如月雑記3 読書の周辺 残日録240220

 少し先輩のN氏は退職後にも障害者問題に関わったり、素人ではあるがギターで懐メロを人前で歌ったりしておられる。同級生の中にもバンド活動をしている人もいる。
実家の加古川に帰れば20歳代に参加していた男性コーラスの会がある。誘われているが、たぶん断るだろう。「#」や「♭」がたくさんついていて、転調などもある合唱曲を暗譜で、となると決心と覚悟がいる。
音楽も趣味の範囲にあるが、資料であれ情報であれ、文字を追っかけるのに時間がとられて、聴いて楽しむ程度でしかない。
「晴耕雨読」の「晴耕」という「耕す(身体を動かす)」ことが日常にない。コーラスも「耕す」に入るが、そういう日常に身体を動かすメニューが欠けている。これは考えておきたい事柄だ。バイトをするつもりだったが、体調のせいで無理となった。何かをすること、これは復調後の課題となる。
「晴読雨読」ばかりというほどの読み続ける気力も体力もないので、なんとなく「読んでおきたい本」がたまっていくばかりとなる。若い頃にもっと読んでおけばよかった、という気になったりもする。「今更、読んでみても」という気にもなる。だがしかし、である、「読み学び、そして考える」ことは続けるしかない。読む速度は遅くなっているにもかかわらず、読んでおきたいという好奇心の「加速度」はまだ上昇中のようだ。
現役退職後の読書の、それ以前との違いは、「図書館員としての選書」のことを考えないで読んでいる、ということになるだろう。
このところ続けて読んでいた「部落解放運動」関連の本がもう少し続く。「図書館における(閲覧)制限図書」問題としての「(部落)地名」について書くためには、このあたりまでは知識の裾野を広げておきたいのだ。これは図書館を少し引きずっている。
仮説実験授業の「差別と迷信」は江戸時代の身分制のもとでの「被差別部落」を取り上げている。明治以降はどうなのか、というところまでは対象になっていない。
板倉聖宣『日本史再発見』等によると、板倉氏の「明治維新」観は、マルクス史学的に見ると「主観的には講座派の絶対主義革命(絶対主義・半封建的地主制)であったが、構造的(客観的)には労農派のブルジョア革命(金融資本・独占資本)であった」ということになる。(「主観的」と「構造的」の次には、上部構造・下部構造への論議の延長があるのだろうが、そのあたりになると「科学的」ではなく「迷宮」に入ってしまう。)
「同和対策」は講座派的な半封建的社会における「身分」に対する施策である。部落問題を「半封建的制度」としてとらえ、ブルジョア民主主義革命の対象としている。そのため、被差別部落内の「資本―労働」関係が覆い隠されることになる。市民社会への同化(国民融合論)につながるのも、あながち根拠がないとはいえないだろう。
労農派の立ち位置からみると、「被差別部落民」という封建的「身分」に対する施策ではなく「貧困・スラム」問題への対策としての社会政策となるだろう。部落問題≒講座派という主流からは表立って論じられてはこなかったと思うが、どうなのだろう。「同和対策事業」を「貧困・スラム」問題対策としてみてみると、その限界が見えてくるのではないだろうか。門前の小僧ごときが「思う」程度で書くのはいけないのかもしれないが。
運動史研究として、秋定嘉和『近代と被差別部落』は講座派批判の視点から書かれている。(私はこの本で山口瞳『血族』を読むきっかけを得た。NHKドラマで昔日に観てはいたのだが)
ローラ・E・ハイン『理性ある人びと 力ある言葉―大内兵衛グループの思想と行動』を購入済で積読状態にある。社会民主主義左派について知識を得たいので読んでおきたい。
社会党に居場所を求めた構造改革派は党内の派閥の争いに巻き込まれて、「日本社会党内においては、教条主義的なマルクス主義的理念に対置して、左派政党において議会主義を正当化する考え方として、十分な思想の定着が見られる前に、派閥として右派に伝播していった」(ウィキ)のであるが、その後に関心がある。
構造改革派の樋口篤三も興味深い。30歳代の成田市立図書館勤務時代は新宿の模索社でミニコミ誌を買っていたが、なかに樋口の関係した「労働運動」もあった。
最近、季刊「社会運動」(市民セクター政策機構)を購読している。1980年代に特集によっては読んでいた雑誌である。「ゴミの分別収集」の井手敏彦(元沼津市長)の関係する雑誌である。
樋口や井手の系譜も気になるところだ。
(当時、関西リサイクル運動市民の会から始まる高見裕一氏(現在アース・キッズ代表)の動きに注目していて、高月図書館のオープニングイベントに関連団体の東欧の絵画展示・販売が関わったことを思い出した。)
グラムシの流れでは片桐薫『図書館の第三の時代』もあった。図書館界でこういう本が話題になりづらかった。図書館運動の幅の狭さを思い起こさせる。(私も問われるとこであるが)
構革右派の松下圭一の「市民社会論」があるが、図書館界では『市民の図書館』(日本図書館協会 1970)がサービスのモデルとなり、「市民」について論議の対象にはほとんどならなかった。松下の「市民」観を暗黙知としていたのだろうか。(松下の社会教育批判は再考されなければならないだろう。)
同時代人である内山節氏については20歳代から学ぶところが多かったが、図書館業界に埋没していて疎遠になってしまっていた。私の「貸出」論は、内山氏の「労働過程論」から影響を受けている。2000年以降の未読本を読んでおきたい。
 図書館から借りると、返却日までに借り直してまた、といった流れになるが、積読状態はそのまま積読になることが多い。気を付けておきたい。

2024年02月20日