残日録46 科学読物

 先日、神戸で「科学読物」について話しました。

 はじめに「博物学の世界」「分類の世界」「生態学の世界」「科学の世界」についてそれぞれを解説いました。

 「博物学の世界」は、日本大百科全書によると「広義には動物・植物・鉱物などの種類・性質・分布・生態などを研究する学問。協議には動物学、植物学、鉱物学、地質学の総称。同義語に博物誌、自然史などがある」とあります。「犬」「猫」「イネ」「○○石」といった物的世界=博物を対象としているのが博物学です。

 そこに分類が生まれます。世界大百科事典によると「〈分類は文字どおり、対象を類に従って(似たものをまとめて)分けることであるが,〈類別〉とは違って,全体を共通性に従って大きく分け,分けたものをさらにまた共通性に従って細分し,これ以上分けることのできない個体の一つ手前(種という)まで順次分けていって段階づけ,体系化することをいう」とあります。これが「科学の世界」につながっていきます。

 「生態学の世界」は,ブリタニカ国際大百科事典によると「科学としての生態学が生物学の一部として認められるようになったのは1900年頃からで,最初は対象とする生物によって動物生態学と植物生態学に明確に分かれていた。生態学は学問ではなくそのための方法と考える者も少なくなかった」とあり、科学と認められる以前は、博物学の領域でした。

 それが「1916年にアメリカ合衆国のフレデリック・E.クレメンツが遷移理論を提唱,1927年にはビクター・E.シェルホードとともにバイオーム(生物群集あるいは生物群系)という概念を発表した。その後イギリスのチャールズ・エルトンによって生物群集である種が占めている場所を指す生態的地位という概念や,食物連鎖による個体数の調節が示された。1935年にはイギリスのアーサー・G.タンズリーが生態系の概念を提唱。この考えは一つの生態系内での各生物群集の機能テク側面に注目し,生物を生産者,消費者,分解者に分けてそれらの間で物質やエネルギーの流れを解析する方法に発展した」という過程で、生態学は「博物」から「科学」に移行することになります。

 「科学の世界」は百科事典マイペディアによると「現代では,科学を,自然についての,人間の経験に基づく客観的,合理的な知識体系であって,厳密な因果性の信頼の上に観察と実験を武器にした専門的,職業的な研究者によって推進されている,物理学,化学,生物学などを含む学問の総称,と定義することができる。社会科学は,自然科学をモデルとして成立した概念ということができ,対象は自然一般ではなく人間社会に限定され,内容はできる限り上記の科学(自然科学)の定義に近づくことが期待されるものの,対象の制約から観察や実験にはおのずから限界が生じるし,厳密な因果性も求められない」とあります。

 「科学読物」と称ししている読み物は、「博物学の世界」「分類の世界」「生態学の世界」「科学の世界」のどれかに該当するものです。

 20世紀には「自然と親しくなろう」といった類の科学読物があったり、「カエルもうれしそうです」といった擬人化した表現もありました。陥りやすい落とし穴です。SFや動物物語を科学読物とするのかは意見が分かれるところです。

 児童コーナーでも一般コーナーでも同じなですが、自然科学の棚をみると、博物・生態・分類・科学が混在しています。特に児童コーナーでは博物が幅を利かしていて、他の分野が多くありません。どうして「科学の世界」の読物が少ないのでしょう。

 そのことは科学教育と関係しているのです。科学教育が知識を系統的に教えようとするばかりで、科学的な思考力を身に着けさせることとは縁がないのです。博物学的な情報や知識を獲得するための教育になっているのです。『ざんねんないきもの事典』が大流行していますが、なるほどと思います。

 子どもたちは、サルについての知識を得る、サクラについての知識を得る、○○についての知識を得ることはあっても、なぜオセアニアに有袋類がいて、他にはいないのか、愛媛県でキウイフルーツの生産が多いのはなぜか、などを考えることはないのです。

 生活科や総合の授業で考える力を身に着けさせようとしたのでしょうが、総合の授業時間が減少したりして、教育政策はギクシャクしています。2020年の教育改革がさらに前進をしようとしています。「何を学ぶか」だけではなく、「何ができるようになるのか」がポイントだそうです。「知識を活用する力」を教育しようとしているのです。

 板倉聖宣は「『仮説をもとにして実験観察をつみあげ、法則理論の体系をつくりあげていくような学問』―それだけを『科学』と定義すべき」であるとし、科学読物の役割は「『その時代時代に正当とされていた自然についての知識を教えること』ではなく、『そういう常識・権威ものりこえて、仮説をたて実験をすすめようという生き方を育てあげようとするもの』でなければならない」としています。
 板倉聖宣的な観点の科学読物はなかなか読まれないし、書かれていません。そんな科学読物が読まれるためには、科学教育が変わらなければならないのです。

 「主体的・対話的で深い学び」を取り入れた授業の中身は「発見学習」「問題解決学習」「体験学習」「調査学習」「グループワーク」「ディベート」「教室内でのグループディスカッション」のようです。

 科学読物を読む子どもらが育つといいのですが。

 コラムニストの堀井憲一郎は「落ちこぼれる子が増えるだろう」と予想していますが、「身体的な文化資本」を獲得するためには、早く落ちこぼれたほうがいいという意見もあると思います。仮説実験授業には犬塚清和氏の「優等生になることを拒否しつつ,自信をもって生きよう」という言葉があるが、「早く落ちこぼれて自信をもって生きよう」という時代が到来するのかもしれない。

  

2019年02月20日