斎藤環+與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮社.2020)

「表裏」に、



「友達」はいないといけないのか。「家族」はそんなに大事なのか。「お金」で買えないものはあるのか。「夢」をあきらめたら負け組なのか。「話し上手」でないとダメなのか。「仕事」を辞めたら人生終わりなのか。「ひきこもり」を専門とする精神科医と、重度の「うつ」をくぐり抜けた歴史学者が、心が楽になる人間関係とコミュニケーションのあり方を考える。



とある。



與那覇 実はデイケアでSST(社会技能訓練)をやっていたときに、忘れられないエピソードがあるんです。患者さんが「働いているときに苦しかった状況」をロールプレーイングで再現するのですが、どう考えても「病気」なのは患者を追いつめた人の方でしょ、という話がいっぱい出てくる。パワハラ上司とか、モンスタークレーマーとかですね。彼らに攻撃されてうつになるのは「普通の人」であって、ほんとうに治療が必要なのは相手の側なわけです(苦笑)。

 これって変じゃないですかと尋ねたところ、臨床心理士の答えが振るっていて、「たしかに上司やクレーマーがクリニックに来たら、病気と診断される可能性が高い。ただ彼らはたまたま、いまのところ地位や立場が守られていて<本人が困難を感じていない>から、来院せず、病気だと言われていないだけですよ」と。つまり誰が心の病気と呼ばれるのかは、しばしば当人の気質や症状以上に、社会に置かれている環境で決まるわけですね。



斎藤 医療関係者が「事例性の問題」と呼ぶものですね。典型は発達障害で、少し子どものふるまいが周囲と違っても、親が「この子の個性だから」と受け入れて何もしなければ事例化しません。しかし親御さんが過敏だったり、「発達障害バブル」的な言説に煽られたりして「うちの子は絶対おかしいから診てほしい!」と病院に連れてくると、「障害」として事例化することもあるわけです。

 心の病気は①本人が苦しさを感じるか、②周囲が問題視しているか、という二重の基準によって、病気として発現するかどうかが決まる。その意味では「相対的なもの」ですが、だからといって苦しさの度合いが低いわけではなく、レントゲン等で「客観的」に観察できる病気よりも、社会的な病であるからこその、深刻な苦痛や葛藤を引き起こすことがあります。



與那覇 ある社会では「きみはおかしい。病院に一度行くべきだ」と言われることが、他の社会では「こんなの常識。そっちが合わせろ」となっていることもありえると、



斎藤 その通りです。わかりやすいのは青少年のいじめで、アメリカなら加害者がパーソナリティ障害などを疑われていて病院に連れていかれるケースでも、日本は逆に被害者だけが通院して「適応障害」などの診断を受けて終わりにされることが多い。つまり、いじめる側の「やんちゃ」は一過性のもので、大人になれば落ち着くだろう。だから病気とまで言うほどのことはないと、そう扱われがちな風土があるんですね。



與那覇 なにが病気と見なされるかは、裏返すと「なにが〈普通〉と見なされているるか」とイコールですから、心の病を切り口とすることで、社会や文化の問題が見えてくる。気になるのは、本書のこうした認識が、どこまで治療者の側にフィードバックしているかなのですが……。



斎藤 これが大問題で、遺憾ながら精神科医の九割以上は、あくまで疾患を「脳の問題」としてのみ捉えて、薬物治療主義に閉じこもっている状況なんです。うつ病でも統合失調症でも、「この検査データがこうなっていたら確実にその病気」といったバイオマーカーは発見されていないのですが、頑なに病因を脳に還元して、社会とのつながりを軽視する人が多い。学校や職場の人間関係にちょっと介入するだけで解決できる問題もずいぶんあるのですが、そうしたケースワークが不得手な意思があまりにも多い。

(P240-243)



 これは「保険適用にするには「病気」にしないといけない、そのためには生物学的な病因がなくては……といった思考に行きがち」だからだと斎藤は言っている。薬物治療主義は「診察時間の短縮」ともつながっているのかもしれない、と思うが、想像の域を出るわけではない。斎藤によると「最近は、ひきこもりの当事者たちがこうした傾向に反発しはじめている」という。「当事者研究」という分野から様々な声があがることだろうと思う。

20201011

2021年01月09日