残日録14 現代児童文学と児童サービス

「現代児童文学と児童サービス」と題して児図研の会報に投降したのが2026年。以下のとおり。 

0 はじめに
 私は「図書館評論 №57(2016)」で「子どもへのサービスのコレクション形成の課題」を発表している。副題に「児童文学論・児童サービスにおける「作家論」の消失という地点から」をつけ、児童文学について論じながら、現場からも「現代児童文学研究」の知見からも「子ども観」「発達観」を、学ぶことなく、児童サービスが漫然と行われていると指摘している。
 ここでは、児童サービスが対象にしてきた現代児童文学について考察する。

一 1980年代に児童文学は「崩壊」または「越境」した
 野上曉は『越境する児童文学』(2009 長崎出版)のなかで「崩壊する児童文学概念」について、森絵都『カラフル』(1998)を紹介して、次のように結論づけている。

  この作品を最初に読んだとき、マンガと張り合って進化を遂げたジュ ニア小説の持つエンターテイメント性と、児童文学を母体にして自在に 変容してきた思春期文学の豊かな可能性をシンボリックに物語っている ように思えた。事実この作品は、その後に文庫化されて、子どもたちば かりでなく成人読者にもよく読まれている。つまり、既存の児童文学概 念を拡張しながら、八〇年代後半から九〇年代後半までのほぼ一〇年の あいだに、子どもの文学は変容を重ね、児童文学という衣装(カテゴリ ー)に変わる新たな装いを必要とし始めたのだろう。そこにYAという 市場的なコードネームが被ってきた。(同書p107)

 前掲論文で宮川健郎『現代児童文学の語るもの』(NHK出版 1996)の「1959年にはじまった、子どもの文学のひとつの時代がおわろうとしているのかもしれない」を引用したのだが、それをもう少し先にすすめた論と言える。
 「日本児童文学」2016年11・12月号でも「現代児童文学の終焉とその未来」が取り上げられている。座談会で佐藤宗子は、児童文学の側にあって、成長物語ではなくなった児童文学について、

  まず幼年向けは別枠として残るだろう。それより上の読者層、すなわ ち小学校高学年以上向け、あるいはヤングアダルトといったあたりを、 「一般文学」と分けて考えようとすることに、そもそもどういう意味、 価値があるかということ自体を、もう一度きちんと考えることが、必要 なのではないでしょうか。

と発言している。

金井美恵子は「ものがたりなんかいくらでも本の中にあった」(文藝 1996 春号)で
  児童文学のつまらなさというのは、読者を子どもに限定しちゃって  いるからでしょう。子どもに理解出来ないことが書いてあってもいいん ですよ。後で読み返せばいいんだから。読者を子どもに限定していない んだなということが大人になってわかったものが、読み返してみておも しろかったということなんじゃないのかな。ハックルベリーなんて、少 年小説とは言えないし、そもそも、ハックが「子ども」的じゃないです ものね。

  子どもに何がいちばんないかというと、過去ですよ。過去というもの が子どもはないでしょう。過去の時間というのが。だから、子ども時代 を回顧するという姿勢の中に子どもが出てくると、時間のずれをどう処 理するかという問題が解決されていないものが多いわけ。要するに子ど もというのは、過去の時間をもっていなくて、現在の中で生きていて、 現在の時間も過去というものも全部未来に投影されているものですよね 。わずかにある過去というのが、現在という未来というか、全部向こう 側に預けられちゃっている時間の中で生きている存在でしょう。『ノン ちゃん雲にのる』は子どもが「時間」というものを初めて意識する瞬間 が出て来るでしょう。あそこがなまなましいんですね。

と、児童文学の成立それ自体に疑問を投げかけている。
 境界がなくなった、または曖昧になった児童文学を、児童サービスはどうとりあつかうのか、が問われるところである。

二 「大人へと成長しなければならないわけでもない」時代
 ひこ・田中は『ふしぎなふしぎな子どもの物語―なぜ成長を描かなくなったのか?』(光文社新書 2011)で、

  成熟した大人、成熟しない大人、大人にならないままの大人、大人を 放棄した人。そうした様々な道筋が、子どもが育とうとする先に見える 社会こそ、本当の近代社会だと考えていいのではないか?

  子どもの物語の変化は、近代が元々目指している社会と、これまで正 しいと信じられてきた社会との間に生じてきたズレそのものに忠実に寄 り添っています。
 こう言い換えてもいいでしょう。大人社会の要請と子ども自身の欲望と の間でバランスをとりながら描かれてきた子どもの物語は、相変わらず 大人としてだけ振る舞っている大人社会から見れば奇妙でも、子どもの 側から見ればこうしか見えない、こう考えるしかない大人と子どもの差 異が減少した世界を正直に描いているのです。

と現代児童文学が直面している状況の背景を評している。
 漫然と所与のものとして受け取ってきた現代児童文学の内部において、その存在自体が問われてきているのである。
 現代児童文学の終焉について、児童サービスの場でも論じられることが求められている。そのことに児図研は敏感であってほしい。

三 おわりに
 児童サービスが対象にするフィクションは、(佐藤と通じるところであるが)「乳幼児・児童向け絵本」と「幼年文学」、「1980年代あたりまでの児童文学(理論社の大長編シリーズや福音館の「日曜文庫」などは除く)」ではないか。80年代以降の児童文学については、YAで括るか一般書扱いにするのがよいのではないか、と私は考えている。
 ノンフィクションについては、主題のある絵本も含めての「混配」が妥当だという立ち位置にある。

児童図書館研究会会報 2016・6月号

 金井美恵子の「過去という時間」が子どもにはない、という指摘を読んだときに、そんなものかな、という印象であったが、幼年文学を考えるとき、大きなヒントとなった。森山京『きいろいばけつ』の主人公のキツネは「一週間」という過去を獲得する物語であった。

2018年07月25日