ハービー・ゴクロス「セクシャリティの意味と機能」または「われわれは何のために性行為をするのか」など 残日録240730
「こころの科学 233」2024.1 「特別企画 セクシャリティ 対人援助の新たな視点」でハービー・ゴクロスの「セクシャリティの意味と機能」についての記述に出会った。
佐々木掌子「セクシャリティと臨床心理学」という論考の中で紹介されていた。
ゴクロスらは、セクシャリティの意味と機能を以下の五つの要素に分けて考える事ができると指摘している。①性的な快感としての性、②親密な関係としての性、③アイデンティティーとしての性、④生殖としての性、⑤支配や影響力としての性、である。セクシャリティの五つの要素のうち、どれがクライエントのテーマとなっているのか、これを混同しないことがまず重要である。そしてこれら五つの側面について、援助者自身が「〇〇であるべきだ」「〇〇なものだ」とセクシャリティの価値観をもっていても、それを自覚できていないと、無意識のうちにクライエントを善悪で裁くことになりかねない。自覚できた場合、今度は「審判を下してはいけない」と動揺し、スルーしてしまうということが起こるのではないか。
とくに、性的な快感としての生は蔑ろにされやすい。前述の不登校の母親のケースは、親密な関係としての性の話だけでなく、性的な快感としての性もテーマになっているかもしれない。援助職自身が性的な快感に罪悪感や忌避感、羞恥心をもっていたとしたら、動揺し、なかなかクライエントの話を聞く態勢には入れないだろう。あるいは、摂食障害のケースに対して「夫婦になるのは親密な関係の人」という価値観を抱いていたとしたら、自分の価値観と異なる語りをするクライエントに違和を感じ裁いてしまいそうだと動揺し、スルーするということもあるかもしれない。(p25)
このゴクロスの指摘は、Gochros,H.l., Gochros,J.S;The sexually oppressed. Asssociation
Press.1977.からの引用、とのことである。
ゴクロスをPCで検索してみたら、「第4回 AIDS文化フォーラムin京都 報告書」がヒットした。
山中京子「ヒューマンセクシャリティ―基礎講座―」の記録の中に「われわれは何のために性行為をするのか」が出ている。
性科学の基礎知識として、人間の性的な発達を受精の瞬間から成人に至るまで遺伝子、ホルモン、性器、性自認、 性役割、性指向のレベルから捉える考え方が紹介され、その知識を基礎に多様な性のあり方が身体的性、身体的性と
性自認の関係、性指向の諸側面で生じていることが説明された。また、性科学者であるミルトン・ダイヤモンドによる「自然は多様性を生むが、社会はそれを規制する」という言葉が引用され、われわれの社会は自然に多様性が生じ
てくるヒューマンセクシャリティに対して「異性愛主義」による一定の規制をかけ、そのことが性的少数者である人々 を抑圧し、その人々がありのままの性で生きられない状況を生んでいることが指摘された。また、「われわれは何の
ために性行為をするのか」という根本的な疑問についてハービー・ゴクロスの提唱した(1)性的な快感(身体的、 精神的)を得るため、(2)ある特定の人と近づき、親しみ、より知り合うため、(3)誰かを相手に性行為を通じて
自分の何かを証明するため、(4)子どもを生むため、(5)自分を認識するためという考え方が提示された。その他に、 ヒューマンセクシャリティが持つ個別的対社会的、身体的対心理的、個人的対関係的といった両側面について、説明
がなされ、その両立あるいは混在の中にわれわれの社会のヒューマンセクシャリティがあることが確認された。(p38)
① 性的な快感としての性=性的な快感(身体的、 精神的)を得るため
② 親密な関係としての性=ある特定の人と近づき、親しみ、より知り合うため
③ アイデンティティーとしての性=誰かを相手に性行為を通じて 自分の何かを証明するため
④ 生殖としての性=子どもを生むため
⑤ 支配や影響力としての性=自分を認識するため
⑤のところが原文の約として2訳語のあいだに幅があるが。
これについては、翻訳が鹿児島国際大学福祉社会学部「福祉社会学部論集」に連載されているので、取り寄せることにする。
BLをテーマにしたTVドラマ・アニメが最近、多くなっていて、それが20世紀末からの「JUNE」系の系譜としてだけでは読み取れなくなってきているように受けとめている。
BL本については、作品論や作家論にまで手を出す余裕がないが、「セクシャリティ」については気になるところであり、このゴクロスの説に出会えたのは嬉しかった。
どこかの政治家が、といっても日本の中での話しだが、少子化対策として「一夫多妻制」を唱えたような情報が流れているが、当人の表現が誤解を生む稚拙であったのかもしれない。明治以前の日本では「性愛」「生殖」「家族」また「家」といったものが今とは違っていただろう。
「処女」神話が日本において大衆にまで流行るのは昭和後期からではないか。
1952年生の私の幼年期の記憶では、まだ村内では「夜這い」は認められていたように思う。
また、氏子であった生石(おうしこ)神社の秋の祭礼では、「赤(あか)」という赤い天狗面にシュロ様の毛髪を付けた装束の猩々が登場するが、その装束をつけた青年が夜も深くなると暗闇のなか娘を襲うことがあった。私の幼少時には蛮行ではあるのだろうが非行とは受けとめられていなかった印象がある。小学校の高学年になったあたりから非行と見なされるようにもなり、その猩々の衣装に背番号つきの布が縫い付けられ、襲われそうになったら訴え出ることになったが、襲う青年よりも深夜までうろついている娘のほうが非難されていた。
「こころの科学 233」の滝川一廣「〈性愛〉とはなにか、その発達――LGBT問題に沿って考える」で滝川は、
……一九世紀末から二〇世紀初め、性倒錯への異常視や差別感は否定されていた。いや、それを待つまでもなく性の文化史を遡れば、古代アテネ市民の間ではGは公認で、むしろ純粋な〈性愛〉とされたことはよく知られている。Lも、その語源となったレスボス島の女詩人の伝説は少しも否定的なものではなかった。ただ、その後のキリスト教支配によってこれらを聖書に背く「悪徳」となす観念が根を張ったという西欧固有の歴史があったに過ぎない。欧米で端を発したLGBTへのポリティカル・コレクトネスには、その反省と反動という色あいが濃い。
日本にはそうした歴史はなく、同性愛者も古代から現代まで性文化の一角に収まっていた。明治以降の欧化政策やキリスト教受容によって否定の視線も輸入されたとはいえ、それが社会を覆うことはなかった。たとえば戦前もL色の強い吉屋信子の少女小説は広く愛読され、なんの問題もなかった。八〇年代前後には同性愛を描く青少年向け人気コミックが流行したが、眉を顰める大人はおらず、テレビアニメで放映された作品もあった。性的マイノリティに対する日本人の態度は概して成熟度の高いものだったと考えられる。(p15)
と西欧と日本の違いを指摘している。
また、
私の認識が甘いのでなければ、諸外国は知らず現代日本に性的マイノリティに対する偏見差別が根を張っているとは見えない。それでもLGBT問題が取り沙汰されるのは、単なるグローバリスム下での欧米追随でないとすれば、現代の日本人の〈性愛〉のあり方に何らかの変化が起きている表れではなかろうか。それを探るには、社会一般の性意識、マジョリティをなす異性愛に目を向ける必要がある。紙数も尽きたので、考えどころに触れるにとどめる。(p19)
早期の性交体験や青年期の婚姻の著減は、〈性愛〉が本来持つ男女を結んで生殖に向かわせるパワーの社会的な弱まりを意味しよう。その意味で、もともと生殖性との結びつきの弱いLGBTとの距離が縮まっているのかもしれない。この弱まりは何に拠ろうか。むろん、これはまだ現代の〈性愛〉問題を追究するための作業仮説に過ぎず、機会があれば検討を進めたい。(p20)
としている。
性的快感と生殖としての行為と、親として育てることとが連続したものでなかったり、生物としての性と「男性性・女性性」がずれたりするところで、多様な〈性愛〉や〈育ち〉が生まれているのだろう。
大塚隆史は城戸健太郎との共編『LGBTのひろば』(「こころの科学」SPECIAL ISSUE 2017)の「刊行によせて」で、
このたび寄稿された原稿を読むと、具体的な悩みの方向性に違いはあれ、性別の枠組みを超えて生きようとすることが、どれだけしんどい試みなのかが痛みを伴って伝わってきます。それぞれは別の問題のように見えても、すべてが同じ根っこから生まれている苦しみです。個人が、社会の「性にまつわるルール」から外れて生きたいと思ったとたんに味わわされるものだからです。そのルールを堅持すべきと信じる人たちは、その動きに不安と恐怖を感じ、意に沿わない他人の生き方への抑圧と束縛を与える装置となっています。それこそがLGBTQの人々を苦しめます。その不安や恐怖は、LGBTQの人々自身の心の中にも巣食っているところが、この問題の根の深さを表しています。
(略)
こうやって体験を語り、問題を共有していくことがLGBTQの個々人が孤立をやめ連帯をしていくための第一歩なのだという気がします。男だから…女だから…という足枷は、LGBTQに限らず、実はすべての人に関わっている問題です。この問題では非当事者はいない、という認識ができるだけ多くの人に共有されることを心から願っています。(p1)
鯨岡峻編訳『母と子のあいだ 初期コミュニケーションの発達』(1989.ミネルヴァ書房)が「母性神話」から離れて読まれるべきであるように、LGBTQの語りが伏見憲明の「N個の性✖N個の性」というジェンダー論や滝川の「現代の日本人の〈性愛〉のあり方の何らかの変化」と重ねて読まれることを願っている。
「はて」である。ゴクロスのセクシャリティ論は、日本ではどれくらい影響を与えているのだろうか。