辰年師走雑記 残日録20041214
図書館問題研究会の研究集会が2月9~10日に秋田県の横手市で開催される。
「被差別部落の「地名」と「図書館の自由」について」発表する予定で、予定稿はもう少しで第1稿がまとまる。発表後、「図書館評論」に掲載予定であるが、その締切が4月上旬あたりになるので、発表の前に準備しておかなければ間に合わないことになる。
このために、1年余、部落史を少し勉強した。仮説実験授業の授業書「差別と迷信」の講師をした経験が役に立った。
部落差別が日本の国民的課題である、と公的文書に書かれているが、日本社会のあらゆる「差別」問題に取り組むための「本質」は部落差別にある、部落差別と戦っている被差別部落民以外は「差別者」である、という言説、を認めれば、被差別部落民として生まれ育ったなら差別闘争に生きなければならない、ということになる。被差別部落民以外であれば「差別者としての宿痾」を一生涯背負うことになる。
このあたりの20世紀後半に語られたことが、現在ではどうなのか、気になるところである。
図書館情報学の研究分野で選書論や蔵書構成論について論じるが、ある分野についてどの本が基礎文献であるのか、どうやって選べばいいのか、といった具体的な場を研究対象としているわけではない。書誌学の一部でありながら、書誌学から離れていったからではないか。
日常的な図書館という現場は「森羅万象」を扱うところであるから、なるだけ多くの門前の小僧程度の「知識・情報」を獲得すべく、日々の営為を重ねる必要がある。または、重ねざるをえない。「書誌学的小宇宙」を数多くもつことでより良いサービスに繋がる。
40年ほど前のことだが、大都市の中央館のレファレンス・カウンターで、「朝鮮の陶磁器の魅力を知らせてくれた日本人の文章を読みたい」という質問が寄せられていた。データ検索はまだまだその片鱗も見せなかった時代である。図書館員は電算化された書名や件名の中から何か引っかからないか調べていたが、そんなことで探せるものではない。朝鮮の陶磁についての本ぐらいあたれよ、と思いながら眺めていたが、陶磁器のレファレンスブックにもあたらないで、それだけの情報では探せません、と回答していた。
民藝好きの私は「柳宗悦、だよ」とすぐに分かったが、それは民藝という小さな世界の門前の小僧としての「ABC≒基礎知識」があったからだ。
IT化が進んだ今日ならいくつかの単語によるポータルサイトでの複合検索で簡単に分かることではある。その程度のことは個人的に日常的にしていることであるだろう。IT化が進んだ今日なら、データ検索で容易にたどりつけないことについての「質問」「問い合わせ」が生まれるわけで、図書館員が用意しておかなければならない「書誌学的小宇宙」はより専門的になる。
そういう領域を個々の図書館員が掘り下げる、という個人的な努力に期待できるほど、事態はあまくない。いろんな分野の情報交換グループの立ち上げが求められるのではないか、と考える。
年末年始といっても何となく過ごすばかりで、これといったことは初詣に出かけるくらいぐらいだろう。初詣は実家の正月の過ごし方にはなくて、30歳になるまでは、元旦は雨戸もあけず「寝正月」の「おこもり」が習慣だった。浄土真宗の固門徒の家で、生石神社の氏子でもあったが、神社に詣ることはなかった。父が亡くなった年の初盆に、親戚がお迎えの提灯を送ってきたのを母が送り返したぐらいで、「先祖供養」はいらないのだった。
同居人が堺の出で、住吉大社に初詣だったそうで、正月といえば初詣、らしく、近年はそれに付き合っている。家風にない初詣は弟には不評のようである。
先日、「楽しい授業」編集部に感想を書き送った。
たの授 編集部 様
毎号、読ませていただいています。
いろんな記事が載るようになって、気楽に読めるようになりました。
たのしい授業12月号 心が折れそうになった時
ですが、
こういう仮説実験授業礼賛、感動?物語、というのは、
読んで、違和感がありました。
「予想外の結末に……涙」のところが、
「ああ、また、仮説実験授業で救われた物語」になっていて、
「新興宗教」のごとき印象で受け止めたからだと思います。
仮説実験授業信仰を感じさせてくれることもあって、
それはそうなる人もいるだろう、と思い、
一概に否定することもないと思っています。
だがしかし、です。
クレームをつけてくる保護者の記述では、
2学期の後半に突然引っ越していったからでもあるのでしょうが、
「ついにいづらくなったのではないか……真相は誰にもわかりませんでした。」
と、保護者の変化の記述がないままに終わっていて、
保護者に変化があったのか、が読む側にはわからないので、
クレーマーに被害を受けた側の一方的な物語を読んだ気持ちになりました。
現実では、教員は「わからない」ままでも仕方がないのですが、
雑誌で読むとなると、「被疑者意識」だけでない記述がほしいと思いました。
クレマーの側への想像力も「ついにいづらくなったのでは」程度でも、
現実では仕方のないことかも知れませんが、
雑誌に載せて読んでもらうとなると、もう少し踏み込んだ記述があってもよいのではないでしょうか。
助言をいただいた先達の体験例でもありか、とも思います。
生徒が「評価0 今までいちばんつまらなかった」と書いているのですが、
浮沈子を「うまく釣れないのがすごくイヤだったらし」いのなら、
その授業のなかでフォローが出来たかも知れないし、
感想を読んだあとなら、なにか一言があっても
……実際にはあったかもしれませんが……
よかったかと思いました。
「怒鳴り込んでくる」保護者に対して、
「鈍感力」で対応できない著者のような人の「逃走術」(「心がこっぱみじんになったとき」)は、
なかなか読ませてくれるので、もったいないと思いました。
いろんな雑誌や本を読むので、その都度、感想を抱きます。
その場限りになっているのは、大したことではないからなのですが、
リニューアルした「たの授」なので、一筆啓上しました。
元の原稿を編集するということがこの雑誌にはあるのかどうかはわからないが、私の原稿が載ったときは編集がわからの書き直しの意見は出なかった。もちろん、それは公演記録であって、テープ起こしをした人の編集が入っているからかもしれない。
先週の加古川での合唱の練習が身にこたえたらしく、今週は体調不良だ。ゴロゴロしているので体重だけが増えていて、よくない。