「部落問題関連資料の制限」その2 残日録240113

黒川みどり『増補 近代部落史』p259~260
   アイデンティティ論の登場
 当事者にそうした批判や要求(「糾弾のあり方、えせ同和団体・行為などの問題」―明定)が突きつけられる中で、解放とは何かをめぐって、「部落民」という自己認識の消去を前提に差別・格差解消をめざすという方向と、それを保持しつつ解放を実現するという方向との対立が改めて顕在化した。その際に、発達心理学者のエリク・エリクソンの研究や社会学で用いるアイデンティティという概念が導入され、「部落民」というアイデンティティが俎上に載せられていった。
 それはかつて私も「異化」と「同化」という視覚で論じたように(略)、水平社の時代以来の「身分か階級か」という対立の変形であるともいえようが、すでに階級という視点に立ちながら革命をどう見通すかという観点が議論から抜け落ちた中にあっては、「部落民」という〝アイデンティティ〟の問題がそのまま前面に押し出されることとなった。アイデンティティを保持しながら解放を実現するという路線は多分に永久革命的な性質を帯びており、「国民融合」路線がともするとマジョリティがマイノリティの〝問題〟を言挙げしてマジョリティへの包摂を促すことになりかねないのに対して、それに対抗するという意味をもっていた。
 さらにこの「部落民」とはという問いは、次に述べる議論を経て前面に押し出される事となる。

 黒川は論究していないが、「身分か階級か」という観点にかわって、マルクス主義歴史学の資本主義論争からみた「部落問題」が登場しなければならないと思われるが、門外漢の私までには論争は聞こえては来なかった。

ウィキから「日本資本主義論争」一部抜粋
 マルクス主義には「原始社会→奴隷制→封建主義→資本主義→社会主義」という歴史発展五段階の法則があり、1930年代当時の日本が資本主義の段階にあると言えるか否かをめぐって行われたマルクス主義者たちの論争である。この日本資本主義論争は『日本資本主義発達史講座』(1932年5月から1933年8月)の刊行を機に起こった。
労農派は明治維新を不徹底ながらブルジョア革命と見なし、維新後の日本を封建遺制が残るものの近代資本主義国家であると規定し、したがって社会主義革命を行うことが可能と主張したが、共産党系の講座派は、それに反対して半封建主義的な絶対主義天皇制の支配を強調して、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化を主張した(「二段階革命論」)。この論争を日本資本主義論争と呼ぶ。
日本資本主義論争は独自の近代化を遂げた日本社会の発展史をマルクス・レーニン主義のモデルにあてはまるかどうかに焦点が当てられたイデオロギー論争であったから、マルクス主義そのものの権威が失墜するとともに無意味な論争とみなされるようになり、顧みられることが少なくなった。
この論争は共産党系と非共産党系の対立という要素があったので批判のための批判で終わることも多かったが、欧米諸国とは異なる条件で行われた日本の近代社会発展をめぐる様々な問題への知的関心がこの論争によって引き起こされた。
日本資本主義の前近代性を主張する講座派の理論は、大塚久雄を中心とした「大塚史学」にも影響を与えたとされる。また第二次世界大戦後も、日本を「対米従属と大企業・財界の横暴な支配」と認識して当面の「民主主義革命」が必要とする日本共産党系と、日本は既に帝国主義国家であると認識してそれを打倒すべきとする勢力(社会党左派、新左翼など)との、理論や活動の相違に影響を与えた。全体として講座派の潮流は、戦前・戦後を通じて民主主義革命→社会主義革命という2段階革命を主張し、労農派の流れを汲む潮流は、直ちに社会主義革命を主張するという特徴があったといえよう。

 部落問題について言えば、労農派は、明治維新はブルジョア革命、としたので、近世以前の被差別部落・部落民という身分制は解消に向かい、明治以降の社会政策としては「被差別部落(≒同和)対策」ではなく「貧困問題・対策」であるという立場を取ることになるのだろう。
部落解放運動は講座派の影響を受けていると言ってよいだろう。講座派は、半封建主義的な絶対主義天皇制が残存している「半ブルジョア革命」であるから、身分制としての「被差別部落・部落民」は残存することとなる。20世紀後半の日本の資本主義の発達は「ブルジョア(市民的)民主主義」を進展させたので、「国民融合」路線につながる根拠となる可能性もあるが、ここのところは整理されていない。
日本共産党系の「国民融和」論であれば、「半封建主義的な絶対主義天皇制が残存」しているにもかかわらず、「部落問題」が先行して解消するという矛盾が生じるのだが、この「国民融合論」は違う流れから生まれたものだろう。
戦後の社会科学は、労農派では宇野経済学が存在感をもったが、社会科学全般では「大塚史学」「ウエーバー+マルクス問題」などに影響を与えた講座派のほうの影響が大きかった。労農派の社会主義協会系のなども関心は低かったようだ。
「貧困問題・対策」としてとらえることと、「身分差別」として「部落民」を捉えることの違いについてはあまり論議がなされてはいないように思う。
私自身は社会政策としては「貧困問題・対策」であると「部落問題」を考えるが、社会意識論=「差別」論として「部落問題」は成立すると考える。それは宗教や民族学、風習といった文化の領域から、迷信やエセ科学といった分野につながる領域である。

黒川は次に「部落民」のアイデンティティに読者を向き合わせている。
そこには糾弾する側の「抵抗、抗議としての言葉」の社会学や自己形成の問題を「差別する側」「差別される側」の双方に問うことにつながることになる。

黒川みどり『増補 近代部落史』p260~261
中国史研究者の藤田敬一もまた、「意見具申」が引き金となり、『同和はこわい考――地対協を批判する』(あうん双書、1987年)という、まさに現代の差別意識を象徴的に示す表現をそのままタイトルにした本を世に問うて、問題を投げかけたひとりであった。
政府の側から運動に攻勢がかけられてきたことに危機感を強くした藤田は、部落解放運動を解体に導かないためには運動に自浄が必要であるとして、あえて歯に絹を着せぬ苦言を呈するという試みに出た。藤田の主張の柱は、差別・被差別関係の止揚に向けた「協同の営み」としての運動を創出することにあり、それは彼自身が、学生時代から京都を拠点に部落解放運動に参加してきた経験に根ざしていた。「同和はこわい」という意識をなくすためには、差別・被差別の「両側」が、その「立場」や「資格」へのこだわりを超える努力をしなければならないというのである。
ところがこの勇気ある提起にもかかわらず、日頃から差別意識をもち解放運動に反発を感じている人びとが、藤田の意に反して、運動批判の部分だけとり出して共感するという誤った受けとめられ方もあった。また、部落解放同盟は、地対協の論理と藤田の批判は重なり、藤田の主著は「「部落責任論」に片足をつっこんでいる」ともいい、『解放新聞」(第1325号、1987年12月21日)には部落解放同盟中央本部としての批判が掲載された。


『同和はこわい考』に対する基本的見解(部分)

 部落解放運動は重大な局面にさしかかっている。昨年八月五日の「地対協・部会報告」いらい、「啓発推進指針」など一部官僚の手による露骨な反動攻勢は、平和・人権・民主主義の陣営を分断・解体しようとするものであり、その狙いは、衆人の周知するところである。
 それゆえに、「部落解放基本法」制定要求国民運動を中心に、日本の人権と民主主義を守ろうとする力は、この反動攻勢を手放しで放置してはおかなかった。
 「部会報告」が「意見具申」となるとき、相当部分が削除され、書きかえられ、ごまかしによって糊塗的に擬装しなければならなくなったところもある。
 熊代昭彦(前地対室長)の手になる「啓発推進指針」にいたっては、「地対協」路線の後退に歯どめをかけようと、あらん限りの「悪智恵」をしほって、攻撃の体制を強化したものとみることができよう。
 このようなとき、われわれの運動周辺から思わざる混乱を誘発するような論理が飛びだしてきた。
 「同和はこわい考-地対協を批判する」(藤田敬一)がそれである。
 「同和はこわい」という差別思想を「地対協」路線が精一杯ふりまこうとしている、いまの時期、その印象に上塗りをするような書名としたのはなぜか。「奇をてらう」以外のなにものでもなかろう。
 主観的には「地対協を批判する」という副題をつけることによって、部落解放運動と味方陣営に位置しているというポーズをとろうとしているようである。
 だが、「同和はこわい考」は、文字どおり、われわれの運動を「こわい」運動であると分析し、そこからでてくる矛盾、弊害の数かずを「地対協」がいうところと同質の水準で指摘しているのである。

被差別部落外の人びとのあいだに「同和はこわい」という意識が根強く、しかもその原因を「被差別」の側に求める傾きがあることは否定できない。と同時に「被差別」側にも相手のこのような意識に乗じて私的利益を引きだしたり、便宜供与を要求したりして「こわおもて」にでる人がいないわけではない。その数、二百をこえるといわれる自称「同和団体」の叢生はこの間の事情を熟知もしくは察知した連中が「同和は金になる」とむらがっていることを示しており、それがまた人びとの「同和はこわい」という意識を補強もしくは再生産しているのである。(「同和はこわい考」4ページ)

 こうなってくると、「地対協」路線の典型的文書である「部会報告」のつぎの論理とどこが違うであろうか。

 民間運動団体の確認・糾弾という激しい行動形態が、国民に同和問題はこわい問題、面倒な問題であるとの意識を植え付け、同和問題に関する国民各層の批判や意見の公表を抑制してしまっている。(「部会報告」-同和問題について自由な意見交換のできる環境づくり)

 さらにつぎの文章とも、どこが違うかということになる。

 えせ同和行為が横行する原因としては、同和問題はこわい問題であるという意識が企業・行政機関等にあり、不当な要求でも安易に金銭等で解決しようという体質があること等が挙げられる。(「部会報告」-えせ同和行為の排除)

 こうなってくると、「地対協」路線が、一番力点を入れて攻撃している糾弾闘争についても「同和はこわい考」は批判していることになるし、政府・警察権力に弾圧の口実を与える「えせ同和」についても、その責任が、部落解放同盟にあると主張していることになる。
 著者のこのような、あやまてる認識に到達する生活体験は、この人自身がのべているように、少年時代に父方の親戚の家で見た被差別部落民にふるまう食器が「不浄」だとして便所の棚におさめられていたというきびしい差別のイメージと、著者がこれまで交わってきた運動らしきものとの、このましからざる関係によって、部落解放運動を正当に評価しえないところに、のめりこんだことによるものとみるべきであろう。

 「同和はこわい考」のもう一つの差別思想はこうだ。

 識字学級の集りで「文章を書くには、ちゃんと辞書を引いて」と話したところ、「差別の結果、教育をうける権利を奪われたわたしらに辞書を引けというのは、それはひどい」と批判きれた作家がいる。
 誰にも多かれ少なかれ自己正当化や自己弁護の心理はあり、なにもかも自分の責任にしていたら人は生きてゆけない。問題は自己責任をなにものかに転嫁することによっておこる人間的弛緩だろう。自己責任との緊張関係のない「差別の結果」論は際限のない自己正当化につながり、自立の根拠を失なわせる魔力をもつように思う。(「同和はこわい考」67ページ)

 残念ながら、ここでも、「部会報告」の露骨な、部落更生論、部落責任論の差別思想と同質のものをみざるをえない。著者、藤田敬一氏の、これまでの運動とのかかわりが何であったのかを疑わねばならないであろう。


 宮本正人のブログ「『同和はこわい考』論議と大西巨人1~3」(20221203~24)がこの見解に批判的に触れている。

黒川みどり『増補 近代部落史』p260~261
  「部落民」とはなにか
藤田はその後もねばり強く、雑誌『こぺる』や『「同和はこわい考」通信』などをとおおして自由な議論を喚起しつづけ、その問いかけは、やがて「「部落民」とはなにか」という議論に発展していく。そもそもの議論の中核に「部落民」という「資格」への問が発せられていたため、そこに到るのは必然であった。また一方で、その拝見には、いっそうの部落外との結婚の増大や人の移動によって、部落と部落外の〝境界〟がゆらいでいるという実態がり、その上で何をもって「部落民」とするのかが改めて問われることになったのであった。
 藤田自らが編集した『「部落民」とは何か』(阿吽社.1998年)は、そうした状況のもとで噴出しはじめた議論を集約するものであった。そこでは、そのような問を発することで、「部落民としての意識」自体を改めて対象化し、それによって、かねてからの藤田の主張である「両側から超える」ことがめざされているのであり、同時に、これまでの部落解放運動の中で、「部落民宣言」と称してしばしば疑義を挟む余地なくおこなわれてきたことをはじめとして、〝カミングアウト〟することの意味を改めて問い直されることともなった。

黒川みどり『増補 近代部落史』からの引用はここまでとする。
黒川は部落解放同盟に批判的ではあるが、近い立場にあると言ってよいだろう。日本共産党系の全国地域人権運動総連合(全国人権連)(←全国部落解放運動連絡会←部落解放同盟正常化全国連絡会議(正常化連))や部落問題研究所とは違う立ち位置にある。
黒川はこの部落史のなかで、1990~2000年代のターニングポイントとして「同和はこわい考-地対協を批判する」(藤田敬一)を位置づけていると思われる。

「部落問題関連資料の制限」について考えるとき、「部落解放運動」について知っておいた方がいいと思う情報として『「同和はこわい」考』を紹介しておく。

2024年01月13日