「四月歌舞伎座」のことなど―卯月雑記 残日録240418
4月のはじめに歌舞伎座に行った。初日の4月2日は夜の部を、翌3日は昼の部を観た。これまで月の上旬に歌舞伎を見た記憶はない。劇評に「回を重ねると良くなるだろう」などと書いてある、出来たてほやほやの芝居をたぶんはじめて観た。
夜の部は玉三郎の「土手のお六」と仁左衛門の「鬼門の喜兵衛」とご両人の「神田祭」、それに舞踊「四季」。「神田祭」は堪能したが、「お六喜兵衛」は役者同士がまだ手探りで落ち着かなかった。脇役が話の結末を知っている顔をするものだから、時系列が緩んでいて眠くなった。ご両人もその分、手探りのご様子だった。舞踊は孝太郎の「秋砧」に納得。
昼の部は愛之助の「団七九郎兵衛」。これを観たくて歌舞伎座の高い値段の席を予約したのだ。これに、梅玉と松緑の「引窓」と舞踊「七福神」。
愛之助の団七はEテレで博多での公演が放送されていたので、楽しみにしていた。二役の「女房お辰」があっさりしていたのが残念だが、周りも手探りのようだったので、仕方あるまいと思った。梅玉と松緑では「水と油」のようでしっくりこないのだが、回を重ねるとマヨネーズみたいになるのだろうか。
地方に住んでいてなかなか歌舞伎を観る機会がない。そして、愛之助の「団七」を観たいだけでは東京に出かけることにはならない。3月下旬に仮説実験授業の研究会や旧知の陶芸家石川雅一さんの親子展があったので、スケジュールを詰めまくって行ったのだった。歌舞伎だから観るというわけにはならない。座組が気に入らなければ、わざわざ観に行く気にはなれない。座組の不満を言えるほどの歌舞伎通ではなし、いまいち私の「歌舞伎〈推し〉」は弱いのである。月の上旬に歌舞伎を観るのはよほどの歌舞伎通・推しでないとハードルが高い気がした。
私の両親は舞台芸術の世界とは縁がなく、職場の慰安鑑賞会で歌手のステージを楽しみにしていた人たちで、もっぱらEテレで観るだけだった。それでも、13世の仁左衛門が上方歌舞伎の存続のために力を尽くしたことなどは情報として父は知っていて、テレビに出てきたら「偉い人や」と教えてくれたし、昨年95歳で亡くなった母は武原はんさんの舞を実際に観ることもなく人生が終わる寂しさと、その寂しさを共感できる人が身近にいなかった貧しさをつぶやいていた。
そんな両親の子どもは、兄弟ともに歌舞演劇に時間と多少の身銭を費やしている。私が歌舞伎なら、弟は文楽であり、音楽の好みも違っている。それは偶然なのだろうが良くしたものである。
東京に行ったついでに木挽堂書店に寄った。「演劇界」廃刊後、「劇評」を発行している古書店である。歌舞伎座の通りを挟んだ向かいにあって、よく行く「ギャラリー江」の近くにある。名刺代わりの西浅井・大浦の煎餅「丸子船」を手土産にした。
私の演劇鑑賞は20歳代後半の転形劇場「小町風伝」から始まったといってよいだろう。歌舞伎は、30歳のころ、成田市の就職試験か面接の際、上京したついでに、南博の「伝統芸術の会」に出かけたら13世仁左衛門がゲストだった。それがきっかけになった。
長浜に来て以来、忙しさに振り回されて少しずつ演劇から離れていたが、加齢とともに、やらねばならないことばかりだと息切れがするので、気分転換のつもりで劇場に行くのも良し、とすることした。
やらねばいけない、と書いたが、「図書館員のための部落問題入門」がやらねばならないこと、というわけでもないのだろう。やっていたほうがいいのかもしれない、程度のところか。「~入門」はなんとかまとまりそうである。
岸政彦編『大阪の生活史』が1280ページに及ぶので、読了までまだまだ時間がかかる。
小早川明良『被差別部落の構築 作為の陥没』を並行して読み始めることにする。