堤未果「教科書のない学校」(堤未果『デジタル・ファシズム』NHK出版.2021 p249~252)  残日録231015

 ブレットがないと、自分の頭で考えなければならない、という小学校の女の子の言葉を聞いた時、不思議な気持ちになった。
 私の母校である和光小学校には、タブレットどころか教科書自体がないからだ。
 知識を入れるためだけでなく、考えるための教材を先生が自分で探してきて、それをプリントしたものが配られる。毎回授業のたびに数ページ配られる紙を自分で二つに折って、授業の最後にファイルに綴じてゆくので、一学期が終わるころには一冊の教科書ができあがる。授業中に思いついたことの走り書きや計算式、その時流行っていたアニメのイラストが描いてあり、あちこちに折り目がついた、世界に一つしかない、自分だけの教科書だ。
 プリントは毎回、その授業で進む分しか配られないため、当日にならないと内容がわからない。国語の授業で使われる物語は、その日のページ分だけで先の展開が読めないので、皆で登場人物の気持ちや動機を一生懸命考えながら授業が進んでゆく。結末を知らない分、騒動力がどこまでも広がり、毎回どんな意見が飛び出すか、議論がどこに向かうのか予測できない楽しさがあった。
 この学校の授業には、二つの特徴がある。
 一つは「すぐに答えを教えてくれないこと」。
 例えば、ある日理科の授業で先生がこんな問いを出した。
 「パイナップルは、どこになっているでしょう?」
 私はその時率先して手をあげ、自信満々で「木になっています!」と発言した。他の生徒からも「土から生えてる」「冷蔵庫」「わからない」など多数の声が上がる。先生は正解を言う代わりに、私たちにもう一度こう問いかける。
 「未果どうして木だと思うの?」「土に生えていると思った人はなぜ?」
 答えの代わりに問いを投げられた私たちは、小さな頭をフル回転させてそれぞれの理由を皆に説明し、自分とは違う意見にも耳を傾け、丸々一時間話し合う。
 その間先生は口を挟まず、私たちが活発に議論する姿を目を細めて観ていた。
 授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、やっと先生がくれた答えを聞いた私は顔が真っ赤になったけれど、皆と話したあの時間が、とても楽しかったのを覚えている。
 もう一つの特徴は、先生が生徒の答えに〇✕をつけないこと。
 正しいか正しくないかよりも、どうやってその答えに辿り着いたかの方に関心を持ってくれるのだ。間違えても裁かれないので、私たちは思ったことを自由に口に出し、ありのままの自分でいられたように思う。その分話が終わらずに時間切れになってしまうことが多かったが、先生は気にする様子もなく、一緒に熱くなっていた。
 中でも一番重宝されるのが、途中でついていけなくなってしまい、答えが出せなかった生徒だった。彼らはときに「はてなさん」などと妙な名前で呼ばれ、それぞれどこでわからなくなったのかを言わされる。そこからクラスの皆で一緒に考え、疑問を口に出しながら、ゆっくりといっしょに答えを見つけてゆく。どんな意見を口にしても、先生はいったんそのまま受け入れてくれる。だが、面倒くさいからと考えるのを放棄して「○○ちゃんと同じです」などと発言したときだけ、先生は顔をしかめてこう言うのだ。
 「同じ、なんて意見はないよ。未果はどう思うの?」
授業の最中も、先生は黒板を使わずに、壁に張った大きな模造紙に生徒から出された意見をどんどんその場で書いたり、文字でなく図にしてみたり、ときにはプリントを使わずに全部口頭でやってみたり、いきなり演劇から入ったり、その時その時の空気に合わせたやり方をする。
 そんなふうに先生が創意工夫をして、毎回一期一会の授業を作るあの教室では、違う考えを持つクラスメイトたちの存在を同じ空間の中で受け入れることや、答えの出ないことを考える道のりに、何よりも価値が置かれていた。
科学者と起業家たちは今、人工知能を駆使して生徒の間違いを見つけ出し、思考の土台を作り、激励までしてくれる個別学習プログラムを開発中だ。
 だが教師と生徒の間の絆や、教室で生まれる一体感は、果たしてそれらに置き換えられるだろうか?

カバーの表の折込みに

 行政、金融、教育、国の心臓部である日本の公共システムが、今まさに海外資本から狙われていることをご存知だろうか? コロナ禍で進むデジタル改革によって規制緩和され、米中をはじめとする巨大資本が日本に参入し放題。スーパーシティ、デジタル給与、オンラン教育……いったいま、日本で何がおきているのか?気鋭の国際ジャーナリストが精密な取材と膨大な資料をもとに明かす、「日本デジタル化計画」驚きの裏側!

とある。その本に突如現れる著者の教育体験。これは著者にとっての「教育の現像」といっていいものだろう。オンライン教育では格差を広げるだけだとの危惧はこの体験に根ざしているに違いない。荒川区の学校図書館の実践がこの危惧をのりこえる事例として紹介されている。
 タブレットで検索することで回答にたどり着く、というのではなく、AIも同様だけれど、デジタル情報から導き出された回答はそれがゴールではなくスタート地点なのである。そこまでたどりつける力量を身に着け、そこから問題を立て、選択肢を考え、仮説をもとに討論をする。それぞれの仮説が実験(実践)によって検証される、という展開をコミュニケーション術として獲得することが教育に求められる。

2023年10月15日