長月雑記 残日録240912
まだまだ暑い日が続くという。地球温暖化ということであれば来年もそう変わらないのだろう。地震後の能登の復旧は過疎地域の暮らしの困難さを物語っている。
施術後の退院から始まった2024年前半は、2月に母の三回忌、4月から加古川の男声合唱団に入会、7月に久しぶりに図問研の全国大会(日立)に参加ぐらいで、あとはぐだぐだした日々ながら、少しずつ体力が回復してきたというところだ。長く歩くのは足腰が痛くなってかなわないのだが。
9/8は梅田で「朝日のような夕日をつれて」を観劇。弟が買っていたチケットが、仕事の都合で行けなくなり、お盆であったときにこちらに回ってきたのだった。第三舞台は30歳代に一度観たことがあった。アングラ・小演劇体験は、転形劇場(太田省吾)・第三エロチカ(川村毅)あたりだったので、少しずれているのだ。春に劇団☆新感線も観たがこれも弟から回ってきたチケットだった。
「朝日のような夕日をつれて」は2024年バージョンではあるが、骨子は変わらないので懐かしいところもあって楽しんだ。
先般紹介した稲葉振一郎『市民社会論の再生』で取り上げられていた東條由紀彦の「市民社会論」は、明治維新の近世から近代への移行を、「まずは労働市場に照準を合わせて、第一次世界大戦前後の時代における「〈分断的累層的労働市場〉から〈統一的位階層的労働市場〉へ」の転換に見出し、それを「家を基本単位(東條的な言い回しとしては、マルクスの言う「個人(個体)的所有」における意味での「個人、あるいは「人格」)とする「近代」の階層的市民社会から、(身体的)個人を基本単位とする「現代」の単一の市民社会へ」の転換と敷衍する、という図式」を解説している。
これについては、後日、転記したいが、東條の論文にあたることが先なので、まだ時間がかかる。
そうこうするうちに、「部落問題」について書き始めなければいけなくなる。
その前に、某県立図書館から県下の職員研修の講師依頼があり、パワーポイント+ZOOM?で作成することになっている。テーマが「選書」なので、以前日図協から出した本以降の動向にも触れることになるが、回答めいたことが言えるわけではない。
出版界自体は縮小傾向にあるのだが、本は出版されている。それを追跡できていないので、「選書」ワークショップは今の私には無理だ。「選書論」について新しい論客がいるのかもしれないが、図書館の現在から少し離れたところにいるのでわからない。
BLコミックのテレビドラマ版で「ひだまりが聴こえる」がいい。
「難聴によっていつしか⼈と距離を置くことが当たり前になってしまった⼤学⽣・航平と、明るくまっすぐな性格の同級⽣・太⼀という正反対な性格の2⼈の⼼を繊細に描いたヒューマンラブストーリー」とネットの紹介にあった。
太一の両親は離婚していて、どちらにも引き取られなく、祖父との二人暮らしであり、奨学金で学費を補い、アルバイト生活である。単身赴任のお父と料理教室の先生の母という恵まれた家庭に育つ航平は、中学の頃突発性難聴を発症し、大学生になって難聴が悪化する。
航平に太一はノートテイクのボランティアとしてかかわることになる。
ドラマだから、平凡な日常ということにはならないのだが、そのドラマの作り方が上手い。
原作のコミックを読みたいと思ったが、財布がそこまで広がらない。
TVは一応、終了のようだが、コミックは続編があるとのこと。
同様のドラマ「タカラのびいどろ」は「泣いているところを慰めてくれた志賀宝のことが忘れられず、地元福岡から上京した中野大進。しかし、大学で再会した宝には冷たく突き放されてしまう。めげずに追いかける大進と、大進のまっすぐな瞳から目が離せなくなっていく宝を描いていく」とネットの紹介にあった。一見まあ他愛のないドラマのようである。しかし、宝の「不器用なやさしさ」、とまどい、の向こうに、ドラマは母親からの影響を少しほのめかしている。原作のコミック版はどうだろうか。宝の「母」への嫌悪と対峙するとともに、大進に心を劈く宝の物語は生まれているのだろうか
どちらの「人との距離の取り方」、身体の劈き方、の問題と読める。
どうしたのだろう。樹村みのり「母親の娘たち」を読みかえしたくなった。
図書館にコミックが蔵書としてスタンダードになるには、図書館のコペルニクス的転回の時点?までたどり着くことになるのだろうが、それは現状の「資料提供(貸出)」を突き詰めるところからしか生まれないだろう、と思う。残念なことに「まだ貸出なのか」という声が大手を振っている。