『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』松岡宗嗣.柏書房.2021 残日録220125
塚森裕太がログアウトしたら』の第2章で「アウティング」という言葉がでてくる。この章で教師の小山田は娘がレズではないかと疑い、同僚の梅澤との話の中でそのことを伝える。梅澤からその行為はやってはいけない「アウティング」だと指摘される。小山田は研修で学んでいるはずだったが知らなかった。妻にも指摘される。
読んでいる私もその言葉は記憶になかった。してはいけないことだと分かっているが、そういう言葉があることを忘れていた。
松岡の本のジャケットでは「アウティング」は「本人の性のあり方を同意なく第三者に暴露すること」とあった。
「はじめに」のところで、
二〇一六年、アウティングによって一人のゲイの大学生が転落死した。「一橋大学アウティング事件裁判」が報道されて以降、性的マイノリティの当事者が、なくなった大学院生に自分自身を重ねる少なくない語りを見かけた。なぜ「もしかしたらあのときの私も」と記憶を重ねるのか? それは、アウティング被害がそれだけ当事者にとって身近な事象であり、かつ、生と死が交差する紙一重な瞬間であること、そして、たまたまその「分岐点」を乗り越え、これまで生き残れたにすぎないという想いを表しているのではないか。」(P5)
と書かれている。この事件をきっかけにしてこの本は生まれたと言える。事件の経緯と判決にページが割かれている。アウティングした当事者とは和解が成立したが、大学側の責任は問われることはなかった。
本書にはいろんな事例が出てくる。
「出生時は『男性』と割り当てられたが、二〇代で性別適応手術を受け、二〇〇四年に法律上の性別も『女性』に変更し、名前も変更した」当事者が、2013年に看護助手として働き始めた病院の上司から「男性だったこと」を職場で要求され、それを拒んだが、十数人の同僚の前で勝手に暴露――アウティングされた事例。
同性と付き合っていた地方の女子高生は友人がそのことを教員に暴露してしまい、そのご、教員から「同性愛が他の生徒にうつる」などと言われ、クラスの授業を受けることが出来なくなった上に、住んでいた親戚の家にまでアウティングしたという事例。などなど。
また、自治体に「アウティングの禁止」やカミングアウトの強制やカミングアウトをさせないようにすることの禁止」を明記した条例が広がり始めたこともこの本で知った。国レベルでは2019年5月に「改正労働施策総合推進法(いわゆるパワハラ防止法)」が成立したが、参議院での可決の際に、附帯決議として、以下のことが記された。
職場におけるあらゆる差別をなくすため、性的指向・性自認に関わるハラスメント及び性的指向・性自認の望まぬ暴露であるいわゆるアウティングも雇用管理上の措置の対象になり得ること、そのためアウティングを念頭に置いたプライバシー保護を講ずること。
(P108)
著者の松岡は「おわりに」の中で、
本書を書くにあたって、やはりブレたくなかったのは、アウティングが「命」の問題だと言うことです。アウティングされても何も問題が起きず、むしろアウティングされて結果的に「よかった」という場合さえあります。しかし、その一方では、命が脅かされる事態にまで発展することもある。ここには明らかに「分岐点』があります。私はその分かれ道をたまたま生き延びたと思っていますが、その「たまたま」にも、実は構造的な問題がひそんでいることは忘れてはいけないと思います。
性的マイノリティを取り巻く法制度、家族・友人・地域のコミュニティ、収入や教育環境など、政治的・文化的・経済的な要因が、その「たまたま」を左右すると言えるでしょう。こうした点についてはあまり触れることができませんでした。
シスジェンダー(性自認と身体的性が一致している人―明定義人)の男性でゲイであるという立場上の「発言」のしやすさもあります。アウティングの問題を論じる上でも、自身の立場に近い視点が中心になり、例えばレズビアンやトランスジェンダーなど、他のさまざまなジェンダーやセクシュアリティの人々の経験や視点を本書で十分に掘り下げられたとは言えません。(P228~9)
と書いている。
それぞれの立場からの発言が足りないのだろう。
『はじめて学ぶLGBT 基礎からトレンドまで』石田仁.ナツメ社.2019 でも「一橋大学アウティング事件裁判」が「当事者を追い込むアウティング」として取り上げられています。「アウティング事件は単なる失恋だったのか?」という問いを立てて、
友人が言った言葉を手がかりに考えてみましょう。
「おれはもうおまえがゲイであることを隠しておくのはムリだ。」
まず、仮にこの文を「おまえが異性愛者であることを隠しておくのはムリだ」にしたらどうでしょうか。文は有意味でなくなります。よってこの言動はセクシャリティのアウティングです。では次に、仮に告白した側がじょせいだったとして、「おまえが俺を好きであることを隠しておくのはムリだ」にしたらどうでしょうか。今度は、異性間であったとしても、当人の好意を第三者に暴露したことに変わりありません。
よって友人が行なったのは、セクシャリティと好意のアウティングです。失恋や同性愛を苦にした事件に矮小化されるべきではありません。(P40)
としています。