「ベーシックインカム それは可能だ。しかし可能こそがその限界だ」大澤真幸.(「一冊の本」.朝日新聞.2022.02号.P22~31)残日録220228
「一冊の本」の大澤の連載「この世界の問い方」のこの号のテーマはベーシックインカムである。
「日本社会ではベーシックインカムを必要とするか」についての大澤の結論は「こうした現状を考えると、BIは、日本社会には必要だし、また効果的であると予想できる」である。こうした現状とは、橘木俊詔の2006年の著書から、生活保護水準以下の所得で暮らしている人は、13%であるが、実際に生活保護を受けている人は、同年で、人口の1.2%にしかならなくて、生活保護を本来必要としている人の10%くらいしか受け取っていないので、効果的な貧困対策にはなっていないことを指す。また、ジニ係数でみると日本の値はかなり悪いこと、日本の生活保護の給付額は低くはないことにもふれている。
「BIは財政的に可能である」根拠として、原田泰の2015年の著書から、原田の「20歳以上に月額7万円、20歳未満に月額3万円」の案について、現状の生活保護では、単身者の場合、概ね12万円ほどなので、家賃のことを考えると「1人暮らしの7万円は厳しいが、たとえば夫婦で子供二人の家族ならば、原田の構想では20万円が支給されるので、東京で暮らせないこともないとして、「日本の生活保護の捕捉率は著しく低い。このことを考えると、BIの支給額で揉めている場合ではない。多少、金額が低くても、BIを導入した方が、しないよりはずっとよい、ということになるだろう。/結論的に言えば、日本でBIを導入するとして、財源は少なくとも理論上は確保できる、ということになる」という論である。
単身東京で月額7万円で暮らすのは厳しいだろうが、シェアハウスするということや、家賃の低い地方への転居も考えられよう。
生活保護だと、働いた収入分だけ減額されるが、田舎暮らしをして耕作放棄地を再生する老後生活も可能だろうし、珍しい野菜を「道の駅」で販売することも考えられる。
「利己的にして贖罪的な消費の先に……」では、1968年以降の資本主義ははっきりと変質したとし、「利己的な消費と利他的な(慈善的な)動機とが、セットになり始めたのだ。BIは、」その延長線上に登場するはずだ、と予想することができるのだ」と論を進めていく。
「消費者は、慈善的な理由、利他的な理由、あるいは自然環境に関連する理由によって、商品の価格が高くなることを、積極的に受け入れるようになっている。」/「慈善や環境が理由になって少しだけ高価になっている商品を、人は喜んで買う。どうしてか。その高い価格によって、消費者は、消費の利己主義が作り出す「罪」を贖っているのだ。要するに、「贖罪」自体が、今や消費されているのである。古典的な資本主義とは異なり、20世紀末以降の文化資本主義の中では、消費は、背反する二つの効用を同時に満たしていることになる。一方で、利己的な消費は、何らかの罪を作っている。貧しい人を搾取したり、地球を汚したり、と。人はそのことにすこし疚しさを感じている。しかし、だいじょうぶだ。他方で、人は、消費を通じて、その罪を贖うことができるからだ。罪を作りながら、それを贖うこと、これが現在の消費である。」/「こうした態度、こうした傾向を強化し、延長させていけばどうなるのか。そうすれば、やがて、そこから、BIも現れるだろう。利他的に、あるいは事前的に振る舞うことは、今日の資本主義と矛盾してはいない。むしろ、資本主義的にそれは促進されている。その利他性の部分を拡大していくと、やがて人々は、BIのための出費をも受け入れることになるだろう。豊かな先進国で、BIが民主的に支持される日も湊東区はない、と推察するのは、BIへと結実しうる今述べたような傾向が、世界的には、主流になりつつあるからだ」
と展開していく。
「まさにそれゆえにBIには限界がある」と大澤は論をすすめる。
「社会システムが資本主義であるということは、――マルクス経済学の用語で言えば――剰余価値が発生するようになっているということだ。「利潤」と言ってもよい。剰余価値(利潤)が発生している以上は、システムのどこかで、労働の搾取がなされていることになる。これはマルクスが述べていたことだが、日本の偉大な二人のマルクス経済学者が、この命題の厳密な証明にかかわっている。まず、森嶋通夫が、このマルクスの主張を「マルクスの基本定理」と名付け定式化した。これを受けて、置塩信雄が、定理を厳密に数学的に証明した。要するに、プラスの利潤が発生するための必要かつ十分な条件が、労働者の状夜道の搾取である。//「BIは、格差や貧困の問題への対応策だ。しかし、格差・貧困の究極の原因が、資本主義的な生産関係の中での労働の搾取にあるとしたらどうか。BIは、真の病因は取り除かない対処療法だということになるのではあるまいか」
と、BIの資本主義的生産関係内での限界を指摘している。
森島や置塩は、労働の搾取を証明しているが、それをどうこうするという論を展開しているのではない、と記憶しているが、ずいぶん昔の勉強での事ゆえ、きわめて曖昧である。
「親切な奴隷主のように」ではこれまでの論をまとめて、
「BIは確かに実現可能である。しかし、それが実現可能なのは、資本主義の枠内に止まるからだ。そうだとすると、BIは、結局、それがまさに解決しようとしている問題の真の原因を除去しない限りでのみ機能する政策だということになるだろう」としている。
つまり「BIは、親切な奴隷主のようなものである。親切な奴隷主は、奴隷の窮状に深く同情する立派な人物である。が、いくら奴隷たちに親切に接したとしても、問題はけっして解決しない。それどころか、奴隷主として親切であるならば、問題は永続することだろう。なぜなら、問題の根元は、奴隷制度そのものにあるからだ。/同じことはBIにも言える。奴隷制度の中での親切な主人が問題を解決できないように、資本主義の中でのBIは、問題を真に解決しない」ということになる。
大澤は、はじめの「日本社会ではベーシックインカムを必要とするか」のところで「BIは、究極の貧困対策である」と規定しているが、BI論者には新自由主義の立場からの論者もいるので、そうとばかりは言えないだろう、と思う。
大澤は「レントとしてのBI」で
「GAFAM(ガファム;Google、Amazon、Facebook、Apple、Microsoftの頭文字を取った呼び名―明定)があれほど儲かるのはどうしてなのか。それは、本来は誰のものでもない「一般的知性」(マルクス)が私的に所有され、そのことを根拠にしたレント(使用料)を彼らに支払われているからである。この場合、一般的知性とは、インターネットやICT技術(情報通信技術―明定)に関連した知識のことである。/マルクスは、知識というものは、そもそも私的に所有することができないので、利潤を得るための主要な手段が知識になったときには、資本主義そのものが終焉を迎えることになるだろう、と予測していた。しかし、このマルクスの予想はまったく外れた。知識に私的所有権を設定し、そこからレントを得ることで、資本主義的な搾取はますます成功するのだ。/ここで述べておきたいことは、次のことである。BIは、格差への対処策だが、そこで用いられている方法――つまりレント――は、まさに今日の格差をもたらしたメカニズムと基本的に同じものである」
と、搾取された利潤=レントの再配分としてBIを捉え、「コモンズへ」と問題提起をする。
「富は基本的には――誰のものとも限定できない――普遍的なコモンズであるというアイディアから自然的に引き出されるのは、コミュニズムである。コミュニズムとは、誰もが能力に応じて貢献し、必要に応じて取ることができる、ということだ。BIが、市民権に帰属するレントとして設定されている限り、それは、コミュニズムとは別物である。しかし、BIには正義があるという直観の根拠に依拠するならば、われわれは、コミュニズムを支持しなくてはならない。そうだとすれば、BIはゴールではなく、コミュニズムへの長い道のりの通過点である。/親切な奴隷主であることに満足してはならない。奴隷制度そのものを克服するところまでいかなくては……」
???
「コミュニズムが自然に引き出される?」 「消費者は、慈善的な理由、利他的な理由、あるいは自然環境に関連する理由によって、商品の価格が高くなることを、積極的に受け入れるようになっている」傾向があるというが、そこからコミュニズムへは「自然につながる」のだろうか。
「親切な奴隷主であることに満足してはならない」? 私は奴隷ではないのか、奴隷主ではない、ことは確かだ。奴隷=貧困層ということではないだろう。なんだか、上から目線である。
「BIはゴールではなく、コミュニズムへの長い道のりの通過点である」というのは簡単だが、「長い道のり」の一言で済ませられるわけにはいかないだろう。
BIが資本主義社会の到達点であるならば、そのBI社会(消費者市民社会)の中から、次のメタモルフォーゼの種やステージが内発的かつ必然的に生まれるのだろう。それは単なる「通過点」ということにはならないし、政治的な土壌から生まれるとは限らない。むしろ、非政治的なるもののなかから生起するのではないだろうか。現在のわれわれには予測不可能なものであるだろう。