身辺雑事―寒中見舞、「部落問題関連資料の利用制限」ほか 残日録20240111

年末年始は退院後の体調の回復が間に合わず、加古川の実家でなく長浜で正月を迎えた。
喪中に付き、寒中見舞いを1月にだすことにした。

寒中お見舞い申し上げます。今年もよろしくお願い致します。
母 よしゑ が昨年2月に95歳にして西方浄土へ出立。確りとした、「腹ふくるるまま」にしての最期で、阿弥陀様がお導きになる浄土への道が、呪詛のごとき言葉を吐きながらの、果てない旅ではないか、と心配しておりましたが、10数年前に先に逝きました父が、散々聞かされて疲労困憊との便りがとどきました。
図書館業界退出後の徒然の時間を楽しみにしておりましたが、実家の修繕など俗事に勤しみ、病院に通う平凡な日々を重ねております。

とした。

図書館問題研究会の「和歌山県立図書館での部落問題関連資料の利用制限に対する問い合わせへの回答」について、村岡氏の「みんなの図書館」論考への論考があり、その論考への「感想」を「み」に投稿する予定で書いた。
図書館員に向けて、部落問題に関わる「地名」の扱いについて解説があったほうが良いと思い、書く準備を始めたところ、村岡氏が2月の研究集会で「部落差別事象と図書館の半世紀」と題して発表されることを知る。準備を始めてはみたものの、で終わるのか、次年度に発表→論文、となるかわからない。書かなくて良いならそれに越したことはない。2月の研究集会には出席したい。
これまでの浅学を痛感するばかりのことが続いていて、「任にない」「似合わない」ことはあまりやりたくない。老化していくばかりなのに、無理に背伸びをすることもないだろうとも思ってはいる。

黒川みどり『増補 近代部落史』(平凡社.2023)p258~
 「部会報告」「意見具申」(地域改善対策協議会による―明定)と、それらに対して部落解放同盟が投じた批判との間には、「差別の実態」の評価をめぐる違いが一つの主軸となって存在していたが、そのことは今日もはや、部落解放をめぐる論点を引き出す上にさして需要ではないだろう。むしろ当時から重要な争点をなしていたのは、「部会報告」「意見具申」が指摘した糾弾のあり方、えせ同和団体・行為などの問題であった。それらはむろん当を得た指摘を含んではいたが、問題は、〝差別する側〟が一方的に、運動団体の側に〝市民規範〟を身につけたふるまいを求めたことにあったといえよう。その後も、同和対策事業に関わる不正が問題とされる際のマスコミ等の取り上げ方は、その背後にある差別の説明を抜きに不正事件のみが取り沙汰され、しかも〝不正な〟要求を事なかれ主義によって受け入れてきた行政の責任が前景化されることはほとんどなかった。そこにも、被差別部落があたかも不正と犯罪の温床であるかのような認識をうみだしていった要因がある。

 引用が長くなるので、「この項、続く」としておきたい。

 部落解放同盟は、何をもって差別とし、「糾弾」するのか(「何を、どう糾弾するか」(部落解放同盟中央本部編:1991年より―ウェブ「部落問題資料室」

 わが同盟は、差別を自分勝手に判断して、なんでもかんでも「差別だ」と言って糾弾するのではないということは、言うまでもありません。では、どういう場合に糾弾するのでしょうか。それは次のように要約することができます。
①あきらかに差別意識をもって部落民の人権が侵害されたとき。
②差別行為(発言や執筆など)の結果として部落差別が拡大助長されたとき。
 このうち①は、どちらかと言うと、面と向かって行なうケースが多く、②の場合は、自分は差別する意図はなかったけれども、結果として、差別意識を助長拡大させたというときです。
 「露骨な差別落書き」事件や結婚差別事件、また『部落地名総鑑』事件などは①のケースで、「つい、うっかりして買った」というのではなく、会社の利害関係が大きく作用するなかで「部落民の採用を拒否する」という目的をもって購入したものです。だからこそ社会的に大きな影響をおよぼす差別事件としてわが同盟は糾弾闘争を展開したわけです。
 また「…は特殊部落みたいですね」という言葉や文章が電波や出版物などを通じて人びとに差別意識を植えつけていく場合は、その影響力が大きいため、「糾弾」の対象にしています。比喩的に使った場合であっても差別意識を拡大して社会的に与える影響が大きいことを考慮して糾弾闘争を展開しているのです。
 これまでの部落解放運動の血みどろの闘いによって「侮辱の意図をもって部落民の自尊心を傷つける」という差別事件は「差別落書き」の例を除いては少なくなってきていますが、客観的に差別を助長し拡大させる事件は後を絶ってはおりません。その多くは、「無意識のうちに差別してしまった」というものです。
 人間は、無意識のうちに相手を傷つけたり、屈辱感をあたえるということは、よくあるものです。しかし、「無意識」であったとしても差別発言をしたり差別的文書を書くということは、その人間の意識のなかに差別意識が潜在化しており、それが利害関係が働いたときに自然に表面化してくるというものであって、「つい、うっかりしてしたのだから……」とすませるわけにはいきません。無意識だったから問題にしないのではなく、その背景を「糾弾」のなかで明らかにしなければならないのです。
 差別意識が表に出てきたときに、その原因を明らかにして間違いを正さなければ、再び「無意識による差別的言動」をくりかえし、差別のバラまきを招くことは目に見えています。

 「差別語」について、
かつて朝田善之助に師事していた東上高志によると、朝田は常々「差別者をつくるのは簡単だ」と豪語していたという。東上は朝田と共に大阪の朝日新聞まで歩いていた時、「八百八橋」の一つである「四つ橋」にさしかかり、「東上君、あれを読んでみ」と朝田に言われた。「四つ橋」と東上が答えると、朝田は「お前、今、四つ(被差別部落民の賤称)言うて差別したやないか」と非難してみせた。(ウィキ「朝田理論」)とある。

私も、加古川市役所職員時代に、「えった」という言葉を読まされて「死に至る」ことがあるらしきことを講師から聞いたことがあった。作文で「家に帰った」を「家にかえった」と書くのは差別になるのか、と聞いてみたかったが、そうしていたら簡単に「差別者」になっていたかもしれない。
当時、教え子が糾弾している場に列席した元教員がいて、「あいつの言葉遣いは間違っているので、指摘してやろうと思ったが、隣席から余計なことは言わないでくれ」と言われた、と話していたことを思い出して、黙っていたのだった。〝差別する側〟が一方的に、運動団体の側に〝市民規範〟を身につけたふるまいを求めたのではなく、今となると、運動団体の側の〝市民規範〟の欠落を傍観視していたことになるのだろう。
糾弾の側に「差別とはなにか」と問われて「差をつけて区別すること」と答えたので、糾弾が長引いたこともあったらしい。答えた側の人は、地域の部落史の研究をしていた方だった。この方は差別と戦う地点に立っておられた。実際の糾弾の場にあって批判的だったのかもしれない。
「展望」1976.2 に三浦つとむ「「差別語」の理論的解明へ」が掲載されている。

どんな解放運動でも、活動の行き過ぎは運動自身をも傷つけることになる。正しい批判は運動に対する協力であって、運動を支持する者の義務でもある。いま、歴史学者や社会学者の間に用語に対する不当に卑屈な態度が生まれているのも、憂慮すべきことであって、それを防ぐためにも「差別語」の論議はその科学的な解明へとすすまねばならない。(p72)

『増補 近代部落史』は、
3 「部落民であること」
 「アイデンティティ論の登場」「両側から考える」「「部落民」とはなにか」……と続く。

被差別部落と私自身の接点について書く機会があるかもしれないが、それは個人史のレベルであるから、ここで横道にそれることもないだろう。1970年代に、土方鉄『腐食』合同出版.1972 に出会ったことと、加古川にあって部落解放や障害児教育に深く関わられていた大西成己氏から多く学んだことを書いておくにとどめる。


2024年01月11日