残日録29 「岩波新書創刊80年」

 「図書」の臨時増刊号「はじめての新書」がとどいた。岩波新書は日本で生まれた「はじめての新書」。これが創刊80年を迎えた。それを記念して、新書についてのエッセイや読書案内の特集が組まれたのだった。「はじめての岩波新書」という50点の書店フェアも展開されている。50点のうち、読んだ記憶があるのが24点だった。最近のものは、買ったが読んでいないものもある。

 新書を読み始めたのは高校2年生の頃で、最初は梅棹忠夫『知的生産の技術』あたりのようである。高3の3学期に丸善に行き、京大型カードを購入し、大学でノートがわりに使っていた。

 20~30歳代は、新書をたくさん読んだ。久野・鶴見『現代日本の思想』の影響で、「思想の科学」系の読み手となり、『思想の科学 別冊6 教育の解放』1972年4月号の、稲葉誠也「図書館を拠点とした文化活動—―中井正一の場合」と出会い、司書を目指すことになる。

 内田義彦『社会認識の歩み』も繰り返し読んだ1冊。自分の言葉を獲得するまでの、よき導き手であった。どこの業界でもありがちなことだろうが、自分の言葉で表現する、表現できる図書館員が少ない。私が書いた『〈本の世界〉の見せ方』は「独特の表現」と評されてもいるが、独特でない表現、というものは客観的な叙述であって、また別の世界である。

 出口治明氏がとりあげている、市井三郎『歴史の進歩とはなにか』からも多くを学んだ。

 

 どのような人種・民族・階層の一員として生まれるかは、各人の責任を問われる必要のない事柄である。また幼少時に、どのような文化パターンの鋳型にはめこめられるか――特定の言語で思考し、特定の社会感情を身に着け、多くの場合、特定の宗教に結びつくようにさえさせられること――は、これまた各人の責任を問う必要のない事柄なのだ。

 その種の事柄から人間がこうむる苦痛は、」これまでなんと巨大なものであったことか。そしてまもなく説明するように、今なお巨大なものでありつづけている。この事実そのものは、経験的認識の領域に属する。だからさっきのべた経験的(探求の)合理性を、完全に発揮しうる知的領域である。したがってわたしの提起したい価値理念のうち、いわば純粋に倫理的な部分は、その種の苦痛を減少させようという提案、それを減少させるためには、みずから苦痛を負う覚悟の人間が出現せねばならないという自覚をうながす部分(略)なのである。P142~3

 

 ただ単に苦痛一般をなくしようという理念は、みずからを実現するために必要な創造的苦闘をも(理論的に)否定することとなり、論理的自家撞着におちいってしまう。不条理な苦痛を軽減するためには、みずから創造的な苦痛をえらびとり、その苦痛をわが身にひき受ける人間の存在が不可欠なのである。P148 「一般」「不条理な」に強調の「ヽ」あり

 

 最近は書店で新刊の新書の目次を見ることはあっても、購入することはめったにない。図書館で借りればいいので、後回しになる。目を通しておきたいものが山積している。なのに図書館から南陀楼綾繁『蒐める人』を借りてきた。永井龍男『秋 その他』は期限が来たので再貸出しを願うことにする。

 

2018年10月01日