脱「講座派」の部落史 『歴史が学ぶ――明治期の地方機械工業と適正技術』鈴木淳(『歴史の技法』東大出版会.1997 所収) 『差別の視線 近代日本の意識構造』ひろたまさき(吉川弘文館.1998)ほか 残日録240528

鈴木淳の論考から引用する。

(そして,)明治時代の機械工業に対して持たれてきたイメージは,「未発達」の一言につきました.一方で,早い事故から時期から軍工廠(国営の兵器工場)や官営事業として創業されて民間に払い下げられた造船所が大きな規模を持ち,また明治末年には兵器・軍艦や大型汽船の国内化がなんとか達成されていたことから,これら軍事関係の部門だけが国家の政策的な保護によって機械工業の他の部分とかけ離れて発展したと説明されてきました.
 明治時代の機械工業史を研究する上で基本的な文献とされてきたものに1930年に刊行された『明治工業史 機械篇』があります.『明治工業史』は大学出の工学系技術者の団体である工学会が1916年(大正5)に編纂を決定し,各分野の経験豊かな技術者を編纂委員として,多くの史料を用いて書かれたもので,執筆時期の近さ,技術的理解の確かさ,そしてその後失われた史料が多く使われている点などで,今日でも高い価値を持つ研究です。しかし,ここには製糸工場用ボイラーや筑豊の初期の炭鉱用機械類の開発や普及の過程は全く触れられていません.当時の技術者の関心事は,いかにして西洋の最新の技術を取り入れてきたのかにあって,「素人なる諸君(=製糸家)が素人製作人に指揮し,唯々安価にのみ注目し,物理上の考えなく」(高井)行うような機械の生産などは論究する価値を持たなかったのです。
 一方,日本経済史の研究にあっては,第2次世界大戦前から戦後にかけて,マルクスの枠組みによって示されるイギリスを中心とした,欧米の経済発展過程と対比して日本の特殊性を明らかにするという視覚が中心でした。日本経済の全体像を描き出したとして,第2次世界大戦まで影響力を持ったある経済学者の1934年の著作には「半農奴制的零細耕作から流出る膨大な半奴隷的賃金労働者群を消磨的に用ひうるがために技術的進歩は阻止せられ,(中略)一般の金属工業=機械工業の発達は阻碍せらるに至る」という言葉が見られます.「半農奴制的零細耕作」という日本の「特殊性」が生み出す低賃金の労働力を利用できるから労力の節約をもたらす技術進歩は阻まれ,機械工業も発達しにくいというわけです.これは,機械工業の発達水準がより高く,諸産業での機械の利用がより早い時期から活発であった欧米先進国との比較論としては正しいものです.そして,このような発想に基づく限り,「阻碍」とされていた機械工業の発展過程を跡づけようという研究は意味を持たないことになります.そのため,戦後,製糸業や織物業についての研究の進展によって国産機械が利用されていた事例が個別的には知られてきたにもかかわらず,機械工業の役割を積極的に考える研究は生まれてはきませんでした。
 このような事態を当時学会の大勢を占めていたマルクス主義の罪とするのは誤りです.なぜなら欧米先進国との比較においてしか発想しないという点で、それはマルクス主義とは全く無縁な『明治工業史』と本質的に同種の認識だからです。それは,この時代の知識人の認識の枠組みが,ひたすら先進国を追う姿勢であったことの結果です.(p173-174)
 
鈴木の論では「この時代の知識人の認識の枠組みが,ひたすら先進国を追う姿勢であったことの結果」が、日本史研究が「講座派」的になっている、ということになる。
部落史研究において「講座派」の歴史観が大きな影響を与えている。それを前提にしている記述をよく見る。では実証主義を基本にする現代歴史学では部落史はどうなっているのだろうと思っていたが、門外漢はよくわからなかった。実証的研究は対象を個別に細分化するのだろうから、大まかに言ってどうなの、というとはっきりはしない。

黒川みどりは『被差別部落認識の歴史――異化と同化の間』(岩波現代文庫.2021)の「岩波現代文庫版あとがき」において、

従来の部落史は、差別をつくり出している社会の側を十分に描いてこなかった。しかし、差別は社会がつくり出してきたものである、それゆえにこそそれを正面に据えて論じたいとの思いが、修士論文を執筆していた一九八〇年代前半ごろから湧いてきていた。本論でも言及したひろたまきが『〈日本近代思想大系22〉差別の諸相』(岩波書店、一九九〇)の「近代日本の差別構造」と題する「解説」で、「差別」の「個別史」から「差別の「全体史」」へと途を開き一連の差別を生み出している〝近代〟を俎上に載せたことは、私が本書に結実する研究に踏み出す契機となった。一九九〇年前後から〝近代〟を問う研究が盛行し、そのなかでマイノリティや差別の問題への関心が高まった。社会学を中心にアイデンティティをめぐる議論も活発となっていた。部落差別は封建的残滓なのか、資本主義のもとで拡大再生産されているものなのかという二者択一的な逼塞した議論からの突破口をいかに見出すかに苦しんでいた私に、それらはそこからの脱出の糸口を与えてくれるものだった。(p413-414)

と、一九九九年ごろの元版『異化と同化の間――被差別部落認識の軌跡』執筆当時の記憶を記しているが、

部落史を日本史のなかに位置づけることの必要性はかつて盛んに強調されもし、長年の部落史研究者の悲願でもあったが、果たしてそこから前進しえたのだろうか。封建的遺制論のもとに行われた「天皇制と部落問題」と題した研究は、すでに部落差別解消論に立って部落問題研究から撤退するにいたり、そのあとには部落解放運動と結びつきながら部落問題に特化する研究が行われてきた。しかし、それすらも、歴史研究から現実の運動や政策への示唆を引き出すには迂遠と見なされて、部落史は取り上げられることが少なくなっている。(p416)

と現状を評している。

『差別の視線 近代日本の意識構造』ひろたまさき(吉川弘文館.1998)で、ひろたは『差別の諸相』(前掲)の編集意図(成田龍一によるインタビュー)について」語っている。

ひろた たしかに、成田さんのおっしゃるように、歴史学は差別に敏感だったと思いますが、差別からの解放を目指した研究は、被差別者からはじまるといえるんじゃないでしょうか。明治末の三好伊平次(被差別部落)や伊波普猷(沖縄)、昭和初めの違星北斗(アイヌ)らの努力ですね。そうした研究の方向は、一つは被差別者がいかに「一人前の日本人」であるかを示すこと、あるいは「一人前の日本人」になって差別から脱することをめざし、一つは差別者を批判し差別がいかに不合理で前近代的であるかを示すことにあったといえるでしょう。戦後に、ことにマルクス主義的歴史学による研究がさかんになるのですが、方向はほぼ同じで、階級闘争史の一環としての被差別者の闘争史と、差別の原因としての封建制の批判や支配権力に対する批判という線で進んできた。それはことに七〇年代の被差別者による解放運動の高揚とともに深まりましたし、資料集もたくさん出されるようになる。しかしそれらの研究は、被差別部落史とか沖縄史とかアイヌ史、あるいは女性史といった、個別史として進められてきたといえるでしょう。(p220-221)

ひろた 差別の問題は、被差別者の焦点を当てるとどうしても個別史にならざるをえないということがあって、それをどうやって全体史にするかという点ですね。たとえば、被差別部落の歴史と沖縄の歴史とアイヌの歴史とは全然ちがいますよね。違いが大きいから、どうしてもそれぞれ別々の特殊な歴史になってしまう。それを差別者の方に焦点を当てる、差別者にこそ差別の原因があるとすることで、全体をみようとしたのです。
全体としてとらえようという視点は従来にもあったので、それは差別の原因を封建制によるものだとか、支配階級の支配政策によるものだという考え方ですね。その解決の処方箋は、封建制をなくし近代化すること、分裂、支配をされないために平等になり団結しようと言うことになります。これに対して、「近代」こそが差別を生み出すのではないか、その「平等」こそが曲者ではないのか、というのが私の、史料をずらっと並べていくうちに到達した視点だったといえるでしょう。私は、当時のポストモダンの流行には大変懐疑的でしたけれども、それからの影響もあったのかもしれません。(p223)

ひろたは近世と近代との境を明確に分けている。

ひろた これ(「禁服訟嘆難訴記」)は幕末における岡山の渋染一揆の史料の一つなんですが、近世部落民の意識が読みとれる有名な史料です。ですから、これについては従来いろんな解釈と評価をめぐる論争があるわけなんで、この史料によって近世と近代の関係の理解が一定の方向に関係づけられるということはないと思います。しかし、私は、部落民としてのアイデンティティを回復しようとした運動としてこの一揆をみていますし、そうした意識が明確に表現されている史料であって、近世と近代の違いをはっきりと示してくれると思って採ったのです。
私は近世身分制を、社会的分業を血統によって固定化したものだと考えていますが、それゆえにそれぞれの身分や職能に対応した諸特権があり、その職能と特権にもとづいたアイデンティティを持つことができたと思っています。身分制は差別の体系であり、その中で部落民が最も差別されていた人々に属することはたしかですが、部落民もまた「えた」役などを拠り所にアイデンティティをもつことができたと考えるわけです。そのアイデンティティを岡山藩がこわそうとしたから、全部落民が立ちあがった。その一揆が結果として身分制に一定の動揺を与えたことや、その一揆をおこせるほどに部落民の成長があったことはたしかですが、意識としては身分制の枠内にあったのではないか、そこに近世的な意識のあり方が典型的にしめされているのではないかというのが、私の考えです。これに対して、近代の差別は、アイデンティティの拠り所そのものを奪ってしまうところに特徴があると思うんです。
成田 なるほど。
ひろた ここらへんは論争になるところで、成田さんのご意見も伺いたいっところですが、だからといって近世の差別のほうがよかったとか悪かったとか言っているのではありません。私は近代社会というのは、差別からの解放の契機をつくりだしつつも、他方で差別を深化させると考えていますから、近世と近代とどちらがよかったかを単純に議論できないと思ますが、すくなくともそのようにみた場合に、さまざまの差別的な現象が、それ自体は特殊的個別的でありながら、「近代」の視線によって全体として一貫した問題がみえてくるのではないかと思います。つまり、差別は、「近代」によって再構成されるというか、あらたな原理によって生み出されるのであって、封建性あるいは封建遺制に回収すべきではないというのが私の立場なんです。もちろん、それは近代の差別に封建的な現象がしばしばみられるということを否定するものではありません。この本(『差別の諸相』-明定)を編集するときにそこらへんをどのように説得的に示すかでいろいろ悩みましたけれども、議論をハッキリさせるためには、「近代」の論理が差別をつくるという点を強調すべきだと思い直したわけです。
成田 はい。
ひろた ここの史料で、こんなに差別されている人たちがいたんだという発見と、それから、差別が近代社会になってどういうふうに新しい性格をもって出てくるかを、全体的に考える作業と、それが相互的にあるわけです。ひとつは、文明と野蛮、つまり、日本国民を、西欧列強と肩を並べて対抗していく文明国民に仕上げていくために、文明から脱落していく人たちを、あるいはbん名人に到達していないという人たちを排除・区別していく、近代社会のあり方からみていくという、そういう視点と、もうひとつは現実に、この人たちが差別されているのはなんだろう、どういうふうに差別されているんだろうというふうに並べていく史料とはやっぱり一定の乖離がある。それがまざっているので、そう論理的に明快には答えられないところがあるんですね。
あえて言うならば、そういう文明人は、日本国民として成り立つ。だからその意味で、文明とか国民の形成原理を追究する、その原理が、実は差別を生み出すという、私の仮説が優先して出てくる場合だってあるんですよね。
成田 ひろたさんが強調されているのは、近代における差別の論理と近世の差別の論理が違うんだということですね。近代における差別の論理は、ふたつの内容をもっている――ひとつは、文明と野蛮の分割にもとづき、文明の名によって野蛮を排除していくということ、それからもうひとつは、国民形成によるもので、国民という一見すると平等な統合のもとで差別が現れてくるということ。しかも、文明/野蛮の分割が、日本国民の形成というかたちで現れてきて、近代における差別の問題が現象してくるという認識だと思います。
 これは、おそらく、差別の概念を考えていくうえでは、画期的な視点だと思います。従来は、うんと、単純化していえば、近世的な差別が、不徹底な近代化によって、封建遺制として残ってしまい、そこに、差別の原因があるという把握のしかたでした。これに対し、近代こそが問題なんだというところに、ひろたさんの差別論の意義があると思います。
 ただ、文明/野蛮の分割といっても単純な二分割ではなく、文明に馴致することをあらかじめ放棄した差別――「貧民」を「暗黒」ととらえることなど――もあるように思います。(p224-227)

ひろた つまり日本国家は日本領土に住む人間をすべて包み込み、「一視同仁」「人間平等」に認定することを前提にして、しかもその全住民(アイヌも沖縄人も)を文明人にしなければならない。しかし文明人=日本国民とはとうてい言えない野蛮人がいて、これは一緒にできないということで差別がなされる。差別しながら、一方では文明人になればいつでも差別を解除できるという仕組み(実際はそうでなくとも)をもつことで、実は差別された人々は自分の責任で世界に落ち込んでいるんだという視線が形成される。そういう近代の自己責任という論理こそが、被差別者のアイデンティティの拠り所を根底的に奪っていく一つだと思いますね。

  視線の差別、穢れの差別

成田 そうした近代の論理を、ひろたさんは「視線」という言葉を使って説明されている。眼差しによる権力が差別をつくりだしている、あるいは差別を現象させている、という考え方があると思います。あるひとつの枠組みから一律的に出てくるのではなくて(そこに原因があるわけですけれども)、むしろ個々の具体的な差別の場では、「視線」=「眼差し」が重視されるという論点を出されていると思うのですが、いかがでしょうか。
ひろた 成田さんの過大評価があるんじゃないかと思いますが、調子に乗って言わせてもらうと、「視線」の問題は複雑な差別の関係を解いていくうえで重要でしょうね。『差別の諸相』では、差別の様式として、「囲い込み」「忌避」と「視線」の三つを挙げたのですが、そこではまず第一に、文明とか国民国家の論理から生み出される社会的諸規範の意思とか感情とか、感受性を肉体化した「視線」の意味があります。したがってそれは、単純な個人の「視線」ではなくて、他の一般の人々と共犯的な「視線」なんですね。そして、その共犯的視線の内には社会的規範からはずれるような、あるいはそれに反するような感情も込められ、しばしば個人的な憎悪や恐怖も込められるところに、「視線」の強烈さがあるということです。
したがって第二に、それら「視線」には民衆自身が生み出す性格もきわめて濃厚だということがあります。国家や資本のイデオロギーが生み出すものもあるけれども、生活のシステムが差別感をつくりだしていく問題もあり、それはときには国家の意思に反することもあるということです。
第三に、そういう「視線」が被差別者につきささるとともに、被差別者自身にも内面化されていくという問題も指摘しました。つまり、大変悲しことだが、被差別者自身がそれを内面化して、自分自身をおとしめ、縛ってしまうとともに、その「視線」で周囲を眺め、自己救済をはかるための差別の序列化を始めるという問題です。被差別者間の序列化と相互対立の問題は、この本で深められなかったけれども、そしてそれがもっとはっきりした社会現象になってくるのは、植民地帝国になっていくころからでしょうが、この時期でもそうした史料がもっと集められたのではないかと反省しています。
また、第四に、そのように「視線」を考えれば、実は「囲い込み」や「忌避」にも通じる問題として、もっと深められたのではないかと、思いかえしているんです。
成田 ひろたさんが差別を論じていく時に、もうひとつ見逃せない点として、生活のシステムの中に組み込まれた穢の問題を出されています。
ひろた 穢の問題は難しいですね。民俗学や文化人類学にたくさんの成果があり、正直いって私はそれを消化しきれていませんから。ただ、それにもかかわらず私がそれを問題化したのは、ひとえに「近代」というか「文明」の視点で切ってみようという決意があったからです。つまり近世における汚穢・清浄観念はたぶんに宗教的な性格をもっていますが、近代の医学的なあるいは公衆衛生的な清潔観念や血統観念によって大きく変質し、それが差別感をあらたに生みだしていく源泉となるというものですが、明治期のコレラ大流行の頻発を介してひろがっていく公衆衛生観念が、あらたな差別を編成していくというたぐいの研究は、その後ずいぶんさかんにさりましたね。(p299-231)以下略。

ひろたまさきの『差別の諸相』の解説「日本近代社会の差別構造」からも学ぶところが多いのだろうが、門前にて「非力の所為」の足踏み状態である。
講座派の「近代」観ではなく、明治維新を「ブルジョア革命=市民革命」である明治維新の後の近代日本における被差別部落については、小早川明良の研究から学んでいるところである。

2024年05月30日