関曠野(せき・ひろの)ブログ「本に溺れたい」「ジャック・ボーによる、ウクライナ危機の深淵」より 残日録220704
ウクライナ東部についてのボー氏の見解を、関曠野氏が紹介している。今回のロシアの侵攻が始まった頃に、どこで知った情報なのか、ドンバス地方で選挙をしたら親欧米派が勝ったという情報があった、と記憶しているのだが、ゼレンスキーが指名したとのことで、誤報だったようだ。但し、ロシアの侵攻前は、東部地方ではロシアに帰属は少数派であるようだ。
この対立の根源を探ってみよう。それは8年間、ドンバスの「分離主義者」や「独立主義者」について語り続けてきた人たちから始まる。これは事実ではない。2014年5月にドネツクとルガンスクの二つの自称共和国が行った住民投票は、一部の不謹慎なジャーナリストが主張したような「独立」の住民投票ではなく、「自決」の住民投票だったのである。「親ロシア」という修飾語は、ロシアが紛争の当事者であることを示唆しているが、実際はそうではなく、「ロシア語話者」とした方がより誠実であっただろう。しかも、これらの国民投票は、プーチンの助言に反して行われたものである。
実際、これらの共和国はウクライナからの分離独立ではなく、ロシア語を公用語として使用することを保障する自治権の地位を求めていたのである。ヤヌコピッチ大統領打倒による新政府最初の立法行為は、ロシア語を公用語とする2012年のキバロス・コレスニチェンコ法の廃止(2014年2月23日)であったからだ。スイスでフランス語とイタリア語が公用語でなくなることをプーチニストが決定したのと同じようなものである。
この決定は、ロシア語圏の人々の間に嵐を巻き起こした。その結果、2014年2月から行われたロシア語圏(オデッサ、ドニエプロペトロフスク、ハリフ、ルカンスク、ドネツク)に対する激しい弾圧が行われ、事態は軍事化し、いくつかの虐殺(最も顕著だったのはオデッサマウリポリ)にもつながった。2014年夏の終わりには、ドネツクとルガンスクの自称共和国だけが残りました。
この段階で、ウクライナの参謀本部はあまりにも硬直的で、作戦術の教条主義的なアプローチに没頭し、勝利することなく敵を制圧してしまったのである。2014年から2016年にかけてのドンバスでの戦闘の経過を調べると、ウクライナ軍の参謀本部が同じ作戦方式を体系的かつ機械的に適応していることがわかる。しかし、自治政府の戦争は、サルヘ地域で観察されたものと非常によく似ていた。つまり、軽い手段で行われる高度な機動作戦であった。より柔軟で教条的でないアプローチで、反政府勢力はウクライナ軍の惰性を利用し、繰り返し「罠」にかけることができたのです。
2014年、私はNATOにいたとき、小型武器の拡散に対する戦いを担当しており、モスクワが関与しているかどうか、反政府軍勢力へのロシアの武器搬入を探知しようとしていた。当時、私たちが得た情報はほぼポーランドの情報機関から得たもので、OSCEから得た情報とは「一致」しなかった。かなり粗雑な主張ではあったが、ロシアから武器や軍事機器がとどけられたことはなかった。
ロシア語を話すウクライナ人部隊が反乱軍側に亡命したおかげで、反乱軍は武装することが出来た。ウクライナの失敗が続くと、戦車、大砲、対空砲の大隊が自治政府の戦列を膨らませた。これが、ウクライナ側をミンスク合意にコミットするように仕向けたのである。
しかし、ミンスク1協定に署名した直後、ウクライナのペトロ・ボロシェンコ大統領はドンバスに対して大規模な反テロ作戦(ATO)を開始しました。Bis
repetita placent:NATOの将校の助言が不十分で、ウクライナ人はデバルツェボで大敗し、ミンスク2協定に従わざるを得なくなった。
ここで思い出していただきたいのは、ミンスク1(2014年9月)とミンスク2(2015年2月)合意は、共和国の分離・独立を定めたものではなく、ウクライナの枠組みの中での自治を定めたものであるということです。合意書を読んだことのある人(実際に読んだ人はごくごく少数ですが)なら、共和国の地位はウクライナの内部解決のために、キエフと共和国の代表との間で交渉することになっていることがすべての文字に書かれていることに気づくでしょう。
以下は「本に溺れたい」を御覧ください。
6月は、田舎の書庫代わりの物置の整理で、疲労困憊、それと北山修の自伝や対談集を読むのがやっとの月でした。
秋までは整理と読書の日々が続きます