人生の親戚

 ひとの「死」というのはどこにでもあって、平凡な「死」もあれば劇場型の「死」もあるだろう。平凡な人生であったが、強烈な悲しみを抱え続けて生涯を閉じた身近な友人がいる。大江健三郎は、この悲しみを小説で「人生の親戚」と呼んでいる。その悲しみを通底するもの同士の間柄であった友人が「死」をむかえた。親友という言葉は使いたくない。悲しみを共有する者として「人生の親戚」だと思ってきた。

一年前、末期がんだった小山が「言っておきたいことがある」と言った。何だったのか、言わないで逝去していった。言わずもがな、のことであったのか、言ってもどうしようもないことであったのか、「まあいいか」ということにおさまったのだろうか。数少ない大切な「親戚」が一人消えた。

 私は、人とあまり親しく付き合わない。図書館業界でも師弟関係はないし、グループを作ったり、グループに入ったりはしない。もちろん業界の団体の会員であるし、そこで役員になったり、発表もすることはある。ただそれは付き合いの延長で、個人的な感情を伴うものではない。誰かから、どこの会にもいるけれど、どこの会の人でもないね、と言われたことがあったが、長年の付き合いの人の観察力は正しい。いろんな場にも「人生の親戚」はいる。

 昨夜、遠方から「今は大丈夫かも知れないけれど、飲みすぎは、脳にダメージを与えるから減らしてください。おやすみ」とメールがとどいていた。朝、読んだ。

年をとるにつれて、年下の「人生の親戚」ができる。同業者ではないが、「強烈な悲しみ」というと大げさに思うかも知れないが、一人ひとりにとっての「生きにくさ」の「根」は深い。数少ないけれどそういう「親戚」がいる。

20200615

2021年01月09日