「義憤について、肯定について」村瀬学.『飢餓陣営』No.54 残日録220119

村瀬学が斎藤幸平『人新世の「資本論」』について論じている。

 以上のような斎藤幸平『人新世の「資本論」』が、今、多くの若者に読まれているのは、「資本論」を数式じみたものとともに紹介するようなことを一切しないで、半分学問風、半分ジャーナリズム風に書いていて読みやすくされていたという事がまずあったと思います。
 しかしそれ以上に、顕著なのは、この本の構成がとても明快にできているところに、若い読者が魅せられたのではないかと想います。「明快に」というのは、この本には「悪者」がつねにしっかりと見つめられていて、読者が忘れそうになると、それを思い出させるかのように一定のリズムで、この「悪者」が喚起させられるように仕組まれていたところです。
 その「悪者」は、二者あって、一つは「資本主義」で、一つは「成長神話」、ということになっています。なので、著者が取り上げる多くの先行研究者の理論も、その説明に読者が退屈を覚えだす頃を見計らって、この2つの尺度がつきつけられて、「そうは言うものの、この研究者は結局は資本主義を認めており、その結果〈脱成長〉に向かうことができず、根本問題である〈地球温暖化〉をとめることができない理論になっている」と糾弾されることになり、読者は、そうそうそこなんだ! と認識を新たにするという読書体験を続けることになります。
 ある意味ではドラマ『水戸黄門』のように、話の終盤になると、やおら「印籠」が持ち出され「この紋所が目に入らぬか」と読者につきつけるような構成です。その「印籠」には、「資本主義」と「成長神話」の紋所が入っていて、それをみたら、ひれ伏すしかないような絶対的な正義を喚起させる役割を果すことになっています。私の好きな『座頭市』もそうでした。「市」の居合切りの前では、どんな巨悪党でも、一刀両断されずにはすまされませんでしたから。
 わたしは斎藤幸平『人新世の「資本論」』を、ドラマ『水戸黄門』『座頭市』などと比べて、なにか不当な評価をしようとしているわけではありません。私などは特に『座頭市』が好きなものですから、そういう意図は全くありません。ではなぜ、そのような比較をするのかと言いますと、『人新世の「資本論」』を私は「アカデミックな演芸」のように読み終えていたからですし、そういう風に読むことが、この本の正しい読み方ではないかと思ってきたからです。「アカデミックな演芸」といっても悪い意味では無く、ヴォルテール風に言えば「哲学コント(演芸)」のようなものとして受けとめるのがいいと思って来ました。
 というのも、こういう「演芸」には「現実」とは別に、「義憤」をかき立てるような意図が至る所に込められていて、私は若い頃に、こういう「演芸」に触れておくことは大事だと思ってきました。わたし自身の学生時代を思い出すと、はっきりとそのことはわかります。私自身の体験は、「全共闘」や「大学紛争」、「反帝反スタ(反帝国主義反スターリン主義)」の体験であったりしたもので、総体としていえば「左翼体験」と言ってもいいと想いますが、それは「若気の至り」ではなく、若いときに感じる世の中の矛盾のようなものに対する「義憤の体験」としてあるものだったからです。
 私が斎藤幸平『人新世の「資本論」』をあえて「演芸」と呼び「義憤の書」としてよむのがいいと言うのかというと、「現実」はまた別のところにあると強く感じる所があったからです。(p173~4)

 村瀬は、斎藤の本で、格別に妙に気になっているところがある、として「それは「資本主義」の弊害を述べる中で、「人間らしい仕事」が出来なくなっていることへの批判をさまざまな例を上げて述べているところ」を指摘している。
「世界は『資本主義』のもとに動いているから、すべての人は『奴隷』のように働いていることになります。そうすると、こういう生活のどこかにしろ『肯定』するということは、『奴隷制』を肯定することになってゆきます。」として、論を進めます。

 社会に「義憤」を感じる次元と、「生きていること」を「肯定」する次元は、どこか深く異なっているのではないかということなんですね。それだから、子供の誕生日に勝ってきたケーキを前にして、このケーキの上に乗っている「おめでとう」の書かれたチョコレート板を指差して、これはアフリカの児童労働の盛んなココナツ農園で採られてものから作られているので、うれしそうに食べるべきではない、などと親は言ってはいけないということなんですね。誕生日を「肯定」すべき日に、そんな「否定」的なことを言って、大事な存在感をぶち壊すわすことがあって良いものかと私なら思うからです。(p181)

 そして、吉本隆明を引用している。

 第三世界の飢えにたいして責任があるのは第一に第三世界の国家権力であり、つぎに責任があるのは日本資本主義国家の国家権力であり、そのつぎに責任があるのはたぶん日本の大衆や知識人で」あるので、日本の知識人の責任までもってくるためには少なくともいくつかの壁をとおってかんがえなきゃいけないというのがぼくのかんがえ方で、それは何ら倫理の問題ではないんじゃないでしょうか、倫理が介入する余地は本当はないんですよ。個々の知識人がいかに苦慮するべきかという問題としては提起されない。(p182)

30数年前のこと。新宿の茶店でメニューに知らないドリンクがあったのでなんだろうと思って注文したところ、一緒に座っていた知人が、そんなの注文するのはおかしい、という。なんで? と聞くと、あれは南アフリカの児童労働によってつくられたものだから、それを注文するのはおかしい、という。知らないものだからどんなもんだろうと思って注文してみた、と言ったが、今度は、知らないのがおかしい、ときた。
あれは「義憤」だったのだろう、と思い出した。
 もちろん「知識人」に対してもそうだけれど、「知識人」ではない私に、「義憤」をぶつけても、何が生まれるわけでもない。

 私はこの本を読む多くの若い人が、グローバル化する資本主義が、地球の資源の破壊や気候変動をもたらし、多くの人々の生活を貧困に陥れていることの指摘をしていることに、共感し、そういう世界になってきいていることに大きな「義憤」を感じることは良いことだと思っています。
 でも何かしらこの本に奇妙な違和感を感じるのかと言いますと、著者がこの本を「演芸商品」でhなく、何かしら「思想書」のようなものとして提出している感じがするところなんです。その「奇妙な感じ」が現れているのが、六ヶ月で三〇〇〇万円の収入を得てしまうことの「システム」についてです。著者にたずねても、誰にたずねても、それは「違法」ではなく「合法的」なものと認めるものでしたが、実はこの理屈は、コカコーラやWindowsのようなパソコンを売って巨万の利益を得る資本家の言い分と少しも変わらないということなんですね。彼らも少しも「違法」なことをしているわけではなく、まったく「合法的」にそういうことをしているだけの(こと)ですから。そしてそれが「資本主義」のシステムの受け入れから生じている「富」にすぎないということなのです。
 ところが斎藤幸平の本は、この「資本主義」を根本点に否定売ることで売り出しているのに、ほんの出版が大手の出版社の大資本のシステムを受容するところで出版、販売されているものですから、「売れる商品」の性格を持てば、それは巨万の富を得るところに自動的に向かってしまいます。そうして「売れるシステム」そのものを否定しているのですから、誰が見ても不思議にうつるのではないでしょうか。
 多くの現実的で良心的な知識人は、この「資本主義」という化け物の「合法性」までは否定できないでいるなかで、突然に「資本主義」そのものを全面否定する「理論」で登場してきて、そしてちゃっかりと巨万の富を得るということになっていれば、それはいくらなんでも、おかしいのではという疑問符がつくことになると思います。でも私は、それを「理論」書と考えないで「演芸」と考えれば、この本が根本に抱える矛盾に「怒り」をもつよりか、こういう「売り方」もありなのだと認められるように感じてきました。
 そういうふうにこの本を読まないと、ここに書かれている極論やアカデミズムの言葉として操作される用語軍(資本主義、脱成長、コミュニズム、気候正義など)が、著者が繰り返し否定しているかつての古い左翼が使っていた扇動用語に似たような性質をおびているところがとても気になってしまうからです。そもそも、「資本主義」が、従来の国家の枠を越えてグローバル化してゆく道筋には、見返りとしての国家の利益、後進国の国家の利益、政治的権力者の利益、資本家へ税金優遇策、富裕層からの賄賂(政治献金)、巧妙な税金逃れ、などなどの「異様な欺瞞」が働いていて、それが「資本主義」と手を組んで実現してきた環境破壊や民衆の貧困があって、その「非」nすべてが「資本主義」という一言でくくられるものではない事は、私たちが戦後の左翼運動とその批判を通して学び得て来たことでした。(p185~6)

 この論考は、この雑誌を編集・発行している佐藤幹夫の問に答えるという構成になっており、同誌に往復メールとして佐藤の返信メール「『新たな時代のマルクス』をめぐって――賢治と吉本隆明と斎藤幸平」が続いている。

2022年01月19日