稲葉振一郎「市民社会論の復権に向けて」(『市民社会論の再生――ポスト戦後日本の労働・教育研究』(春秋社.2024)所収)――「市民社会」ということば 残日録240907

私は図書館業界という狭い世界であれこれ書くことがある
「子供の本の選び方――その傾向と対策」(「み」1988-02)は一大決心で書いたものの、反響はなく、約20年後に島弘さんのお仕事によってやっと日の目を見させていただいた。これが当時何かしかの手応えをいただいておれば、児童サービス論をもう少し深めていただろうに、と思う。児童サービスへの発言はその後ずいぶん後になってのことになる。当時はもっぱら児童図書館研究会の組織課題(組織の再編、規則の改定、地方組織の強化)に関わっていた。
「『市民の図書館』再読」(「み」2000-12)は読まれたほうだから多少の反応はあった。
「子供の本…」から「市民の…」までの間には「普通の図書館をめざして」(「み」1994-04)などを書き、それらを「たのしいかしだしにむけて」「本の世界の見せ方」(六夢堂.1997)としてブックレットにまとめている。
「『市民の図書館』再読」を書いたことで、「図書館界」(56-3 2004)の「〈誌上討論〉現代社会において公立図書館の果たすべき役割は何か」に「『貸出』を考える」を書くことになった。その前後にも資料提供について書いている。
『市民の図書館』の「市民」については、「再読」で引っかかるところを書いているのだが、このブログでは20190525『「大衆」と「市民」の戦後思想――藤田省三と松下圭一』(趙星銀.岩波書店.2017)でも「市民」についてふれている。この趙星銀の著作からの学びがあるものの、「市民論」は私自身の20世紀の閉架書庫につっこんだまま「ほこり」を被らせていた。図書館業界では「市民論」は流行らなかった。
このたび稲葉振一郎『市民社会論の再生――ポスト戦後日本の労働・教育研究』を読み、少しだけ刺激を得ることができた。少しだけ、なのは、私の非力のせいである。
松下圭一の「市民論」は構造改革論から生まれたものと言えるが、それとは別に初期マルクスを基にした「市民社会論」があり、これについて、稲葉は「日本資本主義論争」を背景にして紹介している。
ずいぶん長くなる引用だが、忘備録もかね、後に引用するときに便利なように入力しておく。引用したもとの文献まで読んでくれる人は限られているだろうから、この部分あたりは読んでおいていただけたら、と思う。できれば稲葉『市民社会論の再生――ポスト戦後日本の労働・教育研究』を読んでいただきたいが、この本は、第1部が登場由紀彦の労働運動史を、第2部は森重雄と佐々木輝彦の教育学を軸にしているので、これらを読むのは苦手という場合は、「おわりに――市民社会の復権に向けて」だけでも、おすすめする。


日本の戦後の社会科学の流れの中で「市民社会派」といったときは、必ずしもこのマルクス経済学の一学派(「ある意味でのマルクス本来の、あるいは若きマルクスに原点回帰しての、資本主義との対決の思想」(p77))に制限されるわけではなく、もう少し広く、政治的にリベラル左派にシンパシーをもって市民運動などにも連帯した社会科学者を指す場合もある。この広義の「市民社会派」においては丸山眞男がその代表選手として挙げられるわけでもあるし、経済学においても、大塚久雄門下の比較経済学史学もまたそこに数え入れられることがある。ただここでは狭くマルクス経済学プロパーでの「市民社会派」に焦点をあてたい。そうするとほとんどフェティシュな意味合を込めて「市民社会」の語を流行させたのは、第Ⅰ部でみた東條由紀彦にも強く影響を与えた平田清明であり、たしかに平田はことにその名古屋大学在職中に多数の門下生を輩出して学派的な集団を形成しはしたが、同様に重要な存在としては名古屋大学で平田の同僚であった水田洋、そして彼らの一回り上の先輩である内田義彦である。
内田、水田、平田を軸として「社会市民派」を考えるとまず気付かされるのは彼らが理論プロパーの研究者ではなく学説史、思想史の研究者であるということであり、第二に、ことに内田、水田においてはマルクス以上にアダム・スミス、一九世紀社会主義以上に一八世紀啓蒙の影が強く落ちている、ということである。戦後に大学を卒業した平田と異なり、内田、水田は戦前、戦時に大学を卒業し、戦時中に軍属その他の調査員としてそのキャリアをスタートさせている。水田、平田の師である高島善哉は、大河内一男同様、マルクスを論じることを禁じられた戦時中、アダム・スミスを研究し、スミスの向こう側に暗黙にマルクスを見通すことでやり過ごしているわけだが、水田や内田も同様にスミスを読み、スミスの継承者としてのマルクス、マルクスの土台としてのスミスを見出すことで自己の学を形成していった。その中で彼らにとってスミスは単なるマルクスの前提ではなくもうひとりの巨人として確立し、マルクスが目指した社会主義と同じく、(スミスはその語に特別に意味を込めていないが)スミスの中に彼らが見出した市民社会が、目指すべき理想として確立した。それは世界的に見れば、「宇野派」と並んで日本における土着的、自生的な西洋マルクス主義だったと言える。そこには「人間の顔をした社会主義」としての「市民社会的社会主義」への志向が明確である。しかしながらそこで、「市民社会」の理念が重視されたことには、当然ながら日本固有の事情がある。それは言うまでもなく、日本が後進国、後発的、後追い型近代化・資本主義化を行っている社会であるという認識であり、日本においては社会主義革命の前に、まず普通のまともな資本主義、市民社会になるための市民革命が必要だ、という認識から来るものであった。実は形だけみるとこの「二段階革命論」は日本における正統派、日本共産党の認識と変わるものではない。しかし正統派における二段階革命論は、もとをたどれば戦前、スターリン支配下のコミンテルンの「三二年テーゼ」に忠実にのっとっただけの政治先行のものであり、内発的動機も理論的正当化も正統派においては欠けていた。だが「市民社会派」においては、日本における市民社会の実現の必要性についての独自の理論があったのである。
他方ではそれは逆説的にも、高度成長以降の日本の経済社会の展開に対して、正統派よりも有意義な対峙を市民社会派に可能とした。というのは正統派にとって日本資本主義の本質は戦後においても戦前と変わらず、半封建的で後進的なものに過ぎず、戦後の高度成長は労働者や農民の搾取に基づいた不自然で不合理なものとして捉えられていたが、市民社会派はそのような現実を無視した強弁を行う必要がなかった。すなわち市民社会派は、高度成長の現実を素直に受け止めた上で、同時にそれを本来の市民社会の理念からの逸脱、堕落として認識することができたのである。一九世紀の資本主義においては剥き出しの搾取が目立ったのに対して、二〇世紀以降の資本主義の基では、豊かさの成果が労働者大衆にまでいきわたる一方で、高度に組織化された官僚制的大企業の中で、労働の意味は失われ、人々は疎外される――という風に。もちろんそうした展開は日本のみならず先進諸国に共通するが、自主的な市民革命を経験せず、いわば一足飛びに前近代の封建社会から超近代的な独占資本主義に突入した日本は、西欧社会に比べて疎外への抵抗力が弱くなるのではないか、それゆえに現代日本において市民社会の理念はいまだに、というよりも今だからこそ意義を持つのではないか――そうした議論が成り立ちえたのである。
正統派との対比における市民社会派の意義を以上の見たとして、それでは今一つの非正統派マルクス経済学としての宇野派との対比において見るとどうなるだろうか? 政治党派的な観点からすれば宇野派も市民社会派もともに非共産党系と括れてしまうし、どちらも新左翼や非党派的な市民運動に一定の影響力を持ったが、他方で(ある程度)アカデミックな観点からは興味深いことに正統派と市民社会派はともに「講座派」の流れを汲み、宇野派は「労農派」の流れを汲む、ということになってしまうのである。言うまでもなく「講座派」と「労農派」の対立は、まさに「三二年テーゼ」のせいで引き起こされた(その意味で純粋に学術的とはいいがたい)「日本資本主義論争」によるものであり、「三二年テーゼ」どおりに日本を半封建的な社会、日本の資本主義を未熟で部分的なもの(日本の社会経済の全体を覆いつくしていない)、と考える「講座派」と、既に論争の時点である昭和初期において日本は資本主義社会である(たとえば農村の主小作関係も、既に封建的な身分関係ではなく、市場の論理に従う取引関係である)、と考える「労農派」との対立であった。そして繰り返すが、この「講座派」対「労農派」の構図の中では、市民社会派は正統派と同じく講座派の側に繰り入れられてしまうのである。
ただこの「講座派」的な視点と「労農派」的な視点との対立は、たしかにもとはと言えば愚劣な党派政治の所産という色彩が濃いが、まったく無意味だったわけではなく、ことに戦後日本経済学において、非マルクス主義経済学、「近代経済学」の陣営における日本経済研究においても、同様の対立、論争は存在していたことに注意せねばならない。そこで純粋に学問的な観点からこの対立を解釈しようとするならば、いくつかの考え方があることがわかる。まず最初に思いつくのは、もっとも単純に、歴史的な発展段階論の土俵の上で、日本経済の現状をどの段階に位置づけるか、という対立として解釈する、というものだ。その場合講座派は、少なくとも初発の「論争」の時点、昭和初期についていえば日本を自由主義段階以前、下手をすると絶対王政の重商主義との過渡期あたりに位置づけてしまうのに対して、労農派ならば自由主義どころか帝国主義に位置づける、という風になる。しかしそれだけではない。そもそも日本の資本主義、経済社会をダイナミックに発展するものと捉えるか、停滞的なものとして捉えるか、という違いとして、労農派、というより宇野派と、講座派、というより正統派の違いを捉えることもできる。先に見たように戦後の正統派は、戦前のファシズム期のみならず、高度成長期の日本経済さえも本質的に停滞的なものとみなす嫌いがあったのに対して、宇野派は戦後、それどころか既に戦前についても、少なくとも戦間期以降の日本経済を既に帝国主義に突入したものと捉えていた。
ただ以上のように解釈すると,講座派には全く立つ瀬というか救いがなくなってしまう。しかしここでもう一つの解釈が可能となることを指摘したい。つまり成長、発展の通時的なダイナミズムに主たる関心がある労農派――宇野派に対して、講座派の可能性の中心は、共時的な構造の認識にある、という解釈である。講座派の教科書、パラダイムとされるのは山田盛太郎の『日本資本主義分析』であるが、そこでは日本の経済社会は三つのセクター、つまり官営企業や軍工廠主体の重工業セクター、主として軽工業からなる、民間企業主体の普通の資本主義セクター、そして半封建的な農村、からなる、異質なものの複合体として描かれている。これを発展段階的に見れば、最先進部門を民間資本ではなく政府に支配され、人口の大多数を占める農村は半封建的身分社会であるという意味において、それは確かに未成熟な、離陸途上の資本主義という風に位置づけられてしまう――異質なセクターの共存は発展のタイムラグの結果でしかないとされるだろうが、そうではなく、「進んだ」近代的部門と「遅れた」伝統的部門が安定した相互依存関係にある――異質なものの共存は偶然の結果ではなく、恒常的な構造である、と捉えることもできる。つまり二つの立場の対立は「日本資本主義を後進的とみるか先進的とみるか」「日本資本主義を停滞的とみるか動態的とみるか」だけではなく、「日本資本主義を通時的な変化の相においてみるか、共時的な変化の相においてみるか」というものとしてみることもできる、というわけである。(p201-206)


「講座派」にも日本社会の「多重構造論」としてのみるべきところはある、というところか。
最後のところは、中西洋『増補・日本における「社会政策」・「労働問題」研究』「補論1」を参照、とある。


改めてみるならば「市民社会派」の「市民社会」の理念は、ハーバーマスの描く「市民社会」「市民的公共圏」のそれに非常に近い。ハーバーマスが念頭に置いているのは、「市民社会派」の論者たちと同様、思想史的に言えば一八世紀から一九世紀の啓蒙的思想家たちであり、社会階層としては彼らの読者であったような開明的貴族やブルジョワたちであり、そうした人々が書物、更に当時勃興しつつあった新聞雑誌などの定期刊行物、つまりジャーナリズムを通じて、あるいはサロンやコーヒーハウスを通じて行うビジネス上の、あるいは純然たる余暇の娯楽としての社交である。彼らの活動基盤は単に自由な市場だけではなく、市場での活動で破滅することがないだけの財産と教養である。そのような財産がないため、市場から降りる自由がない労働者のために、連帯によって疑似財産(組合の相互扶助によって、辞めてもすぐには飢えない保障)を提供するのが、労働組合のもともとの機能であって、反市場的な共同体というより、市場の円滑な機能を支える下部構造である。いずれにせよ、市場によって自由な活動の余地を持ちつつ、市場によって破壊しない安全保障地を確保している人びとからなる社会が市民社会である。
このような社会のプロトタイプが近代啓蒙期に限定されるわけではないことは「市民社会派」の論客たちにも理解されており、たとえば水田はイタリア・ルネサンスを重視する。しかしルネサンスに目をとめるならば、ルネサンスの知識人たちが「復興」しようとした古典古代の、つまりは、ギリシア、ローマの経験、とりわけポリスの民主政と初期ローマの共和政に注目せねばならない、と主張するのが、狭義の「市民社会派」とは一見縁が遠いが、広義の「市民社会派」には、丸山眞男以来東京大学法学部にかすかに残された糸を通じて連なるローマ法学者の木庭顕である。木庭によれば市民社会とは法のある社会であり、法とは政治の一部、政治の一形態であり、政治とは強制から自由な人々同士の、自由な討論を通じての共同的意思決定である。そして民主政とは、明確な根拠、合理的な理由なしには決定を下さない政治のことであり、そうした根拠づけを整える(アジェンダセッテング(課題設定―明定)や成員資格にかかわる基礎構造に方は深くかかわっている。法とは単なる規則のことではない。いわゆる弾劾主義、対審構造、陪審制などを見れば、我々の知る司法とは裁判官による決定システムなどではなく、当事者を中心に、それを支えるべく陪審や裁判官を置く討議のシステム、つまり政治の一種であることがわかる。経済学を基盤としていたがゆえに「市民社会派」の論者たちの認識には欠けていた(そして実は「市民社会派」に影響を受けていた法学者さえよく理解していなかった)こうした事情を木庭は明らかにし、市場とそれが可能とする社交のみならず、民主政と法もまた市民社会の基礎的構成要素であることを示す。
「市民社会派」が自由な市場を、ハーバーマスが更にそれを基盤としたジャーナリズム、その上での自由な言論を市民社会の構成契機として重視したならば、木庭が古典古代に見出すその対応物は、広場(アゴラ)であり、劇場であり、それらを含めたフィジカルな構造体としての都市である。極端に図式化するならば石畳を敷いた(それゆえ私的に占有して畑にできない)道路や広場からなる都市空間が公共圏であり、他方大多数の人々の生存基盤、私生活の場はそれを取り巻く田園都市、近郊農村部(木庭は「領域」と呼ぶ)である。近代の経済学は市場(しじょう)を抽象的な取引のネットワークとして理解するが、そのフィジカルな基盤は、古代から中世、近世まで、近代的な通信技術の発展以前は、具体的な場所としての市場(いちば)であり、そうした市場を成り立たせる都市同士を結ぶのが、またしばしば石畳で舗装された道路である。そうしたフィジカルな構造物によって公共圏は成り立っているのであり、公と私の区別は単に観念的にあるいは言語的にいうのではなく、物理的にも確定されている。ハンナ・アーレント流に言えば、公共圏を介して人々は切り離されつつ結びつけられるのである。古代にも書物はあったが写本であり、文芸も読まれる以上に謡われ、演じられるものであり、法もまた主として法定における弁論としてあった。このような、古典古代的な都市、そこにおける市場、劇場、議会、法廷を市民社会の原点と考えるならば、近代におけるハーバーマスのいう「市民的公共圏」、あるいは「市民社会派」の考える市民社会とは、それが産業革命以降の近代的な交通通信技術によって変質を伴いつつ拡張したもの、つまり物理的な都市構造によってではなく、メディア技術のネットワークによって支えられたヴァーチャルな都市なのである。
なぜ市民社会の理念を支える都市的なもののフィジカルな実体の水準に注目することが重要なのか? 我々は第2部(「斜めから見る「日本のポストモダン教育学」・改」―明定)において、近代的なヒューマニズムの浅薄さ、それが抱える欺瞞的な構造をマルクス主義、ポストモダニズムが批判してきたことを見てきた。しかしながら社会主義・共産主義が人類の目指すべき希望としての地位から滑り落ちた以上、欺瞞のない完全な正義を掲げて近代ヒューマニズム、リベラリズム、つまりは市民社会的理想を拒絶することはもはやできない。ポストモダニズムにも、その理想を否定したところで、そこに現れるのは剥き出しの暴力の容認、肯定でしかない。だから我々はヒューマニズム、リベラリズムの理念を揚げつつ、そこからは零れ落ちてしまう人間的実存の領域――人は常に自立して合理的であれるわけではなく、他人の監督や世話に頼らずには生きていけないこともあることを認めねばならない。そしてそのような監督―躾け/調教・世話=ケアは、対等な関係性の下での、潜在的に暴力をはらんだものなのであり、そうした暴力を馴致するという課題を、リベラルな正義とは別のケアの正義として追及せねばならない。しかしケアの正義で塗り替えることができるわけではない。というのは、ケアの正義の目標は、結局のところ、ケアされる必要がない主体、リベラルな正義の演技ができる主体を育て上げることだからである。
ここまでは第2部の復習にすぎない。ここで都市的なるものの具体性になぜ注目せねばならないかをいうと、市民社会の理念性を支える具体的な水準、つまり古代都市における広場や劇場、街路といったインフラストラクチャー、近代市民社会においてはそれに加えて、出版、放送、電信電話が織りなすヴァーチャルな広場・劇場、それを支えるテクノロジーについて、その可能性と限界について考えなければ、弱く傷つきやすく愚かな人間同士が、合理的で行動力に富む市民の演技をどこまで、どの程度続けられるのか、どのようなインフラや技術がそうした演技を助けるのか、あるいは歪めるのか、がわからなくなるからだ。我々はただ市民社会の表面で流通する言論や表現だけを、その内的な力や合理性だけを見ていることはできない。それを紡ぎ出しまた享受する、生身を持った人間の実存と、そうした人間を支えるやはり具体的な技術について考えなければならないのだ。
しかしこうした「都市的なるもの」へのセンス、問題意識が、ハーバーマスはともかく日本の「市民社会派」には致命的に欠けていた。中世以来の大学もまた、都市とは切っても切れない存在だったにもかかわらず。かくして都市は、抽象的な市場に目をとられた経済学、領域国家に魂を奪われた政治学双方の視野から抜け落ちてしまった。市民社会のフィジカルな実体的根拠としての都市、社交と祝祭の場であると同時に知的にも産業的にも創造の場である都市への注目はジェーン・ジェイコブズの都市論から本格化し、今日における地域産業集積への深い関心へとつながっていくのだが、「市民社会派」はそうした流れとすれ違っているし、また地域産業集積を「市民社会」という視覚から捉えなおす機運もまだそれほど強くない。
もちろん実践的な運動にもコミットした東條(本書「第1部東條由紀彦の市民社会論の検討」―明定)のみならず、「市民社会派」やハーバーマスに共感を寄せる読者であるならば、本書でこれまで提示してきたような「公共性の構造転換は長期的に見れば反復するだろうし、市民社会もまたいつかどこかで復活するだろう」という客観的・実証的言明だけでは満足できないだろう。「市民社会」の理念がよきものであるなら、少しでもそれが現実化されていくことが望ましい、しかしそのためには何が必要なのか? という問いへのいま少し具体的な答え、と言わずともヒントがほしいだろう。しかしながらここまで我々は、例えば労働運動の可能性について、悲観的な議論しか提出して来なかった。その上であえて少しでも前向きなことを言うとすれば、近年、中小企業研究や文化経済学なので、革新のインキュベーターとしての都市への注目が高まっていることには期待してよいと思われる。「市民社会派」のなけなしの知的遺産を、そうした潮流と掛け合わせてみることは必要だろう。地域産業集積をめぐる議論が、重商主義の延長線上の産業政策論に終わってしまわないためには、経済学や社会物理学の洗礼された数理モデルのみならず、「市民社会としての都市」、そこにおける政治や社交についての徹底した考察が必要となるはずである。それを経由してこそ学校や組合を、閉域としての国家のミニチュアではなく、市民社会の構成要素へと組み替える可能性も見えてくるのではないか。(p212-218)


松下の「市民論」、平田等の「市民社会論」は理念として成立はするが、実社会においては、虚像としての「市民」でしかなかった。その「市民」は20世紀末の「欲望資本主義」=「大衆消費社会」の荒波にかき消されてしまったように見えるが、稲葉は「「市民社会派」のなけなしの知的遺産を、そうした潮流と掛け合わせてみることは必要だろう。」と考え、「「市民社会としての都市」、そこにおける政治や社交についての徹底した考察が必要となるはずである。それを経由してこそ学校や組合を、閉域としての国家のミニチュアではなく、市民社会の構成要素へと組み替える可能性」を切り開こうとしているのである。
「公共性」「コモン」「広場」といった言葉が頻繁に使われるようになったのがいつ頃からなのかは、それ自体が研究の対象になるのだろうが、図書館においては最近のことのように思う。

私は前掲「『市民の図書館』再読」(2000.12)で、

 ……住民でなく「市民」という言葉に違和感もありました。それは「市民社会」や「市民」という概念と、〇〇市に住んでいる日本人とが同定できるかのごとき論調に意義を持っていたからです(私は理念としての〈市民社会〉に否定的ではありませんし、反近代主義ではありません。〈市民〉をあいまいに用いることは避けたいという立場です)。
だから「自由で民主的な社会派、国民の自由な志向と判断によって築かれる。国民の自由な思考と判断は、自由で公平で積極的な資料提供によって保証され、誰でもめいめいの判断資料を公共図書館によって得ることができる」という理念と、現実の「しみん」として暮らしている人との乖離は気になるところでした。/(略)/この本にはこのような理念とともに政策マニュアルが提示されています。「貸出し、児童サービス、全域サービス」というサービスの基礎の有効性は、多くの図書館で検証されてきました。/この政策マニュアルは教養主義からすると「パンドラの」箱を開けたのです。そこから出てきたのは「群衆」であって〈市民〉ではなかったのです。/〈読書する市民〉に成長するであろう大衆、という図書館側の予定したプロセスにのらない人たちの登場です。(p25-6)

と書いている。
今日の図書館において、「公共性」「コモン」「広場」そして「市民」を、「どういう事実(経験・実践)でもって」「どう語るのか」について、表現する者にとって自覚的であることが期待されよう。
私自身、図書館員としての経験をあまり書いてこなかった。ずいぶん前、成田図書館勤務時代に物語仕立てで「選書をする図書館員としての私」(「みんなの図書館」1990-12)を書いたことがあった。それは一回きりで終わった。経験を物語仕立てにして間接的に書くという手法が広がる可能性もあったと思うが、当時の(今も、か?)多くの書き手は「現状報告」を主にしている。
その後、働いた(滋賀県)高月町立(現・長浜市立高月)図書館が不登校生徒にとってどういう場であったのか、そして図書館内に生まれた不登校児のための「教室」のこと、また青少年の心の病のこと、などなども書かないままである。
コミックで図書館が登場するようになったので、図書館員の体験が表現されやすくなったように思う。そういう物語のなかから「公共性」「コモン」「広場」そして「市民」を、市民社会の構成要素へと組み替える可能性が生まれることを期待したい。

「市民社会」については、「労農派」大内兵衛の系譜もあるが、これは後日に持ち越す。

2024年09月07日