「特集2 交錯する人権と外交」(「世界」2023年7月号) 残日録230716
「世界」7月号の「特集1」は「狂騒のChatGPT」であった。これは私の当面の関心事ではない。関心は「マイナカード」に少しあるが、それは下世話のレベルである。これで集積された情報は「簡単に」ハッキングされ、ハッキングされた情報が「ルフィ」を頭目とする集団によって握られ、「強盗」や「振り込め詐欺」や「偽・健康食品販売」やらの基礎データとして大いに活かされ、そこで「兵士シュベイク」が大活躍する未来を思い描いているのだが。タンス預金はお金を市中にまわさないが、犯罪で得られた「ブラックマネー」は「マネーロンダリング」を待つまでもなく市中にまわり消費税を納めてくれるのだから、財務省としても警察や司法の積極的な関与を望まないのである。なんといっても「ルフィ」集団は「旧統一教会」同様に「多数によって選ばれた」政治集団を下支えするのだから強靭である。こうした皮相な物語はお笑いの「コント」でしか成熟の機会がないのだろうか。「反語的精神」「哄笑文学」に我が煩悩は遠く至らないのであるが。
「特集2 交差する人権と外交」に注目した。
特集にあたっての前文、
あらゆる戦争は、人権を踏みにじる。外交はどうだろうか。
戦争の痕が今ものこる広島で開催されたG7で、岸田首相は「自由と民主主義」「法の支配」といった輝かしい理念を謳った。
しかし、それらの理念は文字通りに守られたはいない。イラクやアフガニスタンにおける人道的介入が何をもたらしたのか。徴用工問題という名の人権問題に日本政府はそう向き合っているのか。ウクライナ戦争以降に増幅する安全保障の論理と高まる人権意識は共存しうるものなのか。
外交の本質とは対話である。その可能性を信じるために――矛盾を見つめ、そのさきを思考する。
とある。
三牧聖子「ウクライナ戦争が突きつける問い――規範の二重基準を超えられるか」は「法の支配」の曖昧さを問う。
「ロシア侵略行為への対応をめぐっては、欧米や日本がロシアに制裁を加える一方で、グロ-バルサウスとよばれる主に南半球の新興国は、ロシアの侵攻を避難しつつも、ロシアに加わらない立場を貫いている。グローバルサウス諸国が「法の支配」にも平和にも関心がないということなのか。そうした見方は妥当ではないだろう。欧米によって恣意的に国境を決められ、その支配や介入に苦しめられてきた歴史を持つこれらの国々の態度は、「法の支配」の原則を繰り返す欧米に対して、では、自分たちはその原則を遵守してきたのか、厳しく問いかけている。」(p172)
アメリカ政府は今日まで、「テロとの戦い」で生み出されてきた膨大な犠牲に正面から向き合うことを回避し続けている。それどころか、二〇二一年八月末に米軍がアフガニスタンから完全撤退した後、バイデン政権はますます「テロとの戦い」でドローンを多用する方針を示している。「法の支配」が貫徹された世界においては、いかなる命も暴力手に奪われてはならないはずである。「法の支配」の回復に向けて、アメリカ、そして国際社会は、プーチンやロシア兵の戦争犯罪を厳しく追求していくとともに、同じ厳しい追求の目を、自分たちの過去、そして現在進行形の軍事行動にも向けていかねばならない。」(p195~7)
そうだった。日本国ではなく日本帝国だった大東亜戦争開戦時に、国際法を無視し、「宣戦の詔書」から「凡そ国際条規の範囲に於て、一切の手段を尽し、必ず遺算なからんことを期せよ」を省いた過去を思い出す。
古関彰一「緩み始めた日米同盟の絆――G7と人権・安保」では、欧米の人権基準に背反する「日本精神」が垣間見える日本国に疑念を持っている欧米の姿が紹介されていて面白い。前記の国際法軽視も大濱徹也氏のブログ「大濱先生の読み解く歴史の世界」によると、
対米英戦においては国際法への言及がありません。ここには大東亜戦争という戦争の特質が読み取れます。 明治維新にはじまる新生日本は、国際法の秩序に強く規定されていました。この国際法は、木戸孝允が「万国公法は弱国を奪う一道具」となし、陸羯南(くが
かつなん)が「欧州諸国の家法」にすぎず、「世界の公法にあらず」と糾弾していますように、「キリスト教国」「白皙人種」「ヨーロッパ州」の「特権掌握国民」の法との認識を強く持っていました。しかし日本は、欧化-文明化による主権国家として独立富強をめざすべく、「文明国の標準」を受け入れることで国際社会に参入しようとします。そのためには、いかに「欧州諸国の家法」であろうとも、万国公法たる国際法を遵守し、文明国日本を認知してもらわなければならなかったのです。
大東亜戦争は、第一次大戦の戦勝国とし、欧米列強と肩を並べた帝国日本がヨーロッパの説く文明の論理をアジア殖民地支配の道具とみなし、「文明国の標準」を万世一系の皇統につらなる天皇の国の論理で否定することをめざしたものです。そのため開戦宣言に「国際法」なる文言は無用とみなされました。
とある。LGBTQも靖国参拝批判も、「国是」としての「万世一系の皇統につらなる天皇の国の論理」とは相容れないのである。
横道にそれたが、それたついでに、故安倍晋太郎氏は「日本を取り戻す」と叫び、「敢えて言うなら、これは戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦いであります」と言ったが、中身が不鮮明なこの言葉は「時代の気分」として受け入れられた。
1951年にサンフランシスコで調印された平和条約11条の日本語文について、「日本語で「裁判」と訳されている個所は、英語では「Judgment」です。いうまでもなく、これは「判決」であり、「裁判」ではありません。だが、どういうわけか、日本の官僚による訳文では「裁判」にすり替えられています」(前野徹)という説が偶に出てくるが、この条約の「日本文」は正文に準ずる扱いとなっているので、「誤訳」と言い募るのは論外なのだが、「戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す」というのは、サンフランシスコ平和条約を破棄するということを意味しているのだろうか、と心配になる。
日本が占領下にあることを取り戻すのだろうか。「爺やや婆や、お手伝いさん、子守、書生、といった人々に囲まれた大家族の一員としての暮らしを取り戻す」? のだろうか。下僕要員として北朝鮮に侵攻して、拉致してくるのだろうか。故安倍氏の論は「万世一系の皇統につらなる天皇の国の論理」を取り戻すことにあって、その信念から上皇夫妻を小馬鹿にするなど朝飯前なのであろう。
またまたそれるが、ポツダム宣言の「正文」はなく「外務省訳」である。どう訳してもいいわけではなかろうに。
在日米軍の諸条件を決めた一九五二年の日米地位協定から現在の地位協定まで、すでに七〇年を超えているが、この屈辱を批判するだけでなく、その本質を原点に立ち返って再考するときに来ているのではないのか。現行の日米地位協定は、安保条約の中核をなす協定で、一九六〇年に安保条約が現行の安保条約に改正された際に協定も改定している。しかし条文の内容はほとんど変わっていない。
その日米地位協定は、今日まで文字通り「協定」と思われてきたが、米国政府の公文書によると、事実上の「米国大統領命令」であったことが、はっきりしてきた。当時日米安保条約・行政協定の交渉にあたった大統領特使のJ・F・ダレス(のちに国務長官)によると、行政協定は日本にExecutive
Agreement(行政執行協定)という制度がないので、日本刻印に受け入れられやすいAdministrative Agreement(行政協定)にしたということだ。
Executive Agreementとは、田中英夫編の『英米法辞典』(東京大学出版会、一九九一年)を見ると、米国大統領が外交・軍事上に有する権限で、議会の同意を必要としない、とある。であるから、この行政協定を制定する際に、国務・国防両長官は、本来は行政執行協定であることを大統領に進言し、議会にかけないことの承認を得て発出している(FRUS,1952-1954.Vol.XIV、Pr.2)。つまり、米国政府から見ると、行政協定は事実上「米国大統領命令」だと解されていたことになる。
日本側も、行政協定を当時の『六法全書』(例えば有斐閣の昭和二九年版)に入れているが、驚くべきことに法令番号がない。もちろん国会にも上程されていない。ということは行政協定とはいえ、「行政文書」(「文書」に強調の「`」―明定)にすぎなかったのだ。それを日本では協定として扱ってきた。
たしかに一九六〇年に定められた現行の地位協定は、行政協定とは異なり、国会に上程されている。しかし、条約の内容(条文)は、ほぼ行政協定のままである。つまり」現行の地位協定は、内容的には事実上、米国大統領命令がそのまま変わることなく七〇年間使われていることになる。
これでは、在日米軍が堂々と基地の「自由な使用」を続け、日本政府は「おずおずと」遠慮して、ろくに主張もできず、「法の支配」を続けている。これでは被害住民が「米国の植民地だ」というはずである。(p183~4)
論旨は「日本人の人権意識の低さは、基地の「自由な使用」を可能にしている」(p185)と続く。
そしてそういう現状を肯定する世情の一方で、「日米一体化」が進められていて、「国家安全保障戦略」によって「日・米軍同盟」(「米軍」に強調の「`」―明定)が進められていることを指摘し、「日米同盟の矛盾を深めて「歴史的変動期」に入った(p188)としている。
欧米の「人権カテゴリー」に「NO」と日本が言うときには、「万世一系の皇統につらなる天皇の国の論理」を否定し、地球規模の「人権」を創出する立ち位置を切り開くことになるのだろう。
阿部浩己「徴用工問題と国際法――時を超える正義の視座」は「脱植民地主義の理路」として未来志向の論理展開を解説している。
日韓請求権協定を含む国際法の主要な担い手とオーディエンスは、長く、強国(欧米)の健常な男性・支配エリートでああ。彼らの間にあって、国際法は植民地支配を正当化するために公然と動員されて疑われることがなかった。だが、前世紀後半から今世紀にかけて、国際法過程に非欧米、市民/民衆、被抑圧者の声が反響し、人間(被害者)中心のものの見方が急速に受容されるようになっている。
これにより従来の国際法のあり方を批判的に問い直す潮流が勢いを増し、この法の基層を成してきた植民地主義・人種主義の根源的な見直しを求められるに及んでいる。現在進行形の人種主義を克服するため過去の植民地支配に向き合うよう求める言説、あるいは、時の壁を超え出るトランス・エンポラルな正義を追求する動勢の深まりと言ってもよい。
植民地支配責任を前景化させる大法院判決は、実のところ、グローバルな次元で生起するこうした動勢と連なりあるものと捉えられる。日韓の力関係の変化、市民/民衆の因を拝啓に、請求権協定をめぐる規範状況はかつてのそれと同じではなくなっている。「国際法違反」と講義の弁を重ね、その是正を言い募るだけでなく、二一世紀世界に広がる新たな環境の中で、日韓請求権の解釈がどうあるべきかに思惟を巡らす好個の契機として大法廷判決を位置付けてしかるべきではないかと考える所以である。(p192)
なるほど、徴用工問題はこういった文脈で受け止められ、今日の問題として遡上にあげられることになるのだ。門外漢は気付かされた。どこでも門前の小僧でしかないのだが。
自らが引き起こした過去の重大な不正義を直視し、その是正を図ることは、現代ビジネスに欠かせぬグローバル・スタンダードというべきものに違いない。その理をいっそう深く自覚してしかるべきである。(p198)
そういう時代である。
五十嵐元道「アメリカが語る正義を冷めた目で見る」は、表題の通りである。
ウクライナへのロシアの侵攻は、その時点までの外交の場において長々とどういうやり取りが重ねられてきたのかを再考する間もなく、泥沼に突入したという印象であった。どうだい? と来客に問われて、一番特をするのはアメリカの軍事産業だろうから、そういう戦争でもあるのだよ、と返事しておいたのは随分前のことである。米兵が一人も死なない戦争を作り出したのはアメリカにとって素晴らしい発明であった。
「アメリカが語る正義」など時代遅れなのだが、「正義」すら感じさせない中国は何を持って「理」とするのだろう。
「世界」のこの特集は読み応えがあった。
6月の歌舞伎座夜の部の「いがみの権太」を、7月松竹座夜の部「俊寛」を仁左衛門で観た。8月は近鉄アート館「あべのかぶき晴(あお)の会公演 肥後駒下駄」、南座の玉三郎+愛之助「怪談
牡丹燈籠」を見る予定。他に7月の梅田芸術劇場「ミュージカル ファントム」。
先日、弟と会ったら好む現代劇が被っている。こちらは歌舞伎で、弟は文楽と伝統演劇は棲み分けたかたちだが。彼は東大阪在住・在勤だから、ライブハウスにも行っている。
過日の大腸ポリプの内視鏡での摘出では収まらなくて、手術入院で盆明けから3週間ほど身動きができない。映画「私のはなし 部落のはなし」長浜市連続上映会実行委員会を立ち上げることになっているのだが、活動は入院前と退院後にということになる。
盆明けぐらいに実家の水回りのリホームが終わる。
昨夏からの腰痛をずるずる引きずっているのだろうと思っていたが、先日の検査で4月に滑って倒れたときに腰を骨折していたことが判明。痛いはずである。