『子どもが壊れる家』草薙厚子(文藝春秋社.2005) 残日録220207
非行少年とは、①犯罪少年、②触法少年及び③虞犯少年をいう、とある。学生の頃、社会病理学で習ったことを思い出した。
少年非行の動向(令和3年犯罪白書)によると、
「少年による刑法犯,危険運転致死傷及び過失運転致死傷等の検挙人員の推移には 昭和期において,26年の16万6,433人をピークとする第一の波,39年の23万8,830人をピークとする第二の波,58年の31万7,438をピークとする第三の波,という三つの大きな波が見られる。平成期においては,平成8年から10年及び13年から15年にそれぞれ一時的な増加があったものの,全体としては減少傾向にあり,24年以降戦後最少を記録し続け,令和2年は戦後最少を更新する3万2,063人(前年度比13.8%減)であった。」
とある。
草薙の本書は2005(平成17)年に書かれていて、
1983(昭和58)年―中学生らにより、横浜浮浪者を殺害
1988(昭和63)年―名古屋市緑区大高緑地公園での、少年(19歳2人、17歳、20歳)、少女(17歳、18歳)によるアベック殺害事件
1988(昭和63)年―足立区綾瀬での、少年ら(18歳、17歳15-16歳、16-17歳)による、女子高校生コンクリート詰め殺人
1997(平成9)年―神戸須磨区での少年A(14歳)
1998(平成10)年―栃木剣黒磯市黒磯北中学校内、男子中学1年生(13歳)が女性教諭を殺害
1999(平成11)年―山口県光市で少年(18歳)が主婦と長女を殺害
1999(平成11)年―愛知県西尾市で男子県立高校生(17歳)が女子同級生を殺害
2000(平成12)年―愛知県豊川市で少年(17歳)が主婦を殺害
2000(平成12)年―佐賀県の少年(17歳)がバスジャックをし、乗客を死傷
2000(平成12)年―大分県野津町(現臼杵市)で、高校男子(15歳)による一家六人殺傷。
2001(平成13)年―少年2人(18歳)が東京の地下鉄ホーム内で銀行員を暴行殺害
2002(平成14)年―岩手県前沢町で、少年2人(15歳、16歳)による老夫婦殺人未遂。
2003(平成15)年―沖縄県北谷(ちゃたん)町で、高1男子(16歳)、中3男子(14歳)、中3女子(14歳)、中2男子(13歳)が、中学生を殺害
2003(平成15)年―長崎市で中1男子(12歳)が4歳の幼児を殺害
2003(平成15)年―東京都稲城市立小学校の女子児童4人が、アルバイト目的で接触した容疑者(29歳)に4日間監禁され、保護された。容疑者は自殺
2003(平成15)年―千葉県警は、窃盗容疑で、少年少女を含む11人を逮捕
2004(平成16)年―石川県金沢市で、少年(17歳)が窃盗目的で民家に侵入し、夫婦を殺害
2004(平成16)年―長崎県佐世保市の小学校内で、小学6年女子(11歳)が同級生を殺害
2004(平成16)年―新宿区の団地で、中学2年女子が、5歳の男の子を4階と5階の間の外階段から突き落とし、軽症
2005(平成17)年―板橋区で、社員寮の管理人夫妻を長男(15歳)が殺害
が挙げられている。
著者は「新しい非行の誕生」として「モダン型の非行」と位置づけている。
この新しい非行の萌芽は」、昭和五十六(一九八三)年前後に現れ始めました。その大きな特徴は、中学生を中心とする年少少年が非行の中心となり始めたことです。そして、非行少年のうち、両親の揃っている家庭が約八割、中流家庭の非行少年が八割以上を占め、決してどの家庭も安心していられない事実を鋭く突きつけたのです。
高度成長期を経て、物が溢れている豊かな時代に幼少年期を過ごした少年らにとって、「生活のため」に非行に走る必要はほとんどありません。金品ではなく、「面白さ」や「スリル」、「成功体験」を求め、あるいは集団で犯行を行うことによって、交友関係を維持しようとしたのです。こうして貧しきゆえに起こすクラシック型の非行から、モダン型の非行へと完全な脱皮が行なわれました。
このモダン型の非行は、問題が見えにくいままに(少なくとも非行歴が公式に記録されないままに)、日常生活の一部、あるいは遊びの一種として浸透していきました。そして、その非行がたわいもなく、動機も単純であるために、後々の重大事件との関わりが予測できず、司法や行政機関からも、学校・家庭からも深刻に受け止められずに見過ごされました。(P39)
としている。
ここには挙がっていないが、1993(平成5)年、山形県新庄市立の男子中学生が、同校生7人(14歳3人、13歳4人)により、窒息死させられた「山形マット死事件」というのがある。これは、事情聴取で犯行を認めていた生徒たちが、公判で「自白は強制されたもの」と被告側が自供を撤回したことで、大きな話題になった。被告側が冤罪を主張する日本国民救援会山形県本部や国民救援会中央本部の支援を得ることで、判決が有罪と無罪の間を揺れ動くこととなった事件である。
これはいじめとの関連で捉えるので挙がっていないのかもしれないが、いじめが遊びの一種の延長である例でもあるだろう。
少年犯罪は他にもありここに挙がっていない事件、著者の執筆後の事件もある。
1988(昭和63)年―堺市通り魔事件
1992(平成4)年―市川一家4人殺人事件
1994(平成6)年―大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件
2000(平成12)年―岡山金属バット母親殺害事件
2003(平成13)年―千葉少女墓石撲殺事件
2010(平成22)年―石巻3人殺傷事件
2011(平成23)年―大津市中2いじめ自殺事件
2013(平成25)年―東京都吉祥寺路上女性強殺事件
2013(平成25)年―広島少女集団暴行事件
2014(平成26)年―佐世保女子高生殺害事件
2015(平成27)年―船橋18歳少女殺害事件
2015(平成27)年―川崎市中1男子生徒殺害事件
2021(令和3)年11月にも愛知県弥富市の市立中学校で、3年の男子生徒(14)が3年の別の男子生徒(14)に包丁で腹部を刺され死亡。という事件があり、2016(平成28)年以降にも多々あるだろう。
著者は「少年犯罪を生む過程の共通項」として、
○家庭内で、おもに母親による過干渉と、父親の存在感の無さが共通して見られる(逆の場合もある)。
○過干渉によって子どもの中には「もう一人の自分」が芽生え、次第に攻撃性を強めていく。
○家庭や学校に居場所をなくした子どもは、ゲームやインターネット、ホラービデオなどの「幻想の世界」にのめり込む用になる。
○残虐な映像が頭の中を支配するようになり、現実と空想の境界線が曖昧になって行く。
○ゲームやインターネット、ホラービデオにンめり込む子どもたちを、親が黙認するうちに歯止めが効かなくなる。
結局、私たちが少年犯罪から得るべき教訓は、
・過干渉しない=子どもを自分の理想に嵌め込もうとしない。
・放任しない=ゲームやインターネットとの関わりを放置しない。
の二点と言えるでしょう。(p158~9)
を上げている。
親はなくとも子は育つ、子どもは放っておいても大きくなるものさ、というおおらかな諺は、もう通用しなくなりました。放っておかれた子どもを構うたくさんの親類や近所の人たち、外で一緒に遊ぶ友達、一人で遊んでも新しい発見がある原っぱなどは、ほとんど姿を消しました。彼らは部屋で一人、パソコンやゲームに向かうのです。そんな子どもたちに言われるままにゲームやビデオのソフトを与え、目の前でおとなしくしているからと安心してしまう怠惰が、「子どもを飼う」親を、そして深刻な少年非行を増やすのです。(P161~2)
私は子育ての経験はないし、身近な親戚にも非行にはしる従兄弟の子どももいない。だからイマイチ、リアル感がない。でも、図書館という現場にいた頃は、子どもの生き難さや生き辛さを感じたものだった。カウンターの向こうとこっちで、何ができるということはないのだが、いや、また、何かをしてあげたほうがいいとは思うのだが、突っ立っている自分を思い出す。
図書館があってよかった、と思い返す当時子どもだった若い親たちが少しはいるだろうか。少しはいる、と思う。その人たちには、原っぱのような役割をしていたのだろう。
図書館があってよかった、と当時、思っていてくれた親はいるだろうか。これは期待できない。礼を言われたこともあったが、多くの親はそれどころではなかっただろう。
「図書館という居場所」という雑文を書いたことがある。
図書館という居場所
高月町の図書館には、いろんな子どもがやってくる。図書館に用がない子、本に関心がない子、不登校の子、心が壊れそうな子、落ち着きのない子もやってくる。居場所を求めてやってくる。
歓迎するほどの心のゆとりが職員の側にあるわけではない。ただ、なるだけ拒否しないでいたい、と思っている。
素行に問題のある子どもたちもやってくる。家にも教室にもそして部活にも居場所のない子達がやってくる。その子がいるだけで衝かれる、ということも往々にしてある。腹をたてることもある。
そんな子どもたちと日々つきあわざるをえない教師はたいへんだろうともう。
子どものうしろにはその子を育てた家庭がある。教師はそれとも付き合わなければならない。めんどうなことだろうになあ。
生きにくい子どものそばにあって、教師はどんな悲しみを抱いているのだろうか、そんな感傷にひたる余裕はないのだろうか。
図書館という場に、本好きの子だけでなくいろんな子どもが来てくれるので、忘れがちな悲しみがわたしのこころにも生まれる。
居場所を求めてやってくる子への戸惑いや、ささくれだったこころの棘をあらわにした子たちへのいらだちを、わたしの「悲しみ」へとつなぐ。これはたいへんしんどいことだが、それがないと子どもたちの居場所にはならない。
図書館を居場所としている子どもたちのおかげで、いくつものことを学ばせていただけることのありがたさを大切にしたい。
「みーな びわ湖から」No.68 2001
統計的には少年非行は減少傾向である。しかしながら、「モダン型」の非行の件数は少なくとも、非行に至らないまでも境界の事例や現象は裾野を広げていくだろう。
一方において『ケーキを切れない非行少年たち』(境界知能)の存在もあり、コミュニケーション障害もある。虐待の連鎖もある。
少年非行について、現在の私にできることなど無いに等しい。私の生活が、暮らしのかたちが、こういう子どもたちとどこかで繋がっていると思っている。