配置されていたので、図書館員としては積極的に関わることはなかったが、間接的に学ばせていただくこともあった。
図書館の館内をぶらぶらしている小中学生に本書のように「不登校なの?」とあからさまに聞く利用者がいたかもしれないが、不登校生の居場所になっていることは住民の間でも、図書館に関心のある周辺の町の人にもよく知られていたようで、そういう利用者は少なかったように思う。そういう危険を感じたときは、カウンターのそばに逃げてきていたのかもしれない。

図書館がそういう空間になるには、図書館員の〈からだが劈かれる〉ことが必要だと思う。これについては直接ではないが「司書のことばは利用者に届いているか」(図書館評論58.2017)で竹内敏晴について書いている。

岩瀬成子『ひみつの犬』読了。
著者のデビュー時代には児童文学を読むことも仕事の延長としての日課だったように思う。1950年生れの著者は私より2歳年上で、デビュー作『朝はだんだん見えてくる』(1978年)はしなやかな感性でベ平連の空気をとらえていた。遅れてきたというか、祭りの終わったあと、というか、著者のような時代の気分とは縁のない学生時代をすごした私にとって、追体験などとうていできない脱帽の読後感だった記憶がある。
読書メタ―の「よいこ」さんの感想を転載しておく。

2022年岩崎書店。常に黒い服を着ている5年生羽美のアパートに引っ越してきた4年生細田くんとその犬トミオ。一つの秘密から、いろんな生活の周囲の秘密やなぞ、事件が見えてくる。正しいって何なのか、いけないことをする人は悪い人なのか。とても大事なテーマが流れている本だと思う。しかもリアルで自然だ。そしてやはり岩瀬さんの本は決して決着や正解は示さずにこちらにぐいっと投げかけられて終わるのだった。これは繊細な描写で人間社会の人の心と行動の在り様を映していてすごい小説。特に思春期の子、中高生とかに読んでほしいなあ。

こういう輻輳した物語を読める中高生は、湊かなえを読むような気がする。

図問研の大会では「図書館の自由・危機管理」の分科会に出た。福音館書店『かえるの天神さん』(2020.1)の販売中止・回収に関係して、回収に応じた図書館が問題になっていることについ発言した。
回収の場合もあれば、回収-訂正版の交換、訂正箇所の修正要請、等々もあるのだが、福音館では以前に、たくさんのふしぎ『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』(2010-2)が販売中止・回収となっている。図書館ではそのまま開架にしたり、福音館からの販売中止のお知らせを添付したり、閉架したり、と回収に応じない館もあったが、回収に応じた館もあった。
日本図書館協会は、NPO法人日本禁煙学会の「タバコ礼賛「たくさんのふしぎ2010年2月号」の不当性について」に対して、「図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。」「図書館の収集した資料がどのような思想や主張をもっていようとも、それは図書館や図書館員が支持することを意味するものではない。」といった理由をあげて、資料提供は抑制されるべきでない、と回答してる。
日図協は「個々の資料の扱いを含む図書館の運営について指示を行う立場にはない」のではあるが、協会としては回収に応じることに否定的な意見である。「なお、図書館は著者ないし出版当事者が自著に見解を付加する要請を排除するものではありません」として、お知らせの添付などには肯定的ともとれる判断をしている。通常、ケアレスミスなどの正誤表の範囲内は添付さるが、それの延長として取り扱う分には問題ない。
回収に応じた個々の館の判断に対して、日図協は直接に適・不適の判断をするものではないが、専門職である司書としては「館は回収に応じるべきではない」という立場であるのだと思う。
図問研の高野淳氏の調査によると、「ごく一部の調査であるが、図書館が回収に応じている実態が確認できた。私たちは、図書館は回収に応じないと考えていたが、常識が覆されてきている。」
「人権・プライバシー」に抵触する図書を、閉架とし研究者のみに利用制限することがある(これが鳥取ループ等で揺らいでいますがそれはさておき)のだが、福音館の2例の場合はそういう扱いにはあたらない。
では、訂正・改訂版が出されてそれと交換したいという場合はどうなのか。従来ならば旧版を閉架とし回収・交換に応じず、訂正・改訂版を新たに購入するということになる。旧版へのアクセス権を保障するという意味だと思うが、1970年代ならそうであったかもしれないが、相互貸借のネットワークが成立している現代において、当該図書の所蔵館は旧版を閉架にして利用者のアクセス権を保障する、ということにはならないと考える。県内に旧版が1冊あればアクセスは可能なのである。
こういう現状と「図書館の自由」との調整は必要だろう。旧版を交換に応じ訂正・改訂版を提供しようが、アクセスが保障されていればよいという判断もあってしかるべきだろう。
『おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり』は、嫌煙派の喫煙助長批判が購入者に影響を与えるという「商品として失敗」(ひこ・田中)の枠に入るだろう。
しかし『かえるの天神さん』の場合は、案山子氏のレビューでは「出版社のHPでは、編集上に瑕疵があったと記していて、それ以上の説明はない。これでは、何が問題だったのかが判然としない。時間をかけてもこの回収については、考えるところが多いように思う。」とある。
「編集上の確認作業において瑕疵」だけでは何のことだかわからない。ネット上では好評なのだが。福音館という出版社がキリスト教以外のテーマを扱うのは問題だ、というわけでもなかろうが。天神信仰の扱いに不満があるのかもしれない、ぐらいの推察か。福音館は「編集作業において瑕疵」というのだから、なんらかの手続き、手順の間違いということだろう。天神信仰への冒涜なのだろうか。
蛇足ではあるが、日本の在来宗教は啓蒙書や児童書の出版に対する意識が低い。まあ、真宗門徒は「南無阿弥陀仏」と唱えていけばいいのであって、知識など妨げで「妙好人」たるべし、ではあるが。

2024年07月16日