草稿 元図書館員が仮説実験研究会の一会員を継続すること――振り返って考える 残日録230606
図書館員⇒大学教員として関わってきた図書館関係の研究団体から、齢70歳にして、全て退会した。小さな業界内の表立たないいわゆる「裏話」を少しは知っていたり、なかには私自身が「裏話」に関係していたりすることもある。そういう話でもって「晩節を汚す」御仁もいるので、そうはならないように図書館業界から退出した。
4月になれば毎年、仮説実験研究会の会員を継続するかどうかをはがきによって問われる。問われることにより自問する機会が生まれる。継続することにためらいはなかったが、今年は少し様子が違っていた。図書館から去るのに、「仮説」はなぜ継続するのか、と問われることはないだろうが、自分にとっての節目のようだから、書いておくことにした。
「仮説実験」「板倉聖宣の考え方」は私の生き方に大きな影響を与えた。図書館という現場はそれを応用する場だった。自分で納得できる成果を得た応用の場だから図書館を退出することができた。
「仮説実験授業研究会」の会員でなくともよい、という立場もあるだろうが、研究会という場にあるからこそ、刺激になること、考える機会を得ることができる。「仮説実験授業研究会」の会員を継続するのは、この会や「仮説」(この場合は後述する「学派」の意)の未来がどのようになるのか、につきあっていきたい、というところにある。今の研究会にはいろんな活動がある。会がどういう流れになるのか、未来に大いに関心がある。
こう書くと傍観者のようだが、そのなかには当事者として、そう活躍はしないだろうが、私もいることは確かなのだ。
三浦つとむ、武谷三男、板倉聖宣を知ったのは、大学に入学したての18歳の頃だった。実際に研究会と出会うのは21歳で、夏に小樽であった大会に参加した時だ。仮説の会員になったのは、その数年後のことだ。
学生時代は月2回の四條畷のサークルに参加していた。サークル名は「関西仮説実験研究会」であったが、後に「ゲジゲジサークル」と改称した。図書館に就職したあとも、20歳代は大会に参加していたように思う。20歳代半ば頃、ガリ本(ガリ版刷りの手製本を研究会ではこう言っていた。今はワードなどで作成)の授業記録を読んで、授業を楽しく追体験できるようになり、ようやく「仮説実験授業」を身近に感じることができた。
「ゲジゲジサークル」ではいろんなことが話されていて、聞いていて学ぶことが多々あった。繰り返されたのは「板倉先生が亡くなられたら」「授業」や「研究会」はどうなるのだろうか、だった。展望は見えていないのだが、つぶやきのごとくよく出された。
その頃の広島での大会への感想で、ある会員の講演について「仮説を神棚に祭り上げて拝む」ごとき話はとんでもない、と言った意味のことを書いたことがある。広島のサークルで話題になっていたようだった。「そういうことを言ったのではない」というのだ。
私としては「仮説実験授業」を受けることで、受けた人の「生き方・考え方」がどう変わるのか、変わることで何が生まれるのか、変わるためには何が課題なのか、といったことに関心があったので、「仮説の素晴らしさ」に終始する話は「神棚に上げる」話でしかなかった。
当時、学生気分の抜けなかった私は、廣松渉の「間主観性」「相互主観性」「共同主観性」という立ち位置で仮説実験授業を評価しようとしていたが、大きな空振りではあった。世の中の変革は、現状の「共同主観性」とは異次元の、また異なった位相の生成によるものであって、現状に対抗する「変革」は同じ土俵(「相互主観性」)に立たなければならないので「変革」にはたどり着けない。といったところから見ていたのだった。
「仮説授業は素晴らしい」という話に異論はない。それが「『仮説』をやっていればいいのだ」となるとやっていない私は少し反論をしたくなる。「仮説」をやっていない私は、会員の資格に欠けると言われているみたいになる。まあ、それはその人の考え(仮説)だからそれはそれで良しとしよう。
教師として「仮説」を知り、実践することによって、「教室」の中だけでなく、その人の日常生活に変化をもたらすだろう。また、ものの考え方にも変化をもたらすだろう。もちろん「『仮説実験授業』をやっていればいいのだ」というよころから、生活や考え方に変化が生まれることもあるだろうし、変化が生まれないこともあるだろう。
では「仮説」を受けた生徒たちの方はどうなっているのだろう。教え子たちの同窓会によばれたら、「先生の「プリント授業(仮説の授業書)」が楽しくて、今でも持っています」というような話が出たりするそうだ。
仮説の授業を受けて教師なった例はある。しかし、教師にならなかった自分自身の生き方、考え方に「仮説」体験が影響を与えた、という人は、どれくらいいるのだろう。自覚・無自覚の両方があるだろうけれど、「仮説」を体験した人の未来が気になることがある。楽しい授業の記憶にとどまらない人はどれくらいいるのだろう。
「主体的な人間」つまり「自分の頭で考えられる人間」を「仮説」はどれだけ育てたのだろう。そういう人たちは「仮説実験授業学派」ではないのだろうか。いや、当然「学派」の一人だろう、と思う。そういう人も含めた「学派」でありたいと思う。それは「板倉聖宣学派」と言ったほうが良いのかもしれない。
その一人でありたい私は、日常の仕事の中や図書館の研究会集会の運営、数年前の井上靖『星と祭』復刊プロジジェクト実行委員会の取り組みなどで、「学派」の「知恵」を活かしてきたと思っている。
私は20歳代のころ、図書館の関係者から「何を言ってるのかわからない」と言われたりしていた。私にも「言葉が通じない」という感覚があって、数少ない理解者に支えられての20歳代+αは、孤独な図書館人生活であった。後年、私の講演のあとで研修の担当者に少し年上の業界人が「明定くんは若い頃から言うことが変わらへんのやで」と言ってくださった。その人も図書館人として孤独なところをもつ人で、お互いの理解者だった。
そうした時間を乗り越えられたあれこれの中に、板倉さんの「『百人の中に一人いれば』『千人の中に一人いれば』その場所を変革できる」という言葉があった。板倉さんの口癖とまでは言わないが、何度か聞いた言葉である。私は研究会のいろんな会にほとんど参加できなかったが、仮説社には時々行った。板倉さんと話す、というか、板倉さんが私に話してくださるなかにその言葉があり、私は励まされた。
現状の研究会に私のような者の居場所があるのか、を問うことは私にとって愚問である。いてもいい、ではなくて、いた方がいい、のだと思っている。
今の研究会にはいろんな活動がある、と先に書いた。それぞれが「仮説実験授業」をより豊かなものにしたいという思いから、それぞれができることに取り組んでいるのだろうと受け止めている。
「『仮説実験授業』をやっていればいいのだ」、「たのしければいいのだ」という立ち位置もあるだろう。「板倉認識論や板倉科学史から学び継承する」ことによって、「英訳を期に世界に発信」ということによって、「仮説実験授業」をより豊かなものにしたい、といった人もいるだろう。どれがいい、ということにはならない。それぞれの場で活躍できればいいことだ。そういう多彩な動きが仮説実験授業や「板倉学派」の未来を作っていくことになるのだろう。
そこには失敗も生まれることだろう。「小さな失敗」を重ねることで「大きな失敗」を回避する(板倉)という選択を取ることになるだろう。
これまでの研究会では「小さな失敗」は他人から支持されないので、研究会の舞台から去っていくように私は見ている。その「失敗」が研究会の財産になっているほど意識的に受け止められているようには思えない。課題の一つだろう。
「授業書」と認められたなかに、私としては「授業書」? というものがあったが、それを支持する会員もいた。批判はなかったけれど、支持されない授業書で、廃れてしまった。それを支持した会員は、その失敗から学んだろうか。
「授業書(案)」は子どもたちの「常識」と対決する(を覆す)問題を用意できているのか。構成が好奇心を生み出す仕組みになっているか。
「読み物」は「説明文」でなく「科学読み物」になっているのか。「党派を超えて認めざるを得ない事実」に基づいているのか。
そういったことが気になる。
この一文は、仮説実験研究会の「会員ニュース」に投稿しようと思って書いたが、
率直に言って、明定さんならもっと鋭く、もっとわかりやすく、もっと色気を匂わせる文章をつくれるはず、と歯がゆい思いでいっぱいです。現役の教師や退役教員や痴呆老人が読んだら、明定さんが仮説実験授業と板倉思想を「応用して」図書館業界の何に挑み、どんな変革を実現したか、できずに課題が残ったか、具体的に語られていないので、明定さんが『トリゴラス』のセリフのように「よっしゃ、これでええねん」と退出したといっても、共感も反論も質問も入り込めないと思うんですが。僕自身にしても、図書館の仕事に直接の応用と、板倉思想から学んだことの結果として生まれた言動など、うまくイメージできていません。
という友人からの評価を得て、ボツにしました。そんなこと書くと長くなるではないか、とも思いましたが、ボツ、ではあるが、つぶやき程度の記録にしておきたい。