残日録12 「民主主義を歪めるもの」

 60年安保の時、当時の全学連主流派幹部と右翼田中清玄との結びつきがありその後そのことが暴露された。「田中清玄他、二、三の大口と、全学連に同情的な学者、評論家、芸能人等からの〝金”(東京)で一千万円程を集め、こうして集まった金を学生の動員費用の他、主流派幹部の生活費、遊興費にあてたそうである。」ぐらいのことを知識として知っている人はどれくらいいるのだろうか。

 これについて何かを書こうというのではない。(吉本隆明がこれについて発言している。『唐牛健太郎追想集』所収)

 こういう事態にあって、江沢洋が「民主主義を歪めるもの」を書いている。(「構造改革16」統一社会主義同盟 1963.5)そこから一部を引いておきたい。

 「私はむろん、旧共産主義者同盟(ブント)に結集していた人々が、皆このような腐敗分子だったとは思わないし、またブントによって指導された全学連主流派の闘争の積極的な側面が、これによって捨象されてはならないと考える。思想的には我々と根本的に異質な点を有しながらも、彼らなりに真剣に大衆運動に挺身してきた誠実なブント系の活動家も、私は多く識っている。しかし共産主義者同盟という一つの組織内であのような事態が発生し、放置されていた背景には、たんに直接関与していた幹部の品性として片づけられる以上のものが存在していた事は、当然であろう。私は彼らの組織にあってこのような腐敗を醸成した主要な思想的基盤として、民主主義に対する極めて一面的な把握とそこから生ずる民主主義の軽視或いはヴィジョンの貧困があったと考える。ブルジョア民主主義―→ブルジョア階級支配の道具、プロレタリア民主主義―→プロレタリア階級支配の道具とするに止まる図式的理解の不毛性と、両者の間の明確な断絶が彼らには濃厚に存在していた。そこからは、憲法に保障された民主主義も基本的には、独占側の侵害に対する抵抗闘争を通じてのプチブル急進主義に傾斜した階級闘争を発現させるためのものとしてしか評価されず、ましてや、大衆の中にみなぎっている一般民主主義の要求をくみとって、民主主義の新しいヴィジョンとその定着を、大衆闘争の中で獲得していく契機は捨象されてしまうのである。道具、形式としてしか評価され得ぬ民主主義の理解は自己の政策、論理を大衆運動において貫徹しようとする時、もしそれが邪魔ならば、臆面もなく民主主義を破棄してはばからぬ態度と結びつく。三十五年三月の全学連目黒大会等において、田中清玄の公言する如く、反主流派排除のため、田中配下の右翼の暴力を借りて恥じなかった事などその一端である。旧共産主義者同盟の衣鉢をつぐ社学同の諸君が、昨年十二月、東大駒場自治会の選挙で票のすりかえを行ったため、その後駒場では〝執行部不在”という驚くべき自治会民主主義の形骸化を来している状況は、まさに彼らが、このような意味でブントの思想的な負の遺産を清算していないことを示しているものであろう。社学同の諸君の真摯な自己批判を願うものである。」(p56-57)

 「構造改良 16」は1980年代に古書店でたまたま入手したものである。江川洋の「民主主義の新しいヴィジョンとその定着」がどのあたりにあるのかは不明だが、残日録11の渡辺の(三権分立は)「単に国家や政府だけではなくて、より小さな組織でも一般的に言えることである」につながっている、と読める。

 

2018年07月21日