四月猫あらし『ベランダのあの子』 残日録 240724

四月猫あらし『ベランダのあの子』読了。
父親から「虐待」を受ける小学6年生の男の子のものがたり。
8階建てマンションの最上階に住む一家の一人息子の颯は父親から虐待を受けていた。母にもDVの父だった。
向かいのマンションの4階の部屋のベランダに虐待を受けている女の子を颯は見つける。社会的にはエリートの暴力をふるう父親と虐待を受ける母子の閉じ込められた家庭内の均衡は、その女の子を颯が助けることで破られる。母子は父と別居するが、それでも離婚は成立せず、父から逃れた生活が続くことになる。母に経済力がつくことで、物語は一区切りをつけるという結末になる。
最後の部分。

ぼくは家族を壊した。
もしぼくが壊さなければ、いまだにぼくと父と母はあのマンションに住んでいたはずだ。時々暴発する父に怯えながらも、それでも家族そろって、時々海外にも行って。はたから見たら十分幸せそうに。
実際に幸せだったんじゃないか? 単にぼくのわがままだったんじゃないか? もしかしたら、あとほんのちょっと我慢したら、全てが上手く行ったんじゃないか。
そんな考えが頭の中をぐるぐるとする。
後悔していないと言い切ることはできない。たぶんこの先、ぼくは何度も何度も自分のことを責めるだろう。自分が家族を壊したのだと。下手くそなキャチャーみたいに、父の豪速球の愛を受けとめきれなかっただけじゃないかと。
児童相談所から紹介されたカウンセラーはいつも言う。
「これだけは覚えていて欲しいの。愛は絶対に暴力のかたちをとらない。それは愛じゃない。あなたはなんにも悪くない。あなたのせじゃない」
でも、そうだとしたら、いったい誰のせいなのか、ぼくにはわからないでいる。

それでも、ひとつだけわかることがある。
もしぼくが将来、父や母と同じようなことをするならば。
父のように傷つけ、母のように目をそむけるならば。
それはぼくのぼく自身への裏切りだ。
ぼくはもうぼくに背を向けない。
ぼくはいつでもぼくの味方だ。

そんなぼくのことが、前よりずっと好きだ。   (p194-6)

読書メーターのまる子氏の感想に

なんというか、最初から衝撃的な始まり。小6男子が主人公。毎日父親の顔色をうかがいながら生活し、テストで96点でも怯えなければならない。息子に暴力を振るい、見て見ぬフリをする母親。ある日ベランダにあの子を見かけた。彼女もそう、彼と同じく虐待されている。最後の父親にはガッカリ😮‍💨最後の最後でほんの微かな光が見えたような?いないような?終始気持ちが下がりっぱなしの読書💦著者は元学校司書で、通勤中などにスマホで執筆。新人賞の入選作品。受賞しなくて良かった。子供が読んだらどう思うんだろう…。

まる子氏は、父のことが解決しないままの物語の収束に、いささか不満のようだ。

父のことはまだ整理がつかない。憎いとか憎くないとか、許すとか許さないとかそういうところの、ずっと手前のところにいる。(p193)

のである。物語は下記穴には向かわない。颯自身が「虐待の連鎖」を断ち切ることに向かっている物語でもあるのだ。
日本児童文学者協会第20回「長編児童文学新人賞」入選作。入選作から、日本児童文学者協会賞や協会新人賞の受賞の対象となることはあっても、これは協会と小峰書房の共催による新人賞で、新人賞そのものが受賞作である。

山下都芳の選評では、

父親から虐待を受ける小学六年生の男子が主人公。父親からのあきらかな暴力にもかかわらず、それを虐待とは認めず、自身の無力感や罪悪感へと転嫁していく被虐待児の心情の描き方がリアルで、身につまされた。希望を感じるラストも好印象。

とある。
三輪裕子の選評に「最後両親は離婚するが、暴力を振るう父に更生する気持ちや機会はなかったのか気になった」とあった。はて、どうだろうか、物語の中で子どもたちが生きることを通して「状況が変革される」のではなく、子どもたちは「状況をかい潜り」自己変革を遂げるしか物語は成り立たないのではないだろうか。

子どもは親を選べない。自分の生まれた環境を選べない。遺伝や生育環境から影響をうけて育つ。とは言っても、その子の一つ一つの選択がその人の歩みということにはちがいない。塀の中に入ることがあろうが、また、なかろうが、何かが豊かであろうが、また貧しかろうが、振り返ってみると、そうとしか生きられなかったのだなあ、という思いがする。
諦めではない。生き延びる術と児童文学が近くなれば、児童文学である必要はないのだろうが。

2024年07月23日