久米明『ぼくの戦後舞台・テレビ・映画史70年』(河出書房新社.2018)
コロナ騒ぎが始まった2月ごろから昨年の「みすず 1・2月 アンケート特集号」から気になった本をぽつぽつ読んでいる。これもその一冊。先日、一晩で読了した。面白かった。
10代から演劇や映画に関心はあったが、何せ加古川の田舎育ちだから、実際に芝居を観るということはほとんどなかった。実際に見始めたのは30歳代になる少し前、芦屋で観た転形劇場の「小町風伝」からだった。1980年代からだから、小演劇の流れは既に始まっていて、久米明のような「新劇」の芝居を観ないところからの観劇体験だった。
久米明は「俳優座」「民藝」「文学座」といった主流の劇団ではなく、木下順二、山本安英、岡倉士朗らと1947年に「ぶどうの会」を結成し、俳優としての道を歩み始める。1964年の同会解散後は1966年「劇団欅」に入団、1976年「劇団昴」の結成に参加(~2007)するなど、舞台俳優として、またテレビ俳優として活躍をした人である。
また2019年3月まで現役として「鶴瓶の家族に乾杯」のナレーターをしていた。
この春、96歳で逝去。
前半は岡倉士朗、後半は福田恒存、という二人の演出家との関係を軸として、ご自身の俳優としての人生を回顧するという構成になっている。新劇としては傍流ではあるが、劇団内のもめごとなども書かれていて、私にとっては興味深い内容だった。
「ぶどうの会」の解散について、
……秋の公演、秋元松代作「マニラ瑞穂記」は、山本・久米出演辞退のあと、稽古が続けられていたが、異変が起きた。演出の竹内が、秋の第二弾、宮本研作「ザ・パイロット」準備のため、勝手に途中降板、放り出して稽古場に出てこないという。見かねた秋元氏みずから稽古に当たり、初日の幕を開けたものの、劇団統制は地に落ちた。
この事態収拾のため久米は復帰、幹事会に臨んだ。思い決したことがあった。今いろんな矛盾が噴き出した。この際みんな頭を休めて出直したらどうだろう。入院以後、様々な想いを集約して、結論づけた解散論を披露した。おふたり(山本安英と木下順二―明定)はそうしようと納得された。直ちに全員を集め、総会を開いた。
竹内の責任を問うた上で、混迷の元を断ち切る想いをこめて久米は言った。
ぶどうの会は師弟関係から出発、リアリズム演技を木下作品によって研磨し、舞台の上に実現すべく、理想に燃えて歩みつづけてきた。山本、木下、岡倉の相互信頼の上に築かれた創造集団だ(岡倉は1959年に死去―明定)。この本質を歪めたら存在意義は失われる。竹内の内外に喧伝する木下批判はみずからの首を絞める行為だ。今や劇団内の統制は崩れ、その亀裂は日々を追って深まるばかり、集団の活力は失せた。目先をごまかして維持するよりも、ひと思いに解散し、清算して、それぞれが望む道に進むべきだ。
徹夜の総会討議の結果、解散を決議した。存続の意見は一ツも出なかった。
ここに出てくる「竹内」は竹内敏晴のことで、90歳を過ぎても久米明は怒りを抑えきれない、と読める。
この解散の記述の少し前、木下順二作「沖縄」の竹内演出(1963)について「演出の竹内は拡張のある言葉の上ッ面を撫でるだけだった。生きた人間のぶつかり合うエネルギーは舞台から溢れ出なかった。力演する山本さんに久米も桑山も対峙できずに終わってしまった。岡倉先生だったらば……歯軋りしたところで敗者の繰り言だ」とある。
竹内はもう一か所に登場するが、そこでは評価されている。当時ともに40歳を前にした年齢、久米明が1歳年上である。
全体として抑制された回顧談だが、「ぶどうの会」の木下順二と竹内には厳しいところがある。
後半の福田恒存との交流は、評論家としての福田を少し読むだけだった私にとって、演出家福田を知るいい機会となった。こういう読者は多いと思う。「劇団雲」の福田派と芥川派の対立など、なるほどと読んだ。
20200713