中井久夫「神戸の光と影」など 時雨月雑記2 残日録241029

「神戸の光と影」は雑誌「へるめす」第2号1985に掲載された論考で、『記憶の肖像』に収録されている。
阪神淡路震災以外の中井の神戸をテーマにした本ができるのを、密かに心待ちにしている。

 名古屋が悩む「文化がない」(普通都市だからあり方が違うはずだ。前衛俳人馬場駿吉氏がいる。たとえば)ということを、神戸市民は悩まない。そもそも「市を代表する文化人」「支配的何家族」などという発想がない。私は多田智満子氏を、サン・ジョン・ペルスあるいはユルスナールの翻訳を通して、現代でもっとも美しい日本語を書くひととしてひそかに尊敬してやまないのだが、氏が貿易会社社長夫人として神戸に住むひとりであることを昨日まで知らなかった。しかも教えてくれたのは神戸の人ではない。おそらくユルスナールの彼女の不朽の名訳『ハドリアヌス帝の回想』の神戸の愛読者でも、知らないだろう。(p125)

 これを読むまで多田智満子氏が神戸の人だとは知っていたが、社長夫人だとまでは知らなかった。
翻訳等の分野で活躍しておられた神戸のM氏も社長夫人だったが、そんなことは気にしないでお付き合いができる人だった。神戸のそんな気風は播州の田舎の加古川にもあったように思う。私は「代表的な文化人」に会っても臆することがないのは、そういうなかで育ったからなのかも知れない。

 神戸人のモットーの一つは「あまりヤイヤイ言うな」ということだそうである。これは、江戸時代、つまり神戸が頭になる以前からの住民の子孫である叔父の言である。解説すれば、あまり細かいことをあげつらうな、めくじらを立てるな、というのである。神戸の大学に行くと土地出身の人々から「われわれはいい加減ですから」というティーチ・インを受けた。こういう表現を田のどこの街の人がするだろうか。彼らの言う住みやすさを煎じつめれば、そういうことになるらしい。
 しかし「いい加減」とは粗雑ということではない。むしろ「非強迫的」というほうが近いのではないか。今朝、地下鉄の出口で切符をポケットじゅうさぐっていたら、職員と眼が合った。彼は自動改札口の扉をあけ「切符が出てきたら破っておいて下さい」と告げた。
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 もっとも、このことばは、戦前と戦後では少し違った意味で言われているかも知れない。戦前においては、百年たらずの前にできた新しい街であり、皆流れ者の集まりじゃないかということだったったろう。実際、この街が全国的なY組の中心地となったのは、あるいは天皇をパチンコで撃ったO氏が最近まで悠々と商業を営んでいたのは、そういう意味の住みやすさであったろう。それは今も残る。私がおそく帰宅する時、浮浪者が地下鉄の入口でボール紙を敷いて酒盛りをしている。ここを通る時の作法はこうである。「座敷の前を失礼」「いやいや、どうぞ。一杯どうや」「また今度。ちょっと急ぐのでね」「ほなら、また」。この街は、戦前、沖仲仕、ずっと以前は漁師が典型的な職業だった。入り船がない時、時化や漁期でない時期には、ぶらぶらしていて当然である。名古屋のような勤勉な都市の浮浪者へのきびしい対応とかなり違っても不思議ではない。このまちの浮浪者には、市民と一種の交流があり、従って一抹のシャレっけがあるよう思える。(p125-7)

 奥崎謙三といえばご記憶のかたもあろうか。正月参賀の際にパチンコを放った人である。彼は「信念の人」であって、店先にはその心情が記してある。こんどは「田中を殺す」と書いてある。その他いろいろ彼の人類観・宇宙観が書きめぐらされている。氏の著作によれば、彼は確か二度殺人をしていて、被害者のひとりは復員船の中でピンはねをした船長(だったと記憶する)、もうひとりは大阪の闇屋だったはずで、この経歴も明記してある。この店は大学の向かいにあるが、良心的なバッテリー屋として評判も良く、けっこう繁盛していた。別に右翼の宣伝車が来て前でがなるということもない。彼のほうが宣伝車をもって「たったひとりの反乱」を続けていた。(一九九二年現在、広島の刑務所に入所中と聞く)。皇族がくれば、それらしきスジの人が周りにたたずむということはあるらしいが、周囲の人がとやかく言うことはないらしい。平野村(というのが大学辺りの江戸時代の名である)以来の原・神戸人である叔父の言によると、神戸人の精神は「あまりヤイヤイいうな」ということだそうで、これは「めくじらをたてるな」ということらしい。難波大助の父が自殺したのは戦前としても、連合赤軍の家族は隣近所からもっと冷たい扱いをうけたはずだ。ある兄弟の父は自殺している。実際、他の町の人は奥崎の話を聞いて驚いていた。
 下町では患者がけっこうまわりの人に立ち混じって暮らしている。とけこんで、とはいわない。しかし、ひとりごとを言っているぐらいでは誰も驚かず、錯乱した時だけ隣人と保健所がなんとかする。精神発達遅滞の人と分裂病の人が隣り合わせの独り暮らしに飽きたのか、壁に穴を掘って行き来していた例があるが、あまり誰も騒がず驚かずだった。(「神戸の精神医療の初体験」前掲.p218-9)

 奥崎を撮ったドキュメント映画を観た時、バッテリーでは食えそうにない、奥崎は何で食っているのだろう、と疑問をもった記憶がある。「良心的なバッテリー屋」の側面は印象に残らなかった。
 吉田健一の神戸の食、西東三鬼のトアロード、陳舜臣や筒井康隆の神戸もある。ありはするけれど、どうということもないところが神戸なのだろう。
 阪神間というと谷崎潤一郎から村上春樹、有川浩、谷川流だろうか。こちらは賑やかな様がある。

パワーポイントで選書の研修を録った。90分を超えてしまったので、長いのは飽きいてしまうだろうと、65分ほどに短縮した。まとまりはいいのだが、深みに欠けてはいる。20分ほど「よもやま話」の付録を追加することになった。
削った一部分をふくらまして本の話をすることにした。

「〈本の世界〉との出会い……本から学んだこと」として、

鶴見俊輔・久野収『現代日本の思想』
武谷三男『弁証法の諸問題』
板倉聖宣『ぼくらはガリレオ』、
内山節『労働過程論ノート』、
内田義彦『社会認識の歩み』
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』、
田中克彦『ことばの差別』
竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』、
村瀬学『心的現象論の世界』
中井久夫『治療文化論』、
村野藤吾『建築をつくる者のこころ』、
鯨岡峻『子どもは育てられて育つ』、

を取り上げる予定。

(11/30 と書いたが、村瀬本はうまく書けなかったので、没)。)


11月上旬にまとめるつもり。
一冊に2分弱だから、猛スピードで軽く紹介にしかならないが。

今週は水・木と加古川行き、日か日・月かも加古川行き。
日曜は合唱の練習。

図書館問題研究会の研究集会での発表の予定稿に、そろそろ手を付けることになる。この一年ほど、寄り道しながらあれこれ読み、考えてきた部落問題だけど、「伝える」というカタチにまとめるには(まあこれは毎度のことだけど)、気力を寄せ集めて、かめはめ波、とせねばならない。
「勤勉、倹約、謙譲、孝行……」といった近代社会の通俗道徳が、日本において民衆の近代化の心性となる。その裏表にそこから落ちこぼれる貧民層生まれる。都市スラムや近代被差別部落の成立と通俗道徳との関連はありやナシや、安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』を読むところまでで一区切り、ということにする。

近代化の心性となる通俗道徳は、生活保護の場で大活躍だ。最近では桐生市の例がある。貧困にも「救われるべき」ものと「矯正すべき」ものとがあるような言い方は、生活保護にも、「犯罪」(年令に関係なく)にもあって、「寛容」とは相容れないところがある。
神戸の「あまりヤイヤイ言うな」とも遠くある。

PR誌「波」で連載していた、銀シャリ橋本直『細かいことが気になりすぎて』が本になる。連載のままでもいいけれど、紙幅が限られているので加筆されていることを期待しいている。初出のときよりも磨きがかけられていると嬉しい。
「波」には、懐かしい昭和のテレビ番組や俳優をテーマにした、三谷幸喜とペリー萩野の連載対談「もうひとつ、いいですか?」がある。
11月号で第7回。ホームドラマの話になって『けったいな人々びと』が出てきたが、

三谷 やりますか。「けったいな人びと』は大好きでよく観てました。
ペリー いきなり変化球ですな(笑)。
 『けったいな人びと』は、1973年にNHKで放送された。昭和初期の大阪・靭にある海産物問屋一家の悲喜こもごもの物語。大河ドラマ『太閤記』『樅ノ木は残った』などを手がけた在阪の脚本家・茂木草介の自伝的作品。八千草薫、藤田まこと、笑福亭仁鶴らが出演。人気となり、75年に続編が放送されている。
三谷 かなり夢中になって観ていたんですが、なにがそんなに面白かったのか実はあまり覚えていない。大阪弁のセリフが心地よかったのと、高森和子さんがすごい老け役だったこと。脇役に至るまで芸達者な人が多かったことは記憶にあるんですが。その作品って、調べてもなかなかみつからない。
ペリー そう、関西で制作されたドラマって資料が少ないんですよ。ちょっと冷遇されているところがある。

とあって、すぐに店じまいとなった。
我が家でも熱心に観ていたのでこれで終わるのは寂しい。
「ケンチとすみれ」は曲りなりにせよウィキに項目があるのに、悲しい。

2024年10月29日