『演劇太平記』全6巻.北条秀司(毎日新聞社.1985~1991)残日録220514
全6巻読了。第3巻に「その一二七 世にも不思議な喜劇団」として松竹新喜劇体験が披露されている。
昭和三十四年十一月、大阪道頓堀中座における劇団新喜劇の公演である。その楽屋風景見学記を、後世のため書きとめて置こう。
喜劇界の風雲児渋谷天外はなやかなりし頃、わたしははじめてその一座に脚本を描き下ろした。天外さんとの良縁(?)は別に書くことにして、その作品「手術」はわたしが曽って命がけで体験した盲腸炎手術(その35参照)を扱ったものだッタ。天外の老院長に藤山寛美の若院長で、演出は、松竹の奥役から
「マジメに取り組んだら、血圧が上がりますよってに」と止められて、劇作家館直志こと天外座長に一任した。
でも、折角招かれたのだから、初日の前の日の舞台稽古から立ち会ってやろうと、儀礼とは知らず、出かけて行った。長い時間ホテルで待たされて、やっと迎えが来たのが夜の九時過ぎだ。わたしの芝居らしき舞台装置が骨格だけ出来ていて、その前に登場人物が集まっている。脚本は早く渡してあったから、皆プリント台本は手にしているが、誰も衣装はつけていない。楽屋衣のままだ。
天外座長が出て来て、立ったままの読み合わせが始まったが、なんとそれが第一回の稽古だと聞いてビックリした。天外だけが舞台の椅子に座り、一場一場人物の出入りを決めてゆく。それがいうところの舞台稽古なのだ。あまりの蕪雑さにグッと来たが、奥役の言葉を思い返してグッとこらえた。
夜中過ぎに「舞台稽古」が終わった。
「まあ、こんなt古伝な。明日の本番でシッカリ固めます。さあ、前祝いにいっぱいやりに行きまひょ」
「だって、まだこれからセリフ覚えを……」
「大丈夫出す。セリフ覚えどころか、もう一本の新作をこれから書きますのや。まあ一つ、疲れを休めた上で……」
度肝を抜かれたわたしを引っぱって、有無を言わさず、法善寺横町の夜明かし料亭へ拉致した。
(略)
東が白みかかった頃、やっと散会ということになった。
「ああ、これから帰って劇作業や。ほなら、おやすみやす」と。館先生は足元もシッカラと人力車に乗った。
「あと六時間したら、ゼニ取ってお客に見せるんや。ヌスットみたいな商売やな。はは」と、五郎八ッあんも自動車のりばに向った。
来た以上は完全見学をしてやろうと、翌る朝、開演前に中座へ行くと、もう座長の部屋で稽古が始まっていた。この風景がなかなかおもしろい。御大が鏡台の前にデーンと趺座をかき、両脇に明蝶、五郎八、石河薫、酒井光子らの大幹部が座り、あとは土間に跼んでいる。一番前に寛美が上がり框に手をかけ、石浜、千葉らの中堅がおなじポーズで詰めている。だからあとの連中は突っ立ったまま暖簾の外の廊下にハミ出して、耳を澄ましている。
原稿はまだ未完成らしい。あれからじゃ出来上がるわけもないだろう。天外は眼をつぶって、頭の中のセリフを口にしているが、持ち前の聞き取りにくい早口だから、小机を前にした黒川君も写し取れない表情だ。でも役者達は手慣れた顔で、頭の中へメモしている。
廊下で星君が叫んでいる。
「部隊ができたさかい、セリフを貰ろた人は動きだけ決めに来てください」
口立てが終わったので、皆ゾロゾロと舞台の袖から場面を見に出てゆく。それで稽古終了だ。各自部屋に引き取り、指定された扮装を大急ぎでつけていると、む二挺ベルが鳴りはじめた。でも、べつに周章狼狽のさまも見られない。
世にも不思議な芝居作りに呆れ果てて客席に廻ると、善男善女の観客がギッシリと充満し、まもなく幕が開いた。
さぞかしガタガタの芝居を見せるだろうと思っていると、あんがい筋がわかってお客はよろこんでいる。役者達は口立てでもらったセリフを、自分で粉飾してお客をわらわせている。とくに若い寛美が一ト言一ト言お客を爆笑させるのを、松竹会社の連中がアハハハとたのしんでいる。あとで聞いたが、このアドリブの巧拙によって、役者の給金が上がってゆくのだそうである。思いがけない見学だった。
結局わたしの「手術」がいちばんお客に受けなかった。作者が来ていることを意識して、高度な演技を見せようとしたのが原因らしい。それにしてもひどかった。わたしの憤懣を盗み視た天外が「すンまへん。来年の正月には、南座でシッカリやり直しまっさかい。今回は大目に見とくなはれ」と、先に大小を投げ出した。この口約束が禍になった話は、次の章で書く。(P170~174)
松竹新喜劇は寛美の死後、低空飛行を続けることになる。
寛美の「お客様お好みリクエスト」は「お客が選んだ昼の部、夜の部、各三本の演目のうち、最後の一本以外は当たり前だが演目は決まっている。最後の演目は、その日の観客のリクエストで決定される。松竹新喜劇が得意とする演目を20本書いたパネルが舞台の上から降りて来て、観客に、「今日はどの芝居が観たいか」を聞き、拍手の大きさで決めるのだ。
そこで演目が決まると、大道具を組み立てるところから始まり、そのままリクエストされた演目が始まる。いくら手慣れた演目でも、決定後打ち合わせや稽古もなく、わずかな幕間を取るだけでその間に衣装や鬘を変え、舞台を始めるというのは、他にお目にかかったことはない。これは、藤山寛美一人だけでのことではなく、劇団員全員が非常な緊張を強いられるものであると同時に、よほどの結束力がなければできないことだっただろう。観客席の片隅でこの公演を観ていたが、あまりの段取りの良さにただただ驚いていた記憶がある。演劇史的には、関西の「にわか」と呼ばれる即興劇の流れを汲むものだが、アドリブではなく台本が用意されている芝居だ。それを、大劇場の二か月に及ぶ公演で行う、というのは他に例を知らない。」中村義裕氏のHP「演劇批評」のコラムに紹介されている。ここでは20本の演目となっているが、30本の時もあった。
朝ドラ「おちょやん」は浪花千栄子がモデルだが、新喜劇の酒井光子が浪花が亡くなった時の談話で、「あの人は何も残さんとみんな向こうにもって行きはった」という意味の言葉を残している。