時雨月雑記 残日録241024

実家(加古川)の草刈りと剪定をシルバー人材センターさんに依頼していたのが済んだとの連絡があった。雑草がこのままでは来年はもっとはびこってしまうらしいので、空き地の部分は便利屋さんに除草剤の散布をお願いした。それも終わった。天候に恵まれていてよかった。
過日、その空き地に残っている井戸のことで用ができ、日帰りをしてきた。三宮で長田焼きそばを食べ、人気のパン屋に寄ってきた。こういう日も気分転換になって、まあいいか、とのんびりすごした。脚が痛いのだが、歩いて筋肉を付けねばならない、と思い、繁華街を少し歩いた。平日ながら賑わっていた。道中の車内も乗客が増えているように思う。景気が回復してきたのかもしれない、と思う。年金生活者には関係ないことだが。

闇サイトの犯罪のニュースで、犯罪の元締が、高齢者のタンス貯金をしている金が市中に回らないので経済がうまく回らない、盗んで使ったほうが経済はうまく回る、と言った、とある。随分前から、ああいう犯罪は景気の潤滑油、との説を唱えるSNSがあっても不思議でない、と言っていた私にとって、当事者が言うことではなかろう、と思いつつ、隠れ資産家への憎悪の深さを思う。
格差社会への憎悪が犯罪に結実するのに、「アベ流」の「コネ社会」について「無神経」なのは不可解だ。「裏金問題」もあるが、「あべのマスク」発注の闇もあるぞなもし。

我が家では誕生日を取り立てて祝うこともなく、気づかない間にすぎているのが普通だった。明日が誕生日だと、これを書き始めたので思い出した。父が自分の誕生日に年休を取っていたことを知ったのは、働き出してからのことだったように記憶している。母からそれを聞いて、その日の晩飯は必ずすき焼きだったと言われて、そう言えば、今日はどうしてすき焼きなん? と聞いたら、僕の誕生日やから、と父が答えていたことを思い出した。
父は、加古川のまちなかの高松精肉店がお気に入りだった。五月の下旬に亡くなった父は、その年の1月に、肉が食べたくて、自転車で行く力はなくなっていたのだろう、タクシーで高松精肉店を往復したのだった。父の亡き後、10年近く生きた母も高松の肉がお気に入りで、毎年、300グラムずつ10袋をつくってもらい、毎月のごとく楽しみにしていた。
父は私達兄弟が中学生の頃までは「僕」といっていた。「ワシ」と私達の前でいうようになったのは私が高校生になった頃だった。子どもが「わし」「われ」以下の播州弁を使わせたくなかったのだった。親たちが汚い、どぎつい、と思っていた言葉は私達も使わなかったが、それ以外は播州弁のままですごしている。関西方言の多彩な言葉のなかで、荒い言葉のうちに入るのが泉州弁と播州弁だから、河内弁などはたおやかな部類に入るだろう。明石家さんまは奈良の言葉だから、やわらかい。

少年犯罪について佐藤幹夫『「責任能力」をめぐる 新・事件簿 「かれら」はどのように裁かれてきたのか』(言視舎.2024)を読んでいる。「発達障害と事件」について、少年犯罪の法的厳罰化をめぐる危惧について、がテーマだ。
(「矯正と図書館サービス」という研究会があった。ネットでみると、2014年に改正された少年院法の関連の研究会だったらしい。当時の改正の読書環境の整備の部分に関連しての研究で、2022年の少年法改正とは関わりはなさそうだ。)
2022年改正の「逆走」の厳罰化(一定の重大犯罪の場合には、少年犯罪であっても検察官へ送致されて刑事裁判によって裁かれます。それが「逆送」です。)は、少年法の目的、

第1条 この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする。

の「保護処分」の内実と、刑事罰としての「厳罰化」との対立を強めている。
「発達障害」と「少年犯罪」について佐藤は思索を重ねている。「ケーキを切れない」という本が、罪を犯す少年の「知力」に注目を喚起しているのに対して、この本は「発達障害」という面から論じている。
障碍者の発達ではなく普通学級の生徒の問題として、「9~10歳の壁」同様に「ケーキを切れない」本が受け止められたように、この本が「犯罪」の外側の子どもたちの問題としても受け止められることはいだろう。内省的な思索の本だから。
「塀の中」の人はマイノリティなのであって、「塀の外」のマジョリティは「偏見」を持ち、出獄後も「差別」をしている。それは「被害者救済」の側に立つことを疑わない大衆の一人としての想像力しか持ち得ないからだ。私もその側にいる。
「矯正と図書館サービス」の図書館についての議論も「塀の外」にあって、「中と外」の間にある〈立ち位置〉を踏む、踏みとどまるまでにはならなかったのではないだろうか。
眼の前のことに振り回されるだけの図書館員だった私は、利用者の側へ一歩踏み出すことはできなかった。「矯正と……」に関わったH氏とは挨拶程度の関係でしかないのだが、氏は現職時代の私などより多忙な日々を送られているように思うので、期待するのは酷というものだろう。

野田正彰氏は20代から30代の14年間を長浜赤十字病院で精神医療の現場において足跡を残された。その後、研究・教育職につかれるので、「精神科医としてのすべての仕事は長浜日赤精神科にこめられている」(「長浜み~な」Vol.24.平成5)と書かれている。選挙が始まると頭痛が収まるらしき患者の話をどこかで書かれていたのだが、ここにはなかった。1970年代当時の湖北は雪深いところで、除雪も手仕事だったのだろう。鬱々とした冬を過ごして春を待ち、桜の季節になると、ぱっと明るくなり、気が晴れる。そんな中でも、年がら年中、頭がぼんやりすると訴える患者がいたが、選挙の時期になると不思議と調子が良くなる、といったことだったように記憶している。
「市町村の保健婦さんと共に、ほとんどの地域を講演して歩いた。精神科医療は外来を中心に行われなければならないこと、短期の入院で何をするか、慢性化した患者さんへの地域での援助、偏見について、遺伝について……、どれだけ多くのことを説いて歩いたことか。/当時の湖北地方には、治療を受けていない多くの患者さんがいた。十数年、室内で生活していたために下肢が萎縮し、足関節が強直変形してしまった人。変人として、家族を苦しめながら二十数年、妄想に生きてきた人。ひとりで奇矯な生活を永年続けてきた人。慢性化したアルコール中毒者など。しかし、治療の開始はおくれたものの、家族のあたたかい看護を受け、人間としての誇りを保ってきた人は、驚くほどよくなった。」(前掲)
とある。

江戸時代からの「ムラ」の慣習が残っている土地柄、精神を病む人にとって生きづらい日々だったのだろう。その人を抱える「イエ」も大変だっただろう。いや、いまも大変なことに変わりはないだろう。
そういう人たちがいることを私は知りながら、「こっち側」にいて何も踏み出すことはしなかった。できなかった、というと言い過ぎだろう。

「中と外」の間にある〈立ち位置〉を踏む、ということは図書館員としては成立しないことなのか、これは考えていいことなのだと思う。アメリカで「アウトリーチサービス」があったが、どうなっているのだろう。
私はシングルライフなので、生活者としてのリアリティに欠けるところがある、と思っている。シングルライフ「なので」は書きすぎで、シングルライフでも「生活感」のある人もいるし、結婚もし、子どももいて孫も何人もいて「生活感」を感じさせない人もいるので、「生活者」としてのなんたらは言い訳になるのかもしれない。まあ、他人さまの生活に首を突っ込むことはないので、「中と外」の間にある〈立ち位置〉を踏む、ことがないのかもしれない。
となれば、図書館員がどうの、ではなく個人的な資質の問題ということになる。

僕は結婚して二人の子どもがいて孫が四人だ、と少子化には最低限の責任は果たした、と言わんが如き知人がいる。「……」沈黙しかないのだ。(この話は再登場しそうだ)

2024年10月25日