文月雑記 残日録240702

春先に「危うきに近寄らず」と思っていた男声合唱団に4月から参加している。月に数回の実家通いのモチベーションを高めるためにも入会した方が良いように思い、練習にも発表会にも参加している。気分転換にもなり、体力の維持にも良さそうだ。
先日、練習の前に加古川の松風ギャラリーで開かれている故藤本白峰氏(1926-2006)の作品展を観てきた。加古川市立図書館勤務時代にいっときではあるが上司であった書家である。滋賀県の書道が大田左卿氏に牽引されたように、兵庫県の書道に大きな足跡を残された樋口尾山氏の高弟であった。滋賀も兵庫も自由な筆の運びを評価する書道教育という傾向がある。
書であっても絵画であっても、芸術は自己と赤裸々に向かい合わなければ表現となり得ない。白峰氏の書は、端正な筆の運びで静謐を希求しておられるように感じられる。その人柄を偲ぶ時間となった。

 今月上旬は、図書館問題研究会の全国大会が茨城県の日立であり、それに参加する。若い世代から刺激を受けたい、というほどにアンテナが尖っているわけでないので、まあ老醜をさらすだけに終始することのないようにと、心している。

 日本児童文学(月刊.日本児童文学者協会)を数年さかのぼって読んでいる。そこから、

加藤純子;(樋口一葉『にごりえ』の)路地を転がるようにさまよう、お力のモノローグは途切れることなくえんえんと続きます。こうした句読点のない文章にたいし、高橋源一郎はこう書いています。「通常のリアリズムになれたわたしたちは、これを読み、まず「読みにくい」と感じると思う。しかし口に出して読むことで、明治二十年代を生きた、私娼宿で働く女のリアリティが描かれているという感慨をいだく」その理由は日本語の古典的なうつくしさを追求した全体的な文章の中に、その当時のリアルな声が保存されているからだと高橋源一郎は分析します。一葉は当時の言文一体によるリアリズムの小説を「リアル」と感じなかったのではないかと……。それで敢えてこうした「読みにくい」文体を選び取ったのではないかと彼は書いているのです。ここに伝え方の一つのヒントが隠されていると思いました。「読みやすさ」と、リアリティを出すためにあえて「読みにくいけれど、生々しくリアルである」文章を放り込むということです。そういえば今のポップスを聴いていて、その言葉の表現から同じようなことを感じたことがあります。「SEKAI NO OWAR」というグループに「SOS」という作品があります。彼らはほとんどの自分たちの曲を日本語で書いていますが、その局だけはすべて英語表現です。けれど訳された日本語はうつくしくそのまま歌ってもいいのにと思うくらいです。けれどメッセージ性の強さを和らげるために彼らはあえて理解しづらい英語という言語で歌っているような気がします。今を生きる若い人たちの孤独な寂寥感と他者と繋がりあおうとする気持ちを表現するための技巧。彼らは「伝える」ということにとても用心深いです。(同.2016.5・6月号.p114)

検索したら和訳が出てきた。Mouseのブログから

(前略)
People needing to be saved
Scream out for help every day
But we grow numb to the sounds
And feelings slowly start to drown
救いを求める人たちが毎日
助けを求めて叫んでる
それでも僕たちは段々その声に慣れてしまった
感覚が徐々に溺れている


The first time, we can hear a voice
But soon it all becomes noise
Fading to silence in the end
I know it doesn't make sense...
始めはそれが声に聴こえても
段々ただの雑音に変わり果てる
そのうち何も聴こえなくなるのさ
言ってることの意味が伝わらないとは思うけど...

When sound all ceases to exist
People think that means happiness
And all the sounds that used to be
Are all just noise to you and me
全ての音が聞こえなくなった時
人々はそれを平和と考える
かつて聴こえていた声は
僕にも君にも ただの騒音でしかないのさ


The cries of help disappear
The silence numbs all of our ears
And when we stop listening
Those screams stop meaning anything
助けを求める泣き声が消えたら
その静寂で耳は麻痺してしまう
僕らが聴くのをやめてしまったら
その叫びは意味を失ってしまうのさ


Don't you let your heart grow numb to everyone
Oh child, listen to the “sound of silence”
Saving someone else means saving yourself
It's true, and I'm sure you know it too
他人に対して無関心になってしまわないで
子供達よ 「静寂の音」に耳を傾けて
他人に手を差し伸べることは、自分を救うことにも繋がるんだよ
本当さ 君も知ってるでしょ
(後略)

英語での歌詞、というのは、マーケットとしての外国を考えてのことでもあるだろうが、音楽を伝える対象が地球規模でありたいということでもあるのだろう。
「SEKAI NO OWAR」とか「YOASOBI」「Mrs. GREEN APPLE」「新しい学校のリーダーズ」といったあたりへの架橋は、(とっくに賞味期限が過ぎているジャンル)「児童文学」の世界においては、極めて数少ない作家でしかなし得ないように思う。
 若い図書館員のなかには音楽と「架橋」できる人ともいると思う。そういう人に活躍していただける場というものがあるのだろうか。私自身は世間を狭くして暮らしてきたので、干からびた反面教師の如くでしかないので、期待する資格があるわけではないのだが。

東野司「語るのは誰か」(「日本児童文学2020.5・6」)から

 新元号への移行で、人びとはすべてがリセットされて、新しい時代が始めるのだと祝祭に参加した。このとき、官房長官の発表を大爆笑しながら見ている女子高生たちの姿がYoutubeにアップされたが、それはとても微笑ましい「新時代」の迎え方に見えた。
 しかし、児童書の子どもたちは、いつもどおり。
 内面を見つめ、分析をし、論理立てて、自分語りをする。他人の距離に敏感で、その分析にも忙しい。物事を否定するときは、首や手をブンブン振り回す。幼なじみは基本的に異性で、自分を助けてくれる無双の存在だ。友人には必ずポニーテイルの子がいるし、たれ目の子はおっとりしている。食べ物やファッションに詳しく、大人たちは親も含めて優しく、まず子どもの側に立ってくれる。叔父、叔母、部活のコーチなど、斜めの関係の大人たちも理解を示してくれる。教室の片隅に、いつも一人で本を読んでいる子がいて、その子に「何の本を読んでるの?」と問うと「なぜあなたにそんなこと言わなければならないの」といわれたりする。図書館は癒しの隠れ家にもなり、もちろん本は子どもたちを助けてくれる大切なアイテムである、などなど。
 元号が変わろうが変わるまいが、書物の子どもたちは総じてこんな佇まいで物語を泳いでいる。一九年だけではない。多分これまでも、である。もちろん、それは書き手の表現と読み手の想像との共同幻想に生きる非実在的子供たちだ。それゆえに、児童書の子どもたちは奇妙なほどに相似的な姿を持っている。
 そんな中で、一九年には相似形を超えて躍動する子どもたちが目についた。(p30-31)

 東野は『しずかな魔女』(市川朔久子.岩崎書店)や『あの子の秘密』(村上雅郁.フレーベル館)などをあげている。森忠明『少年時代の画集』ほどに問題作となっているのだろうか。

2024年07月03日