「石川雅一氏の浅鉢」(尾久彰三(しんぞう)『民芸とMingei』晶文社。2014)残日録220719
著者は日本民藝館の元主任学芸員。私が追っかけをしている石川雅一(はじめ)さんの作品について書いている。(P138~141)
毎週のごとく、長浜と加古川を往復したせいもあって、夏バテなので、書き写すだけで、ブログ更新とする。今年度をもって、図書館の世界から退出をし、門前の小僧だった民芸の世界に入門をすることにした。兵庫民芸協会の会員となり、長らく購読を止めていた「民藝」も購読することにした。
「石川雅一氏の浅鉢――平茶碗としても使える、おおらかなしろのバリエーション」
石川雅一氏から個展の案内が来た。彼とは三十数年来の交際で、気心もしれているので、遠方でない限り、出来るだけ見に行くことにしている。しかし、正直なところ、石川氏は馬力があるせいか、他の作家に較べると、その回数が多いように思う。だからというわけでは無いが、何故かタイミングが合わなくて、私はこのところご無沙汰していた。
会期二日目の秋分の日、私は日本橋高島屋の芹沢銈介展の取材を兼ねて、編集氏とカメラマン三人で、石川氏の個展会場の、ギャラリー江(こう)へ行った。石川氏の個展と、そんな取材の日が重なったのは、二人にとってラッキーだった。というのは、私はここで、彼の作品と大塚茂夫氏の「白い家」を、同じ益子つながりと、付き合いの古さから、是非紹介しようと思って、両者に参考になる陶歴を記した書類を送るよう、頼んでいたのである。ところが大塚氏からはすぐ来たのに、石川氏はなしの礫だった。私は諦めることにした。そんなことから、会場に居た石川氏を見るなり、私はそのことを詰った。するとFAXで流したとのことだ。うちにFAXはないのである。完全な行き違いである。結局編集氏が、まだ間に合うというので、私は幸いギャラリーが持っていた、石川氏の陶歴書をもらって、彼の作品も何とかここに、紹介できるようになった。
さて、いただいた石川雅一氏の陶歴を、乱暴な書き方で恐縮だが、そのまま記す。
昭和三十二年 宇都宮に生まれる。
昭和五十一年 栃木県立宇都宮高等学校卒業。
同年 栃木県窯業指導所入所、伝習生となる。
昭和五十二年 同所研究生となる、かたわら村田浩氏の仕事を手伝う。
昭和五十四年 岐阜県久々利大萱の吉田善彦氏に師事。
昭和五十八年 合田陶器研究所で仕事をする。
昭和六十年 現在地に仕事場、登り窯を築き独立。
国展・日本民藝館展に連続入選/日本民藝館展奨励賞受賞/栃木県立「先年の扉」に出品
/益子焼選品会・優秀賞/益子町商工会賞受賞。
である。
石川氏は読んでわかるように、若い時から志した陶芸の勘所を、岐阜県大萱の荒川豊蔵の優秀な弟子だった、吉田善彦氏から学んだ後、故郷栃木の一大窯業地である益子に行き、そこで浜田庄司や島岡達三に畏敬されていた合田好道氏から、民芸を根幹にすえた美の神髄を教わり、二十八歳で益子町大沢字四本松の現在地に、仕事場と登り窯と住まいを築き、今日に至っている。
私は昭和六十年に窯を築く折、石川氏が登り窯にするか、伝記や油やガスにするか迷っていた時、若いのだから中途半端な考えを持つな。登り窯で焼物の美の王道を歩め。と発破をかけたりしたのを思い出すが、今から思うと冷や汗ものの無責任な意見で、その後の石川氏の努力に、かえって私が救われたことを、ただただ感謝しているのである。
石川氏は幸い父上の援助もあって、それから三十年間、エネルギッシュに制作に励んできた。古染めの麦藁茶筒碗に見る様な、線を引いた湯呑等から始まった作品造りも、すぐにラフワークとなる粉引の手法の皿や碗が中心になり、最近は今度の展覧会場で見た辰砂(しんしゃ)や鉄釉の仕事も加わる様になって、作品に奥行きと幅ができている。
私は石川氏の無地刷毛の浅鉢の仕事が好きで、家庭料理に使った後、甘い物が欲しくなると、使い終わったそれを洗って、劈じゃ碗に見立てて菓子とともに抹茶を飲む。そして、繁々と眺め、真実の貧の茶に叶う、見事な咲きよ‼と感心しているのである。
写真は今度の個展で、そんな私の話を聞いた編集氏とカメラマンが、同様の使い方をしたいと、買い求めた浅鉢二点と、石川氏が近頃目標にしている白は、「中国宋代の白磁に見られる白で……、例えばこれですね」と指差した小ぶりの浅鉢で、なるほどと思って私が求めたものである。
帰りがけに感想をと、彼が言うので、「しばらく見ない間に、太ったのは驚いたけど、作品も皆、ゆったりと大きく立派になったのに感心したよ。まるで今を時めく、相撲の逸ノ城みたいだね。嬉しいす‼」と言って個展会場を後にした。