授業書「差別と迷信」と小早川明良氏の研究 残日録240624
仮説実験授業研究会の研究会ニュースに向けての原稿です。長いので少し縮めますが。
部落差別問題について、もう少し文献にあたって、年末までにまとめたいですね。
授業書「差別と迷信」に関連して小早川明良氏の著書を紹介します。
コロナ禍が始まる前に、長浜市木之本町のまちづくりセンターで、歴史関係の授業書を「日本歴史入門」と称して講座をもったことがありました。「日本歴史入門」「生類憐みの令」「お金と社会」などとともに、授業書「差別と迷信」もとりあげました。参加者はほとんどが高齢者で平均20名くらいの参加がありました。
『差別と迷信』(仮説社)は1998年に出版されています。住本健次さんと板倉聖宣さんの共著です。
この授業書は1990年代の部落史研究の水準からすると、立場によっていろんな意見はあるだろうが、これぐらいは研究者たちが合意できるだろう、一般人も共通の知識として知っておいたほうがよいだろう、という内容になっています。
この授業書の「近世=江戸時代」については「身分制」として納得がいくのですが、「近代=明治以降」については、よくわからないなあ、という気持ちが残りました。
それは当然のことで、当時は部落史だけでなく、日本史の研究自体が大きな転換期を迎えていたのです。
『歴史が学ぶ――明治期の地方機械工業と適正技術』鈴木淳(『歴史の技法』東大出版会.1997 所収)によると、
「日本経済史の研究にあっては,第2次世界大戦前から戦後にかけて,マルクスの枠組みによって示されるイギリスを中心とした,欧米の経済発展過程と対比して日本の特殊性を明らかにするという視覚が中心でした。(略)このような事態を当時学会の大勢を占めていたマルクス主義の罪とするのは誤りです.なぜなら欧米先進国との比較においてしか発想しないという点で、(略)この時代の知識人の認識の枠組みが,ひたすら先進国を追う姿勢であったことの結果です.(173-174ぺ)」
とあります。鈴木氏は「この時代の知識人の認識の枠組みが,ひたすら先進国を追う姿勢であったことの結果」、日本史の研究全般の傾向がマルクス主義史学(講座派)的になっていた、と指摘しています。
ウィキペディアによると、マルクス史学は2派あって、「労農派は明治維新を不徹底ながらブルジョア革命と見なし、維新後の日本を封建遺制が残るものの近代資本主義国家であると規定し、したがって社会主義革命を行うことが可能と主張したが、共産党系の講座派は、それに反対して半封建主義的な絶対主義天皇制の支配を強調して、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化を主張した(「二段階革命論」)。この論争を日本資本主義論争と呼ぶ。」
と、あリます。当時の日本史研究や部落史の枠組みはまだまだ「日本の特殊=後進性」が基調にあって、「講座派的」なのでした。
部落史研究における近代についての分析は科学的ではなく党派的で、背景に政治的な立場があるので、授業書のかたちにするのは難しかったのでしょう。板倉さんは、明治維新がブルジョア=市民革命である、という意見ですから、「講座派」的な論をもとにして、明治以降の部落史を授業書で展開することにはなりません。そういうこともあってでしょうか、「授業書」の明治以降についてはわかりにくくなっています。
秋定善和『近代と被差別部落』(解放出版社.1993)で秋定氏は、「『部落解放史』中巻(近代編)の意義は、近代部落史研究新しい枠組みを提起したことだと思います。なぜなら、近代部落史研究は、従来の問題意識ではもうくくれなくなっている、崩壊しているからです。」(15ぺ)と書いています。(『部落解放史』中巻(近代編)』(解放出版社.1989))
1980年代あたりから近代日本史や部落史は問い直されようとしていたのです。
黒川みどり氏は、小早川明良『被差別部落像の構築――作為の陥没』(にんげん出版.2017)『被差別部落像の構築』の書評(「理論と動態」No.12.社会理論・動態研究所.2019)で、
「1990年代以後、部落史研究も、部落問題をたんなる封建遺制ではない“近代“の問題として捉えるようになり、その蓄積も相当に生み出されてきた。評者もまたその点を強調し、封建遺制ではない近代部落史像を描いてきたつもりである。」(198ペ)
「解放運動史や政策史はそれなりに進展をみているが、実のところ、被差別部落の経済構造をはじめとする実態の方は、1970年代以降、さほど研究が進んだとはいえず、近代の被差別部落の経済的貧困が強調されても、そしてその契機が一般的には松方デフレで説明されても、その実態や、そもそも著者もいうように打撃を被ったはずの全国各地の被差別部落の職業構成なども十分につかめているとはいえない。それらは戦後、同和対策事業を勝ちとるべく被差別部落の差別と貧困を強調してきたものであり、その語りからいまだ十分に解放されているとはいえない。」(199ペ)
と部落研究の現状を紹介しています。
小早川氏は前掲の書で、「明治維新がブルジョア=市民革命である」と直接に表現していませんが、講座派の部落差別の封建遺制論を否定し、現在の部落差別は近代社会に根拠があるという立場から書かれています。明治以降に被差別部落は「国家の統治装置として、あらたに構築された」という意見です。
小早川氏はこの本の目的を、これまでの「部落問題研究は、被差別部落(民)を特別の「科学」世界に押し込めてきた。被差別部落民を文化、仕事、アイデンティティなどによって一つの像として括りあげる議論は、本質主義である。部落問題研究は、そのような本質主義を内包してきた。著者の関心は、そのことの弊害、つまり現実の多様な被差別部落(民)との乖離を暴くことにあった(『被差別部落像の構築』序文)。と書いています。
第1部では、被差別部落民の「排除から皇民化」への、社会変動と被差別部落民の天変について展開し、
第2部では、「部落産業」論「部落の文化」論を実証的データでもって批判し、部落問題の「科学性」を問い、
第3部では、少数点在型の被差別部落を対象にして、被差別部落の多数派である「闘わない被差別部落民」の生き方を分析することにより、被差別部落民の多様性を明らかにし、アイデンティティをめぐる諸言説の批判を行う、
という構成になっています。
小早川氏の著書には、前掲の論文集のほかに、一般読者向けに書かれた『被差別部落の真実 創作された「部落の仕事と文化」イメージ』(にんげん出版.1918)『被差別部落の真実2 だれが部落民となったのか』(にんげん出版2022)が出版されています。
第2部の「部落産業」論批判は近代部落論として説得力をもっています。屠畜や皮革、履物、竹細工といった産業を「部落産業」としてきた言説について、統計的、実証的に根拠がない等の批判をしているところです。生活圏での個人的な体験と「部落産業」とが結びつかなかったこともあって、納得のいく分析でした。また、第3部の「闘わない被差別部落民」の生き方の分析は、社会学的な研究領域として未開拓の分野として興味深く読みました。
私は部落問題について詳しくはありません。近年、和歌山県立図書館の図書閲覧制限問題があり、このことに関して考えをまとめる必要があったので、久々に関連文献を読む事になりました。その過程で小早川氏の著作とであうことができました。
授業書「差別と迷信」を取り上げられる方がおられたら、読まれることをおすすめします。