森実「部落解放をめざす教育の展開」など 残日録240821
滋賀県同和教育研究会(1958年結成)は、1947年発足の小・中学校による「滋賀県同和教育研究協議会」を前身として、高等学校も加わる組織となり、滋賀県人権教育研究会として改称し今日に至る組織である。
『滋賀の同和事業史』(滋賀県人権センター.2021)によると、初期の段階から対立を内包する組織であったとのことである。
……五四年の教育二法(公立学校教員の政治的中立を定めた法律)公布、五八年の勤務評定開始、六一年の全国統一学力テスト実施などへの反対運動を展開し、文部省や各地の教育委員会と鋭く対立していた日本教職員組合(日教組)は、文部省指導の同和教育をきびしく批判していった。こうしたなか、日教組に属する県教組も県教委や管理職による同和教育の進め方に対決する姿勢を取った。六〇年11月二五日付の県教組機関紙『滋賀教育新聞』二一五号は「同和教育特集号」として発行され、このなかで、部落問題は「今日の日本において独占資本が支配している中から出てきた最も基本的な矛盾」の一つであるにもかかわらず、文部省は「同和教育を単なる仲よし教育まで後退させようとし、あるいは特設道徳教育とすり替えようとしている」と政府の姿勢を批判した。さらに県教委主催の研究会は「積極的な取り組みに欠け」ており、滋同教三役の一員でもある某校長は現場の要望に応じた話しあいに応じようとせず、県教委の指導主事が全同教を批判する発言をいたなど、県教委や管理職の姿勢を弾劾する議論を展開した。(p96)
日教組としては、同和教育を、道徳教育なのか、社会科教育なのか、とでも分けているのだろう。とすれば、社会科教育がどれだけ科学教育になっているか、が問われなければならないのだが、なにせ当時は「江戸時代の百姓は貧乏でアワやヒエを食べていた」、江戸時代の百姓は悲惨、という歴史教育だったのだから、科学教育というには危ういものだが、「道徳」⇒「徳目」教育は否定したいところではあったのだろう。
今日だと「人権」教育は「道徳」でありやなしや、というところだろう。(肌の色についての教育がヨーロッパのどこかと日本では違っているそうで、日本は道徳的なのだが。)
この組織は60年に県教委とともに「同和教育の進め方」と題した指針の素案を発表し、62年に正式な「案」を示すが、これに対しても批判が出る。その争点を『滋賀の同和教育 滋同教四十年の歩み』の引用から転記しておく。これも興味深い。
この際の争点は、「一つは同和教育を学校教育の中に閉じ込めるのか、同和教育運動ととらえるのか、二つ目は、官制同和教育か、自主的、民主的同和教育か、三つ目は、部落差別を封建遺制とみるのか、それとも、現在の日本の社会機構の持つ矛盾としてとらえるのか」の三点であったという。六〇年代を通じて、こうした論争は全国で展開されており、これが滋賀県では滋同教内部の葛藤としてあらわれたといえるだろう。」(p97)
一つ目は「教育権」か「学習権」か、や生涯学習論につながる問いでもあっただろう、といいたいが、争点は教育対象の範囲をどう決めるかであったと思われる。二つ目は構造改革派のヘゲモニー論の影響かもしれない。
三つ目が、その後の部落解放運動や部落史研究とも関係する争点である。部落差別を封建遺制とみる側が「国民的融合論」を展開したり、資本主義社会では部落問題はなくならないとしていた解放同盟が「市民社会論」の影響を受けてか「人権」を保証する運動に展開したりすることにつながるところである。
全国同和教育研究協議会の1960年代の取り組みを、森実は「部落解放をめざす教育の展開」(『現代の部落問題』解放出版社.2022)で、
一九五五年からしばらくは「みんなのためにみんなでとりくむ」という親しみやすそうな言葉が使われ、その後数年間は「足元の問題をほりおこす」という、課題を示した言葉が加えられた。一九六〇年代に入ると、漢字言葉を多用した研究大会テーマが置かれている。このあたりには、同和教育運動の試行錯誤が反映していると言えよう。
その後一九六四年の第一六回研究大会では、「差別の現実を明らかにし、生活を高め、未来を保障する教育を確立しよう」へと変化した。現実から出発した教育実践を組み立てることこそ、この時期の同和教育運動にとって不可欠だった。この研究大会テーマへの変化は、議論を通じて大切なことを確認しながら、教育運動として分裂してしまわないよう留意しつつ原則が模索されていたことを示している。それがさらに一九六五年の第一七回研究大会では「差別の現実から深く学び、生活を高め、未来を保障する教育を確立しよう」という研究テーマとなる。「差別の現実から学ぶ」という言葉は、さまざまな意味合いや論点を含んでいる。たとえば、そもそも「差別の現実」とは何なのか、ということである。ここには、差別をどう捉えるかということが反映して、さまざまな内容を含みうる。差別事象はどのように発生し、その背後に何があるのか。生活実態を含めて差別の現実と捉えるのかどうか。「長欠」や「不就学」、「荒れ」や「低学力」など、差別は子どもの姿にどのように表れるのか。教職員はその姿を子どもや親自身の責任と捉えていなかったか。また、「深く学ぶ」とはなになのかということも重要である。前年までは「差別の現実を明らかにし」という文言だった。「明らかにし」と言えば、教職員にとって差別の現実は自分の外側にだけ存在すると受けとめられやすい。「あそこにあんな差別がある」というニュアンスである。それに対して「差別の現実から深く学ぶ」といえば、現実を見据えることによって、個々人が自分自身を捉え直すことを含む。自分自身のなかに差別意識や差別に通じる認識があることを自覚し、そこから自らを解放しようとするのである。「現実から深く学ぶ」を打ち出す第一七回研究大会に向けて提出された「第一六回研究大会総括と第一七回研究大会の課題」という文書では、この変化について、次のように述べている。
単にこのような事実があるというのではなしに、事実を明らかにし、その背景を追求することを通じて、私たち自体がどのようにものの見方、考え方を変えることができたかをはっきりしたいと思います。お互いが事実をどうとらえ、それによって自分たちがどう変わったのかを追求したいと思います。[「全同教三十年史」編集委員会編
一九九三]
かくしてこの言葉は、教職員がどのような事柄を差別の現実として捉え、そこから自分がどのように学んだのかを語り合い、綴りあうことをも意味するようになっていった。子どもたちを取り巻く事実、実践の事実を通して、教職員が差別の現実をどう捉え、教職員が何を学び、いかに自己変革したのか。これを実践報告に綴り、その内容に則して議論を重ね、教職員としての研鑽を深めるとともに、研究組織としての蓄積を豊かにしていくのである。
一九六五年の研究テーマは、現代に至るまで実に六〇年間近くにわたって維持されている。維持されているのは、この研究テーマが同和教育の核心を言い当てていると認められているからだろう。「差別の現実から深く学ぶ」という文言には、さまざまな意味合いが込められており、込められた内容が発展し変化する可能性をうちに含んでいる。だからこそ、長年にわたって意味を持ち続けてきたのだ。しかしそれは同時に、同和教育に取り組む人たちの間で、そうではない立場が繰り返し登場しており、そういう立場に対して批判し、牽制する意味でこの研究テーマが置かれているということでもある。「そうではない立場」とは、端的に言えば、部落差別を意識の問題としてのみ捉え、心がけをよくすれば差別もなくなると考える立場である。この教育観は、「部落差別は封建遺制である」という発想とつながりやすかった。(p158-160)
森の論考は、「部落差別は封建遺制である」という立場に対抗する「独占資本と対決する同和教育」の取り組みとして、高知の事例を紹介しているが、教育委員会系の人たちをも巻き込んでいる同推協では、論議の広がりを期待するのは無理があっただろう。また、当時の歴史学の状況で、いわゆる「労農派」の部落問題研究がどうであったのか、これについて今のところ参考にする文献にまでたどり着けていない。
小早川『被差別部落像の構築』には、「宇野理論に立脚した大串夏身の産業分析」が紹介されているが、いまのところ未見。(大串『近代被差別部落史研究』(明石書店.1980)
森は「「差別の現実から深く学ぶ」という原則が一九六五年に確率されていなかったら、同和教育運動は混乱していたかもしれない。部落差別を封建遺制としてのみ捉える人たちと、独占資本こそが部落差別を助長していると捉える人たちとの対立により、全同協は分裂していたかもしれない。この原則があったからこそ、混乱は小さく抑えられたとかんがえられる。」(p166)としている。
部落問題について図書館員が知っておいたほうがいいことの一つとして、同和教育(または部落解放教育)の歴史がある。
図書館運動においても「貸出の現実から深く学ぶ」ことが、イデオロギー先行の対立を抑えてきたとも言えよう。図書館問題研究会の活動については「図問研の大会基調報告案にみる資料提供」(明定,みんなの図書館.2018-06)としてまとめておいた。
TBS系列の「木下恵介アワー」の作品の再放送をBSで録画して観ている。脇役に新劇の俳優が出てくるので懐かしい。
「たんとんとん」は1971年放送の作品で、当時、大学生だったので見逃している。脚本は山田太一。
ウィキペディアからの引用で、あらすじは、
高校生の健一は、いつも、母・もと子と喧嘩ばかりしている荒くれ息子。しかし、大工の棟梁である父親が旅先で倒れ帰らぬ人になってしまったことで生活は一変。もと子のあまりの落ち込みように健一は、大学進学を諦め父の跡を継ぐ決意をする。
主演の健一は森田健作。母がミヤコ蝶々。始まってそうそう父親が死ぬので、父親の登場はない。棟梁の弟子の大工に杉浦直樹。知人の大工の棟梁に花沢徳衛。その妻に杉山とく子。
死んだ棟梁の行方知れずの妹が相続金目当てに乗り込んでくるのだが、それが加藤治子(当時49才?)で、気の強いヤクザな女を演じていて面白い。母親役の印象が強いのだが、これは見もの。当人が気に入っているらしいところと、ミヤコ蝶々との掛け合いがいい。
森田健作が「徹子の部屋」で、父の棟梁の死後に雇われる大工を演じる近藤正臣について、その頃、人気が出て忙しくなりスケジュールが合わず、最後の方は登場しないで終わった、と話していた記憶がある。その最後の方だけは以前の再放送で観ている。
近藤扮する大工の青年は行方がわからなくなり、最後は電話ボックスから主人公に電話するシーンがある。青年は田舎から追っかけてきた少女(榊原るみ)と結婚を決意したらしく、故郷の鳥取に帰っていたということだった。その電話ボックスでのシーンの次に、電話ボックスのある駅の近くの風景が映るのだが、それが兵庫・但馬の余部鉄橋だったところがバタバタした収録を伺わせる。
「夢千代日記」の冒頭に餘部鉄橋が出てくるのだが、それは1981年の放送だから、1971年当時なら、全国的には鉄ちゃん以外はあまり気にしなかっただろう。