2020年末以前の残日録抄

2020年末までのHPのデータを消してしまったので、一部PCに残っていた「残日録」から、いくつかを採録します。少し訂正などもしております。

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残日録 210403 講演の付録で言えなかった与太話

国際収支 2018末:341.4 2019末:364.5 (単位;兆円) 日本銀行国際局

   貿易・サービス収支 貿易収支は、モノの輸出入の差、サービス収支は、輸   送費、通信費、金融、保険、旅行など、形のない取引の収支
   2018:0.1 2019:0.5
   第一次所得収支 対外資産からの投資収益。具体的には、配当、利子、工場    から上がる収益など
   2018:21.3 2019:21.0
   第二次所得収支 国際機関への拠出、食料や医薬品などの無償援助、海外で   働く人々の本国への送金(野球やサッカー選手を含む)
   2018:△2.0 2019:△1.4
   資本移転等収支 政府が外国に行う資本形成の援助(道路や港など)
   2018: △0.2 20198:△0.4
   金融収支    海外に工場を建てるなどの直接投資、外国の株式や債券を   購入する証券資、外貨準備など
   2018:20.0 2019:24.3
   誤差脱漏    2018:0.8 2019:4.6


3月21日に加古川で「江戸時代を楽しむ」という講演をした。間に10分の休憩をはさんで90分間、話した。予定より10分伸びてしまったのだが、質問が出なかった時のために、江戸の中・後期と現在とを比較する話題を用意しておいた。質問は出なかったのだが、熱心に聴講されていて、お疲れの様子だったので、司会者はこちらに「何か、追加することはありませんか」と振ることなく閉められた。
そのときに準備していたのは、日本が「貿易立国」ではなく「内需」によって成り立っているという話で、国内需要が低いために、企業の利益は海外投資に流れていき、第一次所得収支が大幅な黒字になっていること、そしてその黒字がまた海外投資として回っていき、国内で「円」として流通しないこと、などなど、であった。
そして、内需が伸びないのは何故か、という話になり、江戸時代には「御新規御法度」新しいものを開発してはならない、と幕府がブレーキをかけるが、現在の日本ではどうでしょうね、と問いかけて終わることにしていたのだった。
現在の内需を拡大させることについては、いろんなことが考えられると思う。内需が大きくならない原因についてもいろんなことが言えるだろう。
コロナ禍のパンデミックのなかで、いまどの国も他国との人と人交流を縮小させている。当分はインバウンド需要は見込めない。
高齢者の外出を制限し、軽症で収まる若者にまで、飲食店利用の規制を求めなくともよいではないか。もちろん、一人一人の席の間にアクリルパネル立はてた方がいいし、それは行政の仕事だろう。長野県では食堂、レストラン、ラーメン店、バー、ナイトクラブ、喫茶店など、申請すれば無償配布している。
「三蜜」、マスク、手洗いは、自己防衛の範囲であって、そこに行政が力点を置くのは自己努力を求める「新自由主義」の発想だろう。やつらの「自助」というのは、「財力がある」「コネがある」「忖度される立場にある」あたりであって、コロナに罹るのも「自助」力が低いからであって、罹るやつらは、「三蜜」の居酒屋あたりで、大声を張り上げている「敗者」の群れにしか見えない。厚労省の役人は「自助」族なもので、コロナに罹るとはつゆほども思っていない。
だがしかし、その敗者の群れが内需を拡大させるのであって、「自助」族は「株価」を「バブル化」するしか能はない。

2021年04月03日

2021の賀状

頌春 

年明け早々、幾度見直しても影の薄れた自分の顔が、こいつが宿命的にあんまりいい出来でないことをまた見定めた。御蔭でいわゆる余計者の言葉を確実に所有した。余計者もこの世に断じて生きねばならぬ。過去というものと虚栄というものと、この二つの後始末さえもできないまま、月並みな老いの嘆きのただ中にある。

余計者にも語りたい一つの事と聞いて欲しい一人の友は入用なのだ。

 

元ネタ;小林秀雄「Xへの手紙」

2021年03月08日

斎藤環+與那覇潤『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮社.2020)

「表裏」に、



「友達」はいないといけないのか。「家族」はそんなに大事なのか。「お金」で買えないものはあるのか。「夢」をあきらめたら負け組なのか。「話し上手」でないとダメなのか。「仕事」を辞めたら人生終わりなのか。「ひきこもり」を専門とする精神科医と、重度の「うつ」をくぐり抜けた歴史学者が、心が楽になる人間関係とコミュニケーションのあり方を考える。



とある。



與那覇 実はデイケアでSST(社会技能訓練)をやっていたときに、忘れられないエピソードがあるんです。患者さんが「働いているときに苦しかった状況」をロールプレーイングで再現するのですが、どう考えても「病気」なのは患者を追いつめた人の方でしょ、という話がいっぱい出てくる。パワハラ上司とか、モンスタークレーマーとかですね。彼らに攻撃されてうつになるのは「普通の人」であって、ほんとうに治療が必要なのは相手の側なわけです(苦笑)。

 これって変じゃないですかと尋ねたところ、臨床心理士の答えが振るっていて、「たしかに上司やクレーマーがクリニックに来たら、病気と診断される可能性が高い。ただ彼らはたまたま、いまのところ地位や立場が守られていて<本人が困難を感じていない>から、来院せず、病気だと言われていないだけですよ」と。つまり誰が心の病気と呼ばれるのかは、しばしば当人の気質や症状以上に、社会に置かれている環境で決まるわけですね。



斎藤 医療関係者が「事例性の問題」と呼ぶものですね。典型は発達障害で、少し子どものふるまいが周囲と違っても、親が「この子の個性だから」と受け入れて何もしなければ事例化しません。しかし親御さんが過敏だったり、「発達障害バブル」的な言説に煽られたりして「うちの子は絶対おかしいから診てほしい!」と病院に連れてくると、「障害」として事例化することもあるわけです。

 心の病気は①本人が苦しさを感じるか、②周囲が問題視しているか、という二重の基準によって、病気として発現するかどうかが決まる。その意味では「相対的なもの」ですが、だからといって苦しさの度合いが低いわけではなく、レントゲン等で「客観的」に観察できる病気よりも、社会的な病であるからこその、深刻な苦痛や葛藤を引き起こすことがあります。



與那覇 ある社会では「きみはおかしい。病院に一度行くべきだ」と言われることが、他の社会では「こんなの常識。そっちが合わせろ」となっていることもありえると、



斎藤 その通りです。わかりやすいのは青少年のいじめで、アメリカなら加害者がパーソナリティ障害などを疑われていて病院に連れていかれるケースでも、日本は逆に被害者だけが通院して「適応障害」などの診断を受けて終わりにされることが多い。つまり、いじめる側の「やんちゃ」は一過性のもので、大人になれば落ち着くだろう。だから病気とまで言うほどのことはないと、そう扱われがちな風土があるんですね。



與那覇 なにが病気と見なされるかは、裏返すと「なにが〈普通〉と見なされているるか」とイコールですから、心の病を切り口とすることで、社会や文化の問題が見えてくる。気になるのは、本書のこうした認識が、どこまで治療者の側にフィードバックしているかなのですが……。



斎藤 これが大問題で、遺憾ながら精神科医の九割以上は、あくまで疾患を「脳の問題」としてのみ捉えて、薬物治療主義に閉じこもっている状況なんです。うつ病でも統合失調症でも、「この検査データがこうなっていたら確実にその病気」といったバイオマーカーは発見されていないのですが、頑なに病因を脳に還元して、社会とのつながりを軽視する人が多い。学校や職場の人間関係にちょっと介入するだけで解決できる問題もずいぶんあるのですが、そうしたケースワークが不得手な意思があまりにも多い。

(P240-243)



 これは「保険適用にするには「病気」にしないといけない、そのためには生物学的な病因がなくては……といった思考に行きがち」だからだと斎藤は言っている。薬物治療主義は「診察時間の短縮」ともつながっているのかもしれない、と思うが、想像の域を出るわけではない。斎藤によると「最近は、ひきこもりの当事者たちがこうした傾向に反発しはじめている」という。「当事者研究」という分野から様々な声があがることだろうと思う。

20201011

2021年01月09日

「成長戦略」と徳川吉宗「新規御法度」



リフレ派の上念司の『経済で読み解く明治維新――江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟で解明する』では江戸時代の中期以降、人口が3000万人と停滞していることについて、幕府内の権力闘争によって老中の構成が変わることで、「リフレから緊縮へ」「緊縮からリフレ」へというかたちで何度も経済政策が転換され、「根拠なき緊縮政策」が新井白石や松平定信によって推進されたことによりデフレーションが発生した、としている。

 リフレ派だから量的金融緩和(アベノミクス第一の矢)は当然だが、「金融緩和によってお金を増やせば、必ず物価が上がり、名目GDPも増加する」(原田泰)ということにはなっていない。

 第二の矢の「財政・税制」では、公共投資の効果については論議の分かれるところだが、少なくとも五輪需要が無くなって以降の建設セクターでの下支えにはなっている。消費税増税はリフレ派からするとブレーキでしかないのではないか。

 さて、第三の矢の成長戦略と言うと未透視は暗い。

 あほ内閣からすか内閣に変わって、竹中平蔵がより一層前面に出てくることで、新自由主義(ネオリベラリズム)政策が進められると、小泉政権時代のホームレス続出が再来するのではないか、という危惧も思い浮かぶ。

そうならないことを願うが、今日の成長戦略の空振りについて考えたい。

江戸時代中期からの人口の停滞は、経済政策の混乱もあったが、8代将軍の徳川吉宗が出した「新規御法度の御触書」が発明・技術の改良を阻んだ面も大きいと思う。

藤原裕文「新規御法度制度から特許制度まで」によると、



江戸時代には新規のものを工夫・発明することを禁止した時期があった。享保の改革を行い、徳川家中興の主といわれる8代将軍・徳川吉宗は、

「一、呉服物、諸道具、書物はいうに及ばず、諸商売物、菓子類も新規に巧出することを、今後堅く禁ずる。もしやむを得ない仔細のある者は役所へ訴え出て、許しを受け巧出すること」「一、諸商物のうち、古来通りですむ物を、近年色を変えたり、数奇に作り出す類の物は、おって吟味し禁止を命ずるので心得おくこと」という新規御法度の御触れ書きを1721年に発し、その後も同様の主旨の法度をたびたび発しているのである。本来は農民に自給自足を強要して米経済を維持するために贅沢を禁止する法令であったが、改善や新規発明に関するお触れ書きにそれ程の規制力はなかったとする見方もあるが、明治時代に制定された特許制度のように積極的に新規の発明を保護・奨励しようとするものではなかった。

 特許制度が存在しない江戸時代において、一子相伝により、技術を伝え、独占し、利益を確保するのは、やむを得ない事であった。



 小林聡「江戸時代における発明・創作と権利保護」では、



 新規法度は、質素倹約・奢侈禁止という武家の風潮に基づく禁令であったとするのは説明として十分でない。これらの触は物価抑制のために出された触である。江戸時代は、近現代とは異なり、清算の主力は機械ではなく職人であって、職人が生産技術を習得するには年単位での歳月を必要とした時代であり、労働力の流動性や柔軟性に乏しかった時代である。江戸時代中期の日本の人口は2500万人前後で、年鑑増減数は多いときで20万人弱であったとされ、災害直後を除き需要が大きく変動することは少なかった。一方、職人が発明・創作に労力を費やせば自ずと有来物の生産性が低下し、供給量が減少するから有来物の価格上昇につながることとなる。また、当時の物価は他の品目の価格上昇に敏感に反応したこともあって、幕府は江戸時代を通じて諸物価の上昇に神経をとがらせていた。江戸時代中期にあたる享保年間、幕府は物価抑制策として、新規法度を出すとともに、業者間の組合を結成させ、組合による価格の監視と価格の維持・抑制を行わせることとした。



とある。

 新規御法度は発明・改良を阻んだ。そして物価安定のために組合をつくることで、新たな参入を阻む結果となった。

 江戸時代の新規御法度や経済政策から、今日の成長戦略の不在を考えると、原因は違っているが、発明・改良の機運の停滞、物価抑制策をとっていないにもかかわらずインフレ基調にならない、という現象は同じだといえる。

 発明・改良の改良の方は日本人のお得意とするところである。発明はどうかというとあまり得意とは言えない。クリエーティブであること、失敗を恐れないこと、については苦手とするところである。

 江戸中期には、幕府が新御法度をだして規制をしたのだが、明治以降令和に至るまで、教育の国家統制によって、多彩な人材は生まれにくく、発明・改良は阻まれている。

 黄野いづみによると「東大脳」とは「自分で目標設定し自分で努力する、自立した脳」のことだそうである。「東大脳」を持った東大生がどれくらいいるのか、クイズに強い「東大王」はTVで観たことがあるが。「東大脳」とは変なネーミングであるが、「自分で目標設定し自分で努力する、自立した脳」を獲得する人たちが増えると、発明・改良の波は高くなることは間違いない。

 私はリフレ派支持であるが、「金融緩和によってお金を増やせば、必ず物価が上がり、名目GDPも増加する」(原田泰)とはなっていないのは、増やしたお金が株価を押し上げるだけになっているからである。麻生副総理の「老後2000蔓延」発言で、高齢者の消費は縮小し、2%の消費増税でも買え控えがあり、その上今次のコロナ禍である。先行きの不安を払拭してくれる政策は期待できないから、消費は伸びない。

 そしてもう一つ消費が伸びない要因に、購入慾を刺激する商品が開発されていないことが挙げられる。人々は安くてそれなりに良いものを消費する。

20201220

2021年01月09日

與那覇潤「赤い新自由主義」論

與那覇の『知性は死なない―平成の鬱をこえて』文藝春秋,2018 から



 昭和60年安保を念頭に「集団的自衛権に反対して政権をとめる、たおす」と息まいた人々は、知識人もふくめて乾杯しました。必要性を説く相手にたいして、「ひつようあに」とする水かけ論」をいどんで、国民多数の支持をえられなかったからです。

 同一労働同一賃金では、論争の構図が反転します。政権側がその必要性を打ちあげても、安倍首相に代表される保守主義を基盤とするかぎり、それは「実現できない」のです。

 あの時やるといったのに、できていないではないか。それはあなたがたの思想に、根本的な岩塊があるからではないか。「なんでも反対」ではなく、「実現するための交代」をもとめていく力が、いま野党には必要とされていると思います。

——―そう、まさに平成の最初にも、そのように説かれていたように。

 そのためには「生き方は個人の自由であるべきだ」という価値観を、国民の共通認識にすることから、はじめなくてはいけません。保守主義が標榜する特定の家族観やライフコースには、しばられない社会像を提示して、はじめてリベラルの意義が生まれます。

「正社員である」「入籍している」「子どもがいる」。それぞれにすばらしいことです。

 しかしそれは、ほかの生き方を否定する利湯にはならないし、だからそういう特定の人生設計だけを、国家や資本が支援するような諸制度は、改正が必要だ。

 同一賃金同一労働とは、「こっちにも金よこせ」という分配の問題である前に、自由な生きかたの問題なのだ。そういう認識に立てるかが、多数派形成の鍵になるのではないでしょうか。

 すでにのべたとおり、そうした発想は、終身雇用・年功賃金といった「日本型雇用慣行」を解体させてゆくので、平成に展開した以上の「新自由主義」になります。しかし、伝統的な家族像に依拠する生きかたの強要をも、拒否する点で、レーガン=サッチャー氏j\期の英米のそれとも異なります。

 だれもが自由に生きかたを選べる社会を、目指すうえで提携すべきは、弱肉強食をといてきたこれまでの新自由主義ではないのです。「能力があるなら」自由になれると主張して、ごく一部の「有能な個人」をシンボルに立てて多数派をうしなった、平成の書物群がとった戦略の失敗をくりかえしてはいけません。

 むしろこれから必要なのは、日本では同一企業の内側のみにとどめられてきたコミュニズム(共存主義)の原理を、その外にひろがる社会へと、時はなっていくことです。

 そのために必要とされるのが、たとえばアフォーダンス的な方向での、能力観の刷新であり、社会的に能力を「共有」しつつも、自由や競争をそこなわない制度の検討です。心理学から経済学まで、さまざまな学問の知見がもとめられます。

 冷戦下では両極端にあるとされてきた、コミュニズムとネオリベラリズムの統一戦線———いわば「赤い新自由主義」(red neo-liberalism)だけが、清に冷戦がおわったあと、きたるべき時代における保守政治への対抗軸たりうると、私は信じています。(p274~6) 太字は、元は強調の「ヽ」



アフォーダンスについて、日本大百科全書の中島秀之の解説(2019.7.19)では・



知覚研究で知られるアメリカのギブソンJames Jerome Gibson(1904―1979)によって提唱された概念。環境がそこに生活する動物に対してアフォード(提供)する「価値」や「意味」のこと。歴史的にみると、ギブソン以前の考え方は、環境からの刺激を生体がその内部に取り込んでからさまざまな処理をして、意味や価値をみいだすというものであった。たとえば当時の視覚研究においては、網膜は外界の情報を写したものであり、認知システムは網膜情報のみを用いて知覚を行っているという考え方が主流であった。ギブソンの貢献は、そうした考え方からの脱却にある。ギブソンは、アフォーダンスは環境の側にあり、認知主体はそれを探すだけだというのである。たとえば、地面の傾斜の情報はそもそも地面の側にあり、主体が視覚情報から計算するのではないということだ。これと同様の考え方は「環世界」や「オートポイエーシス」にみられる。

 ただ、ギブソンの考え方は情報源を環境の側に限定している点が、少し行き過ぎと思われる。実際には「価値」や「意味」は、主体と環境との相互作用によって明らかになると考えるのが正しい。たとえば、森を歩いているときに、木の切り株をみつけたとする。ギブソンに従えば、木の切り株は「座る」という行為を人間にアフォードしていることになるが、実際に「座る」かどうかは、座る側の人間の身長や体重に依存するであろう。

 なお、アメリカの認知科学者ノーマンDonald A. Norman(1935― )はデザインの分野で同じ用語を使い始めた。よいデザインとはその使い方をアフォードするものでなければならないという。たとえば、ドアについた縦の取っ手は引くことを、横の取っ手は押すことをアフォードしているという。



 とある。

 「主体と環境との相互作用」によって生まれる「価値」や「意味」は、過去の経験によって先入観などの固定概念として個々人が獲得するものであって、そこには差異がある。與那覇は「人間は、言語によって組みたてられる論理だけで、うごいているのではありません」とし、言語帝国主義(文明・進歩・科学・平等・自由……といった抽象的な言語によって語られる理念の世界)への身体の反発(反知性主義≒反正統主義)を肯定する立場でなく、アフォーダンスを引き合いに出し、能力観の刷新を求めているのです。「広義の反知性主義のほうが「多くの人間にとってはふつうのありかた」なのだと、発想を変えなくてはいけないと思っています。/ほんらい、主義(-ism)とよばれるべきなのは、「大学、ないしそれに準ずる正統的なサークルに属し、言語によってものを考え・分析し・表現している人々だけが、知性のにない手である」とする価値観、いわば「知性主義」のほうではないかと思います。/そうすることではじめて、世界的なアンチ・インテレクチャリズムの奔流にどうむきあうか、そのために大学にはなにが必要なのかが、みえてくるのだと思っています。(P147~148)



 鬱状態から回復する中で書かれた一冊である。身体論が身近にあった私の人生からは遠く離れたところにあるが、與那覇の「言語化」のエネルギーから刺激を受けるところが多い。

20201107

2021年01月09日
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